3−h へ

 熱闘後の勢いに任せ、敗者であるニトロがまるで優勝者であるかのように数多の賛辞で揉みくちゃにされた後。
 落ち着きを取り戻したロザ宮のホールには楽団による穏やかなメロディが流れ、招待客らは思い思いに飲食や会話を楽しんでいた。
 今、ホールには無数の宙映画面エア・モニターが投影されている。パトネトの頭上と、宙に浮かぶ時計の真下、それから玄関の上に大きなモニターが表示され、食事を落ち着いて楽しむための小さな丸テーブル周辺には小サイズのモニターが“常映”されている。また小サイズのモニターならば自前のモバイルでリクエストすることでホール内のどこにでも呼び出すことができて、そうやって画面を眺めている者も多く見られた。
 大きなモニターが映すのは、いずれも『参加賞』の抽選の模様である。
 ニトロは早々に10等『賞品券5千リェン分』をもらった。つまり最下等の賞品だった。彼の結果がクジの公平性を担保する材料となったのは、一つのご愛嬌であろう。ハラキリは5等の『レストラン(ラッカ・ロッカもしくはクオンハオン)お食事券』が当たっていた。
 一方、小さなモニターでは『余興』の録画映像も見ることができて、抽選を終えた者や、そもそも抽選に興味のない者はこちらに釘付けであった。会話もこれについてが中心であり、参加者は観客に徹した者達に当時の状況や感想を述べて楽しませ、逆に観客であった者達は参加者を誉めたり彼らの体験談に目を輝かせて相槌を打ったりと、とにかく話は盛り上がる。
 その中で、人気を集めている映像があった。
 フルセル氏とグラム・バードン公爵の一騎打ち、ハラキリ・ジジと公爵の一騎打ち、それからニトロの『ショー』と、何より、最後の『決闘』である。特に最も繰り返し再生されているのは、決闘の最後、それも決着時の交錯であった。
 ニトロの、あの王女の脇腹を確かに薙いだように見えた一振り。そこかしこでその一瞬を捉えた映像が限界まで拡大され、また限界までスローに落とされ、あるいは立体映像ホログラム化されて様々な角度から鑑賞されている。それぞれ現代最高水準のカメラに備わるハイパースロー機能、一台であれば簡易な、複数台のカメラのデータをリンクすれば詳細な立体映像作成機能等を用いた映像だった。限界まで拡大されても解像度の高い映像は、立体化してももちろん鮮明に像を作る。その他にもカメラは多様な分析機能も備えており、内蔵されたソフトウェアの計算の結果、交錯の瞬間、ニトロの剣先はティディアの鎧から0.1mm離れていたことが確認されていた。
 まさに髪一重であった。
 さらに詳しく分析した結果、剣速はニトロが上であったために肉眼では先に振り抜かれたように見えたが、実際に両者の剣の到達時間はほぼ同時であったことが判明する。続いて分析ソフトは驚くべき事実を視聴者に伝えた。ティディアが、突きを放ちながら胴をかすかに引いていたのだ。極めて最小限の防御、凄まじい見切りの技であった! また、ニトロが背を反らした無理な体勢で剣を振っていたため、その分両者のリーチ差はなくなっていた。加えてティディアは、あの刹那に、リーチ差を埋めるために柄の端のギリギリを握りこむテクニックまでをも披露していた。――勝敗を分けた、その三点の差異。そのどれが欠けてもタイミング的に相打ちと判断される状況であったことは、皆に新たな驚嘆を与えていた。
 何度見ても王女の天才性が際立つ。
 何度見てもそれに食らいつこうとする『英雄』の執念が際立つ。
 何度見ても、その映像は人心を感動させていた。
 ニトロ自身、詳細を知った時には思わず感嘆してしまったほどである。
 そして、あまりに遠い微差にティディアとの本質的な実力の大きな差を感じながら、
「よくこの角度で撮ってたなぁ」
 と、この決定的瞬間をベストポジションで捉えた映像(0.1mmの結論を引き出した映像)にも感心していた時、相変わらずカメラを担いでその辺をうろうろしていたヴィタが急にニトロへ近づいてきた。かと思えば、彼女はやたら自慢げに胸を張って一つ大きく鼻息を鳴らし、そうしてすぐに去っていった。……どうやら『奇跡』を最高の角度で撮っていたのは彼女であったらしい。
 ニトロが半ば感嘆に、半ば呆気に取られて得意気な女執事の背中を目で追っていると、次に彼女が内臓の面白センサーを働かせて向かったのは、現在ロザ宮に三箇所ある大きな人だかりの内の一つであった。その中心には、思わぬ活躍を見せたフルセル氏とその妻がいる。剣を持っていた時とは打って変わって恐縮しきりのフルセル氏と、夫を誇らしげに見る夫人の姿は微笑ましい。
