4−h へ

 ――ショックだった。
 面と向かって言われたその言葉――次のアデムメデスの王――それは決して初めて言われたわけではない言葉だが、しかしニトロは、他国の王女の口からその言葉を投げかけられた瞬間、極めて激しいショックに見舞われていた。
 聞く前からそう言われることを悟っていたのに……それなのに、目がくらんだ。
 手に汗が滲む。
 額に熱がこもる。
 ひょっとしたら今自分は夢を見ていて、そうでなければ悪夢が現実に紛れ込んできたのでは?――などと非現実的なことを考えてしまう。ここは本当の自分の居場所ではないのだ。だから、いっそさよならと別れを告げて去ることができたなら、どんなに楽なことだろう。ここが間違いなく『現実』であり、偽りなく望まぬ形になってしまっている『現実』であり、そして、現実から立ち去ることなどできないことを解り切ってしまっているからそんなことはやっぱり決してできないのだと知り過ぎてしまっていて、だからこそ、この現実が否定されたらと望みたくなる。――望みたくなる? 違う、望んでしまうのだ。望んで、それが叶わないことを自ら己に告げながらも、それでもどうしても望んでしまう!
 動揺と葛藤が擦れてぶすぶすと黒い煙が湧き上がる。
 目がまた暗む。
 もはやこの世界に自分以外の何者も認められない。隣には、周りには、ただただ『人の形をした何か』だけがある。
 喉が渇く。ああ、やけに喉が渇く。
 彼はまだ口をつけていなかった液体を喉に流し込んだ。
 味が感じられない。
 喉もまだ渇いたままだ。
 それなのに、舌を慰めることも喉も潤すこともできないくせに、冷えた液体は腹の底に落ちると猛烈な冷気を体内に巻き上がらせた。それは背骨を通じて頭脳を痺れさせ、血管を通じて血肉を凍らせ、そのついでに体の芯をどこかに持ち去っていく。芯が奪われた後にはつれて心の置き所も失われ、空洞化した心身の内に不安感が吹き荒れる。自我の支えまでもが激しく揺らいだ。いや? 揺らぐも何も、そもそも、   の支えは何だったっけ……?
 彼はふと体が浮き上がっているような気がした。酷く捻じ曲がった力にまとわりつかれ、どこかに吹き飛ばされる恐怖に襲われた。途端に命綱が欲しくなり、カウンターに手を突き身をよじって自分がちゃんと椅子に座れていることを確認する。
 と、その拍子に、彼の目がカウンターの上の『人の形をした何か』を捉えた。何か? そういえば、何かとは何だ?
 はたして手元の小さな機械の上に立つ何かは、一体、何だったろう。
 こちらを見上げてくる小さな人……これは――ああ、そうだ……芍薬だ。
 芍薬と目が合った。
 芍薬は眉を垂れている。
 芍薬は何も言わず、ただひたすらにこちらを見つめている。
 しかし、芍薬は呼びかけてきていた。
 そしてその声を、彼は聞いた。無言の呼びかけを確かに彼は聞いた。
 彼は――ニトロ・ポルカトは、静かに我を取り戻した。
 現実の時間としては刹那のことであったろう。だが、壮絶な動揺の中では時の進みは遅く、不自然な時の流れに放り込まれた心はそこから逃れた今もまだ息を切らしている。流れに飲まれた先で訪れた暗みの深淵、失望と絶望の手がびっしりと生え並ぶ生き地獄の底から浮上しえた今もまだ、その恐怖の名残のために心臓は高鳴り続けている。動揺は……全て消え去ったわけではない。
「――」
 ニトロはもう一度サンドリヨンを飲んだ。
 爽やかな甘酸っぱさが舌を蘇らせ、喉を潤す。
 深くゆっくりと息をつき、わずかな時間で必要なだけの落ち着きをどうにか取り戻したニトロは改めて隣を見た。
 やはり、そこには『人の形をした何か』などはいない。やはりそこにはセスカニアンの王女にして極めて重い贈り物を差し出してくれたマードールがいる。さらにその向こうには、いつも通り飄々として、どこか人を食ったような雰囲気の親友がいる。
「……」
 ハラキリと目が合ったところでニトロは芍薬に目を戻し、微笑んでみせた。
 そして、
「それは、決定事項ではありませんよ」
 気を張るように言い、彼はマードールに向き直る。
「それどころか、殿下の貴重なお時間を無駄にさせることとなりましょう。次代のアデムメデス王の座に、私はいません」
 至極丁寧に、噛み締めるように、ニトロは断言した。
 それから人称を戻し、続ける。
「だから、俺のことをそのように思うのはやめてください。何を考え俺に貴女との面識を持たせようとしているのかは――解ります。しかしそれは意味の無いことです。あの場から助けてくれた人の期待を無闇に裏切るのは本意ではありませんから、はっきり言っておきます。
 俺は、ティディアを愛していません」
 マードールの瞳には、真っ直ぐセスカニアンの王女を見るニトロがある。
「もちろん恋人でもない。それはあいつが勝手に言っているだけのことで、あいつの言葉でそうなってしまっているだけで、真実は、俺はただの『漫才の相方』です。決して女王の夫としてこの国に立つ未来はありません。
 だから、俺とどんなにコネクションを築こうとも、セスカニアンに優位がもたらされることはないでしょう。今回のことには深く感謝します。しかし、だからこそ、どうぞ他のことにもっと時間を使って下さい」
 マードールはそこでふむとうなずいた。
 ティディアの恋人ではない――ニトロが公に何度も口にしている告白を受け、一度彼から視線を外す。
 ニトロは、マードールが例によって『真実』を『照れ隠し』だと受け取ってしまうことを危惧した。可能な限り真摯に言ったつもりだが……それでも、これまで一度たりともティディアの『呪い』を覆せたことがないために。
「マティーニを」
 ピーチフィズの残りを一気に飲み干し、マードールはカウンター内のアンドロイドに注文した。アンドロイドは空となったピーチフィズのグラスを下げつつうなずき、素早く一杯を作り上げる。
