「あら、つれないわね。せっかく十数年ぶりの再会なのに」
「
ニトロは驚きのあまり声を裏返した。一度は聞き流していたが、その言葉、真ならばこのまま素通りすることはできない。
「覚えていないのも無理ないわ。最後に会ったのは、あなたが二歳の時だったから」
「は? いや、何?」
「知らないのも当たり前よ。あなたの両親と
詳細の説明もなく喋り続けるティディアに対し、ニトロはあんぐりと口を開けていた。話についていけない、理解できない。あまりにも王女の言葉は突飛すぎた。平凡な家庭と、王家。どこに接点があると言うのだ。そうだ、こんな話、あるわけがない。きっとこれは
「そうか、冗談だ」
「本当」
「まっさか〜。うちの脳味噌天然発酵
「……御両親は残念だったわね。遺体も無かったなんて」
目を伏して、ティディアは言った。
その様子にニトロはさすがに口をつぐんだ。同時に、買い物がてらドライブしに行った両親がタンクローリーに衝突され、積まれていた精製フロギストンの爆発に巻き込まれて肉も骨も燃やし尽くされて他界したという、痛烈な事実が思考を侵略する。心を奈落に突き落とそうと重く圧し掛かってくる。これまで何度も負けまいと気を張ってきたのに、今も、今にも、吐き気と眩暈の塊が脳髄の奥で気持ち悪く体を震わせる。
「愉快な人達だったのに」
「……ええ」
ティディアの声は、優しかった。こちらを気遣う、慰めの心が伝わってきた。ニトロは涙ぐみそうになったが、それを堪えて、彼女に訊いた。
「でも、なぜ両親が?」
「私の両親が、あなたの御両親と親友なのよ。昔、お忍びで町に出た時に知り合ったそうよ」
組んだ足の上に両手を置き、ティディアは伸びをするように肩をすくめた。
「ほら。私の両親もかなり抜けているでしょう? それで気が合ったのね。確かに市井の者と親しくすることを公にするのは、色々なしがらみがあるから秘密にしていたけど……。それでね、私も小さい時、遊びに行ってたのよ?」
「…………知らなかったな」
ニトロはうめいた。まさか、人生何事も楽しみ過ぎなあの両親が、そんなことを自分に隠していた……というよりも、隠し通されていたなど、思いもよらなかった。
(結局、親のことだってのに、あまり……知らないんだよな)
親と疎遠であったとは思わない。むしろ親馬鹿だった分普通より多く話していたと思うし、もちろん一緒に食事も取っていた。
だが今思えば、それだけ、だった。
(もっとちゃんと話しときゃ良かったな……)
唇を少し噛み、ニトロはしばし目を閉じた。
(……けど)
知らない、と言えば、目前の女性もそうだ。
クレイジー・プリンセス、ティディア。
確かに彼女は愚考蛮行をしたりもするが、今は優しく柔らかい、人の良い姫だ。友人の死を悼み、その息子に労りの眼差しを向ける姿は、ニュース映像で見る彼女からは想像できないものであった。
(自分の目で見ないと、判らないものだね)
ニトロは、これまで彼女に抱いていたイメージを恥に思い、苦笑した。目を開いてティディアを見ると、先程はしょうもない格好と見えていたドレスが、とてもセクシーに感じられた。
「コーヒー、冷めるわよ」
「あ」
言われて、ニトロは少しぬるくなったコーヒーを口に含んだ。時間が経っても薫り高いコーヒーに、ちょっと鼻の奥が痛くなる。
「美味しいです。とても」
「聞いたわ」
ニコリと笑って……それは実に美しい……ティディアは足を組み替えた。
「じゃ。本題に入るわよ」
「へ?」
コーヒーを飲み干したとたんの不意を突かれたニトロは間抜けな声を上げ、
「あなたに死んで欲しいの」
「――――…………はぁぁぁ!?」
そしてティディアの要求に、素っ頓狂に叫んだ。
……嗚呼、人は何故、運命の神を生み出したのか。それを知らねば、もっと心安らかに生きられたろうに。
<モッコ出版 単行本『リリカレーの死』より>
「なぜ!?」
当然なニトロの問いに、ティディアは嘆息した。
「半年後、私は二十歳になる」
「それが何の関係あるんスか!」
「公約、知ってる?」
「二十歳になる、に関係するのは、誕生日に結婚する!」
流れのまま怒声で応えてきたニトロに、ティディアはうなずいた。
「私、結婚したい人がいるの」
「しろよ!」
「そうね。だから死んで」
「だからなぜ!!」
一応、死も覚悟はしていた。だが、面と向かって、しかも半ば『裏切った』上に不意打ちで死を宣告されたニトロは、ほとんど狂乱状態で頭を掻きむしった。もはや立ち上がっている。
