7−d へ

「  え?」
 ニトロの手からこぼれた剣が床と硬い音を立てる中、いの一番に疑問の声を上げたのは、敵が倒れたことで戒めから解かれたミリュウだった。緩慢に体を起こし、何が起こったのか全く解らない様子で石床に座り込み、傍らに横たわるニトロ・ポルカトを力なく見つめる。ふと見れば、アンドロイドの“ミリュウ”も動きを止めていた。
「……え?」
「主様!?」
 ほとんど吐息であるミリュウの疑問を掻き消し、霊廟に芍薬の悲鳴が轟いた。
 人には適わぬ速度で駆け寄ると、ミリュウのことなどは捨て置きマスターの様子を調べ始める。頭の傷は――浅い。浅すぎる。血は滲んでいるが、投薬用素子生命メディシン・クローラーの止血剤が機能してそれも既に固まっている。脳にダメージがいくようなものでは決してなく、間違っても人が昏倒するようなものではない。
 しかし、ニトロは完全に気を失っている。
 呼吸、脈拍は戦いの影響の範囲内。異常はない。……いや、脳波に異常がある!
「フレア!!」
 芍薬は激怒した。茫然としているミリュウ姫はこの件に関わっていまい。何しろアンドロイドが動きを止めているのだ。ならば、これは、
「答エロ!」
 事の次第を。
 芍薬はフレアの『起爆プログラム』に手をかけていた。
――「手伝エ」
 そこにフレアが通信を使い告げてきた。
 確かにこちらの方が速い。芍薬は怒りのあまり我を失いかけていたことに気づき、『起爆プログラム』に触れたまま、フレア達を泳がせていたのはどうしようもないミスであったかという慙愧と激しい自責に震えながら、相手への怒りと自分への怒りがない交ぜとなった憤激をぶつける。
――「ドウイウツモリダ!」
――「貴様ノ助ケガ要ル。命ニ別状ハナイ。ガ、マスターヲ助ケラレルノハ貴様ダケダ」
――「ダカラ――!!」
――「今ニ解ル」
 芍薬は、気づいた。
 階段を下りてくる無数の人影に。
「……」
 ミリュウが、冷たい石床にへたり込んだまま、芍薬の視線に気づいてそちらへ目をやる。
 全く事態についていけていない彼女は視線の先にいたパトネトの姿に、愕然とした。もはや全ての痛みも忘れ、こちらへ歩いてくる小さな弟を見つめ続ける。
 パトネトは背後に数十人のアンドロイドを引き連れていた。それは明らかに機械的であり、信徒のような精巧なものではない。
 やがてパトネトが姉の前に立つ。
「チョーカーが『故障』していることが分かったよ」
 その言葉に、ミリュウはぽかんと口を開けた。
 パトネトはそのことに、シェルリントンタワーの控え室でわたしが用意してきたチョーカーを見た瞬間に気づいていたはずだ。あの時はそれに言及しなかったのに、今になって、何故?
 ミリュウが再び茫然とする傍らで、姉弟のやり取りを見ていた芍薬はあることを確認していた。
 マスターがミリュウを捉える瞬間、怒りを覚えていたことは知っている。マスターはこう思っていた。ミリュウには敗北が決まったというのに“嫌な余裕”がある。ということは――
(ルッド・ヒューランノ読ミ通リ、ドウアッテモ死ヌツモリダッタカイ)
 芍薬は見つめあう姉弟を見守っていた。マスターの容態に変化はない。確かに命には別状はなさそうだ。ならば、もしあの女執事の証言がなければ、こちらが二人分の対策をしない限りはどうあってもマスターの敗北であった状況を変えた王子の思惑を知ろう。
「パティ?」
 やっと言えた――という様子で、ミリュウが弟へ呼びかけた。
「どういうこと?」
 パトネトは悲しげに眉を垂れていた。
「ごめんね、お姉ちゃん」
「え?」
 弟の意図が全く掴めず、ミリュウはただ混乱する。彼女は気づいていなかった。チョーカーを除き、その肌に刻まれた『聖痕』が輝きを増していることに。ニトロの『烙印』も輝きを増していることに。
「僕は、お姉ちゃんの敵かもしれない」
 と、パトネトが言った直後、ミリュウが気絶した。
 弟の言葉にショックを受けて?――そんなわけがあるはずもない。彼女の倒れ方はニトロのそれと全く同じであった。
「芍薬」
 パトネトがニトロを抱きかかえる芍薬へ顔を向ける。人見知りというわりに――芍薬がA.I.であるからだろうか――存外力強い口調だった。
「手伝って」
 フレアと同じことを言うフレアのマスターに、芍薬は敵意を向け、
「助力ヲ請ウナラ、マズハ誠実ニ語ルモンダヨ」
 言われたパトネトは、そうだった、とばかりに表情を変えた。
「大雑把に言って、今からニトロ君にお姉ちゃんの心に入ってもらうんだ」
「――ハ?」
 流石に芍薬は呆気に取られた。その『理論』は知っている。そしてそれが現在実証段階にあり、法や倫理にも課題を抱え、つまり、人と人の精神を“直接・安全に”繋げる技術と装置は未完成だということも知っている。現行の技術を応用して“間接的・曖昧に”繋げるだけなら可能ではあるが――
 パトネトは芍薬の戸惑いを察し、首を振った。
「違うよ。仮想空間も利用するけど、お互いの感じていることをお互いに、自分が感じているよう感じあえるように、本当に可能な限りお姉ちゃんの頭に“没入”してもらうんだ。烙印と聖痕が、もう二人をつなげてる」
 芍薬は理解した。理解して、叫んだ。
「馬鹿ナ!」
「ニトロ君は『ウシガエル』の夢を見たでしょ?」
「!」
ミリーの幻覚を見たこともお城でフィードバックして確認した。大丈夫、うまくいくと思う、ううん、絶対にうまくやる。だから助けて。ニトロ君がお姉ちゃんに『埋没』しないように、ちゃんと二人の心をつなげながら混同させないように、君がニトロ君を守って」
「……ソノタメノ『計算機』カイ」
 芍薬はパトネトの背後に並ぶアンドロイドを一瞥した。パトネトはうなずく。
「……前代未聞ダヨ」
「うん。でもフレアから聞いた。マスターのこと『人並み』に知ってるって。もし『完璧』に知ってるなんて言われたら中止するつもりだったけど……」
 そこで芍薬は気づいた。
 パトネトは、震えている。
 芍薬は言った。
「ヤロウトシテイルコトハ洗脳ナンテ生温イ、少シデモ間違エレバ取リ返シノツカナクナル『改造』ダヨ? 最悪、二人ノ人格ガ混同シテ『精神キメラ』ガ出来上ガル」
「そうならないように気をつける」
「ソシテ何十モノ法ニ触レタ人体実験ダ」
「ごめんね」
「……謝レバイイッテモンジャナイ。何ニシタッテ後デ主様ニ怒ラレルコトダネ」
「それは……やだ。怖いもん」
 言って、しかしパトネトは拳を握り、涙を浮かべる。
「でも、僕はお姉ちゃんが大好きなんだ。だから僕はお姉ちゃんを助けたいんだ」
 情を動かせば可憐な王子の頼みをそこで断れる者はないだろう。が、芍薬にとっては、王子の心より主の安全が優位だ。それに芍薬にはひどく気に食わないことがある。
「モシ、断ルト言ッタラ?」
 パトネトは唇を噛み、芍薬がそれに対して怒りを感じていることを解りながら、それでも言った。
「ニトロ君を人質に」
「コッチハフレアノ命ヲ握ッテルンダヨ? ソレトモ、あたしハ愚カニモ騙サレタカナ?」
 するとフレアが言う。
「私ノ“命”ナドミリュウ様ト比ベルベクモナイ。殺サバ殺セ」
 パトネトは唇を強く噛んで、じっと芍薬を見つめている。
 ……どうやら、全ての言葉に偽りはないらしい。
 芍薬はため息をついた。
 マスターならどう答えるか考え、そしてお人好しのマスターの答えを聞いたような気がして苦笑いを浮かべる。
 それから安らかな息をつくミリュウを見、
「何デコンナニ愛サレテイルノニ……」
「『愛されていれば人は生きていける――などとは幻想に過ぎない』」
 ふいにパトネトが仰々しいことを言った。
 芍薬は口元を――マスターのように引き上げ――応える。
「アデマ・リーケイン著『リオナ、それともパメラ・レオニラル』」
 パトネトはうなずく。
 芍薬はやはりマスターのようにため息をついた。
「フレア、気ヲツケナ。注意シテオカナイト、コノ子ハ『バカ姉』ソックリニナルヨ」
「実ニ素晴ラシイ」
 即答され、芍薬は言葉を失った。主様なら絶対に即行のツッコミで正している。しかし自分は唖然としてしまって何も言えない。主様がツッコンでくれないとこのバカ共は野放しに――
 芍薬は悟った。もはやあたしの取れる道は一つしかない。
「……承諾シタ。早ク主様ニ復帰シテモライタイシネ」
「良かった」
「ドコカラ初メルンダイ?」
「今、お姉ちゃんの中にお姉ちゃんの心から抽出した『世界』を構築する最終工程に入ってる。えっと、その世界はね」
「ソノ世界ガ二人ノ間ノ『安全装置クッション』――ダネ?」
「うん。これまでのデータがあるから、それはすぐにできる」
 これまでの――ということは、やはりマスターの直感通り、アンドロイドの思考ルーチンはミリュウ姫本人を基にしていたということか。おそらくそのプログラムを組むために姉を仮想世界に没入スライドさせて思考パターン等のデータを取り、並行してこの企みの準備もしてきたのだろう。
(ナラ、王子モ初メカラ色々分カッテイタンダネ)
 マスターも評価していたが、本当に賢い『秘蔵っ子様』だ。そしてこれだけのことをするからには年齢に不相応の覚悟も持っている。加えて、彼のプライドにも懸けてシステム面には手抜かりはないだろう。そう判断すれば、依頼を受け入れたとはいえ心に残っていた危惧――お子様の浅知恵――という一抹の不安が芍薬のメモリから消えていく。もし不安がわずかでも的中したら今ここでシステムを乗っ取り、王女を見殺しにしてマスターだけでも助ける決意もしていたが、これなら自分に振られた役目に集中できるだろう。
 芍薬はニトロの額を撫で、
「ソレジャア、ソコニ送リ込ム主様ノ『精神体』ノ構築ガあたしノ仕事カ。構築ニ使ウノハ一般的ナ意心没入式マインドスライドノ流用デイインダネ?」
「君が優秀で助かるよ」
「ソリャドウモ」
 パトネトは芍薬の無作法な礼に微笑みうなずき、
「実行に向けて最終チェックをするから、そこからは一緒に」
「承諾。タダ――間ニ合ウンダロウネ?」
 真夜中のタイムリミットまでに。
 パトネトは鑑みるように目を上向け、
「きっと。ううん、絶対に」
 芍薬はうなずき、即座に作業を開始した。



..▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 ミリュウは現を見る。
 瞼を閉じて実を見る。
 ――ニトロ・ポルカト。
 わたしは、お前のことが嫌いじゃなかった。
 親しみを感じていた。
 本当よ。お前に言ったことは、全て本当だった。
 ニトロ・ポルカト。お前は、わたしに似ている。
 普通の少年。
 容姿も頭脳も普通な少年。
 特筆すべき一芸は持っていても、王の器どころか、およそ王族としても相応しくない男。
 ――わたしと同じ
 お姉様に、お姉様の役に立つと認められて側に置かれる普通の人間どうぐ
 だから、初めは、お前とお姉様を祝福していたの。
 だって、お前がいたところで、お前がどんな寵愛を受けたところで、お前にはないお姉様と血のつながったこの肉体が、わたしをお前より姉の従者として一段と秀でたものにしてくれるから。だから、お姉様に最も近いのはわたしであることには変わりはないから。わたしは安心しきっていた。
 わたしはお姉様に嫌われたくなくて、頑張ってきた。
 わたしはお姉様を愛しているから、頑張ってこられた。
 わたしはお姉様の妹である――その誇りもあったから。愛して愛して愛して愛して愛していとしくてたまらないお姉様のお役に立てる喜びを胸に、生きがいに、いいえ命そのものにして生きてきた誇りがあったからこそ、わたしはこれまで生きてこられた。
 素晴らしい栄光の日々。
 わたしは安心しきっていたのに……
 だけど、ニトロ・ポルカト……何故なの?
 なぜ、お前はお姉様の心にそんなにも入り込めた?
 お前が頑張ってきたことは知っている。
 お姉様を嫌っていることも、もう知っている。
 けれど、それなのに何故お姉様はお前を? ご自分を嫌うお前を? 何故?
 ニトロ・ポルカト……
 お前は『わたし』だったはずなのに、わたしと一体何が違う?
 分かっている。わたしはお前に嫉妬している。お前が羨ましい。憧れてさえいるよ。判っているんだ。いつの間にか民の皆からも認められているお前が、わたしなどとうに飛び越えてしまっていることも解っている。わたしはお前が……妬ましい。わたしと同じで王家の一員には相応しくないくせに、とうとう王に相応しいと皆に認められるにまでなったお前が。
 お姉様に求められるというこの上ない栄誉を受けながら、それでも平然と嫌えるお前が。
 羨ましくて羨ましくて妬ましくてたまらなくて。
 わたしは、お前を、お前だけは消し去りたいんだ。
 わたしと同じはずだった、そのはずだった、ねえ、ニトロ・ポルカト、お前もきっとそう思うでしょう? でも、一体何が違ったの? どうして違ったの? 本当なら――できることなら――わたしがなりたかった『私』になりながら、お前は『私』を否定する。お前にその気はなくとも、お前が存在するだけで『私』は否定されてしまう。
 だから、わたしと違ってしまったお前をお姉様の傍から消し去らないとわたしはわたしを保てない。
 だから、わたしの居場所を奪い、無邪気にわたしを殺してしまうことを知らないでいるお前を許せなくて、許せないから、わたしは、わたしを保てない。
 分かっている、判っている、解っている、全て。
 わたしはお姉様に作られた王女、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 それくらいのことを判断する力はお与えいただいている。
 優等生なだけのつまらない劣り姫――兄弟の中で最も劣っていると言われても、それでも優等生だと認められているわたしが、それくらい自覚できないはずがない。
 ――わかっているんだ!
 全ては!
 逆恨みに過ぎない!!
 わたしの羨望は、妬みは、嫉妬は、とても醜い。浅ましく醜くてたまらない。
 お腹の底で気持ち悪い感情が育ち続けてきた。
 自己嫌悪だと言えるならどんなに清々しいだろう。わたしのお胎の中で、わたしを殺す赤子が泣き叫んでいる。
 分かっているの。
 解っているけど、判っているから、どうしようもないの。
 ニトロ・ポルカト。
 ごめんなさい……
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 でも!
 心の底からあなたを消し去りたい――そう思い、そう願わなければ、女神を殺され、お姉様を奪われ、存在理由を失ったわたしはすぐにでも壊れてしまう。そうなればわたしはお姉様の恥となる!
 天才、希代の王女と呼ばれながら妹一人も守れない姉。
 妹の異常にも気づけなかった女神?
 お姉様が偉大な方であればあるほど滑稽な話だろう?
 わたしは、『わたし』を保てなくなれば、お姉様にわたしが恥を与えてしまうんだ。それだけは――例えどんな苦痛を味わおうと、どんな屈辱にまみれようと、例え命を失おうとも――それだけは! 絶対に、絶対に嫌……
 だから、お願い。
 わたしだったはずの人。
 わたしのなりたかった『私』。
 ニトロ・ポルカト!
 お願いだから、『あなた』にわたしを……殺させて。


