6−a へ

 はた、と、ミリュウは気づいた。
 パトネトの手を知らぬ間に強く握り締めていた。
 慌てて見れば、弟は痛そうにしながらも、逆に強く握り締め返してきている。
「……」
 ミリュウは手の力を緩め、そこで弟がどれほど懸命に自分の手を握ってくれていたのかを知り、歯をきつく噛み締めた。
 片膝を突いたままのニトロ・ポルカトを睨み、相手に動揺を悟られないように深呼吸しながら、崩れた心境に――いいや? 違う。崩れたのではなく、元に戻った心境に体勢を合わせる。
 そうして落ち着いてみれば、
(なんだ……)
 ミリュウは内心で笑った。心体のバランスを整えてみれば、なんだ、これが本当の『わたし』じゃないか。さっきまでの自分は、夜明けの青空の清々しさに酔い、勘違いで自惚れ、議場の喝采に舞い上がっていた愚かな『わたし』だ。
 そうと分かれば何も恐れることはない。
 夜が来た? いいや、違う。わたしは初めからずっと夜の中にいるのだ
 そうと解れば、奇妙なことだが、ミリュウは体が少し軽くなるのを感じた。反面、心は少し重くなったように思う。しかし、それはかえって重心が安定したとでも言えるもので、彼女は次に取るべき行動へ速やかに移ることができることを――やはり奇妙にも――実感していた。
「随分と畏まられるのですね」
 ミリュウは微笑み、言った。
「わたし達の間に、そのような遠慮はいらない……そうは思いませんこと? お義兄様
 ミリュウが『お義兄様』と口にした時、その眼に得体の知れない醜さが掠めた。ニトロはそれを見ながらも微笑み返し、
「そう仰るわりに、ミリュウ様こそ遠慮なさっている」
「あら」
 ミリュウは口元に手を当てた。失態とばかりに小首を傾げ、
「その通りね。では……これでいい?」
いいんじゃないかな?」
 同級生が会話をするような調子で受け答え、二人は再び笑顔を差し向けあった。
 異様な緊張感が場に漲り、セイラがつばを飲み込む音がやけに大きく響く。それを急いて誤魔化すように、ミリュウが言った。
「それにしても、女性の部屋に約束もなく、しかも無断で入り込むなんて、いくらなんでも失礼極まりないんじゃない?」
 ニトロは立ち上がり、先ほど座っていた椅子に腰を落とし、ひらりと左手を振った。
「『闇討ち』するよりは礼儀正しいと思うよ」
 まるで羽のように軽いものを扱うような物言いに、ミリュウは口をつぐまされた。
「そんなところに突っ立ってないで、座ったら?」
 己の対面の空席を示すニトロの誘いに、ミリュウはやや考え、
「そうね」
 うなずき、つないでいたパトネトの手を離す。彼女が一歩進み出そうとした時、ふいにフレアの繰るアンドロイドが横に並んできた。突然の行動を不審に思い、そちらを見る。と、そこで彼女は、ドア側の壁、死角であった所にアンドロイドが一体、音も無く佇んでいたことに気づいて小さく肩を振るわせた。
「ゴ尊顔ヲ拝シ、恐悦至極ニ存ジマス」
 ユカタ、だろうか、キモノ、だろうか……細かな違いは知らないが、遠い辺境の民族衣装をベースとしたらしいデザインの足首まで裾のある服を――おそらく着崩しているのだと思う――緩やかに纏う女性型アンドロイドが、主人マスターに則して最敬礼をする。
 ミリュウは、薄闇に翳っていたためにすぐには気づかなかったが、頭を垂れるアンドロイドの長い黒髪がポニーテールにまとめられており、その容姿は資料で見た『ニトロ・ポルカトの戦乙女』を想起させることに思い至り、
「芍薬ね?」
「御意」
 王女の呼びかけへの返答を改めて聞けば、やはりその声は資料で聞いた通りの凛とした声音。
(……新戦力か)
 資料にはまた、ニトロ・ポルカトがこのようなアンドロイドを有していないことが記されていた。きっとハラキリ・ジジから提供を受けたのだろう。
「会えて嬉しいな」
「光栄ノ至リニゴザイマス」
 言って、芍薬が立ち上がる。
 と、その時、芍薬に対し、フレアがミリュウの盾となるように改めて正対した。
 A.I.達は、対峙した瞬間、緊張の糸を極限まで張り詰めた。
 警備兵の制服に身を包む中性型のアンドロイド。
