3
カザラについて黙々と歩き続けていたルシュは、ようやっと決心がついて彼に訊ねた。
「その眼」
「グゼに突かれたと言ったろ?」
質問を終える前に答えられ、ルシュは息を飲んだ。そこに、カザラが右肩越しに顔を向けて薄笑いを見せた。
「気にならないわけがないからな」
「……でも、突かれたぐらいでそんなことになるの?」
「グゼと……ホロビは毒を持っている」
「毒? そういえば、お
「ああ。ホロビの毒は単純に猛毒だ。かすっただけで人を悶死させる。グゼのものは、ホロビを消滅させる毒だ」
「ホロビを? ホロビだけを、なの?」
「言い伝えによると、ホロビの魂を消し去る力を持った毒らしい。魂の毒、とでも言うのかな。それでなくてはホロビをいくら殺しても、何度でも転生しちまうそうだ」
と、そこでカザラが歩みを止めた。押し黙り彼の話を聞いていたルシュは反応が遅れ、彼の背にぶつかってしまった。だが、カザラは何事も無いように周囲を見回し、ある一点で目を止めると、そこに向かって再び歩き始めた。
「両者の毒は、爪にある」
「じゃあ、その毒で?」
「多分な」
「多分?」
「今までにグゼの毒を受けた人間はいないんだ。確証があるわけじゃない。ただ、それ以外に考えられないんだよ」
それもそうだろう。カザラの話によると、グゼは人に危害を加えない。ならば、古代よりその毒を受けた者は彼だけであろう。
(人の体を
ルシュはカザラの広い背を見つめながら、自分の足には辛い歩速を保ち続けた。
(本当にお伽話だ)
胸中でため息をつき、ルシュはふと思い当たった。
「それ、他には誰か知ってるの?」
「ノマとユリネは知らない」
「だろうね」
「……お前が四人目だ」
「え?」
「これを知っているのは、親方とおかみさん、グゼに、ルシュだけだ」
ルシュは、その言葉に、胸が熱くなるのを感じていた。
『信用する』――彼が左眼を開放する前に言った言葉。それは、本当に最上の意味での、信頼だったのだ。
それから二人は互いに口を開くことなく歩き続け、小さなせせらぎに当たった所で足を止めた。
「分かった……」
「何?」
小川を前に、ノマの痕跡を探していたカザラは、ルシュのつぶやきに振り返った。
「分かった。ノマさんがどこに行ったか」
「本当か!?」
カザラが、乱暴に両肩を掴んでくる。その指の力に顔をしかめながらも、ルシュはうなずいて見せた。
「どこだ!?」
「この川は、あの池から流れ出ているの」
「池?」
カザラはぼんやりと聞き返し、すぐにしまったと舌を打った。
「そうか、あの池か」
考えてみれば、
「くそっ」
失態に毒づき、カザラが小川の上流に向けて走り出そうとした刹那、
「待って!」
ルシュが、カザラの袖を力一杯掴んで引き止めた。
「こっちの方が早い」
彼女が指差すのは、小川からは外れた方角。カザラは一瞬否定の
「本当だな?」
「ここからなら、川を
ルシュは言い切るや、即座に走り出した。
「信用してよ!」
そして叫びつけてきた言葉に、カザラは苦笑いを浮かべて後を追った。
何かを話そうとしては息を止め、口を開こうとしては躊躇う。
決意と意志は強いものの、初めの一言がなかなか切り出せないでいるノマに、グゼは苛立ちを殺せなかった。
睨み合い続けて数分。その間、こちらが向ける重圧に物怖じせず
「カザラにも問うたが」
いらつきをあからさまに、話しかけることも嫌そうに言う。
「お前は、人間が滅びてもいいのか?」
「そんなわけないよ」
ノマの答えは、即座に返った。グゼは険悪に
「ならば何故お前は私の邪魔をしようと言うのだ」
声調を抑えて、しかしより強い怒気を
「なぜホロビを私に消滅させない」