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..ニトロは、夢に見た。
 瞼を閉じ、瞳を明けて、夢に見た。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 流れ込んできた彼女の記憶の断片。
 流れ込んできた彼女の感情。
 心の欠片。
 瞳を閉じ、次に瞼を開いた時、ニトロは見た。
 姉の影で微笑む少女の心を。
 姉の前で泣きじゃくる少女の心を。
 ニトロはマードールによって重大なことを自覚させられた時、思った。――『嘆きのあるがために嘆く必要なんか、決してない』――いつか嘆きと出会うのだとしても、嘆きと出会う前から嘆く必要なんか決してないと。
 しかし、ミリュウには常に嘆きが訪れ続けていたことをニトロは知った。
 そして彼は最後に見た。
 彼女は姉に何度も助けを求めていた。
 言葉にはせず、それでも妹の心を支配し、その心をいつでも見抜く姉に大声で助けを求めていた。何度も、何度も、何度も!
 彼女が最後に姉に助けを求めたのは、クロノウォレスにティディアが発つ前夜であった。
 姉に頼んで弾いてもらったピアノの調べを聴いた後、その時、彼女は最後の助けを求めて姉を見つめていた。
 姉は――ティディアは――ミリュウの女神様は彼女を見つめ返していた。その黒曜石の瞳には妹の恐怖に歪んだ顔が映っていて……知っていた、女神は、妹の苦しみを知っていた。……知りながら、知っていながら、それでも妹を助けることはなかった。
 神は信徒を助けない
 それを信徒も悟っていた
 悟って、理解していた
 失望と共に。
 ミリュウの胸は空っぽで。
 空っぽな胸のすぐ上の肩にはとてもとても大きな重りが乗っていて。
 それでも彼女は潰れなかった。
 ミリュウの腹の底で蠢く気持ちの悪さと彼女の心を埋める失意と絶望が、ようやく少女を支えていた。
 だが、と、ニトロは思う。
 もし、そこで自ら己を支えられず、いっそ膝を突くことができたのなら……
 もし、疲れて倒れることができたのなら。
 彼女はどんなに楽だったのだろう。自身の苦悩を表に出して、みっともなくても身近な人にそれを知ってもらって、そうやって立ち直るための手を差し伸べてもらえたら――彼女にはそれを望める人間が傍にいたのだ――もしそうできていたら、どんなに彼女は楽だっただろう。
 しかし、それは叶わない。
 それを彼女自身が許さない。
 それを許せない彼女を作った女神が許さない。
 それを女神が許さないことを知っているミリュウが絶対に許さない。
 そう、常に、女神のあざなえる縄のごとき『呪い』が彼女を魂の髄から縛り付けている。
 女神が『女』となり“神”が消えても、その『呪い』はいつまでも彼女を自己防衛の手段としての逃避という選択肢にすら向かうことを禁じ続けている。
 そうあらねば、理想である『私』に相応しくないと。
 彼女こそ常に脅迫されていたのだ。女神に、また自分自身にまでも。
 そうして、ついにミリュウは砕けてしまった。
 砕けながら、なんという執念なのだろう、それでもミリュウは『ミリュウ』であり続けた。
 だが、長くはもたない。
 逃げることを禁じられたミリュウの瞳が向かう先は、一つしかなかった。
 すなわち『悪魔』しか彼女が救いを求められるものはなかったのである。
 道化を演じ、姉の真似事をして、そうやって悪魔を頼ったから、ミリュウは一時、力を得ることができた。プカマペという虚構を讃える教団を設けながら、彼女は悪魔からこそ力を得ていたのだ。
 それが西大陸で見せた堂々とした王女の姿を作った。
 仮にとはいえ『悪魔』とその手先に殺されることで、彼女は一時の解放を得ることができていたのだ。
 だが、それも長くはもたなかった。
 仮はあくまで『仮』でしかないのだ。
 彼女は悪魔と対面した時、それを知った。それを知り、彼女は己に希望はやはりなかったと確信した。悪魔は確かに一時彼女を救ったのだろう。しかし悪魔は救いの後には決まって絶望を与えるものだ。姉の愛を受けながら、羨んでも羨み切れない愛情を注がれながら、それを簡単に愚弄する男は彼女の目にはまさに『悪魔』そのものにしか映らない。辛苦の末にようやく宝物を手に入れた者に、実はそれは馬の糞なのだと哂うような本物の悪魔!
 そして悪魔も去っていき、彼女に残ったのは、そう、悪魔が落としていった希望ぜつぼうが一つだけ。
 縋れるものは、唯それ一つ。
 ニトロは全てを知り――――
「そうか……」
 彼は笑うしかなかった。
 何故? 何故?――と、色々考えても掴み切れなった彼女の動機。本当の目的が解ってからも、自分は、自分達は彼女の本当の心を完全には理解してはいなかった。
 ああ、人一人の嘆きの知ることの、何と難しく、何と不可能に等しいことか。
 ようやく解った。
 道理で何を考えても間違っているようで、それなのに間違っていない気がしていたものだ。
 ニトロはうめいた。
全部か
 そう、自分達は誰一人としてハズレを引いてはいなかった。自分達がずっと考え続けてきた『ミリュウ』の姿は全て正しかった。ヴィタの、ハラキリの、マードールの、ルッド・ヒューランの、皆が口にしたことは全て正しかったのだ。そして正しかったのに、間違っていたのだ。
 理由は一つではない
 正しい答えを一つずつ求めた時点で正答から遠く離れていた。あるいは一つ本質的な正しい答えがあると考えた時点で正答から目をそむけていた。
 全てだ。
 全て……――全て?
 そんなぐちゃぐちゃな動機を抱えて、心がまともでいられるものか。
 複雑怪奇な彼女の心。
 メビウスの輪を呈する表裏の混在。
 失望、軽蔑、落胆、絶望、敵意、希望、諦観、熱意、期待、嘲弄、悲愴、恐怖、疲労、憤怒、焦燥、嫌悪、憎悪、殺意、愛、恐怖! 懇願!! 切望!!! そんなぐちゃぐちゃな心を一度に抱えて、腹の底では自己嫌悪の赤子に脅かされて、そんな自分を冷静に理解できてしまうから逆に辛くて、それでも休む間もなく愛する神聖を失った姉の下でずっと王女としての重責を受け続けて……それでどうして精神のバランスが取れるものか。
 ニトロの眼前には、姉の掌の上でうずくまる少女がいる。
 と、ふいに姉がその掌を引いた。
 姉の掌でのみうずくまれていた少女は地面を失くして落ちていく。どこかに掴まれるところはない。ただ上空に何かが見える。底の無いどこかに落ちていく少女は、うずくまったままこちらを見上げている。
 こちらを見上げる少女の瞳の中にはパズルがあった。
 パズルは少女と姉の絵柄で作られていて、彼女のパズルであるはずなのに比率もおかしく姉の絵柄のピースが圧倒的に多い。
 と、ふいに姉の絵柄が何処かに去っていった。
 取り残された少女の絵柄は繋がるべきピースを失い、瞬く間にばらばらになる。
 うずくまる少女の中で、ばらばらになったパズルがうずもれるように積まれている。
 奈落へ落ちながらこちらを見上げる少女が突然叫んだ。
嫌だ!

 ニトロは飛び起きた。
 彼は見も知らぬ場所にいた。
 霊廟の『石像柱の間』にいたはずなのに、今、目の前には退色した空間が広がっている。

「……」
 奇妙な空間だった。
 例えるなら海抜0mの平たい島に彼はいた。
 彼がいるのは波打ち際であるらしい。海と地面の高低差は無いのに海水は島を飲み込まない。波は押し寄せているようでもあり、引いているようでもある。沖の波は……いや、あれは波というよりも海水が上下に不規則に蠢いていると言った方が適切だろうか。蠢く海は水平線まで続いていて、水平線で海と分かたれる空は――空は、無い。空は大地でできていた。天にかかるのは雨の降らぬ荒野であるらしく、地面の所々にはヒビが入っている。今にも落ちてきそうな土の天井は、しかし静かにこの空間に蓋をしている。
 足元は土の感触のする砂であり、ぐるりと周囲を見回すと広いようで狭い島の中心にちんまりとした宮殿があった。
「……」
 ニトロの頭は違和感で溢れ、気持ち悪かった。
 ここには島と、不気味に蠢く海と、大地でできた空と、小さな宮殿以外には何もない。
 何より一番おかしいのは太陽がないことだ。
 太陽がないのに、それなのにこの空間は明るい。では照明がどこかに? いいや、照明もない。全体的に光っているというわけでもないのに、全体的にのっぺりと明るい。明るさは夏の明るさに思えるが、それなのにやけに寒気を感じる。
 そうして彼の目の前には、薄いセピア色のフィルターをかけたように色褪せた光景が広がっていた。

