3−f へ

 会場にはもはやどよめきもなかった。
 会場には、ただ沈黙だけがあった。
 二度の打ち合いの後、ニトロとティディアは互いに攻めあぐね、これまで剣先のみをぶつけ合い続けていた。間合いを取り合い、立ち位置の優位性を取り合い――時々ティディアが何もしていないのにニトロが慌てて大きく間合いを広げる。その度にティディアはどことなく嫌そうな様子を見せ、また、彼女の剣の動きをニトロは非常に鬱陶しそうに睨みつける。
 今、ティディアの右肩がわずかに下がり、今、ニトロの左膝がわずかに曲がった。と、次の瞬間、二人は互いに怖気を感じたように肩を揺らし、一歩ずつ下がり合って深く息を吐く。
 ……二人の、時に不可思議な動作を完全に理解している者は少ない。
 しかし素人目に解らぬことを二人がしていることだけは解り、その緊張感は、今や切羽詰った緊迫感へとまで移り変わっている。
 今、戦場に立つ二人に動きは少ない。
 今、この瞬間にどちらかが勝利を得るであろう予感もない。
 だが、誰もが目を離せなかった。
 グラム・バードンとフルセルの一騎打ちとはまた違う、その迫力。やけに冷たく、やけに心を落ち着かせなく、異様な重さを漲らせているその切迫感。段々と、二人の手にある剣が刃引きのされた模造品ではなく、触れれば切れる、まさしく、触れれば切れてしまう真剣なのだと思えてくる、見ているだけでも喉が渇いてくる!
 老齢の達人同士の戦いにあったのが畏怖ならば、王女と『英雄』の戦いにあるのは得体の知れない恐怖であった。
 気の弱い者の膝はその冷たい迫力のために震え、普段度胸があると自認する者も、その張り詰めた空気は冷たいはずなのに、手にじっとりと汗をかいている。
 ニトロ・ポルカトとティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 二人の足音と、時折剣の擦れ合う金属音、そして二人の気合にも似た呼吸音だけがロザ宮を厳かに震わせていた。
 ――と、
「解せんな」
 ふと、野太い声が沈黙を破った。
 グラム・バードンである。
 左の目で決闘を、右の目で灰色熊のような巨躯を見るように、皆の注意が彼にも振り分けられた。
「ポルカト殿は、たった数分の内に急に達人になったように見える」
 彼は独り言を言っているように見えたが、実際には傍らで腕を組む細目の少年に語りかけていた。が、ハラキリ・ジジは迷惑そうに眉を垂れるだけで応えない。その無礼さ、あるいは豪胆さに彼らを見る方が肝を冷やす。
「なあ?」
 グラム・バードンはそれでも気安く彼に声をかけた。顔の半分を決闘に、もう半分をハラキリに向けて朗らかに応えを迫る。
 ハラキリは、にこりと笑った。
「先ほどは数々の非礼、失礼いたしました」
「今度はしてやられんぞ?」
 公爵はにやりと笑う。
「それにしてもいよいよ貴殿が欲しくなった。どうだ、王太子殿下の前に小生の下につかぬか」
 ハラキリは嘆息し(これには特に貴族の人間が肝を潰した)小さく肩をすくめた。ここで話を切り替えることは、つまり話を本筋に載せるためにこちらの嫌な話題をあえて振ってきた公爵にやり返されたことになるが――まあいい。
 彼はちらりと公爵を一瞥し、その視線を再び決闘に戻すことで相手の意識を話題の中心へと誘導する。そして、
「良くも悪くも相性がいいんですよ。ティディア様と、ニトロ君は」
「相性だと?」
「ええ、相性です。相性が良い相手というのはやりやすい。しかし二人共に、相手が相性の良い相手だから、逆にやりにくい。その意味では、二人共に最悪の相性の敵と対峙していると言っていいでしょうね」
