ケルゲ公園での接触の後、ティディアの追っ手はまるで現れなかった。
ハラキリはマンホールの中のモニターにレーダー画面を映して、釈然としない顔をしていた。どうやら公園に色々と仕込んであるそうなのだが、間違いなくその有効範囲に『敵』はいないと確証を持って言った。ただ、覗かれている感じがある、どこか遠くに監視者がいるようだとも。
それに地上にいては衛星で監視される危険もあると、ニトロはハラキリの案内の元、カルカリ川の中に沈めてあった小型潜水艇に乗り込んだ。
ハラキリに聞くまでニトロは存在すら知らなかったのだが、
そのことをハラキリに教えられたニトロは素直に感心し、そして、慎重に地下水路を走り回った末に彼が案内してくれた隠れ家の場所に
「驚いた」
ニトロは目を丸くして、裸電球の光に照らされたワンルームを眺めていた。
「このホテルはどういう造りになってるんだか」
ハラキリの隠れ家は、ホテル・ベラドンナの中にあった。地下から直接上がってきたうえ、窓も無い部屋であるから、ニトロ自身がそれを確かめたわけではないが……所有者が言うからには間違いないのであろう。
「超VIPルームといい、この部屋といい、まだ秘密がありそうだよ」
「ありますよ」
「え? あるの?」
「見ます? 超VIPルームだけは見られませんけど……」
と言って、ハラキリはリモコンを手に取り操作した。
すると、部屋の中央に
「あ、こいつ教育大臣だ」
ニトロはハラキリの言葉に、頬に汗を浮かべた。
「何? この部屋」
「えーと? 『会員制・機密室』ですね」
「いやそうじゃなく。ここだよ」
「ああ。父が仕事で使うんです。モニターされているのはベラドンナにある九つのシークレットルームで、まぁ、ターゲットの身辺調査用です。もちろんこんな部屋は許可されませんから、自分で作ったんですけどね。内緒で」
「……お父上のお仕事は?」
「派遣社員です。非合法の」
「…………ああ、そう」
ニトロは頭を抱えて、粗末なベッドに座り込んだ。
また一つ、足を踏み入れたくない領域に進んでしまった気がする。
「あ、うちの学校の校長までいるや。お友だちなんですね、大臣と。
「もう切れ! そんな不気味な映像! そして忘れろ!」
「出版社に売ればなかなかの額に」
「そんなこたぁ、政治家同士にやらせとけよ」
「なるほど。政敵に売った方が金になりますねぇ。では早速……」
「するな! この後におよんで余計な厄介事を作るな!」
枕をハラキリに投げつけて、ニトロは、我知らずのうちに泣き出していた。
「なんでこうなったんだよ、本当に」
一段落ついた安堵感に、溜まった疲れがどっと溢れ出してきた。それに押し出されるように涙が流れていく。
考えれば考えるほどに理不尽で身勝手な人間に、なぜ自分の人生がむちゃくちゃにされなくてはならないのだ。しかも、そいつの楽しみのためだけに。
両親が交通事故で他界し、自分一人がこの世に取り残された。そんな考えから立ち直ったのは、つい最近ことだ。その支えになってくれたのが、そう、両親が遺してくれた家であり、メルトンであった。
なのに……家は焼かれ! メルトンに裏切らせた! あのティディアは!
そして今、思い返せば震えが来る。
特殊部隊、サイボーグ……その加減はどうであれ、姫は精鋭を用意していた。分かっていたことだが、本気で、殺す気なのだ。あんな、興醒めしたら帰るくらいの軽い気構えで。
昨日まで殺人とは程遠い日常を送ってきた。だが今は、そのターゲットとなり、ゴールの見えない逃避行にいる。
遠くなる。果てしなく遠くなっていく。普段は感じることの無かった、日常への憧憬。遠くなる、もう二度と掴めない。あの少し退屈ながらも平和だった日々が。遠い……そこかしこに、何の疑いもなく転がっていたものが。
そして、これまでは遠くにあった者達が、今はすぐ側で笑っている。
これからどうすれば良いのだろう。どこに逃げろというのだろう。一つだけ解っているのは、この星の上に安息の地はないということ。それこそ、あの女が飽きて『狩り』を辞める程遠いところに逃げ、故郷を捨てるしかないのだろう。
それまでは、逃げるか、殺されるか。あるいは……。
「……」
ニトロは、重要なことに気づいた。
『あるいは……殺すか』。
そうだ。追手を殺す必要まで、あるかもしれない。
いや! すでに、一人、死んでいる。
ニトロは震えた。ベッドに倒れ、毛布を頭から被り、歯を鳴らして震えた。
つい何時間か前までは、自分が人を殺すことなど、それこそ自分からはほど遠いことだと思っていた。だが、あのバッテスの死は、自分が招いたものと気づいてしまった。
「そうそう。あのサイボーグ、死んでませんよ」
「?」
唐突なハラキリの言葉に、ニトロは起き上がって彼を見た。
「バカ姫がサイボーグを蹴飛ばして言ってたでしょう? 駆動系まで駄目になったって。でもそれは死んだってことじゃない。あれはね、『動かなくなった』ってだけです。あの程度じゃ生命維持までは切れません。
改良されてまた出てくるかもしれませんね。気をつけておかないと」
「…………」
「それにしても酷い顔だ。鼻水垂れてますよ」
ハラキリが、ティッシュ箱を投げてよこした。ニトロは鼻をかんで、再び毛布に潜り込んだ。
「ここならそう簡単には見つけられません。3時間位しかないですけど、朝までゆっくり休んで下さい。ああ、そうだ。服が窮屈だったら、サイズ調節ボタンを長押しすれば『リラックスモード』になりますよ」
言われて押してみれば、体にフィットしていた戦闘服が大きく空気を吸い込んだ。引き締まっていた生地がスウェットのように大きくだぶつき、いくらか気も楽になる。ニトロは小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
裸電球を消すスイッチの音を追って部屋の明かりが落ちる。
控えめな声が、ニトロの耳に届いた。
「どういたしまして」