 周囲を見回していたニトロは最後に己の体に目をやり、ここにいるのは自分独りであることを知り、
「……芍薬?」
 彼はいつも傍にいる家族を呼んだ。
 が、返事はない。
 あるのは、強烈な寂寞だけ。
 ここにいるだけで心の中ががらんどうになり、静寂に侵され、精神の活動を止めたくなりそうになる。そんな寂寞だけ。
「…………芍薬?」
 もう一度呼びかける。
 が、やはり返事はない。
「………………もしかして、俺は、死んだのかな」
 ここが『かの世』というやつなのだろうか――そう思ってみるが、しかしどうもそういう風でもない。何故かは説明がつかないが、それだけは違うと、誰かが凄まじい勢いで保証してくれている気がする。
 ニトロは、ふと、この空間に常に一つの音があることに気がついた。
 重い、深い音。
 地鳴りのような音。
 海鳴りか? と海へ振り返るが……違う。
 ニトロは気がついた。音は空からしている。天の地の底から雷鳴が轟いているのだ。
「何だ? ここは」
 ニトロは立ち上がった。立ち上がった時、彼は強烈な『実体感』を味わった。
「?」
 感覚が、異様に研ぎ澄まされていた。
 手の指の重み、髪の一本一本の存在、動作の際の筋肉と関節がどう連動しているのかを実感することができる。
 体のあらゆる輪郭線が知覚できる。
 普段はあるのかないのかぼんやりしている足の薬指の形も明確に思い描くことができ、また、足の薬指の爪が脳天からどれくらい離れた場所にあるのかも感じ取ることができる。
 描こうと思えば、目を瞑ったまま自分の三次元モデルを完璧に描けるだろう。
「……」
 ニトロは全身を改めてみた。『実体感』とそれによる知覚の通りに手足はあるし、頭もある。体もあるし、体はやはり黒い長袖と戦闘服ズボンに包まれている。
 が、
「持ち物は、ないな」
 ニトロはつぶやいた。どこかに落としたのかと周囲を見ても、やはり剣はない。後ろ腰にあったはずのナイフもない。もしやと思って靴の機能を調べてみると、やはり仕込みナイフなど武器と呼べるものは存在していなかった。
「あ」
 と、そこでニトロは思わず声を上げた。
 靴の機能を調べるために伸ばした両手の――その片方の甲に重大な変化があった。
 あの青い『烙印』が、跡形もなく消えている。
「……やっぱり、死んだのかな……」
 不安に駆られてつぶやくと、それはない、と、異様な確信が胸に湧き上る。何となく師匠しんゆうに『死んだと思う暇があったら先に状況を整理する』と怒られた気もする。それから彼はアドバイスをくれるのだ。本当に、こんな時には彼はへらりと笑ってこう言うだろう――『まずはストレス発散でもしてみては?』
 ニトロは釈然としない気持ちを抱え、何がなんだかわからない状況に、
「あー! あーーー!!」
 思いっきり声を張り上げてみた。どうも大声を出した実感はない。が大声を出す際の体の動きは確かに感じられて、大声を出したことによる喉の痛みもある。鼓膜が震えたことまで感じられた。一方、音はスポンジに向けて発したようにすぐにどこかに吸い込まれた。
「……ふむ」
 それでも、ちょっと気は晴れた。
 気が晴れたところで、思い至る。
「そうだ。もし死んでいるんなら、芍薬がいないのは変だな」
 芍薬は約束を守る。例え『かの世』というものが存在せず、存在したとしても人間とA.I.の行く末が違うのだ――としても、芍薬は必ず来てくれるだろう。
(それに)
 何より、あの状況から自分が突然死ぬという前提がまずおかしい。
 いくら虚を突かれてもあの戦乙女が主をやすやすと殺させるわけがない。むしろ、身代わりになってくれた芍薬に自分が涙を流している――そういう状況の方が可能性が高く、そして自然だ。
 と、なれば。
『死んでいない』という理性的な確信がニトロの胸から『死んだのかも』という不安を消し去っていく。
「てことは……なんだろうな」
 ニトロは周囲を今一度見回し、今一度、脳裏で一つ一つ状況を整理し直した。
「……」
 ぽんぽんとジャンプしてみる。ジャンプしている――と脳も体も体中に走る神経の一本一本に至るまでも知覚している、と知覚する。自分の体重をどのようにして筋肉や軟骨が受け止めているのかをリアルタイムでCTスキャン画像を見ているかのように(明らかに異常なレベルで)知覚できるのに、知覚の強度に比べてジャンプしたという満足感は驚くほど希薄だ。
「……どうも」
 実体感だけがありすぎる。自分が存在している、また自分がどのように存在しているという感覚だけが異様なほどに鮮烈であった。
 ――と、その時、
「!?」
 ニトロは慌ててその場から飛びのいた。ふいに足を誰かに掴まれた気がしたのだ。
「……」
 しかし、直前まで自分がいた場所には土の感触のする黄土色の砂があるだけだ。なのに、足首には掴んできた手の指の形までがはっきりとした感触として残っている。
「そういえば、見た目は砂なのに」
 ニトロは地に触れてみた。黄土色の砂には水分と何やら粘り気があって砂の粒子同士は簡単にはばらけず、ということはほとんど土だ。それなのに息を吹きかけると砂らしく巻き上がる。と、
「うわ!」
 ニトロは触れていた地から手を離した。
 確かに掌に爪を立てられたような気がしたが……手をどけた後には何もない。
「……何だ?」
 つぶやきながら、ニトロには思うことがあった。
 さっきから、常に誰かに見られている気がする。
 そして何より、この世界は、やけに、喉が乾く。
「――…………ああ、そうか」
 やがてニトロは思い当たった。
 この強烈な実体感――この感覚は、けして彼の経験にないものではなかった。
 意心没入式マインドスライドシステム。
 そう、ちょうど仮想世界バーチャルトレーニングでの身体感覚がこれにそっくりだった。
 意心没入式マインドスライドシステムは、まず、肉体の世界から仮想の世界に赴く時、その異世界で自分の存在を実感するために、初めに己の実体を強調して知覚させる。それから次第に知覚のレベルを引き下げていき、異世界に慣らしていく。深度レベルが浅ければ浅いほど異世界にあって自分は異物だと認識できるが、逆に深度レベルが高ければ高いほど感覚は異世界に馴染み、現実こそが非現実であり、自分はこの異世界げんじつの住人なのだと確信できるまでになる。トレーニングは主に浅いレベルで行う。そうすると『こう体が動く時=どう体は動いている』ということが先ほどのような強烈な知覚を伴う実体験込みで理解できるのだ。この理解は『体の記憶』を補強もする。その上、毎動作ごとに常に正しい形で心身に叩き込めるのだから……つまり、過去の人間が何百回もの反復練習をすることで心身に沁み込ませたことを、現在は数回の練習で同様の効果を得ることができるのである――そう、この感覚に、自分は明らかに慣れ親しんでいる。
 そして彼はまた、自身の『実体感』が急速にどんどん薄れていることを悟っていた。もう足の薬指の正確な形を描き出せはしない。髪は一本一本ではなく全体的に頭皮にある。そのうち筋肉や関節の動作を意識せずとも全く普段通りに動かせるだろう。
 と、いうことは、
「もし意心没入式マインドスライドだとしたら相当な深度レベルだぞ……」
 例えばここで死んだなら、本当に実世界でも肉体が“死を認識”してしまうようなくらいに。下手をしたら、個を失い世界に埋没してしまうほどに。
「――それにしても」
 現状が本当にマインドスライドによるものだとして。
 ニトロはその前提で、改めて最初……いや、“最初の直前から”の状況の推移を把握しようと努めてみた。
 まず、自分はミリュウ姫を押さえ込んだ。関節も極まり、相手の重心をこちらの体重で制圧し、完全に動きを殺していた。それから自分はアンドロイドに剣を向け勝利を宣言した、と、そこで視界がブラックアウトし、その後、突然頭の中に夢を見るような形で大量の『情報』が流れ込んできた。その『情報』は、ミリュウ姫の記憶に基づいているようであった。いや、“であった”ではなく、おそらくそれそのものであるのだろう。しかし、あれほどの内心の吐露を記憶ごと他人に見せることをミリュウ本人が望むだろうか。……望むまい。正直、もしそれを望んでいたとしたら彼女を露出狂的精神性超絶ドMだと認定せざるを得ない。では? それらの要素から鑑みて導き出されるのは――これまでの要素からこのようなことを可能にし得る人間は――
「パトネト王子だな、間違いなく」 
 何らかの不意打ちを受けて自分は死んでしまった、と思うよりずっと建設的な結論に至り、ニトロはうなずいた。
 相変わらず喉はひどく渇いているが、渇いているのに水への欲求がないことも自分の仮説を証明しているような気がする。
「それなら――」
 ニトロは自分の考えを要所で口に出し続けていた。仮想世界において非現実を現実として認識しない手段の一つとして、普段と違う行動を取り続けるというものがあるのだ。黙考すべきところも口に出し続け、
あれが何のためにこんなことをしたのか、の理由かな」
 ニトロはこの世界の唯一の建造物を見定めた。
 と、
「うわあ!」
 ニトロはまた誰かに足を掴まれたような気がして飛び跳ねた。
 反射的に足元を見るが、やっぱり何もない。
 ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと、そちらには、青が色褪せ鉛色に見える海が不規則に蠢いているだけ。
「……嫌な感じだなぁ」
 つぶやき、そこでニトロは思った。
「――嫌な、感じか」
 直近で『嫌』という感覚から連想されるものは、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 先ほど強制的に知らしめられた記憶を考慮すれば……そうだ、パトネト王子は王城で会った時、何かを切実に真剣に訴えかけてくる目をしていた。あれは、きっとそうだ、あれも懇願の瞳であったのだ。
 思い出されるのはケルゲ公園駅前で“殺した”アンドロイドの複雑な感情の表れ。
 ――怒りに満ちているのに、ひどく哀れをもよおす声
 ――敵意に満ちているのに、救いを求めているかのようにも聞こえる声
「救いを求めている……か」
 まさか彼が姉を――殺して――楽にしてやってくれとは言うまい。間違いなく、救ってやってくれと、ルッド・ヒューランと同じ思いを抱えているのだろう。
 ならば、
「ひょっとして、ここはミリュウ姫の精神パターンを元に作った心象世界ってやつなのかな?」
 あるいは――と思って、ニトロは顔を歪める。
「……まさか、ミリュウ姫の心そのものの中、なんてとんでもないこと言い出さないよな……大バカの弟様は」
 突然首を撫でられた気がした。
 ニトロは声を上げて首を縮め、その首の内側で渇きのあまりに食道がくっついた気がして咳き込んだ。咳き込みすぎて吐き気までしてくる。ああ、本当に吐きそうだ
「……」
 ようやく落ち着いたところでニトロは息を大きく吸い、その拍子に見上げた空に――ヒビ割れた荒野の天井の、そのヒビの奥からこちらを覗き込んできている無数の瞳を見た。恐ろしい光景だった。
「…………それじゃあ、この雷みたいな音は、たくさんの人の声が合わさった音か」
 ニトロの脳裏に無数の目と大きな口を持った『巨人』が蘇る。ヴィタはあれを『悪夢を元に造型したかのような巨人』と評していたが、なるほど正解、実際にそうだったらしい。
「やっぱり、間違いなさそうだな」
 また足を誰かに掴まれた気がしたが、ニトロは今度は驚かず、むしろ鼻息を荒く吐いて足を動かした。無念そうな音がふいに吹いた風に乗って背後からやってくる。それも無視してニトロは歩を進めた。
「本当に嫌な世界だ」
 言いながら、歩き出した途端に湿地帯を歩いているかのような重みを足の裏に与え出した地の上を、それも努めて無視してどんどん宮殿に向けて歩いていく。
 宮殿に近づくにつれ、ニトロは身にかかる圧力が上がっていることに気がついた。体が上から押さえつけられている。気を抜けば組み伏せられそうな勢いだ。しかも厄介なことに、圧力は気まぐれに向きを変える。今は上から真っ直ぐ押し付けてきていたかと思うと、斜めに、横から、前から、縦横無尽に弄ぶように圧力の方向を変えてくる。油断すれば倒れ、転び、もみくちゃにされて血反吐を吐きかねない――そういった暴圧の嵐であった。
 が、一方で、ニトロはそれに反発する力が胸にあることに気づいていた。縦横無尽に向きを変える圧力に対し、的確に対応して体を支える力。これは、自分の体の中だけから生み出されているとはニトロにはどうしても思えなかった。そう、これは、まるで常に誰かに守られているような……
「芍薬?」
 ニトロは気づいた。守られているよう――ではない。守られているのだ。
 この世界がミリュウの世界で、ここに送り込んだのがマインドスライドシステムだとして、ならばそこにいる『ニトロ・ポルカト』のデータを安定させているオペレーターは何か。
「芍薬しかいないよね」
 ニトロは笑み、理解した。
 自分はミリュウ姫に勝っていた。あの状況になれば、例えミリュウ姫の首輪がどうあっても爆発するようになっていたのだとしても、ハラキリに手配してもらっておいた『爆弾処理の環境』に無理矢理放り込むことは叶っていただろう。
 しかしあの時、勝利すると同時に試練を課してくる相手が代わったのだ。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 あの子はゲームが、特にアドベンチャーゲームが好きだと聞くから、ここも同じような発想だろう。クリア条件:お姉ちゃんの救出――と言ったところか?
「どう救出すればいいのかは解らないけど、まあ、そこから考えさせるゲームってことかな。どうせさっきの前情報がヒントってところだろう。って、難し過ぎるわ! こんなゲームが売り出されたらユーザーはメーカーに苦情を入れるよ、うん、このゲームに苦情入れられるんなら俺は迷惑極まるクレーマーになりたい」
 気を抜くと本当にここを現実だと思い込みそうになる『実感』の中、ひたすら渇く喉を動かし喋り続けながらニトロは歩く。
 宮殿へ。
 さながら今、自分の背後ではオープニングテーマでも流れているかもしれない。
 そして自分の周囲には、目には見えない『ガイドフェアリー』が飛んでいるのだ。ゲームならヘルプをかければ攻略のヒントくれる存在。が、このゲームは随分辛いから、妖精はこの身を守ることしかできない。
「いやいや、それで十分だよ」
 まるで芍薬に言うように言いながら――状況からして芍薬は自分マスターを人質に取られている。何にしても協力せざるを得なかったはずだ――ニトロは息を荒げて歩いていた。
 宮殿への道のりはそんなに長くないのに、異様に疲労する。圧力に翻弄されるだけならばまだいい。その上、時折誰かが足を掴んでくる。その手を振り払うのに無駄に力を使わされる。靴底に粘りつくような砂土のしつこさも増していき、そうして体力が削られるに比例して体も心も重くなる。ミリュウとの決闘でも息は乱れていなかったのに、百歩にも満たない内にこの有様だ。
 凶悪な試練。
「凶悪な試練、か」
 現在、自分は芍薬と共にそれに挑んでいる。
「……なんだ」
 そう考えると、なんだ、何も変わってはいないではないか
 ニトロは頬に空笑みを刻む。
 本当に何も変わっていない。
 状況は確かに変わった。が、結局は、ロディアーナ朝王家の一員に、姉・妹・弟と立て続けにえらい迷惑をかけられて、自分こと『ニトロ・ポルカト』はそれをいつものように芍薬の力を借りて撃退しようとしていることに変わりはない。
「ええい、くそ」
 思わずニトロは毒づく。
「次から次へとろくでもない。こんな王家、いっそ一度滅んでしまえ」
 毒づくと何だか体が軽くなった。つっかえ棒のようなものが体内にはまった気がする。
 足の裏に粘りつく沼が消える。足を掴んでこようという手は千切れる。体を押し込んでくる圧迫感も吹き飛んで、それらは全て路傍の石となる。
 そこで、ニトロは気づいた。
「ちょっと蝕まれかけてたか」
 この世界に。
 ミリュウの心象風景に。
 ひょっとしたら、ありえたかもしれない自分の未来に。
 凶悪な試練――思い直せば、その理解の裏には、周囲の環境と周囲の環境が生む苦しみを『自分の実体験として取り込んでいる感覚』も混じっていたように思う。
 ――違う。
 それらの苦しみはあくまでこの世界を生んだ者の心象に過ぎない。実際に今それを体験しているからといって、それはあくまで他人の体験の仮想的な追体験に過ぎない。自分にとっての『凶悪な試練』はこの仮想と追体験に彩られた世界に放り込まれた現状のみであり、ここで体験する苦しみはあくまで自分のものではないのだ。それを自分の物と勘違いすれば、自分の中にこの世界が侵食してしまう。
『共感はさせても同調はさせてはならない』――マインドスライドシステムの大原則。
 商用のものは心のどこかに常に違和感を抱かせるなど同調の排除が神経質なまでに徹底されているが、どうやらこの世界は違う。
「大丈夫か? ここを支えているソフトは」
 つぶやいたニトロは、つぶやいたことでその点に自分を気づかせたものが何か、また、同調しそうになっていた苦しみを傍らへ吹き飛ばしたものが何であったのかにも気づき、苦笑した。
「俺はやっぱり『ニトロ・ザ・ツッコミ』か」
 大迷惑の原因の、あのバカ姫の目を引いてしまった力が、結局自分をこれまで助けてきていたのだろう。そして、今も、これからも。
「習い性って言うか何て言うか、まあ、これが俺の性分なのかな」
 調子を取り戻したニトロは呼吸の乱れもなくなり、速度を上げて宮殿に向かった。
 小さな宮殿は近づくにつれ、やはり小さいと感じる。
 まるで――
「この島は、ティディアの掌か?」
 そう、宮殿は、この島にうずくまっているような風体をしている。
 そして――
「……されども、これはあくまで『ゲーム』にあらじ――か」
 宮殿に辿りついたニトロは、宮殿の門の横にだらしなく座る人形があるのを見た。
「やあやあ、これは珍しい」
 門柱に力なく背を預けて座る人形が……ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの姿をした糸操り人形が、やけに演劇がかった口調でニトロへ言う。
「こんなところにお客さま。はじめてのお客さま。いらっしゃい、お客さま」
 糸操り人形の、肝心の糸は切れていた。本来なら滑稽な動きとともに語りかけるのだろうがそれは叶わない。長い間外に放置されていたらしく、木目の浮いた肌も朽ちかけている。ミリュウの姿の人形は口だけ動かして、
「ところでお客さま、よろしければ回れ右しておかえりなさい。こんなところに面白いものはありません。一生懸命れんしゅうしました歌や踊りをお見せできればよいのですが、今となってはわたしはそれができそうにないのです。お客さま、よろしければ、おかえりになるまえにひとつお聞かせねがえませんか」
「何をだい?」
 ニトロが問うと、ミリュウ人形はぱくぱくと口を開閉させてから、
「わたしの糸はどうなっていますか? ある日、ぱたりと体がうごかなくなったのです。糸はどうなっていますか? わたしを動かしていた御方はどこにいかれたのでしょう」
「糸は……切れているよ。操っている人はいない」
 ミリュウ人形は驚いたようにぱくぱくと口を動かした。
「お客さま! それではわたしはやはりあなたに何もお見せできません。おかえりになるほうがくを指差すこともできません。お役にたてぬわたしはただの木偶。糸は切れていますか、糸は切れていますか、糸は切れていますか」
 ぱくぱくと口を動かし、ミリュウ人形はため息のような音を出した。
「わたしの、糸……」
 それきり人形は何も言わなくなった。
 ニトロは宮殿の門を押し開け、中へと入っていった。


