気がつくと、ニトロは薄暗い天井を見上げていた。
周囲にある光源は温かみのあるオレンジ色で、源では明るく熱く、辺縁に向けては暗闇に溶け込むように淡く、少し非現実的な存在感で空間を照らしている。
ニトロの見る天井に、ヒビはない。
巨大な一枚岩を削り出して作られた天井は今現在も磨き立ての艶を守って、そこにある。
当然、その奥から響いてくる雷鳴もない。
「……」
ニトロは背中に温もりがあることに気づいた。
石床に直接寝転んでいるのではなく、マットか何かが敷かれているらしい。後頭部にも柔らかな敷物がある。腹には薄い毛布がかかっていた。
「――?」
ふいに天井を見上げるニトロの視界に、人影が入り込んできた。
頭から肩にかけての人影。瞳の奥に人工的な光を点すのはアンドロイドの証だった。
「分カルカイ?」
ニトロはぼんやりとした心地でその声を聞き、オレンジ色がかった影の中にぼんやりと容貌を浮かべるアンドロイドへ微笑んだ。
「分かるよ」
「気分ハドウダイ?」
「最高じゃあないな。でも、最低でもない」
「頭痛ハアルカイ? 頭ノ中ニ違和感ハナイカイ?」
「頭痛はないよ。違和感はある。現実感が少しなくて、まだちょっと『向こう』の感覚が残ってるかな」
「
「経験で語ればまさにそれ。ほんのちょっとまどろんでる感じ」
「好キナ色ハ?」
「? 新緑」
「サッキ、バカガ呑気ニラブレターヲ送リ付ケテキタヨ」
「ようし、これでまた一つあいつを怒る理由ができた」
アンドロイドが――もうその顔ははっきりと判る、芍薬がどこか安堵したようにうなずき、
「ゴメンヨ、今ノハ嘘」
「そっか。でもいいよ。どうせ怒ることに変わりはないんだ」
芍薬は微笑んだ。
大丈夫だ、『後遺症』は全くない。好みの色への断言も早かったし、何よりティディアへの反応が実に“正しい”。
「オカエリ、主様」
「ただいま」
ニトロは大きく息をついた。
感覚も現実を取り戻しつつある。
彼はゆっくりと上体を起こし――芍薬の手が背を支える――周囲を見回した。
やはりここは霊廟で、石像の彫られた柱が無数にある大きな地下室だった。少し離れたところには数十のアンドロイドが不気味に整列している。おそらく、自分達を別の世界に送り込むためにはそれくらいの演算機が必要だったのだろう。
「……相当なことをしたみたいだね」
芍薬は――仮想世界でのニトロの状況把握力に感嘆していたものだが、それがこちらに帰ってきても変わらないことに改めて感嘆のうなずきを返し、
「
「寄生虫?」
「特ニ主様ト姫君ノ中ノ
「恐ろしい話を聞いている気がするんだけど?」
「恐ロシイモンダヨ。基幹ソフトハ自作シテ、規格ノ合ワナイ既存技術ノ寄セ集メノ部分モ含メテ『一ツノシステム』トシテ成リ立タセテミセタンダカラ。――アノ歳デサ」
背後へ振り返る芍薬の視線の先には、さらなる地階に続く封印された門の側、薄いマットの上に寝かされているミリュウがいる。その傍らにローブを着たままのフレアがあり、そしてフレアの足元には膝を突いて姉を見守る小さな男の子がいる。
「ミリュウは?」
ニトロはあちらの名残で敬称を外していた。言ってからそれに気づいたが、まあ、それはもう瑣末なことか。
「まだ眠っているようだけど」
「自分ノ頭ガメインステージミタイナモンダッタカラネ。主様以上ニ深ク入ッテイタ分、復帰ニ手間ガカカッテルダケダヨ。今ノトコロ別状モナイ」
「そっか」
ニトロは安堵し、それから、ふと思い出した。
「『中継』は?」
その問いに、芍薬は腕を組んで少し困ったように首を傾げ、
「決闘ノ『決着』マデハ少シ“ディレイ”ヲカケツツ生中継」
「その後は? っていうより、“その後”も?」
仮想世界でのことには、かなりプライベートな内容が含まれている。自分もミリュウの人生の全てを見たわけではなく、要所要所の断片に触れてきただけではあるが、それでも彼女の内心を含め王家の内幕などはそうそう簡単に流布していいものではないだろう。
それを気にしているマスターに、芍薬は思わず笑みを送った。
「本当ニ、主様ハオ人好シダ」
「――ああ、まあ」
ニトロは何を言われているのか理解し、誤魔化すように頭を掻き、
「……でもまあ……一応うちの君主ご一家様方だからね。銀河に恥を晒しすぎるのも何かと、ね。今更だけどさ」
芍薬は笑った。
「御意。デモ王子様ハ『オ姉チャンノ苦シミ』ヲ知ッテ欲シカッタダケミタイデネ。ダカラ主様ガ心配シテイルヨウナトコロニハチャント配慮シテイタヨ。マズハ主様ノ記憶カラ取リ出シタ、ルッド・ヒューラントノ会話ヲ冒頭ニ据エテ……編集ノ魔術トデモイウヤツカナ、以降ハミリュウ姫ノ苦悩ヲ伝エルノニ必要ナ情報ヲ見事ニツナイデ『教団ノサイト』デ中継シテタ。今ハ録画モードダカラ、ソコハ安心シテネ」
ニトロはうなずき、しかしすぐに“絶望的な希望の存在”に思い至り、
「俺とティディアの真の関係は削除されてなかったりしない?」
「手ガ空イテタラ無理ニデモ捻ジ込ミタカッタケド、ゴメンヨ。力ガ及バナカッタ」
「あ、いや、芍薬が謝ることじゃないよ。でも……そうか、解ってたけど、それはちょっと残念」
と言いつつ、ニトロは息を挟み、
「じゃあ、順当に俺とミリュウのやり取りを、か」
「御意。内容ハ相当カットサレテルケド、必要十分ニ」
「――最後も?」
「最後モ」
「……何か……恥ずかしいな」
「恥ズカシイコトナンテ一ツモナイサ。タダ……マタ、英雄扱イダ。チョットバカリ、コレマデトハ質ガ違ウケドネ」
「?」
芍薬のため息混じりの言葉に、ニトロは眉をひそめた。
「ダッテ、主様、王女様ノ心ヲ救ッタンダ。雄々シイ勇者ニ熱狂スルッテイウ感ジジャナイケド、何テ言ウンダロウネ、穏ヤカニ……英雄ッテ、思ワレテイルヨ」
「……」
ニトロは黙した。
どう反応したものか分からなかったのだ。
ただ……思う。
「救った、か」
「御意」
「そんなのは、おこがましいよ」
「?」
「救ったのは、彼女を大事に思う人。ルッド・ヒューラン様に、パトネト様。俺は単なるお手伝いで、無理矢理駆り出されたカウンセラー。絶対に英雄なんかじゃない」
