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 ニトロ・ポルカト――出現。
 その報告を受けた時、ミリュウは本を読んでいた。
 板晶画面ボードスクリーンに表された本のタイトルは、『花園に来る』。
 アデマ・リーケインの著作で、アデムメデスを代表する古典作家の作品であるが故に名著として歴史に名を残しているが、読む人の間では駄作の評価も受けている長編小説。
 十二の時に読破し、姉との読書感想会で「本質的に全体で貫かれるテーマは私感に過ぎないのに、それをスカイニフルの『相対神化論』で表面的にどぎつくコーティングしたために駄作となってしまった。しかし、この作品をそうさせてしまった理由が存在する。この作品の真価は『プロローグ』にこそあり、本編は“クソ長いおまけ”に過ぎないのだ。リーケインは“文豪”という称号に屈して「深い思想と大いに意味のあるもの」という体裁を取り繕ってしまったのだろう。そうして結局、最も書きたい一心を自ら影に追いやってしまった。『プロローグ』を一掌編として見れば、この作品は傑作であるのに」と発表し、姉から「面白い感想ね」と返された――そう、お姉様をわたしが面白がらせた記念の本であり、もう何度読み返したか解らない愛読書。
 ロディアーナ宮殿の『正本の間』には初版本が収められていて、紙製の本の香りと手触りが好きで、さすがに貴重な本を何度も手に取るわけにもいかず、ついには自ら印刷会社に依頼して一冊作らせたほどに愛する本。その一冊も既に手垢で汚れてしまっている。今はいつでも持ち出せる鞄の中にしまってある。きっと彼女は折に触れて生涯読み返し、ぼろぼろになっても捨てることはないだろう。
 それが、ふと、クロノウォレスへの道中、姉の話題に上った。
 報告書を読んでいる時には、すわニトロ・ポルカトへの符丁か何かか――とも思ったが、考える限りそれはなさそうである。そう結論付ければまたこの本を読み返したくなり、無事に大役を果たし、ようやく取れた休息の中、ミリュウは「この一時だけ」と己に言い聞かせてニトロ・ポルカトのことからも離れ、静かに愛読書を読み返していたのだ。
 もちろん全て通読する暇はない。
 だからミリュウは読み進めることはせず、有名な冒頭を繰り返し読んでいた。
 もはや暗誦もできる印象的な場面。
 ――うずたかく積まれた薪が燃えていく。
 ――独りの僧が焚かれゆく。
 ――今、彼が叫ぶ。
 ――「神を愛することが罪でないように、神を憎むことも罪ではない。なぜなら、神は神を憎むものをも愛しておられるからだ!」
 ――彼の声は彼への憎しみの声に塗り潰される。彼と同じ神を信じる者達の憎悪の熱に身を焦がし、それでも彼は説く。
 ――「憎しみから生まれた愛が穢れていると誰が言う! 憎しみは! 愛を生んだ時にきよめられた!」
 ――罵倒の舌が彼を舐め、炎の勢いが増し、彼の足はもはや焼け爛れ、滴る血液は流れ出すそばから炎に巻かれて天を突く。
 ――僧衣を剥ぎ取られ、粗末な胴衣すら与えられず、屈辱にも裸体を晒し、殴り打たれてどす黒く変色した身を赤く染めながら、それでも彼は叫ぶ。愛する神のため、愛する神を貶める信徒への怒りを。