 くれないの地に金糸銀糸を織り交ぜ三種の花が咲き流れる艶やかな民族衣装を無数のポーチを連ねた太いベルトで留め――開かれた襟や裾の合わせから覗く下には微細な鎖で織られているらしい黒の上下を着るアンドロイド。
 明らかに戦闘用である機械人形達の目がぶつかり合う。
 電脳の世界から冷たい空気が悲鳴を上げながら吹き込んできているようだ。
 A.I.達の緊張に人間もつられて固唾を呑み、
「芍薬」
 その中で、ただ一人、ニトロが気楽な様子で声をかけた。
「ここには話しにきたんだ」
「御意」
 彼の言葉は何も己のA.I.を責めるものではない。争いを止め、かつ、『相手』に意思表示をする言葉であった。
 芍薬はフレアから視線を外し、淑やかな歩調でニトロの傍に歩み寄った。ニトロは身をわきまえるA.I.に労わりの眼差しを向けてから、
「フレア殿もそう屈辱に感じなくていいよ」
 芍薬から目を外したニトロは、無表情にこちらを見つめるアンドロイドの心をまるで見透かすように、言った。
「君が気づけなかったのも、君に伝えられなかったのも、無理はないんだ」
 ニトロは居住まいを正し、こちらのセリフに興味を覚えたらしいパトネトを少し気まずく見つつ、
「今、この城のA.I.達のマスター権限の一部は、俺のものなんだよ。だから“侵入者”への警報は鳴らないし、むしろ“侵入者”の手引きをするし、代理であろうが本物であろうがマスターへ俺の存在を報せることはできない
「どうして?」
 聞いてきたのはやはりパトネトだった。関心の強い話題であるだけでなく、ひょっとしたらこの分野への責は彼が負っていたのだろうか。顔には好奇心とプライドの色が現れている。
 ニトロは少し困り、しかし彼なら大丈夫だろうと無理に誤魔化すことをやめた。ミリュウに対しても、これは真実そのままを伝えたほうが『効果的』なのだから。
「ティディアが『夜のデート』をする時のために……って、俺が部分的にティディアマスター以上の権限を握れるよう命令していたんだ。『いつでも来てね』――いつ、どこからでも侵入可能なように、必要なだけ。セキュリティ崩壊の愚行だって拒絶したんだけどね、もし『あなたがテロリストと手を組んでも、あなたに殺されるなら構わない』とか抜かしやがる」
 ニトロは、ミリュウの眉間に表れている嫌悪感を一瞥し、
「あいつが俺に与えた権限は、バカほど“色々”だ」
「そうみたい」
 悪感情にかえって背中を押されたか、ミリュウがつかつかと早足に部屋に進み入る。ニトロの対面に立ち、優雅な曲線を描く椅子の背もたれに手を置いた彼女は流石に王女らしい佇まいを作った。
 彼女はどこまでも意図的な微笑みを浮かべ、
「警察用アンドロイドを乗っ取れるほどだもの」
「合法的な借用だよ」
 ニトロも応じて微笑みを返す。
 微笑み合い、しばし二人が黙すと、その沈黙を機に二人と一体が歩み寄ろうと足を踏み出した。
 一方で芍薬は動かない――それを視界の端に捉えたミリュウは、
「今夜は『眺望の間』で食べましょう。先に、行っておいて?」
 その言葉に、パトネトもセイラも耳を疑うような顔をした。
 言ったミリュウ自身、内心で自分の言葉に驚いていた。が、すぐに、これがニトロ・ポルカトへの対抗心から出たものだと理解する。
 セイラは、パトネトは、不安と心配に満ちた眼差しをしている。
 フレアはいつも通りの無表情で感情を掴ませないが、その背後、豊かに感情を表す『戦乙女』は余裕に満ちて穏やかにマスターを見守っている。
 ――ここは、この城は、この部屋は。
 例え部分的に『敵』に支配権を握られたとしても、わたしのホームだ。
 ニトロ・ポルカトもそれを絶対に理解している。
 理解した上で、敵陣内にこうしてやってきている。
 それなのにわたしが守勢に回るのは――執事と、弟と、弟のA.I.に囲まれていなければ、護衛と距離を保っている『敵』とすら相対できない、そういう構図を作ってしまうのは……残された最後のプライドが許さない。
 それに、この“流れ”も変えねばならなかった。
 現状、ペースをニトロ・ポルカトに完全に握られてしまっている。
 ニトロ・ポルカトは、強敵だ。わたしよりも強い、認めている、わたしよりもずっと強い。
