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 鎮まらない耳鳴りのように、カザラの声が鼓膜の奥に反響し続けている。
 ルシュはもう十何度目かの寝返りをうち、ため息をついた。
 眠れない。目を開けば脳裏に、閉じれば瞼の裏に三人の、そして『話』をより強く描いた想像が、不規則に止めなく流れる。思考は快活に醒め、一向に睡魔の到来を許さなかった。
「…………」
 もう一度寝返りをうち、ルシュはたまらず体を起こした。
「…………う〜」
 うめき、頭を掻く。
 眠れるわけがない。今日、カザラから聞いたこと全ては、自分の人生の中で何よりも衝撃的なものだった。
 ルシュは足にかかる毛布を脇にのけ、ベッドの外に両足を投げ出した。両の踵を床につき、ぼんやりと前方を見つめる。
 今夜は月も星も雲に隠れている。外からの弱々しい光もない部屋は、彼女の瞳にその姿の欠片さえも見せないでいた。
 それは何も、特別なことではない。この客間で完全な闇に包まれるのは、そう珍しいことではないのだ。
 これは、そう、全く珍しいことではない。
 だが、ルシュは唐突に、この見慣れた闇の中に未知なる生物が蠢いている気がして、ぞっと首筋を波立たせた。
 慌ててベッド脇の小卓に手を伸ばし、勝手知ったる通りに、そこに置いてあるマッチ箱を掴んだ。そして、中から取り出した二本を同時に箱に擦りつける。
 シュッと気味のいい音を引き連れて、マッチの頭に丸い火玉が灯った。リンの焼ける臭いが鼻を突く。小さな炎の色に、部屋が照らし出される。そのどこにも、自分以外の誰もいないことを確認して、ルシュはほっと安堵の吐息をついた。
 と、火の足が指に近づいて来ているのに気づいて、彼女は小卓の上にある手燭の蝋燭に灯りを移し、マッチの炎を振り消した。
「…………」
 ルシュは手燭を膝の上に置き、揺らめく涙形の炎をしばしながめた。
 普段何も感動を得ることのない火というものに、これほど安心を与えられるとは……。思ってもみなかった感慨に、身を打たれる。
 やがて彼女は緩慢な動きで立ち上がり、今一度、部屋の全貌を見回した。広さ、床、コート掛けにベッドと小卓。客間としては十分だが閑散としたその間取りに物足りなさを感じ、ルシュが持ち込んだ薄黄色のカーテンはきちんと二つの窓を覆い隠し、エリオールに描いてもらった風景画も壁に掛かっている。
 だが、一つだけ、いつもはここにない物が、部屋の片隅にぽつんと鎮座している。
 カザラの荷が入れてある、葛籠つづらだ。
 少し背の高い長方形のそれが、手燭の光に照らし染められて、やけに少女の目を引きつけた。
 いきなり泊りに来たルシュの寝所を作るために、カザラは寝室に移動した。その際に、置き放しにしていったのだ。
「…………この辺、気が利かないわよね」
 思い出し、ボソリとつぶやく。
 ベッドのシーツも毛布もカザラが使ったままのものだった。取り立てて騒いで取り換えてもらうことでもないかと……疲れた様子で寝室に入っていったノマのことも思ってそのまま使っていたのだが……。
「頭から離れるはずもないわ」
 カザラの気配というか、臭いというか。そういうものが、部屋に残っている。
 それはこの部屋に入った時、ほとんど自分の別室と化していたここを、他人に使われたことに覚えた嫉妬心と共に頭から追い出しておいたはずだったが、どうやらまだ、知らない所でこだわっているらしい。
 初めから忘れられようもない話にこれが加われば、なるほど眠りの世界に爪先すら触れられないだろう。
 ルシュは嘆息し、とりあえず水でも飲んで落ち着こうと、手燭を片手に扉に向かい、ふいにカザラの葛籠から、彼が殺した人間の亡霊が出てくるような気がして慌てて廊下へと飛び出した。
 部屋の中を見ないよう後ろ手で、急いでしかし静かに扉を閉め、ふとルシュは気づいた。
 少し先の、廊下とリビングをつなぐ出入口から、淡い光が漏れ出ている。
(……………………)
 ルシュは、その明かりに吸い込まれるように足を進めた。足音を立てないように、出入口の脇まで歩き、そっと中を覗き見る。
 リビングには、カザラがいた。テーブルの上の蝋燭にだけ火を残し崩れた姿勢で椅子に座っている。目は伏せられ、少し疲れを見せる表情。左目の黒い眼帯が髑髏されこうべの眼穴のようだ。