 フルセル氏が注目を集めたのは、余興での活躍、その一回きりではなかった。抽選会の始まる直前、ニトロがハラキリと共に彼に礼を述べたのだ。「先生の姿には大いに学ばせて頂きました。公爵と“戦えた”のも、先生のお陰です」と。フルセル氏は、その時ばかりは恐縮せず、穏やかに礼を受け取っていた。しかし、そうして礼を受け取る彼には自己に対する誉れというものはなく、その双眸はむしろ二人の若者を誇らしげに見つめていた。――彼は理解していたのだ。ハラキリがじっと自分の戦いを観察し、参考にしていたことを。そしてニトロも彼の戦いから学んでいたことを。それらを理解していたからこそ、自分の期待に応えてみせてくれた若者の堂々とした姿を、彼は余計に誇らしく思っていたのだ。
 と、そのフルセルを取り囲む人だかりに、三つの人だかりのもう一つ、グラム・バードンを中心とするグループがぶつかってきた。それまで東大陸の伯爵を捕まえ何やら話し込んでいた公爵が、いくらか元気を取り戻した伯爵夫妻を解放するとすぐ、フルセル夫妻に挨拶をしにきたのだ。フルセル夫人は驚き身を縮めていたが、フルセル氏は剣を交えて何か通じるものがあったのか、旧知の間柄にあるような笑みを浮かべて改めて公爵と握手を交わしていた。
 老剣士達の作るその光景を、ヴィタはこれ以上ないベストポジションで撮影している。
(……さすがだ……)
 実に楽しげな女執事の周囲では、達人同士の交わす言葉を聞き漏らすまいと人々が耳を澄ませている。二つの人だかりが一つとなったことで、その人口密度は最大勢力に迫ろうとしていた。
 さて、その人だかりの“最大勢力”とは、無論ニトロ・ポルカトの周囲にある。
 給仕を務めている以上、いつまでもマスターの側にいるわけにはいかず、芍薬はとうに去ってしまった。ハラキリはフルセル氏への挨拶の時には戻ってきていたのに、直後、少し目を離した隙にまたふっとどこかへ消えてしまった。まるで彼の話に聞く地球ちたま日本にちほんの『ニンジャ』か『クノゥイチ』かのようである。ええい、腹立たしい。
 芍薬もいず、ハラキリもいず、パトネトは抽選会のためにコンピューターを操作している。となれば、一人きりとなったニトロにはここぞとばかりに遠慮のない声が振りかけられていた。主な話題は直近の『余興』についてであるが、中には過去の事件についてなかなか際どい質問をぶつけてくるご婦人もいる。完全に取り囲まれたことで逃げ道を失ったニトロは、余興の最中以上に孤軍奮闘の思いであった。しかも、ここにきて大きな問題が発生していた。――顔は覚えていても名を覚えていない、あるいは名は覚えていても顔は覚えていない客らが頻繁に現れたことである。この会のための予習中にマイナーどころを覚え切れていなかった部分もあるが、それよりも、あまりに『余興』に精魂を注ぎ込んだ反動で、折角仕込んだ短期記憶が半ば綺麗にすっ飛んでしまったのだ。これは非常に痛手であった。
(ああ、チクショウ)
 こういう時にこそ頼りたいのに……ッ本当に腹立たしい! あいつは一体どこに行ったんだ!?
(この思い、ハラキリに届け! たーすーけーてー、シショーーー!!)
 と、ニトロが、またも名を覚えていない同年代くらいの令嬢に話しかけられ、果たして彼女の名を呼ばぬままにどうやって切り抜けたものか、それとも周囲の誰かにどうにかして令嬢の名を呼んでもらってやり過ごそうかと苦慮していた頃……
 ハラキリは、中庭の噴水にいた。
 そこで彼は静かに水の音を聴きながら、グラスを傾けていた。そのグラスこそは、ミリュウが彼にこっそり持ってきた思わぬ『報酬』であった。
 ミリュウがハラキリに語ることには、彼女は交渉を終えた後もアンドロイドに没入スライドしたまま、給仕をやりつつ余興の行く末を見守っていたという(それと知らずに王女の給仕を受けていた者は、もしそれを知ったらどれほど驚くだろう)。
 彼女が再びハラキリの元にやってきたのは、彼がフルセル氏に『弟子』と共に礼を言い終えた直後だった。そこで彼女は彼に短くも最上の賛辞と礼を送ると共に、深い琥珀色を湛える一杯の蒸留酒を贈ったのである。それは、彼女の“財産”の一つでもある、二百年物のウイスキー。ちょうどここロディアーナ宮殿の地下酒蔵で厳重に管理・保管されている樽から持ってきてくれたのだ。ワンショットでも何十万リェンもするだろう。それをツーショットも。ロックや水割りなど、どれがいいか分からなかったからと彼女はストレートで持ってきていた。報酬は受け取らないと言っていたはずだが、妹姫は「注文のワインの銘柄を忘れてしまったので」と微笑み言った。ならば、そのような心ばかりの品を断る無粋を働くようなハラキリではない。
