4−f へ

 ニトロにあてがわれた部屋は、無駄に贅沢なビジネスホテルのワンルームという趣だった。もしかしたら使用人等のためのものなのかもしれない。バスとトイレが備え付けられ、冷蔵庫には飲み物の他に最高級のレトルト食品が詰め込まれている。ルームサービスの受け取り口も傍にあり、ここで一週間隠伏することとなっても不自由はないだろう。
 シャワーで汗を流し終えたニトロは、着心地はまるで綿そのもののバスローブに身を包んで洗面鏡の前に立ち、櫛型のドライヤーを手にしていた。
 ドライヤーのスイッチを入れ、髪を梳く。濡れた髪は一梳きごとに乾いていく。
 着ていた服は、ルームサービスを使って超速クリーニングに出してもらった。十五分もあれば洗浄・乾燥共に終わるという。約束の時間には間に合う公算だ。
 髪を乾かし終えたニトロは部屋に戻るとソファに座り、テーブルの上にいる芍薬に笑いかけた。
「人心地がついたよ」
 芍薬の肖像シェイプはニトロの端末から、ハラキリが忘れていった携帯電話に移っている。
「何か変わりはあった?」
「御意。マズハソノ『烙印』ニツイテ」
「うん」
 笑みを消し、ニトロはうなずく。体を洗う際に試しに擦り落とそうとしてみた『烙印』は、相変わらず左手の甲に青い芍薬の花を咲かせている。
「教団ノサイトニ情報ガ出テイタ。フザケタ話ダケド、マルデ映画ノ公式サイトミタイニ“設定”ヲ語ッテイテサ……『なお、烙印を消すためには、悪魔の血によって贖うか、聖痕の血で浄化するか、あるいは神の赦しを得ねばならない。以外の手段で消そうとした場合、即刻死の天使に首を狩られるだろう』トキタ」
「なるほど、設定と言いつつ、それは明らかな警告だね」
「御意」
「……死の天使か。本当に死ぬのかな」
「ドウカナ。デモ、真偽ヲ判定スルニハ賭金ベットガ高過ギルネ」
「確かに。それじゃあ、ええっと、聖痕だっけ。それについては?」
「『破滅神徒に顕れる』――ソレダケ。誰カハマダ『キャラクター紹介』ニナカッタ」
 思わずニトロは苦笑した。
「破滅神徒にキャラクター紹介ときたか」
 映画の公式サイトみたいに――という芍薬のセリフを思い返して、無駄な設定まで用意してきたミリュウ姫の“くだらなさ”に姉との共通点を見る。
「後で見てみるよ」
「オ勧メハデキナイヨ?」
「ここまできたら毒皿も食ってやろうかって気になってきたんだ」
 ニトロの言葉に、芍薬は小首を傾げるようにしてうなずきを返してきた。その眉は少しだけ垂れている。
「ソレカラ――」
 気を取り直すようにポニーテールを一振りして、芍薬は言った。
撫子オカシラカラ連絡ガアッテ、御両親トクレイグ殿ノ無事ガ確認サレタヨ」
「そっか」
 家族と友人の身に何事もなかったことを知ったニトロは、深いため息をついた。全身から力が抜け、それによって知らぬ間に体の芯に力が篭っていたことに気づく。どうやら思わぬほど緊張していたらしい。
「クレイグ殿ハ主様ノコトヲ心配シテイタッテ。ダカラ、イツモノコトダカラ心配シナイヨウ、実家ノA.I.トシテ返事ヲシテオイテッテ頼ンデオイタ。
 逆ニ御両親ニツイテハ、イツモ通リ初メカラ大事オオゴトッテ認識ヲシテナカッタソウダカラ、ソノママニシテオクヨウ頼ンデオイタヨ」
 苦笑混じりに付け加える芍薬の言葉に、ニトロも苦笑した。まあ、両親は本当にそのままでいい。いつも通り、事件は全て『ティディアちゃんの愛情表現』――今回で言えばその妹の戯れと思っておいてくれれば、余計な心配をかけないで済む。
