7−c へ

 地上宮殿部のエントランスに描かれた天井画を満足いくまで観るとしたら、きっと一日あっても足りない。
 ニトロがそれを察したのは、扉の閉められた後、暗闇に目が慣れてからのことだった。窓は外から見ると普通のガラス窓であったが、内から見ると遮光フィルムの張られたもので、それはどうやら天井画の保護の一環としてのものであるらしい。ロボットのライトも紫外線を出さぬものらしく、芍薬のホタルはできるだけ光量を落とし足元だけを照らすよう依頼されていた。
 その中で、ようやく目が慣れたニトロは、天井画は実に細密な絵画であり、たった1m四方を“読み解く”だけでもかなりの情報量を相手にせねばならないことを知ったのだ。そしてそれを知ると同時に、自分の目が決闘に耐えられるだけの準備を整えたことも知った。
「解説をありがとう。それじゃあ、王女様の所へ案内してくれるかな」
「『了解イタシマシタ』」
 芍薬が代返する。ロボットが衝撃吸収材で覆われた八つの足を使って慎重に方向転換し、転換し切ったところで柔らかなゴムを履いたタイヤを静かに絨毯の敷き詰められた床に下ろし、そろそろと走り出した。
 ニトロと芍薬も、床材保護の絨毯が敷かれているにも関わらず、思わずロボットに倣って貴重な歴史的遺物に傷をつけないよう静かに歩いていく。
 エントランスから奥に入ると、闇が濃くなった気がした。ロボットの頭にある淡い光と足元を照らすホタルの光が満月よりも明るいように思われるほど内部は暗く、とても静かで、涼しい。換気が行き届いているため湿気もない。そして何より、ここには静謐な空気があった。死者にまつわる不気味さは不思議となく、それなのに死者に捧げる哀悼の情は充満している。
 ニトロは自然と思った。
(やっぱり……ここは『霊廟』なんだ……)
 王に連なる人間でも滅多に入れず、大貴族や大政治家もほぼ入ることを許されず、一般人はまず間違いなく一生入ることのできない場所。近代になってからは墓守の仕事の大部分はロボットに任されるようになっているから、墓守の一族でもここまではそうそう入ってきていないだろう。史跡保護と学術的な研究のためにロボットのカメラが捉えた映像は常に専門機関に送られているものの、ここ百年で人間付きの調査が内部に入ったのは一度きりであるし、現在のようにドキュメンタリーチックに記録されているのは無論史上初のことだ。
 ティディアも権威ある『玉座の間』をふざけた映画の撮影に使ってくれたものだが、
(ここに招待してくれたこと――この一点だけは姉を超えた『クレイジー』ぶりだよ)
 ニトロは内心苦笑する。
 すると、芍薬も苦笑していた。
「どうしたの?」
 ロボットが立ち止まったのに合わせて足を止め、ニトロが問うと、芍薬は少し言いにくそうにして、
「『マタノゴ視察、オ待チシテイマス』」
「ああ……」
 ロボットが随分丁寧な対応をしていたのは、てっきりミリュウの命令のためだと思っていたが……
「そういうことか」
 自己判断の利くオリジナルA.I.なら、例え相手が『王族』として登録されていても“現状ではそのように扱わない”――ということができるが、入力された情報に忠実極まる汎用A.I.ではそうはいかない。つまり、ニトロはロボットに積まれた汎用A.I.において、『ニトロ・ポルカト』が既に王族として登録されていることに頬が引きつるのを止められなかった。
(ティディアめ)
 絶対に登録情報を削除させてやる。そう心に刻みながらニトロは返事を待つロボットに向け、
「……まあ、機会があったらね」
 ニトロが言うと、ロボットが会釈をするように“そこ”を指し示した。
 ロボットの示したところには壁しかなかった。が、ロボットが道を開けた先で何やら操作をすると、壁の一部が重い音を立てて、しかし滑らかにスライドしていく。すると暗い地下へ通じる階段がニトロの目の前に現れた。
 ――と、
「!」
 ニトロが階下から滲んだ光に気づくより先に、芍薬が一歩前に出た。
「敵意ハナイ」
 その声は男とも女ともつかぬ声だった。一音一音にエッジが効いているような、はっきりとした物言い。
 やがて階下から光源が上がってくる。オレンジ色の光は昔ながらのカンテラによるものだった。そして現れたのは、古めかしい灯りを片手に携えた――
――<<『フレア』ダヨ>>
