ミリュウは努めて静かに息をしていた。
沈黙の中、改めて『ニトロ・ポルカト』と二人きりであることを自覚すれば、肉を内側から凍らせる緊張と骨を内側から焼く覚悟が体を縛る。どちらが優位かといえば、情けなくも前者だ。気を抜けば、わたしは立ち、ポルカトは座す――位置関係からしてわずかに見下ろす形なのに、不思議と見上げているような気さえしてしまう。
ミリュウは、ニトロ・ポルカトを努めて傲然と見下しながら間隔の長い深呼吸をし続け、そうして初めて生身の体で間近に見る仇敵をじっと観つめていた。
姉の『恋人』は憎いほど自然体で椅子に腰掛けている。
いつでも解けるくらいに軽く腕を組み、真っ直ぐに、こちらを観つめ返してきている。
「……」
思い返せば、初めて『映画』で見たニトロ・ポルカトの戦闘服姿は、制服を着始めたばかりの新兵といった有様だった。着慣れていない、服に着られている……意地悪く言えば、
それが、今はどうだ。
ニトロ・ポルカトは、姉の語るところによればあの
ここしばらく、わたしの生活のほとんどを占めていた存在。いくら見ても見飽きないほど憎い男。たった一年と少し前には、同い年の男子――年相応に大人と子ども半ばする空気を纏う運動不足で緊張感のない今時の高校生に過ぎず、ツッコミの他には取り得も無く、頼りない顔をしていた少年。
それが今は、どうだ。
たった一年と少しだ。
たったそれだけ。
それだけの期間で、ニトロ・ポルカトは急激な成長を果たし、今、わたしの目の前で泰然自若と構えている。鍛えられた肉体には揺らぎのない落ち着きがあり、頼りなかったはずの顔は人が違ったような精悍さを湛え、表情は穏やかだが……いいや、わたしには判る。穏やかなニトロ・ポルカトの皮膚のすぐ下にはマグマのように滾る怒りがある。それはニトロ・ポルカトがどうして未だに『
……恐ろしい人間には、これまでに何度も相対してきた。
清濁併せ呑む政治の世界に跋扈する古狸に妖狐。人を殺すことを何とも思わずにいられる戦士。人でなしの兄姉。あるいは、恐ろしい希代の王女、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
しかし、それでも、ミリュウは足が竦まぬよう堪えるのに懸命であった。
これまでに何度も相対してきた相手の誰とも違う迫力。
政治背景等様々な力学も打算も何もなく、ただ純粋に『わたし』だけに向けられる、その眼差し、ただただ純粋な怒り。
ふと、ミリュウの脳裏にリーケインの『花園に来る』の冒頭が浮かんだ。ニトロ・ポルカトの怒りが
(ああ)
改めて知る。
そこにいるのは、想定よりも想像よりも認識よりもずっとたくましく、力強く、何より迫力ある男だ。わたしと同じ人種であったはずなのに、その面影をいずこかの果てへ捨て去り、今や次期王たるに相応しい風格を備えつつある
飲まれそうになる。
真っ直ぐに、心の奥を見透かすような姉とはまた違い、心の奥の触られたくない
「――ッ」
だが、しかし、されど!
ミリュウは息を大きく吸い込んだ。
このまま睨み合い続けるのは分が悪い。
ミリュウは視線を落とした。
ニトロ・ポルカトから、目を逸らした。
小さな敗北に腹の底が疼くが、小さな勝利を求めて大局を見失うわけにはいかない。
視線を落とした流れでミリュウは椅子に座り、椅子に座る短い間に意気を立て直し、再びニトロ・ポルカトを見つめた。
「ショーを盛り上げてくれて、ありがとう」
両肘をテーブルに突き、両手の指を軽く絡ませ合い、ミリュウは沈黙を破った。
「もし、お姉様が帰ってくるまで逃げ隠れたままだったらどうしようかと思っていたわ」
「もし、ティディアが帰ってくるまで逃げ隠れていたら、これ幸いと『“あの程度”にも付き合えない小者』にできたのにね」
ミリュウは眉尻が引き上がるのを止められなかった。
ニトロ・ポルカトは、明らかにこちらの思惑の一つを見透かしていた。そうして極自然と、極めて的確なタイミングで、心の奥の柔らかな所へ素早く針を刺し込んできた。
「残念だったかな?」
続けられた問いには明らかな挑発がある。
挑発に、ミリュウの腹の底から気持ちの悪さが釣り上げられる。
彼女は息を一つ、吐き捨てた。
「いいえ、むしろ “その程度”でなくて、本当に良かった」
声のトーンを落とし、ミリュウは唸るように言った。
「もし“その程度”だったら、わたしは失望して死んでしまうところだったもの」
豹変した――というよりは着飾るのを止めたというべきか。顔に陰を落として睨んでくる少女の微かに震えた声を、ニトロはしかし軽い相槌で受け止めた。
と、その反応にミリュウは思わず声を張り上げそうになったのか、一瞬口を鋭く開き、直後に息を飲んで静かに間を取った。
数拍の時が置かれ、その間二人は目を合わせ続け、
「さすがは『ニトロ・ポルカト』。何も言われなくても全て解っているってご様子ね」
ふいに声のトーンを前に戻し、言ったミリュウの顔には明るい微笑が浮かんでいた。
もし『豹変』という形容を用いるならば、先のものよりも今にこそ付けるべきだろうとニトロは思う。崩れかけた吊り橋を渡っているような不安定感を耳と目の奥に覚えながら、彼は彼の調子を崩さずに切り返した。
「いやいや、解らないことばかりだよ」
ミリュウは微笑みを張り付かせたまま小首を傾げる。
「あら、そう? わたしが『ショー』にお誘いした――というわけではないことは、とっくにご存知のくせに」
「それはね。だけど、その程度だよ」
ニトロは軽く肩をすくめ、一つ、音を立てて息を吐いた。
「小姑の嫉妬? それとも嫌がらせ? それにしちゃあ規模が派手だ。まあ、どっかの星には嫉妬が理由で戦争が始まって数国傾いたって歴史もあるようだけど、とはいえ『ドロシーズサークル』のみみっちい可愛らしさに比べたら“同じ人間”のやることとは思えない。ある程度正面から来ている分、陰険さではあちらの方が上かもしれないけどね」
ミリュウの首筋に強張りが現れる。彼女が何かを言おうとしている気配を察し、それを圧し潰すようにニトロは続けた。
「女神様のためってのは『伝説のティディア・マニア』の行動とすれば筋も通るけど」
ニトロは、ハラキリ、芍薬、ヴィタ――それからマードールと交わしてきた会話を思い返しながら、効果のありそうな要点のみを抽出し、ミリュウに投げつけていった。