 ハラキリの声もホールに響く。どこかで納得の吐息がこぼれる。だが、
「なかなか面白い理屈だ。確かに現実にも見る『要素』ではあるな」
「例えばプロ格闘の世界ではしょっちゅう語られていることですね」
 ハラキリはあわよくば話をずらそうと試みたが、公爵はそんなフェイントには乗ってこない。彼はハラキリに同意のうなずきを小さく見せるだけで、間合いを詰め合う王女と少年を見つめ、
「しかしそれだけで――」
 と、次の瞬間、またも、ティディアが何もしていないのにニトロが大きく横に逃げた。
見えないフェイントにも的確な対応をできるものかな? これはあくまで実力の問題で、相性でどうこうなるものではない」
 その言葉に、またどこかで感嘆の息がこぼれる。
 ティディアが剣をわずかに動かしながらニトロを追う。それは公爵の言葉とは違い“見える”フェイントであったが、何を思ったかニトロが両手に構えていた剣を片手に持ち替え、体をかすかに半身に構え直した。見た目にはほぼヴォンの体の開き方で腕だけをビィオに構える中途半端な構えだ。が、すると彼を追っていたティディアがフェイントを止め、眉間に険を刻むや足をも止めた。
 その様子を見守る公爵の目には、ニトロから優位を奪おうとしてどうしても奪えずにいる王女の――免許皆伝の弟子の苦心がありありと見えていた。
「そして、あれほど間合いを極められるものかな?」
 ハラキリは笑い、
だから、良くも悪くも、それほど相性がいいんですよ。
 何だかんだでティディア様を最も理解しているのは彼です。だから虚動なんぞには引っかからないし、ティディア様の計算もご破算にできる。
 一方、彼を最も苦しめられるのはティディア様です。だから彼の抵抗は無効にされるし、非常に困難な壁となって立ち塞がる。
 公爵閣下の仰りたいことは判りますし、実に正しいご指摘です。実際、ニトロ君は達人ではない。彼はティディア様以外に対してはあれほどにはなれないでしょう。しかしティディア様に対してだけはあれほどになれる。これはあくまで“二人だけ”に通じる話。されど、なればこその『あの二人だから』――ですよ」
 どこか人を食ったかのような飄々とした物言いを、その真意を理解した者はどれだけいるだろうか。ほとんどの者はそれを恋人同士の絆の故と解釈しただろう。いくらかの者は考察の余地有りと受け取ったろうか。だが、グラム・バードンは違う。彼は完全に理解し、非常に含蓄深いものを噛み締めるような顔をしてハラキリ・ジジを目の端で眺めていた。
 そこへ、闖入する声があった。
「あの……」
 おずおずとした、反面どうしても好奇心に抗えないらしい声に引かれてハラキリが目を動かせば、公爵とハラキリの間に体を割り込ませるようにして同年代の少女が観客の内から現れた。ハラキリはそれが誰だかを悟った。自分の背後にいるであろう政治家の、つまり最大野党の副党首である彼女の歳の離れた父の顔が赤くなっているのが手に取るように解る。
 彼女を無下にあしらうのは簡単であったが、ちょっとした悪戯心(それとも意地悪心)を芽生えさせ、戦場ではニトロが突きを狙いかけて止めるのを傍目に、ハラキリは最大限真摯な口調で応えた。
「何でしょうか」
 その声色に勇気を得たか、少女が問いかける。
「なぜ、あんなにもして、ティディア様はニトロ様を拒むのでしょうか。勝ち取ってみせてと、本当はニトロ様を受け入れたがっていらっしゃるのに、なぜ、あんなにも?」
 あまりに無防備な問いかけに、思わずハラキリは笑いそうになった。
 ――ティディア様がニトロ様を拒んでいる?
