「―ウシガエルはそうじゃねぇ!」
「ッニャア!?」
芍薬の驚愕を耳にして、ニトロは跳ね起きた。
「どうした!?」
ベッドの上で立て膝となり、周囲に素早く視線を巡らせて問いかける。
部屋は暗かった。時間は分からない。日は昇っているのか、まだなのか、それとも既に沈んだ後なのか……一つだけの窓は完全に遮光され、やおらぼんやりと現れた光が部屋の輪郭を浮き立たせる。
「エット……主様コソ、ドウシタンダイ?」
光源は芍薬の
ニトロは、今、何が起こったのかを思い返してみて、
「――」
そのぼんやりヘの字に結ばれていた口が、変な形に波立った。
「……」
自分を跳ね起きさせたのは芍薬の驚愕であるが、しかし自分を眠りから叩き起こしたものは違う。目が覚めたのはその直前――己の大声を聞いたためではなかったか?
そこに思い至れば彼が事態を思い出すのは簡単だった。
変な形に波立った口の形が、さらに恥ずかしさのため縮こまる。
「……寝言、言ってた?」
彼は、おずおずと確認を取った。
「寝言ッテ言ウヨリ……“寝ツッコミ”ダッタヨ?」
するとおずおずと、修正が返ってきた。
確定した事実の馬鹿らしさがニトロを強打する。
彼はどうにも情けなくなって、大きな嘆息をついた。
「主様、ドウシタンダイ?」
改めての芍薬の心配そうな問いかけに、彼は苦笑いを浮かべながらベッドに腰掛け、
「悪夢を見てた」
と、告白した。
「悪夢?」
「そう。何だか知らないけど誰かに責められ、怒られ、罰として
話すにつれニトロの苦笑いはどんどん深くなっていた。
「これはとんでもないのが出てくるぞと怯えてたら『体がウシで頭がカエル』なモンスターが出てきたんだ。それで思わず――」
「『ウシガエルはそうじゃねぇ!』?」
「そう」
「デモ、ソレッテ、アレジャナイカイ?」
「そう、アレだね」
ニトロはうなずき立ち上がると冷蔵庫に向かった。中からオレンジジュースを取り出し、栓を開けて一口飲む。甘さも軽く爽やかな酸味が寝起きに心地良い。
彼はため息とも嘆息ともつかぬ息をもう一つ吐き、
「ドロシーズサークルのことも強烈に思い出したからかな?」
小首を傾げて言うと、芍薬も苦笑混じりにうなずいた。
アレは――そう、ニトロが子どもの頃、『躾の脅し文句』として両親に言われていたことであり、ドロシーズサークルで『ミリー』に話した内容。
――悪い子はウシガエルに食べられちゃうぞ。嘘つきはデカドリに頭をつつかれて脳味噌出されちゃうぞ。
両親との思い出話をするマスターと、ドロシーズサークルで出会った『少女』を叱ったマスターの姿を思い浮かべながら芍薬はやがて苦笑を微笑みに変え、
「ビックリシタヨ」
「びっくりさせてごめん」
ニトロは照れ臭く笑って言う。そして、うつむき、
「でも、鳴き声が“もげろ”だったのは新発見だったな」
「何ダイソリャ」
「もげろもげろもげろもー」
眉根を寄せる芍薬へニトロが再現を返す。『ウシガエル』に無理矢理似せた顔芸とおかしな鳴き真似に、芍薬は堪らず声を上げて笑った。
笑い声を聞きながら、ニトロは気分良くジュースを半ばまで飲んだ。
一つ息をつき、芍薬が笑い終えたところで、
「何時間くらい寝てたかな」
「約三時間、マダ六時ヲ少シ過ギタトコロダヨ。モウ少シ寝タラドウダイ?」
「いや、目が冴えちゃったから起きるよ。それで、何か動きは?」
芍薬は内心驚いていた。
問いかけてくるマスターの声は、やけに明るい。
それもただ明るいのではなく、真剣でもある。
そして真剣ではあるがことさらな深刻さはなく、また、深刻さがないからといってそこに軽視や油断があるわけでもない。データに表れる声の調子は素晴らしく安定していて、それはそのまま彼の精神の安定を示している。
