誰もが思い付くことなのに、誰もがやらないことがある。それは、人に道徳があるためだ。
<ガクン教育出版局「道徳の時間」より>

 ここは王都ジスカルラの北から中心を渡って、東南にあるジスカルラ港に流れるカルカリ川のほとりであった。
 カルカリ川は、ジスカルラに住む者にとってなくてはならない川である。水道水はこの上流で集められ、カルカリ川に沿って無数に点在する大小様々な公園や広場は人々の憩いの場となっている。
 ニトロが地下より上がってきたこの場も、そんな憩いの場の一つだった。ジスカルラ最大の公園であり、最も有名なケルゲ公園。その中の、カルカリ川に沿って造られた遊歩道に彼はいた。
 ニトロが、ここがケルゲ公園だと判ったことには理由がある。
 彼の虚無感溢れる眼は、彼の視神経を刺激する二つの光源を澱ませていた。
 傍らに流れる川の下流に向かう先、左にそれた向こうに光の塔が見える。それは王都で最も高い建造物、シェルリントン・タワーだ。
 真正面には深夜の黒幕の中に霞の中にある月のように、純白の光玉が輝き浮かぶ。それはこの星で最も高い意義を与えられた建造物、王城。
 その二つが摩天楼に欠けることなく見えるこのロケーションは、カルカリ川沿いの公園の中でもケルゲ公園にしかない価値だった。
 さて、このまま深く思策にふけり王城とシェルリントン・タワーを比喩に『価値 その現実性と精神性』なんて論文を書き上げてみたくもなるが、それは逃避であろう。
「さすがは姫様だ」
 ニトロの心には倦怠感と諦めの境地が入り混じった、とにかく重い気だるさが満ち満ちていた。
「聞いていいかな? 何でここが分かったんだろう」
 ニトロは両手を挙げていた。目の前には十人ほどの屈強な男達が整列している。中心には二人。一人は女性で随分高飛車な様子が見える。その隣に控えるのはかなりの体躯を持つ大男だ。そちらが答えてくる。
「決まっていよう。姫様だからだ」
「うわ。機知エスプリも効かねぇ御答え」
「なんだと?」
 ニトロの軽口に大男は怒りを表した。もともと野太い声にドスが効き、ニトロの気を悪くする。大男は拳を握り、今にも彼に襲いかかりそうな形相であった。それをティディアが片手を挙げて制する。
 彼女はにやにやと、とても人の悪い顔で嬉しそうに笑っていた。
「ここには川もあるし、近くには大きな道路もある。下水を使って逃げるのも手だけど、人海戦術を使われては都合が悪い。だから一番近くて選択肢が多いところに早く出たい。特に、『素人を連れている』のだから」
「大当たり」
 と、そう小声で言ったのはハラキリだった。マンホールの中で機を窺っている彼は、まだ何の手段も講じようとしない。彼の前には側壁に埋め込まれたモニターがあり、その微光を受ける顔は思案の色を染め出している。
 こんな時に何を考えているのか。彼の様子があまりに呑気に思えて、ニトロは苛立っていた。だが彼に何か策があることを信じて平静を装い続けている。
「さっさとそのマンホールから出てきたらどうだ?」
「もう出てるじゃないか」
 大男の脈絡のない注文に、ニトロは眉をひそめた。
「貴様ではない。『大当たり』といった奴だ」
 ニトロはぎょっとした。大男の言葉は、今のハラキリの声を聞き取っていたかのようである。間近にいた自分がやっと聞き取れる位の声を。
「凄い地獄耳ですね」
「あ、馬鹿。なんであっさり出てくるんだよ!」
「いやいや、無駄でしょう。君に助太刀がいることは承知されてますし」
 よっと掛け声をかけて、ハラキリがマンホールから出てくる。
「それに、あの人には聞こえていたようですから」
「え? 本当に?」
「そのようですよ? だって……」
 そこまで言いかけて、ハラキリはニトロに疑念を向けた。
「ニトロ君。なぜにホールド・アップを?」
「普通、銃を向けられたらこう両手を挙げないか?」
「銃なんて、誰も向けてないよー」
 言ってきたのは、ティディアであった。
