人間を最も堕落させるものは何か?
それは、慣れである。
では、生物の進化において最も重要なものは何か?
それも、慣れである。
<ドキュメンタリー「宇宙生物学者:ニトロ・ドーン」より>
ミッドサファー・ストリートを瞬く間に駆け抜けた二台は、混雑する朝の道の上、タイヤが巻き上げる微細な塵に薄濁った大気を引き裂き飛び続けていた。
「おいおい! なんで道伝いに行くんだよ! 追い詰められちまうぞ!?」
「空に飛んだら天地八方囲まれて仕舞いですよ。それなら袋小路に追い詰められた方がまだ手もありますし、なに、追い詰められるヘマもしません」
「いやでも……それならもっと速く! あっちは軍用だぞ!」
「こちらもそれなり。まぁ、良い勝負でしょう。安心して下さい」
「安心なんぞできるか!」
「おやニトロ君、慣れましたね」
「本当だ俺、慣れとるっ」
自由に動く体を見つめ、そしてもう一度気づいてハラキリの頭をはたく。
「って、
ハラキリはルームミラーを一瞥し、
「以後気をつけましょう」
言いながらセンターパネルの、システム制御盤のスイッチを一つONにした。
「そこの暴走車。止まれー」
やる気の無い声が背後から聞こえてきた。ニトロが振り返って見れば、ティディアが拡声器を口に当てていた。
「止まったらツマラナイけど、止まれー」
「うっわ。何を勝手なことのたまってやがる、あのバカ」
「へー。言ってくれるじゃなーい」
「え?」
ティディアの反応に、ニトロは冷や汗を垂らした。首を回してハラキリに顔を向ける。そういえば、なぜ防音防振動の効いた車内に彼女の声が届いてくるのか。
「コミュニケーション促進
「よよよ余計なことをするな! あんなのとコミュニケーション促進する必要なんざ無いんだよ!」
「へー。言ってくれるじゃなーい」
「ああああああああ」
ニトロは恐る恐るティディアを見た。両脇にある全てのものが恐ろしい速度で過ぎ去っていく中、やけにはっきりと、ティディアのコメカミに浮き出る青い血管が網膜に焼きついた。
彼女は肩に担いでいたレーザーライフルを下し、こちらに銃口を向けてきた。スコープを覗き込んで銃を構えるその姿は、美しく芸術的にも思える。
だが、
「おいおいおい撃ってくるぞあのバカ!」
「韋駄天、バリアを」
「了解」
韋駄天の答えと、ティディアが引き金を引いたのは同時であった。銃口から一線の殺意が放たれる。照準はニトロの眉間。光速に近いそれを避けることは不可能に等しい。しかし、灼熱の光線は車に到達する寸前で霧散して消え去った。
「おー」
感嘆の声を上げて、ティディアはスコープから目を離した。
「おおお?」
一瞬、死を覚悟していたニトロは感激の声を発した。
「対光学兵器バリアです。これでレーザーは怖くありませんよ」
それを聞いたニトロはドアの窓を開けて右腕と顔を出し、せめてもの仕返しとばかりに中指をおっ立ててみせた。ティディアが今一度、今度は実弾のライフルを構える。耳を叩く凄まじい風切り音の中、ニトロは叫んだ。
「無駄だぁぁ!」
ハラキリがハンドルを、わずかに横に切った。ティディアの肩が衝撃を受け止める。ニトロの頬を、弾がかすめた。
「……」
ニトロは椅子に座り直し、シートベルトを締め直して、窓を閉めた。
「実弾銃や音波兵器は素通りしてきますので」
「手早く忠告しろよ!」
「言いましたよ。でも外に出てたから風で聞こえなかったでしょ」
「ごめんなさい」
「手回しがいいなぁ」
「え?」
ハラキリの言葉に前方を見ると、前方にバリケードが築かれていた。赤色回転灯が幾つもたかれ、警察車両は飛行車も走行車も出動して道の上下に壁を作り、大勢の警官が待ち構えている。
「曲がりますよ!」
「おう! ぎゃっ!」
ニトロの悲鳴は、彼の頭がドア窓にぶつかった音と見事なハーモニーを奏でた。速度が上がれば上がるほど、遠心力は大きくなる。そのことをニトロはつい忘れていた。
「うおおお……」
「ねー。今の音、もしかして頭ぶつけたー?」
「やかましい!」
聞こえてきたティディアの質問に怒声を返したニトロは、返す刀でハラキリに言った。
「切っとけよ、コミュニケーション促進
「それじゃ、つまらないなぁ」
「切れ」
「ハンドル切りまーす」
ニトロは慌てて頭を抱えた。強烈な横Gが、連続して襲いかかってくる。
「ちょっとキツイですけど……」
ハラキリの声が、遥か遠くから聞こえてくるようだ。
「吐く時はエチケット袋にね!」
(そんな余裕あるか!)
ニトロの抗議は、声にならなかった。
ハラキリの運転技術は驚くべきものだった。A.I.のサポートを最大限活用し、計器類に表示されるニトロには何を意味するのか全く解らない数値を瞬時に把握しながら、大通りを、路地を、時には車体を90度傾けビルの隙間を、警察車両を看板を対向車をあらゆる障害をかわしながら超スピードで走り抜けていく。
凄まじい反射神経、絶妙なハンドル操作とアクセルワークだった。およそ『クラスメートの無免許運転』からはかけ離れている。もしかしたら、時速1000kmを超えるライトニング・レースのCクラスレーサーにも並ぶかもしれない。
無茶苦茶に車が振られ、霞みそうな意識の中でニトロはかろうじてそれだけを思えた。体は、血液は、三半規管は四方八方に振りまわされている。声など出すことはできない。そんな試みをしようものなら、本当に胃が口から飛び出てしまう。
「ふむ……」
少し運転が素直になったところで、ハラキリが物思わし気にうなった。
「どうしらの?」
「いや、撃ってこないなあと。変じゃないですか?」
「そういやそうだね」
その時、ニトロ側のサイドミラーが砕けた。
「あ」
二人そろってうめく。撃ってきた。しかも、土砂降りの雨のように。
金属がぶつかり合う音が、恐ろしいほどの勢いで耳を叩いた。さながら、車のすぐ後ろで雷が鳴っているかのようだ。