 強敵を相手にしながら相手のペースで戦うことは愚行だと、姉から教わっている。どうにかして主導権を握るか、少なくとも拮抗させなくては、わたしはきっとここで止めを刺されてしまうだろう。それでは『望み』も何もなくなってしまう。
「……」
 しかし、セイラも、パトネトも眼差しに変化は無く、踵を返す気配どころか首肯の兆しすらもない。パトネトに付き従うフレアは無論何も反応を見せない。
 ミリュウは、瞳に願う意思の全てを集めた。
 口に出すわけにはいかない、意地。そんなに不安そうにしないでと、こんな自分に付き合ってくれている家族へ無言で訴えた。
「――かしこまりました」
 やおら、息も苦しげにセイラが言った。
 その返答に安堵したミリュウは目が潤みそうになるのを感じ、慌てて目頭に力を込めた。
「さ、パトネト様」
 セイラに促されたパトネトは姉をじっと見つめる。姉は、微笑む。
「……」
 パトネトはふいにニトロを見た。
 静かに『敵方』のやり取りを観察していたニトロは、少女よりも少女らしい王子の突然の視線に少し驚き、そして、その黒曜石の瞳の奥に何かを訴えるような情を感じて胸をざわめかせた。幼い王子の真剣な眼差しには、何か幼い者が湛えるには不相応な切実さがある。ニトロは、刹那、目を合わせて王子の真情を探った。だが、一体自分に、彼が何を訴えるというのだろう?
「……」
 ニトロはパトネトの胸中を掴めぬまま、
「芍薬」
 ひとまず言うべきことを言った。
 ミリュウが護りを解こうとするならば、
「門で待っていて」
「承諾」
 元より、ニトロはミリュウと一対一で話すことを最も希望していた。それを聞いた芍薬は始めに快くない顔をしたものの、しかし――『話をしてみなくちゃ解らないことが多過ぎる。まずはそれをできるだけ解消して、そこで終われるなら良し、終わらず続くのなら何から何まで受けて立ち……その上で潰そうと思う』という珍しく攻撃的な言葉――『ほら、悪魔って配役をされたからには、ちょっとはそれらしくさ』と洒落めかせて浮かべられた笑顔――マスターは強い怒りを抱えながら、一方で理性と余裕を失っていない。その上での決断ならば、リスクよりも誇らしいマスターへの期待が優位となり、なれば特別芍薬が反対する理由もない。もちろん相手の出方しだいでは臨機応変に対処するつもりだったが、この“流れ”は実際大歓迎である。敵方から提案されるならなおさらだ。
 そのため芍薬の返答は躊躇いも何もなく、敵の前にあって平然と交わされた『護衛解除』のやり取りはミリュウらのものとは比較にならない重さがあった。
 ミリュウは、ニトロに頬の強張りを悟られないことに懸命だった。
 知っていた、知ってはいたが、ニトロ・ポルカトとその戦乙女の結ぶ圧倒的な信頼関係を目の当たりにし、否、見せつけられて、セイラの首肯に得た感動が悔しさに潰されてしまった。それがまた悔しくて、それを悔しいと思う自分がまた悔しくて、悔しさに悔しさが重なって段々泣きたくなってくる。
「わかった」
 と、そこにパトネトが了解を返した。
 幼い彼の答えは力強く、また、それは場に走った“上下関係を決定付ける瞬間”を切り崩す絶妙なタイミングであった。
(――なるほどね)
 ミリュウの体に現れていた別種の緊張が解けるのを視界の隅に置きながら、ニトロはパトネトを称する呼び名の一つを思い出していた。
(『秘蔵っ子様』か)
 じわりと、彼への警戒心が強まる。
 ドロシーズサークルでも思ったが、本当に賢く、とても良い子だ。もしかしたら先ほど真剣な眼差しの中に感じたものは、全力で姉を守ろうとする彼の親愛おもい、それ故の強い敵意だったのかもしれない。
 あの『巨人』といい、アンドロイドだと分かってなお未だに生身の人間に思えてならない『ミリュウ達』といい、それらのエンジニアを引き受けているであろうパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 ミリュウ姫とは違い、傑出した才能と華のある容姿から、ティディアと比べても『劣る』と言われたことのない弟王子。
 ティディアを太陽とすれば、ミリュウは惑星の陰側にある月。
 ティディアを太陽とすれば、パトネトは幼き恒星。