 目の前に差し出されたカクテルグラスを見つめ、マードールは言った。
「貴殿は――君は、解っていないな。それとも自覚しているのに、無自覚でいたいのかな?」
 呼び方を変えたのは、ニトロへかかる重圧をわずかにも殺ぐための気遣いであろう。しかし、そのためにかえってニトロには彼女のセリフが重く感じられた。気遣いがあるからこそ、重くのしかかってきた。
「どういうことです」
 怪訝というよりも不安を滲ませるニトロへ、マードールは優しく――その労わりが彼にまた重く!――微笑みかけ、
「実を言えばな、君がアデムメデスの王になろうがなるまいが……ここまでくれば正直それは関係ないのだよ」
「矛盾していませんか? それは」
「いいや、矛盾はない。無論、君がアデムメデス王となられることを最大のメリットと設定して、妾は君に『御機嫌伺い』に来た。だが、最小のメリットとしては、現状の君と面識を持てるだけでも十分なのだ。君が将来、ティディアと別れることになろうとも、アデムメデスを外から見た時に、既に君の存在感はとても大きい」
 ニトロの瞳には、次第に微笑みを消していく王女の姿がある。
「未来は、まあウチには予知能力者プレコグニショナーなどもいるがな、それでも絶対なる未来は見通せぬ。そう、未来はどうなるか判らぬものだ。確かに君の言う通り、例えば君がティディアと別れ、この国の玉座に座る未来はないのかもしれない。だが、その場合、君が政治家としてティディア女王に対するようになる未来はどうかな? そこまでいかなくとも、ティディアと深い面識のある人間――というだけで、それだけで君には“そもそもの”利用価値がある。君からあの子に関する情報を聞き出すことも期待できるし、あの子の思惑を予想するにあたって、我々が思いもつかない可能性を示唆してもらうこともできるだろう」
「……だとしても、俺はそこまで他国の方が価値を見出すほどの人間ではありません。それに、僭越ながら思い違いをされているとしか俺には思えない。
 ティディアと別れた後の俺に、一体誰が関心を持たれます? その時はきっと『漫才コンビ』も解散している。そうなれば、王女との接点をなくした『元恋人』はティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに対する“地雷”となるでしょう。あの傍若無人で恐ろしいクレイジー・プリンセスの機嫌を取りたい人間が、わざわざそんなリスクに近づきますか? むしろティディアの機嫌を損ねるリスクを減らすため努めて話題から外すはずです。俺と関わろうという人間もいなくなるでしょう。確かに俺は他の人より正確な情報提供をできるのかもしれません。期待に応える予想もできるのかもしれない。けれど、それを得るのと引き換えに失うものの大きさを考えれば、いくらなんでも割に合わない。となれば結論は決まっている。そのうち俺は世間から忘れ去られます。忘れ去られた『元恋人』に、そちらの言う価値などあるでしょうか」
「なるほど、それも予想されうるものではあろうな。しかし、君が忘れ去られることなど――妾はそれこそ『決してない』と踏んでいる。特にあの子が『クレイジー・プリンセス』である限りは、そうだろう」
「?」
 あからさまな疑問符を顔一杯に表すニトロへ、マードールは笑みを送った。微笑みではない、あからさまな笑顔。それはからかいのようでもあり、どこか自虐のようでもあり、それなのにこちらへの慰めのようにも……ニトロには見えた。
「もし君との関係を解消した後、ティディアが賢君としてあり続ければ、確かに取り立てて『元恋人』に触れようという者はいまい。君の言ったことは正しくなるだろう」
 マードールはそこで区切りニトロの反応を待った。
 ニトロは、うなずいた。
 するとセスカニアンの王女は、まるで生徒に言い聞かせるかのように、柔らかくも力強く言った。
「だが、もし彼女が相変わらず『クレイジー・プリンセス』として悪ふざけをするならば、どうかな?」
 彼女はマティーニを一口、そうやってニトロに考える時間を与え、それから自ら結論を下した。
「その時は多くの者が君を求めるだろう。恐ろしくも栄光あるティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの悪ふざけの度が過ぎれば過ぎるほど、間違いなく民はこう思うだろう――
 嗚呼、こんな時にニトロ・ポルカトがいてくれたなら
「そんなことは……」
「現に君は」
 マードールは断じた。
「既に『クレイジー・プリンセスが何かしでかしてもニトロ・ポルカトが止めてくれる』と思われている。いや、思わせていると言った方が適切かな? あのミッドサファー・ストリートで暴走する王女を恍惚の亡者共々トレイ一つで葬り去ったように、と」
「……あれは……」
「此度のミリュウ殿下の件は、取り様によっては現王の御子の中で最も『まとも』であった方までもがとんでもない本性を隠していた――という重大事件だろう。それも未来において少なからずクレイジー・プリンセスの暴走を止めることも期待される『良心』が、だ。
 それなのに、どうもこの国は普段着だな。とても落ち着いている。その理由を察するに、アデムメデスの総意は、例えミリュウ様までもが暗君の相を持っていたとしても、ニトロ・ポルカトが義妹を正してくれる。ティディア様すら抑える彼が『劣り姫』にどうこうされるわけがない、彼に任せておけば万事良く収まる……そんなところであろうか」
「……」
「しかしそれは実に賢明な判断だと思うよ。良薬が存在するというのに、あえて騒ぎ立てて傷に雑菌を吹き込み悪化させるのは暗愚というものだからな。――そしてこれはまた、君が頼りない妹姫に取って代わり、頼りがいを伴って現王の次を担う『まともな子』の座に既に在ることを示しているのだろう」
「……」
