命も夢も何もかも振り捨てて、貴方に応えましょう。
もはや私を殺せるのは、唯、愛の面影だけ。
<演劇「道化の
扉が、何の前触れもなく吹き飛んだ。
ただの一度の激突音、それだけで超合金製の
鉄塊は大砲の弾のように空を切り裂き、ヘリポートマークの中心に立つ彼女の背後で隊列を組む兵士の数人を巻き込んだ。織り交ざる轟音と悲鳴を背に受け止めながら、彼女は、サーチライトの中で扉を破った足を下げる男を見つめていた。
「ぬぅ」
ニトロは、自分に向けられる強力な閃光に目を細めた。常人ならば視界を奪われようが、彼は違う。屋上で待ち構えていたそれらの姿を確実に捉え、口の端に笑みを浮かべていた。
ティディアと、特殊部隊の一団がそこにいる。風のない夜空の下に、二十人ほどの完全武装の兵士が列をなし、その中央、その先頭で王女が腕を組んでいる。彼女の後ろでは蹴り飛ばされた扉の下敷きとなった被害者達が救護班に運び出されているが、その影響による士気の低下は見られない。これまでのような雑魚ではない。実に歯ごたえのありそうな獲物達だ。
特に。
「待たせたかな?」
彼が言うと、ライトの光量が落とされた。逆光の影が薄れ彼女等の表情がよりはっきり見えるようになる。
「いいえ。今来たところ」
ティディアは片目をつむり、ちょっと舌を出した。
「おめかししてたら、私も遅れちゃった」
確かに彼女の言うとおり、その身は赤いドレスに包まれていた。一見しただけで、それが高級なものだと判る。シルバーダイヤのネックレスも、薄い化粧も、彼女の魅力を最大限に引き出している。スリットの入ったロングスカートから覗く太腿は、光の中で白く輝いていた。
「似合っているよ」
話を合わせて、ニトロは言った。
「とても綺麗だ」
嬉しそうにティディアが笑う。
「だから、フィナーレも美しく迎えさせてあげよう」
一歩、ニトロが踏み出した。呼応して、ティディアも進む。
「できるかしら? あなたに」
「愚問。まさか出来ぬとでも言うか?」
「そうだよ〜ん」
その声は、まったく予想外の場所から切り込んできた。ティディアの足は止まり、ニトロは目を丸くして、視線を下に落とした。
彼は見た。鼻の頭のその先に、見えてはいけないそのものを。
緑色の、あの人畜有害の妙な物体を!
「ターイムアーウトさー。もう俺っちの効力は消えるのよ〜ん。フィナーレなのよ〜ん」
「あんた誰よ」
ティディアが頬を引きつらせて問う。その顔は恐怖や驚愕からの表情ではない。明らかに笑いをこらえているのだと、ニトロにははっきりと分かっていた。こんな、人の鼻の穴から緑色の
「俺っちは天使だよん」
なんてのが、顔を出しゃあ、あの王女は笑うに決まっている。
ニトロは慌てて鼻を押さえたが、緑の『天使』は世の理をまるきり無視してくれた。彼の指の隙間からにゅるりと抜け出すと、ふわふわと宙に漂った。
「あ、汚ね。ハナクソついてきた」
「汚物がなに清潔ぶってんだってーか、お前さっき潰れたろ!?」
ニトロの抗議に、『天使』は180度首を回して振り向いた。
「……え? 何の話?」
「ええ〜い。この妖怪め」
「ノンノン。妖怪違うよ天使だよ♪」
「殺していいか?」
「殺されちゃうのは君だよー」
「何でだよ!」
「ほら君。もう元に戻ってるじゃん? それって、俺っちが消えるからじゃん? 俺っち消えたら君ただの人間じゃん。殺されるじゃん?」
はっとして、ニトロは自分の体を見た。なんということか! あの『天使』の言う通り、体は運動不足な今時の若者体型に戻ってしまっていた。心なしか元より萎んでいる気もする。
あのバカ姫と、その仲間達を目の前にして。トランクス一丁である。靴すらもない。露出した肌に寒風が痛い。完全無防備だ。
「……うっそ〜ぉ」
「現実である。認めよ」
「お前が言うな!」
「じゃ、まぁ頑張ってねぇん。意外に君は愉快な変身してくれたよー」
「あ! 待て! 待ってくれ!」
ニトロは必死で『天使』を引き止めようと、手を伸ばしそれに駆け寄った。だが、ニトロの手は『天使』を掴めなかった。消え逝く『天使』の体は掌も指もすり抜け、彼の願いと共に『天使』は露と消えた。
「ノオゥ! カンバーーック!」
「三文お芝居?」
「違うわ!」
精一杯の怒りを込めて、ニトロは立ち上がった。
「お前をどうやって殴ろうかと考えていたところだい!」
ニトロの顔面は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに汚れていた。
「お芝居なんかじゃないやい!」
「……で?」
「万策尽きた!」
ティディアは、ため息をついた。
「なんだ、つまんない」
心の底から失望を現し、彼女は眉をひそめた。汚いものでも見るかのような眼をニトロに向けて、またため息をつく。
「ここで終わっちゃうんだ。もっと楽しませてくれると思っていたのに」
彼女は口元を歪めた。
「この
ニトロはどう言われても、反論する気が起きなかった。怒りどころか、屈辱も感じない。緊張の糸が切れた。完全武装の兵士を前に、抵抗する気力など起きようもなかった。終わりだ。希望もない。
死んだ目の少年の顔に、逆にティディアが怒りを掻き立てられた。
「つまらないつまらない面白くないっ! こんなことなら、獲物の数を減らさなければ良かった!」
「せっかく選んでやったんだからもっと抵抗しろよ!」
「……?」
ティディアのその言葉が、ふいにニトロの心に冷水を放り込んだ。意識だけでなく、魂にまで急激な覚醒を強いられたかのようだった。彼女の言葉が頭蓋骨の中で
無音の中、王女がなにやら身振りも激しく騒ぎ、その後ろでは兵達が直立不動を崩さない。
眩暈に似た視界の歪みに足がおぼつかない。
彼は揺らぐ体を必死に留めた。
頭が痛い。
頭蓋の中で蓄えられてきた膨大な情報全てが渦を巻き荒れ狂っている。
脳の処 理 が追い つ か な い。
だがそれでも、ニトロの脳神経は繋がり合い網となり、手に負えない潮流の奥底、思慮の及ばない領域の中で一つの『結論』を見出しはじめた。
その『結論』は、始めは予感のように心に浮かんできた。しかしそれはすぐに『想像』から『推察』へと変わり、今は『確実』に感じる。だが決定的な確信がない。むしろ信じたくないそれを、事実足らしめる証拠が。
と――ふいに、あいかわらず無音の中で暴れているティディアの前に黒い何かが落ちた。