 パトネト王子のオリジナルA.I.であると芍薬に知らされ、ニトロは内心でうなずいた。
 階段を上がりきったところで、フレアは言った。
「コレヲ受ケ取ッテ頂キタイ」
 フレアは教団のローブに身を包んでいた。目が慣れたといってもさすがにこの光量ではフードの内側まで明瞭とはいかない。大柄な背格好からして『ミリュウ』の一体ではなさそうだが……まず、戦闘用アンドロイドであろう。それもあの王子のA.I.の繰るアンドロイド……あの『女神像』を下敷きにすればどれほどのものか想像もつかない。
「それは?」
 ニトロは幾分腰を落とし――いつでも毀刃のナイフを抜けるよう戦闘服のプログラムをスタンバイさせながら、フレアの差し出したものを確認した。
「破滅神徒様モ、同ジ物ヲ」
 それは鞘に入ったシンプルな剣だった。細身ではあるが、全長は1m弱。貴族が儀礼用に持つオーソドックスなタイプの長剣。ニトロは眉をひそめた。
「同じ剣を?」
「ハイ」
「長さも、重さも?」
「ハイ」
「それだと俺が有利だよ?」
「承知」
「……」
「オ腰ノ物ヲ相手取ルヨリハ、不利ニナク」
「……それは確かに」
 ニトロは芍薬を促した。
 芍薬はうなずくとフレアから剣を受け取り、素早くチェック機能を働かせた。
――<<材質ハ至鉄鋼アルタイト>>
 つまり『映画』で姉が使っていた剣と同じ素材。
――<<切レ味モ良サソウダネ。バカ正直ナホドニ、タダ真剣ダヨ>>
「了解」
 そう声に出しつつ、ニトロは芍薬から剣を受け取った。代わりに腰のナイフを芍薬に預けようとし、
「オ持チ頂イテ構イマセン」
「――正々堂々としてるもんだね」
 ナイフを使われては不利だと言いながらフレアが静止してきたことの裏にあるものを感じ取り、ニトロはナイフを戻しながら言った。
 が、フレアはそれ以上何かを応える代わりに、
「コチラヘ」
 踵を返し、一つ下の段に足を下ろしながら言う。
 ニトロと芍薬は、従った。芍薬がまず先にフレアを追い、ホタルが足元を照らすために間に入り、それにニトロが続く。
「王子様は?」
 こつ、こつ、と硬い靴の底が大理石に下ろされる度に音を立てる中、ニトロは訪ねた。声は少し反響している。
「イラッシャル」
「どこに?」
「沈黙ヲ」
「……こっちを見てる?」
「イツデモ」
「近くにはいるんだ」
「ハイ」
「彼は、この件についてどう思っているのかな」
「沈黙ヲ」
「……」
 ニトロは剣の柄の握り具合を確かめながら、
「彼は、お姉さんが好きかい?」
「ハイ」
 肯定が返ってきた。ニトロは一度柄を強く握り込み、
「それじゃあ、ちょっと頑張らないとね」
「沈黙ヲ」
 ニトロは小さく笑った。フレアは大真面目に応えたのだろうが、そこは言葉にせずの沈黙でいい。
 一方、第三王位継承者のオリジナルA.I.の奇妙な愛嬌に背後でマスターが笑んでいるのとは対照的に、芍薬は硬く口を結んでいた。
――「観テロダッテ?」
 アンドロイド間の通信帯を使って呼びかけてきたフレアへ、芍薬は険を返した。
――「随分ト御大層ナ指図ジャアナイカ」
 すると、フレアは言う。
――「指図デハナイ。『協定』ダ。私モ手ヲ出サナイ。貴様ヲ牽制スルダケダ」
――「ツマリ、アンタモ観テイルダケダト?」
――「ココハ『霊廟』ダ。神聖ナ場所デアリ史跡トシテモ最重要ダ。ガ、私達ガ戦エバ、無事デハ済マナイ」
――「ソウナレバ互イノマスターノ不名誉トナル、カ」
――「貴様ガ動カナイ限リ、私モ動カナイ。約束シヨウ」
――「信用シテモラエルト思ウカイ?」
――「ナラバ」
――「!」
 芍薬は驚愕した。送られてきたのは『起爆プログラム』であった。しかもそれはフレアの『自壊命令ネクローシス』に関連付けられている。
――「本物カイ?」
――「試シテミルガイイ」
――「……イヤ」
 芍薬とフレアは一段下がる間にここまで会話し、もう一段下がるまで沈黙し、
――<<主様、あたしハ手ヲ出セナイ>>
 ニトロは階段を下りながら、芍薬の言葉を驚きもせず受け止めた。
(ここを壊しちゃまずいもんね)
 芍薬はまた驚いた。まさかマスターはA.I.間の会話を盗み聞きできるというのだろうか――そう思って、内心で苦笑いをする。違う。マスターは素直にそう理解したのだ。
(でも、あっちはどうかな)
――<<『協定』ハ成ッタヨ>>