「何ぃ?」
 ニトロが振り向くと、確かに、誰も銃を構えるどころか所持さえしていない。大男が長大な槍を持っているだけで、ティディアは軍の制服を着ているだけ、後ろの男達にしても軍服を着てはいるものの火器も持たずに『きをつけ』をしているだけだ。
「何でだ!」
 憤怒の表情で彼は叫んだ。
「普通こういう時は、余裕綽々しゃくしゃく殴りたくって仕方がねぇ顔で! 『ホールド・アップだ。べらんめぇ』とか言うもんだろう!?」
「別にそうと決まったわけじゃ」
「黙れハラキリ! お前が反論してどうする! ここは一発、バカ姫に答えさせてツッコミいれないと気がすまないのだ!」
「別にそうと決まったわけじゃ」
「貴様もハラキリと同じ答えを返すなああああ!」
 ティディアを指差し怒鳴って地団太踏んで、ニトロは怒りの矛先を変えた。
「だいたい何であんたはハラキリの声が聞こえたんだよ! 何か? その耳には高周波すら聞きとめる測定器でも埋まってるのか?」
「よく分かりましたね。驚きました」
「今度はどんなチャチャ入れてくれる気かね、ハラキリ君?」
「あれ、サイボーグでっせ」
「本当かね、ティディア君!」
 仰天して、仰天ついでにノリもそのままにティディアに問うと、ケラケラと笑ってこちらの様子を眺めていた彼女は素直にうなずいた。そして言う。
「試作品1号よ」
「…………」
 今に至って。ニトロはこの現実がどれほど重大であるか気がついた。愕然とし、恐れに唇が震える。
「ッサッササササササ、サイボーグ?」
 人型ロボット……いわゆるアンドロイドは、今や生活に浸透したものである。それは珍しくも何ともないし、問題があるわけでもない。
 だが、サイボーグ……つまりいわゆる改造人間は多くの国家宗教が絡む全星系連星ユニオリスタの中で、倫理的な問題をはじめ解決の糸口が見えない課題や議論が多いため、現状全宇宙で禁止されている。
「そんなに驚くことかな?」
 ティディアが意外そうに首を傾げる。その横で、大男は誇らしげにマッスルポーズを決めていた。
「当たり前だ! 禁止されているサイボーグがいるなんて!」
 叫んで、ニトロはふと平静を取り戻した。
「いや、人間に『禁止』なんて言葉は有って無いようなもんか」
「怒鳴ったり悟ったり、忙しいねぇ。御主人」
「御主人言うな」
 眉間に刻んだ皺を叩きながら、ニトロはティディアに向き直った。
「さっき、試作品1号と言ったってことは、狩りのついでに試そうというわけね」
「御名答」
 ティディアは微笑んだ。
「見たところ随分余裕だけど、そっちには何か策でもあるのかしら」
 ニトロがハラキリに目を向ける。すると彼は目を閉じ、手を組みながらひざまずいた。
「プカマペ様。私達をお守り下さい」
「プカマペ?」
「左様。拙者の心だけに語りかける、言っちまえば自作の神様」
「ほう」
「祈りましょう。ご一緒に、さあ」
 ニトロの膝小僧が、ちょうどいい位置にあったハラキリの顎を的確にどついた。
 ハラキリはその時、確かに見た。地平線まで広がるお花畑を。微笑んで腕を広げているプカマペ様を。
「策はない! 堂々と戦って散ってやる!」
 ニトロのやけくそな怒号に、ティディアは口をとがらせた。
「え〜? もっと諦め悪く抵抗してくれないと、私の嗜虐心が満足しないんだけど」
「変態の戯言たわごとは聞かぬ!」
「仕方ないわねぇ。まあ、いいわ。サイボーグに嬲り殺される少年二人ってのも、見ごたえあるかもだし」
 そう言うと、ティディアは顎で大男に指図した。ようやっと出番が来たことに、男の顔は硬直した。自分の力を試す機会に興奮を隠そうとはしない。ばっと左手をこちらに差し出し、見栄を切ってくる。
「ふっふっふ。ニトロ・ポルカロよ」
「ポルカ
「これは失敬」
 サイボーグは、んっんーと喉をならし、改めて見栄を切った。

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