 宮殿に足を踏み入れた瞬間、ニトロは猛烈な解放感を味わった。
 宮殿内は広くない。むしろ狭い。それなのに、ニトロは解放されていた。
 あの圧力の暴威から。
 あの粘りつく地面から。
 あのふいに掴みかかってくる手から、天の地の底から轟いてくる雷鳴のような声から、恐ろしい無限の眼差しから。
 ここはつまり、シェルターだった。
 だが、
「相変わらず、喉だけは渇くなあ」
 しかしそれ以外は実に楽だ。
 ニトロは大きく息を吸いながら周囲を見渡し、首を傾げた。
「変な造りだ」
 おそらくロディアーナ宮殿のように古典的な造り……宮殿には廊下がなく、無数の部屋と部屋が連なる構造をしているのだろうが。だからって、玄関入ってすぐのエントランスが何もない四角形の部屋――ということはあるまい? 上階への階段もなく、調度品もない。ただ四方を壁に囲まれた部屋。しかも壁は下部に隙間がある上に柱がない。
「どうやって支えてるんだ?」
 常識的な構造は必要ない世界だとしてもそれが気になり、ニトロは身を屈めて壁の隙間を覗き込んだ。が、何も見えない。隙間の先は真っ暗である。左右の内壁には扉が据えられているのだが、隣の部屋の欠片も見えない。
「さすがに外壁には隙間はないか」
 つまり、どうやらこの宮殿は外壁だけで支えられているらしい。内壁は、壁とは言っても実質天井から垂れる巨大な石板に過ぎない。
「現実ならこんなところにゃ怖くていられないな」
 いつ潰れてもおかしくない……そう考えたところでニトロは気づいた。
「なるほど。ある程度解りやすく具体的に造られているんだな」
 この世界は。
 何しろ自分で自心を適切に図化することですら極めて困難なことなのだ。もし本当に他人の心の風景を何のフィルターもかけずに見たとしたら、それはきっと別の人間には写実主義者が象徴主義的な技法で宗教絵画を目指してシュルレアリスムに傾倒しながら描いた抽象画――とでもいうような、訳の解らない混沌図にしかならないだろう。
 そういえばと省みれば、外で見舞われた現象の数々も“こちらの心情”で解釈できるものだった。
「……人の精神パターンを解析して、そこから心理を抜き出して、さらに心理的負担やらをこんな風に具象化する? それを可能にするシステムに、そこに無理矢理人を引きずり込む装置?」
 言いながら、ニトロは呆れた。
「どんな天才マッドサイエンティストだ」
 齢七歳にして工学分野において類稀なる能力を発揮する『秘蔵っ子様』。ドロシーズサークルでは女の子にしか見えなかったパトネト王子。可愛い顔して末恐ろしい第三王位継承者。
「……二人の異常な天才に、見事なまでにサンドイッチか」
 そうつぶやきながら、ニトロは次の部屋に進もうと右の扉を開けた。すると、左の扉も同時に開いた。思わぬ反応にニトロはびくりとし、
「連動してるの?」
 振り返った時、彼の目に湧水の池が飛び込んできた。
「……」
 部屋を移った覚えはないのに、ニトロは別の部屋にいた。
 どうやら扉を開けた時点で部屋自体が切り変わるらしい。部屋の大きさも変わり、ちょっとした空き地程度の大きさになっている。ニトロの目を奪った美しい湧水の池は、湧き水らしい冷気を漂わせて石畳の部屋の中央に忽然と現れていた。
 そして、
「――ティディア」
 ニトロの目は、自然とその“存在感”に引きつけられていた。
 部屋の上座とでもいうのだろうか、その位置に、玉座がある。玉座は巨大な敷石を大中小と三段積み重ねた上にあり、少し今より幼い容姿ではあるが、そこには間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが威厳を漂わせて静かに座している。
「……ミリュウ姫」
 次いで、ニトロは玉座を置く台の下に跪くミリュウに気がついた。彼女も今より少し幼い。顔を上げ、ミリュウは台上の玉座を仰いだ。ティディアは無表情に妹を見下ろしている。
 ミリュウは立ち上がった。
 彼女は手にクリスタルガラスのコップを持っていた。
 厳かに湧水の池に歩み寄り、透き通ったコップでそれよりも透き通った水をすくう。
 表面張力ギリギリでこぼれないでいる――というほど満杯に水を注ぎ、彼女はそろそろと歩き出した。
 どうやらティディアに運ぶことが、彼女の重大な使命であるらしい。
 ニトロはコップにある水を見る内、喉が焼けつくように乾いてくるのを感じていた。それは自分と『同じ人』……ミリュウも同様であるようだ。こぼれないように、こぼれないようにと少しずつ歩を進める彼女は、魅入られているように手の中の水を見つめている。よく見ればその双眸も潤いをなくし、涙も作れないほどに彼女は乾いているらしい。
 もしその冷たい水を一気に飲み干したらどんなに至福を味わえることだろう!
 ニトロは思わず生唾を飲み込む。
 ミリュウも喉を鳴らす。と、その音が手に伝わったかのようにコップから水が一滴、こぼれた。
「あっ……」
 ミリュウが小さく声を上げた。
 それだけでニトロは胸が張り裂けそうな絶望を感じた。
 ミリュウは青い顔で玉座を見ている。
 玉座のティディアは失敗したミリュウを無表情で見下ろしている。
 ミリュウは、速やかに池に戻った。水を汲み直し――たった一滴こぼれただけであるのに!――再び慎重に歩き出す。
 つまずいてこぼした。ミリュウは池に戻る。
 風が吹いてこぼれた。ミリュウは池に戻る。
 うまく水を汲めない。ミリュウは何度も冷たい池に手を入れる。
 玉座の段を上る際にこぼれた。後一歩。ティディアは懸命な妹を冷ややかに見つめている。ミリュウは池に戻る。
 ニトロは食い入るようにその光景を見つめていた。
 冷たさのあまりに真っ赤になった手でコップを握り締め、何十何回目かの挑戦でようやくミリュウはティディアに満杯の水を運ぶことができた。
 満面に笑顔を浮かべるミリュウに対し、ティディアは無感動にコップを受け取り、その水を喉の渇く妹の目の前でこともなげに一瞬で飲み干した。
 と、これまでずっと無表情であったティディアの頬がほころんだ。
「偉いわ、ミリュウ」
 ティディアが言う。
 ミリュウの笑顔が輝く。
 しかし、ニトロは見逃さなかった。
 ミリュウは心から喜びを表しながら、一方で、その瞳には絶望を湛えていた。
 何故か? それはすぐに分かった。
 ティディアはミリュウにコップを返した。
 ミリュウは池に戻る。
 池に戻り、再び困難な運搬作業を開始する。
 運搬の成功は姉の褒めの言葉をもらえる喜びと共に、ミリュウに次の『試練』の開始を告げるものでもあったのだ。
 湧水の池から漂う冷気が増している。
 温度が下がっているらしい。
 ミリュウは震えながら水を運ぶ。震えているから水をこぼす。その度に彼女は無感動な姉の眼差しを見る。そして池に戻り、成功する度に冷たさを増す水に手を入れる。アカギレができて血が滲んでいた。その血が彼女の成功を妨げ、彼女はまた池に戻る。諦めず、歯を食いしばり、ようやく成功した時には姉のほんのわずかな温かみを受けて絶望に心を引かれながら傷を癒し、しかしすぐに先より凍える池に手を入れる。
 ミリュウは、けして解放されない。
 無限に水を運び続ける。
 それでも、ここは外より解放されている。
「…………」
 ニトロは脳裏にある言葉を口にしていいのか分からず、ひとまず、気づけば傍らにあった扉を開いてみた。
 やはり部屋の様子が変わった。
 いや、変わりすぎた。
 今度の部屋はニトロにもなじみのある風景に似ていた。
「ファミレス?」
 そう、そこにあるのはファミリーレストランそのものだった。
 目の前のテーブルに、やはり他の誰よりも強烈な存在感を放つティディアが座っている。その向かいにはミリュウがいる。
「――そんな記憶があったな」
 確か、ルッド・ヒューランも連れていたはずだが……今はいないようだ。二人きりのテーブルに話の華は咲いていない。
 だから、姉妹の隣のテーブルに咲く会話はなはとても賑やかで、楽しく感じられた。そのテーブルにいるのは女子高生のグループだった。顔はぼんやりとかすんで判らないが、それでも彼女らが心底楽しそうにしていることは分かる。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見つめている。彼女の深い憧れが伝わってくる。
 が、彼女は姉がそれをどのように見つめているのかにふと気づき、下を見た。
 しばらくして、ミリュウがまた隣の女子高生達に羨望を向ける。羨望を向けて、恥じ入るようにまたうつむく。
 いつの間にか、女子高生らのテーブルの先にもう一つテーブルが現れていた。
 そしてそこには、
「俺だ」
 高校の制服を着た自分が、ハラキリと、ヴィタと、もう一人現れたティディアと歓談している。そちらのティディアは笑い転げていた。女子高生らを非人情に観察するミリュウのテーブルの姉とは違い、表情も豊かに、実に楽しそうに笑っていた。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見る。
 が、ミリュウの視線は楽しそうな姉を見ていない。
「……俺を?」
 そう、ミリュウはカプチーノを飲むニトロ・ポルカトを見つめていた。
 彼女が自分に対して羨望を向けてきていたことは知っている。しかし……なんだろうか、その眼差しは羨ましがるだけではなく、恨みのようなものも込められている。
 ティディアをそんなに笑わせられることが悔しいのか?
 見ていると、ふいにあちらのニトロ・ポルカトがテーブルを離れた。ハラキリもついていく。テーブルにはティディアとヴィタが残って歓談していた。そして、とうとうあちらのニトロとハラキリは戻ってこなかった。
 ――ミリュウは、それをずっと唇を噛んで見つめていた。
 ニトロは理解した。
「そうか」
 ミリュウはテーブルから離れない。いや、離れられない。
 彼女があくまで王女であるために。
「けど、俺はあくまで一般市民だ」
 そして彼女は、彼女が強く自覚していたようにティディアの肉親である。
「けど、俺は違う。例え結婚しても、違う」
 今や『ニトロ・ポルカト』にかかる期待は一個人の裁量でどうにかなるものではなくなっていたのだとしても、それでも、ニトロ・ポルカトはこの場から去ることができる。手段を問わねば究極的にはどこへだって逃げられるのだ。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 王女という立場を既に背負う者と、王という立場を背負うかもしれない者にはどうしても大きな差があるのだ。また、例えニトロ・ポルカトが王という立場を背負ったとしても、場合によってはそこから一般市民に戻る道はある。そして、もしそうしたら? 自分には大きな過去を持ちながらも、いっそ名も顔も変え、住まう国も変えれば安穏とした生活を送れるかも――という希望がか細くも確かに存在している。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 例え王女という立場から何とか離れられたとしても、顔と名を変えたとしても、彼女にはどうしても彼女自身の血肉が残ってしまうのだ。王の一族という血と肉が。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに最も近い血と肉が! 彼女は逃れられない。彼女の存在そのものが彼女を縛る鎖でもあるのだ。彼女は存在する限り『わたし』に苦しめられるのだ。
 同じ人間――反面、全く違う立場
 同じだからこそ、その差異は残酷なまでに色濃く浮かび上がる。
 ふいに、消えたニトロ・ポルカトを睨んでいたミリュウが、彼を羨み恨む己を恥じ入るようにしょげ返った。
 ニトロは居たたまれなくなり、扉を見つけて、開いた。