 ――「聞け、人よ! 神の祝福を受けし肉らよ! 愛が浄らかなものだけで出来ていると思うことこそが罪であり、傲慢であり、また人の真実の原罪なのだ!」
(真実の原罪なのだ……)
 敬虔なアデムメデス国教徒であったリーケインが何を思ってこの冒頭を書いたのか。
 この冒頭は主人公が幼き頃に見た火刑の光景であり、驚くべきことに、本編ではこれについての言及が一切されないという謎に満ちた『プロローグ』となっている。そのためアデマ・リーケインの七不思議の一つに数えられ、素人・玄人問わず研究者達はこぞってこの謎に取り組んできた。
 一般的には、この『プロローグ』は本作の要素を抽出した象徴的なエピソードであり、本編はここに込められた思想を『相対神化論』に基づいて詳細に解説する役割を担っている――とされている。単にこれは主人公の感性を前もって読者に報せることを目的としている、というのも有力だ。また、本編とはいっそ切り離し、リーケインが目撃したと記録の残る錯乱した僧を文筆において処刑しているという説もあれば、あるいは焼かれながらも神を愛する男の盲目さを自虐的に批判しているという説もある。これ以降続く、火刑の事細かな描写は読者を処刑場に臨ませる力があり、やがて肺を焼かれて息を止め、次第に焼け焦げていく人体を見る主人公の恐怖と悦楽と焦燥と感激は胸に迫る……これを以って処刑される人間への背徳的な情動を描いた物という見方もある。本編との直接的な関係性の無さから、リーケインが読者に与えた『悪ふざけ』に過ぎない、という説まであり、本文の解釈にまで手を広げれば十人十色の答えが出てくる掴み所のなさがまた謎を呼び続けている。
 さて、ここにこそ真価がある、そう考えたミリュウは――これは、リーケインの素直な想いであるのだろうと思っていた。僧の言葉をつなげるだけでは確かに論は飛躍しているが、逆につなげなければ、一つ一つの説法として読むことは可能だ。それとも、断片的なリーケインの神への想い……とも。
 その上で彼女は、
(愛は、それでも、浄らかなものだけでできているのだと思う)
 着陸に向けて機体が下降していく感覚に身を包み、炎に包まれ死んでいく僧を美しく思う主人公の胸中を指でなぞりながらリーケインに反駁し、一方で心の奥をざわめかせ――まさに、その時だった。
「ミリュウ様!」
 パイロットの緊迫した声がミリュウを現実に引き戻した。
 急を報せる通信に驚く執事とは対照的に、至極落ち着いて彼女は応える。
「何か」
「滑走路に――ッ」
 王軍に所属するパイロットは、特別に訓練された者らしからぬ動揺を表し、言葉を途切れさせている。
「落ち着きなさい」
 と、ミリュウが嗜めた時、パイロットが報告の続きを声にする代わりに宙映画面エア・モニターを王女の前に現した。
 瞬間――
 ミリュウの歯がガチリと鳴った。
 隣からはセイラの悲鳴にも似た声が上がった。
 機が降りようと向かう滑走路に、人がいた。
 黒い衣に身を包み、半身を引き、まるで「いつでもかかってこい」と挑発しているような態度で、まっすぐこちらへ顔を向ける男が。
 王軍のパイロットすらひどく慌てさせられ、驚愕のために執事に息をすることさえ忘れさせられる存在が。
 ニトロ・ポルカトが!