「……ソウイウコトニシテオクネ」
「ありがとう」
ニトロは肩を揺らし、それから、
「でも、それだけ?」
芍薬はニトロの問いの示すところを察し、
「『劣リ姫』ノ苦悩ヲ知ッタ国民ガドウイウ判断ヲスルノカ、ドウイウ態度ヲドウ表スノカハ今後ノ話サ。スグニドウコウトハイカナイヨ」
「……それもそうだね」
「デモ、今朝マデノ騒ギミタイナノハナクナッテル。今ハ概ネ気マズク戸惑ッテイルカナ」
「今朝?」
予測はしつつも実際の動きは見ていないニトロが問い返すと、芍薬は肩をすくめ、
「『いつの時代も、人の世は身勝手に満ちている』」
「『私も含め』――弁護士フェルナンド・ポルカロの言葉」
あの『映画』の後日、ハラキリが読んでいた
「いい風が吹くといいんだけどね」
肩をすくめて厭世的にニトロが言うと、今のやり取りで主に異常が残っていないことを完璧に確信しつつ、芍薬は苦笑した。
「ミリュウ姫ノタメニ?」
「いいや、打算的に、俺のために」
ニトロはにやりと露悪的な笑みを浮かべて、
「でなきゃ『英雄方面』の事後処理まで面倒すぎる」
わざとらしい“身勝手”な言い分に、芍薬は苦笑を笑顔に変えた。
「御意」
芍薬が楽しげにうなずく先で、パトネトに動きがあった。
弟王子は姉姫に覆い被さるように顔を寄せている。聞こえてくる会話は、ニトロが芍薬と交わしたものとほとんど同じものである。
そして確認作業が終わり、上半身を起こしたミリュウの胸にパトネトがしがみついた。
姉はややもすれば倒れそうになりながら、しっかりと弟を抱き止めた。
彼女は泣いているらしい。
素直に流れ落ちている涙の下で、弟への謝意が紡がれている。
ニトロは黙ってそれを見つめていた。
彼の胸には少しの達成感がある。この後の面倒臭さはあるものの、とりあえず最大目標であった『現状の問題解決と、再発を防ぐためにその原因を根本からなくすこと』には成功したとみていいだろう。
それに――
……理不尽にもひどい迷惑をかけられた身とはいえ。
まだ決着をつけないといけない諸々の感情が残っているとはいえ、
(いい光景ではあるかな)
互いに泣いて、抱きしめ合う姉弟の姿というものは。
と、
「っ」
ニトロは、ふと顔を上げたミリュウと目が合い、惑った。
さて――二人の関係は先とは違う。人間に戻った破滅神徒(不思議なことにあの禍々しい『聖痕』が今は一種独特な魅力のある化粧に思える)と、一体どういう風に接したものか。
ニトロがぎこちなく考えるのと同様に、ミリュウも同じ気持ちであるらしい。しかも激情をあけすけに開陳した彼女の側からすれば気恥ずかしさも強いだろう。彼女は少し目をそらし、しかし思い直したように目をニトロへ合わせると、ふっと、かわいらしく笑った。
ニトロは彼女の執事の言葉を思い出した。
そして彼女の執事の語った通りの笑顔を見て、微笑みを返した。
――その時だった。
「はい、カーーーーーットォ!」
霊廟に、底抜けに陽気な声が響き渡った。
その声を聞いた瞬間、ニトロは、芍薬は、ミリュウは、パトネトは、フレアまでもが一斉に階段の方へ顔を向けた。
「二人とも、よくできました! ブ・ラーーーヴォー!」
それを聞き、そいつを見、ニトロは脳味噌が×の字に割れるかと思った。
そこにはにこやかに、これ以上ないほど上機嫌に満面の笑顔で藍銀色の髪の麗人を従えた――
「お姉様!?」
反射的に叫んだのはミリュウであった。
ニトロはミリュウの声を背に浴びながら、黒いイブニングドレスの裾を翻してやってくる宿敵の姿を眼にして唇を真一文字に結び、眉間に激しく皺を刻む。
「何故こちらに!」
立ち上がり、完全に素に――いつも通りのお姉様大好きっ
無理もない。彼女はあまりにも驚いていた。第一王位継承者は今はまだ宇宙にいるはずなのだ。
そう、王家専用星間航空機に乗っている限りは。
そこに思い至ったミリュウが目を見開き、その反応を見たティディアはほくそ笑み、それから一つ、息をついた。
「『何故』って? 決まっているじゃない」
ティディアは、目元に優しさを湛えて言った。
「妹が大変なことになっているんだから、どんな手を使っても駆けつけないわけにはいかないでしょう?」
ミリュウは息を飲んだ。その眼に涙がたまる。
「……」
その時、ミリュウの姿を肩越しに振り返り見ていたニトロは“それ”を見逃さなかった。
彼女は感激と感涙を面に表すと同時に、それ以上のものにはブレーキを掛けていた。彼女の目に、もう女神を見る依存的な輝きはない。そこにはただ、姉に想われていたことへの喜びだけがある。
そしてニトロは、堂々と歩を進めてくる元凶に向き直った時、妹の変化を見抜いたティディアが満面の笑みの奥に微笑を重ねたことも見取っていた。その姉の重ねた微笑には安堵も含まれている。彼女の心情が、ニトロに強く伝わってくる。
――が、
「『妹が大変なことになっているんだから』なんて他人事みたいに言えた身分じゃないだろう」
座したまま腕を組み険立った声を上げるニトロを見て、ティディアは笑顔の形を変えた。――得意気に。
「そうねー。でも当事者として考えた限りの最良の結果は得られたわ」
ニトロとすれ違いながら言い、そうしてニトロとミリュウの間で立ち止まり、当事者どころか諸問題の元凶たるティディアは『恋人』と妹を見比べ胸を張り、
「私の配役、大正解!」
「うっさいわド阿呆!」
ニトロは声を張り上げ立ち上がり、このクソバカ女を捻り飛ばしてやろうと一歩踏み出し――と、ふいにパトネトの、幼い子どもの人の怒りに怯えた顔を見て、思い留まった。
「……一から十まで、何もかも自分の思い通りみたいに言いやがって」
怒気を押し込めた言葉に、ティディアはふふんと鼻を鳴らす。
「概ねそんな感じよ?」
「腹が立つ奴だな本当に、お前は」
「事実だもの」
「事実なら、何でここまで問題を放置していやがった。妹の悩みにお前は気づいていただろう」
「そりゃもちろん。でも、ミリュウは王女よ?」
「そりゃそうだけども」
「私も王女様」
「知ってるわ!」
「私が『王女』なんてどうでもいいわよー、なんて言っても説得力あるわけないじゃない」