 ……彼は、歴史あるロディアーナ宮殿の中庭の中心でグラスを傾ける。
「二百年、ですか」
 長い時が凝縮したかのように濃厚な、それなのにまろみのある柔らかな極上の“命の水”を、ハラキリは、一人、風に乗ってくる薔薇の香りとロザ宮からのかすかな喧騒を聞きながらじっくりと味わっていた。
 空は非常に明るい。現在、宮殿の上空には外からの“目”を防ぐための虫型ロボットが作る『結界』があり、それが内側からはまるで星屑の作るドームに見えるためだ。
 星屑のドームの外側では、繁栄の輝きにぼんやりと煙る――それでも赤と青の双子月や一等級以上の星に飾られる天球の下で、多くの国民が声を張り上げ次代の君主を祝福していることだろう。だが、その声も今はドームに遮られて聞こえはしない。聞こえはしないが、それは宮殿の周囲のみに轟いているのではなく、確かに星中に存在する声であるのだ。
 ハラキリは過去に向けていた思いを、未来へと馳せた。
「二百年後に、この国の玉座はどうなっているでしょうねぇ」
 そしてそこには、一体誰と誰の血を継ぐ人間が座っているのだろうか。
 その頃には自分は死んでいるだろうが……さて? と、そこまで思って、ハラキリは小さく笑った。二百年の火酒じかんを一口飲み、それの与えてくる熱さに息を吐き、また別のことを思う。
 今夜、改めて思い知ったこと。
(ニトロ君は、本当に成長したものですね)
 頼りなかったはずの親友のまばゆさには目がくらむものだ。
 ハラキリは、また酒で舌を湿らせた。
 あまりの美味しさに、口元には二重の微笑が浮かぶ。
 この酒は、この味となるまで二百年の熟成を要している。が、我が親友はたった一年半であそこまでになった。彼は特に秀でた資質を持ち合わせているわけではなく、その点から言えば彼が凡才であることには今であっても間違いはない。なのに、彼はこちらの想定を軽く凌駕する成長を見せつけ、また、驚くべき結果を出し続けてきた。ティディア本人との『相性問題』の関わらぬところでも、例えばどうしようもなく腐り落ちかけていたミリュウの心を救い上げたように。
 ……果たして彼はこれ以上にもなるのか、ここでの開花が到達点となるのか――それはまだ判らない。しかし、もっと成長した彼の姿は目に浮かべることができる。
 ハラキリは思う。
 いや、彼は理解していた。
 自分は『早熟』であろうと。今後、自分は、この酒のように熟成の過程で技術がこなれていくことはあっても、されど早い段階で熟したために、これ以上は天井を持ち上げられないだろうと、彼はそういう確信を抱いていた。
 そしてその確信は、良くも悪くも己の能力を正確に見定めることを助け、そのために彼自身をこれまで何度も危険から救ってきた。それに、この見定める力があればこそ、彼はニトロ・ポルカトをこれまで何度も良く助けてこられたとも言えるだろう。
 だが、そう考える自分を、彼は今日、初めて、少しだけ嫌に思った。
 成長し続ける親友に比べ、成長の限界点を確信して自らそこで立ち止まるのは何とも情けなくはないか? 『ニトロ君に頼るだけになるかもしれない』――その予感を抱いた時に、自分は寂しさのようなものを覚えた。しかし今思えば、それは寂しいと言うよりも、自分にとってどうにも恥ずかしいことではないのだろうか。この時点で既に『頼ること』を前提にするなどとは……それを確信するなどとは、あまりに、そう、
「面白くありませんね」
 我知らず呟き、思わずハラキリは苦笑する。
 何とももう一人の友達のようなことを言ってしまったが……とはいえ、実際……面白くない。
 ――さらに言えば。
 ニトロ・ポルカトは、ハラキリ・ジジから多くのことを学んでくれた。それと同時に、ハラキリ・ジジもニトロ・ポルカトから多くのことを学ばされてきたはずだ。親友は学んだことを身にしている。素直に人生を彩るための糧にしてくれて、そう、驚異の成長を見せてくれている。なのに、こちらは彼から学んだことをただ漫然と記憶の中に存在する情報だけに留めておくのか? 身にもせず、人生を彩るための糧にもせず。
 ハラキリは、息を吐く。
 そういえば以前、母は『友は良いぞ』と言っていた。ニトロと会って実際良いものだと思ったが、今またその思いを新たにする。
 そうだ。
 自分は親友に確かに多くを教えたが、それと同時に親友から多くを学びもしたのだ。
 ――ならば?
 さらに気になるのは、もう一人の友達も、最愛の男との決闘の最中に何やら心理的に一つ進化したように思えることだ。ある意味で完成されていたはずの彼女までもが成長して、前に進んでいるのだ。
 ――ならば?