「このまま降りなさい」
 パイロットが一度上昇することを告げるより先に、ミリュウは命じた。
「ミリュウ様!?」
 セイラが半ば声を裏返らせ、抗議する。
 しかしミリュウはそれを無視し、
「轢いても構いません」
「ミリュウ様!」
「セイラ、わたしに逆らうの?」
 再度の抗議に対し、ミリュウは強烈な視線をセイラにぶつけた。今にも席を立ちこちらへ向かってきそうであった女執事は怯み、それでも何か言おうとして――適切な言葉を見つけられないことがもどかしそうに口を結ぶ。
「――大丈夫」
 そこでミリュウは、セイラに微笑みかけた。
 その言葉と、その表情が不思議で、執事は主人を呆然と見つめる。
「あのニトロ・ポルカトが、無策にもそこにいると思う?」
「……ですが、それなら攻撃を受ける恐れも……」
「その時はその時ね。どういう攻撃をしてくるか楽しみ」
 肩をすくめてミリュウは言う。とても気軽な様子でありながら、異様な自信がその表情にはある。
 セイラは、席に座り直した。彼女が視線を戻した先には宙映画面エア・モニターに映るニトロ・ポルカトの双眸があり、こちらも自信に満ちて挑戦的に光っている。
 ミリュウはくっと唇を結んだ執事から同じくニトロ・ポルカトの双眸へと目を戻し、
「これは命令よ。降りなさい」
 はっきりと下された命令に、『ティディアの恋人』への対応を迷っていたパイロットは即座に了解を返した。

 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナを乗せた王家専用超音速旅客機が、わずかにも上昇する素振りすら見せず、躊躇うことなく、ニトロ・ポルカトの立つ滑走路へ降下していく。
<危ない! 危ない!>
 ATVアデムメデステレビの女性アナウンサー、フェムリー・ポルカトの大声が、画面を観つめる二人の鼓膜を震わせる。画面は斜に二分割され、それぞれに王家専用機と黒づくめのニトロ・ポルカトが大映しとなっている。
<ああ! 危ない! ああ!>
 今年大ブレイクした新人は完全にパニックに陥っていた。無理もない。彼女は、つい直前まで自分と同じファミリーネームを持つ彼と会話をしていたのだ。滑走路に立つ『ティディアの恋人』からかかってきた電話を受け、「参戦表明」の証人となれたことに舞い上がり――その直後にこの事態であるのだから。
<なんで上がらないの!? ニトロ様! ニトロ様ぁ! 危ない!>
 意味の通じる言葉はそこまでだった。分割されていた画面がとうとうその必要をなくして一つに合わさる。その後は、経験の浅いタレント・アナウンサーは悲鳴ばかりを上げ、もしくは何を言っているのか判らない金切り声を上げるだけだ。
 絶叫の中、着陸に向けて機首を仰がせる王家専用機のタイヤが、微動だにせず立つ少年へ牙を突き立てんとばかりに進んでいく。残り500m、300m、150m――タイヤはニトロ・ポルカトに直撃するように見える――100m、75m、30m――そして、女性アナウンサーがそれまで上げていた激声を飲み込む音がし、王家専用機は、着陸した。
 画面ではニトロ・ポルカトにタイヤが直撃したように見えた。人間が、例えその身に纏う服がどのようなものであろうと、たった身一つで降下してくる飛行機のタイヤを受け止めることなどできようものか。少年は凄まじい勢いで車輪に轢き潰されたようだった。
<……あー! あーーー!!>
 最後にそれだけ叫んで、ぷつりとフェムリー・ポルカトの声が途切れた。スタッフの声が入り込んでくる。どうやら彼女は失神してしまったらしい。そこでハラキリが宙映画面エア・モニターの数を増やし複数の局を映すと、そのどこででも悲鳴や動揺が流れていた。事態がつかめず何やらスタッフと言い争っている者、戸惑いながらも冷静に“演出”を疑う者、あるいはその結果としての事故を恐れる者、また、顔色を失いカメラの前で棒立ちとなった者もいる。
 それらを感動の面持ちで眺め、
「素晴らしい」
 マードールは、感嘆の吐息を漏らした。
「というか、ちょっとえぐかったかもしれませんね」
