約束の1時となり、ハラキリがニトロを案内したのは超VIPルームに備えられているバーだった。
十人が腰掛けられるカウンター席のみのバーはやけに広い部屋の一角にあり、推測するに、どうやらここはパーティーを開くに適した場所であるようだ。光量を落とされたシャンデリアの輝きを薄く反射する床は、目を近づけることもなく磨き上げられているのがよく判る。今は何も置かれていないそこではダンスをしてもいいだろうし、ビリヤード台などを運びこませて遊ぶのもいいだろう。
「いらっしゃい」
にこやかな声が、カウンター席の真ん中から飛んでくる。
どういう気合の入りっぷりなのか、衣装を変えるだけでなく――先がフェミニン系であったのに対し、今は胸元も大きく開いたアダルトな装いに――髪型まで変えたマードールがニトロを手招きしていた。
その手招きにはどこか魔的な力があり、瞬間、ニトロは、ハラキリが隠し事をし、それが隠される事を芍薬も支持していたことを思い返し、
(……さて)
内心の姿勢を正して、彼は歩を進めた。
髪をアップにまとめたことで
ニトロは、表に出ないようにゆっくりと深呼吸をした。
マードールとの距離が適度に詰まったところで足を止め、吐き終えた息を次の言葉の分だけ吸い戻し、自己の意識の中で幻惑の美女から麗しき王女へ、そして一人の女性へと認識を整えた相手に頭を垂れる。
「先ほどは我儘をお許しいただき、ありがとうございました」
約束の時間を直前で延ばしてもらったことに対するセリフに、マードールは笑みを浮かべたまま頭を振った。
「全然、気にしなくていいよ」
その口調は妹設定のものだった。親しげに自分の左の席に座るようニトロを促す。
「お兄ちゃんはこっち」
と、ニトロの隣に座ろうとしていたハラキリを、彼女は鋭く制した。その細い指は右隣を示している。ハラキリは大人しくその命に従い彼女の右に座った。
そういえばあの従者は? とニトロが周囲を見渡せば、ここから最も離れた部屋の角に長身の女性が直立不動の姿勢でいる。どうやら彼女はこの会には不参加であるらしい。今はメンズファッションに身を包む彼女を見ていると、男装……とまではいかないが、何となくヴィタの姿が思い浮かんだ。
と、席も落ち着いたところで、何十もの酒瓶が並ぶ棚の裏側から専属のバーテンダー・アンドロイドが歩み出てきた。
オーソドックスなバーテン服に身を包み、落ち着いた中年男性の造型。部屋に相応の品質なのであろうアンドロイドの動作はとても柔らかく、三人の前に立ち注文を促す所作には“まるでその場にいないような貫禄”が漂っている。
マードールはニトロを見ると、
「ニトロ君は、お酒は飲める?」
「未成年ですので」
「セスカニアンに飲酒の年齢制限はないよ」
つまり、ある種の治外法権ということか。
しかしニトロは微笑を浮かべ、やんわり断りを入れた。
「ここは
「固いなぁ。まあ、いいや。お兄ちゃんは?」
「サマー・ディライトを」
マードールは眉をひそめた。
「ここは私に付き合うところでしょう?」
「埋め合わせは後ほど。どうせ残りの日程では貴女にたっぷり付き合うのですから」
「本当にそうなら、いいけどね」
ちくりとハラキリに嫌味を刺しつつ、マードールは一転、機嫌良く言った。
「私はピーチフィズ」
バーテンダー・アンドロイドがうなずき、それぞれの注文に必要な材料を用意し始める。
「もう一人参加させてもよろしいですか?」
手際良くドリンクが作られていくのを横目に、ニトロがマードールに訊ねる。彼女は、彼に微笑を返した。
「ありがとうございます」
小さく頭を垂れて、ニトロは携帯電話を――ここには自分の物を持ってきた――カウンターの上に置いた。
「姫殿下ニオカレマシテハ御機嫌麗シク、祝着至極ニ存ジマス」
スカートを持ち貴婦人流の辞儀をするオリジナルA.I.を見るマードールの瞳は、驚くほど輝いていた。まるで意中の宝石を目にしたようでもある。
「あなたが芍薬なのね」
「御意。先刻ハ挨拶モナクゴ無礼ヲ致シマシタ。マタ、主人ヲ助ケテイタダキ、感謝ノ言葉モゴザイマセン。タダタダ心ヨリ御礼ヲ申シ上ゲマス」