「それにしちゃ、私怨が入りすぎているだろう? あの『巨人』には機械の癖して人間みたいな殺気があったよ。もちろんそれは、きっと“操縦者”の意思に違いないんだろうけどさ」
ミリュウはニトロを凝視している。ニトロは続ける。
「なら、純粋にティディアのため?……そういう義憤から出た行動? なんて見方もできるけど。だけどあれだけの私怨を感じたからには、ひょっとして、私怨を義憤で正当化した行動だったりして――なんてことも思う」
ミリュウは唇の内側の肉を噛み締めていた。ニトロ・ポルカトは痛いところを的確に突いて来ている。それが彼だけの考えなのか、それともハラキリや芍薬らの入れ知恵なのかはともかく……その声は、やはり、心の一番触れられたくない柔らかな皮膚に直接牙を立ててくる。
「いやいや、でもまさか、姉を敬愛してやまないあなたが義憤で私怨を正当化なんてするわけはないよね」
ミリュウのコメカミがかすかに波打つ。ニトロは畳み掛ける。
「姉を崇拝するあまり本当にカルト教団を起こした、なんてギャグも考えられるけどねー。でも、それは逆にティディアに対して礼を失する。特に――ティディアの薫陶を受けてきたあなたが行うと特に恩を仇で返すというくらいの非礼になってしまう。なぜならあいつは盲信されることを好まないから。盲信する味方より、噛み応えのある『敵』を好むから。
ねえ?」
正否を促す問いかけに、ミリュウは沈黙を返した。否定を返せないがために。それは、わたしもよく知る事実であるために。
ニトロはミリュウの無言の返答を『沈黙という同意』として受け取ったことを示すために大きなうなずきを見せ、
「さてそれじゃあ何だろう。ティディアの命令か? ってのも当然疑ったけれど、ところがそれはどうも絶対になさそうだ。あいつの様子を見ても、あいつにしては隙だらけな『企画』にしても。――それに、あいつは破局をちらつかせてくることはないしね」
最後に付け加えたニトロの言葉はミリュウに明らかな変化を呼んだ。おそらく感情を読み取られまいとしてのことだろうが、全身を固めた彼女は、それ故にかえって『“姉の恋人”への感情』が心の中で大きな比重を持つことをニトロに報せた。
その確認が取れたところで、ニトロは一度大きく息をついた。
「色々考えたけれどさ。
結局どれも決定打がないんだ。考えついた事のどれもが正解な気がするし、いっそのこと全部違う気もする。
肩をすくめ、ニトロは微動だにしないミリュウを見つめた。
「全く、これは一体どういうことなんだろうね」
組んでいた腕を解き、
「勝手に人の体に異物を入れて」
左手の甲をゆらりと示す。そのままテーブルの上に両腕を置き、
「ショーに見せかけた暴力行為を仕掛けてきて」
強く、手を組む。
そして上半身を前傾させてわずかにミリュウに近づき、
「芍薬にまで攻撃を及ばせてきた」
その声は穏やかなれど、ミリュウの心を激しく震わせた。一瞬、かつ一端であったが、ニトロ・ポルカトは初めて怒りを表出させたのだ。ミリュウは努めて静かに息をした。その炎の欠片のただの一舐めで、それだけで鼓膜が爛れたように痛み出す。接近した瞳に見た熱光に網膜が締め付けられ、喉が渇きのあまりに引き攣れそうになる。
「それなのに、こっちはそっちの動機すら解らない。解らないことばかりなのに、それだけは解っているから余計に苛立ちもする」
ミリュウはニトロの圧力に飲まれないよう堪えるのに必死だった。さらに圧倒されるのは、これほどの激しい感情を抱え込みながらもニトロ・ポルカトは冷静を保てるという事実――その上、この期に及んで、腹に敵意と憤怒を抱えながらも敵に対してある程度の敬意を失うことなく示し続けている、その器の大きさだ。
……わたしでは、到底及ばない。
ミリュウは思い知る。
ニトロ・ポルカトに危害を加えてしまったわたしでは、もうどう足掻いても到底及ばない、その精神の高潔さ。
「ミリュウ様」
ふいに敬称を付けられた呼びかけに、ミリュウは静かにうなずいた。熱に打たれた臆病な心が凝結し、うなずきという反応しかできなかったのだ――と、それに気がつき、彼女はきっと唇を結んでニトロを見据えた。
「何かしら」
我ながら下手な促しだと思うが、それでもこれ以上会話の主導権を独占され続けるよりはましだ。
王女の促しを受けたニトロは、彼女が虚勢を張っていることを察しているとはおくびにも出さず、
「教えてくれないかな。俺は、これほどの大事を引き起こすほど、あなたに何か恨まれるようなことをしたか?」
そう問うた直後、ニトロはこれまでに出会ったことのない感情の渦に巻き込まれ、一瞬、呼吸を忘れた。
問いかけられたミリュウは何も答えない。答えられないのか、答えを躊躇っているのか、それとも答えたくないのか。ニトロには、それのどれかを窺うこともできない、いや、窺い知ることは不可能だった。何故なら、ミリュウの瞳に、眉に、頬に、唇に、表情に顔色に姿勢に雰囲気に――およそ感情を表す要素の全てに、あまりにも多くの感情が表れていたからである。失望? 軽蔑? 落胆? 絶望? 敵意? 希望? 諦観? 熱意? 期待? 嘲弄? 悲愴? 恐怖? 疲労? 憤怒? 焦燥? 嫌悪? 憎悪?――親和性があり互いに結びつく感情にしろ、矛盾の関係にあり互いに反発し合う感情にしろ、何もかもが滅茶苦茶に放り込まれて、ミリュウというカンバスに奇怪なマーブル模様が描き出されていたのである。
一人の人間が同時にこれだけの感情を表すことが出来るとは……それを現実に目の当たりにしてなお、ニトロは信じられない思いであった。
――『思っていたより複雑な人なのか』
ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの人物像を改めている際に脳裏をよぎったこと。
(複雑?)
ニトロは内心、己の感覚を嘲笑った。
いいや、ここに表れた人間は――複雑に過ぎる。
脳裏に描いていた第二王位継承者の人物像。
ティディアの掌でうずくまるミリュウ姫は、今や複雑怪奇な色彩で染め上げられ、例えそこに何らかの真実色があるのだとしても、その内のどれを選べば正解なのか皆目見当がつかない。
『劣り姫』は未だ黙している。
(劣り姫?)