 その言葉にこそニトロは驚いたようだった。
(了解)
 だが、すぐに返ってきた答えに芍薬はうなずきを見せ、それから
――「承諾シタ」
――「貴様ノマスターガ聡キ方デ助カル」
 意外にも主を褒められたことを嬉しいと感じる自分が何だか悔しく、芍薬は言った。
――「タダシ、ソッチハ『内部分裂』ヲ起コシテイルヨウダカラネ。ミリュウ姫ノ行動イカンジャ、パトネト王子ガ何ヲ考エテイヨウガ知ッタコッチャナイ、あたしハアンタヲ殺シテ主様ヲ助ケルヨ」
――「覚悟シテイル」
――「……ドウモ解ラナイネ。アンタト王子様ハ、一体何ヲ考エテルンダイ?」
――「沈黙ヲ」
 芍薬はそれ以上問い詰めようはしなかった。撫子のサポートA.I.として、またマスターと一緒に場数を踏んできた経験が、このまま泳がしておいた方が益となるだろうと告げていたのである。
 以降、三人はただただ地下への長い階段を下り続けた。
 一段下がるにつれ、霊廟の空気が濃くなっていく。
 長い一本道をしばらく降りたところで、ようやく踊り場が現れた。踊り場は広く、久々の平地をぐるりと歩いて折り返した時、ニトロの視界にふっと新たな灯りが這い込んできた。折り返した後の階段はこれまでに比べて随分短く、三十段ほど下に地下宮殿の一階――初代覇王が殺される直前に息子と石像の出来栄えを語り合ったという『石像柱の間』の入り口が見える。ニトロの目に入ったオレンジがかった灯りは、そこから階段を這い登ってきていた。
 ニトロは冷たい空気を一度大きく吸った。心身を引き締め、良い具合に集中力を高めながら階段を下りていく。
 芍薬は、マスターの足音に力強さが加わったのを聞いた。
 と、その時、
――「貴様ノマスターハ、負ケヌサ」
 敵方のフレアが、突然そう言った。
 芍薬は思わず立ち止まりそうになり、そのプログラムをすんでのところで回避し、
「……」
 動揺させられたまま終わるのは癪だ。芍薬は言った。
――「当然。あたしノ自慢ノマスターダカラネ」

 地下宮殿――霊廟の本体とでも言おうか? その場に足を踏み入れた時、ニトロは肌が粟立つのを感じた。
 およそ霊的なものでも感じたのか、あるいはここが神聖であると知っているからこその体の反応だろうか。それは解らないが、ただ……自然と沸き立った畏怖の念が今も心を撫でている。
 もしかしたら、このように思わせる場所、それこそが『聖域』というものなのかもしれない。
 存在証明の叶わぬ神の力にせよ、心理的な作用にせよ、どちらにしたってここを自分がそう感じているのは――本来侵さざるべき神聖な場所であると感じているのは確かなのだ。
(本当に、とんでもない場所にご招待してくれたもんだ)
 ここまで案内してきたフレアが脇に退き、ここまで付き添ってくれたホタルが光を消して、芍薬の元へ戻っていく。芍薬が一歩横にずれ、二体のアンドロイドの間をすり抜けながらニトロは歩く。フレアはそのままその場に留まり、芍薬はマスターに付き従った。
 カンテラを掲げる石像が掘り込まれた柱以外に何もない広い地下空間には、歌が流れていた。
 反響のせいでどこから流れているのか解りにくいが、ニトロは視線の先にそれを口ずさんでいるらしい人影を見つけ、
「……春草、だっけ」
「御意」
 ミリュウ姫の好きな曲だ――ニトロは、どんどん歩を進めた。
 適度な間隔で光源があるお陰で、この空間は全体的に明るい。かといって眩しくもなく、落ち着いた仄かな灯りは闇に目の慣れた自分にとって最高のコンディションだ。
 春草が風にそよいでいるような柔らかく軽やかな旋律に、ニトロと芍薬の立てる足音が混ざる。旋律と足音の刻むリズムは合っておらず、それは次第に不協和音を奏で始め――やがて、歌が止まった。
 ニトロの行く先には、それより先へ進むことは禁忌であることを知らせる鈍重な門がある。
 そしてその門前に……
 子どもを抱くように剣を抱える信徒が、じっと佇んでいた。
 ニトロは今一度気を引き締めた。今更ここで彼女と対話をしようとは思わない。話し合ったところで彼女が止まるはずもないし、そもそもそうやって止めるのは悪手だと理解している。
 ――決着を付ける。
 同い年の少女が相手であろうとも、手加減はない。
「芍薬」
「御意」
 芍薬が止まる。
「ペテン師本人ニ間違イナイヨ」