「今一度言おう。クレイジー・プリンセスの度が過ぎれば過ぎるほど、間違いなく民はこう思う――こんな時にニトロ・ポルカトがいてくれたなら。
 それとも君は、ティディアが大人しくなり、模範的な女王となる未来が来ると保証できるのかな?」
 ニトロは、黙し続けていた。
 悔しいが、いちいちマードールに反論するだけの根拠がなく、最後の質問に至っては『ティディアへの信頼』が置けないが故に反せない。反するためにはティディアへの強固な信頼が必要となり、自分には……それはできない。
 ややあって、マードールは今度は口を速めて、まるで畳みかけるように言った。
「妾は君にとても残酷なことを言っているのだろう。だが、アデムメデスの友人としてニトロ・ポルカト殿に申し上げておく。今後100年、もしくはそれ以上の年月、世界経済において重要な位置に立つであろうアデムメデスの強力な権力者との関係を考えた時、それへの対応策から決して外せない要素として組み込めるほどに君は『大きい』のだ。それは、しかと自覚しておくべきことだよ」
「……」
 ニトロはカクテルグラスに口をつけ、乾いた唇を濡らした。
 自分がもし彼女の話を理解できなかったならどんなに楽だったろう、そんなことをふと思う。
 また、セスカニアンの王女、マードールの口の裏には仄かな焦りと緊張がある――それを察知できずにいたら、もっと気も楽だったろうに、とも思う。
 ……解っている。
 この度の、第一王位継承者のクロノウォレスの独立記念式典への出席が、どれほど重要な意味を持っているのか。
 クロノウォレスでその『世紀の大発明』が成されたのは一昨年のことだった。
 それは最も単純な説明では精神感応の性質を持つ合金を作り出す業であった。生み出された合金は元より存在する精神感応金属ミンディライトの代表格に因んで人工霊銀A(ア).ミスリルと名づけられた。
 今後順調に生産されることも併せて発表されたその報告は瞬く間に銀河を駆け巡り、二十数年前に独立したばかりの小さな無名の国は全世界の耳目を集めた。それは奇跡とまで言われた。
 現在、精神感応を利用した技術は知られていれども、広く普及はしていない。利便性も知られているし、次世代技術に欠かせなくなると語られてもいるが、それでも普及を妨げる要因があるために未だ一部――例えば最先端技術を必須とする場所、物好きや富裕層のための贅沢品――に用いられているに止まる。ニトロも、初めて実用的なものとして触れたものはあの『毀刃』だった。
 しかし、それだけ期待を集めていながら、未だ普及が妨げられているのは何故か。
 理由は簡単だ。一に必須の材料が銀河規模で超希少金属ウルトラレアメタルであるため。二にそれ故に研究が広範に進めることができないでいるため。三に研究が進められない上に、そもそも加工が難しいため。それらの事情から、必然的に『製品』が非常に高額となるために。
 そこに普及を妨げる要因全てを一気に解決する技術が生まれたのだ。その合金を作り出す触媒となる物もそれなりに希少レアであるが、それでも精神感応金属に比べれば埋蔵量に天と地ほどの差があるため将来性も担保されている。
 研究は進むだろう。伴い製品開発も進むだろう。価格も下がれば、精神感応技術を用いた品が爆発的に普及することは容易に想像できる。今後、未来図として語られていた通り、コンピューターを始めとする様々な生活必需品に不可欠な技術ともなろう。クロノウォレスの国営企業とアデムメデスの王立汎科学技術研究所が共同開発した技術が、いずれ永く金の卵を生む鶏へと成長するとは誰もが想像するところだ。
 そして、希望に沸くのはその二国だけではない。特に期待を掻き立てられ頬を上気させているのはもちろん精神感応金属の産出国らであり――アデムメデス近隣で言えば、有数の霊銀ミスリル産出国であるセスカニアンがそうだった。
 何しろ産出国には強みがある。産地であるが故に高い精神感応金属への知識と加工技術があり、精神感応金属よりも加工しやすいことが証明されている人工霊銀に関してもその技術を応用できるという強みが。
 また、人工霊銀よりも“感度”の質がずっと高い精神感応金属の価値は変わることなく、いや、むしろ増していくだろう。他の“同輩”を出し抜きうまく立ち回り、これまでの一部だけでなくこれからの九部にまでも深く食い込むことができたならば、得られる利益は素晴らしいものとなる。
 そのために、セスカニアンはいち早くアデムメデスとの不利な協力関係を結んだ。対等な協定を結ぼうと時間をかけるよりも、多少の割引を強いられても基幹に入り込むを良しとし、また、その不利を考慮に入れても将来的に得られる恩恵にはプラスを取れると踏んでの大局観。
 マードールが来週正式にアデムメデスを訪問し、ティディアと話す予定であることはまさにこの件に他ならない。セスカニアンとしては、未来の利益をできるだけ上積みするための交渉をしかけてくることだろう。
 その前提を踏まえた上で、セスカニアンの姫君が非公式おしのびながら『次代の王』への『視察という見定め、ひいては御機嫌伺い』を重要としてくるのは――無論その行為そのものが(下手をすればニトロ・ポルカトに重圧を与えるだけで終わり、)不興を買いかねない“ギャンブル”だとはいえ――流れとして至極真っ当なことだ。
 さらに、この他国の為政者は、その他の国々もこれから『次代女王への対抗手段になりえる者』に注目してくるぞ――と、それを暗に示唆してくれた。それはまるで忠告であり、先を見据えて言えば『貴方を思い遣りお耳を傷めることを承知で忠告申し上げる私は、貴方にとって信頼に値する人物である』というアピールでもあるのだろう。
 それだけではない。
 不自然にも超能力者ピピンの秘密を明かして見せたのは、『貴方に隠し事を致しません』と信頼を勝ち取る手段にも思えるし、こうやって保護してくれたのも『私は貴方の味方です』という実践以外の何でもないのではないか?