 そう言いながらも飄々として、ハラキリはモニターの一つに空港のロビーを映した。それは牡丹の操作するアンドロイドから送られている映像だった。人込みの傍にある人工眼球カメラには、皆々立ち止まり、愕然として大型ビジョンに目を釘付けている客らの姿がある。音声はないが、画を見るだけでロビーのざわめきが伝わってくる。
「あれくらいインパクトがあった方が『手品』の魅力も上がるというものさ」
 言うマードールの瞳は爛々と輝いていた。彼女はあれが『手品』と知っていても、どのようなことが起こるかまでは聞いていなかったのだ。まるきり楽しみにしていた舞台を見え終えた観客然とした彼女は鼻息も荒く興奮を隠さない。紅潮した顔色に自慢の彩りまでが含まれているのは、この演出に己の従者が関わっているためだろう。
「見よ。『巨人』も『教団』も『ミリュウの変化』も、どれをも上回るではないか」
「まあ、そりゃそうでしょうね」
 ATVでは、失神したアナウンサーに代わってスタジオの司会者が状況を語り始めていた。滑走路に血痕はない。王家専用機は何事もなかったかのように着陸を済ませた。滑走路には死体どころか人影すらない。エプロンに向かっている機体に異常があるようには見受けられず、タイヤも正常に動き、やはり血痕はない。
 ニトロ・ポルカトの肉体が、血の一滴も残さず、どこかに消えている。
 信じられない様子でアナウンサーはたどたどしく一つのカメラが見る光景を把握しようとしていて、それはどの放送局も同じ事で、多数のチャンネルが作り出すざわめきはそのまま空港のロビーの音声を吹き替えているようだ。
「おい」
 と、ふいに呼ばれてハラキリがマードールを見ると、ニトロ・ポルカトのサポーターが解説を求めていた。彼は小さく肩をすくめ、
「仕掛けは単純ですよ」
 飛行機に轢かれたニトロの姿は、芍薬が制御する光学迷彩装置とピピンの念動力サイコキネシスを併用・応用して作り上げた虚像だった。実像は、あそこから3m離れた場所にある。そう、たった3m離れた場所に。
 轢かれて見せた直後に瞬間移動テレポーテーションで移動しているから、今から王立放送局のように超高感度サーモグラフィやレーザー距離計を用いて対象物を探したところでもう彼らが見つかることはない。また、例え初めからそれらの探知をしていたとしても、虚像と実像が3m離れていたことを判別することはできなかっただろう。何故なら、それも考慮して、芍薬とピピンは各種情報を“誤魔化し”ていたのである。3mは、それ以上の距離では見破られるリスクが跳ね上がる限界の距離だった。しかしその距離内であれば科学力と超能力が実力を十二分に発揮し――科学技術と超能力者の双方がなければ、ニトロが考えた『手品』を容易に見破ることはできない。時間をかけて各種データを精査すれば見分けもつくだろうが、少なくともリアルタイムでは不可能であり、実際、手品は大成功を見た。
「ニトロ君は度胸があるなぁ!」
 ハラキリの解説を何度もうなずきながら聞いていたマードールは、話の最後に興奮冷めやらぬ様子で、いや、さらに興奮を増した様子で、両手で大切に抱え持つ色紙を胸に押し当てるとうっとりとため息を漏らした。
 彼女が驚嘆するのも……当然だろう。いかな『タネ』があったとしても、このパフォーマンスを成功に導いたものは、どれほどピピンと、特に芍薬へ強い信頼を預けているのだとしても、たった3mしか離れていない場所で迫る機体を前に恐怖の片鱗も見せなかったニトロの胆力にこそある。
「まあ、場数もそれなりに踏んではいますけどね」
 惚れ惚れとしてもう一度吐息を漏らすマードールにハラキリは喉を鳴らすようにして笑い、
「ニトロ君は、何より腹を括ると凄いですから」
「うむ、凄い」
 ニコニコとしてショーのエピローグを観ていたマードールは、ふと手の中の色紙に目を落とし、やおらニヤニヤと目元を緩ませた。その色紙にはニトロが書いたサインがある。それも『漫才師』としての彼が特別な時にだけ用いるデザインで『親愛なるマードール様へ』と宛名され、彼女の目の前で丁寧に書き上げられたものだ。
