辛い事や苦しい事は、笑い飛ばしちゃえばいいのよ。一人でそれができないのなら、誰か笑わせてくれる人の
ひとしきり笑ったら、きっと気づけるわ。寂しさと一緒に、自分の心の中にある、小さな「頑張れる」に。
<ラジオ
シェルリントン・タワー200階。警備の中枢であるモニター室。そこは今、集団パニックに陥っていた。
階を丸々一つ使ったこのモニター室の中心を囲うよう円形に並べられている、何千と取り付けられたシェルリントン・タワーの監視カメラのモニター。各階ごとにまとめられたそのモニター群の前のデスクで、本来整然と、また冷静に、刻々と変化する状況を警備員に伝えるエキスパート達は見る影もない。
誰もが自身の目を疑い、脳に入ってくる現実への拒否感から一貫性の無い反論を叫んでいる。さながら、ありえない事故が起きた研究所か、ライターが一人も原稿を仕上げていない〆切前日の編集部のようだ。
だが、その中で一人ケラケラと楽しそうに笑う女がいた。王女、ティディアである。
彼女は横柄にデスクの上で足を組み、ジュースを飲みながら混乱の中心である『クラント劇場』のモニターを眺めていた。
「邪魔っ!」
目の前を落ち着きなく歩き回る監視員を蹴り飛ばし、ティディアは毒づいた。
「まったく。これしきで取り乱すようじゃ、完璧を誇るシェルリントン・タワーのセキュリティって看板はでまかせね。定例会見ここでやるの止めようかしら」
その言葉は、隣に控える警備部長の、ただでさえ卒倒しそうな心理に煮えたぎる熱湯を注いだ。彼は懸命に硬直する咽喉を動かし、弁解の言葉を搾り出した。
「お言葉ですが姫様」
「何」
取り繕った威厳溢れる表情に裏返った声を乗せる五十男に興味を引かれて、ティディアはモニターから目を離した。
「これは奇妙奇天烈な、まさに人外魔境が出現したかのごとき事でございます。あの大男、否、大変態を相手にすることなど、姫様直属の部隊でもありますまい。しかし、我がシェルリントン・セキュリティの精鋭は、勇敢にも戦っているではありませぬか」
ティディアはモニターに目を戻した。
筋肉ダルマの大男の拳が、前線要員のアンドロイド達の、10tトラックの激突にも耐える特殊アクリルの盾を粉砕している。吹っ飛ぶアンドロイド達の背後では、生身を厳しい訓練で鍛えぬいた警備員達が、バズーカを構えて照準を絞っていた。
機を見計らい、撃つ。
その時突然、大男の体から湯気が噴き出した! 爆霧を生み出す蒸気の力はあまりにも凄絶で、バズーカの弾頭は、まるで超衝撃吸収クッションに受け止められたかのように失速して床に落ちた。
信じられない。警備員達の恐怖の顔に、半ば呆れの感情が上塗りされる。
と、モニターの映像が急に白濁した。濃密な湯気がまさに雲となり、周囲を埋め尽くしたのだ。何も見えない。音声のない監視モニターには致命的である。即座に換気システムが働き、現場の視界を取り戻していく。
監視カメラのレンズを装置が拭うと、モニターに水浸しの現場が現れた。警備員達は体に貼り付く制服を気にすることなく、警戒態勢を解いていない。その光景は、ティディアの予想を裏切っていた。
彼女は、視界が晴れたら
しかし、そこに現れた現実は、期待に応えてはくれなかった。
モニターを指差して、ティディアは――
「ぎゃははははははは!」
爆笑した。
『水』を噴き出したことが原因だろう。ミイラが一つ、水溜りに転がっている。
彼だ。ニトロだ。やってくれるぜあん畜生!
警備員達が歓声を上げてミイラに駆け寄っていく。だが、驚いたことに、ミイラはまだ生きていた。ミイラはじたばたと動き出すと、水たまりの上を驚異的なスピードで這い回った。その体は砂漠の砂のように水分を吸収するとあっという間に膨らみ、一気に
それはもう、瑞々しすぎて、彼はいまや水太りの百貫デブである。顎の脂肪に邪魔されて、息をすることも苦しそうだ。
「あーひゃっひゃっひゃ!」
ティディアは苦しげに腹を抱えて足をばたつかせた。
水太りのニトロは、呆気に取られている警備員達に地響き立てて走った。我に返って、警備員達がレーザーガンを構える。敵は自滅した。あの人知を超えた筋肉を自ら捨て去った。これでもう、レーザーを皮膚で逸らすなんて非常識なことできやしない。
何本もの光線がニトロを貫いた。だが、ニトロは走り続けていた。というか、なんだか体を波立たせて、走るというより床を滑っている。
なんと! 彼は、
モニター内、再び阿鼻叫喚の地獄絵図。
「……ふう」
満足気に息を吐いて、ティディアは長いこと放っていた警備部長に振り返った。彼女が笑いかけると、警備部長は蒼白となった顔をなんとか痙攣させた。それが彼にできる精一杯の笑顔であった。
ティディアは艶っぽく目尻を下げ、警備部長を見ていた。モニターの光を反射する黒紫の瞳は警備部長を縫い付けて、彼から生きる心地を奪っていた。
桃色の唇が開く。警備部長は息を呑んだ。
「ま、あなたの言うことももっともね。次回もよろしく、ドルアン警備部長」
悪戯っぽく言う姫の言葉に、警備部長は体中の緊張を長く吐き出した。胸に提げている顔写真入りの身分証明書を、そこにある肩書きが変わる危機を免れたことを確かめるように、愛妻が名を刺繍してくれたハンカチで汗を拭いながらそっと手で触れる。
その様子に、
(やっぱ嘘とか言ったら面白いだろうなー)
などと思いながら、ティディアはモニターに目を戻した。
と、モニターの中のニトロが、こちらを見つめていた。ティディアは彼と目があった気がして胸を高鳴らせた。
ニトロは筋肉魔神に戻っていた。おそらくあれが
彼はどこまでも楽しませてくれるものだ。こちらを挑戦的に睨みつけている眼は、誘っている。私を。この星で逆らう者のないクレイジー・プリンセス、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを。
「いいわ。デートしましょう」
身震いして頬を赤らめ、ティディアは立ち上がった。警備部長に後はこちらで引き継ぐと告げ、
「犬」
背後に控える執事に、彼女は問うた。
「端末はある? モニターを中継して」
「こちらに」
ノートサイズの
「あー、楽しい。ま、これで少し余裕ができたわね。ゆっくり着替えられそう」
「『カード』の追跡ですが」
「うん?」
「ハラキリをロスト、との報告です」
ティディアの口角が悪魔のように引きあがった。
「ふん、よく仕込まれてる。欲しくなっちゃうな。
それでデータは? 使えそうなら」
「既に処理に入っています」
「よろしい。他の進行状況は?」
「ラストカットに間に合う、との報告です」
「よろしい。バッテスは?」
「配置完了致しました」
「よろしい。指導は?」
「滑舌をはじめ基礎から叩きなおしたとの報告です」
「よろしい」
それは、そこに映るニトロが着実に終幕に向けて進んでいることを、彼がそうと知らずに進み続けていることを心から楽しみ、そして最後の時に彼が浮かべるのはどんな表情だろうと、サディスティックに夢見る欲望そのものだった。
「あとはハラキリ君の登場次第ね。盛り上げてくれると、嬉しいな」
舌なめずりをするティディアの目に、監視カメラを殴り潰そうとするニトロの拳がせまり、そして消えた。