 全ては、打算。
 今になってヴィタの言っていたことを理解する。
 ――『ハラキリ様が最も適任であるが故に、いいえ、ハラキリ様の他にはあり得ない』
 もし、この“面会”がティディア経由であったなら絶対に理由をつけて断っていた。
 官吏や役人からの依頼であっても、もとよりこれに類する要請は受けないことになっているから丁重に断っただろう。ただ、こちらはティディア経由とは違い、事情によっては絶対とは言い切れない。しかし例え引き受けざるを得なくなっていたとしても、それでも互いに打ち解けないことだけは絶対だったと言い切れる。他国の美しい姫君との会話はもっと緊張して、ずっと余所余所しく、他人行儀と社交辞令と表面的な誉めそやし合いだけで終わったことだろう。
 ……そう、ハラキリだけだ。
 彼だけなのだ。
 ニトロ・ポルカトと親しく、セスカニアンの王女とも面識があり、かつ、これだけ二人が距離を詰めて会話ができるようにセッティングできる『舞台装置』として介在しえる人間は、まさにハラキリの他にはあり得ない
「なんともまた、急に目的を明かしましたねぇ」
 と、そのハラキリが、ふいに口を開いた。
「しかもそんなストレートに。言うにしても、てっきり仄めかす程度と思っていたのですがね?」
 夏の喜びサマー・ディライトを飲み干し、可愛い子猫プッシー・キャットを頼むハラキリにマードールは言う。
「それでは誠実ではないだろう」
 ハラキリは笑った。
「そもそも下心満載で誠実も何もないでしょうに」
 マードールはむっとして言い返した。
「それでも精一杯の誠意は示したいと思うのだ。あれ以上の隠し立ては妾が許せぬ」
「心行くまで “試し”も終えたからには王女わらわとしての未練もないし? それはまた都合のおよろしい誠意で」
「……相も変わらず……痛い所を手酷く突いてくれる」
 一国の、それも他国の王女を平気で言い負かす親友の姿にニトロは思わず芍薬と顔を見合わせた。先ほど知ったハラキリとマードールの初対決の模様が想像できて思わず笑ってしまう。
 するとマードールがニトロに顔を向けてきた。
 その表情からは感情を掴み切れないが……まあ、この王女様も自身の立場と本心との兼ね合いで色々大変なのだろう
不埒な女プッシー・キャット、ね」
 もう一つ、ニトロには笑いの種があり、彼はそれを口にした。
 ハラキリの前にスライス・オレンジで飾られたグラスが置かれる。ハラキリの口元には――ニトロが気づくことを期待していたのだろう――ほくそ笑みがあり、そのグラスとその笑みとを一瞥したマードールが不思議な顔でニトロに目を戻してくる。
「アシュリーの――」
 と、そこでニトロは口を閉じ、ここは『こちら』が相応しいかと口を改め、
「僭越ながら、殿下のご心境を拝察いたしました。ご安心下さい。この件で私が殿下へ悪感情を抱くことはありません。むしろ、重ね重ねのお心遣いに感謝いたします」
 ニトロが言うと、そこでマードールは気づいたらしい。さっとハラキリへ振り返る。
「ま、ニトロ君にここで殿下を嫌気させるのは、打算的に考えて不利益が多いものですから」
 飾りのスライス・オレンジを齧りながら、ハラキリは、ニトロとは反対に気軽に言う。
人工霊銀ア.ミスリルに関しても。これについてはこちらが風上でも、他面ではそちらの後塵を拝する事案がありますのでねえ。“我が偉大なる姫君”のことを考えれば殿下に失態を踏ませて機嫌を損ねるのは面白くない」
 齧り終えたオレンジをバーテンダー・アンドロイドが差し出した小皿に捨て、ハラキリアは続ける。
「ついでに言えば――本当はこの『視察おしのび』の真の目的が隠し通されることを期待していたんですがね。まあ、拙者にとって最善とならなかったとはいえ、それでも、ニトロ君に正直に接することを選んだ可愛くない妹へ、誠意の一つくらいは贈ってやってもいいでしょう」
「下手に隠そうとしていたら、どうしていたつもりだ?」
 試しに聞いてみた……といった感のマードールの問いに、ハラキリはプッシー・キャットを一口飲み、
「どうもしませんよ。ただその場合、ニトロ君の信頼を勝ち得ず、そのためにおひいさんからの評価も下げられたマードール殿下は、失態ついでに普段の行動に関してもぐちぐちお叱りを受けただろうと想像いたします。もちろんこんなハイリスクな命令を出されたことに殿下も言いたいことがありましょうが、まあ、『負いの渡り姫』はとかく都合良く扱われるものですから大変ですよねぇ」
 ハラキリの遠慮仮借ない軽口は、それがあまりに遠慮仮借なさ過ぎて逆にマードールを笑わせた。その頬は苦々しさと痛快さが入り混じり、何とも言えぬ形に歪んでいる。
「試していたつもりが、実は妾が試されていたか」
「とんでもない。そんな恐れ多いことは致しませんとも」
 そうは言っても彼の言い分を信じる者は、マードールはもちろんニトロも芍薬も、さらには部屋の隅に控えるピピンも含めて誰もいない。この場で最も誠実でない者は、されど最も平然として続ける。
「まあ何はともあれ、殿下はこの場合において最善を選ばれたということです。でなければ、彼は貴女にあのような優しい言葉をかけなかったでしょう」