 次の部屋には何もなかった。
 ただ、その部屋は明るく、暖かな空気に満ちていた。折々吹く穏やかな風は心地よく、石造りの部屋の中であるのに、気持ちのいい草原にいるかのようであった。
 ニトロはここにずっといたいと思った。それだけ居心地のよく、全能感すら湧く安息のある場所だった。
 しかし、ニトロはやがて気がついた。
 この温かな空気の中に、毒があることを。
 その毒は心に作用する。
 ニトロは耳を澄ませた時、聞いたのだ。穏やかな風の中にまぎれるティディアの囁きを。どんな苦痛に苛まされていようと、それを全て忘れさせてくれる魔法の囁きを。
 ニトロは、彼だからこそ、その囁きの本質に気がつけたのかもしれない。
 彼は既に『ありえたかもしれない未来』においてティディアに骨抜きにされた自分を想像していた。その未来では、彼は、ティディアの『愛』に癒され“麻痺”していた。
 穏やかな風が懐に女神の魔法の言葉を忍ばせて運んでくる。
 魔法の――呪いの言葉を。麻酔であり、麻薬である言葉を。
 そう自覚した時、ニトロは見た。彼の傍にずっとミリュウがいたことを。
 ミリュウの体は透き通っていた。
 それは自己というものを失くし、ふわふわとその場に“存在意義”という抽象観念だけで存在しているようであった。
 ふいに崖の下を覗き込んだ時のような恐ろしさを感じて、ニトロは扉を開けた。

 暗闇がニトロを包み込んだ。
 前の部屋とは対象的に、新たな部屋は寒々しく重苦しい空気で満ちていた。風も吹かない。体を動かすと水の中にいるように闇が揺らめいた。
 そして、息ができない。
「!?」
 ニトロは慌てた。
 現在、自分はこの世界に限りなく『生きている』。
 仮想であるはずの息のできない苦しさは限りなく現実的に彼を苦しめる。
 この状態でこのまま窒息することは現実世界での生存も脅かしかねない。
 ニトロは周囲に目を凝らし、耳を澄ませた。
 ミリュウを探そう。彼女のいるところにはきっと酸素があるはずだ!
 しかしミリュウはどこにも見つからなかった。暗すぎて周りが全く見えないこともあるが、どんなに動いても何にも当たらない。壁もない。部屋は無限に広がってしまったかのようだ。
「――?」
 そのうちに、ニトロは息ができないまでも窒息死はしないようだ、ということを悟った。
 もう何分も息ができず、窒息の苦しみは続いているが、気を失うことはない。耐え難いほどに苦しいが、それでも死なない。
「どこでも地獄か!」
 叫ぶための息はどこから手に入ったものか。ニトロは遂にそう叫んだ自分の声に驚き、その声が微妙に反響していることを知り、もう一度大きく叫んだ。
 彼の声が遠くに届き、遠くから何か音が返ってくる。
「……鼓動?」
 ニトロはもう一度叫んだ。
 すると彼の声を聞いたことで何かが目覚めたかのように、そちらから一定のリズムで温かい音が送られてきた。
「鼓動だ」
 もう間違いがなかった。
 それは確かに心臓の音であった。
 トクン、トクンと心地良い音が聞こえてくる。
 トクン、トクンと聞こえてくる心音がはっきりしてくる度に、ニトロの周囲が明るくなっていく。
「息が……」
 できるようになっていた。
 トクン、トクン、トクンと優しい音がニトロを包む。
 ニトロは音と光に包まれて、ここには限りない愛情があることを感じていた。
 偽りも、隠し事もない慕情。
 トクン、トクン、トクン、トクン――
 ニトロは不思議と確信していた。
 自分は、この心音を打つ者に心から愛されている。
 傲慢でも自惚れでもなく、この体この心にこの安らかな心音は清らかな情愛を伝えてくるのだ。
「ニトロ」
 ふいに声が聞こえた。
 その声を聞いた時、ニトロは震えた。思わず口からその名がこぼれる。
「ティディア」
「ニトロ」
 心音に重ねて彼女が応える。彼に名を呼ばれて、喜んでいるかのように。
 温かな音と光に包まれて、ニトロは感じる。
「ニトロ」
 ティディアの愛を。
 彼女が、心から、一人の男に向けている感情を。
「……え?」
 ニトロは戸惑った。
 ここはミリュウの世界のはずだ。
 なのに、何故?
 ニトロはたじろぎ周囲を見回した。
 そうだ、こんな風にティディアに俺が愛されていたら……彼女は!?
「ニトロ」
 己が名を呼ばれる度に、ニトロは悔しいかな、強烈な安堵を感じていた。喉の渇きもなくなっている。彼女の声と音とこの光に包まれていれば、周囲に満ちる息のできない暗闇から自分は守られるのだ。そしてまた、あなたをそれから守ってみせるという強い意志を、ニトロは心臓の音から伝え聞いてもいた。
「くそ、一体何でだ?」
 ニトロは戸惑った!
 これでは、このままでは、ティディアに本当に愛されていると信じてしまいそうだ。あいつに事の真偽を確かめるまでもなく、一人の人間として深い愛情を向けられていると、そう思い込んでしまいそうだ。
 胸に迫る。
 目の前で告白されているかのように、胸に迫る。
 優しく抱かれながら愛を約束されているかのように、胸に迫ってくる。
「ニトロ」
「いやいや待て待て」
 ニトロは戸惑いながらも、やおら理解した。
 そうか、これは本当に直接自分の心に流れ込んできているから、こんなにもあいつの情が胸に迫ってくるのだ。
 共感はしてもいい、だが同調はしてはならない――ふいにそう思うが、いいや、無駄だった。これは同調の故ではないのだ。共感の故に、胸に思いが溢れているのだ。ティディアが生み出す温かな情に、共感してしまった己の情が揺れているのだ。
 そしてこの情をこんなにも素直に俺に伝えてくるのは……伝えられるのは、一人しかいない。
「――伝えられるのは?」
 ニトロは、ふと思い出した。
 この世界で目を覚ます前に見たミリュウの記憶。
 トクン、トクン、と音がする。
 ニトロはこの音を、ミリュウの記憶の中でも聞いた。
「ああ、そうか」
 ティディアがクロノウォレスに発つ前夜の記憶だ。
 ミリュウはティディアに抱かれながら、姉の心臓の音を聞いていた。ニトロ・ポルカトの話題を出し、その音を確かめるように聞いていた。
 この心臓の音は、脈打つ感情は――温かい。涙が出るくらいに慈しみに満ちている。それなのにどこか切なくて、触れればすぐに壊れそうなほどに脆そうで、だけど強い。強くて、無垢で、愛しくてたまらない。
 愛しさに打ちひしがれるように足元を見れば、ミリュウの宮殿と島を取り囲む外海とは比較にもならない美しい海があった。
 あまりの美しさに目をそらし、天を仰げば、宮殿の中にいるはずなのに、そこには抜けるような広い青空がある。
 彼女達は伝えてくる。
 その情の深さは、海の深さ。
 その愛の深さは、空の深さ。
「ああ、ちくしょう」
 ニトロはうめいた。
「ニトロ」
「――俺は」
 ティディアに、
 あのクレイジー・プリンセスに、
 大ッ嫌いなあのバカで傍若無人で無茶苦茶で痴女な上にふざけた希代の王女様に、
「俺は、こんなに愛されているのか……」
 ニトロは認めざるを得なかった。
 ミリュウの心と記憶を介して、しかし、あのミリュウの心と記憶を介しているからこそ、ニトロはそれを認めるしかなかった。
 すると、それを認めたニトロの目が、視界の隅にうずくまる少女を見つけた。
 彼女はニトロを包む光と、光の外にある暗闇の境界にいた。境界の、暗闇側に。
「……」
 ニトロは、彼女が今、どんな顔をしているのか――それを見るのを怖く感じた。
 だが、目を逸らすわけにはいかない。
 ニトロは彼女に近づいた。
 と、そうすると彼女がうずくまったまま自動的に離れていった。
「――?」
 戸惑い、もう一度近づくが、ミリュウに一向に接近することができない。というよりも、ミリュウは光側に入ってこられないようであった。
 彼女の顔は暗闇が隠している。
「ニトロ」
 うずくまる妹を無視して姉は男に愛の声を届ける。
 その度に光が増し、ニトロは温かな水の中で浮いているような幸福感に包まれる。
「ニトロ」
「――違うだろう」
 ニトロは、拳を握っていた。
「違うだろう、ティディア」
 すぐそこにお前の妹がうずくまっている。
 寒くて、息ができない暗闇の中でじっと耐えている。
「それなのに放っておくのか?」
 ニトロの言葉に反応したように、光に照らされる範囲が増えた。
 それでもミリュウはこちら側にこられない。
 しかし、変化はあった。
 ミリュウの顔が光によってぼんやりと照らし出されたのだ。
 ニトロは拳をさらに強く握った。
 そこにある表情は、一体どんなに恐ろしい形相を刻んでいるのだろうか……そう思っていたのに。
「……」
 ニトロはミリュウの顔を凝視し、困惑するしかなかった。
 そこにあったのは、寒くて息のできない暗闇の中にうずくまる彼女が浮かべていたのは――祝福の笑顔であった。
「どうして……」
 ミリュウはこちらを見つめて、微笑んでいる。
 ニトロのよく知る和やかな笑顔で心の底からの祝福をこちらへ贈ってきている。
 そこに羨望や妬みはない。敵意や殺意もなく、あの『破滅神徒』の鬼気迫る執念も何もない。むしろそこには……もし祝福の他に彼女の心を見出そうとするのなら、祝福の影には小さな諦めがあった。
 ――諦め?
「何を諦める?」
 人生を? 命を? それとも、自分が姉に愛されることを?
「ニトロ」
 微笑んでいるのであろうティディアの声にニトロは抱かれ、ミリュウは窒息しながらこちらを見つめている。
 ニトロはティディアの愛とミリュウの祝福に挟まれ、惑い、望んだ。一度ここから離れたい。これまでの自分の大前提――『ティディアは俺を愛していない』――その崩壊に心根も揺れている。このままでは俺はここから抜け出せなくなる。
 その思いが通ったのだろうか、うずくまるミリュウの背後に扉が見えた。
 ニトロは走り、ミリュウの傍を駆け抜け、扉を開けた。