「お前の立場上はそうかもしれないけど『お前』に限って言えば説得力ありまくるだろうが」
「――ハッ!」
「ハッ! じゃねえんだッ、お前は!」
ニトロは戦慄き、怒鳴った。
「一体どこまでふざける気だ!」
「初めから一ミリたりとてふざけてないわよ。だって私は劇薬だもの」
「あ?」
「女神の言葉は、信徒には届かない。届いたとしても麻酔か麻薬になってしまうだけ。そんなことを初めから女神が知らないと思う?」
ニトロは口をつぐまされた。
「私が慰めても、結局それはその場凌ぎのこと。心を麻痺させて苦悩を感じさせないことができても苦悩が消えるわけじゃない。麻痺していても、麻痺していればこそ、苦悩に蝕まれた心は本人が気づかぬ間に急速に死んでいく」
「……だからって、お前な……」
「正直に言えば、もうちょっとゆっくり自立の道を示すつもりだったのよ」
「ああ?」
所々に本音のようなものを混ぜながら、しかしどこまでも傲慢に、露悪的に言うティディアの姿にニトロは苛立った。
ティディアは苛立つニトロを微笑んだまま見つめ、
「誤算だったわー。この私が特別な人を作っちゃうなんて、ね?」
「……」
ニトロは腕を組み、吐息をつき、
「それはまるで俺こそが真の諸悪の根源――て言われてる気がするんだが?」
「そうよぅ。あなたは悪い人、本当に、人の心を惑わす悪魔だわ」
「お前に悪認定されたらそれは悪魔じゃなくって悪魔も真っ青になって逃げ出す魔王だろうさ。だがそれはない。やっぱり断然お前が悪い」
「どこが?」
「どこが!?」
「具体的に、私が、悪かったのはどこ? 私はミリュウを真っ当に育ててきた。私はミリュウを守ってきた。私はミリュウに、私の与えられる最上のものを与えてきたわ。確かに『捌け口』を作っておけなかったのは失策ね。けれどそれは結果的なこと。近い将来にそれも用意するつもり――いいえ、必ず用意していた。そしてミリュウが幸せに感じられる人生を整え続けていった。さて、私のどこが悪い?」
「その傲慢な考え方と物言いじゃないか?」
「あら、ニトロにしては平凡なツッコミね」
ニトロは眼の険を増し、歯を剥いて言った。
「それじゃあ言い方を変えてやろうか。お前を悪だと言うのは価値の置き所の問題で、その善悪もきっとどこまでも曖昧なものなんだろうさ。確かにお前の言い分は正しさを持っているよ。ミリュウは基本真っ当な人間だ、お前は妹を守っていた、お前はお前がその時点で与えられる最上のものを与えていた――全てはお前のために」
「突き詰めれば人間は皆、自分のためにのみ動いているわね」
「その通り。極論を語ればそうなる。
だけど、お前は、酷い奴だ」
ティディアの笑顔が、少し、色褪せる。
「希代の王女、無敵の王女、覇王の再来、天才にして蠱惑の美女、クレイジー・プリンセス・ティディア様? 貴女様ほどのお方であれば、妹様をもっと別の形で幸せにすることも可能だったと存じますが、いかがか?」
ティディアは笑顔を消していく。
ニトロは言う。
「俺は人を育てたことがないし、王族でもないからこうやって偉そうに言えるんだろうがな。ミリュウを『悪ではないやり方』で押さえ込みながら『ミリュウ姫』を誰よりも利用してきたお前は、やっぱり、外道だ。とても酷い奴だよ」
「……そうね」
ティディアは消した笑顔の跡に微笑みを刻んだ。
その微笑は自虐を孕む。
それを見ながらも、ニトロは付け加えた。声の中に地鳴りのような怒りを含めて、
「その上、最後の最後で全部俺に丸投げしやがって。ああ、そうだ。これだけは反論の余地がないだろう。なあ、ティディア……原因のくせして『信徒』と『悪魔』に身も心も切らせ合いながら高みの見物ってのは『悪』じゃあないのか?」
「そうね」
言って、ティディアは大きく息を吸った。気のせいだろうか、その呼吸音は、泣き出す前の子どものように少しだけ揺れている。
「高みの見物がリスクを抱えないことで、心も痛まないわけじゃあないけれど」
しかしティディアは泣くことはない。彼女は、自分とニトロのやり取りに口を挟まず、これまでの妹だったら絶対に姉の味方をしていただろうに決然として口を挟まず、ただひたすらに事の推移をじっと見届け続けているミリュウを見つめ、それからニトロに目を戻し、
「それでも、ニトロの言う通り。あまりにフェアじゃないわね」
ティディアは、すっと両手を胸の前に出し、それを頭上に持ってくると、ぽんと頭を叩いた。
「というわけで、私も身を切ってみました」
ティディアが再び両手を頭上へ挙げる。
すると彼女の髪が頭からはがれた。
「 ぶッ」
ニトロは吹いた。目に飛び込んできたつるりとしたものに、
「うえええええええ!?」
ニトロは間抜けに声を上げた。
ティディアを挟んだ向こうではミリュウが、
「ヒ!」
と、小さな音を立てて息を止めている。
「でも流石に自傷してみせます、ってのはドン引きされるじゃない?」
瞠目する二人に対し、狙い通りとばかりにからからと笑ってティディアは自毛のカツラを影のように従っていた執事に放り渡す。
「だから、これでどうにか許してもらえないかしら」
息を止めていたミリュウが息を吸い、悲鳴を上げた。
ティディアの頭を、愛する姉の頭を――その頭髪が綺麗さっぱり刈り取られ、挙句丁寧に剃り挙げられてカンテラのオレンジ色を照り返す美しい頭皮を凝視しミリュウは悲鳴を上げていた。
「
姉に駆け寄り、その事実に目を見張って、それ以上の言葉を紡げなくなったミリュウが体を震わせる。
「これが少しでも償いになるのなら」
ティディアは震えるミリュウの短く切られた髪に触れ、言った。ミリュウは首を振る。何かを言おうとして、言えず、姉の腕を掴んでうつむく。ティディアはうつむいた妹の頭を優しく撫で――それを、ミリュウに遅れて駆け寄ってきていた弟が見上げていた。
その一方で、ニトロは、光をラリンと反射するティディアの頭を見つめたまま乾いた笑みを引きつらせていた。
(――やられた)
急速に気が失せていく。
(ここまできて全部持って行きやがった!)