 本当は全くの逆だ。ニトロ様がティディア様を拒んでいるのだ。
 しかし、そうは言っても彼女の質問はてんで的外れというわけではない。実際、現時点では、何も知らなければ、そして“何も考えなければ”、この光景はティディアが恋人からプロポーズを受け取る折角の機会を潰そうとしているようにしか見えないだろう。事情を知るハラキリだからこそ――ちらりと見れば公爵閣下は流石のポーカーフェイスだ――彼女の問いかけを意地悪に受け取ることができるのだ。
 とはいえ、それでも、“何かを考えるならば”この光景は彼女の言うようなものには見えないはずであろう? この光景には何かがあると窺うだけの材料は既にある。何しろ、
(お姫さんはそれを否定するための前振りをわざわざしていたというのに……)
 ハラキリはティディアへの同情半分、呆れ半分に思ったが、と、そこで考えを改めた。
(いや、事情を知る人間だからこそ、簡単に呆れられるのでしょうね)
 注意を向ければ、周囲の耳のほとんどが、特に少女と同じく希代の王女様の真意に気づけていない者の意識がこちらへ向いている。
(――ふむ)
 ハラキリは、胸中では苦笑しつつも、これを幸運と取ることにした。
 ここで友達の思惑を明示することでその目的の完遂を手助けし、また、親友の気疲れを予防する手助けとなっておくのも一興だろう。
『ティディア様がニトロ様を拒んでいる』この現状は、後になって非情な効果を見せる劇薬であるものの――聡い者はとっくに気がついているものの――あくまで現状では“警告”にしか過ぎない。もちろん王女は後日東大陸で“実践”もして見せ、その両輪を以てニトロ・ポルカトを守るための劇薬を撒き散らす戦車を走らせるだろう。……ここで、自分が動くのは多少差し出がましい行為になりそうでもある。が、彼女は、これくらいのお節介は許してくれるだろう。質問をしてきた少女のように“気づけていない者”の前で、ニトロ・ポルカトの親友にして『師匠』である自分がこれを明言しておくことは彼女の助けにもきっとなるはずだから。
「ティディア様は初めに『私からそれを勝ち取った者ならば』と仰っていたでしょう?」
 努めて柔らかく、紳士的にハラキリは言った。少女がうなずく。おそらく、内心でうなずいている者はもっといる。
「『私から勝ち取れ』『あなたであっても』――そうも仰っていました」
 少女は大きくうなずく。
 ハラキリは微笑んだ。
「その言葉の通りなのですよ、Miss・ライリントン」
 と、唐突にハラキリに名を呼ばれ、少女は驚いたように頬を朱に染めた。そして彼に知られていることがより彼女の気を引いたのか、俄然目を輝かせて彼の答えを聞こうとする。
 ハラキリは続けた。
「ここで何より重要なのは『私から勝ち取れ』ということです。ミス・ライリントン、それは誰に対してもそうなのです。ティディア様は、例えニトロ・ポルカトが相手であっても二つ返事で『応』とは返さない。『私とあなたの関係は、そういうものでしょう?』――むしろニトロ・ポルカトの頼みであればこそ誰よりも厳しく吟味されるのです。誤解なきよう言いますが、それは彼を信頼していないのではなく、信頼しているが故の行為です。
 甘やかさないのですよ。王女は、好きな相手であるほどに。『あなただからこそ』――期待をかける相手であるほどに。ミリュウ様に、そうしていたように」
 そのセリフは非常に大きな威力を持っていた。
 あの『劣り姫の変』は、アデムメデスに様々な印象と影響を残していた。その一つがティディアとミリュウとの関係性に対する印象の変化だった。仲の良い姉妹の裏側の、王女としての仲が良いとか悪いとかそういうことでは語りきれない複雑な関係性。それが明らかとなったあの事件は、結果的に『希代の王女』の優しく真面目なはずの少女を狂わせてしまうほどの“愛”と“厳しさ”を一層象徴する出来事にもなっていたのである。