 彼はもう一口、酒を含んだ。
 二百年の時間を舌の上で溶かし、熟成の過程で樽の香りを取り込んできた火酒の、その堪らなく芳しい香りに鼻をくすぐられながら彼はつぶやく。
「拙者も、負けてられませんね」
 ――その頃、ニトロは驚いていた。
 ニトロを取り囲む皆も驚いていた。
 彼の目の前にはシァズ・メイロンがいて、苛烈なほどに熱烈な『ティディア・マニア』で知られる西大陸の伯爵は、ニトロ・ポルカトへ……筋違いな上に一方的なことなれども真実『恋敵』である男へ、その右手を差し出していたのである。
 ニトロはひどく戸惑ったが、しかし、断る理由はない。微笑を浮かべてシァズ・メイロンに応じて握手をした。するとシァズ・メイロンは握手には適さぬ力でニトロの強く手を握った。ニトロは顔色を変えず、それに応える力で握り返した。その時、シァズ・メイロンは顔を真っ赤に染め、唇をわななかせていた。何かを言おうとして言えないでいるらしく、その様子は彼の抑えられた感情の強さを見る者に伝えた。無論、ニトロにも伝わっていた。ニトロは伯爵の手を握ったまま、彼を見つめていた。真っ直ぐに、怒りと悲しみを綯い交ぜ、流れぬ涙を必死に堪えている男の瞳を真摯に見つめ返し続けた。
 ややあって、シァズ・メイロンはニトロ・ポルカトへ深々と頭を垂れた。
 長い時間と思えるほどに頭を垂れ、そうして彼は何も言わずに踵を返すとそのまま去っていった。
 感嘆とも驚嘆ともつかぬため息が周囲にこぼれた。
 押し込められた激情が沈黙によって紡いだ物語、それをまざまざと目にした恍惚が場に溢れていた。
 そしてニトロの苦笑せざるを得ぬことに、その時にも鼻敏くヴィタがいて――もし獣人化していたら遠慮なく耳をパタパタさせていたであろうくらいの喜色を浮かべて傍でカメラを回していた。
 ……やがて、抽選会が終わった。
 最後の時ばかりは皆、抽選会に注目していた。
 当選を待つ二人を残してドラムロールが鳴る。1等が当たったのはロザ宮玄関でニトロとパトネトに鉢合わせした紳士(息子)であり、特賞が当たったのは、奇しくもあの不運なアンセニオン・レッカードであった。
 アンセニオン・レッカードはその時、即座に宣言した。
「この栄誉を、フルセル氏に譲りたい」
 フルセル氏は9等の商品券5万リェン分が当たっていた。それだけでも十分と思っていたところに驚くべき申し出である。彼が慌てふためくところに、意気投合して共にグラスを傾けていたグラム・バードンが「受け取られよ」と強く勧めた。公爵だけでなく、招待客の誰もがそれを勧めていた。ニトロも拍手を送った。
 結果、フルセル氏はアンセニオン・レッカードの申し出をありがたく頂戴した。
 アンセニオン・レッカードはこの行為により、一つ名誉を回復していた。
 仕事を全て終えたパトネトは――皆驚いたのだが――壇上を駆け下りると周囲に人がいるにも関わらずニトロの元へと走った。
 ニトロもまた、驚いていた。
 迎えに行こうかと思っていた矢先に、パトネトが自ら走ってきたのだ。人の間をすり抜けて、多少瞳の中には周囲への怯えがあれども、それでも笑顔を浮かべて一人で走ってきたのである。ちょうどニトロがそろそろ名も知らぬ貴族や政治家相手に誤魔化し切るのも限界に感じていた頃でもあった。驚きながらも、彼には可愛いパトネトが本気で天使だと思えた。
 ニトロは飛びついてきたパトネトを抱き止め、その頭を撫でた。パトネトは『余興』でのニトロの活躍への賛辞を口にしながら、一方でニトロに誉められている嬉しさで一層顔をほころばせていた。
 愛らしい王子の作った微笑ましいワンシーンが過ぎると、やにわに招待客らはそわそわとし始めた。
 11時40分。
 そろそろ……王女が戻ってくる頃合であろう。
 それを思えば、飲食や会話を楽しみながらも、気もそぞろになるのは無理もない。
 11時50分を前にして。
 ニトロがビュッフェ台から小ぶりなサンドイッチをいくつか取り、パトネトと並んで齧っている時だった。
 給仕達がグラスや皿を手にする招待客らに声をかけた。ニトロにも一人の(アンドロイドではなく、人間の)ウェイトレスが上品に言葉をかけてきて、ウェットティッシュを差し出した。ニトロはその意味を察してサンドイッチの残る皿を預け、手渡されたウェットティッシュでパトネトと共に手を拭った。
 11時50分。
 楽団が、曲を変えた。
 それまで演奏していた曲はニトロの知らぬ穏やかな曲であったのだが、今度の曲は彼も良く知るものであった。
 その曲の名は『王に祝福あれ』と言う。何かしらのイベントの折、王族を迎える際に流される、短くも清らかな響きが印象的な曲だった。
 およそ二分間の演奏が流れる間に、速やかに、壇の回りに皆が集まっていった。
『余興』の熱にてられでもしたのかやけに積極的なパトネトに手を引かれ……その『余興』で負けた手前もある、ニトロは仕方なく壇の正面で、弟王子と共に皆を代表して王女を出迎えることになった。
 腹立たしいことに、気がつけばハラキリがいつの間にか戻ってきて良い位置をキープしていた。ヴィタの背後である。ちらりと睨むと、彼はへらりと笑い返してくる。相変わらずの親友の姿にはもう笑うしかない。が、ここで笑みを刻めば、それは『恋人』を迎えるための微笑みだと誤解されると、ニトロは唇を一文字に結んで――そのためとても凛々しい立ち姿で――ティディアを待った。
 やがて演奏が終わり、ゆっくりと、壇上の扉が開いた。