芍薬は知った。
眠る前にはまだ本件に嘆きを向けていたマスターは、今やそれを完全に克服している。
眠っていた間に、それとも眠りに落ちる直前に? 明確な変化の境は分からないが……けれど、主の成長をこの目ではっきりと見られた喜びが芍薬の胸を一杯にする。
「早朝ニ教団カラ一ツ。他方面カラ幾ツカ」
芍薬は自身もマスターに倣い、真剣ではあるがことさらな深刻さはなく事実を整然と告げた。
「シェルリントン・タワー前デ神官ガ呪詛ト扇動ヲ試ミテ、ソレニ早速乗ッカッタ『マニア』ガイル。マダネット上ダケデノコトダケド、間違イナク教団ノ真似事ヲシテクルダロウネ」
「真似事?」
「呪詛ノネ。一応、『オ祈リ』ノ形ヲ取ッテル」
「襲撃まではない?」
「ソウイウコメントモ散見サレルケド、組織的ナノハマダ見当タラナイ。オ百合ガ手伝ッテクレテルカラ、見ツカリシダイ報告スル」
「うん、よろしく。お百合にはお礼を言っておいてね」
「御意。
ソレカラ、バカノコメントガ届イタ。内容的ニハ想定内カナ。コッチノ“予測”ニ大外レハナサソウダ」
「分かった。あ、後で見ておくから用意よろしくね」
「御意。
アトハ、ジジ家カラ注文品ハ昼過ギニハ用意デキルッテ」
「了解」
ニトロはオレンジジュースを飲み干した。空になったボトルをダストボックスに放り込み、ベッドに寝転がる。
「『大将』の動きは?」
「予定通リ。一時間後ニハ西大陸ニ飛ンデクヨ」
王権の代行者は重要案件の決議のため――ティディアに代わってそれに署名をするため、今日明日と西大陸で公務に勤しむことになっている。
「予定通り、か」
それが急遽変更される事態も考えていたが、そうはならなかったということは、
「なら、今日明日は比較的安心かな」
「バカヲ手本ニシテイルンナラ、大一番ハナイダロウネ」
そう、ティディアを手本にしているなら『決定的なイベント』は自身が矢面に立てる時にもってくるはずだ。加えて今日明日はクロノウォレスで大事な式典が行われる。それは次代の女王の晴れ舞台でもあり、となればあのミリュウ姫がその辺りを考慮しないはずもない。教団としても女神の栄光を邪魔することは本意ではないだろう。となれば、大一番の候補日としては比較的時間のある明々後日、あるいはティディアの帰星前日夜から到着にかけて――が、一応の有力か。
天井を眺めながら、ニトロは言った。
「今日は“無し”と踏もう。あっても『品物』が届くまでどうしようもないから、それまでは庇護を受けよう」
芍薬はニトロの口から淀みなく流れた決定にまた少し驚いた。どうやらマスターは、他国の王女に利用されることへの重圧までも既に飲み込んでしまっているらしい。
「承諾」
一呼吸の間を置いて返ってきた芍薬の応えを聞き、ニトロは続けた。
「そのことをちゃんと頼んでおきたいんだけど、あちらは?」
「――ピピン殿ハ起キテルミタイダ」
ニトロはうなずいた。
この時間だ。当然全員寝ていることを想定していたし、その時はメッセージを残しておこうと思っていたが、一人でも起きているのなら話は変わる。
「それじゃあ芍薬、ピピンさんに挨拶に行って、それから伝言を頼めるかな。昨夜のお礼と、それからアシュリーが起きてからでいいので、お時間があればお願いを聞いてもらいたいって」
「承諾」
「それから……」
ニトロは言いながら上体を起こした。ベッドに腰掛ける形に体の向きを変え、芍薬を正面から見る。
その眼差しに、芍薬は思わず姿勢を正した。
「話があるんだ」
「……何ダイ?」
ニトロはことさらに真剣ぶらず、また深刻ぶらず、だが、恐ろしく真摯に真っ直ぐ芍薬を見つめ、