 ハラキリはサインを見つめるマードールを眺める内、サインをニトロに頼まんと向かう彼女の緊張っぷりを思い出して思わず吹き出しそうになった。
「? どうした?」
「いいえ?」
 ハラキリの態度は明らかに不審であるが、マードールにはどうでもいいことのようだった。彼女は上機嫌に再びサインを見つめ、その隣の余白に夢見るような視線を送る。そこにはティディアにサインを書かせる予定なのだ。『ティディア&ニトロ』のファンだというのは、心底、真剣に本当だったらしい。ティディアのサインはニトロが「書かせる」と約束しているから必ず得られるし、おまけに皆で記念写真を撮る約束もしている。それこそが今回の『お忍び』の最大の報酬だとでも言うように、セスカニアンの王女はもう呆れるほどに世界でただ一枚の宝物を愛で続けている。
「……」
 ハラキリは、目元も頬も緩ませっ放しのマードールを、瞼に焼き付けていた。
 おそらく、セスカニアンの王族が『外結界げかい』の人間にこのような顔を見せるのは、それこそかの国の制度が崩壊しない限りは歴史を通して無いことだろう。貴重な瞬間に立ち会っているという気持ちが沸き起こり、
「? どうした?」
 ハラキリの視線に気づいたマードールが問う。
 ハラキリは微笑んだ。そして彼が彼女の楽しみを増すべく“ショーの続き”を教えようと口を開きかけた時――
 部屋に、ピピンが戻ってきた。
「ご苦労。見事だったぞ」
 誇らしげな、またこれ以上ないほどの充実のこもった誉めを賜り、ピピンの顔が光栄に輝く。彼女は膝を突き、丁寧な辞儀をした。
「彼は?」
 問いに対して、“ハラキリ様のご自宅へ無事に送り届けた”と、マードールとハラキリの脳裏に理解が起きる。超能力者の主人は満足を見せ、それからハラキリに振り返った。
 その双眸は、話の続きを促している。
 ハラキリは王女とその部下のやり取りに奪われていた意識を、ふと直前にまで巻き戻した。すると、ピピンに対しては威厳を見せていたのに、今は無邪気な様子である王女の姿に――直前には無かった不思議な敬意までがふいに湧き起こり、彼は、再び微笑んだ。
 先ほどとは少しだけ違う微笑を浮かべたまま、エア・モニターに目を戻す。
 牡丹アンドロイドが送ってくる映像には変化があった。視野の隅に、18歳頃の少女の驚き顔が映りこんでいた。
 マードールもそれを見る。
それはニトロ君に瓜二つのアンドロイドです」
 少女が隣にいる恋人らしい少年に慌てて声をかけるのを尻目に、カメラが動いた。颯爽と人込みを抜けてその場を離れていく。
「服も?」
「帽子追加で」
「『大脱出』だな」
 楽しそうに笑うマードールへうなずきを見せ、すぐにあの少女がネットへ『滑走路にいたはずのニトロ・ポルカト』の目撃情報を書き込むだろう事を思いながら、ハラキリは言った。
「今夜は……カジノでよろしいんですよね」
「無論、変更なしだ。手加減しないぞ。派手に勝つか派手に負けるかだ。ああ、といっても、勝っていようが負けていようが『動き』があったら絶対に報せろ」
「承知しました。
 それから、明日の夕食はラッカ・ロッカで」
「ん、おお、予約が取れたのか?」
「キャンセルが出ましてね。ニトロ君とおひいさんが食べたコースを頼んでおきました」
「妾は幸運だな?」
「ええ。幸運ついでにこれでもかっていうくらい満喫していってください。アデムメデスを」
「ああ、楽しませてもらうさ。この星にも、この星の未来にも」
 マードールは満足感にまた鼻息を荒くしている。
 ハラキリは、誉れを頂いた接待役ホストらしく、丁寧に会釈した。

 ミリュウは王城の門をくぐるや不機嫌に頬を固めた。
 背後から聞こえてくる民衆の歓声は早くも聞こえなくなる。彼女は隣を歩くセイラの足音さえ忘れ去った。
 心を占めるのは、ニトロ・ポルカト。
 急遽作ることになったプレスリリースには、あの男が死んだという事実はないことと、その行動はあの男の独断であること――つまり、あれは『ニトロ・ポルカト』のショーへの参加表明なのだということへの追認のみを示した。