「丁寧にありがとう。でも、あなたも楽にして? 普段着で。ね? 『ニトロ・ポルカトの戦乙女』さん」
軽くウィンクをするマードールに芍薬は再び頭を下げ、服装をいつものユカタへと戻した。
「あら可愛い。アデムメデスにそんな服あったっけ」
「
「へぇ」
うなずくマードールの前に薄紅色に満ちたコリンズグラスが置かれる。ニトロの前には淡いオレンジで満たされたカクテルグラス。ハラキリの前には、軽いザクロ色が注がれたタンブラーとそれぞれに。
ニトロは、今一度部屋の隅に一瞥を送った。その視線に気づいた従者が、軽く頭を下げることで『気遣い無用』と伝えてくる。
体の向きを直したニトロは、ふと、マードールがこちらを見ていることに気づいた。
「……何か?」
ニトロの問いかけにセスカニアンの王女は目尻をそばめ、オレンジ、パイナップル、レモンのジュースで作られたノンアルコールカクテルを指してからかうように、
「サンドリヨンなんてよく知ってるね。もしかして本当はこういうところに通い慣れてるんじゃない?」
ああ、と一つうなずき、ニトロは応えた。
「父が食事に関わるものが好きなものですから。場の雰囲気を壊さないのに便利だよ、と教わっていたんです」
「へぇ。でも、別に気を回さないでカプチーノを頼んでも構わなかったのに」
ニトロはマードールのセリフに違和を感じた。警戒心までもが妙に疼く。が、その違和の正体を探るには時間がない。会話の流れをよどませぬようそれはひとまず脇に置いておき、言う。
「折角この席にお招き預かったのですから」
「……ま、そうね」
マードールは愉快気にうなずき、それから早速ザクロ色のノンアルコールカクテルに口をつけているハラキリに言った。
「さ、お兄ちゃん?」
その促しを受けたハラキリは、面倒臭そうにため息をついた。
「えーっと、ニトロ君」
「ん?」
「改めまして、こちらがアウシュラナ=アディ=フォフマィラ=マードール・リォルナム様。ご存知の通り、セスカニアンの第五太子殿下です」
王女を紹介するには気楽に過ぎる調子だが、先んじて軽く頭を下げてきたマードールがそれを歓迎している。
ニトロは相手の調子に合わせ、軽く頭を下げた。
よろしく、と挨拶をしあい、顔を上げたところでマードールが言ってくる。
「マーたんって呼んでね」
「ご勘弁願おう」
あんまりふざけた要求を、ニトロは反射的にばっさり切り捨てた。
「さすがです。拙者も初めから君のように断じたかった……」
羨ましそうなハラキリのつぶやきを聞き、ニトロははっと我に返った。
「それは、あの、恐れ多すぎますので」
「別に気にしてないよ。普段着でって言ったでしょ?」
「そうでしたね……では、敬語だけは守らせて頂きますが、それ以外は遠慮無く」
「了解。で? それじゃあ名前はマーたんでよろしくね」
「いえ、マードールさんで」
「マー「マードールさんで」
マードールはニトロが強気に、それも一変してえらく強固に出てきたことに目を丸くし、ハラキリを見た。
「“普段着”を望んだのは殿下ですよ」
「ニトロ・ザ・ツッコミ?」
「そこまではまだまだですけどね」
「……わかった。それじゃあ、アシュリーならどう?」
あくまで本名そのままに呼ばれたくないというからには――ニトロはその理由を察してうなずいた。
「それでは、アシュリーと呼ばせていただきます」
「では拙者もこれからはそう呼びましょうかね」
便乗したハラキリのセリフに尖った耳をピクリと動かし、マードールは勢いよく彼へと振り向いた。
「ダメダメ。お兄ちゃんは『マイ・シスター』じゃないと。大体まだ一回もそう呼んでくれてないのにそれはダメだよ」
「マイ・シスターて。それはまたファンキーな」
思わず吹き出しそうになり、ニトロは口を挟んだ。
「ハラキリとマ…アシュリーはただでさえ似ていないんです。人目にバレたくないのであれば、アホみたいに目立つ呼び方よりアシュリーの方がいいでしょう」
マードールがニトロに目を戻す――と、その眼差しに、ニトロは再び警戒心が疼くのを感じた。セスカニアンの王女は指摘を講じた少年をまじまじと見つめた後、やおら、うなずく。
