カメラケースの中、無数のアイテムの中からミニボトル型の閃光手榴弾スタン・グレネードを選び出し、頭のキャップ状の安全装置をねじ切ると
「くらいやあああ!」
 渾身の力で投げつけた。
「ぎゃあ!」
 それは見事にティディアの額にヒットした。そして床に転がった爆弾がピッピッと音を立ててカウントを始める。
「うわわわわ! 待避、待避ーー!」
 ティディアが叫ぶ。
 だが統制のとれない追っ手達の勢いはなかなか止まらない。前は退き後ろは迫り、内部へと潰れる団子のようになってその場で慌てふためくばかりだった。
「ちょ、こら!」
 さすがにティディアも焦っていたが、人塊の横に逃げ道を見つけると、その隙間を脱兎のごとく駆け逃げていった。
 その様子を尻目に、ニトロはケースの紐を肩にたすき掛けにして、手で耳を塞ぐとサンダルの機能を再び起動させた。一拍を置いて、大音響と、周囲の物々から輪郭を奪うほどの閃光が爆発した。強烈な光と音が無防備な者達の視覚と聴覚を痛みで塗り潰す。そこへ催涙煙が噴き出して、追っ手達を混乱の極みに突き落とした。
 機に乗じてニトロは非常階段へと疾走した。非常口エスケープの重いドアを押し開け、薄暗い階段へと飛び込みながら彼は叫んだ。
「おうし。やってやろうじゃないか!」

 例えば、クァーレット(編集注:インターネットの戦争シミュレーションゲーム)で対戦相手が、ゲーム中に成長して、予想を超えた行動をしてきた時。
 楽しくて嬉しくて、私の人生は輝きを増すのよ。
<コゴア社『週刊ウィー・特集「ティディア姫、私の楽しみ」』より>