「どうしても駄目だっていうなら、遠慮なく反対してね」
黙して言葉を待つ芍薬へ、ニトロはそう前置きしてから、静かに己の決断を語った。
芍薬との相談を終えたニトロは、まずティディアの情報を拾った。
妹の行動への言及があった会見、クロノウォレスへの道中での――随行者らとの談話など――ティディアの言動をまとめた王家広報の報告書、そして先方国で盛大な歓迎を受けている第一王位継承者(と、その隣に立つ藍銀色の髪の麗人)の様子をチェックする。
何点か、引っかかりを覚えることはあった。
しかし、残念ながらそれらは妹姫の動機を解明する鍵――とは全く言えず、そもそも論外の方向へ気になる事ばかりだった。
会見での妹姫の行動への反応は『楽しみ』だの『ニトロに任せる』だのとふざけた主張はあったにしても、芍薬の言う通りに全てが想定内。女執事が伝えてきたバカ姫の様子から逸脱した模様もない。
ただ、ちょっとだけ、あのミリュウ姫が聞いたら大喜びしそうな――あいつまでもが『あの程度』と口にしていた――コメントの数々は、もしかしたら、良心の呵責とか、罪悪感とか……あいつは妹に対してそういうものを感じているのだろうか……とも思う。ひょっとしたらあれは妹へのリップサービス、あるいは励ましだったのかな――と。
もしそうだとするなら(だとしてもそれについて文句の十や二十はあるものの)ここに可及的速やかに真意を問わねばならぬことはない。
そう結論付けたニトロはティディア関連情報への重要度を格段に下げ、それからはひたすら妹姫へ関心を向けた。
――誰が名付けたか『劣り姫の変』。
いつしかそう総称されるようになった本件に関わりそうな情報収集・整理を芍薬に任せ、適宜情報のアップデートを受けながら、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナという人間の復習とその人物像の修正に、ニトロはそれからの時間の全てを費やした。
朝食、トイレ、何をする間にも眼前に芍薬が的確に編集した情報の載る
その中で、ニトロが特に目を引かれた情報は三つ。
一つは、『プカマペ教団』のキャラクター紹介。
●――神官アリン:メッサリティの湖岸にて伝説の八枚羽の魔竜に遭遇。成す術も無く飲み込まれ、死ぬ間際、死滅していく脳細胞がプカマペ神の愛波動を華麗にキャッチ。神託を授かり、己の使命を悟る。我が命は魔竜の命をつなぐためにあらず、女神がこの世に顕現するための供物としてのみ存在が許される! 天命のために死すことを望むアリンの誓言を聞き届けたプカマペ様の雷槌が魔竜を射ち、いずこからか飛来した剣が魔竜の腹を割いた。人間アリンは死んだ。竜の腹から再誕せしプカマペ神の徒、神官アリンの死に瀕する体は、戦地へ赴かんと馬車を曳きやってきた大天使…ポの御業により女神に最も近しい者の姿と
ツッコむべきかツッコまぬべきか。電波チックなはずなのに妙に生真面目な裏設定と文章が残念でありこういうカルトを演出するなら変にお行儀ぶらずにもっと狂ってはっちゃけて! とダメ出ししたい気持ちはまあさておき。
解っていたことではあるが、神官アリンのモデルはミリュウ自身に違いない。一度死に、蘇生後は女神のために――などと言うのは、まさに彼女の生の写しだ。
●――信徒ルリル:親に売られそうになっていたところ、神官アリンに救われる。当時は心身ともに傷つき、正気を失っていた。神官アリンの下、プカマペ様の愛波動を毎日毎夜浴び続けることで平常心を取り戻し、プカマペ様のため、神官アリンのために命を捧げることを誓う。神官アリンに倣い、女神がその神業の片鱗を見せた――女神が初めて死の淵より蘇生させた人間の姿へと全身を改造した第一の信徒。悪魔ニトロ・ポルカトを屠るためにその命を糧として神徒を召喚し、悪魔と、その使い魔と死闘を繰り広げるが、力及ばず無念にも殉教する。――●