美味しいタイミングで現れて。
主張とは裏腹にまるで一番悪いのは私とばかりに強弁かまして。
さらにはアデムメデスの蠱惑の王女がスキンヘッド? はっは、意外に似合っているじゃないか。こいつぁ国民の皆さん度肝を抜かれるぞぉ。
「……あ〜」
ニトロは脱力し、うめいた。
「何かもう、何もかもが馬鹿らしくなった」
「御意」
芍薬がうなずく。
ニトロは深い深いため息をつき、もう疲れた、家に帰ろうと心に決め――されどその前にやっておかねばならないことがあると努めて気を取り直した。
そして、ミリュウの『聖痕』と同じく仮想世界では消えていた『烙印』が
「ミリュウ」
ニトロは腰に手を当て、歩きながら呼びかけた。
姉と何やら言葉を交わしていた妹姫が振り返る。
「まずはその爆弾を外そうか」
あ、と、思い出したようにミリュウが顔を青褪めさせた。
ニトロはパトネトを見、
「外すのは、血を飲むしかないのかな」
パトネトは首を左右に振った。
「ううん、それじゃあ外れない」
「よし、それじゃあ別の――外れないのぉ!?」
予想外にも程がある王子様の発言に、ニトロは素っ頓狂に声を上げた。
「どういうこと!?」
「それはあの……わたしが……」
答えたのはミリュウだった。
「これに手を加えて……」
そう言う彼女は明らかに焦り出している。それは彼女の死の願望が完全に潰れていることを示すのでそれはそれでいいのだが、いやそうじゃなくて! ニトロは頭を抱えた。言われてみれば『どうあっても死のうとしていた』ミリュウがその機能を排除しているのは当然だし、そもそもこちらも予測済みの事態だ。
「それなら急いで――」
芍薬に“処置”を施してもらって即行ハラキリに頼んでいた『爆弾処理の環境』へ連れて行こうとニトロが言いかけた時、パトネトがまたも首を左右に振った。
「だいじょうぶ」
皆の視線が小さな王子に集まる。彼は無邪気に微笑みミリュウを見つめ、
「ごめんね、お姉ちゃん。ちょっと嘘ついてた。解除機能は安全のために二重にしてたんだ。だいじょうぶ、簡単に外れるから」
「どうすれば?」
再び問うニトロへ振り返り、パトネトは本当にこの結果が嬉しいらしく満面の笑顔で言った。
「キスするの」
「「――は?」」
ニトロと、ミリュウの声が重なった。
ティディアは……ちょっと頬を強張らせている。その後ろではマリンブルーの瞳がキラキラと輝いていた。
「……え? ええっと?」
ニトロがまごついていると、パトネトはさらに楽しげに言った。
「だって、お姫様を助けるのはいつだって王子様のキスでしょ?」
「そこらへんはお子様なのね!」
ニトロは思わず天を仰いだ。
「え? 簡単でしょ?」
パトネトは周囲の反応に戸惑い、きょろきょろとニトロと二人の姉を見回しながら問いかける。
「殺しあうより、血を飲むより、簡単でしょ? だって、けんかをした後は仲なおりだもん。仲なおりにはキスをするんだって、よく……聞くよ? ティディアお姉ちゃんもニトロ君と仲なおりのちゅーをするって言ってたし、ドラマでも映画でもアニメでも見たことあるよ?」
「そりゃまあうん、確かにバカ女はそう吹聴してたしよく聞くことでもあるし定番っちゃあ定番だし血を飲むよりは健全だし殺しあうより簡単かもしれないけどね」
価値観――という概念の実にいい加減なあり様にニトロはうめきつつ、それならばと訊ねた。
「てことは、軽く触れる程度でいいのかな?」
「ううん、口の粘膜に解除用のが常駐してるから」
「……」
「べろちゅー?」
「ティディア! お前一体どんな教育してるんだ!」
ニトロに怒鳴られたティディアはびくりと肩を震わせた。
「……やー。パティに関しては、基本的なマナーとか以外は、基本的に自由放任自主学習」
「あれ? お前、何か動揺してる?」
「……いけず」
ニトロは、ひとまずティディアのその感情を無視した。ティディアは傷ついたような反応を見せたが、しかし文句は言わない。ニトロはその態度も、今は、無視した。
「芍薬?」
「十五分デ決断ガ必要」
芍薬は多少不機嫌に、だが事実を伝える。
ニトロはミリュウと顔を見合わせた。
「……」
「……」
「……」
「……」
駄目だ。
一旦黙し、どうしよう? と伺い合ったが最後、どうにもならなくなってしまっている。
「フレア、本当ニ気ヲ付ケナイト、コノ王子ハ『クレイジー』ッテ呼バレルヨウニナルヨ」
芍薬が、ため息混じりに言う。
声をかけられた王子のA.I.は胸を張るようにして、
「実ニ素晴ラシイ」
「今すぐ道徳ソフトを入門編から読み込み直せぃ」
そこにすぐさまニトロがツッコむ。
すると芍薬が何やら喜んだ。
「?」
芍薬の反応は不思議だが……まあ、理由があるのだろう。
そう思うことで少し気が紛れたニトロは、落ち着いて考えた。
ディープな人工呼吸と割り切るか? それとも、口の粘膜、ということは、指を突っ込んで擦り取って移しあうのも可能かもしれない――って、だから何だそのプレイは。それじゃあもっとこう医療行為的に芍薬に作業してもらうのはどうだ?――有りだ。うん、これが最も心理的な負担が、
「あ、そうだ」
と、いきなりティディアが思いついたように言った。
「ね、パティ。それって私が間に入っても大丈夫?」
「「え?」」
再びニトロとミリュウの声が重なる。
「私がニトロとべろちゅーして、次にミリュウにして、もう一度ニトロにするの」
「多分、大丈夫だと思う」
「そこはできないでいいんだよ!?」
ニトロが悲鳴を上げると、ミリュウが追って言った。
「お断りします、お姉様」
「「「「「「え?」」」」」」
今度はニトロとティディアとパトネト、それどころか芍薬にフレアにヴィタの声までもが重なった。
断る?――ミリュウが、ティディアの提案を?
「この件は、わたしが決着をつけます」
きっぱりと、少々緊張は見られるが、しかし毅然としてミリュウは言う。
ニトロは何となく感動し、パトネトは驚いたままで……ティディアは、ちょっと複雑なお姉ちゃんの顔をしている。
「それじゃあ、どうするの?」
ティディアが妹を窘めるように問う。
するとミリュウはニトロに向き直り、歩み寄り、
「お許しください」
そう言うやミリュウはニトロに唇を寄せた。
「――い」
と、気の抜けた上に戸惑っていたところ、完全に意表を突かれたニトロが留めようとするのをすり抜けて、ミリュウの唇が彼の口を塞ぐ。素早く、しかし躊躇いがちに舌が彼の口内に入り込んできて触れ合い、そして素早く離れる。
「……」
「……」
「……」
「……」
ミリュウは顔を真っ赤に紅潮させていた。
ニトロは呆然としていた。
パトネトは天真爛漫に喜んでいる。
ミリュウの『聖痕』が首に巻きついているチョーカーに吸い込まれるように消えていき、チョーカー自体にも変化が起こる。青が黒へと変色し、彼女の肌と一体化していた部分がゆっくりと剥離し――それを、フレアが受け止めた。
「処理を」
「ハ」
パトネトに命じられ、フレアが足早に去っていく。
ニトロはその足音を聞きながら、
「何だろう、俺、何ていうか王家に汚されっぱなしじゃない?」
「……泣イテイイト思ウヨ?」
「帰ったら胸を貸してくれる?」
「承諾」
するとミリュウが眉を垂れ、
「あの……申し訳ありませんでした」
そこでニトロは気づいた。