 それまでハラキリに目を向けていたマードールが、言われてふいとニトロへ振り返る。
 と、
「ッ」
 ジッとマードールの横顔を見つめていたニトロの目とマードールの目が衝突し、互いに不意の出来事に目を瞠って息を飲む。
 ニトロの目にはぎょっとした驚きだけがあった。が、マードールは違った。彼女は自分を見つめていた少年の瞳に物憂げな色があることを見て取って、ふと大人の女性の余裕を見せるように目を流し、
「どうかしたのかな?」
 ニトロは少しの間、押し黙った。
 彼の脳裡にはハラキリが口にした言葉が反響していた。
 ――『負いの渡り姫』
 そう呼ばれた彼女の顔を背後からジッと掠め見ていた時、ニトロは、何とも言えぬ思いを味わっていた。
 太古から超能力者の存在が認められ、幻想的な――まさに幻想的な自然環境を持つセスカニアン星には、それゆえの呪術的・神秘主義的な文化・伝統の背景がある。
 例えばセスカニアン王室で唯一下々と触れ合う役は『負いの渡り』と呼ばれ、その役にある者が決して重要な地位に置かれないこともその一例だ。それどころかその立場にある王子女は儀礼的に――あるいは実際に――他の王族に敬遠される。王らの神聖性を守るために一人王威を背負い、臣民らに権威を顕わす役を担うのに、だがそのために“神”と“俗”双方の『罪』に触れ、それにより双方の世界の『毒』をも背負うが故に敬遠されてしまうのだ(この起源は催眠能力ヒュプノシス等で王族が害されることへの予防措置であるそうで、超能力への対抗策が科学的な面からも発展した現在では半ば形骸化したしきたりにもなっている)。
 それを個人の背景にしながら、マードールは歴代でも特に――半ばしきたりを破るかのように――『外結界げかい』に渡って様々な人々と親しんでいる。王族の中での彼女の立場は押して知るべしであろう。そしてその一方、時に形骸化したしきたりの数々を怠慢の盾にしていると批判されるセスカニアン王室が、時に彼女にどれだけ守られているかということも忘れることはできない。
『とかく都合良く扱われる』というハラキリの言葉が、耳の奥を痺れさせる。
 耳の痛いことを突き刺す最中に王女がふと送ってきた労わりが脳裏に蘇り、からかいにも自虐にも慰めにも見えた彼女の表情が瞼に再生し……最後のハラキリとマードールのやり取りがまた、耳に沁みる。
 王女と個人の――同じ人間の中での同じ人間同士のせめぎ合い。
 その上で、マードールは、打算まみれであっても、それがどうしようもない苦し紛れの駄作であったとしても『彼女』にできうる限りの誠意を示そうとしてくれたのだ。
 ニトロは、言った。
「何だか、自分の同級生の方がアシュリーよりずっと年上に思えたものですから」
 それはもちろん、嘘だ。
 だが、まるきり嘘というわけでもない方便。
 微笑を浮かべるニトロのそれを、マードールはふっと形のない笑顔で受け止め、
「そりゃ年数はお兄ちゃん達の三倍を数えてるけど、社会的な年齢って意味じゃそう変わらないからね」
 ニトロに応じてアシュリーの口振りで、マティーニに口をつけながら言う。
「それはさすがにサバ読みすぎでしょう」
 それに対して、ニトロがツッコむ
 するとマードールは妙に楽しそうに、口を尖らせながらも目を細めて応える。
「卒業したての女子大生ならいい?」
 拗ねたようなわざとらしい口振りに、ニトロはからかいの笑みを作って肯を返す。
 そこにハラキリが加わってきて、
「どちらにしろ青二才ってことですか」
「まあねー。成人式もまだ二回残しているから」
 セスカニアンでは法的には21歳で成人とされ、文化・社会的には21歳から七年ごとに計七回行われる通過儀礼を修めて大人と認められる。そして大人となるまでは半人前、青二才、成人見習い、あるいは運転免許取立てのドライバー……アデムメデスの感覚に無理矢理翻訳するならそういうことになるらしい。
「それにしても」
 と、マードールは少し上目遣いにニトロを見つめ、嬉しそうに言う。
「ちょっと思ってたんだけど、ウチのことに結構詳しいみたいだね」
「結構身近な国ですからね。何度か旅行に行ってみたいと思ってましたし、それに亡命先の一候補でもありますから」
「亡命先?」
 好意的な言葉を追って突然現れた不穏な言葉に、マードールが驚く。
 ニトロは少し“してやったり”の顔をして、
「言ったでしょう? 俺はティディアと結婚する気はないと。だから、将来のことを考えれば生活の基盤を他国に移す選択肢が当然出てきます。まあ亡命というにはちょっと大袈裟かもしれませんけどね、でも……受け入れてくだされば、そちらにはそれなりにメリットがあるでしょう」
 先に自身が語った『メリット』をそのまま言い返されたマードールは、う、と言葉を飲み、それを誤魔化すようにマティーニを口にした後、
「……う〜ん」
 うなり、腕を組み、口を引き結んで首を傾げ――それはそれは不満そうに言った。
「恋人ではないっていうのは、本気の本当だったのか……」
「? ええ」
 思わぬほどの残念がりように戸惑いながらも、ニトロはうなずきを返す。
「愛していないというのも?」
「本気の本当ですよ。何なら彼女に確かめさせたらどうです?」