 それに、クレイグへの返事をニトロ・ポルカトから送れば何かと面倒なことになるだろうことを思えば、実家のA.I.として――という芍薬の配慮には文句のつけようがない。
「ありがとう。最高の判断だ」
 ニトロの礼を受けた芍薬ははにかみ、と、すぐに真顔に戻り、
「ソレデ、御両親ダケジャナク、念ノタメニクレイグ殿ノ身辺警護モシテクレルッテ」
 そう言ってから、芍薬は唇を弓形にして笑った。
 その意図するところを悟ったニトロも思わず笑ってしまう。
「そりゃあ心強い」
 知己の頼れる相手の中で撫子達以上の警備員はいない。もし父母や友に何か手出ししようというモノが現れたなら、それらはまさに悪夢ナイトメアを見るはめになるだろう。
「これで、自分のことだけに専念できる」
 小さくつぶやき、ニトロは同意を見せる芍薬を見、そして――
「芍薬」
「ナンダイ?」
「聞いておきたいんだけど、芍薬を襲った相手は……芍薬をどうするつもりだったのかな。足止めだけが目的じゃなかったろう?」
「生ケ捕リガ最大ノ目的ダッタヨウダネ。人質ニスルツモリダッタラシイヨ」
「……そこに、芍薬を殺す意図は? 少しでもあった?」
「不殺ヲ厳命サレテイタミタイダ」
 芍薬は肩をすくめて軽く言う。
 それは芍薬にとっては――もしくはA.I.達の価値観の中では――軽く扱える情報であるのだろうが……しかし、それは、ニトロにとってはとても軽く扱える情報ではなかった。
 芍薬も肩をすくめた後、それに気づいたようにばつが悪そうな顔をした。ニトロを上目遣いに見る様は、まるでいけないことを言った子どものようだ。
 ニトロは目を細め、
「いや、それで良かったよ」
 主従の価値観の相違を咎めない眼差しを受け、芍薬は安堵したように背を伸ばし、それから首を傾げた。
「デモ、何ガ良カッタンダイ?」
「芍薬を殺す意図があるとないとで、こっちの対応は凄く変わったからね」
 まだ分からないことだらけだが、とりあえず判っていることの一つに、相手がこちらに害を与えることに躊躇がない――という事がある。あの巨人との戦い、今も左手甲に刻まれる烙印――そのどちらにも、命に関わる危険が込められている。
 だが、ニトロは、そのどちらにも最大の怒りを持ってはいなかった。
 理由は単純である。
 ニトロにとって、最も大きな憤怒を向けるべき対象が他にあったためだ。
 こう言ってしまうと芍薬に激しく怒られてしまうだろうから黙っているが、もはや自分がトラブルに巻き込まれるのに慣れ切っている。だから自分への仕掛けに関してはまだいい。しかし、慣れ切った今でも、我慢のならないことが一つある。それは、それこそが、自分以外の者へ意図的な危害を加えられることだ。
 例えば自分を殺そうとした者を許せたとしても、もし大切な人達を殺そうとされれば、きっと相手を絶対に許しはしないだろう。
(……そのことは)
 ティディアもよく知っていた、よくよく判っていた。
 だから、非常識なバカ姫をもってしても、その『最後の砦』を壊す『人質』という手段だけは、危ない冗談には用いたとしても実際には固く禁じ手にしていた。
(そういう意味じゃ、ミリュウ姫はあのバカ以上ってことか)
 とはいえ、芍薬を襲ったA.I.への厳命を思えば、問答無用で主従諸共殺しにかかってくるほどの理性無しではないのだろう。それが判ったことは収穫だった。理性があるなら『話』をする余地もあるはずだ。
 そしてまた――両親に何かの手が伸びていなかった、クレイグに『烙印』が表れていなかった、何より芍薬を殺そうとされていなかったからには、こちらにも理性的に話をする余地がある
