3−g へ

 勝者が決まり、全ての戦いが終わっても、試合場内に人は押し寄せない。近寄りがたい神秘性がそこには存在していた。――いや、『奇跡』の攻防の直後である。青い光によって他と隔てられた試合場は間違いなく聖域であり、外からは声と拍手という音だけが内に入ることを許されていた。
 そして、ホールに反響する大歓声の中、ティディアは剣を収めると冑を脱ぎ、脱いだ冑を小脇に抱えると踵を返し、勝者の誉れに胸を張り、凛々しく壇上へ向けて足を踏み出した。清々しい笑みを浮かべ、観客達の声援に手を振って応える彼女の額には大粒の汗が浮かんでいる。勝利を収め、拳を握り、勝ち鬨の声を上げるのではなくその喜びを噛み締めていた時に一気に噴き出してきたのだ。額から頬へ、頬から顎へと伝い落ちる汗は、蠱惑の称号を戴く美女にまた、得も言われぬ新たな美を与えていた。
 ロディアーナ朝最初で最後の内乱を治めた五代女王――『覇王姫』のイメージは、今や皆の脳裏から消し去られていた。伝説の『覇王姫』の鎧は過去の王女のために存在した物ではなく、この会場にいる者にとっては、その美しい鎧は現代の王女のためにこそ存在する物であると上書きされていた。余興の演出として用意された模倣、それが少なくとも今この時だけは“本物”と化していたのである。
 ティディアに、心からの声がかけられる。
 賞賛が、そしてその裏には、彼女の『恋人への想いの深さ』への礼賛もが。
 一方、ニトロは試合場のちょうど中心で力なく佇んでいた。何の因果か、終わってみれば決闘の始まりの位置に戻っていた。だが、そんな因果はどうでもいい。
(負けた……)
 千載一遇の好機が、手からこぼれ落ちた。
 自分にも歓声が、喝采が、賞賛が投げかけられている。いつしか流れ落ちてきた汗が目に入る。しかし、ニトロは何も気にならない。彼は壇上へ向かうティディアの背中以外、何も心に入れることができないでいた。
 去っていく。
 千載一遇の、最大の、奇跡にも勝る絶好機が。
 いや、もう去ったのだ。
 勝ち取れなかった。その事実は認めねばならない。そして賭けに負けた以上、この後にどんな『無茶振り』が待っていようと……正々堂々勝たれた以上は……受けなくてはならない。その事実も彼の心から力を奪っていた。
 何が何だか、色々折られた気分であった。
 ここまで彼女に『負けた』と思わされたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
 戦っている時、あいつにも強固な意志があった。クレイジー・プリンセスとしてふざけている時には決して見られない、いや、希代の王女として大衆に向けて真剣に演説している時にも見られないほどの勝利への意志があった。それが自分への『愛』のためかと思えば――その深さにも打たれてしまう。認めたくはないが……しかし、全て終わった時、噴き出した汗と入れ替わるように、ニトロには一つの理解が浸透していたのである。
 ティディアは、勝利を噛み締めた後、ほんの一瞬だけ、こちらに慈愛の眼差しを向けていた。
 彼女の底深い黒曜石の瞳は言っていた――「これで大丈夫よ」と。
 一体何が大丈夫だというのか……それを理解することは、ニトロには容易かった。
 ティディアは全力で、何かを願おうとする『ニトロ・ポルカト』を受けて立ち、撃退した。となれば“勝ち取れなかったニトロ・ポルカト”は彼女に願うことはできない。それはすなわち、例えもしそれが『プロポーズ』であったとしても、いかな『ニトロ・ポルカト』でも彼女に願いを聞き届けさせるのは容易ではないという証明となるのではないか?