 蕩けるようなため息が、溢れた。
 衆目の集まる先。
 そこには、美しいドレスに身を包む蠱惑の美女がいた。
 大きく肩を出した純白のドレス。
 二の腕にかかるほど開かれた、緻密なレースに飾られた大きな襟。露となった胸元は、そのレースのために扇情的というよりも優雅で気品に溢れ、また、柔らかな谷間の作る滑らかな流れが際立たされている。
 全体的にはシンプルに見えるドレスであるが、実際はそうではない。王女の美しい乳房の形やウェストからヒップにかける芸術的な曲線を活かすラインは秀逸と言う他なく、ひだやレースの作る陰影が、白一色であるのはずのドレスをまるで濃淡ある数種の白を巧みに塗り合わせているかのように演出していた。引き締まったウェストの下はふわりと柔らかに落ちるスカートで、彼女が一歩進むと脚線美が幽かに透けて見え、その裾は羽毛のように軽やかに翻る。翻る裾から覗く靴も白であった。そして一口に『純白』と言っても、それはティディアの肌色を最も映えさせる『純白』である。
 ある意味では、一方で伝統的なウェディングドレスを想起させる装いであった。
 しかし一方では“〜ドレス”というカテゴリを忘れさせる装いでもあった。
 それは、つまり、そのデザイン、色、生地、見た目の印象、全てがティディアのためにあるドレスであり、それこそは、ティディア以外のためには存在しえないであろう唯一無二のドレスとなっていたのだ。
 彼女は肘まで覆う白い手袋もつけていて、肌の露出はそのために少ない。
 それなのに、そのドレスが彼女の肌にあまりになじんでいるために、ともすれば彼女は裸身を晒しているようにも思えてしまう。彼女は無数にダイヤモンドの輝くネックレスやイヤリングなど装いにアクセントをつけるためのアクセサリーを身につけてはいるが、それら人の目を引くはずの高価な貴石ですら彼女の肉体と自然に融け合っている。
 思う存分見惚れた後にようやく思いを巡らせれば、ティディアの頭にティアラはないことに気がつく。それは彼女が一人の女性としてここに現れたことを意味していた。
 上品に紅の引かれた唇は魅惑的な微笑を刻んでいる。
 それぞれのパーツを特に際立たせようという化粧もしていないのに、目鼻、口、それぞれのパーツがはっと息を飲むほど心を惹いてならない。
 黒紫の髪が純白の上で艶めき、長い睫は涙に濡れているように妖艶に揺れ、魔的に輝く黒曜石の瞳は、目の合った人間の魂を吸い込むかのように底深い。
 ティディアが二歩目を踏み出した時、突然、拍手が鳴った。
 誰もが蠱惑の美女の虜とされていた中で、ニトロと同じくその魔力に囚われぬハラキリが初めに手を鳴らしていた。
 追って我に返った皆が熱心に拍手を打ち鳴らす。
 歓声はない。
 言葉は全て感嘆の吐息に変じてしまっている。
 男も、女も、老いも若きもアデムメデス史上最も美しい王女の色香に酔いしれていた。
(何度見ても……ほんっと恐ろしい奴)
 彼女の実弟であるパトネトまでもが、声にならない歓声を上げ、瞳を輝かせて姉を見上げていた。視界の端では人間の給仕達も仕事を忘れて動きを止めている。楽団は音を立てない。それがシナリオなのか……いや、きっと心を奪われているのだろう。元気に動いているのはアンドロイド達と、猫を思わせる動きで客の目を邪魔せず時々刻々と変わるベストポジションを取り続けるカメラマン――ヴィタだけである。
 ため息と拍手の中に、ようやっとざわめきが混ざり始めた。
 その頃には、ティディアは壇を降り、ニトロの眼前にやってきていた。
 自然と拍手が止む。
 ざわめきはひそひそ話に変わり、それもやがては無音となる。
 ティディアも沈黙していた。
 彼女は黙って佇み、じっと想い人を見つめていた。
 彼女の眼差しはあることを雄弁に語っており、それを読み取ったニトロは胸中にため息をつき、
「――誰かに、お願いを聞いてもらいたいんだったな」
 ほんの微かに、ティディアの瞳に失望の色が差した。
 それに気がついたのは彼女と正対するニトロとパトネトだけだった。
 パトネトがニトロを非難し繋ぐ手に力を込める。
 しかし、それにはニトロは応えない。
 ティディアは『誕生日おめでとう』、もしくは『ホーリーパーティートゥーユー』という言祝ことほぎを要求していた。あるいは『似合っている』や『綺麗だ』という誉め言葉を欲していた。だが、パトネトにも自分が“ティディアが嫌いだ”ということは既に伝えてある。世辞を言う義理もない。どれほど負けたとしても。ここは譲らない。
 ニトロは言う。
「お前は、誰に、何を願いたい?」
 彼の意志が伝わり、パトネトがゆっくりと手を離そうとして、と、もう一度手を強く握ってから手を離す。
 ティディアは小首を傾げるようにして頑固な想い人を見つめていた。
 しかし、彼女も弟と同じくやがて諦め、言った。
「私が願うのは、あなたに」
 華やかな声が無音のホールに響く。
 誘われるように一瞬、周囲がさわめく。既に皆、今日この場での“ご成婚”の確約がないことは承知している。先の余興でのやり取りから、姫君はあくまで恋人が己を――才媛という言葉では追いつかない希代の王女を――納得させるプロポーズをしてくれることを待っていて、おのずから恋人に結婚を求める意志のないことは明らかだ。
 では、この王女は恋人に一体何を願おうと言うのか。