「ホロビは僕が抑える」
再び即答され、グゼの目尻が
「傲慢が、過ぎるぞ」
「傲慢になんかなってない」
「…………」
冷やかなグゼの形相に憤怒が灯り、その双眸がさらに細まる。鋭く。
「お前ごときが、ホロビを抑えると言うこと自体がっ、傲慢なのだ」
ノマは砂を噛む思いで、言い返した。
「僕は、人間全ての命を背負えるような立派な人間じゃないけど……」
彼の頬は強張っていた。全身の
「それでも、滅ぼしたくないと思ってる」
「言っていることに矛盾ばかり、だな」
「ホロビは出さない。矛盾なんか、ない」
ノマは、初めて殺意というものが
それだけで、背に冷たい汗が溢れる。
「僕は」
勇気を振り絞るように、ノマは語気を強めた。
「僕だって、せめて身近な人だけでも守りたい。その人が悲しまないようにその人の家族を、友達を殺させたくない。広がる悲しみに巻き込まれないように、繋がりある人を殺したくない。だから!」
ノマは、叫んだ。
「傲慢でも何でも、僕はホロビを絶対に出さない!」
一歩足を踏み出したノマを目に、グゼは鼻で笑った。
「一度ホロビとなった者が、何を偉そうにほざくか」
鉈のような指摘に、ノマの脳裏に断続する記憶が吹き抜けた。
地下牢。手錠、足枷、連れられた先の祭壇。呪詛を残して去った
そして、気がつけば、カザラの背中が目の前にあった。
心を引き裂こうとする記憶に、細かく震え出した指先を拳に包み、ノマはつぶやいた。
「せめて身近な人」
「くどい」
「危うく僕は、カザラを殺すところだった」
強烈な恐怖を込めた口に、なぜか、グゼが震えた。
「カザラは言わないけど、解っているんだ」
ユリネが戻った後、彼はこの両手を優しく拭ってくれた。
近くには、
「ホロビは、殺した。僕のこの手は人の命を奪った。彼を殺していてもおかしくなかった。なのにカザラは、それでも僕を守ってくれる」
ノマは、泣いていた。
「ユリネは死なない、あなたがいるから。でもカザラは?
…………きっと殺してしまう。ホロビは……カザラだけじゃない、ルーちゃんや村の皆も。
ホロビは、出さない」
繰り返すその言葉に、ノマは限りない力を込めた。
「大好きな人達、殺させるものか」
両の頬を伝う涙が止まり、その跡を森の深気が乾かしていく。
その姿を、グゼはこれまでにない怒気と敵意をもって睨みつけていた。
「お前は、私の意味を忘れたか」
声を震わせ、グゼは言った。
「殺させるものか。そうだ、その通りだ。
私が、殺させるものか。人間は、私が守ってみせる」
ノマは、決意に固いグゼの言葉に、少しの沈黙を挟んだ。
「…………そうだね。ルーちゃんや村の皆は、あなたは守ってくれる」
「何?」
「でもカザラは…………あなたには守れない」
「何だと!?」
激昂し、グゼは怒鳴った。
「私が
「カザラは、僕がホロビになったら……死ぬ」
死ぬ。
そこに言葉以上の意味を感じ、グゼは刹那にその意味を理解した。
「そうだな……」
怒りを超えて、グゼの胸に哀しみが去来した。
「カザラは死ぬだろうな」
彼は、ホロビが現れてもノマを守ろうとするだろう。その瞬間に、彼の死は定まってしまう。
自分達の戦いは、人の介入できるものではない。そして、いかに自分の力をもってしても、ホロビと戦いながら人を守ることはできても、カザラだけは、守ることはできない。
……できないのだ。
守ろうとすれば、自分が殺られてしまうだろう。そうなればホロビが彼を殺す。自分がホロビを
そして、彼が死ねば、我が宿主も死を選ぶ可能性も生まれてしまう。
(…………いや)
哀しみの中を貫く絶望の未来を、グゼは一転力強く否定した。