ニトロは内心、その呼称を大きく
しかし一方でニトロが自ら気づかぬところでは、彼が理解の及ばぬ『怪物』を前にしてもそれと正面から相対することを平然と受け入れている――という現実があった。それもまるで日常的な事柄として、あまりに当たり前のことのように。
彼のその無自覚な度量は、ミリュウから見れば絶望的に手の届かぬ余裕に他ならない。今にも膝を砕きそうな重い心を抱え込み、気持ちの悪さに腹を嬲られ続けながら、なけなしのプライドを杖にして、ニトロ・ポルカトへの暗い感情を導灯と掲げて、そうしてようやくこの夜道を歩くことのできている『わたし』とは本当に雲泥の差だ。
(雲泥の差……)
空に輝く太陽と共にあれる、雲と。
太陽と雲を見上げて干からびていく、泥。
(……そうね)
また、ミリュウの胸を、呪われた赤子の吐き出す汚泥の臭気が腐らせる。腐った胸の中で心臓が、濁っていく心に相応しい行為を求める。
ミリュウは、微笑を増した。
その微笑が混沌とした感情の中から一つをすくい上げる。
それを見たニトロは、彼女が纏い続けている『嫌』な気配が強まるのを感じた。
真正面から見つめあい、ぶつかり合う黒い彼の瞳と、黒紫色の彼女の瞳。
やおらミリュウが弱々しく唇を震わせた。
そして彼女は、微かに瞳をそむけた。
それはほんの小さな変化だった。
視線の交錯する地点から数ミリのずれ。
ミリュウからはあの複雑怪奇な感情の渦が消えており……その顔は緊張に強張り、微笑みを作る唇はわずかに色褪せ……やがて彼女は、全身からどこか恥を忍ぼうという乙女のいじらしさを漂わせて頬を極薄い紅色に――もはや隠し切れないとばかりに恋の色彩に染め出した。
無論、ニトロは彼女の変化を見逃さない。
無論、ミリュウも相手に変化を悟られたことを感じ取る。
すると少女は、ふっと微笑みを歪めた。寂しそうに。
「恨まれるようなこと?」
搾り出すような声は、間を大きく開けた問い返しだった。
「……そうさ」
ニトロは、ミリュウに応じて繰り返した。
「恨まれるようなことを、したかな?」
「したといえば、したわ。恨まれるようなことといえば、そう、恨まれること」
言ってミリュウは立ち上がり、一歩横に動いた。
彼女のスカートの裾がふわりと跳ねる。
彼女の眼差しには熱があった。
それはニトロの良く知る熱情であり、それゆえ彼の眉間には力が込められる。
「だって、わたしこそいつも疎外されていたんだもの」
ミリュウは胸に左手を当て、ニトロへ一歩近づいた。
「お姉様は、これまでわたしをポルカト様に会わせてくださらなかったわ。何か深いお考えがあってのことだったのでしょうけど……わたしはね? ポルカト様。あなたがお姉様とお付き合いされていると知った時、歓迎したのよ」
「そのようだね」
ニトロは少しずつにじり寄ってくる、少し目を潤ませた少女の顔を真っ直ぐ見つめ返した。そして、
「でも、本当は違った?」
ニトロの受け返しに、ミリュウは首を左右に振った。腰まで伸びる彼女自慢の黒紫色の髪が駄々をこねるように波を打つ。
「いいえ、本当に歓迎したの。だって、あなたはわたしと同じ人だったから」
「そうかな」
「そうよ、ポルカト様。お姉様の恋人なんですもの、どのような方かと調べました。そうしたら、ニトロ・ポルカト様――未来のわたしのお義兄様。貴方はわたしと同じ、普通のお方」
ミリュウの瞳には熱情が増している。潤んだ虹彩は揺らめいて、その言葉はニトロの心に――同じ、普通のお方――やけに重く響く。
「そんな殿方があのお姉様の隣に並んだのです。恐れ多くも貴方様への共感を得たわたしは、震えました。貴方様とお姉様のお幸せそうなお姿は、我がことのように、心から嬉しゅうございましたのよ」
徐々に変化していた彼女の口調がついに変わり切った時、彼女は崩れるように膝を突いた。座すニトロの側に跪き、胸を押さえる手とは逆の手で彼の左膝に触れる。甘い感触。膝から腿へかけて這う指の腹の柔らかさに、男性の感応が自然と誘われる。
「ですが、貴方様のご活躍を拝見し、貴方様のお話をお姉様からお聴きするうちに、わたしは……いつしか苦しくなってきたのです」
ニトロを上目遣いに見つめ、唇を濡らし、ミリュウは片膝を立て彼にすがりつくように顔を近づける。
「この胸が、しだいに、時を経るにつれ、貴方様を思う度に締め付けられ、わたしはどうにかなりそうなほどに苦しくなってきたのです。どうしてでしょう、どうしてでしょうか? ニトロ様。わたしはそれが知りたく、考え、貴方様を思うと苦しいのですから、きっと貴方様に原因があるのだろうと思ったのです。寝ても覚めても貴方様のことを思い、考え、ついにわたしは知りました。
何のことはありません。
簡単なことだったのです」
と、その時、ミリュウは両の手でニトロの左手を取った。
「恨みに思うことを、どうして避けられましょうか」
『烙印』の刻まれたそれを壊れやすい宝物を扱うように優しく、一方で情熱的に強く包み込む彼女が彼を見上げる瞳には――姉弟と同じ黒曜石のその瞳には、眼をたゆませる涙のヴェールでは隠しきれない複雑な感情がある。先には体全体に溢れていたものが、今はただそこに凝縮して先よりもずっと色濃く渦巻いている。
「ニトロ様……そうです、わたしは貴方様をお恨みしております。この想いをわたしに与えた貴方様を、どうして、お恨みせずにいられましょうか。この想いを知りもしない貴方様を恨まずにいられましょうか」
ミリュウの手は、ニトロの手を己の左胸に引き込もうとしていた。
「ようやく……ようやく、こうしてお会いすることができました。
手段は間違っていても――」
と、その時、ニトロは今にも乳房に触れさせられようとしていた手をするりと――ミリュウが何故握り締めていたはずの彼の手に逃れられたのか解らないほど巧みに抜け出させ、そして、そのまま腕を伸ばして彼女のうなじに掌を添えた。
大きな手に頭と首を支えられたミリュウは、ニトロが微笑を浮かべ、そして彼女を引き寄せようという力を感じた。
口づけを?