 しかも、ちょうど『ニトロ・ポルカトのお願いならティディア姫は簡単に言うことを聞くだろう』という思惑が透けて見えた直後でもある。きっとこの『余興』で彼女が身をもって明示したことは、この場にいる有力者のネットワークにこそ深く浸透するはずだ。
 と、いうことは、ティディアは――東大陸の“関係者”の言葉は偶然にしても――初めからこのためにこの『余興』を設けたのか。
 無論、これにはこちらが参加しないという事態や、あるいはどちらかが先に敗退するという不測の事態も考えられただろう。他にもリスクはあったはずだ。が、それらを考慮しても賭ける価値があると考え、あいつは、勝ったのだ。あらゆる全てに勝ち切ったのだ。
「……」
 ニトロは打ちひしがれていた。
 脳裏にはシゼモの一件が蘇っていた。そう、あの日も、ティディアは大馬鹿な『裏切り』をしでかしてくれる前には、こんな風に俺のためを考えてくれていた。
 ……あの時から、ティディアには、確かに愛があったのだ。
 愛が。
(……負けた)
 我知らず、ニトロはうつむいていた。
「胸を張りなさい、ニトロ君」
 その声に、ニトロははっと我に返った。
 気がつけば、空の鞘を手にしたハラキリがすぐ側にやってきていた。
 ティディアは立ち止まって、肩越しにこちらに振り向いている。
 観客は未だ試合場には入ってこない。王女と『英雄』の二人だけの戦場は未だ青い光線枠に囲まれてもいる。それも手伝い、王女と『英雄』の作る聖域だとか神秘性だとか、そういったことを全く気にしないハラキリ以外は入って来られないでいる。
 ……いや、違った。
 むしろハラキリが入ってきたために――ニトロ・ポルカトの親友にして、王女の胸の内をも代弁した彼であるからこそこの聖域に入ることが皆に許されていたのであり、また彼を『特別だ』と皆が認識した故に、それ以外の人間達は自分自身をこの場における明らかな“異物”であるとより強く認識してしまって余計に入ってこられないでいるのだ。口々に王女と『英雄』の決闘への感想を語り合うざわめきを作る一方で、彼ら彼女らの意識は、意識だけでもせめてとばかりに内に向けられて、少年二人が何を語り合うのかと耳がそばだてられている。
 その中で、ニトロに見つめられるハラキリはいつも通りの飄々とした顔をしている。
「君は立派でしたよ。『師匠』として実に鼻が高い」
 そして不器用に、ハラキリはウィンクをしてみせる。
 ニトロは思わず吹き出した。
 ハラキリのウィンクとは貴重なものを見られた。しかも下手だ。物凄く下手だ。
 ニトロはそのまま笑いたい気持ちにもなったが、しかし目を落とし、
「……知ってたのか?」
 ニトロは、ハラキリから鞘を受け取り、剣を収めながらそれだけ小さく聞いた。
 ティディアの目的が解った今にして改めてハラキリの突然の参戦を思えば、それはやはり芍薬が依頼してくれたのではなく、ティディアの意図に沿ったもののように思える。ただ、それでも疑問として残るのは、親友とあいつの間には『作為』で結ばれた様子は感じ取れなかったことだ。それを感じ取れなかったのは何故だろう? 巧みに隠されたのだろうか。それならいいが、しかしニトロが何より不安に思うのは、その“気づかなかった”という事実が、もしや自分がティディアに対して何らかの心情的な『隙』を生んでしまっているためではないかということだった。
 ハラキリは微笑を浮かべ、口を動かさず、ニトロにだけ聞こえる声で言った。
知りませんでした
 その偽りない答えに、ニトロは安堵する。ハラキリは続けた。
「“拙者”は妹君から姉へのプレゼントです。そして拙者も、結果はどうあれ『一対一』で終えるのが最善と判断したまでです」
 ニトロは目を見開いた。
「ミリュウの?」
 思わず大声を上げそうになったのを懸命に囁きにまで落とし込んで言った直後、ニトロはワインリストを見ながら何やら熱心に給仕アンドロイドと話し込んでいたハラキリの姿を思い出し、そこで妙に納得するや、小首を傾げて苦笑した。
「今度からはそっちにも気をつけないと駄目かな」
「気をつけないと、と言っても、相手は姉への『愛』ですよ?」