 そう伝えてきた芍薬を置いてさらにニトロだけ進み、彼女と二十歩ほどの距離を開けたところで立ち止まり、いつでも剣を抜けるよう鞘を握りながら言った。
「やあ、待たせたかな」
「一日千秋の思いだった」
 いかめしい作り声で、フードの奥に青い紋様を浮かび上がらせる『破滅神徒』が言う。
「悪魔よ。わたしは今、とても喜んでいるよ」
 ミリュウが一歩近づく。ニトロも応じる。
「ようやくこの時が来た。女神様の栄光のため、お前をとうとう屠れる時が」
 もう一歩ずつ歩み寄ったところでミリュウは立ち止まり、フレアの言葉通りニトロの持つ物と全く同じ長剣を片手に握り、空いた手でローブを止める紐を解いた。
 フードが外される。
 ちょうど真横にあるカンテラの光の下に、青い紋様を刻む不気味な笑顔が浮かび上がった。
 ミリュウはローブを脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、まるで胸の谷間まで延びる『聖痕』を見せつけるかのように襟の開いた粗末な黒い服であった。明らかに耐刃性はないだろう。上下共に黒く、その黒さが彼女の肌の白さと聖痕の淡く光る青を際立たせる。
「……」
 ニトロは鞘を噛んで剣を口で持ち、戦闘服の上下連結を解くと素早く上着を脱いだ。耐刃性に優れた服をこちらだけ着ていては正々堂々とはいかない。彼女を叩き潰すのであれば装備面は可能な限り同条件の方がいい。彼は脱いだ上着を放ろうとして、芍薬が歩み寄ってきていたことに気づいてそれを手渡した。次いで手袋も外し、芍薬に預ける。上着と手袋を手にした芍薬は小さな目礼でマスターの意志に賛同を送り、そのまま踵を返して元の位置に戻っていく。
「悪魔らしく、身を縮めて“鎧”に守られていれば良いものを」
 ニトロの行動を見てミリュウが愚弄する。が、自分と同じ黒の上下――上は長袖のシャツに下は戦闘服という姿となった彼を見る彼女の目には、口とは違い嘲りの色はない。
 その演技がかった様子を見ながら、ニトロは手に持ち直した剣を示して応じた。
「これがあれば十分だ。――だろう?」
 ミリュウが笑う。
 ニトロの戦意にますます笑みを深める。
 彼女は高らかに言った。
「ならば悪魔よ! ニトロ・ポルカトよ!」
 彼女は剣を抜く。カンテラの光の中で白刃が閃く。彼女は鞘を捨て、刃の切れ味を確かめるかのようにそれを自らの首筋に当てた。刃は首に枷のように巻きつく青いチョーカーに触れている――聖痕と、また肌と一体化したそれを斬ってみろと挑発している。悪魔に、その、頚動脈の上にある彼女の命を縛る首輪を斬ってくれと
 そしてミリュウは剣の切っ先をニトロへ向けた。
「さあ、決着の時だ」
 ニトロは何も言わずに剣を抜いた。ずしりとした重みが手に加わる。まるで、ここまで持ってきた剣が急に重くなったかのようであった。
(――よし)
 ニトロは自分がそう感じることを歓迎し、内心でうなずいた。
 この剣は、人の命を、今から切り結ぼうという少女の命を奪える物だ。そして自分の肩には知らぬ間に覆い被さってきた様々な思いがある。この剣を、これくらい重く感じられなければ自分の精神は緊張の余り正常を欠いていることになるだろう。そう、この剣を重く感じるのは、自分が正常であるためなのだ。
 ニトロは剣を構えた。仮想世界ヴァーチャルトレーニングで復習した技術が、体を自然と正統派の構えに導く。
 剣は、相変わらず重い。
 だが、腕にかかる質量は心にかかる『思さ』よりもずっと軽い。
 ミリュウが一歩踏み出した。
 ニトロも油断なく一歩踏み出す。
 ミリュウが無造作に二歩目を進めながら、剣の腹を口に寄せる。
「プカマペ様が奇跡を」
 つぶやき、彼女は言った。
「感謝いたします」
 と、彼女の背後から、突如三人の『ミリュウ』が現れた。
「っと」
 迫り来るミリュウに応じて進もうとしていたニトロは足を止めた。光学迷彩で姿を隠していた『ミリュウ』達はそれぞれ剣を携え、開襟の黒の上下を着、髪も短く切り揃え聖痕を肌に刻み――つまり『破滅神徒』と全く同じ姿をしていた。
 しかし、それは想定内である。
 どこかで残った信徒が出てくることは分かっていた。このパターンは芍薬のシミュレーションで予測済みであるし、先ほど芍薬が彼女を『ペテン師』と呼んだ時点でこう来ることは理解していたのだ。