「それもそうか。仕方ない」
言ってピーチフィズを飲むマードールの向こうで、ハラキリが笑顔を浮かべる。
「助かりました」
「個人的にはマイ・シスターと呼ぶハラキリを見たいけどね。そうだ、一回ぐらい呼んでみたらどうだ? こうビシッとポーズでも決めながらさ」
「おっと、それは惨い提案を」
ハラキリは苦笑し、話を切り替えようと部屋の隅へと目を投げた。
「彼女はピピン。アシュリーの侍女兼警護として帯同しています」
ニトロもそちらを見る。
部屋の隅、明かりの
「もはや説明するまでもないでしょうが、彼女は
「先ほどは助かりました、ありがとうございます」
ピピンが再び頭を下げる。その様子からは、まるで貴賓に対する礼儀が感じられる。
「ついでに言うと
マードールの追加情報に、ニトロは、お? と眉を跳ね上げた。
他人を無理矢理連れ、非常に正確に跳べる
それに加えて『君はもう気づいているだろうけど』――とは、一体何だ? 少し前に感じた違和感が大きくなるのを感じながら、ここはひとまず、この場に相応しい問いを投げかける。
「そんなことを教えていいのですか?」
「あら、つい舌が滑っちゃった。お酒のせいかな」
マードールはぺろりと舌を出して言うが、それは明らかに嘘だ。
ニトロはハラキリに目をやった。先ほどからの警戒心の疼き――そこから生じる懸念を眼差しに込め、無言で問いかける。芍薬は睨みつけてさえいる。
しかしハラキリは、ただ小さく肩をすくめてみせるだけだった。
「ところで、私がこれのことを『お兄ちゃん』って呼ぶことを気にしてたよね」
と、ふいに、ニトロとハラキリのアイコンタクトに身を滑り込ませるようにしてマードールが言った。
いきなりの話題転換と強引なまでの割り込み方にニトロは目を
「さ、お話しなさい」
「拙者がですか?」
話を振られたハラキリは物凄く嫌そうに眉をひそめたが、やおらため息をつき、
「昨年、拙者がセスカニアンに逗留していた理由は覚えていますか?」
ニトロはうなずいた。
「そりゃあ、もちろんだ」
出かけた先のウェジィで不運にもティディアに遭遇し……奇しくもミリュウ姫の誕生日プレゼントを一緒に選ばされた日に知ったことだ。親友が不運にも
「その時『聴取』にやってきたのがマードール殿下だったんです」
「正確には、違うな」
ハラキリの言葉が終わるやマードールが口調を変じて文句を言った。小さく「端折りすぎだ」とハラキリを責め、一つ息を置き、仕方がないというように肩を落とし、
「ポルカト殿。正確にはな……とても恥ずかしい話ではあるのだが、あの時、このハラキリ・ジジにうちの
彼女は『王女として』語っている。ニトロは言葉を遮ることなく相槌を打った。
「
しかしそれは事故により失敗し、輸送船が漂流することとなった。暴走を始めた呪物を納める船は“呪物の手により”救難信号を発しており、それを受信し救助にあたったのがハラキリの乗る旅客船だった。
「本音を言えば、セスカニアンとて、そうだ」
ピーチフィズを飲み、マードールは言う。
事件後はセスカニアンが呪物を一時管理していたと聞く。神技の民の呪物に関しては発見後速やかに
ニトロのうなずきを見て、マードールは続けた。
「公となったからにはもはやあの呪物に関する情報を独占することはできぬが、しかし情報を先んじて収集し、技術的にも、外交的にも、我が国が優位に立てるよう思惑するのは当然だろう?」
「……そうですね」
「しかし、こともあろうに我が国の『英雄』殿を助けた『脇役』殿がそれを妨げてくれた」
マードールが言う『英雄』とは、公的な記録として暴走した呪物を“最終的に停めた”セスカニアン人の旅客船クルーのことだ。そして実際に問題を解決した人間であるハラキリは、表向きはそれをちょっと助けただけの民間人――という形で事は収められている。
もはや世間話を聞くようにサマー・ディライトを飲む『脇役』を肩越しに指差し、セスカニアンの王女は続けた。
「こいつは事件解決の際に手に入れたはずのデータを様々