ミリュウは応じた。ニトロの唇を迎えようと目を細め、彼と瞳を合わせる。と、その時、彼女は彼の瞳の奥底を深く覗き込み――ふいに大きな恐怖を感じて背筋を凍らせた。
ミリュウの背筋を凍らせた恐怖は彼女の首筋を通してニトロの掌にも伝わった。その瞬間、ニトロはその面から微笑を消し去り、彼を見つめたまま動けないミリュウにぐんと顔を近づけた。ミリュウの唇が震えた。
「強姦犯になるのはごめんだ」
ひどく冷めた一言だった。
ミリュウの潤んだ目が揺れる。
「それとも、わたしを抱かせてお姉様を裏切らせることを御所望だったかな?」
ひどく心を虐げる声だった。
ミリュウの心臓が、どぐん、これまでにない勢いで一度弾ける。
彼女は完全に気圧されていた。思考もまとまらず、恋の告白をしていた女に対して手酷いセリフを吐く彼への反論を試みることさえできない。
「――え?」
ようやく声に出せた一音は、果たして声と言えるものだったろうか。彼女の顔が紅潮する。それはまるで、極寒の中で皮膚が必死に熱を保とうとしているかのように。
ニトロは目前にあるミリュウの眼を覗き込みながら、彼女を逃がぬために首の根を押さえていた手を動かし、その手で、そっと彼女の頭を撫でた。彼女の目が、見開かれた。
「一応言っておこうか。自分で服を破いて逃げ出しても無駄だよ。俺に濡れ衣を着せたいなら、少なくとも
それはつまり、この部屋のA.I.の『何を記憶し、何を記憶しないか』という選択への権限は、ニトロが握っているということだ。
「……失望したよ」
ニトロはあからさまに嘆息をついた。
「この期に及んでこんなにつまらない手段を取るだけじゃなく、その程度のことも推測せずに体を投げ出せるほど俺の『敵』は浅はかだったのか?」
嘲笑を含んだ攻撃的な口調は、しかしニトロの思惑とは違う反応をミリュウに招いた。
ミリュウは、極自然と笑ったのだ。
薄く、それはまたしてもニトロの見たことのない種類の微笑で……何より気味の悪い笑顔だった。
「そうね……」
ニトロの体温を髪の上に感じながら、ミリュウは肩を落とした。
ミリュウはこの時、また一つ、体が軽くなったことに気づいていた。そして逆に心は重くなる――ニトロ・ポルカトの不意打ちの衝撃に打たれた後に感じた奇妙な感覚が、再びこの心身に現れていた。不思議な気持ちだった。それはやはりかえって重心が安定したと言えるもので、彼女は次に取るべき行動を、しかもこれまでの自分では考え付きようもなかった形で明瞭に思い描くことができていた。
「そうよね。この期に及んで……そうよ。つまらない手段だわ。情けない。馬鹿馬鹿しい。その通りよ、浅慮だった。認めるわ」
長いため息をつくようにぶつぶつとつぶやき、ミリュウは己の頭に載るニトロの手を再び両手で包み取ると、その『烙印』に――舌を這わせた。
「!?」
ニトロは頬が引きつるのを止められなかった。
ミリュウの舌がひたりと“その花”を愛しそうに舐めたこと、そしてその間にも彼女が正体の解らぬ微笑を頬に張り付かせている姿を目に、彼はさすがに怖気を禁じえず背筋を凍らせた。
――が、しかし、彼は、怖気に怯みそれから逃れようとまではしなかった。
何しろその怖気も、彼が腹の底に留めている熱を吹き飛ばすには到底及ばない。彼は動揺を一瞬にして鎮め、『敵』の奇行に際してそれ以上の当惑すら浮かべず、静かに、ミリュウの熱い手の中から左手を引き戻した。
ミリュウはニトロの手を引き止めようとはせず、ニトロの前に跪いたまま、引き戻されていく手を追って彼を見上げた。上目遣いと言えば聞こえは悪くないが、その双眸は三白眼であり、顔には暗い喜びがあった。折角閃いたこれまでにない名案でもニトロ・ポルカトを慌てさせられたのは、たった一瞬だけ……その失望を得ながらも、しかし例え一瞬に過ぎなくともこのニトロ・ポルカトを、実際に、この手で、わたし独りの力で揺さぶれた。その事実がミリュウをとても悦ばせていたのだ。また、一方でミリュウは、今回の件において『立案』から『実行』に至り、そしてほんの少し前までずっと抱えていた複数の『希望』が一つ一つ、あっという間に、ニトロ・ポルカトの手によって愉快なほど軽々と剥ぎ取られていったことに一種の爽快感を覚えていたのである。
彼女は堪え切れないようにクッと喉を鳴らした。
「それにしても、おかしいな。体を投げ出せるほど?」
目を細め――しかし、笑っていない――彼女は囁いた。
「体を投げ出せるほどだなんて、ふふ、お前も浅はかね」
これまでになく強い敵意を吐き出して彼女は立ち上がり、ニトロの対面に戻ると椅子にどかりと腰を下ろした。再びテーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せる。その余裕に満ちた様子には、どこか彼女の姉を思わせる景色があった。
彼女は一つ呼吸を挟み、ニトロを
「わたしは全てを投げ出しているのよ」
ニトロは気を引き締めた。
ミリュウの気質が、一事を挟んでまた変わった。
「全て……ね。だから、体くらいどうでもいい?」
わたしの与えた動揺などもう微塵も残さぬニトロの問いに、ミリュウは再び気味悪く微笑んだ。
「馬鹿ね。体など、いくらでも薪としてくべてやるわ」
嘲りの言葉にもニトロは揺らがず、言葉を訂正した。
「そうかい。命くらい、どうでもいいのか」
ミリュウは小さく首を傾げた。微笑み、そうする様子は一見可愛らしくも映るが――ニトロには、蝋人形がそう動いたような不気味さが感じられた。
と、
「それにしても腹立たしくてたまらない」
ミリュウが背もたれにぐっと体重をかけ、伸びをするように腕を差し上げ大きな吐息を吐いた。
「芝居はお姉様に叩き込まれていたのに……随分簡単に弾かれちゃった。いくら“つまらない手”でも、少しくらい“ひょっとしたら?”って思わせられる程度には自信があったのにな。
ねえ? わたしの演技は、そんな簡単に“可能性”を捨て去れるくらい下手だった?」
妙に明るく、妙に親しげにミリュウは問う。
「いやいや、演技は上々だったさ」
ティディアに叩き込まれていたというミリュウの言葉に内心――自分も、ある意味で同じだと――苦笑しながら、ニトロは肩をすくめた。
「もし色仕掛けに『抗体』ができてなければ、危なかったかもしれないよ」
その物言いにミリュウの眉がかすかにひそめられる。彼女はニトロとティディアの営みを想像したのだろう。が、それを思うニトロの内心の苦笑も深まるばかりだ。彼は一つ息を吐き、外と内の思いの齟齬を整え、そうして『敵』と正面から目を合わせて言った。
「といっても『抗体』が働いたから解ったわけじゃない。理由は単純だ」
一拍の間を取る。
ニトロにはもう四の五の遠回りをする気はなかった。相手に搦め手を選択する余裕がまだあったのなら、それもここで潰してしまおう。
「あなたは俺のことが嫌いなんだろう? いっそ殺してしまいたいくらいに」
ミリュウは微笑んだ。初めて、本当に満足気に、とても『嫌』な目つきで。
「いいえ、嫌いなんかじゃない」
彼女は言う。その唇を嫌悪で濡らして。
「それどころか、大嫌いよ。とても憎んでいる。いっそ殺してしまいたいんじゃない。どうしても消し去りたいくらいに」
小細工抜きの言葉を投げつけられたニトロは、投げつけられた感情に対するには不自然な反応を胸に覚えていた。
ミリュウの顔には嫌悪がある。それは彼女の言葉と符合する。
そしてミリュウの瞳には、その『嫌』な気配の中には、今、ニトロは失望と侮蔑が色濃く存在していることを見止めていた。