 ニトロが訪れたのは、あの湧水の池の部屋であった。
 そこでは相変わらずミリュウが水をティディアに運んでいる。
 ニトロの喉は、再び渇いていた。
「……ああ」
 彼の目の奥に、暗闇に見たミリュウの祝福が浮かぶ。
 水をこぼしてしまったミリュウが池に戻っている。
 その顔に――泣き出しそうなのに、泣き出しそうになることすら許さない彼女の意志に、あの祝福が重なる。あの諦めが重なる。
 そこにいるミリュウは相変わらず池の水を汲み、何度も失敗し、成功するまで努力し続けるのだろう。
 先ほどはそれを見続けることができたニトロは、今はそれを見続けようとすることもできなかった。
 ――ティディアの愛を知ったことで。
 ニトロは、冷たいティディアに見つめられながら試練を乗り越え続けるミリュウの絶望を、本当の意味で知れた気がしたのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 その先ではティディアの打つ拍子に合わせてステップを踏み、ダンスを練習するミリュウがいた。ティディアは無感動にミリュウを見つめる。無感動? いや、違う。ニトロは思い改めた。それはただ無感動なのではなく、真剣であるが故の無感動なのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウがティディアの監視の下にテーブルマナーを習得しようとしていた。
 ここでもティディアは表情も感情も消してミリュウを真剣に見つめている。真剣に鍛え上げている
 姉の目は、姉の目ではない。かといって教師の目でもない。妹を見る姉の目でも、生徒を見る教師の目でもない。まして子を見る親の目でもない。
 ニトロは理解した。
 ティディアの目は『素材ミリュウ』を『優等生な王女』に作り変える職人の目なのだ。そして鍛えるために、真剣に情を注いでいる姿なのだ。職人が弟子に与える愛情ではなく、作品に与える愛情。同じ“愛”でありながら、決定的に違う『愛』。
 ……この世界で目覚める前に見た、彼女の記憶と心。
 それだけではなく、王城で彼女が吐き出していた真情までもがニトロを打つ。
 あの玄関の前にいた人形――
 まさにあれこそミリュウだ。
 ミリュウはずっとティディアに『道具』として、『作品』として愛され続けてきた。目の前でスープを飲もうとしているミリュウは、今も、磨き上がっていく宝石ものへ送る姉の愛情をその身に受けている。
 ……それは、やっぱり違う。
 ティディアが俺に送っていたものとは全く違う。
 ニトロは扉を開けた。
 そこでもミリュウはティディアに鍛えられていた。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウはティディアに慰められていた。だが、ただの慰めだったら良かった。ティディアの優しい言葉はミリュウの心に深い根を下す。ミリュウはそのために姉がなくては自己を支えられない心を育てていく。そうやって育っていく心に、ティディアは水と肥料を与え続ける。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロはまた温かな愛情を感じた。しかしそれはティディアが彼に与えるものではない。ミリュウがティディアに与えるものであった。
 そう、ミリュウは、ティディアを心から敬愛していた。本当に、心から。だからどんな形であれティディアから向けられる感情を喜んで受け入れていた。それがどれほど打算的なものであり、どれほど狡猾で姉妹の間に育まれるはずの親愛からは程遠いものであっても、それを喜んで抱き止めていた。
 ニトロは扉を開けた。
 大勢の人間――国民の前で、どこかの宮殿のテラスから王女姉妹が笑顔で手を振っている。その背後に伸びる姉妹の影はまるで影絵劇のように動き、姉の影は妹の影を操り、姉の影に操られる妹の影がミリュウ本人を操っている。本人の体から骨が折れたような音がしようと影は無理矢理本人を動かす。それと同時に影自身も耐えられないように薄くなっていく。しかし失った色を戻すための顔料を他から得られることも無く、ミリュウの影はしだいに消えていきながら、それでも何とか消えてなくならないように姉の影の陰に入ることで自分の色を取り戻した気になって安堵する。ただの誤魔化しで、目を塗り潰す。
 ニトロは扉を開けた。
 異様な形の姉妹の関係性が積み重なっていく。
 ミリュウは一方的にティディアに依存していく。
 しかしティディアは何にも依存しない。だが、依存を受け入れ、それをいいように操る。
 いつしか超一流の人形師によって、人形も一流になっていく。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは、もう知っていた。
 人形は自己が磨き上げられ、それが人形師の利益になることを心から喜びながら――そうだ、まるでオリジナルA.I.達がマスターに尽くすことを幸福とするように、彼女もティディアの生きたオリジナルA.I.として尽くすことを喜びながら、一方で、常に絶望していた。
 彼女は確かにティディアに最も近い道具であっただろう。ニトロ・ポルカトが道具として愛されている時期にも、それは変えようのない事実であっただろう。
 だが、彼女は気づいていたのだ。
 彼女は道具であるからこそ、人間ティディアに同じ人間としては尽くすことは絶対にできない。
 もしかしたら、
「だからこその『契約ぜんてい』だったのか」
 扉を開けた先で、ミリュウはティディアを神として崇めていた。
 神と信徒の間には往々にして契約が取り交わされる。
 しかしここにある契約は、神から信徒に向けられるものではなく、信徒から神に向けられている。
 ミリュウは祈り、思う。
 神は特別に誰か一人を愛さない。
 神の愛は、等しく皆に注がれる。
 わたしも皆と同じように等しい愛の中にいる。
 それなら、どうぞお姉様、あなたはわたしの女神様でいてください。
 あなたが誰をも愛しながら誰をも愛さぬ神であるならば、わたしはあなたの『愛』で満足できる。いつも渇いている喉も、あなたの『愛』によって癒される。
「いつも渇いているのに癒される?」
 ニトロは扉を開けた。
 また湧水の池でミリュウがティディアに水を運んでいる。
「違うだろう」
 ニトロが扉を開けると、また暗闇の部屋に出た。
 ニトロだけに注がれる愛。
 こちらを見るミリュウの祝福と、諦め。
 ああ、お姉様はとうとう人を愛されたのですね。人として、愛しい殿方を愛されているのですね。
 でも、そうするとわたしの『前提けいやく』は失われてしまいました。お姉様、女神様、あなたがお造りになってくださったわたしの『世界』は、その大柱を失ってしまいました。
「……」
 ニトロは扉を開けた。
 ミリュウはティディアとダンスレッスンをしている。膨大な量の勉強をしている。スピーチの仕方を教わっている。国民と触れ合い、また国民に罵倒され、また国民を支配しながら、『王女』のあり方をミリュウは吐き気を覚えながらも懸命に飲み込んでいく。
 しかしティディアの求めるものには上限がない。
 何故なら基準は、ティディアなのだ。
 ティディアと同じ資質を持たないミリュウには決して克服できない無限の試練。しかし悲しいかな、乗り越え続ければ人より確実に優れられる道程。
「地獄だ」
 ニトロはつぶやいた。息のできない苦しみのあまりに叫んだ言葉――それを彼は繰り返した。
 地獄。
 いや? もしかしたらこれは『王女』にとって地獄でもなんでもなく、当然のことなのかもしれない。しきたりに縛られることを飲み込んでいたマードールのように、これは当然のことと認められるべきことなのかもしれない。――あるいは、認めることこそが外の人間のできる優しさであるのかもしれない。
 しかしそれでも、少なくともニトロには、目の前に繰り広げられる光景は過酷なものとしてしか映らなかった。思い出される『現実』の写真。仲良くティディアとミリュウが並ぶ写真が悲しく思える。ティディアが手本となって幼いミリュウに王女としての立ち姿を指導している有名な写真が思い出される。それが地獄の本格的な始まりだったのかと思うと、胸が苦しくなる。
 ニトロは扉を開け続け、次第に『あるもの』を探し始めていた。歪な姉妹の奇妙な親愛関係を見届けながら、彼女の動機が『全て』であったのならば、絶対になくてはならないものがまだ彼の目には現れていなかったのだ。
「……」
 ニトロはティディアに抱きしめられて慰められるミリュウを見ながら、思わずにいられなかった。
 本当は、ミリュウは、俺が『一人の男性として愛されたい』と考えていたように、根底では彼女も同じく『一人の妹として愛されたい』と考えていたのではないか?
 なのにミリュウはそれも諦めきっていた。
 何故なら、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、ある時期までは間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの最大の理解者であったからだ。
 妹は知っていた。
 姉は、人を愛さない。いいえ、愛せない。姉には人間らしい愛情が、本当はないのだ。
 恐ろしくも親しみ深く、慈愛に溢れたティディア姫。その親しみも、慈愛も、ティディア本人から溢れているものではない。それらは全て“王女ティディア”から精製されている“人工物”にすぎない。天才が作る限りなく本物に近い贋作。贋作でありながら万人に本物であると認められるために『本物足りえる愛』。
 ミリュウはその最高純度の『本物足りえる愛』を受けられる人間だった。そしてそれは、本物の愛を欲するミリュウの喉の渇きを誤魔化すには十分な純度の『愛』でもあったのである。
 王・王妃――両親は公務で忙しい。
 長兄・次兄・長女はミリュウをその凡庸ゆえに王家の失敗作、“劣等遺伝子”の固まり、それとも実は母は不倫をしていてアレはその不義の子なのだろう――と、妹を、妹として認めない。ニトロはミリュウの記憶の中で聞いた。長女は次兄に言う「それでも『王女』ではありますから、良い商いになりましょう? 殿方も王女との一夜の夢とあれば、例え腐肉が相手でも大金をはたきましょう」次兄はうなずき、長男は笑って言った「だけど木偶は穴も硬すぎるんじゃないのか? 何だったら俺が少しくらい使える程度にはしてやるよ」――人でなしとミリュウが呼ぶ兄弟の、あまりに彼女を卑しめる言葉。連中はミリュウがそれを理解できないと思っていたのだろう。彼女の目の前で話していた(そしてニトロはその時そこで実際に目撃していたと記憶違いをしそうになっていることに気づいて慌てて頭を振った)なれどニトロは知っている。ミリュウは、それほど劣っているわけではない。むしろ歴代の中でも優秀な部類に入る王女だ。彼女はちゃんと理解していた。「しかしティディアに知れたらまずいだろう」「問題ありませんわ。少々脅しつければコレは何も言えませんもの」――理解した上で、心を震わせながら、解らないふりをしていた。
 さらにミリュウの周囲にいる人間は、当然、『王女』に従う者ばかりであった。ルッド・ヒューランは言っていた。ミリュウは繊細であると。実際、繊細な少女であった。彼女は周囲の心の機微を敏感に感じ取れる人間であった。それは現在でも、彼女が優しく、兄弟の中で両親に最も似た人徳を持つと呼ばれるに相応しい人間であることで証明されている。ただ、それが彼女の苦しみを生む要因でもあった。
 ……繊細な王女は、いつも一人であった。
 彼女は家族の愛を受けられない。ティディアは愛してくれるが、ミリュウは早いうちから心の底ではそれも偽物であることを悟っていた。
 だが、だからこそ、ミリュウはティディアの『本物足りえる愛』に縋った。何故ならティディアはその『愛』しか持っていないのだ。ならば、それしかないのであれば、それはむしろ本物といってもいいのではないか? それしかないのなら、それこそが本物で間違いないではないか。――言葉遊びにも似た価値の転倒。されど、姉の『特別な愛』を向けられる人間にとっては甘美な発見。
 ミリュウがティディアの『愛』に縋り切ったことを誰が責められるだろう。
 外から見れば……ニトロから見れば、確かにミリュウが姉の『愛』だけに救いを求めたのは失敗だったと思える。
 だが、ミリュウの世界にはそれしかなかったのだ。
 それしかないのに、それに縋るなと言うのは無理筋というものであろう。
 時が経ちセイラ・ルッド・ヒューランのような支えを得たとしても、いつまでも彼女の中心をティディアの『愛』が占拠し続けるのも自然な帰結というものであろう。
 例え姉の『愛』が彼女の求める“愛”の偽物だったとしても、事実彼女は姉に救われてきたのだ。人でなしの兄姉から守られ、周囲の目や口から心身を守るよすがを賜り、彼女が生まれながらに課せられた王女という試練への対抗力を与えられてきたのだ。
 ミリュウがティディアを盲信することになったのも誰が責められよう?
 ミリュウがティディアのために執念を燃やすことに、一体どんな不思議があるだろう。
 全ては『愛』のためなのだ。『愛』のためであったのだ。
 だが、『ニトロ・ポルカト』の登場により、その全てが否定された。
 あるいは『ニトロ・ポルカト』が世界の理を変えてしまった。
 ミリュウが本物だと信じ込んできたものは、やはりどうしたって偽物なのだと暴露されてしまった。
 彼女の過去はその瞬間、本物の黄金ではなく、黄金っぽくメッキ加工された張子はりこに成り果ててしまったのである。
「地獄だ」
 そして、女神の胸の奥にあった本物の黄金を手に入れた悪魔は、彼女の目の前で笑いながらその黄金を投げ捨てる。「なんてこと……なんてこと……」つぶやいていたミリュウ。ああ、彼女の絶望はどこまでも多面体だ。一面だけでは収まらない。魂を壊死させる毒のカクテル。言葉を選ばなければ、それまではまだ神が奪われただけですんでいたのだ。神が消え、過去がメッキとなったとしても、それでもまだメッキされているだけの価値はあった。しかし悪魔は女神の黄金をさも糞のごとく軽んじた。ニトロに自覚はなかったとしても、ミリュウにとっては間違いなくそう感じられることであった。黄金が糞であれば、糞を模したメッキは一体何になる? ニトロは――悪魔は、その時、ティディアの愛を軽んじることでミリュウの命を支えてきたものまで粉々に吹き飛ばしてしまったのだ。
 その時点までは、ミリュウは、ニトロの予想通り、『未来に繋がる希望』を抱いていた。
 ニトロ・ポルカトが姉の失望を買う人間だと証明できたら?
 ニトロ・ポルカトに対しわたしが少しでも優位を示せたら?
 だが、それらも一瞬でゴミとなった。そんなことはもうとっくの昔に消費期限の切れた希望ぜつぼうに過ぎなくなった。そして彼女には、終に、とっくの昔からずっとあった絶望きぼうだけが残った。
「地獄だ」
 湧水の池のミリュウの手はぼろぼろだった。だが、ティディアの手は妹に差し伸べられない。それが当たり前であればミリュウは耐えられる。だが、それをミリュウが当たり前だと感じられなくなったら……
「……どこだ?」
 ニトロは『あるもの』を探し続けていた。
 探し続けているのに未だ現れないそれが確実に“ここ”あることを彼は知っていた。この世界にはミリュウの心が満ちている。ここではミリュウの感覚が嘘偽りなく伝わってくる――ティディアが俺を愛していることを伝えてきたように、彼女の本心もこの胸に伝わってくるのだ。
 だから、ニトロは感じ取っていた。微弱だが確かにあるその心を。それなのにいつまでも形を成して現れてこないということは、もしかしたらミリュウ本人はその存在に気づいていないのかもしれない。しかし、ニトロは、彼だからこそその心に共感できる――“それ”があることを確信できる。ニトロは探し続けていた。
「どこだ?」
 ニトロは扉を開け――ふと、『あるもの』を探しに逸る気持ちを抑え、立ち止まった。
 そこは小さな小さな部屋だった。
 人一人しかいられない部屋。分厚い壁で囲まれた個室。
 そこにニトロはミリュウといた。
 彼と彼女は重なっているが、交わらず、ぶつからず、奇妙な存在となってそこに共存していた。
「……ルッドランティーの香り?」
 まだ本物の香りをかいだことはないが、ニトロは鼻をくすぐる独特の良い香りにそう思い至った。
 きっとそうなのだろう。
 耳には『春草』が聞こえている。
 ここまで無限回廊のように何十と見続けてきた無数の『ティディアとミリュウ』の部屋とは違い、ここにはミリュウとミリュウの好きなものしか存在していない。
 どうやらここは、ミリュウの最後の砦であるらしかった。
 ニトロは柔らかな部屋着に身を包むミリュウへ微笑みかけた。
「小さな部屋だね」
 しかし彼の声はミリュウには聞こえないようだ。彼女は穏やかに本を読んでいる。貴重な紙製の本。タイトルを覗き込めば『花園に来る』とあった。アデマ・リーケインの著作で、彼女が好きな本だ。
 ミリュウは穏やかに本を読んでいる。
 ニトロは彼女を見つめ、つぶやいた。
「一つ、気づいたよ」
 ニトロはここまで様々なミリュウの姿を見てきた。ティディアの下で王女として磨き上げられていく『劣り姫』。無限に同じことを繰り返されている光景。自分には地獄としか思えない日常。
「だけど、あなたは一度も逃げようとはしていなかった」
 ミリュウは、きっと一度もサボったことすらないのだろう。真面目な優等生。無論、お姉様に見捨てられたくないという脅迫感もあったか? とはいえ、何にせよ、彼女は、一度たりとて泣き言を口にせず、懸命に姉の期待に応えようとし続けていた。
 それにはもちろん姉に『愛』を注ぎ続けてもらうため、という動機もあるだろう。
 しかしその一方で、素晴らしい姉を持つ妹は、どうしても姉を愛さずにはいられなかった。才能に溢れ、美しく、銀河のどこに出しても誇れる希代の王女。普通の人間なら自慢せずにはいられない家族。素敵なわたしのお姉様!
「……尊敬するよ」
 ニトロは、言った。
「けれど、少しは逃げたって良かったんじゃないか?」
 そうすればここまで追いつめられることもなかったんじゃないか? 姉から逃げても、良かったんじゃないか?
「……怖すぎて、できないか。そんなこと。見捨てられたくないし、あなた自身が、それを許せないものね」
 ミリュウは本を読み続けている。
 と、突然、ニトロは何かが弾けたような音を聞いた。
「?」
 何の音かと見回すと、狭い部屋を守る壁に亀裂が入っていた。
 すると、その亀裂から、けたたましい赤子の泣き声が入り込んできた。
「うわ!」
 ニトロは耳を塞いだ。が、意味がない。そのあまりに恐ろしい赤子の鳴き声は骨を伝って脳の内部にまで響いてくる。
 赤子の声はどんどん高まっていく。
 外から壁を叩く音が伝わってくる。
 それにつれて壁が崩壊を始める。
 なのに、ミリュウは動かない。
 自分の大切な部屋が壊れていくことにもじっと耐えているように、本を読み続けている。
 ニトロはその時、ミリュウが同じ箇所を何度も繰り返し読んでいることに気がついた。