 ニトロは手にしていた鞘を四人のミリュウに向けて投げつけた。ただの牽制ではあるが、それに彼女らの足が緩んだ。そして――
「フッ!」
 短く息を吐き、急転、ニトロは横に体を滑らせながら振り向き様に剣を薙いだ。
 光は影を生む。何より、足音はここでは消せはしない。
 ニトロの剣に嫌な感触があった。
 彼は、腹を切られた『ミリュウ』が瞠目している顔を見た。
 彼女には聖痕はなく、髪も長いままで、その細い首には花の象徴イコンが掛かっていた。
 神官アリンであった。
 彼女は振りかぶった剣を、腹を切られてなおニトロに振り下ろした。ニトロはそれを容易にかわす。断末魔の一太刀をかわされたアリンは振り下ろした殺意に引きずられるように倒れ、それきり動かなくなり、やおら静かに燃え出した。
 ――プカマペ教団の首領の、あまりにあっけない最期。
「「ニトロ・ポルカトォ!」」
 怒号を上げ、ミリュウ達が駆けてくる。ニトロは振り返り、
(いや、尊き犠牲か)
 内心で失態に気づきながら、ニトロは前後左右に入れ替わり迫ってくる全く同じ姿の四人に囲まれないよう動いた。
(くそっ、完全に目を離した)
 覚悟はしていたにしろ、生身の人間、それも同い年の女子と切り結ぼうという状況は正常な判断力の中にも少しの狂いを生じさせていたらしい。
 人の心の厄介さ――師匠ハラキリは戦いにおける最悪な障害の一つとして“自覚できない躊躇が生む隙”のことを語ってくれていたが、なるほど、これがそうか。『ミリュウ』が複数となった場合はどれが本人かニトロには分からなくなる。激しく動きながら、しかも目が慣れたとはいえこの光量ではなおさらだ。芍薬が指示できる状況であれば問題はないが、そうでない場合は面倒なことになる。
 ――だから気をつけるつもりだったのに……
 芍薬からの指示はない。例の『協定』のためだろう。
(……それなら――)
 ニトロは先行してきた一人を迎え撃った。
 ミリュウが斬りかかってくる。ニトロは大上段から振り落とされる剣を避けず、剣で受け止めた。受け止めた白刃を剣の上を滑らせて流し、そうすることで作った安全な空間へ身を翻す。つい直前までニトロがいた位置に、横から突きこんできたミリュウの切っ先があった。
 師匠曰く『多人数を相手にする場合、まあ状況次第とはいえ、基本はまず囲まれるな、その場に居着くな、形と角度を使え』
 弟子曰く『ししょー、形と角度って何ですか?』
 師匠曰く『相手が二人いたとして、君を含めて三点を結んで形を作ってみましょう。正三角形は危ない。直角三角形なら片方が近くてもう一方が遠いので正三角形より良い。では、君にとって理想的な点の並びはどのような形になるでしょう』
 弟子答え『……直線に並ぶ? もちろん間に挟まれないようにして』
 師匠曰く『正解。それならその一瞬は一対一。しかも遠い敵からすれば味方が邪魔になって苦労する。こちらからすれば近い敵が壁という味方になる。多人数を相手にしても、常に相手にとって攻撃しにくい角度を取るのは一対一での戦いの時と同じですが、さらに、多人数であるが故の死角を利用するんです』
 ニトロが避けた先は、大上段に剣を振るった“ミリュウ”のすぐ横であった。突き込んできた『ミリュウ』は、すぐ横の“ミリュウ”の向こうにいる。つまり、ニトロを含めて直線を結ぶ角度に。これでは『ミリュウ』は二の突きを放てず――
「ンッ!」
 ニトロは息を込め、背中で横の“ミリュウ”を思い切り押した。“ミリュウ”は――普通の少女の力加減だ――たたらを踏んで『ミリュウ』を巻き込み転倒する。
 その感触に、ニトロは一つ確認した
(なるほど)
 アンドロイドらしい機械の力が完全に切ってある。ただ勝利だけが目的ならば機械の力を使用しない手はないだろうに、相手も徹底している。この観点から本物を見つけることは難しそうだ
 ニトロはさらに斬りかかってきた二人のミリュウから全力疾走で逃げた。足の速さはニトロが勝る。二人のミリュウは並んで追いかけてくる。
 ニトロはある程度の距離を取ったところで、その場に立ち止まった。
 腰を落として剣を構え、深く息を吸う。
 二人のミリュウが迫る。
 ニトロはあえて師の教えを破り、その場に居着いて待った。
 二人が走りながら“突き”の姿勢に剣を引く。
 ニトロは息を吸い、
ぅわン!