 偽りのない彼の姿を改めて目にしてみれば、希代の王女たる姉の面影が本当によく現れている。そしてティディアと彼に挟まれているミリュウを思い浮かべれば、彼女が、『劣り姫』が沈んで見えてしまうのも無理からぬことだ。
「待ってるからね」
 姉に歩み寄り、確かめるように彼女の袖に触れ、パトネトは言う。
「ええ」
 うなずくミリュウを見れば、それが彼女らのいつもの光景なのだろう、傍に控える従者二人をひっくるめてそこに『平常』が戻っていた。そしてそれを取り戻したのは、間違いなく弟王子の振る舞いである。ニトロには、彼の存在感に肌で触れられただけでもここに乗り込んできた価値があると思えた。
 ニトロが見つめる中、弟が離れ、執事が頭を主人に垂れる。追ってフレアも頭を垂れ、静かに部屋から出て行く。
 最後に芍薬がミリュウに辞儀をして――それを見たミリュウに微かな感情の揺れが、開いたドアの向こうの女執事には明らかな動揺が浮かぶ――ドアが閉められた。
(さて……)
 ニトロはミリュウを見つめた。ドアに向けられた王女の横顔には影が濃い。
 太陽は、もう沈む。
 未練がましく残る陽光は夜闇に飲まれつつあり、代わって辺りを照らすのは、こんな時でもいつも通りに王城をライトアップする照明の小漏こもだけ――
ピコ
 と、ミリュウが部屋付きのA.I.に言った。
「明かりを」
 即座に部屋は柔らかで明るい光に満たされた。
 影の中から明らかとなった彼女の顔にはある程度の得心がいった感がある。どうやら、今のはニトロの『部分的な』権限の範囲への探りでもあったらしい。点灯の可否を決められたことで、少なくとも、pがミリュウの命令コマンドを聞かないことはないことが証明された。
 そして、彼女が振り向く。
 ニトロは感じ取った。
(こちらも、油断はできないな)
 直前のやり取りでは隙を見せていた『劣り姫』だが、くにを騒がせるほどに変化を見せた王女の“程度”はまだ測れていない。
 一人となった彼女の顔には再びの微笑みと、その裏に、強固な意志が表れていた。あるいは、それは、一人となったからこその覚悟だろうか。
 それから、それにしても……
(……嫌な感じだ)
 ニトロは未だ席につかず、こちらを見つめて佇むティディアの実妹を明るい光の下で改めて観、内心でそうつぶやいた。
 膝下から裾にかけて軽いプリーツの入るラインの綺麗な藍と白のチェック柄のロングスカートに、白を基調としフリルでアクセントが付けられた品の良いブラウス。背に流れる自慢のロングヘアーは黒紫に艶めき、柔らかく落とされた前髪の下にある顔色は――数日前に見たクマのある目元とは打って変わり、一面に、外見だけは、健康的な薄紅を白い肌に透く年相応の美しさを誇っている。
 その見た目だけは、見覚えに違わず、第二王位継承者と一片の相違もない。
 しかし、カメラという他人の視野を通さず、初めて肉眼で間近に見るミリュウから受ける印象の何と悪いことか。
 これは『攻撃』を仕掛けられたことに対する怒りのあるがためにそう思うのではない。
 彼の感じる『嫌』は嫌悪のそれではなく、言わば悪寒に近かった。見ている内に何か悪いことが起こりそうな――そういったものに対する『嫌』が、見慣れたはずの第二王位継承者の全身に漂っている。
 特に、眼だ。
 とにかく目つきが心に爪を立ててくる。
 先ほど彼女の瞳に見た、得体の知れない醜さ。それが目尻のラインからまるで涙が伝うように頬にかけて流れ落ち、今や彼女の微笑までをも侵している。侵された笑みには、また一つ得も言われぬ何か――恐ろしさだろうか?――がある。
 それら全ては、ニトロにとっては初めて接する気配であった。
 何故、自分にあのような危険な行為を働きかけ、芍薬にまで手を出し……何故、何故とその動機への疑問ばかりを与えてくれる彼女はまた一つ彼に難題を提起しつつあり、それ故に、未知から来る不気味さをも纏い出している。
「……座ったら?」
 椅子の傍らにありながらも立ち続けるミリュウに、ニトロは勧めた。
「いつ座るかは、わたしが決める」
 それに対しミリュウは和やかに、しかしあからさまに断じた。先ほど席を勧められた時には素直に応じていたのに、完全に一変していた。
「お茶でもいかが? 良い葉があるの」
