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思えば
(こんなにもユリネと離れたことはなかったな……)
少し傾斜のきつい獣道に、逃亡に歩んだ山道を重ねて、ノマは今さら気づいたことに感慨を覚えていた。
(あの日、世界が変わってから)
紅蓮の炎は村に終劇をもたらしたが、同時に自分達を新しき……いや、本来あるべき世界へと導く母となった。グゼもホロビも何もない、自由な世界への
自由な…………。
その時に感じていたのが、背に伝わる妻の温もり。そしてそれは、それからというものずっと常に
だからだろうか。今は、あらゆる全てに冷たさを感じるのは。
(…………カザラは、どうだったのかな)
もしユリネがいなければ、自分は凍死していたと思う。自由に、平穏を抱ける時間の重みに堪えきれなかったと思う。
カザラには言っていないが、ノマにとって、『牢獄』から解き放たれることは、同時に未知の不安と恐怖に包まれることでもあったのだ。
山中の村と、光射す小さな高窓一つの暗く寒い地下牢。それが世界の全てであった自分にとって、制限のない空間は大き過ぎた。
だが、ユリネが
このことを話した時、ユリネも、自分もそうだと言っていた。なら、
(カザラ……)
一人だけで重過ぎる時を持ち去った彼は、どうだったのだろう。
ノマは黙々と足を進めながら、彼の名を呼んだ。
「カザラ」
自分達に気を遣って身を消し、一人遠くに離れ住んだ彼は、どうやって罪と孤独と戦っていたのだろうか。
「カザラ」
泣きたくなる。熱くなってきた目頭に、しかし、まだ涙はならないと力を込める。
「今さら気がついたよ」
彼に言われた通り幸せになることに必死で、彼の心を考えていなかった。考えてはいても、考えられていなかった。
「僕達だけじゃ、幸せになれるもんか」
彼の『
「馬鹿だよ……カザラは」
自分独りの考えで傍から消えて、自分独りで全てを決めつけて。
「やっと、気づいたよ」
ノマは悔み顔をしかめた。
「帰ったら……ユリネと帰ったら、君のこと、怒るからね」
そして、地を蹴る足に力を込めた。
「どこにいるか判るの!?」
客間を我先に出ようとした所に問われ、カザラは言下に答えた。
「見つける」
「見つけるって…………そりゃ探すしかないだろうけど」
足早に裏口へと向うカザラを慌てて追いながら、ルシュは馬鹿みたいな自分の問いに言葉尻を曇らせた。
「『追跡』の訓練もしていた。必ず見つける」
「でも、村の方は? もしかしたら」
勝手口から林の方へと歩くカザラに、ルシュは言った。
「村に行ってるかも、そしたら誰かノマさんを見てるはずよ」
「それはない」
「なんでよ」
「グゼとの会話は、あいつにも話した」
「だからなんでって」
「グゼが去り際に言っていたろう。せめてもの償いに人の前には出ないと」
「……うん」
「ノマがユリネのための思い遣りを台無しにすることはないさ」
そう言って、ふいにカザラが足を止めた。
「どうしたの?」
カザラは横に並んで訊ねてくるルシュに目をやった。
「…………」
「どうしたのよっ」
立ち止まり沈黙するカザラを見上げて、少女は苛立ちを見せた。
「探すなら、早く……」
「信用するぞ」
「え?」
突然カザラに言われたルシュは、脈絡もない彼の宣言に戸惑った。いきなり信用すると言われても、一体何に対して信頼しているというのか。
「…………」
だが、カザラの行動は言葉以上に不可解なものであった。おもむろに後頭に両手をやり、眼帯を外しはじめる。そして――
「!!」
ルシュは、黒い眼帯の下から現れたカザラの左眼に、声にならない悲鳴を上げた。
それは、人間のものではなかった。一瞬にしてカザラを化物へと転じる、信じられないほどおぞましい目玉が、ギョロリとこちらを見つめていた。
ルシュはあまりのことに口を押さえ、下腹からせり上がってくる吐き気を懸命に堪えた。全身が震える。今すぐにこの場から逃げ出したい恐怖が心を叩く。
「…………」
だが、ルシュはその場に留まった。
それから努めて平静に、そして強がるように胸を張った。
「それ、何かの役に立つの?」
「…………ああ」
右眼に眼帯を着け直したカザラは、口元に隠しきれぬ笑みを浮かべた。化物の目と人の笑顔が、奇妙に
「そこに足跡があるだろう?」
「え?」
ルシュは、カザラの示した所をじっと見つめてようやっと、そこの土が微かに削れていることに気がついた。