「俺が死ななきゃ結婚できないんかい!」
気がついていないが、ニトロはすでにティディアに向かってかなりぞんざいな口を利いていた。しかしそのことを二人が気にすることはなかった。いや、それどころかティディアは嬉しそうである。
「私のモットーは?」
「有言実行。でも時々嘘もついちゃう。女の子だもん♥」
「言っちゃったのよ〜。0才児のニトロ君があまりに可愛くて〜」
「何てさ!」
「私、絶対この子と結婚する!」
「わはははははははは!!」
奇声を上げて哄笑し、ニトロはどこのものとも知らぬ踊りを踊りまくった。それは激しく。もう、こぼれ落ちてはとめど無い涙をまき散らして。
……そして。
「嘘ぢゃないの?」
ソファに沈み込む虚ろな瞳のニトロに、ティディアは笑った。爽やかに。
「事実」
「いや、でもその時あんた三才だろ? そんな口約束……!」
左方に
『わたし、絶対この子と結婚する!』
音声。
「見事な証拠だ!」
血涙流しながら、ニトロはサムアップした。
「いや……でも待てよ? ビデオは裁判において有力な物的証拠にはなり得ない」
「合成じゃないわよ」
「その証拠は!」
「私」
ニトロは真っ白な灰になって崩れ落ちた。
思いもよらなかった。思うこともしなかった。考える方がどうかしている。こんな理不尽な死が、目の前で大声で笑う光景を。
「あんまり過ぎる」
「そうね」
「お前が言うなぁ!」
テーブルを叩いて叫んで、ニトロは気づいた。テーブルに、いつの間にか一枚のカードが置かれていた。
「……何?」
「クレジットカード。パスワードは、『死にたくないよ〜ん』」
「……今さら金なんて必要ない……」
「あるわ。軍資金だから」
「?」
ティディアの言葉に、ニトロは眉をひそめた。
「つまり?」
「ゲームをしましょう」
ニトロの促しに、ティディアは続けた。
「黙って殺されるのは嫌でしょう? こんな理由で」
「当たり前だ」
「だったら逃げてみ。私から」
そのセリフに、ニトロは全てを察した。
「これが狙いか」
「そう!」
ティディアは、うっとりと手を組んだ。
「一度やってみたかったのよ、
「あほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
あらん限りの力を振り絞ったニトロの罵倒は、ティディアの心には誉め言葉として届いたようだ。
「そうよ! だって私は、クレイジーだもの!」
「限度があるわ!」
憤激の怒声を浴びせ、ニトロはひったくるようにクレジットカードを手にした。
そして、意を決して立ち上がる。
「よーし逃げてやる。逃げてマスメディアにこのこと話してやる。いくらなんでもそれで俺を殺そうなんざ、世が許さねーだろうからな!」
歩幅大きくズカズカと、ニトロはエレベーターに歩いた。殴るように下への呼び出しボタンを叩き、その手を拳にしてティディアに差し向ける。
「下手打ったもんだな、これでお前も終りだ!」
ティディアはソファに座ったまま、余裕の笑顔を向けている。その様子に、ニトロは腸煮えくり返る心持ちで、言った。
「絶対、その澄ました面泣き顔にしてやる!」
「君の家、お金あるよね」
「それがどうした」
確かに、相続した遺産は予想をはるかに超える額であった。地方公務員であった両親の給料には釣り合わぬ資産に、驚き首を捻ったものだった。
「君の両親が稼げると思う?」
「無理」
即答して、ニトロは息を飲んだ。最悪の想像が、脳裏を疾風のように駆け抜けた。
「…………まさか」
「税金の不透明な使い道」
絶世の美女が、絶世の笑顔を見せる。
「マスメディアに駆け込んでみなさい。私の婚約の秘密を『盗んだ』、横領罪の共犯者さん」
「……うおお?」
「税金泥棒と、王女の秘密を盗んだスパイ。嗚呼、今この瞬間から、ニトロ・ポルカトは捕まったら重罪確定な犯人になりましたとさ」
茶化すようなティディアの、この上なく楽しそうな声は、すでにニトロの耳には届いていなかった。彼は膝から崩れ落ち、髪も真っ白に焦点の合わぬ双眸で『メリーさんの
「犬。その子を玄関まで送って」
ニトロの気づかぬ間に、エレベーターは到着していた。そこに乗っていた執事が、ティディアに命じられるまま、彼の首根っこを掴んで引きずっていく。
その様子を、獲物を見つめる猛禽の眼差しで見つめていた彼女は、肩を震わせて舌なめずりをした。
「楽しくなりそう」
目を細め、彼女は恍惚の顔で両肩を抱いた。