 報道各所からは会見を求める強い要望が届いたが、それは無視した。実際、プレスリリースだけで十分な要望に応えている。
 アデムメデスは既に歓喜しているのだ。“もう一人の主役”が彼ら彼女らの期待に応えて動き出したこと、それもテレビを通じて視覚的にも音声的にも意思表明をして見せたこと、意思表明にこちらも応えたことで役者が同じ舞台に同じ意思を持って立ったこと、その事実だけで十分な歓喜に沸いている。そして沸き上がる歓喜は、自らの動きをも一つの演目として楽しむことができるのである。
 そう、歓喜を産む観客は自らも動き……早くもネットには、王家専用機に轢かれたはずのニトロ・ポルカトが空港ロビーで目撃されたという情報がいくつも書き込まれていた。颯爽と去り行く主演男優の横顔、あるいは後ろ姿を捉えた動画もいくつか上げられている。結果、あの『事故』はニトロ・ポルカトが仕掛けた素晴らしい『大脱出マジック』だと持て囃されていた。当時現場にいた観客達は“目撃者”という役を与えられて一時舞台に乗ることを許され、その特権に意気揚々と語られる証言は扇情的な口上となり、彼ら彼女らが現れるコミュニティはさながらそのセリフを消費する小劇場として隆盛を極めている。
 ――それは、いい。
 それはむしろ、とてもいい。
 不機嫌なミリュウが気に食わないのは、管制官の答えであった。
 滑走路へ侵入を許し、滑走路の異常を伝えてこなかった彼は何を考えているのか。ミリュウの問いに、管制官は和やかにこう答えたのだ――「ティディア様の了解を得ているとのことでした」
 そんなはずはない!
 お姉様が、ニトロ・ポルカトが管制官を抱きこむことを助けるはずがない。ニトロ・ポルカトへ自助努力による解決の期待を寄せておきながら、それとは裏腹にあのお姉様がそんな手助けをするはずがない。
 確認を取ると、管制官はニトロ・ポルカトが保証したとだけ答えた。
 つまりは、あの『ニトロ・ポルカト』が言うのだから間違いはない、そういうことだった。
 ミリュウは気に食わなかった。
 ニトロ・ポルカトは、間違いなく、自身の影響力を理解しながらお姉様の名を利用したのだ。
 なんという倣岸不遜にして不敬極まる行為か!
 管制官は“命令”に応じ、一時的に該当滑走路におけるセキュリティシステムの管理者権限を預けていたことも証言した。
 それもミリュウの不機嫌を加速させていた。
 記録を取り寄せれば、やはり、対超能力アンチ・サイオニクスシステムが切られていたのだ。それは懸念した通り、ニトロ・ポルカトが超能力を有する協力者を得ていたことを意味する。ケルゲ公園駅前で無人タクシーから忽然と消えることができたのもこのために他あるまい。あれほど瞬時に跳べるとなれば、これも懸念通り、マードール殿下に付く者の仕業だろう。なれば、それはすなわち、ニトロ・ポルカトがハラキリ・ジジと接触したことも意味する。折角の二人を離しておく手立て――まあ、たいして堅牢な手ではなかったが、とはいえ存外にも初手の段階から企ての一つが崩れたという事実は面白くなかった。しかもあれほどの超能力者をあれほど協力的に貸し出すというのは……そんなにもニトロ・ポルカトを気に入ったというのか? マードール殿下も……意地悪なことをして下さる。
「……」
 しかし、不機嫌の一方で、ミリュウは、心臓の中では意気が高揚していることを感じていた。喜びがあり、うきうきとした不思議な感慨もあった。
 目に焼きついている、機内で見たニトロ・ポルカトの顔。
 あの男の目は、真っ直ぐだった。
 車輪の陰に消えるまで――まるで鏡を見ているかのように――真っ直ぐにわたしを見つめていた。
 そうだ。憎くてたまらないあのニトロ・ポルカトが、己の『師匠』と、セスカニアンの王女というわたしが迂闊に手を出せない重要な友好国の貴人に会いながら、その庇護に甘んじず、挑戦的な瞳を携えて、『わたしの舞台』に上がってきたのだ。それは素晴らしい展開、何より望む展開に他ならない!