 電池が切れ力をなくしたサンダルを履き捨てたところで、ニトロの耳に、階上から迫る多くの足音が届いた。
「先回りかよ」
 当然のことではあろうが、それでも文句を垂れて、ニトロは非常階段から抜け出ようと間近のドアに駆け寄った。
 ノブに手をかけて、扉のプレートを見る。階数は280階だった。
「あと20階……」
 半ば絶望的な心持ちで、ニトロはつぶやいた。果たして、追っ手をまいて昇ることができるのだろうか。
「いたぞ!」
 と、階下からも声が届いてくる。
 戸惑う暇もあらばこそ。ニトロは慌てて内側へ入り、急いでドアを閉めた。そしてカメラケースから粘土のような小さな塊を四つ取り出す。彼はそれをドアの四隅に張り付け、続いてライターを取り出した。それで粘土をあぶると、粘土はあっという間に溶け、接着剤となってドアを固定した。
「すげ……」
 説明は受けていたが、これほどまでとは。
 ニトロは確保された時間を無駄にしないよう、すぐさまその場を離れた。同時に、ドアを叩く音と怒号が聞こえてきた。
「ここは?」
 それに恐怖心を起こされぬよう、自心をわざわざ口にする。
「……映画館?」
 ニトロがいるフロアは、一本の廊下だった。左右に長い廊下。少々勾配こうばいがあり、それは左に行くほど深くなっている。非常口に対面する壁には、一定の間隔で木製の、素晴らしい彫刻が施された扉がある。確かに、この風景は映画館の廊下を思わせた。
 とにかくニトロは、扉の一つを開けようとノブを手にしたが……。
「戸締まりしっかりされていること」
 振り返れば、非常口のドアの一部が赤く変色を始めていた。レーザーで焼き切りにかかっているのだ。
「……それが一番だよな」
 うなずいて、ニトロはケースから懐中電灯に似せて作られたレーザーガンを取り出した。通常のものより出力が格段に劣るが、ドアノブを撃ち抜くには十分だ。
 安全装置を外し、出力を最大に合わせて装飾施された金のノブを撃ち抜くと、いかにも高価そうな扉を思い切り蹴り開いて中に侵入する。そして油断なく周囲に銃を向け、敵がいないことを確認しながらこの場の情報を得る。
「ああ……」
 一通り目を回したところで、ニトロはここがどういう場所であるか思い出した。
「クラント劇場か」
 民間においてアデムメデス一の資産を持つレッカード財閥が国に寄贈した劇場。王家が財閥に謝意を示してその創始者の名を冠した、アーティスト達の聖地の一つ。
 シェルリントン・タワーの275階から290階までが劇場に使われ、その上の10階が劇場運営のためのものとなっている。
 今は照明もなく、非常口を示す灯りがぼんやりと点いているだけ。その僅かな光は闇を少しだけ薄めて、そこに巨大な劇場空間の輪郭が滲み出ていた。人がいない、人を楽しませるための空間。不気味さと、荘厳さが入り混じって、ニトロの心を締めつける。
 ここには思い入れがあった。
 いつかここで、両親に『道化のつるぎ』を観せてやりたかった。
「ああ、アーティストの皆様ごめんなさい」
 ニトロは、自分がコの字型になっている二階席にいることを理解した。ここで追い込まれては袋のネズミだ。採れる進路は二つ。エントランスに行ってエレベーターを使うか、舞台に行って関係者用の通路を使うか。
「俺はきっと聖地を荒らしてしまいます」
 生き残れる可能性が大きいのは後者と判断して、ニトロは走り出した。
 二階席から舞台に行くには、二階席のへりから舞台に向けて跳ぶしか手段はない。そこから舞台までは、およそ距離20m高さ10m。跳んだところで、舞台にかすることもできまい。ただの自殺行為だ。
 しかしニトロには勝算があった。彼が履く靴には一度きりの機能がある。それは、最高で20mもの大ジャンプを可能とする装置だった。
「いたぞ!」
 背後からの声に、ニトロは肩を震わせた。
「うっひょぉぉぉぉう!」
 ニトロは掛け声とも、悲鳴ともつかない声を上げ、足の回転を早めた。耳の横を明らかに致死量の熱を伴った光線がかすめ、髪が銃弾に切られる。
「俺を殺してもいいのか!?」
 肩越しに振り返り、牽制にレーザーをでたらめに撃ち返しながらSPや警備員に怒鳴りつける。
 ハラキリは言っていた。ニトロ・ポルカトを殺せるのは、ティディア姫だけだと。
「バカ姫様に怒られるぞ!?」
「だから殺さないようにしているじゃないか、少年!」
「しっかりドたまを狙ってるじゃねぇか! 当たりゃしっかり殺されるわ!」
 SP達の回答に激怒を返し、ニトロは二階席の最前列に辿り着いた。
 レーザーガンを捨て、彼はケースの中から手袋を取り出した。ハラキリの説明では、壁などに貼り付くことができるという。
 踵を打ち合わせて、靴に備わる大ジャンプ補助装置のスイッチを入れる。靴がエネルギーを溜め込んでいくのを肌に感じた。素早く手袋をはめながら、二階席のへり、落下防止用の手すりに足をかける。
「とぉう!」
 そして気合一発、ニトロは跳んだ。舞台を隠している重厚な幕へ向けて。
「ああ!」
 背後から、悲鳴。こちらが自殺したように見えたのだろう。だがニトロは笑っていた。本来人が得られぬ飛翔の快感と追っ手の予想を超える優越感、そして彼らをまく爽快感に。
 ニトロは手を伸ばした。ギリギリ、幕に手が届くのは、ギリギリの距離だ。だが届くには充分な距離。
 ニトロの手は、栄光の幕を手に掴んだ。手袋の機能が発揮され、掌に力強い安定感が伝わってくる。落下はしない。幕を確かに掴み、このまま俺は舞台の天井裏にまで登りつめるのだ。
 スルッ
 手袋の吸着力が強くても、ちゃんと手袋をベルトで固定しなかったために、肝心要の手自体がすっぽ抜けてしまったとしても。
「へ?」
 ニトロは笑顔のまま、腹の奥に生まれた感触に冷や汗を垂らした。
 この感触は、フリーフォールに乗った時に感じたことがある。膀胱という臓器が、ひとりでに浮き上がるこの感触は。
 ニトロの体は、一瞬の停止の後、すみやかに落ちていった。
「あああああ!」
 ニトロはSP達との悲鳴のハーモニーを劇場に響かせながら、内心でハラキリに叫んでいた。
(使用上の注意はしっかり言っとけえ!)
 ……その頃。
「はぇくしょっ!」
 ハラキリはニトロが屋上に現れる時を待ちながら、凍える大気に震える肩を抱いていた。
「あー。冷えるなー」
 眼下に広がるジスカルラの夜景は、美しいの一言に尽きよう。ハラキリとしては自然の情景というものが好みではあったが、この無数の光の中で、様々な人生が様々に展開していることを考えると、それでも胸には情緒が溢れてくる。
「ニトロ君まだかなー」
 そんな情緒を心に染み渡らせながら、ハラキリは水筒のお茶をカップに注ぎ、ずずずっとすすった。
「あー。お茶がうまい」
 ちょうどこの時、彼が目にするシェルリントン・タワーの光の中で、ニトロ・ポルカトの人生は、幕から舞台に墜落し、痛みに転げまわったあげくの拍子で舞台装置の『奈落』の底まで落ちていっていた。

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