 ガチン、と、激しい音が鳴った。
 一時ハラキリの言葉に移っていた関心が決闘へと引き戻される。
 ニトロの鋭い打ち込みをいなしたティディアが連撃を放っていた。王女の細腕はしなるように振るわれ、その先では剣の威力が増す。本当に女の細腕から生まれる力であるのだろうか! 一度二度、火花が散り、
「シッ!」
 と、ニトロの鋭い吐息が走るや、彼の足がティディアの胴を守る鎧に触れていた。その電光石火の横蹴りは王女の苛烈な連撃を剣で受け止める際に生じるわずかな間隙に放たれていた。これ以上ない絶妙のタイミングであり、ティディアがバランスを崩して後退する。ニトロは追おうとして、急に足を止めた。彼女のバランスの崩れが演技だと気づいたのだ。『英雄』を誘い込めなかった王女が舌打ちをするような顔で構えを取り直す。
「――もちろん、パトネト様のように、準備ができていない者に対してもティディア様は無理を言うわけではありませんけどね」
 と、そこで、この場にいる“姉に甘やかされているように見える”弟王子へのフォローが飛び、忙しく観客の意識がハラキリへと戻る。中でも、心底愉快そうに髭を撫でながら決闘を見つめるグラム・バードンの横で、ミス・ライリントンは傍の公爵の存在を忘れてしまったかのように熱心にハラキリの言葉を聞いている。
 ハラキリは彼女だけに語るように微笑み、
「だから、ここでニトロ君が『プロポーズ』を願おうとしているのであっても、そうでなかったとしても、ティディア様は手を抜かない。いや、彼が抱くものが大きな願いであればあるほど決して手加減などしない。何故なら、愛は、『余興』で片付けられるような軽いものではないでしょう?」
 ミス・ライリントンは何度もうなずいていた。ハラキリと、ティディアとニトロの決闘を交互に見ながら、仕舞いには――『愛は』の言葉を引き金として――目に涙を浮かべてうなずいていた。
 彼女が浮かべるのは紛うことなく感涙であった。
 彼女は明らかに王女の振る舞いに胸を震わせているのであった。
 ハラキリは、自分に質問をしてきたのが『ティディア・マニア』でよかったと思いながら、しかし最後には彼らしく冷や水を用意した。友達への誕生日プレゼントだと――同時に少し早いが親友への誕生日プレゼントだと思いながら、
「ですから、お気をつけてくださいね。初めから『ニトロ・ポルカト』を頼ろうというような自助努力を放棄した願いほど、王女を怒り狂わせるものはありません。それはそうでしょう? 何しろそこには姫君の貴い愛を穢す醜い欲が混ざる。となればなおさらお怒りが激しくなることは、至極当然のことですよね?」
 その瞬間――ハラキリの問いかけに少女がまことにその通りだと大きくうなずくのを他所にして――会場に、王女と『英雄』の決闘が生む緊迫感とは別の緊迫感が生まれた。
 ある場所では東大陸の伯爵が顔を青褪めさせていた。
 彼は知っていたのだ。中庭で、王子とニトロ・ポルカトに出会う前、モバイルで確認していたのだ。東大陸の貴族の誰かがハラキリ・ジジの忠告を既に破っていることを。そして彼は、なまじ彼が優秀な頭を持っていたために、その軽薄な観測気球が後日もたらす被害がどのようなものになるのかも、今ここで既に知ってしまったのだ。
 青褪めた伯爵と、夫の絶望に気がついた妻の戦慄が周囲にも伝わる。
 その二人の恐怖があればこそ。
 もう何度目か、攻めあぐねて剣先をぶつけ合うニトロとティディアを見つめる観客の全てがそこにある王女の『強い愛』を理解した今、ハラキリ・ジジが最後に放り込んできた“警句”のために震えていた。――特に権力の近くにいる者が。今日こんにちまでその危険に触れずに済んだことへ感謝し、そして今日こんにちまで自分達の心の中にそのような『期待ごかい』があったことを恥じ、また恐怖し、皆々改めて心を揺らしていた。