 それは、ルシュにとって、彼女が思うカザラからは想像できない姿だった。
 卓上には、ライベル夫妻が来客用にしまっていたウィスキーの瓶がある。傍らのグラスでは、その半ばにまで注がれた明褐色の液体が、火を照り返していた。
 と、カザラが顔を上げた。
「ぁ」
 彼と目が合ってルシュは小さくうめいた。
「眠れないのか?」
「…………」
 カザラは唐突に現れた少女の存在に、そこにいたことを知っていたかのように、微塵も動揺していない。
 ルシュは居心地悪い顔でリビングに入った。
「カザラは?」
「眠れなくてね」
 素っ気なく答えて、カザラはグラスを手に取った。
「ふぅん」
 ウィスキーを軽く飲む彼に生返事をし、ルシュは台所に向かった。そして、棚からコップを取り、水瓶から水を汲んでリビングに戻る。
「…………」
 彼女はそのまま部屋に戻ろうと思っていた。しかし、何となく今すぐ戻ることに不安を覚え、爪先の向きを変えた。妙な事だが、自分にこの怯えをもたらした人物を前にする方が、不確かな恐怖よりもずっと安心できる。
 ルシュはカザラの向かいに座り手燭をテーブルに置いた。コップを両手に、水を半分ほど飲み、ほぉっと息を吐く。
 カザラは少女の様子を、少し微笑んでいるような目で観ながら、グラスを口に運んだ。
「強いのね」
「ん?」
 突然の言葉に、カザラがきょとんとする。
「お酒」
 こんな時だ。彼自身けして酔わぬ量を定めているのだろうが、彼に酔いの様子は全くない。
「ああ」
 合点がいき、カザラはグラスをトンとテーブルに置いた。
親方おやかたによくつき合わされているうちに、な」
「親方さんも強いんだ」
「強いってより、バケモノだな。六十過ぎてるってのにあのクソジジイ、本当にザルだしよ」
「六十?」
 ルシュは目を丸くした。
「すごいおじいさんじゃない」
 村で六十と言えば、まさに長老だ。
「そのはずなんだがな」
 苦笑するカザラ。ルシュは感嘆と共に、言った。
「……わたし、親方さんに会ってみたいわ」
「会って得することはないぞ」
「だって、カザラがそんな風に言うおじいさん、会ってみたいわよ」
「そうかい」
 苦笑を深め、カザラはウィスキーを口に含んだ。
 会話が切れ、沈黙が降りる。
「何で、灯り一つしか点けてないの?」
「…………明るい方が好きか?」
 問い返され、彼女は一瞬、言葉につまった。
「好きと言えば、好きかな」
「俺は薄暗い方が落ち着く。闇と、小さな光の方が」
 カザラはグラスを揺らして見せた。燭台と手燭の二つの光点が、グラスと褐色の酒の中で不思議な光彩を作り上げる。
「明るいのが、嫌いなの?」
「明るい方が嫌いってわけじゃない。ただ……好きなんだよ。闇の中で輝く小さな火っていうのが」
「…………」
 ルシュはカザラの穏やかな顔をしばし見つめ、やおら手燭の炎を吹き消した。
 彼の右目が、ルシュを見る。彼女はにこりと微笑みを返した。
 そして、また少しの沈黙。
「ノマさんは?」
「眠ってるよ」
「そう」
 三度の沈黙が、即座にやって来た。
 ルシュはコップを両手に握り締め、どこか所在なげに、ちらちらとカザラの様子を窺っている。彼は、グラスを何口かに分けて空にしていった。
「あ、いであげる」
 カザラが瓶に手を伸ばそうとした所で、ルシュは身を乗り出した。奪い取るように酒瓶を掴み、
「可愛い娘にお酌してもらった方がいいでしょ?」
 片目をつむり、冗談めかした口調にカザラは片笑いを返した。
 なみなみと酒がそそがれていくのをながめ、ルシュが椅子に座り直すのを待つ。
「どうぞ、お客様」
「そりゃこっちの言葉だ」
 と、カザラはグラスを差し出すルシュに、言った。
「何か言いたいことがあるなら言え」
 それは、ルシュの不自然さに引き出された言葉だった。
 ルシュにしてみれば、単に不安や恐怖を紛らわせるためにこの場にカザラといるわけであり、会話は彼をできるだけ引き止めておきたいという気持ちからのものだったのだが……しかし、そう応えるのは気恥ずかしい。
 彼女は、しばしコップの中の水に目を落した。そして、都合の合う話題を思い付き、サッと顔を上げる。
「カザラ先生と、お話ししようと思って」
 間を置いてのルシュの台詞に、カザラは思わず口端を引き上げた。