 今のミリュウには自信があった。機内で感じた異様な自信が未だ消えずに彼女の心を強くしていた。
 それは、これまでには無かった自信であった。
 昨朝の生まれ変わったかのような充実感と、西大陸での成果が、自分でも驚くほどの自信となっていた。加えて望外にも賜ったお姉様のお言葉が追い風を吹かせる。今や彼女は、もしかしたらニトロ・ポルカトに勝てるかもしれないとまで思い始めていたのだ。瞼の裏にクロノウォレスから送られてきた姉の姿が思い浮かぶ。瞼の裏では、その隣には、私がいる――今のわたしなら『私』を思い浮かべることができる。
 もしかしたら――
 いつしか燃え上がった希望に、いつしか不機嫌が消し去られていた。
 わたしは戦えるのだ。ニトロ・ポルカトと。
 揚々と王城の中を姉の部屋に向けて進みながら、ふと、ミリュウは進む先に小さな人影とそれに付き添う警備兵のあることに気がついた。
「おかえりなさい!」
 とたとたと駆け寄ってきたパトネトが飛びついてくる。
 ミリュウは可愛い弟を抱きとめ、ただいまと囁いた。
「おねえちゃん、かっこよかったよ!」
 見上げてくるパトネトの、姉を思わせる黒曜石の瞳はきらきらと輝き、真っ直ぐに。
 ミリュウは心臓の中で熱を増した意気が、脈打つ度、胸一杯に広がるのを感じていた。
 彼女は知った。
 一度殺され、夜が明けて、やってきたのは、そう、明るい日差し。青空の下、胸躍らせる光に包まれている。ああ、わたしは……
「……ありがとう」
 パトネトの頭を撫でる。柔らかい髪が手を撫でて、弟がくすぐったそうに笑う。
 隣でセイラが微笑ましくこちらを見つめているのが判った。歩み寄ってきた警備兵、その制服を着るアンドロイド――いつも無感動なA.I.フレアの眼差しにまで温かなものを感じる。
 ミリュウはパトネトと手をつないで姉の部屋に向かった。
「今夜は何を食べたい?」
 おねえちゃんの微笑みに、弟も笑顔を返す。
「マカロニグラタン。エビがいっぱいの」
「セイラ」
「かしこまりました」
「デザートはね、いちごのアイスがいいの。つぶつぶがあって、とってもあまいの!」
「伝えておきます」
 パトネトの一生懸命な注文を優しく受け止めるセイラは執事というよりも、わたし達のおねえさんという様子で……ミリュウの視線に気づいた彼女が主にも柔らかな微笑を向け、この場の主たるミリュウは不可思議なほどに幸福な思いだった。
「わたしはチョコレートがいいな。つぶつぶがあって、少しビターなの」
 セイラがうなずいてから、くすくすと笑う。
 ミリュウは目を細め、辿り着いた姉の部屋のドアノブに手をかけた。
「今日はあなたも同席なさい」
 普段は給仕役を務める執事は少し返答を躊躇い、しかし、
「お言葉に甘えます」
「よろしい」
 ミリュウは嬉しさだけを顔にして、ドアを開いた。
 姉の部屋は前もって空調を利かせて快適な室温となっていたが、明かりはなかった。現在の部屋の主が帰ってきたのだ。今になっても暗いというのは部屋付きのA.I.が点灯させるタイミングとしても遅すぎるのに、それだけでなく、未だに光は点かない。
 黄昏の、粘りつくような赤光が部屋を満たしていた。
 色濃い日没の陽光はどす黒い陰影を生む。そのコントラストは、禍々しさをも湛える。
「――あ」
 そううめいたのは、セイラだったか、あるいはパトネトだったろうか。その時のミリュウからは、それを判別するだけの頭が失われていた。
 ――信じられない。
 ミリュウはただ、凝視した。凝視することしかかなわなかった。
 部屋の奥。
 何故、お前がそこにいられるのだ
 彼女の脳裏がぐにゃりとくらむ。