自分の態度は、心底勇気を振り絞ったのであろう少女に対して――姉に抵抗し、姉の目の前で姉の想い人に唇を重ねてみせた彼女に対してあまりに無礼ではないだろうか。さらに言えばミリュウ姫にはこれまで浮いた話は一つとてない。もしかしたら、これは彼女にとってファーストキスだったのかもしれない。
それに……
目の端に映るティディアの実に何とも言えない顔を見れば、元信徒の行動には敬意を表したくもなる。
「仲直りのキス、だね」
ニトロは、それでもミリュウと目を合わせるのは恥ずかしく、パトネトに――多少頬が引きつるのは致し方ない――微笑みかけた。
するとパトネトは嬉しそうにニトロに駆け寄り、彼に抱きつき、
「ありがとう。ニトロ君、ありがとう!」
ニトロはパトネトの頭に手を載せて、そこで自分の左手から『烙印』が跡形もなく消えていることを知った。
「……」
見上げてくる、二人の姉と同じ黒曜石の瞳を見て、ニトロは思う。
(ひょっとしたら、ドロシーズサークルの時から準備してたのかな)
そしてあの時、自分はこの子に査定されていたのではないのだろうか。
だとしたら、お眼鏡に適ったのは光栄だが……それにしてもとんでもない『秘蔵っ子様』だ。
「……」
ニトロはパトネトの頭を撫で、それから、決めた。
あんまり子どもの前でやるのはどうかと思っていたが、逆だ。やるべきだろう。何よりこの子にも咎めを受けるだけの所業がある。
ニトロはパトネトをそっと離し、小さく息をつき、
「ミリュウ」
ふいに発せられた彼の声には底光りのする迫力があった。パトネトがびくりと震え、それ以上に体を震わせた姉妹が彼に注目した。
「けじめをつけないといけない」
その言葉にミリュウが姿勢を正し、厳かにニトロの前へ進み出た。
ティディアも――流石は勘が良い、事態を察してパトネトを呼び寄せ一歩退く。
ニトロは芍薬に一瞥を送った。芍薬がこれから行われることの全てにおいてマスターに同意するうなずきを返し、次いで瞳の中で光を点滅させる。
それを確認してから、ニトロは改めて第二王位継承者――今回の事件の主謀者に向き直った。これまでは目的達成を優先して心の底に抑え込んでおいた憤激を表に呼び戻し、その燃えるような双眸でミリュウを射抜く。
「あなたがなぜ暴挙に及んだのか。その事情は、解った」
ニトロはあえて高圧的な口調で言った。
「――はい」
彼の目を真正面から見つめ、ミリュウは強張った顔でうなずく。
「情状酌量の余地があるとは思う。だが、あなたも解っていたように、だからと言って簡単に許せるものじゃあない。俺はあなたに同情するところがあるが、それだけであなたを許すわけにもいかない」
「はい」
「ただ、俺があなたの犯罪行為を法へ告発することはしない」
「……」
「本件における俺と芍薬に対する一連の行為に関しては、俺個人としてはあくまで私的な問題ということで処理しようと思う。それでいいか」
「はい。異存ありません」
「それじゃあ、個人的に、罰を受けてもらう。法律外の話だし、つまり上限のない私刑だ。それでもいいか」
「はい。どんな罰もお受けします」
ニトロはうなずいた。
真摯に応えるミリュウには覚悟がある。例えアデムメデスの主要都市全てで裸踊りをしてこいと命じられても実行するだろう。
ニトロは一歩踏み出し、言った。
「歯を食いしばれ」
彼には万感の激情があった。
ケルゲ公園駅で襲われ、芍薬も危険にさらされ……それからずっと、ずっと腹の底に収め続けてきたものを――憤怒を! ようやく爆発させられる、怒りをぶつけるべき人物にぶつけることができる!
「頭が砕け、首が折れないように祈れ」
ニトロはミリュウの両肩を掴んだ。
ミリュウが――いくら覚悟を決めていても――これからされようということに勘付いて小さな悲鳴を上げる。が、それでも彼女は逃げない。されど彼女は恐怖に震える。眼前に立つニトロの、その、これまで溜め込んでいた情念を一気に燃やして鬼神と化した容貌をまともに覗き込んで歯を打ち鳴らす。
「さあ」
ニトロが背を弓なりに逸らした。
「歯・ヲ・食・い・し・ば・レ」
彼の首の筋が浮き、僧帽筋が首を固定し、体を折り曲げるための全ての筋力を爆縮させるための息を吸い、止め――ミリュウが眼を瞑り歯を食いしば
ヅゴンッ
霊廟に、石像柱の間に、恐ろしい激音が響いた。
ミリュウは目の中に太陽が生まれ、直後太陽が収縮する光景を見た気がした。
それほどの衝撃。
焼けた鉄槌に頭蓋を割られたかのようで。
食いしばっていた歯が衝撃に耐え切れず粉となったかのようで。
威力が尾てい骨にまで突き抜け、首がつまり、身長が縮んだ気もする。
というより首の骨が圧砕されたような衝撃が神経に電撃を走らせ、それが全身に伝わり頭のみならず手足の指の先まで激しく痺れて痛い。
骨髄が蒸発した気もする。
頭を打たれたというのに内臓が硬直して苦しい。
柔らかなはずの脳には柔らかなはずなのにきっと縦横無尽に亀裂が走った、そうに違いない、だってほらああぁああああ! 頭の中にはこの世のものとは思えない絶痛ぎゃがが――ッ!!
「 …」
ミリュウの腰が砕け、膝から崩れ落ち、ぺたんと尻をつく。
黒曜石の瞳がぐるりと瞼の裏側に入った。
そのまま彼女は白目を剥いて失神しそうになったが――しかし、この煉獄の痛みは彼女にそれを許さない。
指先まで突き抜けていた電撃が脳天に返ってきて彼女の意識に無理矢理活を入れる。
白目を剥いていた双眸に瞳が強引に引き戻される。
荒々しく引き起こされた意識は再度、いや何度も揺り戻る激痛に幾度も襲われる!
「 ほ」
ミリュウは、ようやく、それだけを言えた。
いや、せめて悲鳴を上げられれば痛みをいくらか誤魔化せるかもしれないのに、彼女はたったそれだけしか声に出せなかった。
「!ッ――――!!――?ッ!―――――――!!ほ!!」
やおら彼女は打たれた頭を抑え、ようやくその場で悶絶した。悶絶可能となるまで回復した。回復したことにより痛覚がさらに冴え渡る!
「……………ッ……………ッッッ!!!!!――――――――――――!!!!!」
冷たい石床に身を丸めたかと思うと彼女は恐ろしい勢いで体をピーンと伸ばし、またグッと丸まり、断続的に「う」とか「あ」とか「も」とか短くも恐ろしいうめき声を上げて悶え苦しみ続けた。時折、何だか生物としてまずいんじゃないかという様子でビックンバッタンと痙攣してもいる。血が燃えているのか全身が真っ赤に紅潮している。
「駄目よぅ。そこは滑稽に誇張したリアクションを取らないと」
ティディアが、流石にこれだけは食らいたくないという顔をしてつぶやく。
きっと妹の痛みを微々たるものでも誤魔化してやろうという気持ちであったのだろう。しかし、猛痛が引き起こす凄まじい耳鳴りのために一時的に聴覚を失ったミリュウに姉の声は届かない。
「おねぇ……」
パトネトは、姉が処された刑のあまりの衝撃に震えていた。姉の尋常ならざる苦悶を見る双眸には涙が浮かび、顔面からは完全に血の気が引いている。恐ろしさから今にも目を背けそうだ。そこにニトロが、言う。
「悪いことをしたら、ウシガエルに飲まれなくても、
パトネトがゆっくりとニトロへ振り返る。
「そして君の分の罰も、今、彼女が受けている。君がしたことの全てを俺は悪いと言い切れないけれど、それでもやっぱり悪いことで、危ないことには違いがないんだ」
