確かに『天使』を潰したはずの床には、緑色の液体がこぼれているだけだった。体を折って、拳を下から覗き込む。すると拳頭にも、緑色の液体がへばりついているだけ。ぽたりと一滴、床に落ちた。
 『天使』は跡形もなく消えていた。本当に幻覚だったのだろうか。それとも、この液体が。
「……」
 ニトロは拳の液体を凝視していた。
 なぜか、自分でも解らないが、逆らい難い衝動が胸に芽生え始めていた。食欲にも、性欲にも似た、熱い激情が心を揺さぶり始めていた。
 信じられないことに、その液体を、『飲み干したい』と。
「……いや、そんな……」
 ニトロの理性は強烈な警告音をかき鳴らしていた。明らかに妖しいその緑色の液体、あるいは本当に『天使』であった液体を、口に入れることなど……。
「……」
「いたぞ! ニトロ・ポルカトだ!」
 奈落の底に一条の光が射し込んできた。追っ手の懐中電灯サーチライトだった。
「……」
 だが、ニトロの意識は液体に引きつけられて離れない。
「下に行け! 奴はもう袋のネズミだ!」
 勝ち誇った声。
 ニトロは、少しずつ、拳を口に寄せていた。
「……」
 そして、彼はその緑色の液体を舐め取り、嚥下えんげした。
 ドクン!
「!?」
 その瞬間――ニトロの心臓が、壮絶に脈打った。
「あれれれ!? やっぱりヤバイものだったかねぇ!?」
 彼の悲鳴に合わせるように、心臓は早鐘を打ち始めた。
 ドクン! ドクン! ドクン!
 鼓動に合わせて、ニトロの体は痙攣を始めていた。
 熱い! 体の奥底から溶けた鉄が溢れ出してくるようだ。大量の汗が噴き出し、それがすぐさま蒸発していく。
 ドクン! ドクッ! ドクッ! ドク! ドク! ドク!
 動悸がさらに速くなっていく!
 ドク! ドクッ! ドク! ドッドッドドクドク! ドクッ! ドク!
 心臓が、心臓が、心臓が、心臓が……!
 ドッドッドクドク! ズンタタドドドドッ!!
「俺の心臓ハートがビートを刻むぜぇぇぇぇぇ!!」
 その絶叫は、舞台上で奈落を取り巻く追手の耳にも届いた。
 舞台に立ち増援を待つ三人のSPは互いに顔を見合わせた。
「何だ?」
「……さぁ?」
 彼らは申し合わせたように、奈落の底を覗き見た。懐中電灯サーチライトで逃亡者が倒れていた場所を照らし出す。
 だが、そこに少年はいなかった。
「!?」
 驚いて追っ手達は懐中電灯を手に、さらに奈落の底を覗き込んだ。その瞬間!
「ぐへっ!」
 奇妙な声が、観衆のない舞台に響いた。それは奈落のほとりで発せられ、同時にその腹底の暗がりに響いては飲み込まれていった。
 彼に起きたことは、同僚達の理解を超えることだった。
 仲間たる彼が無様な格好で、一人の大男に踏み潰されている。彼は完全に気を失い、だらしなく舌を口外に垂らしている。その顔面は、大男の足の下で滑稽に歪んでいた。
「ごっはー」
 吐息とともに大男の口から湯気が噴出した。千千ちぢに破れたシャツからのぞく筋肉の固まりが、みくみくと震えている。弾けたズボンの下では伸縮性に富んだトランクスがスパッツのように伸びきり、度を超えて発達した太腿があらわになっている。
 ありえない。いつの間に、こんな奴が現れたのだ。
「何者だ……」
 おののきに答えようとした時、大男ははっとして体に貼りつく服の残骸を慌てて千切り捨てた。非礼を誤魔化すように照れ笑いを浮かべる。白い歯が眩しかった。
「えと、ニトロ・ポルカトでございます」
「嘘ぉ!」
 SP達が信じられないのも無理はなかった。
 彼らの前にいる大男、身長はゆうに2mを超え、その筋肉加減ときたらボディビルのギャラクシー大会レベルすら超えている。どう考えても、あの少年ではない。我らアデムメデス星人は変身能力を備えてはいないし、例え変身能力を備えていたって、この短時間でこれはあまりにも生物の限界を超越しているってもんだ。
「ホラ吹くな!」
「マジっす」
 そう言いながら、ニトロ(?)は残ったSPの片方を殴り飛ばした。SPの体は見事な回転運動を見せながらすっ飛び、舞台袖に吸い込まれていった。肉と床板がぶつかる音、そして、何か大きなものが倒れる音が耳障りな不協和音でがなり立てる。
「マッスルに物足りぬぞ!」
 爛々と光る目玉をニトロ()が最後の一人に向けると、彼は呆然と立ち尽くし、惨めにも失禁していた。
「貴様ならば俺っちを満足させられるか?」
「無理無理無理無理。見ろよ俺ちびってるじゃん」
「恥辱にまみれた者は強くなる! てことで強い! さあ!」
「待て待て待て待て! 論理的に話し合おうじゃないか!」
 一歩踏み出してきたニトロの迫力に、SPは堪えられなかった。彼は悲鳴を上げながらレーザーガンの引き金を引いた。
 何度も訓練し、何度も体に染み込ませた通りに。
 瞬時に出力を最大にし、銃口を敵に向け、銃を腕でなく体全体で固定するように構えて。
 心臓に向けて。
 姫から禁じられた行為だということは、恐怖の圧で理性から消し飛ばされていた。血色の光線が、銃口とニトロの左胸を結ぶ。それは彼の肉体を焼きながら、心臓を貫き、背部へと貫通するはずだった。
「ヌン!」
 しかし! ほぼ光速の刹那の中! ニトロが気合とともにポージングを取ったその瞬間! 彼の大胸筋が内部で爆発したかのように膨れ上がり、噴出した汗がその表面をコーティングした! それはまるで光学兵器に対する鏡面装甲のように美しく輝き、見事にレーザーを逸らせてみせた!
「なんてマッスル!?」
 SPが絶叫する。ニトロの斜め後方、レーザーが着弾した壁が、急激な熱の上昇を受け止められずに爆発した。それを背中に、彼は口を耳まで裂かして歯ぎしりした。
「腑抜けるな! 貴様の魂込めてマッスルで語れ!」
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!」
「ハイヤァァァぁァ!」
「いやああああああ!!」

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