 ハラキリは、ニトロとティディアを挟んだ対岸に伯爵の青褪めた顔があることをふと認め、その焦点の合わぬ瞳がこちらをちらりと見たことに気がついた。あの伯爵をどのような行く末が待っているのかは解らない。しかし余興中の振る舞いを思えば、それなりに面白そうな人材ではある。
(今日は、大サービスですよ。ティディアさん)
 そう思いつつ、彼はあくまでライリントン嬢に言うように、
「まあ、とはいえ、憤怒の雷に打たれたとしても諦めないことです。ティディア様は人に助けを強請る者を嫌えど、適切に人に助けを求める者に怒ることはありません」
 ライリントン嬢はハラキリが何故自分にそのようなことを言うのか理解できていない顔をしながら(彼女は自分がティディアの怒りを買うことはないと無邪気に妄信しているのだ)、それでも重要な助言を受けているのだろうと微笑みを浮かべてうなずく。
 そしてハラキリも微笑み、言った。
「また、ティディア様は、自らを助く者には特に寛大な方ですから」

 ニトロとティディアは、今や自分達の周囲でどのようなことが行われているのか全く理解していなかった。
 グラム・バードンがハラキリに話しかけたこと。
 ハラキリにライリントン嬢が質問をしたこと。
 その末に、ティディアの『最大の目的』が思いも寄らぬ形で具体的に達成されたことも二人は理解していなかった。
 今、二人の耳は何も聞いてはいない。
 今、二人は互いに手を読みあい、あるいは心までをも読み取りあうほどの最大の『敵』の姿しか目に入らず、それの音しか耳に入らず、それの動きしか認識されない――そう、極限の集中状態にあったのである。
 二人の視界には、もちろん『自分達以外の世界』も目に入ってはいる。なのにそれらは“情報”としてまったく処理されず、そのため二人にとって『自分達以外の世界』はのっぺりとした“背景”にしかならない。その背景にしても色彩の情報が混濁し、混濁の境界すらも曖昧で、白か黒かの一色だけにも見えるし、もっと無限の色彩の中にいるようにも思える。それでも“どこまでも意味のある存在”として目に映るのは、“どこまでも意味のない背景世界”から浮き上がって見える『敵』だけ。そうニトロにとってはティディア、ティディアにとってはニトロ――この二人だけが、今、この世界に存在することが許されていた。
 ――この世界。
 二人だけが住まう極限の世界。
 不思議なことに、二人は共に汗を流してはいなかった。あれほど動き、剣を振るい、スタミナも奪われ息も荒れてきているのに、二人の額には未だ汗の一粒すら浮かんでいなかった。それは、一つの証でもあろう。汗をかくことを体が忘れる――それほどの極限の集中力だけが生み出す二人だけの世界。
 その世界の中心で、突然、ニトロが不思議な構えを取った。
 両手で握る柄を右耳の横にまで持ち上げ、剣は地に対し垂直に立て、天地を貫く一本の槍のように体を真っ直ぐ伸ばして左足を前に出す。アデムメデスの宮廷剣術にはない構えだ。そして、
「クノゥイチニンポー」
 彼はつぶやく。
 じっと、この世界の中心に立つティディアを見つめて。
 見つめられるティディアは、ニトロの口にしたものがハッタリにもなり得ることを知っていた。その不思議な構えから何をしてくるのか。あるいは、何もしてこないのか。何かしてくるにしてもそれは彼の『師匠』が真面目に教えた奥の手なのか、戯れに教えたウケ狙いの隠し芸なのか。どちらにしろ、この場面でニトロのすることだ。油断はならない。彼女は迂闊には動かない。――動かないのが、ニトロには好都合であった。いくら平然と二手先を読んでくるティディアにしても流石に異星の剣ならば読み切れまい……この狙いは上手くいった。
 彼は大きく息を吸う。
 後は、ただひたすらに――!
チェストォ!!