だが、ニトロは、彼女から失望と侮蔑を与えられているのに、一方でどうにも彼女に心底失望され、侮蔑されている気がしなかった。明確な言葉を投げつけられたというのに、その言葉を聞く耳にはどこか空虚な響きすら伴う。これは……一体何なのだろうか。ここに至るまで第二王位継承者から伝わってきた情感は、敵意の他にはどうにもまとまりがないようにも思える。様々な感情それぞれが無闇に自己主張し、それぞれが彼女自身の内側で激しく矛盾したまま、いや、矛盾しているからこそ成立しているかのようで、すぐにでも捕まえられそうなのに、どこにも掴み所がない。
(――ちょっと、参ったな)
ニトロはこちらの反応を待つミリュウを見つめたまま、考えた。
ミリュウの――おそらくは確かな本音を引き出すまでは成功したが、本音を引き出したところで彼女の目的の正体が見えたわけではない。推測してきた“可能性”のいくつかを潰せたのは良いが、まだ真の目的には辿り着けたと言うには程遠いだろう。
難題は、本音を引き出せたこの後だろうが……さて、こうして小細工抜きの言葉を吐くようになったミリュウは、こちらの希望通りに目的までも吐き出してくれるだろうか。
(――うだうだ考えても仕方がない)
相手は小細工抜きの言葉をやっと正面からぶつけてきてくれたのだ。ならば、
「正直、解らない。一体何故、俺はあなたに『どうしても消し去りたい』なんて思われなきゃいけないんだろう」
「解らない? 本当に?」
率直な問いに、ミリュウは顎を軽く上向けて問い返す。嘲りを含めた眼差しだった。
「解りようもない」
ニトロは嘲りを意に介さず、素直に肯定する。それがミリュウを刺激した。彼女は歯を剥き出し、
「誰が教えるものですか、お前なんかに。いいえ、当ててみなさい、ニトロ・ポルカト。お姉様の見初めた恋人様。次期王ともなられる御方ならば、それくらいできて当然でしょう?」
「そもそも、そこから間違ってるんだけどね」
やはりミリュウの嘲りをまともに受け止めず、嘆息をつきながらニトロは言った。それは彼にとってほぼ反射的な反応であり、特に重要な事柄を口にしたわけではない。――が、
「?」
ふと、ミリュウに怪訝の色が差した。様々な感情が掴み所なく渦巻く中で、一点、小さな色ではあったが、確かに。
「――?」
ニトロもそこに怪訝を寄せた。
何だろうか……異様に大きな齟齬を感じる。重大な亀裂が目の前に現れた気がしてならない。
「…………」
初めて二人に共通した怪訝という感情を橋渡しに、ニトロはミリュウを見つめたまま考え――
「あ」
と、声を上げた。
ミリュウが眉根をひそめ、相手の気づきへの関心が表れる。
ニトロはそこへ突きつけた。
「そうか。あなたは誤解しているんだ」
何故、そのことに気を回さなかったのだろう。考えてみればさも馬鹿馬鹿しい話ではないか。
ニトロは解決の糸口を見つけられたと思い込み、思わず声を
「俺は、ティディアの『恋人』なんかじゃないんだ」
「――え?」
ミリュウの口から疑念が、さも馬鹿馬鹿しい話を聞いたと言わんばかりに漏れ出す。
当然だろう。何しろマードールでさえ信じ込んでいたのだ。その上、ミリュウは『伝説のティディア・マニア』であり、ティディアを盲信する――ティディアこと女神の言うことが絶対の、どこまでも女神の価値観に追従する『信徒』だ。女神が一度でも否を唱えた問題は以降いつまでも、否。もちろん彼女は一瞬たりとて疑いもしなかったことだろう。
「だから、俺は、ティディアの恋人じゃないんだよ。ミリュウ様。それはあいつが言っているだけのことで、むしろ俺は迷惑しているんだ」
ミリュウ姫がティディアの言うことを信じないはずがない、という大前提の思い込み。それがこの『大問題』をどこかへ疎外してしまっていた。
「……今更、ここで照れ隠しをするか」
ミリュウがそう反応することを、ニトロは既にずっと前から知っていた。そう、明らかに腹を立てて彼女がそのように問いかけてくることも解り切っていたように、全てはこの『解り切ったこと』の相違から来る齟齬が両者に致命的な誤解を生んでいたのだ。
ニトロは頭を振った。
「違う。照れ隠しなんかじゃない。本当のことだ」
ニトロの声に偽りはない。態度にも。ミリュウの眉間の陰がますます深まる。
「だから、嫉妬だろうが女神を『奪われる』恐れだろうが、そんなものは気にしなくていい。いや、むしろ俺はミリュウ様の味方になれる。『ニトロ・ポルカト』っていう恋人の存在が気に食わないんならそれを公言してくれればいい。俺が協力する。ティディアの恋人なんかじゃないって、どこででもいくらでも言ってやる。俺はあいつが嫌いなんだ」
ミリュウが、いくらか呆けた。眉間の陰が
だから、ニトロは、油断した。生涯最高に浮かれていたと言ってもいい。ティディアの身内に、ティディアの求愛とやらから逃れるための協力者を作れるかもしれない――それもあの『伝説のティディア・マニア』を!――という『希望』に浮き立ち、至極面倒だと思っていた事態が一転、思いがけず非常に大きな『希望』と変わったことへの感謝と興奮に取り憑かれて彼は平時の己を忘れるほど舞い上がっていた。
「本気で言っているの?」
ミリュウの疑問に、ニトロは力強くうなずいた。
「本気だよ。真偽の判定がしたいならそれへの協力も惜しまない。裁判所で宣誓したっていい。何だったら、何て言ったっけ……特級重犯罪者にだけ適応されてる……」
度忘れしたとばかりに宙を仰ぐニトロを――彼が何を思って、何を言っているのか自分自身で理解しているのかという激しい疑念に頭をかき乱される――呆然と見つめながら、ミリュウは答えを差し出す。
「
「そう、それだって受けたっていい!」
ニトロは提示された名称に大きくうなずき、嬉々として言った。
――これは、普段の彼なら、気遣いをこそ講じるべき問題だっただろう。
明らかに失態だった。
彼は気づいていなかったのだ。ミリュウの眉間に再び刻まれた陰があることを。それは怪訝ではなく、怒りによってのものであることを。
だが、無理もない。
『ティディアにコルサリラ・ペッパーよりもずっときっつい辛苦を舐めさせられてきたニトロ』にとってミリュウ・フォンアデムメデス・ロディアーナという味方の出現はそれだけ嬉しい最大の希望であったのだ。
そしてまた、無理もない。
ニトロが、ミリュウにとってニトロ・ポルカトの真実の告白はそれだけ厳しい極大の失望に他ならないことを、推察すらできなかったことは。
「どんな自白剤だって飲んでやるさ。『本当』を証明するためなら拷問されたって正直構わない」
ニトロは常に嘘偽りなく言葉を紡ぎ続けていた。
そう、ニトロの言葉に嘘偽りはない。根が素直で正直な彼そのものの、正直で素直な言葉でしかない。
ミリュウは……ティディアを信奉する『伝説のティディア・マニア』は、もはやそれを完全に理解していた。彼女は彼と同じだから、彼のあまりに信じられない言葉を――それがどれほど荒唐無稽で不信きわまる情報だとしても――それも女神たるお姉様のお言葉を“偽”とする不遜不敬極まる情報であるはずなのに――それを彼女が『真実なる真』であると理解するのに時間はさほどかからなかった。そう、ミリュウは、ニトロによって、およそ18年にわたって一瞬たりとて揺らぐことの無かった女神様への信心を、絶対にして盲目的な確信をさほどの時間をかけずに崩されてしまったのだ。そして、理解してしまってからは、彼女にそれを疑う余地は……それは女神の言葉を『真実は偽』と判定する結果であるのに……無論、皆無であった。
(ああ、ああ……)
ミリュウの目が、暗んだ。
「俺とミリュウ様が『喧嘩』する理由は一つもないんだ」
ニトロの双眸は希望に煌いている。
まるで、わたしがお姉様からお褒めの言葉を賜った時のように。
ミリュウは知った。
知って、悟った。
なんということだ。なんということだ!