 ――うずたかく積まれた薪が燃えていく。
 ――独りの僧が焚かれゆく。――
 ――今、彼が叫ぶ。
 ――「神を愛することが罪でないように、神を憎むことも罪ではない。なぜなら、神は神を憎むものをも愛しておられるからだ!」
 ――彼の声は彼への憎しみの声に塗り潰される。彼と同じ神を信じる者達の憎悪の熱に身を焦がし、それでも彼は説く。
 ――「憎しみから生まれた愛が穢れていると誰が言う! 憎しみは! 愛を生んだ時にきよめられた!」
 ――罵倒の舌が彼を舐め、炎の勢いが増し、彼の足はもはや焼け爛れ、滴る血液は流れ出すそばから炎に巻かれて天を突く。
 ――僧衣を剥ぎ取られ、粗末な胴衣すら与えられず、屈辱にも裸体を晒し、殴り打たれてどす黒く変色した身を赤く染めながら、それでも彼は叫ぶ。愛する神のため、愛する神を貶める信徒への怒りを。
 ――「聞け、人よ! 神の祝福を受けし肉らよ! 愛が浄らかなものだけで出来ていると思うことこそが罪であり、傲慢であり、また人の真実の原罪なのだ!」

 ミリュウの手の中で本が燃え始めた。
 それでもミリュウは動かない。
 火が本からミリュウに移る。まるで書物に語られる僧のように燃えながら、それでもミリュウは動かない。これが運命で、わたしはその全てを受け入れるとでも言うように、彼女はずっと耐え続けている。
 恐ろしい赤子の泣き声の中、火に包まれながら……ふと、ミリュウがつぶやいた。
「愛は、それでも、浄らかなものだけでできているのだと思う」
 ニトロは歯噛んだ。
 違う。それは――『希望』だ。それはただのあなたの願望にすぎない。あなたはそれも知っているはずだ
 ニトロは言った。
「嘘だ。あなたはティディアを嫌ってもいる。もしかしたら俺以上に。いいや“もしかしたら”なんかじゃあない。あなたは……ティディアを、憎んでいる」
 はっと、ミリュウが、燃えながらニトロを見上げた。
「だけど、それなのにあなたはティディアを本当に愛している。あなたの愛は本物だ。だから、あなたは姉を憎む自分も許せない。だから……だからただ一つの『浄らかな愛』で自分の心を偽りたかったんだろう?」
 突然、ミリュウが笑った。
 壮絶な嘲笑であった。
 ニトロの脳裏に言葉が浮かぶ――『とっくに間に合わなくなっていた』――ニトロは小さく笑った。ため息混じりに。
「それでもあなたは逃げもせず、逃げもできず、逃げることを許さず、その上自分の心に自分の心で蓋をして――だけど覆い隠された心は本物で、それを覆い隠した心も間違いなく本物で……複雑だ、複雑すぎて、考えているこっちがどうにかなりそうだよ」
 ミリュウは声もなく哄笑していた。
 ニトロに向けてではなく、自分に向けて。嘲るように、誇るように。怒っているかのように。嘆いているかのように。
 やがて炎はミリュウを真っ黒に焦がし、焦げた彼女は炭化した皮膚の形をゆっくりと変え、やおら彼女は、真っ黒な蛹となった。
 殻の中でドロドロとなったミリュウは、複雑怪奇なその心と混ざり合っている。
 いつかこの部屋には壁を破壊して恐ろしい泣き声を上げる赤子が入り込んでくる。赤子は暴れながら、壁だけではなく蛹をも割るだろう。そしてその時、『破滅神徒』が産声を上げるのだ。
 ――ニトロは扉を開けた。
 その先では相変わらずミリュウがティディアにレッスンを受けていた。
 ニトロは扉を開けた。
 ティディアの叱責を受けるミリュウは次の努力のために気合を入れ直している。
 ニトロは扉を開けた。
 お姉様のため! ミリュウはひたすら我が身を削る。削り磨かれることで輝きを増す宝石のように。研磨されるたびに少しずつ痩せ細りながら、そんな自分を誇り、そんな自分を装身具として身を飾る姉を讃え、そのためにこそ、そこにこそ彼女は己のアイデンティティと存在理由を見出す。
 ニトロは扉を開けた。
 ティディアはミリュウを、変わらず無感動に見つめている。
 ニトロは扉を開けた。
 ミリュウはいつか自分が世間にどう呼ばれているかを知った。『劣り姫』――あの偉大な姉に比べて、あまりにも劣る妹姫。
 ミリュウは喜んでいた!
 ああ、わたしは人にお姉様の妹としてちゃんと認められている。お姉様と比べる価値はあるのだと、女神様と比べられるくらいには価値のある妹なのだと! 劣り姫!
「ああ、なんて素敵な名前」
 ニトロは、溜め込んでいた感情を爆発させた。
ド阿呆!
 彼は劣り姫という名に感涙を滲ませるミリュウを掴もうとした。
 だが、掴めない。
 彼の手は虚しく空を掻く。
 ならばとニトロは扉を開けた。
 次の間でもニトロはミリュウには触れられない。
 ニトロは扉を開けた。
 ダンスレッスンの風景。ニトロは……ミリュウを無視し、彼女にステップを踏ませるために手を叩くティディアの前に立った。
「そうだった。俺は悪魔だったね」
 つぶやき、ニトロはいきなりティディアを殴り倒した。
 ミリュウには触れることのできなかったニトロであるが、ティディアを殴り倒すことはできた
 その事実にニトロは笑い、突然の暴挙に悲鳴を上げているミリュウをすり抜け扉を開けた。
「やっぱり俺はティディアには触れられるのか
 扉を開けると音楽の授業風景があった。ティディアは、今ではとても貴重なクラシカルなピアノを弾いている。ミリュウは発声練習をしている。ニトロはピアノの蓋をいきなり閉めた。指を挟まれたティディアが悲鳴を上げ、それよりも大きな悲鳴をミリュウが上げる。
 ニトロは扉を開け、その先にいたティディアを薙ぎ倒し、扉を開けながら叫んだ。
「ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 ニトロの前に宮殿のテラスで手を振る姉妹が現れる。ニトロのドロップキックがティディアをテラスから追放する。
「聞こえるか! ミリュウ!」
 敬称を捨て、扉を開け、彼はティディアにダンスを教わるミリュウに再会する。
「これはティディアじゃない! いいや、確かにティディアなんだろう! だけど、これはティディアの全てじゃない!」
 ニトロは無感動に妹を見るティディアをバックドロップで床に叩きつける。即座に踵を返して扉を開け、妹に外国語で本を読み聞かせているティディアを張り倒し、扉を開けるや猛然とティディアに襲いかかる。
「聞け! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 ミリュウの世界を悪鬼のごとく跋扈し、女神をことごとく蹂躙しながら彼は叫ぶ。
「あなたはもう知っているだろう! ティディアは、これまでのティディアとは変わった! それなのに何故、あなたはまだティディアを知った気でいられるんだ!?」
 ニトロはミリュウを叱責するティディアを突き倒し、倒れたティディアを指差し、
「このティディアを否定はしない! けれど、否定もする! ミリュウ、聞け! いいや聞いているだろう!? ミリュウ!」
 ニトロはどこかにいるはずの『ミリュウ』に向けて叫んだ。
「ティディアはあなたを愛している!」
 反応はない。
「道具としてでなく、一人の、たった一人の血の繋がった妹として、あなたを愛している!」
 反応はない。
 ニトロは扉を開けた。
 テーブルマナーを教えるティディアの頭を掴み、それをスープ皿に叩き込み、
「俺は知っているんだ! ミリュウ! ティディアはあなたを愛している! そうでなければ――」
 ニトロはテーブルの向こうで悲鳴を上げているミリュウを見つめ、最も認めたくない現実を前提とした言葉を、歯を食いしばり、
 叫ぶ!
「そうでなければ、あなたを俺に委ねるものか! 愛する俺を天秤にかけてまであなたを守ろうとするものか! 俺があなたの記憶を見たように、あなたも見ただろう! ティディアは、俺に、あなたを頼んできた! 俺は知っているんだ。あなたは知らないだろう、だけど俺は知っているんだ! ティディアは確かにあなたも一人の人間として愛している! いつからだと思う? 最近になって急に? それとも本当はあなたはずっと人間としても愛されていた? そこからあなたは目を背けたかった? いいや、そんなことはどうでもいい、あいつがあなたを愛しているという事実だけあれば十分だ、例え! あなたを愛するようになった『原因』が、それがあなたの言うようにあいつが弱くなったためだろうと……それこそがあいつの弱点になってしまうんだとしても、ティディアは――間違いなくあなたを愛せるようになっている!」
 ニトロは怒鳴った。
「ミリュウ! そしてあなたは馬鹿だ! 大馬鹿者だ! あなたは間違っている! 俺は確かにあなたと似ているのかもしれない、あなたに俺は同情できる、あなたも俺に同情できるだろう、それくらいには確かに似ているんだろう! だが、ミリュウ! 見誤るな! あなたはあなただけの人生を歩んでいる、あなただけしか歩めない人生を! それは俺には決して歩めない道だ! こんな地獄の日々は俺にはきっと耐えられなかっただろう、けれどあなたは耐えてきた! あなたは間違いなくこの国の立派な王女で、ティディアの妹で、パトネト王子の姉で、セイラ・ルッド・ヒューランが誇る主人で……そうして俺に喧嘩を売った、俺とは絶対に同じなんかじゃない、誰が代わることもできない『あなた自身』を全うしているたった一人の人間だ! 劣り姫? 他の誰がそう言おうとあなたがあなた自身を貶めるな! 誇れ! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 次々とミリュウの世界のティディアを叩き潰しながら声を張り上げ続けたニトロは、再度湧水の池の部屋に戻ってきていた。
「……」
 そこではミリュウが、コップを握り締めた少し幼いミリュウが、初めて、怯えたように彼を見つめていた
「……もう意識せざるをえないのかな」
 皮肉気に笑いながら、ニトロはミリュウに歩み寄った。幼いミリュウが後ずさりをする。彼女の手には半ば水のこぼれたコップがある。彼女は池に戻る途中だった。
「もらうよ」
 ニトロはミリュウからコップを奪った。
「あ!」
 ミリュウが悲鳴を上げる。ニトロは、コップを奪い取ることができた
「悪いね。でも、喉が渇いているんだ」
 ニトロはそう言うとコップに口に運び、一気に水を飲んだ。冷たく透き通った水は素晴らしい甘露で、よくもミリュウはこれを手にしながら飲まずにいられたものだと思う。
 美味なる水にため息を吐いたニトロは、ミリュウが凄まじい形相で睨みつけてきていることに気がついた。
 ニトロは、しかしミリュウをそのままに捨て置いた。池に歩み寄り、コップを水に沈める。湧水は氷より冷たく、彼は指先から首にまで突き抜けてきた痛みに思わず震えた。
「……まったく」
 コップを冷水で満たし、ニトロはコップから水がこぼれるのも気にせず玉座に向かった。
 玉座では、ティディアが相変わらずの無感動で……いや、違う、少し微笑んでこちらを見ている。
 ニトロは段を軽やかに上がり、背にミリュウの殺意を浴びながら――正面にティディアの微笑みを受けながら、コップを見つめた。
 一握りのコップの中で揺らめいているこの水は、もしかしたらミリュウの涙なのだろうか。
 この冷たさは、そのまま彼女の凍える心なのだろうか。
「……」
 ニトロがティディアを見ると、ティディアはコップの水を請う眼差しを向けてきていた。飲ませて? と。明らかにミリュウとは違う対応であった。
 ニトロはコップを差し出し、それをティディアが受け取ろうとする瞬間、コップの水をティディアに浴びせかけた。
「ああ!」
 悲鳴とも怒号ともつかぬ声をミリュウが上げる。
 しかしティディアは怒らない。それどころか微笑んでいる。
 ニトロはため息をついた。
「違うな、ミリュウ。こういう時くらいティディアも俺に怒るさ。怒って、そうしてボケの一発でもかましてくるんだ」
 ニトロはコップを放り捨て、びしょ濡れとなったティディアの肩に手をかけた。
 背後から足音がする。
 きっと鬼となったミリュウが割れたコップを拾って、そのガラス片で刺そうとやってきている。
 しかしニトロは構わず、両手で肩をつかまれたことをキスの前兆とでも勘違いしたらしいティディアに言った。
あっちのお前も後で覚えとけ」
 そしてニトロは背を弓なりに逸らす。歯を食いしばり、首の筋が浮き、僧帽筋が首を固定し、体を折り曲げるための全ての筋力を爆縮させるための息が吸われ、
「やめて!」
 ミリュウの嘆願も無視し、ニトロは渾身の力を込めてティディアの頭蓋を砕かんばかりに頭突きを――