「どうぞ。ルシュ・アカニネ君」
 そう促されたものの、もともと彼と話をすることすら考えていなかったのだ。ルシュは、すぐに自分から言い出した話題に言葉を乗せることができなかった。とはいえ、気にかかっていることがないわけではない。まあ、話している内に、的を射る流れへ持っていけるだろう。
「…………半分は、本当だったのね。駆け落ちの話。
 そりゃ、グゼとホロビって、そんな関係ならつき合うことも許されないわ」
「あいつらが好き合ってることすら、隠し通していたよ。バレたら厄介なことになるのは目に見えてたからな」
「そのころから嘘ばっかりついてたんだ」
「……少し違うかな」
「え?」
「嘘を本当にしていたんだ」
 ルシュの顔に大きな疑問が浮くのを見て、カザラは微笑した。
「俺は熱心な『グゼ様』の信者、そして仕官様方に忠実に仕える犬だった」
「…………辛かった?」
「まさか。それは俺の計画の要だ。嬉々としてやってたよ」
「嘘つき」
 言下に言われてカザラは面食らった。完全に虚を突かれ、返す言葉が封じ込められる。
 ルシュはこちらを凝視するカザラの視線から逃れるように、彼の胸元に目を落した。そして、ふと湧いた想いを唇からこぼす。
「本当に、嘘つき」
 少し口を尖らせた彼女の表情には、寂しさがのぞいていた。
「カザラ、わたしは何も知らないから何もできない……そんなこと言ってたわよね」
「…………ああ」
 ルシュの眉間に、朧に影が落ちる。
「…………知ったって…………何も、できないよ」
「そうだろうな」
 そんなことは分かっていた。あの言葉は、ルシュを遠ざけるための壁として使っていたのだから。
「でも」
「ん?」
「楽には、させてあげられたかな」
 慈しみに彩られた眼に、カザラは目頭を緩めた。
「ああ」
 ノマが彼女に打ち明けることを選んだのは、別に何かを彼女にしてもらいたいからではなく、ただ彼女に隠し立てをし、騙し続けることが我慢できなくなったからだ。その重しがとれた彼は、幾分すっきりとした顔をしていた。
 同時に、
――「ずっと気がかりだったんだ。カザラが、何か隠しているのは知っていたから」
 床につく前、言っていたノマの顔を思い出す。あんなにも苦痛に満ちた真実を肩に乗せたというのに、喜んでいた
「……わたし、カザラのこと言ってるのよ?」
「あ?」
 唐突に、意外なことを言われて、カザラはうめいた。
「どういうことだ?」
「だって、カザラ、ノマさんも知らないこと、驚くようなこと、……嫌なこと、一杯一人で背負っていたんだもの。辛かったと思うな。
 だから今日さ、吐き出せて、すっきりしたんじゃない? 苦しいことを、他の人にも肩を貸してもらって、楽になったでしょう?」
「…………」
 カザラはルシュからを逸らし、酒で唇を濡らした。
「俺のことは、どうでもいいだろう」
「よくないわよ」
「なぜだ?」
 即座の問いにルシュは言葉に詰まった。カザラはそれを一瞥して、一つ吐息を漏らす。
「『辛い過去』を持っていることに同情するなら、あいつらだけにしてくれ」
「そんな言い方、ないじゃない」
 むっとして、ルシュは文句を返した。
「カザラだって、犠牲者なんだから……」
「同時に咎人だ」
 カザラは、右手を上げて炎に照らしてみせた。
「この手で、何人も殺した」
 その言葉に、ビクリと、ルシュはほんのわずかだが、身を引いた。そして、その表情に悔いを表す。今のをカザラに気取られぬはずがない。案の定、彼は同意を得た表情を浮かべた。
「でも……それは、仕方なくでしょ」
 苦しまぎれと分かっていても、ルシュは彼に言った。
「ノマさんと、ユリネさんを助けるために」
「あいつらを助けたことは、人を殺したことの理由じゃない」
「…………」
 口をもごつかせるルシュに、カザラはため息をついた。
「復讐したって言ったろ?」
「……うん」
「どういう意味だと思う?」
 言って、彼女が視線を落したのを見、彼は続ける。
「そう。殺したんだ。末裔だけを、じゃない」
 一瞬、取り逃した長老達を殺した者は、自分ではなかったことが脳裏をよぎった。
「村を滅ぼすために、俺は火を放った。中には逃げ遅れた者もいる。目の前で倒れた家屋に押し潰された知り合いもいた。