「……」
 ニトロは、最終確認を得て、いよいよ一つの覚悟を固めていた。
 ここでハラキリとコンタクトを取れていて本当に良かった。芍薬の『体』が手に入り、あの戦闘服も使えるとなれば選択の幅が大いに広がる。
「ア、ソウダ」
 と、芍薬がうっかり忘れていたと声を上げた。
「撫子カラモウ一ツ報告ガアッタンダ」
 そう言う芍薬はどうでもよさそうな様子でありながら、しかし口振りにはどこか困った感を漂わせている。
「何?」
 奇妙な芍薬の態度にニトロが先を促すと、芍薬は小さく――ただの笑みか苦笑か判別しえない程度に笑い、
「エットネ。実家ノシステムニ撫子オカシラガ手ヲ加エニ行ッタ時ノコトナンダケド……」
「ああ」
 ニトロはぽんと手を打った。実家と言えば、そこにはアレがいる。
「メルトンが何か迷惑かけた?」
「御意。ソレデアンマリ鬱陶シカッタカラ、思ワズビンタシチャッタッテ」
「なんだ、そんなことか」
 ニトロはからりと笑った。
「いいよいいよそれくらい。でもあの撫子が思わずビンタするなんてね。メルトンの奴は一体何をしたんだか」
「……ソウダネ、本当ニ」
 と、言う芍薬は、今やあからさまに引きつり笑いを浮かべていた。ぴくぴくと震える頬にはどことなく恐怖心まで窺える。それだけではない。普段勝気で気丈な芍薬が、やおらぶるりと肩まで震わせた。
「……」
 ニトロは、笑みを消した。
「…………」
 左右を見回し、天井を見上げ、ああ、なんて綺麗なシャンデリアだろうと、今さら気づいた小振りで瀟洒な照明器具に感心し……
 それから彼は、強張る芍薬へゆっくり尋ねた。
「痛いんだ? 撫子のビンタって」
 芍薬が、声を震わせる。
「死ヌホド痛インダヨゥ」






..▼ ▼ ▼ ▼

 ――ミリュウは、夢を見る。
 ――瞼を閉じて、夢を見る。
 二人の兄ともう一人の姉のことは、思い出したくない。
 けれど。
 感謝はしている。
 素晴らしい先生であったティディアお姉様に対し。
 三人の兄姉は凄まじい反面教師として。
 一番上の姉はわたしのことを気にも留めない。いいえ、わたしだけでなく、誰の気持ちも気にも留めない。誰に対しても向けられていたのは全てを見下す冷たい瞳。己と己への賛美のみを愛する独善の瞳。
 二番目の兄の眼はわたしを見ながらわたしを見ていない。いいえ、わたしだけでなく、誰の姿も見ていない。誰に対しても向けられていたのは全てを値踏みする瞳。己の腹の肥やしを漁る貪利の瞳。
 一番上の兄は……忌まわしい。
 嫌いだ。大嫌い。
 幼心には理由も分からなかった、ただ、ただただ嫌な瞳。
 美しき未来の王? 女たちの熱狂は理解できなかった。
 誰もがあれを美男子だと褒めそやしていたけれど、わたしが知るのはおぞましい顔だ。
 未だ悪夢に見る。
 お姉様の。
 わたしの女神様の、その時はまだ世界で誰も知らなかった恐ろしさと共に。


 父と母――第128代王ロウキル・フォン・ジェスカルリィ・アデムメデス・ロディアーナと王妃カディは、王朝の長い歴史の中でも特に凡庸と言われ、またそれを自称した。実際、現君主の政策能力への評価は高くない。
 けれど。
 第128代王ロウキルと王妃カディは、二人共に慈悲に溢れ、人徳に満ち、積極的に国民と交流を持っていることから、王朝の長い歴史の中でも特に国民に親しまれている王・王妃として讃えられている。
 政においては貴族や政治家に王笏おうしゃくを委ね、王権つるぎを持って王威を示すこともなく、それでも敬意を集め愛されている幸せな君主。