思い出したのだ。
(我が胎の内に、切り札があったな)
宿主を殺さぬ手段。あるいは、カザラをも死の選択より引き離す手段。
(まさかこんなことに使えるとは)
ノマが死する悲しみより、二人を守る術はない。だが、人類の存続という大事の前にして、それは仕方のないことだ。
グゼは笑みを刻んで、言った。
「だが、カザラは死なせん」
「え?」
同意をしてから、しばしの時を置いての否定に、ノマは疑問符を打った。
「それは私の存在に関わることだからな。人を守れなくては、『意味』が無いのだよ」
「…………」
ノマは、どこか得意気に言うグゼをしばし見つめた後、言った。
「あなたが守る必要はないよ」
「またも言うか?」
「言うよ。何度でも。僕はホロビを出さない。だから、あなたが守る必要はない」
グゼはため息をついた。長く、長い吐息を。
『無駄なこと』は、やはり無駄でしかなかった。カザラを守る手段を得られたことは予想外に破格の収穫ではあったが、とはいえ、
(不毛な会話ほど、つまらぬことはないな)
一興かとも思っていたが、やはり無駄骨だった。
(しかし)
髪を掻き上げる仕草をしつつ、グゼは改めてノマを見た。
(呼応することも考えられたのだがな)
ホロビの器は、
(憎しみの一つも表れないか)
ホロビの根源である、憎悪。全てを憎み、全てを呪う。いや、憎悪という言葉程度では、奴のそのニクシミを
だが、ノマにあるのは強い意志。それだけがある。それだけしかない。
(…………?)
ふと、グゼは違和感を覚えた。
ノマには、強い意志、それだけがある……
(…………)
それだけしかない。
グゼは、改めてノマを注視した。
「…………」
だが、そのどこにも憎しみの、欠片さえも見てとることはできない。今は引き締まっている柔和な顔立ちも、洗いざらされた麻布の服に包まれた身体にも、どこにも憎悪が、いや敵意や嫌悪すらもが存在しなかった。
(どういうことだ?)
グゼは疑念の下、思わず問うていた。
「お前は、私が憎くないのか?」
「…………憎い?」
「私はお前を殺そうと言うのだぞ」
その問いに、ノマは即答しなかった。答えはすでに持っているのに応えない――そんな顔で、グゼを見つめる。
彼の表情は、グゼに奇妙な戸惑いを与えていた。
「憎いわけ……ないよ」
ややあって、答えを返したノマの言葉に、グゼは目を見張った。戸惑いが、深くなる。ノマの顔、その何とも言えない…………グゼには彼が表す
「あなたは、僕達人間を守ることに必死なんだし……」
グゼは、ノマの言に、彼の表情を作る一つを理解した。そして、衝撃を受ける。
よもや、この男が感謝を表してくるとは……全く予想だにしていなかった。
――「誰も憎んでいない」
昨日、カザラとの会話の中、このノマという人物を示した言葉が思い出される。
(…………一体どういうことだ)
そう、カザラとの会話。
この場に
対峙し、睨み合い、それは身を千切るような圧迫感の中での『戦い』。
(これではまるで……)
グゼはその先に通ずる思考を、慌てて遮断した。
「お前は……」
そして、グゼは心を静めるように、強烈な悪意を込めて言った。
「素晴らしいほどの阿呆だな。自分の命を狙う者に、礼を示すか」
「それは……そうだよ」
なぜかそこで、ノマはため息をついた。
ただの吐息ではない。何か、とてつもなく重いモノが彼の肺から同時に吐き出されているようだった。
「あなたは、僕達人間に裏切られても、守ってくれるのだから」
グゼは初め、その台詞に何の疑いも持たなかった。
僕達・人間、それはノマとカザラのことが言われているのだと、そう聞いていた。
(僕達、人間に?)