 周囲には期待と不安がある。きっと『ティディア姫』らしく思いもよらない素敵な願いをするのだろうという期待と、『クレイジー・プリンセス』らしく無茶苦茶な願いをするのかもしれないという不安とが。
 周囲の囁きが静まるのを待ち、ニトロは真っ直ぐティディアを見つめる。
「俺に、何を願う?」
 彼は、世辞は言わずとも、この『願い』の件には応えようと心に決めていた。何しろ自分で勝負に乗っておきながら、自分が負けたから拒否する――などとは無様に過ぎる。そんなことをすれば、様々なリスクを背負いながら勝ち切ってみせたティディアに心根までもが完全に敗北してしまう。それは意地とプライドが許さない。
 ティディアは敢然としたニトロの表情にそれを読み取り、目を細めた。
「何でも聞いてくれる?」
「事と次第によっちゃツッコミくれてやる」
 瞳の奥には“覚悟”を刻みながらも、しかし表面上は“いつも通り”のニトロの返しに小さな笑いが起きる。皆、笑いながらも王女の願いを今か今かと待っている。
 ティディアは、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。つられたように、そこかしこからも深呼吸の音がした。
 そしてティディアは、そのすらりと美しい右手を、そのたおやかな甲を上向けてニトロへと差し出した。
「?」
 ニトロが眉をひそめる。
 怪訝な様子が周囲に満ちる。
 ティディアは声が震えそうになるのを懸命に抑えて、微笑み言った。
「ダンスの、お相手をしてくださる?」
「へ?」
 思わず、ニトロは間抜けに声を上げてしまった。
 そのあまりに慎ましやかな願いを聞いて周囲にも戸惑いの声が上がった。
 しかしティディアには少しも冗談の色はなく、その目には純粋な希望が満ちている。
 ――だからこそ、彼女の願いは、悪い意味で皆の意表を突いた。
 小さからぬ失望の気配が周囲に溢れた。
 ニトロは、それも無理からぬことだと思う。
 あれだけの激闘の報酬がダンスの相手?
 そんなことを望まなくても、これからこのホールでは舞踏会が開かれるだろう。ティディアが策を弄すれば――周囲から見ればティディアは当然――ニトロを相手にいくらでも踊れることだろう。
 それなのに?
 それなのに、そんなことを願うのは愚かに過ぎはしないか?
「これが私のお願いよ、ニトロ・ポルカト。愛しいあなた」
 それでも、駄目押しの言葉を、ティディアは微笑のままに、それどころか少女のように頬を赤らめて言う。
 確かに――ニトロから見れば、その願いはティディアの一つの策に違いなかった。ティディアが策を弄すれば……そう、これこそがその策に違いない。とはいえ、そうは言っても、彼女にとっても滅多にないくらいの絶好機をこんな願いで? ニトロは、周囲とはまた別の意味で深く驚いていた。確かに、こいつは北副王都ノスカルラで『私はニトロと一緒にダンスをする』とかなんとか言っていた。けれど……正直、かなりの無理難題を、それとも相応に涙を呑むことを願われることまで覚悟していたのに……
「……」
 ニトロは、ティディアを見つめた。
 ティディアもニトロを見つめ返す。
 その無言の見つめ合いに、周囲に広がっていた失望の気配が飲み込まれていく。
 王女の瞳には燃えるような色があった。
 その色は、生命の色。
 見れば胸元までほのかに赤らんでいる。
 そうして見つめ合う中、ティディアは己の体が焼けるように火照っていることを自覚していた。
 そして、その熱の中心核に何があるのかも自覚していた。
 ここにきて『弱い私』が息を吹き返したのだ。
 さっきはあんなに熱く斬り結んでいた彼に今は熱く見つめられて、心臓が早鐘を打ち、身を震わせる『弱い私』が私の膝をも震わせているのだ。
(……そうね)
 しかし、ティディアはその心を、その自分の真心を押さえつけることはしなかった。
 北副王都で一度認めたように、改めて『弱い私』を認める。
 確かにお前がいると、色々邪魔だ。ニトロと戦っていた時のような昂揚や幸福は味わえない。
 だが一方で、『弱い私』がいなければ彼に恋することもできないのだ。こうして熱い想念にくらくらしながら、彼に受け止めてもらいたいと期待する……このあまりにも幸福な時間を過ごすこともできはしないのだ。
 だから、『弱い私』――彼とこうしている時は、お前が私を幸せにして欲しい。お前は私が幸せにするから……お前も、確かに私には必要だから。
「……」
 沈黙は長かった。
 いや、時間にすれば十数秒である。
 それでもティディアにはニトロの返答を待つ時間が永遠にも感じられた。
 ――と、ニトロが表情を変えた。
 彼は彼女の願いを告げる際の口調から、自分がどのような台詞回しと行動で応えればいいのかを理解していた。
 本音を言えば、いくら予想より軽い願いとはいえ、いつもなら絶対に聞き届けないものである。
 それでも彼は微笑みを浮かべた。
「身に余る光栄、喜んでお受けいたします。
 我が、愛しきプリンセス」
 そう言った直後、彼は微笑みの影にほんのわずかな間、ティディアにだけ解る表情を見せた。酸い虫と苦虫を同時に噛み潰したような顔であった。
 ティディアは、唇を少しだけ彼をからかう形に歪ませた。
 ニトロは息を一つ吐き(それは緊張をほぐすためのものだ)そして王女の前に片膝をついた。恭しく貴婦人の手を取り、一度恥ずかしげに躊躇い、それからそっとその手にキスをする。
 黄色い歓声が上がった。
 ――その瞬間、ティディアは、死ぬかと思った!