 だけど。
 幸せな君主の子ども達は、王家の歴史に強烈なインパクトと異彩をもって名を遺す才覚を備えていた。
 もちろん、ただ才覚に溢れる子女が揃う一家はこれまでにもあった。しかし才覚に溢れた上で大小問わずにスキャンダルを連発し続ける子女が揃った一家は前代未聞、かつ空前絶後だろう。
 長兄ロイスは、爽やかな美顔を持つ父に柔らかな美女である母の良い点を加え、精悍な美男子ながら女性的な色気を備える王子として国の女性に熱狂を呼んだ。その女心を手中に収める術はあらゆる業界のプレイボーイ達が舌を巻き、芸能記者は芸能人を放ってロイス・フォン・アデムメデス・ロディアーナを追いかけ続けていた。
 兄ロイスは、今では『色魔』と軽蔑を込めて呼ばれている。
 三人の女性を同時期に妊娠させたこと――それが長兄の王位継承権候補者の座から追われた理由だが、もちろんそれだけが原因だと信じる者は少ない。今でも真の理由はこれだと性に関わるあらゆる醜聞が噂されている。そしてまた、実はお姉様が追い落としたのだと、まことしやかに囁かれている。
 それらは……概ね正しい。
 本来、ロイス・フォン・アデムメデス・ロディアーナという人物に、それしきの醜聞程度で王位継承権を手放すような良識はなかった。なのに失脚したロイスは自ら継承権を辞退し、王族としての身分を捨てることまで申し出たのだ。
 結果としては、王族の末席に籍を残し、身を隠して暮らすことになったが……そのロイスの不可解とも言える行動を規定した真実は、あれがティディアお姉様に『殺された』ことにある。
 ――あの夜は、風の強い夜だった。
 ちょうどセイラがわたしの執事としてやってくる一週間前。
 わたしが七つ、お姉様が十の時。
 今でも鮮やかに思い出せる。
 十歳にして、お姉様は既に『女』の魅力を備え出していた。
 精神のみならず肉体の発育も早く、肢体は女性特有の曲線を描き出し、成長した暁には絶世の美女となると誰にも疑わせず、五歳の折にセスカニアンこくの大長老に『蠱惑となる』と予見された通り、既にその時分から色の香りで男性のみならず女性までをも虜としていた。
 それを狂った『色魔』が見逃すはずもない。
 公務のためロイスがティディアお姉様のグレイフィード宮殿を宿としたあの晩、わたしもそこにいた。
 わたしはお姉様とベッドを共にし、久々に聴くお姉様の子守唄のお陰で幸せな夢を見ていた。
 けれど。
 幸せな夢は、おぞましい悪夢に犯された。
 ――物音に目を醒まし、隣で、同じベッドで、ロイスとティディアお姉様が見たこともないキスをしている姿を見た時、わたしはまだ夢の中にいて、そうでなければ起きたまま悪夢の中へ迷い込んだのだと本気で思った。
 だけど。
 違った。
「ようやく私の想いに気づいてくださったのですね」
 お姉様は言った。
「この日を心待ちにしておりました」
 十二も違う実の妹の未熟な胸を鷲掴みするケダモノへ、お姉様は甘く言った。
「お兄様が私をお求めになって下さるこの日を」
 その時、わたしはお姉様の言葉の意味も、二人がしようとしていることが何なのかもはっきりとは理解していなかった。ただ、おぞましい。それだけは分かった。止めなくては、お姉様を守らなくてはと思ったけれど、あまりに恐ろしく、目をつぶり身を固めることしかできなかった。
「しかし、ここではミリュウを起こしてしまいます」
 お姉様の声は、それまでに聞いたことのない声だった。
「部屋を変えましょう」
 ロイスはお姉様の意思を無視しようとしていた。