だが、ノマの声とその意味に微妙な差異を感じる。脳裏の底から跳ね返ってきた言葉に、どうにも無視し難い違和が胸に芽生える。
グゼはしばし黙考し、その差異が一体何なのかを探った。しかし、判らない。何故、その違和感がこんなにも胸につかえるのかも解らなかった。
「私が……裏切られているだと?」
「?」
しばらくの沈黙の後、投げかけられてきた疑念に、ノマは逆に訊ねた。
「だって、そうじゃないか。あなたは人間に裏切られている」
「どういうことだ」
言下に、再び問われて、ノマは閉口した。
グゼは、本当に何も理解していないようだ。その顔には、話が噛み合わない苛立ちと、こちらの言い分を全く解せない苛立ちが現れている。
しかし、何をグゼは問うているのだろうか。
(自分も殺されているのに……)
ノマはこちらの答えを待っているグゼを見つめつつ、胸中でつぶやいた。
(それでも、裏切られていないと思ってるのかな……)
グゼほどの、人間への愛を持つ者ならばそれもありうるかもしれない。ノマはグゼの、ユリネの顔を見ながら思った。ユリネが、裏切られても笑っていられる心を持つ人だから、グゼもそうであっておかしくはないだろう。
「あなたは」
と、ノマは胸中のつぶやきを今度は声に出そうとして、ふと唐突に閃いた答えに息を止めた。同時に、言葉も止まる。
その彼の様子を見とめたグゼは眉間に皺を寄せた。
「私は、何だ?」
問うてくるグゼに、ノマはうろたえた声音で、さらに問い返した。
「まさかあなたは…………知らない?」
「気になることがあるんだけど」
池に急ぐ足を緩めることなく、ルシュは息を弾ませながら、少し前を行くカザラに声をかけた。
「なんだ」
心
「カザラ、一体どうする気なの?」
眼のみならず、頬唇全身に表れる
「説得するさ」
「…………」
「転んでも置いていくぞ」
「え?」
カザラを凝視していて、前方への注意が
「……でも、本当に説得だけ?」
「死にゃしねぇよ」
睨むようなルシュの眼差しに一瞥を返して、カザラは断言した。
「あいつらを不幸にするようなこと、しないさ」
「…………」
ルシュは視線をまた前へ戻し、言った。
「グゼが譲ってくれるとは、思えないけど……」
「そうでもない」
「…………自信たっぷりだね」
「まぁな」
「…………」
口数少なく応えてくる彼に、ルシュは少し黙してから再び問うた。
「なんで?」
その一言に含まれている複数の問いかけに、カザラは間を置いた。そして、彼女が最も聞きたいのであろう言葉を口にする。
「おそらく……いや、あいつは知らない」
「知らない? 何を?」
「真実を」
「……………………え?」
カザラの答えを理解しかね、納得するまで時間を要したルシュの驚愕が弾けた。
「グゼが、真実を知らないってどういうこと? だって、一番の当事者なんだよ!?」
「一番の当事者が知らないからややこしいことになっているんだ」
「分かるように言ってよ」
カザラは進行上にある木をルシュと分かれて避け、また彼女と合流した所で、
「知っていたら、終わっている」
「あ」
彼の一言に、彼女はうめいた。
確かに、カザラの言う通りだ。もしグゼがカザラの言う真実を知っているのなら、次の転生時には末裔達の妨害を回避するだろう。グゼには、その力は十二分にあるのだから。
それなのに、戦いは今も続いている。
「で……でも、どうして?」
「さぁな。古代に、末裔の祖先がグゼに妙な術でも仕掛けたんじゃねぇか?」
「そんなこと……できるの? 人間が、魔法みたいなこと」
「本当に魔法でも使ったんだろ」
「でも魔法なんて」
混乱でもし始めたか、妙に早口になるルシュをカザラはため息で制した。
「グゼやらホロビやらの存在自体が魔法みたいなもんだろう?」
「…………」
カザラは黙すルシュを横目でながめ、
「安心していてくれよ。あんたが気づかせてくれたことを、無駄にはしねぇさ」
「わたしが?」
「ああ」
こちらを見つめてきた少女に確かなうなずきを見せて、カザラは足を速めた。
その様子にルシュが前方に目を戻すと、その瞳に、幹間を縫って池の辺で対峙する二つの影が飛び込んできた――