……おそらくは。
この“信徒ルリル”もミリュウがモデルであるのだろう。なぜなら、ミリュウが女神の……ティディアのために殉教する第一の座を他人に明け渡すはずがない、ニトロはそう考えた。
となれば、気になるのは『正気を失っていた』という点と、『プカマペ様の愛波動を毎日毎夜浴び続けることで平常心を取り戻し』という点。
特に――『正気を失っていた』? それは、正気を失っていたというその心境は一体何なのだろうか。こちらとしては、今こそ正気を失っている、あるいは失いかけているように思えるのに……。
ただ、愛波動(=ティディアの影響だろう)で彼女が平常心を取り戻したという心境は、彼女が姉を心の支えにしているということに照らし合わせて何の不思議もない。むしろ至極自然であり、物理法則のように美しい式にも感じる。……だからこそ逆に『正気を失っていた』という記述がミリュウの正直な告白に思えてならなくもなるのであり――
●――神徒ルリル:信徒ルリルの女神様への愛が天界の門を開いた際、そのド根性にプカマペ様が流した感涙が門を通ったことで生まれた巨人。信徒ルリルの命を糧に存在を得、彼女とは一心同体である。醜く恐ろしい姿はすなわちニトロ・ポルカトの本性を示す。畢竟ニトロ・ポルカト内心の鏡像である。表面上は善人を取り繕う悪魔に騙されてはいけない。――●
ニトロには思うことがあった。
もしかしたら、あの『醜く恐ろしい姿』は――もちろん『ニトロ・ポルカト』への心象を素直に形にしただけかもしれない。が、しかし、もしかしたら――あれは、ミリュウ姫自身が恐れるものを形にしたものではないのだろうか。信徒ルリルが彼女の写しの欠片であるのなら、信徒ルリルが正気を失っていた理由は“その恐ろしいもののため”ではなかったのだろうか。だから、“それ”から彼女は女神に守られて、やっと平常心を取り戻したのだ――と。
無論、これが単なる誤読と勘違いとこじつけを漉した末の駄推理である可能性は高い。
しかし、神官アリンが明らかにミリュウ本人の自己投影だと思えるからには、造られたもの全てに対して彼女の心象風景が投影されているように考えてしまう。いや、きっと彼女は死ぬほど――誇張でもなんでもなく、死ぬほど頭を絞って今回の計画を立てたはずだ。ならば、それが故に“全ての意味”に彼女の心象風景が投影されていると考えずにはいられない。
ヴィタの言葉が
――『凶暴な、あの巨人、その行為。それを生んだのは、ニトロ様をティディア様の隣から排除しようというお心にあることは間違いないでしょう。しかし、そのお心の正体は何なのでしょうか。』
――『あの悪夢を元に造型したかのような巨人と、ニトロ様の死を祈る「ミリュウ様達」の姿を見るにつれ、私は次第に判らなくなってしまいました。ティディア様を絶対視し、ティディア様の言葉通りに従うミリュウ様が、ティディア様を手本としながら手本にはないものを生み出し、さらには絶対なるティディア様から逸脱するほど一体何に駆り立てられているのか』
プカマペ教団というふざけた新興カルトの、
(……思っていたより複雑な人なのか……)
素直で和やかで家族思いで国民思いで――そんな分かりやすい優等生の人物像は、今や粒子の粗いモザイクに隠れている。ニトロはそのモザイクに白い無地の紙を被せた。白紙にはモザイクとその裏にあるこれまでの情報が透けて見える。白紙に新たな情報を上書きしながら、必要とあれば透け見える情報をトレースするに易い状態だ。これなら今後、好感を寄せていた第二王位継承者がどんなに豹変したところで、優しい姫君へ好感を寄せていた記憶のあるがために躓くこともないだろう。