それはさもありなんとニトロと芍薬がうなずき、ハラキリは苦笑する。さらに同意を得たマードールも苦笑して、
「それが悪夢の始まりだった。失言を契機に妙に小賢しく権利やら何やらを並べ立てはじめ、反論を受けては話を広げながら論点を増やし、あるいはずらし、時にごね、気づけば我が国のラミラスに対する優位を揺らがせる方向へ話が進んでいたのさ。慌てて上司が出ていっても手に負えず、次に最高責任者が出ていっても、にべもない。
そこでとうとう妾が相手をすることとなった。まあ、こちらとしては、流石に王族が出てきては機嫌を直して態度を改めるだろう、また、王の威光には生意気な口も大人しくなろう――と、そう目論んだわけだ」
ニトロはハラキリを見た。
深く入り込むと面倒そうだと詳しく聞かずにいた
思えばハラキリが『お兄ちゃん』と呼ばれることになった原因を知られるのを嫌がっていたのは、それだけのためではなく、彼は、きっとこれも聞かせたくなかったのだろう。
ニトロは親友の気遣いを無駄にしたことに――そうなる可能性を踏まえていたとはいえ――ちくりと心を痛め、
「しかし妾が出たことで、いや、妾を出させたことで、我が国は負けることになった」
話を続けるマードールに目を戻す。
セスカニアンの王女は、深いため息をついていた。
「こちらの目論見通り、“王女”を前にしてハラキリ・ジジは態度を改めたよ。が、同時に改めて交渉に臨んできた。そうして常にこちらの欲しい情報を焦点に置きながらも、己がセスカニアンの『賓』であること、またラミラスのみならずアデムメデスに対する『外交カード』にも使える己の立場、我が国のアデムメデスとの条約、ラミラスとの条約、アデムメデスとラミラスの条約、三カ国の力関係と経済関係、さらには件に関わる国際法を持ち出し、果てはセスカニアンの文化風習に美徳、加えて英雄殿の世間体を盾にして――終には互いの国益を俎上に載せさせおった」
暴露された驚きの行いに、ニトロはハラキリへまん丸お目々を向けずにはいられなかった。ちくりと痛めていた心もすっかり忘れ、
「ハラキリ君?」
真偽を問う眼差しに、ハラキリはにこりと応える。
「そんな目を
事も無げに彼は言ってくれるが、これが目を瞠らずにいられようか。
「なあ? 酷い奴だろう?」
マードールが演技ながらよよと同情を引こうとそう言うのも、理解できる。
何故なら、王女の暴露をハラキリが肯定したということは、彼が国益を左右するほどの大役を――本来なら事件に無関係のアデムメデスに漁夫の利がもたらされるよう状況を変化させた上で(一方セスカニアンは独占できていたはずの利を他国と分配、もしくは共有するはめにさせられた上で)――見事に果たしてきたということだ。そういえば彼はラミラスからの『親書』を個人的に預かってきていたが……ということは、ラミラス相手にも似たような事をしてきたのだろう。
唖然としてニトロが二人を見比べていると、
「しかし、色んなところに貸しができたことを考えると、あの件は拙者の一人勝ちだったのかも知れませんねぇ」
ニトロの思考を読んだかのように、ハラキリが肩を揺らして言った。
「だったのかも、ではない。真にその通りだ。まったく……お前はいつか刺されるからな」
ひどく愉快気なハラキリに対して実に苦々しくマードールは言うが、ハラキリは飄々とグラスに口をつけ、その素振り一つでセスカニアンの王女の舌鋒をひらりとかわす。
「……」
ニトロは、思いを新たにする。
ハラキリ・ジジ。我が親友ながら……
(おっそろしい奴)
呆れ顔のニトロに見られていることに気づき、ハラキリが片眉を跳ねてみせてくる。
ニトロは呆れ顔をそのまま呆れ笑いに変えて、
「――っていうことは」
話を聞いていて、一つ同時に悟ったことがある。とにかく国レベルの話はもう終わりたいと、それを切り出す。
「『お兄ちゃん』とかあの『妹キャラ』は、身分を隠すだけでなく、その時の個人的な仕返しも兼ねていたわけですか」
「ご名答」
マードールは笑った。