「愛?」
「ええ、愛です」
「そりゃ……強敵だ」
「とはいえ“お姉様一辺倒”ではなく、同時に君への思い遣りにもなりましょうがね」
「ん?」
「彼女は君の勝利の場合であっても受け入れると言っていました」
 ニトロは目を丸くする。ハラキリはその驚きは当然だとばかりに微笑み、
「加えて拙者の言葉で語るなら、例えば君が公爵閣下に負けて、その後お姫さんが優勝したとして、すると君は不完全燃焼だったでしょう? きっとほぞを噛む思いで決勝を見守ることになったでしょうね。最悪、閣下が優勝した場合は目も当てられない。けれど二人が決着をつけるなら、それはない」
「だから、一対一で終えるのが最善――か」
「よって“会談は合意に達した”というわけですね」
 ニトロはまた苦笑した。今度の苦笑は柔らかい。二人の声があまりに小さいために、それを聞き取りたい周囲はざわめく音量を下げている。特に敗北のショックから立ち直るようなニトロの柔らかい表情を見た時には、ハラキリがどのような言葉をかけているのかという好奇心のために一層音量を下げた。
 ニトロは一つ吐息を挟んだ。
「でも、やっぱり今度からはそっちも警戒することにするよ」
「はあ、ですがやっぱりどうしたところで君にとってはそれこそ相性の悪い相手だと思いますけどねぇ」
「愛だから?」
「愛ですから」
「参ったね」
「参りましたね」
「……本当は『参った』なんて思ってないだろ」
「それはまあ、正直他人事ですからね」
「そりゃまた友達甲斐がないことを言ってくれるもんだ」
 そう文句を言いながらもニトロはさばさばとした笑顔であった。が、その笑顔には“一味”足りない。それに気づいたハラキリは、すっと背後に一瞥をやり、うなずいた。
 すると、ニトロとハラキリの会話をその真意とは全く違う形で――ニトロにとっては皮肉なことに、結局断片的な言葉しか聞こえなかったが故に今回の『プロポーズの機会喪失』を“王女と平民の恋物語”に降りかかる『愛の試練』になぞらえ語っているのだろうと好意的に解釈して笑みを浮かべている人垣を掻き分けるようにして、一体の給仕アンドロイドが試合場に飛び込んできた。そのオッドアイのアンドロイドはほぼ無表情で歩いてくる。手にはタオルとニトロの上着がある。アンドロイドはニトロの眼前にやってきた時、ほんの一時だけ、何だか泣いているような表情を作った。
「気ニ病ムコトナンテ何モナイヨ、主様。立派ダッタ。格好良カッタヨ。あたしハ誇リコソスレ、“負ケタ”コトナンテチットモ気ニナラナイ。機会ハ次モアルダロウ? ダカラ、胸ヲ張ッテオクレヨ、主様」
 ニトロにだけ聞こえる指向性の声は、震えていた。慰めるための感情一杯の声なのか、それとも純粋に感動で胸が一杯の声なのか、あるいはマスターを焚きつけた結果負けさせてしまったことへの痛恨の念もあるのか……芍薬が表情を無に戻したからには窺い知れない――いや、ニトロは考えを改めた。確かに痛恨の念もあるのだろう、だがそれ以上に慰めであり、またそれ以上に誇らしい感動であったのだ。
 ニトロは芍薬からタオルを受け取りながら、ハラキリを一瞥した。彼は「だから言っているでしょうに」とばかりに片眉を跳ねる。
 ニトロは、微笑んだ。
 ――芍薬とハラキリ。二人が認めてくれるなら、自分はいつだって本来いるべき場所に着地できる。
「ありがとう」
 今や彼の浮かべる微笑みは、何の偽りもない、心の底から誇らしく胸を張るニトロ・ポルカトそのものの笑顔だった。
 そして、試合場の、あるいはこの『場』の中心にいる三人の姿を、ティディアは壇上からパトネトと共に見つめていた。彼女は冑と剣をフレアに預けた後、余興の締めを告げるタイミングを計っていたのだが、その最中にニトロとハラキリと芍薬の作る空気に目を奪われ、我知らずため息をこぼしていた。
(いいわねー)
 あの三人の間には、まだまだ入り込めそうにない。
 最高の勝利――全てが思い通りに行ったというのに、その上、つい先ほどには何よりも得難い至福の体験すらしていたというのに、それでも手が届かないものがそこにある。