 ニトロの唇を手に受けた時、そこから全身に強烈な電撃が走り、それと同時に心臓が破裂しそうなほどに膨張したのだ――それとも、心臓が潰れてしまいそうなほどに収縮したのだ。
 腰が砕けてへたり込みそうになるのを必死に堪え、彼女が胸の痛みのあまりに大きく息を飲んだ音は、しかし招待客らの大きな歓声によって誰にも、ニトロにも聞かれずにすんだ。
 ニトロが立ち上がり、すると彼の背後の招待客らが心得たとばかりに二つに割れる。その先にはホールがある。先刻は戦場、これからは舞踏会場となる無人の踊り場が。
 ティディアはちらりと時計を見た。
 11時58分。
(ああ)
 何て素晴らしいタイミングだろう!
 ティディアは思わずため息を漏らした。遠慮なく自惚れ、誰に憚ることなく自画自賛して回りたい。今日この日、私は誰よりも幸運に恵まれているのだ――
 と、その時、
「きゃ」
 小さく、ほんの小さくティディアは声を上げた。
 彼女の右手を左手に受け直したニトロが、その力強い右手を彼女の背に回し、彼女の体をぐいと引き寄せたのだ。それにしても不意を突かれた彼女の唇を割って出たのはやけに可愛らしい声であり、彼女は恥ずかしげに口をつぐんだ。
「……なんだよ」
 ティディアに思わぬ反応をされてしまい、ニトロが口を尖らせて問う。
 息のかかるほど間近にある彼の瞳を覗き込み、ティディアは目を潤ませ、未だ少しの恥ずかしさが残る口で小さく言った。背中に触れているニトロの手の温もりにまどろむように、柔らかに、
「嬉しいのよ」
「ああ、そうかい」
 ぞんざいに応え、ニトロは彼女をリードするように足を踏み出す。
 一息を挟む間もなくティディアも彼に合わせる。
 ミリュウの成人お祝いのパーティーで一度踊っているため、互いの呼吸は解っている。特にティディアはダンスも名手であるために、彼にリードされるように見せかけながら、それでいてどちらがリードする必要もなく二人の呼吸は抜群に合っていると強調することもお手の物だった。
(ごめんね、ニトロ)
 招待客が開けた道を通りながら、ティディアは胸の中でほくそ笑む。
 ふと、忌々しそうに立ち止まっている給仕アンドロイドの姿が彼女の視界に入った。
(流石、芍薬ちゃんはもう気がついたのね)
 そう、このダンスは、ティディアの最後の仕上げだった。
 王女ティディアはニトロ・ポルカトの頼みであっても簡単には聞かない――その厳しさ。
 その反面、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナはニトロ・ポルカトを心から愛していて、そして二人は愛し合っている――その証明。
 無音の中、ステップを踏みながら招待客らの作る囲みから抜けていく最中さなか、ティディアは企ての成功を確認していた。それと同時、ニトロの眉間にかすかに影が走る。やはり彼も流石だ、気がついたのだ、こちらの狙いに。が、彼はもう抜け出すことが出来ないことをも察していた。次に彼の眉間に現れた諦観に、ティディアは目を細める。
(そうよ、ニトロ、あなたも大正解)
 先ほど、ダンスを所望した王女には確かに失望が向けられていた。
 だが、失望はとっくに消えている。完全に消え去っている。それどころか先ほど失望したことを恥ずかしく思っている者までいることだろう!
 何故なら、たった一歩目からあの比翼の白ツバメのようにぴたりと息の合った二人の姿は、そう、二人はまさに比翼の白ツバメなのだと皆に確信させていたのである。
 これこそが、最初の登場時にわざわざ神話を想起させたティディアの狙いであった。
 神話に語られ、現代にまで語り継がれるほど理想的な愛の顕現。
 この愛の形を見て失望し続けられる者がいるだろうか。
 この愛の確認を望む女の心へ失望を向けたことを恥じぬ者がいるだろうか。
 そして、先の失望があればこそ、それを一瞬にして拭い去った私達の愛の姿はより鮮明に皆の記憶に刻み込まれる。
 この素晴らしい光景を、あの『社交界の情報源』は恍惚として言いふらすだろう。他にも噂好きの女達は多くいる。男達もこの光景を見る栄誉に預かった身を他者に誇るだろう。様々な階級から招待された客達は、ニトロ・ポルカトへの無責任な期待を寄せることへの恐怖リスクと共に、次代の君主夫妻が睦まじく踊る姿を彼ら彼女らの生きる様々な社会に大声で伝えてくれるだろう。
 そうして王家広報から流される誕生日会のダイジェストを証言者達の誇張された言葉が補強して、アデムメデスはその情報に支配されるのだ。そうやってニトロ・ポルカトが何を否定しても抗えぬ強固なイメージが構築されるのだ。
 ――嗚呼!
