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 天地無く、前後左右方向というものすら存在しない純白な世界に、グゼは独り漂っていた。
 肉体を綿のごときぬるま湯に沈めているような触感の中、魂と神経には一毛の隔たりもなく、あらゆる感覚が鋭くえ渡っている。それは全てを掌握するほどに。髪の先から爪の先、心臓の脈動から筋細胞一つの伸縮、そして世界を満たす精神の果てまでもが、手に取るまでも無く知覚できるほどに。
(…………)
 なのに、
宿主おまえの体は、全て我がものだというのに)
 グゼは何もないしんの内から一ヶ所だけ、どうあっても消え去ろうとしないひび割れたにごりに、労りと慈しみを向けていた。
(まったく、何を手掛かりにそこにしがみつくのか)
 にごり、それは宿主の残片。
 『力』の覚醒をより強靭にする傍らで、取り去ろうかと時折手を出していたのだが、それは譲歩の気配すら欠片とて見せない。
(大したものだよ)
 グゼはにごりから意識を外し、無限に広がるくうしんを溶いた。肉体にある魂と身体に納まりきらぬ魂の境が、消えたそらへ。
 光だけがここにある。闇など影すらもない。眩しく心地良い世界を縦横無尽に飛び回り、そして光を成す粒ほどに集中する。痺れを伴う波に紛れて、鼓動する海にしんを広げる。
 ――――と、グゼはそらほどに開放されたしんの内に、小さな違和感を覚えた。にごりとは違う。うつつの『結界』に、不審な動きが感じられる。
「…………」
 グゼはゆっくりと、双眸を開いた。瞳に本物の光が染み込み、耳に大気の擦れる音が届いてくる。
 そして、木々の隙間を縫った先に――
「…………」
 グゼは木に寄り掛けていた体を起こし、組んでいた腕を解いた。
「どうしたことかな?」
 『見張っていた』家の裏手から、林の中へと向かう男がいる。麻布の上下という全くの普段着で、手には何も携えていない。
はたに出るわけではない、な」
 どこか力強い歩調で何処いずこへ向かう男を追って、グゼは足を踏み出した。同時に、ひっそりと物音一つしない家を一瞥する。
(……真に、どうしたことか)
 カザラがノマについていないことに疑念を抱く。
 はまだ現れていない。殺されたというわけではないはずだが……。
(まぁ、いい)
 それよりも、ホロビの器の目的が気にかかる。
 グゼはノマの様子を伺える距離を保ちつつ、静かに追跡を開始した。

「――寝過ぎちまったな」
 カザラが目を覚ましたのは、陽が完全に昇りきった後だった。頭を掻きながら、足にまとわる寝袋を払いのける。
「もう起きてるよな。そりゃあ……」
 彼は立ち上がりながらベッドが空いているのを目にし、欠伸あくびをかきながら廊下に出た。
 普段なら、もうみな畑に出ている時間だろう。幾ら状況が変化した所で、体に染みついた習慣は抜けるものではない。ノマは……随分前に目を覚ましたようだ。朝食の香りが廊下に漂っている。
(声がないってことは)
 カザラは、廊下の突き当りの側面にある扉を見た。客間、今はルシュが眠っているはずだ。昨夜の夜更しが効いたのだろう。
(…………今日、学校はどうなんだ?)
 カザラは、まぁノマに確認すればいいかとリビングに入った。
 そこには穏やかな光が満ちていた。窓から差し込む帯光が、調度品・家具らの配置を、まるで計算され尽くされた美と演出している。絵画の一場面、そんな印象がカザラの胸に浮かんだ。
 それと同時だった。
「――    」
 カザラは、額の奥に寒風が吹き込むのを感じた。
 絵画の一場面、動くものは、一つとてない。きちんと整列する物々の中のどこにも、ノマはいなかった。
 気づきに、頭の中の冷気が荒んでいく。
 ノマの気配が、どこにもない。テーブルの上にはすでに朝食が並び、台所からは物音の一つすらせず、薪を割る音もない。
 カザラは極度に不安を覚えながら、大股で勝手口に向かった。
 きっと、ノマは薪小屋で何かしているのだと、切に願うカザラの足が速まる。だが、薪小屋にも彼はいなかった。
 カザラは慌ててリビングに戻り、テーブルの上に並べられている食事を改めて見た。
「…………」
 案の定、というよりも、あってほしくはなかったが……食器は、四人分あった。
「ノマ」
 彼は、独りでユリネを連れ戻す気なのだ。
 舌を打ち、カザラは客間に走った。
 なぜ、こんな簡単なことを警戒していなかった――失態を責める声が脳裡に反響し、胸を凍らせる。『真実』を知った今、ノマがこう出ることは考えられたはずだ。彼が眼前に立ちはだかる運命に対して、もう傍観者であることを受け入れないことなど。