「お願いです……だって……初めてなのに、恥ずかしい」
 その言葉に、ロイスは馬鹿みたいに興奮していた。
 お姉様とロイスは部屋を移った。
 二人が出て行き、扉が閉まった後、わたしはひとしきり、吐いた。
 吐いて吐いて泣いて、喉と鼻を焼く胃液の味に、お姉様を助けなくてはと焦燥を呼び起こされた。
 追った。いかにあのロイスといえど、わたしが泣き叫べばお姉様にひどいことはできないと思った。
 けれど。
 二人のいる部屋を見つけた時、その半開きの扉の向こうから聞こえてきたいやらしい男の啼き声を聞いた時、わたしの足はすくんでその場に崩れ落ちることしかできなかった。
 薄明の点けられた部屋。
 ソファに座るロイスが、声を上げていた。
 お姉様の姿は見えなかった。
 ……見えなくてよかった。
 ケダモノの股間に顔を埋めるお姉様の姿など。
 ロイスが何か言っていた。
 お姉様の笑い声が聞こえた。
 わたしは、声を上げることすらできなかった。
 お姉様がなぜ笑っているのかも分からず、呆然としていた。
 そして、
「――――!!!」
 ロイスの悲鳴が、わたしを貫いた。
 ロイスの体が伸び上がり、そしてロイスはもんどりうってソファから落ちて姿を消した。気絶したらしい。ぷつりと切れた悲鳴の後は、静寂だけ。
 ソファの陰から、お姉様が姿を現した。
 暗がりの中、白い肌が神々しく輝いていた。
 立ち上がったお姉様は口から何かを吐き捨て、脱がされかけていた服を直すとソファに悠然と座った。手を叩く。部屋に何かが落ちた。三体のアンドロイドだった。天井裏に隠れていたらしい。
 アンドロイドの一体が、お姉様と正対するようにロイスの体を動かした。
 ロイスの顔がわたしの目に触れた。凄まじい形相が黒い塊となって、そこにへばり付いていた。
 お姉様がアンドロイドの差し出した水で口をすすいでいる間、別のアンドロイドがロイスの下半身に何かをしていた。それからロイスを動かしたものが、ロイスの気を取り戻させた。
 気がついたロイスは何が起こったのか解らないようだった。けれどお姉様と自分の股間を交互に見、事態を理解して、数多の女性を虜にしてきた美顔を再び醜く歪めた。
 お姉様に向けて何かが叫ばれた。内容は覚えていない。苦痛と憤怒に染まった罵倒は汚らしく、聞いた者の魂を穢れさせるものだったように思う。叫ぶうちにパニックをも引き起こし、金切り声を上げて狂乱するロイスはケダモノを通り越し、魔物だった。
「耳障りね」
 それは、静かな声だった。
 だけど。
 わたしは凍りついた。
 心臓が止まりそうだった。
 今まで聞いたことのない姉の声。
 恐ろしく絶対的な声。わたしはその時、お姉様に連れられてフォグノマ火山で見た赤黒いマグマを思い出していた。
 ロイスの声がやんだ。いえ、声を上げるのを強制的に止めさせられた。恐慌の様子も消えうせていた、いいえ、強制的に消し飛ばされていた。
 わたしから見えるロイスの顔は汗と涙と泡立つよだれに汚れ、今にも砕けそうなほどに噛み締められた歯が異様に白く照り輝いていた。飛び出るばかりに剥き出しとなりぬめぬめと光を放つ眼は、怒りのためにそうなっていたのか、恐怖のためにそうなっていたのか、今でも窺い知ることはできない。
「安心なさい。もう片方は残してあげる」
 お姉様はそう言って、からかうようにカチカチと歯を鳴らした。
 すると、ロイスはそこでようやっと自分を取り囲むアンドロイドに気づいたようだった。ロイスは怯え、叫び、そしてまたお姉様を口汚く罵った。