 しかし、三人の強い繋がりを目の当たりにしてなお、ティディアは微笑んでいた。もちろん悔しさはある。が、それでも、これだからこそ私は彼を求めるのだ。あの戦いを経た今、彼女には純粋にそう思える。
 いつか私もあの場所に混ぜてもらって、いつの日か、私も一緒に笑いあおう。
 ニトロとなら、どこでだって、誰とだって私も対等にその場所にいられて、そうして同じように笑いあえるはずだから。
「いいなぁ」
「?」
 一瞬、ティディアは我知らず羨望までもが口から漏れ出したのかと驚いた。
 が、違った。
 そう言ったのはパトネトだった。
 見れば、弟は少しだけ口を尖らせて、じっと三人を見つめている。
「……パティにも、きっといつか、あんな風になれる人ができるわ」
 微笑みながら、姉は言った。
 弟は姉を見上げる。
「それは、ニトロ君?」
「さあ、それは分からない。ニトロとかもしれないし、全く別の人かもしれない」
「ニトロ君とがいいな」
 ティディアは、パトネトの頭を撫でた。この子には、それからミリュウにも後でうんとたくさんお礼を言わなくてはいけない。
「そうね。私もニトロとがいいな」
 姉に頭を撫でられて、弟は面映そうに笑う。
 まだ『ニトロ・ポルカトという他人』にしか心を開かぬ弟だけど、しかし未来は既に開かれ始めている。彼がこれから出会う人間、彼がまだ望めぬ人間の中からも、きっと彼にとって重要となる者が現れることだろう。何よりも、彼自身は気づいていないが、ニトロだけでなく、この子はあそこにいる怖がっているはずのハラキリも含めて『いいな』と言ったのだから。
(何て素敵な日だろう)
 ティディアは微笑み、さらに思う。
 その素敵な日をさらに素敵にするために、もう一つ、最後の仕上げの企みがあるのだ。
 時計を見ればもう11時……少し、急がないといけないか。ちょうど観客達も『英雄』に近寄りたくてそろそろ痺れを切らしかけている。いい頃合でもあろう。
「さあて、ご来場の皆々様!」
 ティディアは声を張り上げ言った。まるで何かしらイベントの口上のような調子に、招待客らの目が一斉に彼女へと向けられる。プロテクターを脱ぎ燕尾服姿に戻ったニトロも、芍薬に形を整えてもらいながらそちらを見やった。
「本日開きましたるこの余興、何かと不備もあったと存じまするが、紳士淑女の皆々様にご満足いただけたとなれば、僭越ながらわたくしこれ幸い至極に存じ申し上げ奉りまする!」
 歓声が彼女に応える。
「それではわたくし、何ともはしたないほどに汗をかいてしまいましたので、ここで少々お暇を頂き、水浴びなどしてさっぱりして参りたいと存じます」
 つまり、衣装チェンジだ。また歓声が上がる。
「優勝者が手にする栄冠が何となるかは再び私が参りました折に。それまでは、どうぞ参加賞たる抽選会をお楽しみいただきとう存じます。
 なお抽選会は、引き続き我が最愛の弟が公平に取り仕切りますので、温かいお心をもってご参加下さいませ」
 そう言って、ティディアは一転真摯な顔を作ると右足を軽く引き、両手をまるでスカートを持ち上げるように動かし、膝を曲げ、次いで深く腰を折り曲げる。それから頭を垂れることで、彼女はアデムメデスでの貴婦人の最上の礼を行った。
 と、腰を折り、辞儀をしたまま、彼女がふと顔だけを上げ、
「ニトロ、今日は残念だったけれど、次はよろしく。私達に相応しい機会に今度こそ『うん』と言わせてね?」
 おどけた調子ながら、その声には限りない愛情が溢れ、ぶすっとしたニトロとの対比に奇妙なおかしさが会場にこみ上げる。そのおかしさはそのまま歓声と拍手となり、ティディアは温かな音に送られて、パトネトをその場に残し、自らは最後に微笑みを残して開かれた扉の向こうへと消えていく。
 すると試合場の形を保っていた青い光線枠も消え、その途端、ニトロは激しい既視感を覚えつつ叫んだ。
「うわぁぁお!?」
 驚愕に身を引く『英雄』めがけて――芍薬は彼を守るようにその場にいるが、ハラキリはいつの間にか消えている――招待客らが我先にとばかりに一斉に殺到したのであった。

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