 ニトロの雄叫びが耳をつんざく。声だけで押し倒されそうな大音声。それは裂帛の気合であり、殺気そのものであった。気の弱い者であれば声を聞いただけで降参を示してもおかしくないだろう。だが、ティディアには殺気の大音声すらもが心地良い。耳を震わせるだけでなく、体を芯から奮わせてくれる声と共に、彼は一気に間合いを詰めてくる。脚の勢いを腰で練り、腰で練った力を体幹で運び、上半身、肩、腕の力に上乗せし、全身の動きを連動させた渾身の力で剣を振り下ろしてくる。単純極まる直線的な突進と、何の裏もない真っ直ぐな斬り下ろし。受けるには容易い。受けて、そのままカウンターを決めようか? 大振りな一撃の後の大きな隙を突くこともまた容易なのだ。――が、剣を振り下ろす直前のニトロの双眸に閃いた輝きと、その心に満ちる全身全霊の勝利への意志が、脳裏に浮かぶ選択肢とは裏腹にティディアに自然とバックステップを踏ませていた。ニトロの剣が空を裂く。不思議な構えの謎の剣技、きっとおそらくは異星の剣術。もしそれを剣で受けていたら?――きっと私は負けていた、ティディアはそう思う。そう思わせるだけの風が吹いていた。ニトロの剣が生み出した鋭い剣風が、後退した彼女に追いつき、その頬を恐ろしく撫でていた。
 半ば屈みこむほどの渾身の初撃をかわされたニトロは、それでも直後には体を起き上がらせ、息をつく間もなく突進の勢いそのままに連撃を繰り出した。初撃をかわされたとはいえ、ティディアは真っ直ぐ下がった。あまりに真っ直ぐ下がってくれたから、ようやく彼女を自分の間合いに捕まえられる機会がやってきた!
「ッィィエエエエイ!」
 そうして彼は息の続く限り袈裟斬り・逆袈裟斬りと左右に振り分け打ち込んでいく。避けるには間合いが悪いと判じたティディアはそれを受け、いなし続ける。連撃には初撃ほどの威力はなかった。されど一撃受ければ彼女の手が痺れた。二撃受ければ鉛を受け止めたように腕が重くなり、三撃目には足もが重くなる。そのためニトロへ反撃することができない。何とか大きく回り込んで間合いを外そうと思っても先んじて彼は追ってくる。このまま受け続けていたら剣が手からこぼれてしまうだろう。その前にどうにか反撃に転じるか――否、ここは受け切ってみせる!
 ニトロは打った。
 ティディアは受けた。
 ニトロがさらに打ち、ティディアはさらに受ける。
 ティディアがいなし、ニトロはそれでも打ち込む。
 限界が来たのは、二人同時であった。
 ニトロの連撃が止まる。
 もしあと一秒ニトロが攻撃を続けていれば。
 彼は致命的な息の乱れを招いて自滅していただろう。
 ティディアの腕が下がる。
 もしあと一撃ティディアが剣を受けていれば。
 彼女の剣は手から打ち落とされていただろう。
 両者共に体勢を整えるため、一つ後退する。
 ニトロは喘ぐ血液に酸素を与えるために大きく息を吸い、ティディアは痺れて硬直したように柄に張り付く手を回復させるために懸命に力を抜く。
 二人は息を整えながら、睨み合う。
 見据え合い、見つめ合う。
 じっと視線を違えない。
 常に交わる視線が、いつしか二人の鼓動をそれぞれの耳にまで届ける導線となる。
 互いの呼吸がやがて同調し、深くなる。
  互いの体の熱が空を介して肌に伝わる。
   互いに読み合い、
    互いに読み取り合っているからこそ、
     互いの心の奥底までをも理解しているように感じられてくる。
    俺はお前に勝つ。
   私はあなたに勝つ。
  双方向のその単純な意図が、二人をこの二人だけの世界に強固に縛りつける。
 一種の快感があった。
 それは脳内麻薬のせいにもできよう。
 あるいはスポーツで言う『ゾーン』の恍惚なのかもしれない。
 だが、今こそティディアは思う。
 幸せだ、と。
 極限の意識が作る世界の中、気がつくと彼女の心の内で絶叫していたはずの『弱い私』が肩を縮め、いつしかどこかへ隠れ去り、爆発しそうな勢いで早鐘を打つ彼女の胸の中には、気がつけば、ただただ純粋なる歓喜が溢れていた。
 戦いが始まる前に、あれほど感じていた不安も恐怖も今はない。
 それどころか、未だにニトロには『私との関係を終わらせるための意志』があり、それはこの凝縮した世界でより濃密に伝わってくるのに、それでも彼女は歓喜に溢れ、天にも昇りそうな快楽に包まれていた。
 何故か?