 お姉様はロイスに好きに叫ばせながら、言った。ロイスの叫び声で埋め尽くされていたわたしの耳に、お姉様の声は不思議と透き通って聞こえてきた。
「おかわいそうに、お兄様」
 お姉様の深い憐れみは、ロイスを呆けさせた。
「早く治療をしなくては」
 お姉様の合図で、三体のアンドロイドが動いた。アンドロイドはいつの間にか異様な道具を携えていた。ロイスが、身の凍るような悲鳴を上げた。
「やりなさい」
 お姉様の命令で、一体がロイスの上半身を床に押し付けた。ロイスの下半身は、本人の意志では動かせないようだった。麻酔を打たれていたのだろう。二体のアンドロイドが屈みこみ、それから――それからは、よくは覚えていない。あまりに楽しそうなお姉様の言葉を断片的に覚えているだけだ。
「今からもう片方に――のはね、爆弾よ」「けど爆発はしない――――ただ毒が――――」「いつでも――スイッチを――」「除去なんて――――」「――回数も制限――回出したら……ボン」「口外――――――私は――いつでもお兄様を――」「そうそう、毒――――全身が―――――」「――で――面白おかしく死んじゃうの」
 無理矢理手術を受けさせられている間、ロイスはお姉様の悲惨な『物語』を聞かされ続けていた。悲鳴と、泣き声と、再びパニックに陥った男の助けを求める懇願の全てが、お姉様の楽しげな“歌声”に飲み込まれていた。
 やがて我を取り戻したわたしは部屋に逃げ帰り、嘔吐物に汚れたベッドへ身を隠した。そこで初めて、わたしは漏らしていたことを知った。ふいに、ふと見えた姉の瞳にあった底知れぬ何かを思い出し、兄であった男の悲惨な姿を思い出し、また吐いた。
 しばらくして、お姉様が帰ってきた。
 お姉様は震えながら懸命に寝たふりをする愚かなわたしの頭を撫で、とてもとてもお優しい言葉をかけてくださった。
「怖い思いをさせてしまったわね。駄目なお姉ちゃんで、ごめんね」
 わたしは堪えきれず、また泣いた。お姉様にしがみついて大声で泣いた。
 謝った。わたしも謝った。
 何も考えられず、わたしは泣いて謝ることしかできなかった。
 お姉様は汚物にまみれたわたしを、嫌がりもせず抱き締め返してくださった。
 何度も何度も頭を撫で、優しい言葉をかけてくださった。
 ――当時、恐ろしいクレイジー・プリンセスの片鱗を誰にも見せていなかったティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの恐ろしさを世界で唯一人知ったわたしは、いよいよお姉様への愛を深めた。
 恐ろしい……恐ろしくてたまらない姿を見せてくれたお姉様。
 その一面はわたしにとって、まさに畏れ敬われる神が業深き人間に天の火を落とす顔に他ならない。
 お姉様はわたしの唯一の神。
 ああ、優しくも恐ろしく、怖ろしくも慈愛に満ちた女神様。
 今になっても思う。
 女神の胸に抱かれるわたしの栄光を。
 幼いわたしは幼くともちゃんと知っていた。神の秘密を漏らす妖精は、神の怒りで石となって砕け散ることを。だから、お姉様も口止めをしようとはなさらなかった。
 一ヶ月の後、急にロイスの身辺が騒がしくなり、三人の妊婦が現れた。中には未成年もいた。
 そうしてロイスは第一王位継承権を手放し、慌しく姿を隠した。

 次兄ディエンは、十代の内から類稀な商才を発揮し、自身の資産を湧水のごとく増やしていた。その錬金術は金融街の大物達をも子ども扱いするほどだったのに、最後には激しく法を逸脱して王家から追放された。
 次子ながら、幸運にも第一王位継承権を得た二年後のことだった。