 和やかな口調を声に貼り付けたまま言う彼女の視線は、部屋の片隅に向けられている。そこには見たところ何もなく、白い壁だけがある。
 この部屋に足を踏み入れたことは滅多にないニトロではあるが、しかし、そこに何があるのかは知っていた。そここそは、自分でやれることは自分で事を済ませたがるティディアが第一王女になってから改装された場所――側仕えであるか、第一王位継承者に部屋に呼ばれるほど極々親しい人間でなければ知らぬ場所。普段は視覚的な問題で隠されているが、継ぎ目も何も見えない壁の中には簡易な流し台があるのだ。電映話ビデ-フォンを用いた『漫才』の練習中、ティディアが何度もコーヒーを淹れに行き、一服後には台本の修正を言い出してきたものだった。
 ミリュウの微笑みの裏には、もちろん知っているだろう? という試しがある。
 ニトロは左手を軽く振り、その甲に浮かぶ『烙印』をこれ見よがしに示し、
「遠慮するよ。また何かを入れられたら堪らないからね」
「ひどい言い方」
「そうかな? ああ……でも。ルッドランティーなら飲みたいかな」
 ミリュウの柳眉が微かに動く。
「あいにくカロルヤギの乳を切らしているの」
「そりゃ残念。なら、いつかヒューランさんにでも淹れてもらうよ」
「ルッド・ヒューラン様、でしょう?」
「おっと、これはご無礼を。失礼いたしました」
 ニトロが頭を下げ、目を上げた時、ミリュウは目の動きで彼の失態へ許しを与えた。
 ニトロは、微笑んだ。
 ミリュウも微笑み続けていた。
 微笑みに挟まれた空気が張り詰めていく。
 いずこで巨大な鴉が鳴いているかのように、耳鳴りがした。

 ティディアの私室を出てドアを閉めた時、芍薬はセンサーに動かぬ人影を捉えた。
 刹那に熱源を探れば、人間は廊下を『眺望の間』へ向けて進み出している。動いていないのは、アンドロイド――パトネト王子のオリジナルA.I.――フレア。
 芍薬はそちらへ一瞥をくれた。
 警備兵の制服を着たアンドロイドは、その瞬間、瞳に光を点し、即座に踵を返してマスターを追った。
「――ナンダイ?」
 アンドロイド間で一般的に用いられる通信帯域を通し、芍薬はフレアの呼びかけに応えた。
オングストロームハドウシタ?」
「サテネ」
「我ガマスターガ、気ニ病ンデイル」
 芍薬は考えた。あの王家のA.I.は、場合によっては『交渉材料』に使える可能性がある。しかし、人質というものを嫌う“我がマスター”がそれを許すだろうか。そして、気に病んでいるというパトネト王子の心境を――『敵』とはいえ――そのままにすることを善しとするだろうか。
 答えは、解りきっていた。
「死ンジャイナイヨ」
 部分的に答えをぼかし、芍薬はそれだけを明かした。
 そしてフレアとは逆方向に廊下を歩き、ニトロとの待ち合わせ場所へ向かいながら、
「オ前ノマスターハ随分優シインダネ」
「侮辱スルカ」
「イイヤ、正直ナ感想サ。セキュリティノアタッカーナンゾ死ンデモ当然ノ存在ダロウ?」
 それに応える言葉はなかった。
 互いに距離を広げ続けながら、やがて、
「貴様ハ、マスタートドレホド解リ合ッテイル?」
 あまりにも意外な問いに、芍薬の足が止まる。振り返るが、フレアはマスター共々振り返る気配もなく歩き続けている。
 芍薬は再び正門に向かい歩き――行く先の角から現れた巡回の警備アンドロイドと何事も無くすれ違い、
「『人並ミ』ダロウサ」
 フレアに答えた。
「ソウカ」
 するとフレアはそれだけを言った。
 それだけを言って、通信を切ってきた。
「……」
 芍薬は今一度立ち止まり、背後へ振り返った。見えるのは、規則正しい歩調で進む警備アンドロイドの背中だけ。フレアの姿は既に視野にない。マスターと共に階段を上る反応が感覚センサーにだけ見える。
 ――何故、ミリュウ姫に協力する王子のA.I.はそのようなことを訊いてきたのか。
「……」
 新たな問題を提起された芍薬は、しかしそれを面倒とも思わず早速解答候補の検討を始め……また同時に、幾らか訝しく思いながら内心でつぶやいた。
(ドウモ、アチラハ一枚岩ジャアナサソウダネェ)

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