5.ニトロの挑戦

 夜。陽が沈んだばかりの、浅い夜。漆黒に歩み寄る濃紺色の空には蒼と赤の双子月。
 ニトロは独り、無人タクシーに乗っていた。
 ここは網状王都高速ネット・ハイ・ウェイ。文字通り王都を縦横無尽に駆け巡る、多重構造の高速道路。その最上層をタクシーは走っていた。
 シートの下からはアスファルトを噛むタイヤの動きが無作法に伝わってくる。速度は法定速度を遵守し、追い越し車線を避けている。また一台、右手を走り抜けていく。
 突然、前方に車道の外から現れた影の塊があった。
 何だと驚き見れば、強化プラスチックの壁の向こうに併設されている自転車用道路の、その他道との合流地点からロードレーサーの集団が入ってきている。
 どこかのサークルらしき男女達の表情はいずれも心地良く、回転する健脚に生み出される速度はたいしたものであったが、やがてのんびりと背後へ消えていった。
 ハラキリの韋駄天に乗っていた時は、ティディアに追われ、化け物に追われ、体験したことのないスピードの中にいた。それに比べれば今は安全そのもので、三半規管が破壊されそうな圧力も、血液が固化しそうな寒気もない。
 だが、韋駄天の乗り心地は良かった。シート越しに伝わる振動などなかった。すれ違う車が起こす風の音に肌が泡立つこともなかった。安全そのものなのに、その振動に安心が揺り崩されてたまらない。
 ニトロは唇を引き結び、眼下に煌めく夜景を強張る瞳に映していた。
 双子月の月光は混ざり合い紫を帯びて闇を飲み、あの女の髪の色と変じた蠱惑の光が地を染めている。その中で、無数の光が生きている。
 とても温かで無機質な生活灯、三原色の明滅を繰り返す無数の信号灯、その道筋を埋めうごめくカーライト、そして原色の気を狂わせたようなネオン。夜のとばりにうるさく、いくらかき混ぜ煮詰めても溶け合わない都の幻実が、わずか一辺数十センチの枠に収まり騒いでいる。
 むやみに、不安をはやしたててくる彩りだった。
 つけてもらったラジオはニュースチャンネルに合わせられている。語られるニュースソースは、芸能プロダクションが起こした組織的な売春事件。今日一日中、どの局の報道番組もこの話題で持ちきりだった。そしてどの局も、高速道路での『大事故』を報せることはなかった。
 大方、放送局に圧力がかけられたか、真実を隠蔽されてしまったのだろうが……。
 座席についているコンピューターでインターネットを覗いてみれば、ほんのわずかに話題にはなってはいたようだが不可思議なことに火はついていない。犠牲者が出たという記述も見当たらない。あれだけの大惨事で死者が出なかったとは信じられなかったが、せめてこれは真実と願いたい。
「……はぁ」
 無人タクシーに乗ってから、何十度目かのため息をつく。
 暗きを向こうにした窓には、自分のものではない顔が映っていた。
 彼は今、戦闘服を脱ぎ、カジュアルな服に身を包んでいる。左腕には『報道』の腕章。左胸にはJBCS(ジスカルラ放送局)の身分証があった。そこに印刷された写真は、今の顔だ。
「はぁ……」
 フロントガラスの向こうに巨大なタワービルが見えていた。シェルリントン・タワーという。300階建ての100階までがショッピングセンター、そこから上は様々な会社やイベントホールがひしめき合っている。その経済的な比重は大きいが、むしろ娯楽性により重きを置いた構成に、人々はそのタワービルを『繁栄』の象徴とし、また『虚構』の象徴とも揶揄やゆしていた。
 そして今夜、250階にあるガシイ・イントリアル社のイベントホールで、王家の定例会見が行われる。
「はぁ〜あ」
 ニトロはコンピューターの電源を落とし、シートに腰を沈めた。そして、不安と後悔と共に、ハラキリの提案を思い出していた。

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