「それが鮮明に見える。もう少し土が柔らかい所に行けば、必要はなくなるだろうが……」
そこまで言って、カザラは歩き出した。
(必要はなくなるだろうが、万が一のためにも用意しておきたいからな)
「あ、ちょっと待ってよ!」
背を叩く文句を耳にしつつ、カザラは、
ホロビの器は、ただそこに佇んでいた。
昨日、カザラと話した池の
「…………」
彼はどうやら、初めからここに来ることが目的だったらしい。脇目も振らずに歩き続けて、この場に来てようやっと立ち止まった。
それからもう十数分は過ぎたろうか、その
(間違いはないな)
その様子を監視していたグゼは、胸中で嘆息を漏らした。
ノマは、自分を待っているのだ。
奴と不必要に言葉を交す口は持ち合わせてはいない。とはいえ、あの男も連れずに、単身
わざと立てられたような、大きく落葉が踏みしめられた音にノマは振り返った。
「ユリネ」
そして、思わず口からこぼれた言葉に頭を振り、言い直す。
「待ってたよ、グゼ」
腕を組み、『彼女』が見せたことのない鋭い眼光を浴びせながら歩み寄ってくる女性は、敵意に満ちた唇を動かした。
「カザラも連れずに、どうしたことかな」
「考えてみたら、僕はあなたと話したことがなかったからね」
「私にはお前と話す必要などない」
「そうだろうね」
ノマは、強烈な言葉を紡ぐ『ユリネ』の表情に困惑と悲しみを覚えた。それが自分の
「でも、僕にはあるんだ」
「…………」
グゼは口を真一文字に結び、ひたりと彼を睨み
「…………」
沈黙の中、ノマはおかしな思いが自分の中にあることに気がついた。
目の前にいる女性。色素の薄い髪が背まで伸び、華奢な体つきながらも折れそうな儚さはない。それは、いつものことだ。着ている服も、あの時のまま白地のシャツに青のスカート。それもいつものことだ。
だが、いつもはそこに柔和な笑みがある。人の心を温め、誰をも愛する笑顔が。それが今は、敵意と憎しみと殺意に満ち、人を斬りつける鋭さに変わっている。眉は
その強い意志に満ちた、冷やかなるも神々しい妻の
(綺麗だ)
そう思っていた。まだ弱い陽の
本当に、おかしな思いだ。覚悟を決めたとはいえ、『ユリネ』と敵として対峙した時、狼狽してしまう不安もあったというのに。
どうやら、自分は思ったよりも多くのモノを彼からもらっていたらしい。
「…………何を笑っている」
ふいに浮かんだノマの笑みに、グゼは不愉快を強めた。
「嬉しくて、情けなくてね」
「……何が嬉しい。何が情けない」
グゼの語気が強まる。ノマはそれに気づいて、
「あなたのことで、じゃないよ。カザラのことでさ」
「?」
と、グゼの目の色が変わった。微かにだが、双眸に温もりが浮かび上がっている。
「どういうことだ」
「僕はカザラにもらってばかりなのに、それに気づいていなかった。
幸せだけじゃなく、勇気まで、いつの間にかもらっていたのに」
「勇気か……確かに、カザラは勇猛だ。愚かしいほどに」
「だから僕はここに立っていられる」
「何?」
「用件を言うよ、グゼ。
ユリネを返して欲しい」
グゼは組んでいた腕を解いた。
「返すさ。お前を殺した後に」
「それじゃだめだ」
即座に、ノマは言い放った。
「僕は殺されない。そして妻を連れて…………彼の下に帰る」
「…………」
グゼは長い嘆息をついた。
「その話はカザラと既に決裂した。ましてや、お前の言うことを私が聴くと思うか?」
「でも、そうしなければ何度でもカザラは来るよ」
「それは頭の痛い所だ」
「…………心を、潰してまで」
グゼは落していた視線を、はっとノマに戻した。一瞬の錯覚か。ほんのわずかだが、ノマにカザラが重なって見えた。
「もう彼を苦しめたくないんだ、僕は。だから、どうあってもユリネを返してもらうよ。僕の妻だし、それに、いつまでもあなた達にカザラを縛りつけさせないためにも……そのためにも会いに来たんだから」
そこにいる男は、再会の時に脅えていた者ではなくなっていた。ただ純粋な決意に心を強めた、戦士だった。
「…………」
目的が『無駄なこと』であったことを知った以上、ここから去ろうとも思っていたグゼだったが、ノマのその様に、少しだけ興味をくすぐられた。
(無駄話をするも一興か。……私に呼応することも、考えられるしな)
真っすぐにこちらを見つめているノマに瞳を合わせ、グゼは頬をわずかに動かした。