 分かるだろ? 俺も結局、末裔共と同じなんだよ。目的を果たすために、何も罪のない人達を巻き込み、傷つけ殺した。
 その時だけじゃない。禁を犯した村人を、『外は魔の世界』と信じ込ませるために村人を、立場を固め末裔共に取り入るために、自ら進んで殺してきた。利用するために、殺したんだ」
 と、そこでカザラはルシュが泣き出しそうな顔をしていることに気づき、はっとして内心に舌を打った。特に声を荒げたつもりはないのだが……
「責めるつもりで、言ってるわけじゃないんだ」
 ばつが悪そうに頭を掻き、そしてしばしの間を置いて、ルシュが顔を上げるのを待つ。
「……俺に同情をして欲しくないんだ。本当なら絞首台に上がる人間が、のうのうと生きている。せめて罪を感じ続けなけりゃ、俺のケジメがつかないんだよ」
 ルシュはカザラと目を合わすことができなかった。彼の、最も触れられたくない所に触れた気がして、気持ちが悪い。そして、彼にかける言葉も見つからない。
 なんとかこの状況を変えようと、彼女は必死に頭を回転させ――ふと、気づいた。
「…………ノマさん達は、どれぐらい知ってたの?」
「村が仕官共の策略で閉じ込められていることぐらいか。自分達の教えを固持するために外界を断ち、その上『グゼとホロビの戦い』の再降臨に浮かれている。そう話していた」
 このままじゃいけない、このままじゃお前達が結ばれるのは無理だから逃げ出そうと、二人を必死に説得していた自分を思い出し、カザラは胸中に苦笑いをこぼした。
 よくもそれだけの理由で、あの自分より他人のことを思い過ぎるノマとユリネを納得させられたものだ。結局、彼等にエゴを押し通すように働きかけて説得したのだが……今思えば、ある程度は知らせていた方が、彼等の罪の意識を軽くできていたと思う。
(きっと……俺より『罪』を感じていたろうな)
 今さらに気づいた失敗は、新しい後悔となって彼の心にのしかかっていた。
「そっか……」
 と、ルシュが納得顔でうなずいた。
「カザラがノマさんに、自分が話すって言ったのは、ノマさんが話してたらきっと自分のことを悪人にしちゃうからね?」
 カザラはその解答に、視線をルシュの背後へと移した。
「そうならないように、カザラは話したんだ」
「ああ」
 カザラの肯定に、ルシュはじっと彼を見つめた。
 彼は、末裔と自分に悪を置くことで、自分と行動を共にした『二人の罪』を、親友と少女の目から隠したのだ。
 と、そのことを確かめようとルシュが口を開きかけた時、
「どうやら、もう、完全に信じているみたいだな」
 ルシュは言葉を飲み込んだ。今さらながらそのことを蒸し返されたのに、大きな戸惑いを覚える。なぜ、彼はいきなりその話題を取り上げてきたのか……。
 おそらく、こちらが言わんとしたことを察し、それを嫌って会話を切ってきたのだろう。
 彼の痛点を突いたという負い目を感じていたルシュは、その質問を受けることにした。はじめは何の疑問もなく。だが、心に残ったかすかなひっかかりに、言わんとしていた事がもう一度彼女の脳を一巡した時、
(――――あれ?)
 ルシュは、心の中がささくれ立つのを強く感じた。
 なぜ、彼はこの事を嫌ったのか
 あるいは、先ほどのとが穿うがった言葉ほどのものを自分が言おうとしていたとでもいうのだろうか。ただ、彼がノマのためを思っているということを訊ねようとしていただけの自分が――
 何かがひっかかる。嘘つきな彼が隠している真実がそこにあるようにすら思える。
「……………………そりゃあね。信じたくないことばかりだけど」
「そうか」
「そうよ」
 ばたりと会話が途切れ、ルシュは水を、カザラは酒を同時に口にした。それが妙に滑稽に感じ、少し笑いを浮かべ合う。
 ルシュは、ふいに、カザラの中に憧れの二人と同じにおいを感じ取っていた。――始めは、カザラと二人の間には、同じモノが何一つ見えなかったのに。
(羨ましいな)
 彼女は思った。
(こんなに大事にされて)
 彼のような親友を持つノマとユリネが、本当に羨ましい。
(だけど、苦しいだろうな……)
 大切に思われているが故に。
「そういやぁ」
 と、カザラが言ってきた。
「俺もルシュに聞きたいことがあったな」

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