 ティディアとのイベントで鍛えられた声量・ハラキリに鍛えられた筋力と肺活量、その全てを結集してこれ以上ない大声を上げた。
 思わぬニトロの『攻撃』、しかも音の響く地下。間近で予期せぬ大音を聞いた二人のミリュウはぎょっとし、あまりの驚愕に体を硬直させた。
(生理現象その一反応に優位差無し!)
 内心で声を上げながら、それを気合と化し、ニトロは一方のミリュウのみぞおちに蹴りを叩き込んだ。思い切り、失神させる勢いで、しかし失神できない力で!
「 っぅ!!」
 苦悶と息の詰まる音がミリュウの喉の中で鳴る。
 蹴りを入れられたミリュウが体をくの字に折り曲げ尻餅をつく傍らで、ニトロは即座にもう一方のミリュウに斬りかかった。軽く振った剣はあえなく防がれる。しかしニトロはその防御の――明らかに隙だらけな防ぎ方にまた一つ確認した。
(ほとんど素人だ)
 ミリュウ姫は、例え改めて仮想空間トレーニングで剣術を覚えこんできていたとしても、それを全く使いこなせていない。彼女の剣の扱い方は大雑把に過ぎる。斬りかかる時は大振り、防ぐ時は不用意。今だって柄を狙えば指を落とせた。それでも太刀筋はそれなりであり、非力ながらも“剣に振られていない”のは姉の剣術の真似事をした経験のお陰だろう。記憶の片隅には、王女に関する資料に描かれていたその風景がある。とはいえ、過去に培ったその基礎すらも、一撃で敵を倒すという気のはやりで台無しにしている。
(それとも、あえてそうして自分は本気で戦っていると『観客』にアピールしているのか)
 そしてもう一つ、ニトロには注目することがあった。
 防がれた剣を返して追撃をし、またそれをミリュウに“不用意”に防がれる。――その脇で、
「ッぐ! ――ッヒゥ ううッ!」
 胃と横隔膜へ大きな衝撃を打ち込まれた少女が這いつくばって悶絶している。
 額に脂汗を浮かべ、涙を流し、空気を求めながらも横隔膜の一時的な機能不全によってうまく息を吸えず、苦しみのあまりに大きく開かれた口から胃液の混じったヨダレを落として喘いでいる。
 それなのに彼女は――
「!」
 ニトロはついに確信した
 彼はアンドロイドのエンジニアにある信頼を寄せていたのだ。弟王子は姉の死を望んでいない。ルッド・ヒューランの証言からもそれは明らかだ。なら、いくら外面には見分けのつかぬ精巧の極みを与えても、“血”を良く観れば『オイル』だと判ったように内面には粗を残しているはずだと。であれば流石に胃液までは用意していまい。かつ、そこで苦しむ少女の脂汗と涙と胃液混じりのヨダレは、ああ、師匠に思いっきり膝をもらって悶え苦しんだ記憶を実に鮮やかに蘇らせてくれる。
 さらに決定的なのは、悶絶しながらもそのミリュウはこちらを猛烈に睨みつけているということだった。
 彼女の瞳は涙に濡れながら、苦悶には染まっていない。
 そこには怒りと、恐怖と、縋るようなあの懇願がある。さあ、今が好機だ、今こそ攻撃を仕掛けてこい、悪魔よ、わたしを斬り殺してくれ!