 と、ニトロが背後のピピンを指して言うとマードールはそちらを見やり、それから首を左右に振った。
 その行動を視界の隅にニトロが芍薬を一瞥すると、芍薬は目礼を返してくる。ピピンの伺い立てにマードールは否定を返した――つまり、ピピンが精神感応能力者テレパシストでもあることと、その力を無断で使っていないことの両方を確認して、ニトロは他国の王女の『誠意』に最終的な信を置いた。
「サマー・ディライトを」
 サンドリヨンを飲み干し、バーテンダー・アンドロイドに注文する。
 それを横から眺めていたマードールの目が、こちらの意図を察する動きをしたことにニトロは気づかぬ振りをして笑いかけ、
「まあ、そういうわけで。ハラキリの言う通り、仲良くしていただけるのはこちらとしても打算的にありがたい」
 言うと、マードールは一瞬面食らった顔をして、それから派手に吹き出した。吹き出して、次第に声を高め、ついには大声を上げて笑い出す。
「……そんなに面白いことを言ったかな?」
 ニトロに問いかけられたハラキリが愚問をとばかりに肩をすくめる。
「君は器が大きいのだか天然なのだか判らないことが時々あります」
 バーテンダーが差し出したサマー・ディライトを受け取り、一口飲み、ニトロは眉間に皺を刻んだ。
「天然ってのはちょっと嫌だなあ」
「はあ、しかしカエルの子はカエルと言いますが」
「親と子は他人とも言うな」
 ハラキリはニトロの強硬っぷりに眉をひそめた。
「別にそんな嫌がることでもないでしょう? 酷い親ならともかく」
 それに対してニトロは口を尖らせ、
「酷い天然だから嫌なんだよ。俺は迷子になったから迎えに来てと子どもに向けて放送される親にはなりたくないの。しかも一度や二度じゃなく、さらに当人迷子になったのは本当だからって恥ずかしがらないんだぞ?」
「ピンポンパンポン――ニトロ・ポルカ様、お連れのリセ・ポルカ様が迷子センターでお待ちです、“早く迎えにきてねー”あ、お母さま駄目です勝手に“ぶびゃー!”“あらあらミーちゃん、ジュースを鼻からファイアしちゃってどうしたの?”あああ、すいません手伝ってもらガコプッ……パンポンピンポン――でしたっけ」
「朗らかに迷子として迷子たちと遊んでる母親見たら泣けるぞ、いやマジで」
「あっはっはっはっ!」
 一度は収まりそうになっていた笑いを再び爆発させて、マードールが大口開けて涙をこぼす。ツボに入ったらしい。足をばたつかせて息も絶え絶えになるまで笑い続け……
「……もったいないなぁ」
 ようやく落ち着いたところで、彼女は言った。
「君が、君だけじゃなくて君の一家がアデムメデス王家に関わったらきっと良いのに」
「ごめんです」
 即、断じて、それからニトロは、
「それに、その王家の一員からノーを突きつけられてるのに良いも何もないでしょう?」
「ノーか。
 やはり、そういうことなのだろうな」
 その微妙な発言に、ニトロは眉を跳ね上げた。
 そういえばこのセスカニアンの王女はアデムメデスの王家と親交が厚い。ミリュウ姫と直接言葉を交わしたことも一度や二度ではないだろう。
「殿下ハソウ思ッテイナカッタト?」
 と、目ざとく芍薬が口を挟んできた。
「チョウド個人的ニオ訊キシタイト思ッテオリマシタガ……『劣リ姫』ノ所業、マードール殿下ハ――個人的ニハ、ドノヨウニゴ覧ニナッテイルノデショウカ」
 あえて『劣り姫』という“別称”を用いてきた芍薬をマードールは面白そうに見つめ、
「なるほど、君は忠臣だ」
 マスターが何を言うより先に問うたオリジナルA.I.に誉れを向ける。
 小さなことだが、これをニトロが問うていればセスカニアンの王女への助力の要請という形にもなる。その上、他国の王女に自国の王家の情報を提供することを求めるのは、ニトロの現状からすると少々道義的なところで複雑に厄介だ。
 しかしオリジナルA.I.個人の興味に落としこめばそこを突かれる隙はない。さらに『劣り姫』という別称を用い、また念入りに“個人”に限定することでどうしても公的な側面を持つマードールを強いて『個人的な世間話』に付き合わせる形に落とし込み、何か問題を生んでもA.I.に責を集めれば概ね解決する……というレベルに物事が整えられている。
 マードールは芍薬に撫でるように指を差し出し、言った。
「出際に、ウチの予知能力者から託宣があった。曰く『姫君在り、ニトロ・ポルカトに悲劇有り』」
 予知能力者にも種類があり、そのほとんどは曖昧にして断片的な情報の先取り……という形であると聞く。極々稀に、数年前に死去したセスカニアンの大長老のように、まるで映画のトレーラーのように比較的長い期間でより正確に未来を予見する者もいるらしいが、大抵はマードールが口にしたように、そうなることが分かったとしてもそれだけでは解釈余地の広すぎて役に立たない一言二言を示すらしい。実際、彼女の聞いた託宣も、それだけではミリュウとの事か、それとも『渡り姫』自身がニトロにもたらした重い現実の自覚の事を示しているのか判別がつかない。また、予知した未来は“予知されたこと、そのために”変化する可能性もあるほどデリケートなものだという。