次にニトロの関心を強く引いたのは、テレビの生中継、その
タラップの上、朝日を浴びる王女の笑顔は昨夜にも増して輝いていた。その輝きはこれまでの彼女の笑顔をくすませてしまうほどに明るかった。……明るすぎて、彼女の笑顔の特質と言うべきものをそのまばゆさの影に隠してしまっているようにニトロには感じられた。そう、『劣り姫』の唯一誰からも褒められていた『和やかさ』が、その輝きの中には感じられなかったのだ。
もちろん、これは自分が主観的に思う“印象”に過ぎないのかもしれない。その印象の違いを確認したい彼に対し、しかし、芍薬は――A.I.の弱点だとA.I.ら自身が語るように――その感覚的な違いを完全に理解できてはいないようだった。
「一晩でまた人が変わったようだよ。生まれ変わったよう、っていうのかな」
何とかニトロが違和感を言語化しようとして口に出した言葉は――彼の“印象”を最も的確に表す言葉はそれだった。
「でも、一晩でそんなことってあるのかな」
そして次の言葉が、それ。
芍薬は呆気に取られた。ハラキリの『君は器が大きいのだか天然なのだか判らないことが時々あります』というセリフを思い出して苦笑し、それから、その反応に不思議そうな顔を向けてくるマスターに力強い肯定を返した。
それがあまりに力強い肯定だったものだからニトロは思わず目を丸くし、とはいえ芍薬がそう言うならそうなのだろうと納得した。
最後にニトロが特に気を引かれたのは、芍薬が以前にまとめてくれた――現在、自宅のデータはジジ家のサーバで保管してもらっている――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの簡単な、しかし要所を押さえたプロフィールだった。
簡単に要所を押さえるだけでもページが重ねられるティディアのプロフィールに対し、簡単に要所を押さえただけでは姉の一割にも満たない妹姫のそれは、ニトロに初めての、そして不思議な感覚を味わわせた。
子どもの頃に読んだ本を、何年も経った後に読んだ時に感じるような読感の変化。
3000字に収まるミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナのプロフィールは、300000字を超える物語が経年の後に読者に与えるものと同じ感覚をニトロに与えたのだ。
――世界観が、まず違った。
彼女の好きなことには、大抵『お姉様との』という冠がつく。そこに以前は何の違和感もなかった。
彼女の好きなものには、大抵『お姉様の』という冠がつくか、それとも家族に関わるものばかりだ。そこにも以前は何の疑問も持たなかったし、むしろ微笑ましく思っていた。
彼女の大切なものには大抵『お姉様に』という冠があり、家族という繋がりがあり、ただ一つ“国民”という巨大な存在はあるものの、それは優等生の王女の模範解答に過ぎない。当然以前は何かひっかかりを感じるどころか感心していたし感嘆もしていた。
だが、今は違う。
ニトロには新たな
降って湧いたようなミリュウ姫の攻撃、それに関する複数人の理解と解釈とそれを生む視点を経て、彼自身も新たな側面からかの王女を観ることができるようになっていた。
プロフィールを読み返す最中、彼は何度も違和を感じ、疑問を覚え、ひっかかった。
――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの世界の、何と狭いことか!