「ふざけるな!」
 ニトロの額は空を打ち、彼は怒声に打たれた。
「……」
 ニトロは振り下ろした頭を振り上げた。
 眼前にはミリュウがいた。喪服のような黒い服を着て、青いチョーカーで首を締め付ける彼女が、わなわなと体を震わせていた。
「よくも……」
 険しく顔を歪めるミリュウの肌に青い紋様はない。しかしそれ以上に恐ろしい陰影が彼女の顔を彩っている。
「よくもわたしの……お姉様を……」
 ミリュウは拳を握り、ニトロを睨み、骨が砕けそうなほどに噛み締めた歯を剥き出して唸る。
「よくも……よくも……」
 ニトロはミリュウの凄まじい怒気を浴びながら、嘆息した。
「よくもわたしの心の中でまで穢してくれたな?――なのに、そうやってうめいているだけかい?」
 直後、ニトロの左の頬をミリュウの拳が打った。
 ミリュウにしては渾身の力であっただろう。ニトロの頬の内側が切れて口内に血の味が広がる。しかし、ニトロはさらに言った。
「で?」
 再びニトロの左の頬を拳が打つ。ニトロは血の混じった唾をミリュウの足元に吐き出し、
「弱いな。結局、あなたのティディアに対する思いはその程度か」
「黙れ!」
 ニトロの左の頬を三度ミリュウの拳が打った。が、三度目の拳を、ニトロは頬で受け止めていた。ミリュウの拳で頬を押さえつけられながら彼女に迫り、目を細める。
こうやってティディアを殴れたらよかった
「違う!」
 ニトロの挑発にミリュウは顔を紅潮させて激昂し、左の拳でニトロの右の頬を打った。
「違う!」
 右の拳でニトロの頬を打つ。
「違う、違う、違う!」
 繰り返し、繰り返し、ミリュウは滅茶苦茶にニトロを殴り続ける。
「わたしはお姉様を嫌ってなんかいない! 憎むことなんてあるものか! わたしはお姉様を愛している! お姉様を心から! 心の全てで、心の底から、全て、全て、全てで! お前の言葉は妄想だ! わたしはお前と同じなんかじゃない! わたしはお前と同じにお姉様を嫌ってなんかいない! お姉様の愛を受け! お姉様の愛が真実だと知りながらも、今も! 愛されながらもお姉様を嫌い続けていられるお前なんかと同じにするな!」
 ミリュウの拳は、どす黒い血の色で染まっていた。
 だが、それはニトロの血ではない。
 人を殴ったことのない彼女の拳は彼を殴る度に傷つき、ついには折れ、骨を折りながらも殴り続けたことでとうとう砕け、その破片が彼女の肉を刺し、そして彼女の拳は内側から血に染まっていた。
「わたしは生まれた時からお姉様を愛しているんだ!」
 ミリュウは怒りに泣きながらニトロを殴る。
「わたしはお姉様のために身も心も捧げると誓ったんだ!」
 そのうちに、ミリュウの顔に変化があった。
「お姉様のためなら命も惜しくない! どんな屈辱にも耐えられる! だけど、お姉様がそれを喜んでいたのだとしても、お姉様が穢されることだけは許せない! お前なんかに! わたしと同じだったお前なんかに!」
 ミリュウがニトロを殴る。
 すると、傷を受けるのはミリュウであった。
 いつの頃からか、ニトロが殴られる度、ミリュウが殴る度、ニトロの殴打の傷が癒え、ミリュウの頬に殴打の傷が移っていた。
「既にお姉様のお心は傷ついている! お前のせいで!」
 ミリュウの拳がニトロの右目を打つ。――と、ミリュウの右の瞼が腫れ上がる。
「これからもお姉様の愛は傷つく! お前のために!」
 ミリュウの拳がニトロの鼻を打つ。――と、ミリュウの鼻骨が折れて血が溢れ出す。
「ふざけるな! ふざけるな! それなのにお前はお姉様を侮辱し傷つけ続けるんだ! お前を許せるものか! 他の誰が許しても、お姉様がお許しになったのだとしても、わたしだけはお前を許せるものか!」
 ミリュウの顔面は、今や見る影もなく赤黒く膨らんでいた。唇は切れ、頬は腫れ、歯も折れて言葉を紡ぐことも辛いはずだ。
 しかし彼女は血を吹きながらニトロを殴る。
「ニトロ・ポルカトを愛することで弱くなられた哀れなお姉様! お姉様を弱くしたお前は! お前がお姉様の弱点であるからこそお姉様に攻められないことをいいことに、だからお姉様が本気で攻撃できないのにそれに勝った気になって、調子に乗って、お姉様を責め続けて……許せない。許せるものか。お前のような悪魔を!」
「俺は、俺を人質にしているから、ティディアに負けない?」
「そうだ!」
 ミリュウに鼻を殴られ、その一瞬はニトロも痛みを感じる。しかしそれ以降の傷と痛みはミリュウに移り、折れた鼻をさらに潰して団子のように顔を変形させる彼女を見つめ、ニトロはうなずいた。
「そう、なのかしれない」
「仮定ではない、そうなんだ、でなければ無敵の王女がお前みたいな一介の男に拒絶されることを許し続けるものか!」
「あの恐怖のクレイジー・プリンセスが」
「そうだ!」
 ニトロは笑った。
「やっぱり、そっちも俺がティディアを拒絶していた歴史を見たんだね」
 ミリュウが拳を止めた。
「なら、俺があなたからティディアの思いを受け取ったように、あなたも俺から受け取れていたはずだ」
「違う、あんなのはお前の勘違いだ、優しいお前がわたしに同情して――」
「そう同情したよ。だけどそれとこれとは別の話だ。ティディアは、あなたも確かに愛している。その思いを、俺があなたから伝えられたように、あなたも確かに受け取ったんだろう?」
「ッ言うな!」
 ミリュウがもうぐちゃぐちゃになった拳でニトロを叩く。ニトロの頬をミリュウの拳から流れる血が濡らす。
「なぜ拒絶する?」
 ニトロは静かに、薄く笑みながら、問うた。
なぜあなたはティディアの親愛を拒絶したいんだ?」
 その瞬間、ミリュウの様子が一変した。
「――言うな!」
 弾かれたようにニトロの首を両手で掴む。
 砕けた手で、それでも彼の首を絞める。
「言うな!」
 だが、ニトロは叫んだ。
「言ってやる! ミリュウ! ティディアのあなたへの愛情を認めると、あなたがあなたの全てを支配する絶対的な姉を憎める理由がなくなるからだ!「言うなっ「本当に愛して欲しいのに愛してくれない姉に本当に愛されてしまっては、愛してくれない姉を憎むことができなくなるからだ!」
「言うなあ!!」
 ミリュウがニトロの首を強く強く絞める。だが、首を絞められているのはミリュウであった。
「お願いだから言わないで!!」
 ミリュウの懇願をニトロは拒絶した。『ニトロ・ザ・ツッコミ』――その性分はそんな懇願じゃあ抑え込めない!
「あなたは、だから俺を攻撃することができた! 姉が弱くなったと言いながら、弱くしたのは俺だと言いながら、俺こそが姉の弱点だと知りながら、それでも姉を愛するあなたは姉の愛する俺を攻撃することができた! 殺意をこめて! 俺は芍薬がいなければ死んでいただろう! ハラキリの助けがなければ俺も芍薬もまとめて殺されていただろう! 俺が死ねば姉がどれだけ悲しむかをあなたは理解しながら、だから、俺を攻撃した!」
「言わないで」
あなたは弱くなった無敵の王女の唯一の弱点を初めて攻撃したあいつの最初の敵だ!」
 ミリュウの指がニトロの喉に食い込む。ミリュウが咳き込む。血飛沫を吐きながら、それが己の首を絞めることであっても、それでもミリュウは手と指に力を込める。ニトロは叫ぶ。
「あなたはアイデンティティと存在理由を奪った悪魔を攻撃しながら、同時に女神も攻撃していたんだ! 姉に恨みをぶつけていたんだ! それを『お姉様のため』――その大義名分で覆い隠していた! 何故なら! そうしないとティディアを心の全てで愛しているあなたは指の一本すら動かせないために!」
 ニトロの首を絞めていたミリュウの手が、喉に食い込んでいた指が、ニトロの示した矛で貫かれ、盾で殴られ、激しい音を立ててへし折れる。その拍子に、あまりの痛みのせいか、絞められていた首が解放されたからか、ミリュウが甲高い呼吸音を立てた。
 ニトロは、言う。
「あなたはそれも知っていた。あなたはあなたの全てを知っていたから、だから、ひどく自分を嫌悪した。俺を攻撃する自分が悪いことをしていると知っていて、仮とはいえ『死』を自ら志願して体験するくらいに――それくらい自分を責めていないと己を保っていられないくらいに、あなたは同時に自分を殺したかった。本当は死にたくなんかないのに、あなた自身の意志であなたを殺さなければならないと思うくらいに思いつめた。
 ……破滅神徒とは、よく言ったものだね。あなたの自己嫌悪が産んだものを表すのに、実に相応しい名前だ」
 ミリュウがうなだれ、その手がニトロの首から離れて力なく垂れ下がる。
「もちろん、俺を攻撃したのは姉への仕返しのためだけじゃないだろう。考えてみれば、結局あなたが激情を理不尽にぶつけられるのは俺しかいない。国民や周囲の人間に当たるわけにはいかない、あなたは優等生な王女だから。執事に当たるわけにはいかない、彼女はあなたの大切な拠り所だから。パトネト王子には当然当たれない、守ってやらなきゃいけない可愛い弟だから。全ての創造主・女神ティディア様には? 直接ぶつかれば、あいつへの憎しみより強いあいつへの愛情で支えられているあなたは、そうしようとした時点で自動的に死んでしまう。それは姉の恥になる。
 唯一、俺だけだ。ニトロ・ポルカト――姉を奪った憎い男、女神を貶めた悪魔。あなたが唯一攻撃対象としてもっともらしい理由を作れる『希望』は俺だけだ。それが、逆恨みに過ぎないとしても」
 ニトロは吐息をついた。
「俺が……あなたに謝られていたことは、知っているね」
 この世界に来る時に、ニトロに流れ込んできた感情と記憶の中で。
 ミリュウはこくんとうなずいた。
「どんなに否定しても、もう、あなたは俺に、俺が言った全てを告白している」
 遡れば姉のことを想う彼女のところどころには、姉のためという言葉に隠された恨みも見え隠れしていた。
 ミリュウは……こくんとうなずいた。
「……逆恨みくらいしか感情の捌け口がないってのも、きついもんだね」
「それでも貴方にあんなことをしたわたしは許されるものじゃない」
 ミリュウは血を吐きながら、言った。
 ニトロは顔を上げるミリュウを見つめていた。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――ほら、ご覧になって?」
 ミリュウは力の入らない指で懸命に服の裾を掴み、操り人形が滑稽にポーズをとるように膝を曲げる。無理に笑って彼女は言う。
「わたしは、醜いでしょう?」
 ニトロは腫れ上がった頬と瞼に挟まれて糸のようになった目の奥、彼女の姉と同じ色をした瞳を見返した。
「ああ、醜い」
 ニトロに肯定されて、ミリュウは続けた。
「わたしは愚かでしょう?」
「ああ、愚かだ」
「わたしは人でなしなの」
「うん」
「わたしはどうしようもないクズなのよ」
「そうだね」
「わたしは一体、どうしたらよかったのかな」
 逃げることもできず、誰を責めることもできず、重圧に耐えながら己を責めるのにも限界がきたら。
 ニトロはそれを問いかける『ありえたかもしれない未来』を見つめ、肩をすくめた。
「泣いてみたらどうだろう」
「泣く?」
「あなたのためだけに。他の全ての何もかもを忘れて、せめてあなたのためだけに泣いてみたらどうだろう」
 ミリュウは小首を傾げた。
「それがわたしにとってどれだけ難しいことか解って言っている?」
 他の全ての何もかも。ティディアのことも
 ニトロは言った。――嘆きのあるがために嘆く必要はない。だが、嘆きが訪れた時は、
「泣くことくらい、いいじゃないか」
 すると、ミリュウがニトロに体をぶつけてきた。そのままニトロへしがみつき、彼の胸に顔を埋めて、彼女は言った。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――お願い。あなたがわたしに泣くことを許して。王女であることを泣いてはならないわたしに、王女であることを泣くことを許して。お姉様の妹であることを嘆いてはならないわたしに、お姉様の妹であることを嘆くことを許して。……あなたを羨んで泣くことを許さないわたしに、あなたを羨んで泣くことを許して」
「いくらでも許すよ、ミリュウ。いくらでも泣けばいいんだ」
「ごめんなさい、こんなことにまであなたを煩わせて」
「うん」
「……ありがとう」
「うん」
 ニトロの胸に、ミリュウの嘆きが伝わってくる。
「ぅええええ」
 ミリュウは、泣いた。
「うえええええええええん」
 自分のために、声を上げて、自分のためだけに、初めて泣いた。


……泣き続けた。








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