 何故なら、彼女の心の内で今また愛の深まっていたために!
(ああ!)
 彼女の愛は高らかに歌う。
 こうして彼と戦っているこの時間は、なんと掛け替えのないものか!
 楽しい
 嗚呼、楽しい!
 彼だけだ。
 ニトロ・ポルカト、あなただけだ。
 どうしてあなただけなのかは解らない。
 けれど、こうして現実に私をここまで追い詰められて、それなのに私をここまで悦ばせてくれる男はニトロ・ポルカト以外にいないのだ。これほどに手応えのある獲物はなく、これほどに愛しく思える人間もいない。
 嗚呼、ニトロ、愛している。
 私はあなたが愛しくてたまらない。
 屈折している?
 そうだろう。きっと私の愛は歪んでいる。
 だけど、それでもいい。この気持ちだけが真実なのだ。この心臓に血よりも熱い火をくべられ、この命を太陽よりも眩しい魂で照らされて、私はこの世に産まれて来たことを心から謳歌している。『弱い私』の出る幕などこの世界にはない。嗚呼、この幸せは、『弱い私』では決して手に入れることのできない幸福なのだから!
(ねえ、ニトロもそう思わない!? とても楽しいでしょう!?)
 ティディアの内心の叫びに、ニトロが応える。
 両手に構えられた剣の先で、彼の双眸がはっきりと叫んだ。
(そう思うわけもねぇし楽しいわけもあるかド阿呆!)
 二人はその時、無言なのに互いの声を確かに聞いていた。
 しかし、無言なのに互いの声を聞いていたということを、二人はそのやり取りがあまりに自然であったために全く自覚していなかった。
 ニトロの強烈な『否定』を直接心に受けたティディアは、されど身震いするような微笑を浮かべた。
(これだからあなたのことが大好きでたまらない、何度言っても言い足りない、愛しているわ、ニトロ!)
 ニトロは何も言わず、だが、否定もしない。
 それで十分だった。
 今、私の愛を否定されない。
 それだけで泣きたくなるくらいに十分だった。
 ティディアは唇を震わせ、そして実在の声でこう言った。
「名残惜しいけれど、決着をつけましょう」

 ティディアがふいに声を発した。
 その声は小さく、それを聞き取れた者はわずかしかいなかった。
 それでも誰もが理解した。
 終わりがやってくる。
 緊張が一気に高まり、再度ホールが沈黙する。
 ハラキリも、グラム・バードンも固唾を呑んで見守った。
 ティディアが気楽な様子で右手に持った剣を突き出す。
 それは、あまりに突然のことで、またあまりに気楽な様子であったため、見ている者はそれが彼女の一体何をしようというものであるのか、理解が一瞬遅れた。ハラキリにグラム・バードン、別の場所ではフルセルまでもが理解できていなかった。見たままに言えば王女はニトロへ片手突きを放っているのだが、それが『突きという攻撃』であることを少しだけ認識の外側へずらされて、完璧なまでに虚を突かれ、そうして理解が遅れてしまったのである。
 それは、百万の内に一つ見られれば幸運たる奇跡の突きとでも言おうか。
 しかし、ニトロは、ニトロだけはそれにも反応した。
 ティディアの突きが攻撃であると強者にも理解できなかったことにはもう一つ理由があった。
 間合いが遠すぎたのだ。
 されどニトロは自分の剣を持つ手に怖気が走ったことから、追ってティディアの剣先が手を狙ったものであることを知ったのである。
 手を守るために、彼はとっさに手首を返す。
 機械のように正確なティディアの突きである。その剣先は、ニトロが手首を返した分、彼の剣身と鍔との境に激突した。と――ティディアの剣が、くにゃりと曲がった。
「あ」
 思わず、ニトロはうめいた。
 それはこの特別製の剣の特性。“突き”による怪我を防ぐための、一方向への極端な柔軟性。……ここで、こんな形で、それを利用してくるとは!