パトネトはニトロを見上げていたが、ふいに大きくたじろぎティディアの背後に逃げ隠れようとした。が、それをニトロの厳しい叱責を含む眼光が止める。
「それに、これはきっとまだ優しい」
さらに続けられた彼の言葉に、幼くも賢い『王子』は彼の意図の全てを悟って……やおら、小さくうなずいた。暗に示されていた『罰を受けて苦しむ姉を見つめ続ける罰』をも受け入れ、悔悟の念に唇を噛んで泣きそうになるのを堪えながら“共犯者”の末路を見届ける。
過去に先祖が殺された場所に子孫の苦悶が満ち――やがて、それも鎮まっていった。
しばらくして、荒く呼吸を乱していたミリュウが、やっと息を整えて顔を上げた。
その顔はまだ赤かった。涙も引っ込む痛みの残滓は頬の緊張にも残っている。目は涙を流せなかった代わりに充血し、少し赤い。そして額はどこよりも紅い。
突き抜けた痛みが和らいだお陰で、そろそろ気絶もできそうになっているのであろう。ミリュウは不明瞭な意識を眼の中に漂わせ、顔を上げた時の姿勢――両膝立ちの姿勢のままぼんやりと宙を見つめている。
ニトロは彼女を真摯に見下ろし、
「これ以上、俺はあなたを責めません」
口調を和らげた彼の声が、激痛の作るまどろみの中にあったミリュウの意識をはっきりと呼び起こした。
「――はい」
辛うじて、か細くミリュウが応える。
ニトロはうなずき、
「しかしあなたは大きな騒ぎを起こした。それによって迷惑を被った人もいるでしょう。『世論』があなたをどう裁こうとするのかは分からないけれど、まずは正直に謝って、それからまだ正当な罰を受ける必要があるなら、そうしてください」
「はい」
「それから、セイラ・ルッド・ヒューラン様を執事として再雇用すること」
「――」
ミリュウが息を飲み、そして、自然とその眼に涙が浮かんだ。
「一番に迎えに行きなよ」
口調を平時に戻してニトロは言う。
「知ってるだろ?」
とんとん、と自分の頭を指で叩いて、心と記憶の交差する中に“それ”を見ただろう? と示す。
「あの人が、誰よりもあなたのために心を痛めている」
「……っはい!」
涙声でミリュウは大きくうなずき、そしてニトロの目を通して見たセイラの姿を思い返したのか、何かが決壊したかのように声を上げて泣き出した。
ニトロは身を丸めて泣くミリュウから離れ、芍薬の元へ歩いた。入れ替わりに、パトネトが駆け寄っていく。
ミリュウはこれまで溜め込んでいたものを全て吐き出すように現実の世界でも大泣きしている。しかし、きっとまだ何度も泣かないと過去の彼女は現在の彼女に追いつけないだろう。だが、それでもゆっくりと、ミリュウを縛っていた姉の『呪い』は涙に混じって緩やかにほどけていくのだ。
これでいい、とニトロは思う。
そして、こうして満足感を覚えている自分はひょっとしたら自分に酔っているのかな? とも思いつつ、ニトロは芍薬に向かい、
「さあ、芍薬。帰ろう」
そう呼びかけ、それから彼はすぐにティディアへ振り返った。
「ティディアに送ってもらってさ」
その発言に芍薬だけでなく、ティディアも、ヴィタも目を丸くする。
ニトロはティディアを睨み、泣いているミリュウに聞こえない声で言った。
「お前にも話がある」
ティディアは、ゆっくりとうなずいた。
ニトロはティディアの乗ってきたステルス機能のある
ティディアはニトロへ今回の妹の件に関して丁寧な礼と謝罪を述べた後、しばらく安全に身を隠せる場所の提供を申し出たが、ニトロは断固として首を振って断り、誰にも気づかれず車の乗り継ぎができるところまでの送り届けをヴィタに頼んだ。ティディアに彼のその意志を妨げることはできるはずもない。ヴィタの運転で、四人掛けのソファが向き合う形で置かれている座席に二人と独りが向かい合って座り、沈黙の中、しばらく空を飛んでいく。
霊廟の陵地を抜けた後も西へ西へと山間部を飛んでいる際、ヴィタがティディアへ妹姫からの連絡を伝えた。
「ミリュウとパトネトは、セイラを迎えに行くそうよ」
メールを見たティディアが、努めて明るい声でニトロへ言う。彼は『話がある』と言いながら、礼を聞いている時も、謝罪を聞いている時も、未だ一言も直接自分と口を利いてくれていない。
「それで、城に帰り次第、すぐに会見を開くって。すぐといっても準備があるから、多分、昼くらいかしらね」
ニトロは、黙ってティディアを見つめている。
「……」
ティディアは、ニトロの視線に耐えられなくなったかのように目を落とし、
「もちろん、私も参加するつもり」
すると、ニトロが大きく息をついた。
「……状況が状況なら、見る度に吹き出してたんだろうけどな」
ようやくニトロが口を利いてくれたことにティディアが顔色を明るくするが、しかし、彼の言葉の意味をすぐに悟って空笑みを浮かべた。カツラを脱いだままの頭を触り、
「笑えない?」
「駄作だ。見た瞬間は驚いて、まあ、場をリセットしてくれたもんだけど、そこまでだな」
ティディアは、ニトロが自分の意図をしっかり掴んでいてくれることは嬉しかったが、逆にそれだからこそ彼の言葉が辛かった。
その上、
「だけど、それ、マードール殿下との会談が終わるまでは隠しておけよ」
「え?」
「分かってるだろう? お前がそんな頭を晒したら、さっきみたいにお前が何もかも全部持っていく」
「それを……狙っているんだけど」
「解ってる。けど、この件は最後の会見までミリュウに全部やらせるのが筋だろう。それをミリュウも決意している。お前は絶対に一緒に出ちゃ駄目だ。――お前が帰ってきていることは?」
「まだ公にはなっていないわ」
「芍薬?」
「事実ダヨ。最後ノヤリ取リモマダ映像配信サレテイナイ」
「それなら明日帰って来い」
「……ミリュウを少しでも楽にしちゃ、駄目?」
「いちいち俺に聞かなくても解ってるだろ? 今さら急に甘やかしたところで、お前がこれまで妹にしてきたことを覆せるわけじゃない」
「贖罪ってあるじゃない」
「……」
「……解ってる。我ながら無様な悪あがきだった」
ニトロはうなだれるティディアの――その弱々しい姿に、ため息をついた。
「ティディアが、俺を本当に愛しているんだとは思っていなかったよ」
唐突な切り出しに、ティディアが顔を跳ね上げた。
「――――え?」
ほとんど息に近い疑問符に、ニトロは言う。
「ミリュウから聞いた――っていうより、ミリュウの心の中で伝えられたって言った方が正しいか」
ティディアの表情は固まっている。
ニトロはてっきりここぞとばかりに何かアピールしてくると思っていたが(そして迎撃の用意をこっそりしていたのだが)、ティディアは彼の予想に反して、愕然として表に見える感情の動きを止めていた。
「?」
ニトロが怪訝に思っていると、はたとティディアは彼を見つめ直し、息を飲み、急いて息を吐き、おどおどと目を落とした。
「そう」
それだけを言って、ティディアは黙する。
ニトロはさらに怪訝に眉を寄せた。
するとティディアは、はっと息を飲むようにして、
「そうよ。今頃気づくなんてニトロも馬鹿よね。でも残念だわ。ちゃんと私の力であなたに知らしめて、ああ俺は馬鹿だったって思わせてやる予定だったのに。そうしたかったのに……」
ニトロは、言葉を返さなかった。
ここで何かをアピールされたり下手に愛の言葉を重ねられたりするよりも、その無念と負け惜しみじみた様子の方が彼女の真意をこちらに届かせていた。