 なるほど方針を定めるには最適だ、しかし予知能力者の存在が認められながら世界の覇権を握る国がないのはそういうことだ――という古典の一文を思い出し、ニトロが誰に対することもなくうなずく。
 と、それを見て、マードールが次の句を告げた。
「個人的には初報を観た際、クレイジー・プリンセスの悪ふざけが最も大きく頭に浮かんだ。託宣の悲劇はまさに『劇』だったか、恋人の厄介な性癖に彼がまた苦労させられているぞ――と、失礼ながら心から楽しんでいた」
 ニトロから目を外し、芍薬の眉がひそめられるのを見ながらマードールは続ける。
「だが、ハラキリ・ジジの反応から、これがただ事ではないと悟った」
 ニトロと芍薬の目がハラキリへと飛ぶと、彼は肩をすくめて視線に応えてきた。それは照れ隠しなのか悪びれる風もないのか――その判断のつき難い態度の通り、普段は人に考えを読み取らせない彼が、友の事情を他人に悟らせるような反応を示すのは珍しい。
 当然マードールの『お兄ちゃん攻撃』にやりこめられていた影響もあっただろうが……しかし、ニトロは何だかんだ言いつつも友が本当に心配してくれていたのだということを知り、嬉しかった。
「きっと妾は、託宣とこいつの反応がなければ、未だにミリュウ殿下が姉を黒幕にしているか、それともただ姉の真似事を君に仕掛けたと思い込んでいただろう」
 そして、マードールは言った。
「しかし誤解を逃れ得ても、事の因果を掴めるほどの理解を得たわけではない」
 少し残念そうに眉を垂れて芍薬を見る。
「すまぬな。君に期待されているような目新しい情報を妾は与えられまい。おそらく何を予想しても君達の考えの範疇、その解釈違いくらいにしか届かないだろう」
 そこで彼女は、ふと一つ長い息をつき、
「ただ、やはり、あの子が姉の真似ではなく己の意志であんなことができるとは思っていなかったな。とても驚いた」
 そう言ってマティーニを飲み干し、次にプリティー・ドールを頼む。
「何故デス?」
 芍薬が問うと、マードールは不満の目を芍薬に流した。それを観て、芍薬が言い直す。
「何故ダイ?」
 素直な応えにマードールは微笑み、
「あの子は、臆病な子だよ。会う度に、いつも何かに怯えているようだと思わされていた。無論あの子はそれを表には出してはいなかったが……まあ、印象論というやつだ。本来の性格的に、あの子は王女には向いていないのだろうな」
「ソレデモ、彼女ハ王女ダ」
 ニトロは芍薬の言葉に、ミリュウの姉が、妹に対して同じことを言っていたことを思い出した。
「……そうだな」
 カクテルグラスに注がれたプリティー・ドールがすっとカウンターを滑り、それを受け取ったマードールが早速口をつける。
「頑張っていたよ。ミリュウ殿下は、あのとんでもない姉を持つ身でありながら、どうにか潰れることなく王女をよく務めていた。他国の人間である妾から見ても、よくやっていたと思う」
 グラスを置き、彼女は、ふと小さく笑った。芍薬を見つめ、
「秘密だよ?」
 と、人差し指を唇にあて、片目をつむって彼女は続ける。
「しかし、妾はあの子が好きじゃなかった」
 驚きの告白にニトロは飲みかけていたサマー・ディライトを噴き出しそうになった。一瞬、何をいきなりと言いそうになり、それを芍薬の目に止められて言葉を飲む。
「嫌イ、ッテコトカイ?」
 芍薬の問いに、マードールは少し考えた後、首を振った。
「違うな。嫌いではない。ただ好きじゃなかったのさ。あの子は心の中に何があっても一から十までティディアの言いなりだろう? まるで『お姉様の手作り人形』だ。そしてそれが、しきたりに一から十まで縛られる自分の写しを見ているような気にもなってくるから……好きになれるはずもない」
 ふいに、マードールの微笑みに影が差した。
 ニトロは手にしていたサマー・ディライトのグラスを静かにカウンターに置いた。見ればハラキリも真摯に話に耳を傾けている。
「貴女ハ、セスカニアンノ王族ノ中ジャア随分シキタリ破リナ姫ジャナカッタカイ?」
「単に行動の幅が大きいだけだ。しきたりそのものは破れてはいない。しきたり破りというのはね、君のところの王太子殿下を言うのだ」
「……マア、確カニアノバカハ色々破ッテクレテルケドネ」
 身近なところで言えば、まだあくまで一般人のニトロが王城で彼女に“謁見”する際に必要であるはずの諸手続きは当たり前にブッちぎられている。他にも、過去、妹のために女執事を登用したのも――当時色々理由は付けられていたが――厳密にはしきたりに反することだし、自分の先代執事、また当代執事を選んだ時も『優秀な者』を得られないのは無意味と断じ、今や完全にしきたりそのものが作り直されている。
 さらに何より最も破壊的なのは、王家の人間、それも第一王位継承者が『ドツキ漫才』をしていることだ。王女が嬉々としてボケ、嬉々として殴られている。ヨゴレもシモネタも危険な時事ネタも辞さず……常識的に考えれば、どう建前を取り繕おうが狂気の沙汰である。
「だから、妾はティディアが好きでな」
 ン? と、芍薬がマードールを見上げる。
 マードールは悪戯っぽく口の端を持ち上げ、
「自分が望みながらできないことを可能にする者に対し、向けられる感情は何が考えられる?」
「素直ニ考エレバ、マズ妬ムカ、憧レルカ」