 ――間違いない、彼女こそが破滅神徒ミリュウだ!
「やああ!」
 ニトロの剣を防いだミリュウがカウンターとばかりに剣を振るってくる。やはり大振り。殺す気に逸る気持ちを抑えられぬ一閃。
 それをニトロは避けず、柔らかく剣で受け止めた。
 視界の隅にもつれ合って転んでいた“ミリュウ”と『ミリュウ』がこちらにやってきているのが見える。
 ニトロはミリュウの剣と己の剣を合わせたまま、鍔迫り合いの形に持ち込んだ。ミリュウはむきになって無謀にも押し返そうとしてくる。彼は冷静に過不足ない力でミリュウに対抗しつつ、目を合わせたまま、敵のつま先をぐっと踏みつけた。
「 」
 ミリュウが目を見開く。
 その瞬間、ニトロは渾身の力でミリュウを押し返した。ミリュウは彼の力に耐えられない。転倒することを避けるために足を引こうとするが、それが彼に踏まれて固定されているために動かせない。支えを得ることのできないミリュウはそのままおかしな角度で後頭部から倒れた。足首からもおかしな音がした。
 悲鳴が上がり――その悲鳴が濁る。
 悲鳴の質が変わったのは、先の失敗を反省し、自覚できない躊躇を心から消し去ったニトロの攻撃のためだった。冷徹に突き出された彼の剣は、倒れたミリュウの喉を貫いていた。剣を抜くと血が噴き出し、その血が口からも溢れ出す。
 ニトロは絶命の道しかないそのミリュウを捨て置き、その場から離れた。“ミリュウ”と『ミリュウ』の加勢から逃れながら、喉を突かれたミリュウが燃え出したのを目にし――そして仰天した。
(おいおい)
 追ってくる“ミリュウ”と『ミリュウ』の後ろに、破滅神徒ミリュウがいる。そんなにすぐには立ち上がることもできないはずなのに、不気味な聖痕に彩られた顔を苦悶に歪めて、それでも必死に追いかけてくる。
 そこにはもう執念しかない。
 三人同じ姿をしていても、もはや簡単に見分けがつく。破滅神徒は、独り――まさに幽鬼だ。
 ニトロは気負けしないよう奥歯を噛み締め、意を新たにした。
 彼女に呑まれては剣で負けずとも、負けてしまう
 彼はミリュウ達の視線の陰になる石像柱の裏に駆け込んだ。
 だが、完全に隠れはしない。半ば姿を晒して相手の行動を注視する。柱の背に入ったのは先行する二人が二手に分かれるか、それとも一方からやってくるかを選択させるためなのだ。
 二人が追いついてくる間に、ニトロは地理的状況も一瞬で確認した。
 と、意外にも近くに芍薬がいることに気づき、ふと目が合い、かすかにうなずき合う。
(うん、大丈夫)
 師匠は逃げ続けられるようにと特にスタミナを鍛えてくれた。息は一つも乱れていない。息が乱れるとしたら心理的要因しかない。しかし負担となる心理的要因は、もう、無い。
“ミリュウ”と『ミリュウ』は安直にも挟撃を選び、二手に分かれてきた。
 ニトロはより近い距離を通ってくる“ミリュウ”へ、タイミングを見計らって一気に間合いを詰めた。“ミリュウ”が一瞬たじろぎ、それでも剣を振ってくる。大振りは少しは改善されているが、常に大きな急所を狙ってくるのは同じだった。
 ニトロは剣を力任せに“ミリュウ”の剣にぶつけた。
 ガツンという激しい音がし、“ミリュウ”の手から剣が弾け飛ぶ。
 さらにニトロは素手となった“ミリュウ”を体当たりで思い切り突き飛ばした。
 同時にニトロが今までいた場所を切り上げの剣が通り過ぎる。
 ニトロは破滅神徒の接近も鑑み、身を翻して『ミリュウ』の切り下げの二戟目を避けるや、走った。また別の柱を目がけて緩やかな弧を描くように走り、破滅神徒からはその柱が邪魔となって剣を振るい難い位置に、一方『ミリュウ』とは正対する位置に動いていく。
 すると二人同時に攻めるには難しいが、少々タイミングを合わせれば同時に攻めることも可能な状況が生み出される。もちろん一方が先んじて攻撃し、時間差の援護も可能だ。しかしその場合、こちらが身を引いたら柱が邪魔になって二人のどちらの攻撃も有意性をなくしてしまう。