「そっか……あの子が……」
ティディアはぼそりとつぶやく。
その声には――ハラキリの『予言』が当たったとニトロは思った――妹の行動がもたらした思わぬ結果に、非常に痛く打たれている心模様が漏れ出している。
……ニトロも、まさかこういう形で現実になるとは思ってもいなかったが。
「それで……どう?」
と、ティディアが気を取り直したように問う。
「どうって、何がだ?」
「ニトロは私に」
そこまで言って、ティディアは言葉に詰まった。が、続ける。
「私に愛されているって知って、どう?」
「どうも何も、変わらないな。相変わらず大嫌いだ」
ニトロは嘘をついた。
相変わらず大嫌いではあるが、彼の胸には明確な戸惑いがある。
しかし、痛烈に打たれたティディアはそれに気づけなかった。
あからさまに悲しい顔をして、またうつむく。
「……」
無敵の王女のあまりに変わり果てた姿。
ティディアからすれば、現状は針でできた絨毯に包まれているようなものであった。胸に大事に抱えていた愛情の真偽を知らぬところで判定されてしまったことは、彼女に羞恥心にも似た強い失望を与えていた。彼女自身、どうしてこんなにもそれが悲しいのか、恥ずかしいのか、絶望すら感じてしまうのかが分からない。――違う、絶望は、愛していると知られながら「大嫌いだ」と面と向かって言われたためだ。……「嫌い」――嗚呼、その言葉が、これまで以上に痛い。加えて彼女には、現在、ニトロに問題を丸投げしたことへの罪悪感もある。ミリュウにしてきたことを知られたことも痛手であるし、それについてはニトロと先に意見を交わしたとはいえ、彼に軽蔑されているのではないか? という恐れが――本当に今更だが――喉を締めつけて仕方がない。
「ねえ、でも、ニトロ」
それらを振り払うように、ティディアは努めて明るく言った。
「それでもちょっとは私のこと、見直すこともあったでしょ? 簡単に『俺を本当に愛しているんだとは』――なんて言っちゃってくれたけど、本当は、少しくらい嬉しいでしょ? 女性にこんなに思われているなんて! ミリュウなら、きっと、私の愛の深さも伝えてくれたでしょ?」
不自然なほどに饒舌に、妹への妙な信頼感を無防備に漏らしてまでティディアは言ってくる。
ニトロは、しかし、首を振った。流石に思い出すと身震いがくる。彼は眉間に皺を寄せ、軽く引きつった片笑みを浮かべ、
「お前は、怖いな」
「え?」
ティディアは泣きそうになっていた。
何故、彼に、私の最強の対抗者にして最大の理解者に、何故、そんな嫌悪を隠さぬ顔でそんなことをいきなり言われなくてはならないのか。
「舞台裏を見た。長兄の――」
そこまで言って、ニトロはかちかちと歯を鳴らした。
「!!!」
ティディアの顔からざっと血の気が引いた。彼女はその時、生涯において最大の、かつ真の絶望というものに直面した。手が震えるのを抑えられない。手だけではない。体が、魂が芯から震えている。目の前が真っ暗になる。そんなことまでも知られてしまったのか! 本音を言えばミリュウとの真の関係性も知られたくはなかったが、それ以上に、あれは……あの手の話だけは、彼にはどうあっても絶対に知られたくはなかったのに!
「だ、大丈夫よ!」
ティディアは自分でも何を言っているのか分からなかったが、とにかく体の震えを誤魔化すために身を乗り出して叫んでいた。
「ニトロにはあんなことしないから! 何なら今、ね? 証明するから!」
「落ち着け阿呆」
静かなツッコミに、ティディアは我に返った。
「お前でも、取り乱すことがあるんだな」
「……人間だからね」
乗り出していた身を引くティディアの、蒼白であった顔に血の気が戻ってくる。それは屈辱の血だった。そして羞恥の血だった。ニトロに醜態を見せた自分が許せなく、ニトロにこんな痴態を見られたことが恥ずかしくてたまらない。何より、どうして彼のことになるとこんなにも愚かになってしまうのか――ハラキリに指摘され、気をつけろと釘を刺されたというのに、それがどんどんひどくなっている気さえする。
ティディアは唇を噛み、
「お前、あれをわざとミリュウに見せただろう」
追って投げつけられた一撃に、彼女は心臓を凍らされた。
私の最強の対抗者にして最大の理解者――ニトロ・ポルカト。
寒い。猛烈な寒気を感じて身が縮こまる。
ああ、今は、嬉しいはずの彼の『理解』が心から恨めしい。
「二人で申し合わせて、ってのは考えにくいから。その頃合に襲ってくるように誘導したのかな。色目なり、匂わす言葉なりを囁いて、挑発して」
ティディアは膝に乗せた手で、ぐっとイブニングドレスの生地を握りこんだ。
「そうしたらベストタイミングで色魔が釣れた。ってところか」
「……」
ティディアは何も言わない。何も言えない。沈黙が肯定となるとしても、言えない。
「やっぱり、お前は酷い奴だ。お前こそ悪魔だよ」
「……やー」
ティディアはそこまで言って、あえて軽く言葉を返してみようと思ったのにやけに渇いた喉に声が張りついて取り出すことができず、不恰好な間を空けてしまった。それでも彼女はニトロを見ずに、いや、彼の目を見ることができずにうつむいて、声を絞り出す。
「あまり、いじめないで」
「言えた義理か」
「……うん」
これほどニトロの目の前から逃げ出したいと思ったことは、かつてティディアにはなかった。彼と目も合わせたくない、合わせればきっと泣き出してしまう。彼と口も利きたくない、これ以上はさっき以上に馬鹿なことを言い出してしまう。
ニトロがため息をつく。
その息が何トンもの重さを持っているようにティディアには感じられる。
「ちゃんと、ミリュウとじっくり話し合えよ。全部告白しろとは言わないけど、これまでのこと、これからのこと、ミリュウの中では区切りがついているだろうけど、お前ともきっちり決着をつけないと駄目だから」
「うん」
ティディアにはうなずくことしかできない。
「パトネト様にはもうちょっとバランスよく物を教えないと、本当にマッドサイエンティスト街道まっしぐらだ」
「うん」
「それから、これから一ヶ月、絶対に俺に話しかけるな。触るな。会いに来るな。電話もメールもしてくるな」
ティディアは顔を上げた。
ニトロと――恐ろしいほどの怒りを湛えた彼の瞳とばちりと目が合い、心が震え、しかし、懸命に耐える。
「仕事は?」
声はかすれてしまっていた。我ながら情けない縋り文句だとも思う。それでもティディアはその点に縋るしかなかった。
「極めてビジネスライクに付き合うさ」
切り返しのセリフとしては範例的であるが、ティディアからすればそれは鋭いナイフを顎の下から刺し込まれるようなものであった。つまり、ニトロは、暗に仕事場でも仕事以外の会話や接触を禁じてきている。もしそれを破れば今後絶対に許さないという意気も込められている。
「ああ、一つ例外。マードール殿下との会談には俺も行く。その時ばかりは仲良くしようか」
「――仲良く、なったの? マードールと」
「お陰様でな」
「そう……」
それからしばらく続いた沈黙の後、ティディアはようやく口を開いた。
「でも、随分厳しいのね。それが私への罰?」
「随分優しいものだと思うぞ? 何なら優しく抱きとめて一緒にシャワーを浴びて激しいセックスでもしてやろうか? 意味もなく」