それでは、わたしは――?
「だからミリュウ様、もうこんな茶番はやめよう。そして俺と手を組もう!」
「ふざけるな!!」
ミリュウの怒号が、なおも何かを言おうとするニトロの気勢を叩き潰した。彼女がテーブルに振り下ろした拳が鈍く激しい音を立てる。彼女は勢い立ち上がり、その背後で椅子が音を立てて転倒する。
「ふざけるな……!」
もう一度、ミリュウは叫んだ。それは一度目に比べて弱々しい。しかし、それは怒りの治まったためのものではなく、涙に揺れているからであった。
そこで、ニトロはようやく自身の失態に気がついた。
「なんてこと……なんてこと……」
全身を戦慄かせ、大粒の涙をこぼすミリュウの姿に、ニトロは心をひどくしかめていた。
そうだ、しまった。
彼女は姉を崇拝し、狂愛している。この反応は何もおかしなことではない。当たり前のことだ。愛している人間を『嫌い』と言われることを許容できる人間などそういるはずもない。そしてそれに対し怒ることは、当たり前とも言えないほど当然なことだ。
しかし、ニトロの解することのできる『失態』はそこまでだった。本当の意味での『失態』は彼の知る由もないところにあり、彼にとってもミリュウにとっても、この期に及んでそれはどうあっても不可避の事態であった。
「お姉様……なんておかわいそうに……」
その、ミリュウのセリフに、ニトロは愕然とした。
事ここにきて、姉を労わる? いや、それも当然のことと言えばそうだろう。だが、ミリュウの怒りは彼女の中から――彼女の傷つけられた心から発せられているものだとニトロは直感し、確信していた。なのに『妹』から発せられたのは、彼女のエゴが爆発されるべきこの期に及んで大好きなお姉様への思い遣りであった。最高度の筋金入りの『ティディア・マニア』らしいと言えばそれまでなのかもしれない。それまでなのかもしれないが、だからと言って――
「ニトロ・ポルカト」
目のすわったミリュウの睨みに、ニトロは初めて真正面から圧された。
「今の言葉、全て偽りないか」
王女の口調で、彼女はあえての確認を取ってくる。ニトロは気を立て直し、
「全て本当だ」
ミリュウは全身を強張らせ、叫んだ。
「どうしてお前はお姉様の御心をそんなにも軽く扱える!」
その叫びにニトロが気圧されることはなかった。むしろミリュウの言葉にはティディアの感情をこそ優先しろという響きすらあり、それは彼を恫喝せしめるどころか逆に彼の『ティディアへの怒り』を誘発するものであった。
「軽く扱えるも何も――言っただろう?」
ニトロは怒気を込め、ミリュウをきつく睨み返した。
「迷惑しているんだ、俺は、ずっと」
重く響く声で繰り返され、ミリュウは頬を紅潮させ、肩を震わせた。腿の肉を抉らんばかりに両の手でスカートを握り締め、
「一度ならず――ッ!」
今にも卒倒しそうな勢いで彼女は絶叫する。
「お姉様の愛を、迷惑だと!?」
「ああ、迷惑だよ。ずっとティディアに振り回されて、俺はとんでもない苦労をさせられてきたんだ。これまでずっとずっと、そして今も。激しく面倒をかけられている」
「振り回されて、苦労……面倒?――ふざけるな!」
「ふざけてなんかいない。真実だ。何だったらじっくり話してやろうか、これまで俺があいつにどれだけ嫌がらせを受けてきたかを」
「お姉様の愛情を嫌がらせだなんて……お前はどれだけ心が腐っている!? お姉様がどれだけお前のことを愛しているか知らないのか!!」
「知っているさ」
ニトロは哂った。暗く――それはミリュウが初めてニトロの中に見る暗い感情として、とても暗く。そして、彼は言ったのだ。
「どれだけ夫婦漫才の相方――っていう道具として愛されているのかって話ならね」
それを聞いたミリュウは、突然気の抜けたように、呆けた。
「え?」
ミリュウのため息に近い声に、ニトロははっきりとため息をつき、
「道具だよ、俺は。あいつにとって『夫婦漫才』っていう夢を叶えるための道具に過ぎない。他にもっと良い相方がいればいくらでも取替えの利く、都合の良い道具だ」
「……」
ふらりと、ミリュウが揺れた。足の力が抜けたのか腰から崩れ落ちそうになり、反射的にテーブルに手を突いて体を支える。
ニトロはミリュウの様子に困惑した。
ミリュウは辛うじて支えた体を立て直すように身じろぎし、数秒間焦点の合わぬ瞳でニトロを見つめた。睨んでいるように、観察しているように、それとも、初めて外宇宙の知的生命体を目撃した人間ように。
「――ふ」
やおら、彼女の唇を気の抜けた空気が割った。
「ふふふふふ。
うふはははは」
やがて、彼女は高らかに笑った。
「あははははは!」
しかし彼女の笑いは声だけが高く、どこまでも中身の無い乾いた音であった。
「あははは! あっははははは!!」
ミリュウは笑う。
「ははあははははははははははははははははははは!!」
笑い続ける。
ニトロが困惑を隠せない中、満足いくまでからからと笑い、笑い、笑い――
ひとしきり笑い終えたミリュウは、倒れた椅子を直して座り、深く吐息をついた。
「大馬鹿者」
そして突きつけられた言葉に、ニトロは困惑を深めることしかできなかった。
「お姉様は、お前を愛しているわ」
「まだ言うか」
「お前こそ」
ニトロを見つめ、ミリュウは言った。
「お前がどう思い、どう言おうが、お姉様はニトロ・ポルカトを愛している」
「それは、お姉様を大好きなあなたがそう思うだけだろう」
「そう思うのならば、そう思い込んでおけばいい」
吐き捨てるようなセリフは、それだけに説得力を持っていた。ニトロの吐息が一瞬、詰まる。ミリュウは言った。
「わたしは知っているのよ、お前よりもずっと」
静かに、しかし声音に反して語気も激しくニトロへ意思を叩きつけ、さらにミリュウは続けた。
「わたしだけが本当のお姉様を知っている」
その言葉には異様な迫力があった。
「わたしだけは本当のお姉様を知っている。お姉様は……そうね、お前の言う通り、お前のことを当初は道具として愛していたでしょう」
ニトロがこれまでに聞いたミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの『演説』のどれよりも――襲撃の夜に聞いた開幕の口上は元より、あの西大陸で議会を掌握した王女の声よりも――そこには遥かに、重い力があった。ニトロの心を、ニトロの足を、深い海の底から伸びてきた無数の腕が引きずっていくような甚だしい力があった。
「だけど、違う」
ミリュウは首を振る。髪が乱れて
「今はもう違う」
ニトロはミリュウから目を離せないでいた。
「お姉様はお前を心から愛している。
お前だけは、心から愛している。
お前だけは。
お前だけを!