 どのような連携も可能であるが、判断を誤ればどのような連携も即座に完全に無意味となる陣形。ニトロからすれば、判断のために二人がまごつけば一気に『ミリュウ』に剣を突き立て、直後、破滅神徒を制圧にかかれる戦況。
 ――破滅神徒と『ミリュウ』は、ニトロの思惑通りに動いていた。
 破滅神徒は柱が邪魔になり、かといって位置をずらせば『ミリュウ』の邪魔になることに気づいて顔を曇らせる。すると、ならばとばかりに『ミリュウ』が
「いやあああ!」
 気合を込め、大上段に剣を構え一気に駆け込んでくる。
 こうきたならば。
 ニトロは相手の剣をかわしながら突き込もうと剣を寝かせ、全力で踏み込もうとし――
「あ」
 と、剣を振り下ろし出した『ミリュウ』がわざとらしく声を上げたような気がした。
 ニトロの目の前には、一瞬の差で――奇跡的なまでのタイミングで!――『ミリュウ』に先んじて破滅神徒ミリュウが辿り着いていた。
 ここが最期の頑張りどころとばかりに脚力を爆発させ、切り結ぼうとする二人の間に無理に破滅神徒は強引に体をねじ込ませてきていた。
 彼女はバランスも崩し、これではニトロ・『ミリュウ』のどちらの剣も避けられない。
 ニトロは、例え自分が突きを止めても、体勢を崩した破滅神徒の首を落としそうになっている信徒は剣を止めないであろうその状況を、まるでスローモーションのように見ていた。
 刹那の間に流れる時間の拡張。
 コンマ一秒が一秒に、さらに一秒が十秒にも感じる間。
 ニトロは確かに見た。
 破滅神徒――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの会心の笑みを。
 ――だが!
 ニトロはこれも予測していた。
(あなたの執事はあなたを守った!)
 そう、セイラの証言がなければ、このパターンは完全に考慮の外にあっただろう。そして虚を突かれ、王女が王女の分身に斬られる姿を見ることになっただろう。
 ニトロはここぞと戦闘服の助力も加えて踏み込む。突きのために溜めていた力も、剣をかわすための予備動作も、体に備わる全てを推進力に変えてく駆ける!
 刹那の半分の時間。
 彼は猛烈な勢いで破滅神徒を『ミリュウ』に向けて押し込んだ。
 ニトロの頭に『ミリュウ』の剣がぶつかる。鋭い痛みが短く走る。が、刃ではない。皮膚を削ったのは柄か鍔だ。ニトロは迷わずさらに体を押し込んだ。破滅神徒が驚愕と絶望に息を飲んでいるのが聞こえてくる。彼女に接するニトロの肩にはあまりに柔らかな感触が伝わってくる。それは決してこのような決闘をする者の肉体ではない。ニトロは歯噛み――勢いのまま、『ミリュウ』を下にして三人は倒れた。
 くぐもった悲鳴が二つ上がった。
 ニトロは立ち上がる間も惜しいと伏せに近い状態のまま『ミリュウ』の右脇から左胸に向けて剣を刺し込み、そして剣を捨て、断末魔に絶叫する信徒の上で敵を見失い四つん這いのままきょろきょろとしている破滅神徒に襲いかかった。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナがこちらへ振り返る。
 ようやく敵の姿を確認し、しかしもう逃げられないことに気づいて――
(――ッ!)
 ニトロはそれでも余裕のあるミリュウの顔に怒りを覚えながらも、彼女の手を掴むや瞬時に関節を極めて組み伏せた。それと並行して彼女の手から剣を奪い、いずれ燃え出すアンドロイドの影響を受けない位置へ王女を荒々しく一息に引きずり、痛みに思わず上げられた悲鳴を無視して極めた細い腕ごと小さな背中を膝で押さえるや思いきり体重をかけて動きを制し、流れるような拘束の後、ようやくこちらに駆け寄ってきていた“ミリュウ”へ剣の切っ先を向けた。
 片膝立ちとそう変わらぬ姿勢、体勢不利ではあるがニトロに隙はない。
 彼に気圧されるように、“ミリュウ”が足を止める。
 一瞬の沈黙。
 三者の傍に青い炎が揺らめく。
 一息の後、
「勝負あった」
 ニトロは宣言し――
 そして、彼は倒れた。

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