「そのためにもハラキリ・ジジを案内人に希望してな、嫌味なほどマイペースなこいつにとことん嫌がらせしてやろうと画策した。しかし妾には妙案が思いつかぬ。そこでティディアに相談したところ、『お忍び』の変装がてら――と手を講じてくれたわけだ」
したり顔のマードールは満足そうに笑みを深める。
「お陰でここまで我儘三昧、実に楽しませてもらった」
「真面目にあんな妹がいたら、きっと拙者はグレて家を出ていたでしょうねえ」
しみじみと言うハラキリに、マードールがきらりと目を閃かせる。
「やだ、お兄ちゃんたら酷い。こんなに可愛い妹をつかまえて。人前で“アーン”だってしてくれた優しいお兄ちゃんは――すっごい顔してたけど――どこに行っちゃったの?」
それにしても器用に声色と口調を急変させるものだ。極自然と『キャラ』を演じ分ける彼女とハラキリの道中を思えば、なるほど、これまで彼が顔に浮かべていた苦々しさの全てが手に取るように理解できる。
だが、ニトロは笑えなかった。マードールの言葉が嫌に耳に引っかかる。そのためにもハラキリ・ジジを案内人に希望した――そのために“も”希望した。その重要度は、明らかに下位だ。
一方、意外なことにハラキリは微笑んでいた。どうやら彼と王女の歪な兄妹関係に大きな変化が訪れたらしい。ねえねえと肩に頬を寄せる『妹』へ妙に穏やかな笑みを送っていた彼が、すっと笑みを消し、そして、鼻で哂った。
「アシュリー、お前ももう
鼻で哂われた上に窘められたマードールは、甘えの仕草をぴたりと止めてハラキリを上目遣いに見つめた。その柳眉がひそめられ、
「……ちょっと思ってたけど、やけに強気になってきたじゃない」
「ニトロ君の前で恥ずかしい思いをさせられましたからね、もう吹っ切れました。それにニトロ君のお陰で色々調子も取り戻せましたので」
「そっか……」
納得の息を吐くマードールの顔には、つい直前に抱いた疑念ではなく、しばらく前から抱き続けていた疑念が解消した清々しさがある。おそらくは、ニトロの部屋から帰ったハラキリとのやり取りにもずっと違和を感じていたのだろう。
「それじゃ、勿体無いことをしたなあ。だったらお兄ちゃんの言う通り、ニトロ君を助けるのも、この視察も、やっぱり最後に回せばよかったかな」
「ん?」
ニトロはうなった。
それは、不意を突いてもたらされたマードールの『告白』だった。
意識するより速く警戒心が彼の心身に構えを取らせる。その身はかすかにマードールから距離を取り、心はもっと大きく距離を取る。
彼の反応にマードールはふっと笑い、
「様々な点でおかしいと思っていただろう?」
口調を王女のものに変じ、彼女は言った。
「そうだ。ピピンの目が“おかしい”ということを、貴殿が気づけるかどうか試したように、ここまで色々と試させてもらった。貴殿はそのことごとくに反応を見せ、こちらの思う以上に優れた者であることを我が目に見せてくれたよ。
結果として、貴殿を侮っていたことと共に、数々の非礼をここにお詫び申し上げる」
マードール――セスカニアンの王族から詫びを入れられるという重み。さらには彼女の言葉への理解が手伝い、ニトロはかえって何も言えずに押し黙った。
なるほど、あの従者の行動にはそういう意図があったのか。思えば自分がカプチーノを好むことを知っているかのような口振り、事ある度に一つ一つこちらの態度や対応を観察しているかのような彼女の眼差しも思い出され、さらにはつい直前の『視察』という言葉をも思えば……
「もう、お気づきになられたな?」
ふと、声に敬意を滲ませ、他国の姫は微笑んだ。
ハラキリはその場から目を逸らすようにグラスに口をつけ、芍薬はとうとうその時がきたことに肩を張っている。
二人はこれを避けたかったのかと、ニトロはようやく理解した。
ハラキリが複雑そうに、しかし頑なに教えたくないと示し、芍薬が聞かない方が良いと言っていた意味を――彼はようやく実感していた。
「……」
ニトロはマードールの顔を見つめた。
マードールはニトロの瞳を見つめ返し、そして言った。
「そうだ。妾は何にも先立って貴殿を伺いに参ったのだ。次代の、アデムメデスの王よ」