それなのに――ッ」
ぎじりと、歯の削れる音が聞こえた。
「お前は! お姉様の純愛をどうしてそんなにも簡単に冒涜できる!」
ミリュウの双眸からは再び涙が流れ出していた。
「それなのに……何でお姉様は? お前を愛し、弱くなられた? お姉様の愛を受けながらお姉様の愛を汚すお前なんかを!」
ニトロは圧倒されていた。信じ難い驚異を目の当たりにしたかのように息を止め、ようやく声を作り出す。
「――弱く?」
「そうだ、弱くした! お前はそれにすら気づいていないのか?」
ミリュウの眉目は吊り上がり、怒りのあまりに見開かれたその双眸は充血している。今にも滂沱の涙に血が混じりそうなほどに、赤く染まっている。
「無敵の王女、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ! お姉様は、お前のせいで弱くなられた。お前という弱みを持って、弱くなられたんだ。お姉様には敵がいる。たくさんの敵だ。今までは無敵だったから誰も攻められない。けれど、お前のせいで、お姉様はたった一つでも隙を生んでしまった。お前を守るため――そのために、お姉様はこれまで必要のなかったご心痛とご芳情を必要とする。知っているか? お前はマードール殿下に会っただろう。お姉様は殿下とお前を会わせたくなかった。ハラキリ・ジジを利用されること以上に、殿下にハラキリ・ジジを利用されればお前がどんな思いをすることになるか……それを知っていたから会わせたくなかったんだ!」
衝撃的な指摘だった。そしてニトロは、反論することができなかった。
確かに、ティディアがマードール殿下の件に関し、ハラキリを使いたくないと心を割いていたことは聞いている。それについてはハラキリへの配慮、またハラキリを介して相手の利になることを良しとしなかっただけと考えていたが、言われてみればミリュウの主張にも無理筋はない。……そう思える。そう思えるからこそ『まさか?』という思いが脳裏をよぎる。普段ならばそれでも「そんなことはないさ」と軽く笑うか、それとも「良いところを見せたいあいつのポーズだ」と軽んじることもできただろう。が、ミリュウの言葉の重みを前に、それができない。できないからこそ、また『まさか』と心に衝撃が縛り付ける。
「本当なら、お前なんか、いくらでも外交の道具だ」
ミリュウは笑った。赤い目で、不気味に笑った。
「マードール殿下にも喜び会わせて、我が国の将来のために先方との親密さを増す道具にすべきものだ。そうれば我が国は主導権を常に握り続けられるのだから」
確かに『ティディア姫』なら容易にそれを選択することだろう。
「だけど、それをあのお姉様がしたがらなかった。それがどんな意味を持つか、お前なら解るだろう?」
ミリュウは、そこで大きなため息をついた。
彼女はようやく涙を止めながら、唇を噛んでニトロを睨みつける。
ミリュウの言葉は、何故にこんなにも自分の心に突き立ってくるのだろうか。
ティディアが俺を愛している?――誰に何と言われようが笑って軽く否定できていたことが、何故、ミリュウを前にしてはこんなにも重々しく喉を塞ぐのだ?
小さな間が空いた。
そのわずかな沈黙は重力よりも強く、ニトロの心身を圧迫する。
「お姉様は、お前を愛している」
ミリュウは立ち上がった。彼女の視線を追うと、その先には一枚の絵画があった。質素な額の中ではリンゴが瑞々しい輝きを放っている。
「お前は知らないだろう。あの絵に傷がついた時、お姉様がどんなお顔で修復に心血を注がれていたか」
次いで視線がベッド脇の小卓に向けられる。
「お前は知らないだろう。物にご執着されないお姉様が、お前との思い出の品をどんなに大切になさっているか。お前は知らないんだ。思い出を語られるお姉様がどれほど幸福に満ち、そのお顔が……どんなに、お美しいことかを」
ティディアの部屋は、妹の言う通り、置かれている調度品の質とバランスからあまり意識はできないが、確かにどこか殺風景なものだ。この部屋の主の物への執着心の希薄さが表れている。その中にあってニトロがティディアの見舞いのために持ってきたリンゴを写し取った絵は、特別異彩を放つ『異物』に違いなかろう。この部屋の主人が枕元に思い出の品を置くなどとはそれこそ想像できない。
「それなのに……」
しゃくりあげるように息を止め、ミリュウは拳を真っ赤になるほど握り込み、
「それなのにお前は、知らない、知らない、知らない! それどころか侮辱する! お姉様がどれだけお前との何でもない日々を大切にしていることか! お前との日常の繰り返しをどれだけ愛していることか! お前との間に犯した失敗を――お前も覚えているだろう? シゼモの失敗を悔いていたお姉様のお顔がどんなに、ああ、どんなにお辛そうだったか、叶うならばお前に叩きつけてやりたい。思い出すだけでも胸が痛む。代われるものなら代わって差し上げたい。お姉様にあんなお顔をさせられるのはお前だけだというのに、それでも、お前は……!」
ミリュウは大きく震えながら息を吸った。そして、首を大きく左右に振る。それは諦めのようでもあり、嘆きのようでもあり、確信のようでもあった。
「お姉様はニトロ・ポルカトを愛している」
小さな声で――しかしニトロにとっては破壊的に大きな声で、彼女は言う。
「心から、愛しておられるんだ」
ニトロの心臓が、重く鳴る。
やおらミリュウはニトロを見据え、言った。
「わたしは……お前を絶対に認めない」
その宣言は、ニトロに冷静さを取り戻させた。
初めて明示されたミリュウの『目的』と言えるだけの意志。
ようやく敵の『思惑』を得たニトロは、しかし、ここで諦めも得ていた。
――今。
この期に及んで『それならやっぱりティディアと縁を切るため力になってくれ』などと言えるはずもない。ミリュウの意思をそのまま受け止めれば、本来彼女は自分の味方となれるはずだが、しかし、彼女は絶対に『味方』にはなるまい。
無論、ここには矛盾がある。
ミリュウも気づいていることだろう。
だが、その矛盾を踏まえてなお、彼女は激情に震える覚悟と共に涙に揺れる声で強く宣言したのだ。
そしておそらくは、矛盾を追いやってまで宣言した――その結果のために生じてしまうもう一つの帰結にも、『ティディアの信徒』にとって致命的な“意味合い”を持ってしまう帰結についても彼女はきっと気づいているのだろう。
だが、それを踏まえてなお、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは敵対する道を選んだのだ。
「それじゃあ、どうする気かな」
ニトロは、強いて、ため息を吐いた。
事ここに至り、自分がここに来る前に比して状況は大きく変化した。
ニトロの発見した齟齬は埋まり、しかし齟齬の解消による誤解の顕在化はかえって事態を強固に歪なものとしてしまった。
しかも本質的なことを言えば、明示された目的はニトロ達の予想の範疇に収まるものであり、それを踏まえれば変化した状況の後にもミリュウの目的は“変わらなかった”ように思える。
では、結局、彼女は姉と『ニトロ・ポルカト』のことを認めたくないがためだけで事を起こしたのか?