「……ニトロも、酷い」
「正直、できれば今後顔も見たくないような相手にはね」
ティディアはぐっと歯を噛み締め、流石に言い返した。
「愛されているって知って、それでその態度はいくらなんでもあんまりじゃない!?」
「愛されてると知ったからって掌返して好意的になる? そんな軽いものをお前はお望みか?」
ティディアはようやっとの反撃も軽く一言で潰されてしまって眼に涙が滲むのを止められなかった。
「お前が妹に対して、現状で取れる最善の選択をしたっていうことは、理解している。それしか取れなかったんだろうってことにも理解はできる。俺に丸投げしたのも、何の説明も無かったのも、妹を止めようとも弟を止めようとも全くしなかったことも、結果として、お前がそうしたからこそミリュウの絶望を減らすことに成功したんだと思う。俺は何も知らされてなかったからこそ『敵』を理解しようと努めることになったんだから。そうでなければ、ミリュウの心をほぐすことは、例え『悪魔』でも『同じ人』でもできなかったろうさ。
……だけど、理屈で解っても、お前のしたこと、してきたことは感情で許せない。やっぱりお前のしてきたことは俺が嫌いだと思うことばかりだ。例え過去の過ちだとしたとしても、その上で今回の件を考えればお前はあまりに身勝手だ。だからお前も、髪を剃るなんてことじゃなく、それはそれで思い切ったと思うけれど――ちゃんと痛い目を見るべきだと思うんだよ」
「……痛い目って……」
ティディアは涙を流すことは辛うじて堪え――これで泣くのはあまりに情けない――言った。
「ニトロにそうされることが私の一番の痛手だって解って言っているのね」
「全部ね。解ってる。俺も身勝手にお前の心を利用して、卑怯な罰を与えている」
「……」
ティディアは、やおら笑った。笑うしかなかった。
「そう言われると、何も言えないわ」
何でだろうか、急に清々とした気分になり、言う。
「分かった。一ヶ月、我慢する。でも浮気しないでね?」
「浮気ってのは恋人か夫婦間で言うもんだ。
……まあ、でも。その単語が使えるように努力してみればいいよ」
「え?」
「こっちは全力でフるけどな」
「……ニトロ?」
「言ったろ、理屈では解ってるって。もし、お前が今回の手も打たずに妹を見殺しにしていたなら俺はお前を生涯嫌い続けただろうけど」
ニトロはティディアを見つめていた。彼の瞳には既に怒りはない。ティディアが罰を受け入れた時点で清算したのだ。
彼は息をつく。
「やり方はどうあれミリュウが守られてきたのは事実だし、例え表面的だったとしてもティディアが妹を大切に守ってきたのも事実だ。家族の間の感情とか関係性って複雑だろ? そこに他人がああだこうだ言えることは本当はないんだと思う。だから、俺は今、きっと出すぎた真似をしている」
「ニトロは、もう家族じゃない」
「妄言抜かすならもう一ヶ月サービスするぞー」
「うわ、ごめん! 今のなし!」
「……まったく」
慌てふためいていたティディアは、ニトロの呆れ声に……ああ、何故だろう、例えようのない安堵感を与えられ、そしてじんわりと胸に広がる温かなものを感じていた。
それなのに――
「……」
当のニトロはこちらの気持ちなど意に介さないようにため息をついている。そして、
「何だかんだで、お前は『お姉ちゃん』だよ。立派とは言わないけど、面倒見のいいお姉ちゃんだ。なのに姉妹間のことで、当のミリュウを差し置いて俺がお前を生涯嫌うってのもおかしな話だろう?
それに――」
「それに?」
「お前は俺も守ってくれていた。殿下に関する件、聞いたよ。……少しは、感謝しているんだ」
ニトロは言い難そうに述べる。その感謝の中には少しの照れ臭さが滲んでいる。これまでこちらを真っ直ぐ射抜いてきていた瞳はかすかにそらされている。ぶっきらぼうに、けれど彼の真心を湛えて。
ティディアの胸に広がっていた温かなものは彼女の心の奥底にまで浸潤し、魂までをも潤わせていた。
「ねえ、ニトロ」
思わずというようなティディアの呼びかけにニトロが驚く。
「――何だよ」
「さっきまで手酷く痛めつけて、その後に優しい言葉。より惚れさせようとして、わざとそうしているの?」
「ンなしち面倒臭いこといちいちするか」
ニトロに素直に返され、
「そう」
ティディアは微笑んだ。
本当に目の前の男性は、出会った頃とは比べ物にならないくらいに大きくなった。
難問を抱えた妹を任せることができて、今や完全に国民の心にも偽りない実力と存在感を鮮烈に刻み込み、それだけでなくこの私をも手玉にとって、そして私を……簡単に感動させてくれる。
「ねえ、ニトロ」
「だから何だよ」
「愛しているわ」
ニトロは、少し目を丸くしてティディアを見た。
ティディアは、背を真っ直ぐ伸ばして、真摯にニトロを見つめていた。
「私は心から、あなたを愛している」
繰り返し告げる彼女の頬には少しばかり紅が差していて、その顔は、美しい。
「……お前は気づいてないみたいだけど」
愛を告げてくるティディアを美しいと思ってしまったことに悔しさを感じ、それもあってニトロはことさら邪険に言った。
「今回の件でさらにでかい不利を背負ったんだからな?」
「? 何かしら」
「曲がりなりにも殺意込みで襲撃してきた妹。思い返せば寒気しかしない手段を講じてくれたマッドサイエンティストな弟」
二つ指を折りながら言い、それからニトロはティディアを指差し、
「トドメに阿呆極まる大ッ嫌いなクソ女!――そんなのを妻に娶って準クレイジーな義妹義弟を作ろうなんてことになったら、誰より俺が一番クレイジーってことになるだろう?」
「あら、素敵じゃない」
ティディアはあっさりと言い返した。
「それこそ理想の『ハッピーファミリー』よ」
「阿呆。その場合、皆に笑われる頭が超絶ハッピーなのは俺じゃないか。冗談じゃない」
ニトロもさらりと言い返す。
ティディアは微笑み、
「やっぱり素敵。掛け替えのない旦那様だわ」
「やっぱり俺とお前は基本的な価値観からして違うなあ。やめとけやめとけ、俺はお前とは合わないよ。結婚したとしても離婚まっしぐらだ」
「いいえ、私はニトロ以外には考えられないし、考えたくない。それにニトロに愛されたなら、離婚なんて絶対にないって確信している」
ティディアは少し前屈みになり、ニトロを下から覗き込むようにして、
「だから、ニトロ。絶対に私を『愛している』って言わせてみせるから」
ニトロは鼻で笑った。
「俺は手強いぞ、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。そこんところ頑固な上に、芍薬に守られている。つか、むしろこっちが絶対に諦めさせてやる」
腕を組んで言う彼の隣で、マスターと同じく腕を組んで芍薬が胸を張る。
一部始終に聞き耳を立てていたヴィタがくすくすと笑っている。
ティディアの胸に万感の想いがこみ上げる。
ああ、やっとスタートラインに立てた。立たせてくれた。妹が、ミリュウが!
「望むところよ、ニトロ・ポルカト」
ティディアは薄く涙を浮かべ、お陰でこれからの一ヶ月がよりいっそう地獄だと思いつつ、それでも強気に言い放った。
「あなたも気づいていないみたいだけど、私をフるのは国を獲るより大変なんだから」