 ティディアは、さらにその刹那、ニトロの右横へ回り込むようにして一歩、速やかに接近していた。ニトロの剣から遠ざかりながら、しかし、彼女の剣の柄は彼にずっと接近してきていた。
(――ッ!)
 理解したくなくてもニトロは理解する。『天才』の意味を嫌というほど実感する。
 ティディアは、これを初めから狙っていた。
 奇跡的な突きすらも捨て駒にして、こちらの防御反応も見越した上で初めからこうするつもりだったのだ!
 ティディアの右手首が、返る。
 彼女の剣の切っ先がニトロの剣から離れ、支えを失い――瞬間、バネが跳ねるように剣の形が戻ろうとする。人の意志の介在しない合金のただひたすらに物理的な反応。剣の軌道が全く解らない! 剣で防ぐのは不可能!
「クッ!」
 それでもニトロは短く唸り、反撃していた。彼は最早どうして自分がそう動いているのか、どうしてそう動こうとしたのか理解してはいなかった。だが、腰を引くことで体の位置を後ろへずらし、なおかつ背を反らして相手の剣の到達時間を少しでも遅らせ懸命に自身の限界を超えた速度で剣を薙ぐ! 理解のないままに……彼を突き動かすのは、ひたすらに、執念。負けてたまるか、ここで勝利を……その執念!
 リーチはこちらが勝っている!――剣は――届く!
 ニトロの剣が先にティディアの脇腹をかすめた。
 されど、ティディアの脇腹に“火”は灯らなかった。
 そして、ティディアの剣は――

 ――ティディアが渾身の力で勝ち鬨の声を噛み殺し、その傍らで、左胸に紛うことなき“火”を灯されたニトロが……天を、仰いだ。

 決着を目の当たりにして、ロザ宮は声を失っていた。
 決着を目の当たりにしてなお、誰も現実の光景を理解できていないようであった。
 王女の魔法のような突き。
 それをも防ぐニトロ・ポルカト。
 続いてティディアの剣が曲がったのは偶然のようにも見えたが、その後の迷いのない彼女の動きを見ればそれが“偶然”ではないことは明らかだ。さらに驚くべきは『“偶然”ではない“狙った偶然”』――それにすら初見で対応した『英雄』である。しかも彼はあのような信じ難い攻撃に対してすら反撃をしてみせた。
 銀河最高峰のプロ剣士のチャンピオンシップでもお目にかかれないであろう奇跡的な一瞬。
 歓声はなく、ひたすらに息が飲まれている。
 いや、その静寂こそが大いなる歓声であった。
 ニトロ・ポルカトから『プロポーズ』の機会が奪われ、それを見られずに終わった観客達ではあるが、未練はない。ただ『奇跡』を目の当たりにした感動が皆の心を支配していた。
 やがて『奇跡』に飲まれていた息が観客達に戻り始める。
 最初に起きたのは、ぱちぱちと、やけに可愛らしい拍手だった。
 壇上にいるこの『余興』のシステムの監督者、パトネト王子が立ち上がっていた。彼が頭上に掲げた両手を懸命に打ち鳴らしていた。多くの注目を浴びても気にしない。気にする余裕がないのであろう、頬を紅潮させ、感動のためか大きな瞳を潤ませ、彼はひたすらぱちぱちと手を打ち鳴らしていた。
 それに引きつけられるように、そこかしこでも拍手が鳴り出した。
 ハラキリも心から拍手を送った。
 それから声が戻ってくる。
 グラム・バードンが咆哮するように賛辞を送る。
 万雷の拍手、大歓声、大喝采!
 その日一番の轟音が、ロザ宮を心ゆくまで揺らし続けた。

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