 大きなフランス窓の傍に運ばれた、出かける前は中央にあったはずの、小さなテーブルと椅子。
 そこに存在する黒い影。
 色濃い日没の赤光にどす黒い陰影。そのコントラストの中で、最も禍々しい人影。
 何故、お前は、わたしが一度『死んで』――生まれ変わって――得意の絶頂で――わたしが! あの清い黎明の空を見上げたバルコニーを、何故? 片肘など突いてそれほど退屈そうに視姦している
「っこれはこれは」
 と、その男が、ミリュウ達にようやっと気づいたとばかりにわざとらしく驚き立ち上がった。
 黄昏を背負い赤黒い影の塊にも見えるその男は、機内でも見たあの戦闘服を着ていた。その戦闘服に身を包んでいることを知れば、どうしてか、ミリュウには光が彼に飲み込まれているように思えてならなかった。
 やおら男が右膝を床に突き、左手を立て膝となった左脚の付け根に添える。畏まり、右手を心臓の上に当て深々と頭を垂れる。それはアデムメデスこくの、王族への最敬礼であった。
「ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ太子殿下。我らが敬愛せし王の愛し姫君様。ご機嫌麗しきは国の誉れ、神の賜りもの」
 公的・儀礼的な場面で用いられる決まり文句を並べた挨拶はとても流暢で、そのためにかえって慇懃無礼な色彩を帯びている。その落ち着いた声にしても、ミリュウには、落ち着いているからこそやけに大きくやけにざらついて聞こえてしかたがない。
「お初にお目にかかること、光栄の至りにございます」
 口上を終え、下げられていたニトロの面が王女の許しを待たずに上げられる。
「あ……」
 と、またうめいたのは誰だったろう。セイラか、パトネトか、それとも――わたしか?
 ミリュウは影の中に閃くニトロ・ポルカトの双眸に射抜かれ、心身の全てを凍りつかせていた。彼女を包み込んでいた温かな光が失せていく。追い風は止み、彼女を強くしていた異様な自信はしぼみ切って塵となる。
 認めたくないことを、認めたくないと頭が思うよりも早く、心が先に認めてしまった。
 黄昏の中。
 姉の部屋は、今や姉の部屋ではない
 本来の主がいなくともその存在感に染められていたはずのこの場所は、今や、それに並ぶ存在感に塗り潰されてしまった
「そのお姿では、お初にお目にかかります。パトネト王子様」
 続けてニトロ・ポルカトが発した、先とは違い平時の言葉遣いでの挨拶に、ミリュウの手を握るパトネトの手も緊張に固まる。
 だが、ミリュウには弟の緊張を和らげることはできなかった。それだけではない。何も出来ずに、ただ呆然とニトロ・ポルカトという存在に圧迫され、呼吸を潜めていた。
「セイラ・ルッド・ヒューラン様」
 名を呼ばれた執事の小さな吐息がミリュウの足元をすくいそうになる。
 ニトロ・ポルカトが一人一人の名を呼ぶ度に、その声に支配される空間の重みが増していく。
「A.I.フレア殿」
 公表されていない弟のオリジナルA.I.の名まで出たことには――それがティディアから聞いていたのだろうことであっても――決定的なものがあった。
 ミリュウの心臓で熱を帯びていた意気は、もはや地の底に沈んでいた。腹の底にあの気持ち悪さが蘇り、呪われた赤子が吐き出す汚泥の臭気が胸を腐らせる。
 ミリュウは震えるようにして深く息を吐き出した。
 ああ、わたしの中で、得体の知れない巨躯の怪物が叫んでいる。
 あの議場の栄光は虚飾である!
 あの黎明の青空は虚構である!
 彼女は今まさに悟った。
 明るい日差しも何もない。
 夜が明けて、やってきたのは、また夜だった。

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