 今日は、本当に思惑の何もかもが上手くいった!
 幸運に助けられたとはいえ、いや、なればこそ、困難なミッションを、完全無欠にクリアした充足感がティディアの満ち足りた胸をさらにさらに熱くする。
 また、一連の幸運を思えば、『運命』と言う言葉が好きではないティディアであってもそれを意識してしまう。特に、この誕生日会にあって重要な働きをしてくれたあの老夫婦が北副王都ノスカルラで抽選に当たってくれたことには、初めて真心を込めて幸運の女神に感謝の祈りを捧げたいくらいだった。
「……ねえ、ニトロ。フルセル夫妻は、とても素敵なご夫婦ね」
「ああ」
「将来、私達もあんな風になりたいものね」
 ニトロは、一瞬唇を引き絞った。このまま何も応えたくないが……しかし、それはフルセル夫妻に失礼となる。不意にもたらされた王女のあまりに過分なる言葉に息を飲んでいる老夫婦の姿を目の端に、彼はやられたと思いつつも、言った。
「ああ、そうだな」
 その声は観客にも聞こえ、ため息を呼んでいた。
 ニトロはティディアを睨む。
 ティディアは彼にだけ見える程度にちらりと舌を出す。
 彼女の頬からは満足と至福のために微笑が絶えない。
 一方ニトロはぶっきらぼうな顔でステップを踏み続ける。
 やがて、良いタイミングで、二人のリズムに合わせて楽団が演奏を始めた。
 二人のステップに合わせてワルツの曲が奏でられた瞬間、一気にホールが華やいだ。まるで庭の薔薇がホールにも咲き誇ったかのようだ――二人きりで踊る『恋人達』を見つめる皆にはそう思えてならなかった。
 と、突然、中空に浮かぶ時計が軽やかな鐘の音を鳴らし出した。
 12時の鐘であった。
 鐘の音はワルツと同じ三拍子で打たれている。
 踊りながらホール中央に移っていた二人の頭上で、溶け合うように調和して踊る二人を祝福する鐘が燦爛さんらんと鳴り響いていた。
 楽団の音と鐘の音は奇跡的なまでに融合し、その美しい音色のあまりに涙を流す者がある。そして流れる涙は美しい音色のためにのみではない。美しいハーモニーの中、おお、二人きりで踊る恋人達はまた一段と美しい!
「ホーリーパーティートゥーユー! お姉ちゃん!」
 そう叫んだのはパトネトだった。
 信じられないくらいに元気で大きな声だった。
 思わず周りの大人たちが仰天する。
 しかし、皆はすぐに王子に追随する。
 グラム・バードンが、シァズ・メイロンが、アンセニオン・レッカードが、東大陸の伯爵夫妻が、ライリントン嬢とその父が、噂好きの夫人とその娘が、クロムン&シーザーズ金属加工研究所のモーゼイ代表とその妻が、フルセル夫妻が、ヴィタが、ハラキリが――片隅でこっそりとミリュウが――その場にいる全ての人間が、鳴り続ける12時の鐘の音に重ねてティディアの誕生日を声高らかに祝う。
「ニトロ」
 踊りながら、ティディアは涙を浮かべてニトロを見つめた。その唇は震えていた。
「私ね、こんなにも幸せを感じたことはないわ」
 ティディアの背中に回したニトロの右手には、彼女の心臓の音が伝わっていた。
 ――心臓の音だけではない。
 掌に感じるティディアの体は、火のように熱い。
 ニトロの脳裏に、あの『隊長』の率いる『王立ティディア親衛隊』に襲われた時の記憶が蘇る――あの時もティディアは“俺のため”に動いていたが、それでもまだあの時は“作為”が勝っていたと今でも確信している。だが……当時のミリュウは、驚いていたという。お姉様が生涯初の風邪を引いたことに、それとも、お姉様に“風邪を引かせた存在”に。……遡れば、あの頃から、なのだろうか? 俺を『夫婦漫才の相方』という道具として利用したいだけだったはずのバカ姫様が心を移ろわせてきたのは。あの時から、ティディアはこの熱を生む『病』にも罹っていたというのだろうか。
 あの夜、この背に負ったティディアの体は熱かった。
 けれど、今夜、こうして向かい合って触れるティディアの体は記憶の中よりもずっと熱い。伝わってくる熱は、ずっと温かい。
「……」
 ニトロは、口の片方だけを引き上げ、
「ああ、そうかい」
 それだけを言った。
 ティディアがニトロを覗き込む。
「……それだけ?」
「そうだよ」
「いけずー」
 そうは言うものの、ティディアの顔から微笑みが消えることはない。
 そこでニトロは苦笑とも仕方無しの笑みとも言えぬ表情を浮かべ、言った。
「でも、これだからこそ――なんだろ?」
 その笑顔は、そうだ! ティディアの愛してやまないニトロ・ポルカトの、お人好しの笑顔に違いなかった。
「ええ、これだからこそよ」
 ティディアはうなずき、瞳を煌かせて麗しく微笑んだ。
 12時の鐘が鳴っている。
 祝福と美しいメロディに包まれて、彼女は愛する男性と共に幸せに踊る。
 ティディアの21度目の誕生日は、彼女の人生における最良の日であった。

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