初めて気がついた。同い年で、同級生であるはずの彼女のプロフィールには年頃の少女の感性というものが一つたりとて存在してない事実に。
もちろん、これは彼女の視野が狭いというわけではない。むしろ同い年で同級生とは思えないほど広い視野を持つことは『王女』としてのプロフィールの中に示されている。しかし『個人』としては、不相応なほどに狭い。いや、あえて狭められているというべきか。二度、三度と読み返してようやく“好きなもの”の中に姉も家族とも無関係にぽつりと“ルッドランティー”なる異物が唯一混入していることを確認できはしたが、それも結局は彼女の執事の作るものであり、つまり、唯一の異物すらもが彼女の身内に関わるものだった。身内に関わるものですら異物となるほどに、彼女は、彼女のアイデンティティは、彼女の持つあらゆる観念は『お姉様』に支配されていた。
――ニトロは思う。
……彼女の人生は。
彼女の世界は城と宮殿と……――あの姉の掌の内に、美しく、根も深く、声高らかに完璧な完成度を誇るようにこぢんまりとうずくまっている。
何となく、ハラキリが口にした『これはミリュウ姫の自立の一歩――見ようによっては反抗期の訪れ』という可能性が一番正しいような気さえした。そしてそれをティディアが歓迎している可能性を――それに無理矢理付き合わされることに反感を覚え、押し付けようという『女神』の身勝手さに憤りながらも――納得しそうにもなってしまった。
ニトロが第二王位継承者の既存の人物像の上に被せた白紙には、いつしか、既存の人物像よりも一回りも二回りも小さな輪郭が描かれ出していた。彼の手によって薄くよれた線で走り描きされたミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの肖像のためのラフ画は、やはり、背中を丸めてじっとうずくまっている。
ニトロの目は何時間もうずくまる王女の姿に注がれ続けた。
彼の視界は全てミリュウに向かって凝縮していた。
耳は彼女の過去の発言を聞き、彼女の声だけを聞き、だから、彼はドアがノックされたことにも初めは気づけなかった。
「−−主様!」
突然芍薬の大きな声に『耳』を破かれ、ニトロはびくりと肩を震わせた。まるで潜り込もうとするかのように
「ハラキリ殿ガキタヨ」
テーブルの上、携帯電話の上に映し出される芍薬は首を傾げて困ったように眉を垂れている。
「ソロソロ昼食モドウダイ?」
時計を見れば、既に正午を過ぎ、短針が1に差し掛かっていた。
「……そうだね」
気づけば目も乾いている。ニトロは一、二度強く瞬きをした後、ソファを立った。
昼食には冷蔵庫の中の(自費では手を出しにくいほど)高いレトルトのハンバーグでも食べようかと考えながら、ようやくやってきた『殿下の使者』を迎えようとドアに向かい、開く。
すると、
「――おや」
ドアが開きこちらと目が合った瞬間、ハラキリが少し驚いたようにそう声を出して目を大きくした。
ニトロは眉根に怪訝を刻んだ。それを見たハラキリはすぐに驚きを飲み込むように目を細め、言った。
「どうやら、よく眠れたようですね」
ニトロはハラキリの態度にいくばくかの訝しみを残しながらもそこにはツッコミを入れず、また、彼の体に感じた小さな異変にもここでは触れず、
「お陰様で安心して眠れたよ。寝覚めはそう良くはなかったけどね」
「おや。それはまたどうして?」
「悪夢にツッコミ入れる自分の寝言で起きた」
ニトロのセリフにハラキリは笑い、
「それはまた君らしい話で」
親友の笑い声に含まれる臭いにニトロは確信を寄せ、内心ふむと息を落としていた。とはいえ、まあ、それを咎め立てするのはきっと無粋だろう。そう判断し、彼はドアノブから手を離すと替わって肩でドアを支え、訊ねた。
「それで?」
その促しに、ハラキリはこれはうっかりとばかりに言った。
「アシュリーが、もし昼食がまだだったら一緒に食べようと。『お願い』はその時に聞くそうです」
「了解」
ニトロはうなずき、続けた。
「こっちもちょうど昼食をとろうって思ってたところだよ」
そこで彼は服が昨夜のままであることを気にしたが、気にしたところで替えを用意する時間はない。クリーニングに出して間もないことでもあるし、ハラキリもスーツのままだ。このままで構わないだろう。
ニトロは一度部屋内に戻って芍薬のいる携帯端末をポケットにいれ、そして案内人の背を追った。