……それは、考えにくい。考えられない。
何しろ、既に状況は変化しているのだ。それなのに、敵は、変化した状況の中では“無意味極まりない形”でその
なるほど、確かに彼女の目的は明示された。
しかし、それは『原因』の“表層”であるだけだ。
表層は矛盾と非合理性で編み上げられていて、その奥にある真核は見えそうで未だ見えない。しかし“宝の埋まる表層”に辿り着いたのならば、後はこちらの選ぶべき方向は自ずと定まる。
ニトロは問うた。
「俺とティディアが付き合っていないことを知っても、俺を認めない? それで、君は何を成し遂げるつもりなんだ? どうせ、ティディアが帰ってくるまでの期間限定でしか『神官ミリュウ』は生きられないんだろう?」
あえて現状を確実に認識させるように攻撃的なほど挑発を込めたニトロへ、ミリュウは眉間に影を寄せ鼻頭に皺を刻み、目を吊り上げ、一方それとは似合わぬ形に口元を――まさに顔の上下が別の表情を作っている――あの不気味な微笑に歪めた。
「一つだけ教えてやるわ。
わたしは、お前をお姉様から引き離す。
お前はお姉様にとって害悪以外の何でもない。
悪魔よ」
ニトロは、最後にその
「お前の味方になることも、お前に協力することも死んでもお断りよ。だけど、お姉様のためにも、それだけは絶対に成し遂げてみせる「
言葉尻に被せるように発されたニトロのセリフは、ミリュウの急所に鋭利な角度で滑り込んだ。
ミリュウは息を飲む。
息を飲み、そうしてここに至ってもニトロの『得意技』にしてやられたことに気づき屈辱に顔色を変えた。唇の色が薄くなり、頬が青褪め――血の気が引いたことが頭を冷やす一助となったのだろうか、そこで彼女は平静を取り戻したように顔の下地を嫌悪感で塗り固め、その上にあの不気味な微笑みを刻み込み、ニトロへ答える代わりに、白くか細い指でドアを指し示した。
「どうぞ、お気をつけてお帰りなさい。ニトロ・ポルカト」
ニトロは立ち上がった。
思えば――と、思う。
思えば、ティディアが本当に俺をアイシテイルとして。だが、それを受け入れるかどうかは内心に関わる問題だ。それに対して誰がどう思うのも自由だが、どうこう言われる筋合いはない。それが『事情』を知らぬ者ならばなおさらだ。さらには、それを理由に
「何にしても、やっぱりあなたの行為は俺に取っては理不尽だな」
暗に攻撃の継続を認めてきたミリュウへ、ニトロは言った。
「あなたの前でお姉さんを悪く言ったことは謝るよ。けど、それ以外は受け付けられない」
ミリュウはニトロの声に滲む怒りを微笑みで受け止め、返礼とばかりに敵を射殺そうという微笑みの欠片もない瞳を返した。
ニトロは視殺の威を押し潰すように、一歩彼女に近づいた。
可能ならば敵意と殺意をその根源にまで押し返して潰してくれようと敵の瞳を深く覗き込み――そこで、ふと、彼は、先刻のパトネトの眼差しを思い出した。幼い王子が部屋を去る直前に見せた、あの、何かを強く訴える瞳。それに通ずるものを彼と同じ瞳を持つ姉に微かに見出し……そして、ニトロは直感した。
(そうか)
彼女から感じ続けていた『嫌』な気配。不吉な予感。ミリュウの浮かべるこの不気味な微笑みは、そうか、死臭のする微笑みなのだ。そしてこの微笑みを浮かべる彼女の『嫌』な目つきには、これまでずっと、あの『巨人』の瞳の底に見た冷たいものが存在していたのだ。
――それに……
ニトロは気づいた。その冷たさは、恐怖だと。
彼女は怯えている。
彼女は震えている。
彼女の瞳はそれを訴えている。嫌悪感の上に刻まれた死臭のする微笑と共に、恐怖を。
だが、彼女は何に恐怖しているのだろう。真正面から殺意を示した
己の全てを懸け、敵意、殺意、姉への深愛、矛盾、非合理性、嫌悪の上に死臭を刻み、失望と侮蔑の眼差しの底で恐怖を抱き続ける姫君。これまで全く正体の見えないでいた怪物――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
あと少し、あと少し不必要な色を落とし、あと少しのピースを得られれば、その姿を写すパズルの全体がきっと見える。
その見通しはニトロに力を与えた。問題解決への希望がそのままニトロの自信になる。
ニトロは、ミリュウの激しい感情を柔らかく受け止め、
「だから、受けて立つ。どうぞお好きにかかってくるといい。全て、潰してやるから」
ミリュウの死臭のする微笑みが臭いを増していた。ニトロに己の激情を最後になっても苦もなく受け止められ、受け止められるだけでなく容易に返され、その眼に暗い影をさらに落としていた。
「さようなら、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
そして二人は、決裂した。