 マードールはプリティー・ドールを半分まで飲み、それからうなずいた。
「私は憧れた」
 私、という変化に、ニトロは彼女の心情を見た気がした。
「君の言う通り、私は歴代の中で最も奔放な『渡り姫』だ。だが、私はね、ティディアを知ってからは自分よりずっと年下の彼女の真似を少しだけしているにすぎないんだよ。何とか自分の申し出を無下にさせないだけの成果を出せているから、今、ここにこうしていることもできるが……しかしそれが限界だ。同時に、ここが私の限界かな」
 それを語らせるのは酒の力だろうか。頬を赤めるセスカニアンの王女は、ふふ、と笑い、ふいにニトロに目を移し、
「機会があれば、あの子が国際会議に出る時ついて行くといい。今でも思い出すよ。まだ自国で成人もしていない少女が初めて国際舞台に立った時、彼女のことを知らず、アデムメデスを歯牙にもかけていなかった海千山千の者どもが彼女の存在感に抗えずに飲まれていった様を。そして後に、彼女の自国での非常識な暴れっぷりと、それでも国を良く興隆へ導いていくという矛盾した結果を見せられて、常識では考えられないその結果に多くの者が瞠目し当惑した様を。
 きっと君が思う以上に、あの子は凄い人間だよ。
 それを判っていながら解っていないから、うちの王室や重鎮どもは『今回の件』に無駄に慌てるはめになるんだ」
「今ノハ記録ログカラ消去シトク」
「おや、これは失言。……愚痴にもなっていたかな?」
 苦く笑うマードールに芍薬は首を振る。可愛らしく振れるポニーテールを見ながら王女はカクテルを飲み干し、次いでソルティ・ドッグを頼む。
 縁を塩で飾られたグラスに氷がからんと鳴り、ウォッカが注がれ、グレープフルーツジュースが加えられる。ステアされ、差し出されたカクテルを見つめてマードールは、
「……しかし思うほど、残念だ」
 彼女は組んだ腕をカウンターにつき、次の句を待つ芍薬に顔を少しだけ近づけた。
「君のご主人様がティディアと……あのクレイジー・プリンセスと渡り合う姿には、だから、ほとほと感嘆させられていてね。あの子にはもうニトロ・ポルカト以外にはいないだろうと、そう思っていたんだが」
「ソリャ残念ダ。ソレニソウ考エルヨウジャ、ソレダケデ底ガ知レルッテモンダヨ」
 手厳しい芍薬の返しにまた愉快気に苦笑して、マードールはニトロに目を移した。
 軽く前屈みになった彼女の首は自然と傾げられ、横の彼を見ようとする動きが自然と流し目を作り上げる。
 ほろ酔い色に肌を染める幻惑の美女の瞳には請いもたゆたい、本人に演出の意図がないが故にそれは純粋に美しく、妖しい。どこか彼岸の世界から誘惑されているような酩酊感が喉元をくすぐり、まともに彼女と目を合わせては、その妖精の願いを自然と受け入れないでいられる男はないだろう。
 ――だが。
 それでもニトロは、自然と拒んだ。
 そして、マードールだけでなく、ハラキリも言っていた『人形』というミリュウへの評を思い返し、
「俺は、俺を一人の男性ひととして見てくれる相手を……なんて青臭く思ってます」
 マードールは、少し自分の言葉に照れ臭そうにする少年を見つめ続け、やおら頬をほころばせた。
「要は何よりも、愛か」
「愛って何なのか、よく解ってませんけどね」
 真面目に聞かれたからには真面目に返し、それからニトロはまたも照れ臭そうに眉を垂れる。
 マードールはソルティ・ドッグのグラスの縁を飾る塩を舐め、それからカクテルを一気に飲み干し、はあ、と大きく息を吐いた。
「湿っぽい話をしてすまなかったな。そして、付き合ってくれて、感謝する」
 威厳にも似た落ち着きを声に含ませて、彼女は言った。
「もう夜も深い。今更ではあるが、お疲れだろう。ゆるりと休まれるが良い。また、ここは一週間ずっと妾のものだ。お好きなだけ利用されよ」
 ニトロはうなずき、
「お心遣い、感謝します」
 残っていたサマー・ディライトを飲むと、マードールに一礼して姿を消した芍薬の居る携帯電話を手に取り、席を立った。
 部屋の隅に目をやると、ピピンが深く頭を垂れてくる。
 ニトロは礼を返し、それから案内に立とうと同じく席を立ったハラキリに並びかけ、
「楽しい一時でした」
 席に座ったまま、こちらに体を向けるセスカニアンの王女に振り返って頭を垂れる。
 半ば社交辞令でもあるが、頭を上げたニトロに彼女は微笑みとうなずきを返す。
 そこに、ニトロは一つ、問いを投げた。
「アシュリーはミリュウ様のことを好きではないと仰っていましたが」
「――うん?」
「今回の件を受けては、どうですか?」
 あの時、ハラキリは言った。これはミリュウ姫の自立の一歩かもしれない。ティディアにも、それを期待していることを伺わせる気配があった。
 一から十まで姉の言いなりではなくなった――かもしれない、ミリュウのことを……自分の写しとも思えると言った相手のことを、マードールは一体どう思うのか。
 ニトロはそれに興味があった。
 マードールは彼の心を察し、
「そうだな」
 目を細め、穏やかに答えた。
「ちょっとだけ、好きになったかな」

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