 カザラは客間に着くと扉を乱暴に押し開け、自分の荷が詰めてある葛籠つづらへと真っ直ぐに向かった。
「……ん……」
 ベッドから、眠気を纏う気だるげな息がこぼれた。
 だがカザラはそれに一つも構うことなく、わずらわしそうに荒く葛籠の蓋を取り払った。
「カ、カザラ!?」
 ルシュの悲鳴じみた声に、彼は初めてそちらに目を向けた。
 ベッドの上に、毛布を胸元に引き上げている少女がいる。その表情は驚愕と恥じらいと、少しの怒りを刻み、目は丸々と開かれていた。
 それを一瞥しただけで、カザラはを葛籠の中に戻した。
 その、女性ひとが眠る部屋に無断で入ってきた上の無礼な態度に、ルシュは
「何なのよ一体! いきなり入ってきて!」
「ノマがいなくなった」
 葛籠の中から必要なものを取り出しながら、カザラは早口で伝えた。論争している暇はない。朝食を作ってから彼は出たのだ。まだ、まだ間に合う。
「ノマさんがいなくなった?」
 ルシュは、こちらを完全に無視しているカザラを見つめたまま、喘ぐように彼の言葉を繰り返した。
 寝起きに鈍る思考に、ぐにゃりとした悪寒が入り込んでくる。
 カザラが口にし、そして今自分も口にしたその言葉の、考えるまでもないその意味が理解できない。
「どういうこと?」
 限りなく力の抜けた声が唇を割り、その自分の声でルシュは我に返った。どういうことなどと、分かりきったことに戸惑う自分が愚かしい。
「本当にいないの?」
 ルシュはベッドから下りて、カザラに歩み寄った。
「薪小屋は? 裏の井戸は?」
 彼は答えない。ただ黙々と葛籠の中を探り、その奥底から鎖帷子くさりかたびらを取り出すと、傍らに並べていた品々の最後に置いた。
(…………これって……)
 ルシュはカザラが並べた物に初めて気づき、怯えた。
「畑は? 畑に行っただけかもしれないじゃない!」
 そこに並べられているのは装備品であった。ナイフ、鞘、そして鎖帷子。どう見ても、戦うための道具だ。
「ねぇ! カザラ!」
 彼がそれを必要とする理由は一つしかない。ルシュは彼の肩に手をかけ、叫んでいた。
「ノマさんがそんなこと――」
「ノマだから、することだろう」
 慌てふためく少女に対し、ノマの親友は冷静に告げた。肩にかかるルシュの手を外し、口をつぐみ青くなった彼女に初めてまともに目を向ける。
「解るはずだ」
「…………」
 カザラはルシュから視線を装備に戻した。鎖帷子に重ねた黒い長袖を引き寄せ、上着を脱ぎ捨てる。
 ルシュの目に、鍛えられた男の体と、無数の傷痕が飛び込んできた。
「あ……」
 彼の過去を聞いた今、それがどんな傷なのか即座に理解できる。本当に、彼は傷つき苦しんできたのだ。
「…………」
 ルシュは意を決し、踵を返して自分の荷へと足を向けた。手を胸元に、寝巻きの襟をとめる紐をほどきながら。
 衣擦れの音を聞きとめ、カザラはまさかと背後に振り返った。
「……おい」
「わたしも行く」
 声をかけると同時に振り向いて言ってきたルシュは、下着姿の体を隠しもせずに続けた。
「まさか置いてくなんて言わないわよね」
「どうせ、ついてくるんだろう」
 ルシュの心力に諦めを返し、カザラは目を手元に移した。
(まったく……)
 体のそれは未成熟だというのに、精神のそれは少女のものではない。カザラは苦く片笑みながら、鎖帷子を手に取った。
「それ、もしかしてこのことのために持ってきたの?」
 と、ルシュに問われ、カザラは鎖帷子を着込もうとしていた腕を止めた。
「取り越し苦労って言ってたけど……予想してたの?」
「…………」
「こういうこと、起きるって」
「…………予感とか、不安とか、その程度だがな」
 肯定の言と共に、カザラは鎖帷子を床に投げ捨てた。ドザリと重い音を立てて落ちたくろがね色の塊が、まるで瘡蓋かさぶたに見えて、彼は小さなため息をついた。
「どうしたの?」
「だが、俺が考えていた事とは、随分状況が変わった」
 鎖帷子は、防具ではない。確かに本来は身を守るためのものだが、自分達にとってこの防具は、自らの体を貫かせてホロビを捕まえるという手段の補助でしかなかった。ナイフも武器ではない。それはホロビの気をこちらに向けさせるためだけの小道具だ。
 だが、もう、要らない。必要ない。
「さぁ、早く着替えろ。それともそのまま行くのか?」
 上着を着直して目を向けてきたカザラに言われ、ルシュははっと気がつき慌てて服を着込むと、羞恥と非難の目つきで彼を睨みつけた。
「準備できた。行こう」

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