 父も母も追放まではしたくないと思っていたようだけれど、闇社会の首魁らを呆れさせるほどの所業は赦されるはずもなく、ディエンは死ぬまで牢獄で暮らすこととなった。
 ティディアお姉様が暗躍していたことは間違いない。ディエンは、今ではお姉様の名を聞くだけで正気をなくすのだから。
 ……わたしはこの時、知ったことがある。
 お姉様はロイスの件を悔やんでくださっていた。
 わたしを無闇に巻き込んだ――と。
 それとなく、ディエンの件を訊ねたことがある。
 お姉様は黙ってわたしを抱き締めた。
 わたしは、お姉様がわたしを大事に思って下さっているのだと、温もりとともに伝わってくるそのお心を感じ――また泣いた。


..▽ ▽ ▽ ▽


 パトネトは、泣き叫ぶミリュウの姿をじっと見つめていた。
 フレアが姉の悲鳴が聞こえぬようヘッドフォンに細工しようとしてきたのを止め、震えながら、大好きな姉の苦闘を心に焼き付けていた。
 ヘッドマウントディスプレイには仮想世界で『過去げんざい』を経験する姉の姿がある。
 手元のモバイルには姉の脳波や神経の反応等のデータや仮想世界を成立させる各種データがあり、そして半透過するディスプレイの先を見つめる網膜には、ベルトで拘束されていなければリクライニングチェアから転がり落ちているであろう姉の肉体がある。
 記録ログが作る『過去げんざい』の中で、巨人は折れた膝をついてニトロ・ポルカトを追っている。
 ショックを軽減させるために半ば夢、半ば現に身を置き、そのせいで、姉は夢と現の両方で激痛と苦悶に喘いでいる。全身から冷や汗と脂汗をしたたらせ、食いしばった歯の隙間から悲鳴と嗚咽を漏らしている。
 姉を死の危険から守るためとはいえ、その処置はかえって残酷なものとなってしまっていた。
 姉は、うめき、うなる。
 その胸は激しく上下し、呼吸も脈も激しく乱れている。
 巨人は、折り取った街灯を手にしていた。
 のたうつ姉の口から――頬を濡らす姉の涙へ、ニトロ・ポルカトの名が伝っていく。
「……」
 パトネトは、思う。
 もしかしたら、こうでもしないと、姉は彼への憎悪を保てないのかもしれない
 あえて痛みを受けて心を冷まさねば、自らの醜い思いと行いに肺を焼かれて窒息してしまうのかもしれない。
 そうしなければ……もう……
「お姉ちゃん……」
 パトネトはつぶやいた。
 この声が、二人の姉に届かないことを理解しながらも、呼びかけずにはいられなかった。
「――――――!!!」
 絶叫が、天啓の間を揺らした。
 芍薬の駆る警察用アンドロイドに巨人が――姉が腹を貫かれている。
 フレアに微調整を任せながら、パトネトは適切に対処をしていた。姉の脳が『死』を認めることがないよう細心の注意を払いながら、強制終了させたい気持ちを懸命に押さえて作業を続ける。
 芍薬の手が、巨人の腹部に収まる駆動系の基幹を的確に捉え、生身の人間が食らおうものなら内臓が焼け焦げる電撃を躊躇なく放つ。
 ミリュウは悲鳴を上げなかった。悲鳴を上げる間もなく、失神していた。
 医療用に特化した機能を持つ『ミリュウ』が駆け寄り、パトネトのモバイルから提供されるデータを基に処置を行う。
 するとすぐにミリュウは意識を取り戻し、大きく息を吸うと苦しそうに咳き込んだ。
 その姿をじっと見つめながら。
 涙ぐみ、パトネトは口の中でつぶやいた。
「……ニトロ君」

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