『前夜』

 ニトロ・ポルカトとティディア姫の漫才の収録は、本日も無事に終了した。
 遅刻することを前もって知らせていたニトロも本番までには余裕を持って間に合い、リハーサルは簡単な確認作業しかできなかったものの、第一王位継承者と一般高校生の『漫才コンビ』の息はさすがピッタリ合ったもので、アドリブまで交えた本番は大笑いの内に幕を下した。
 そして、仕事を終えた二人が身内を連れて戻った楽屋……
 テレビ局が『貴賓』のために特別に作ったその部屋は、収録終了から四十分が過ぎた今現在、異様な雰囲気に包まれていた。
「はあ、そんなことがあったんですか」
 姿勢悪く椅子に座って板晶画面ボードスクリーンにペンを走らせながら、収録の見物にやってきていたハラキリは言った。
「毎度毎度、退屈しませんねぇ、ニトロ君」
 その他人事然とした言葉に、ドロシーズサークルでの一件をハラキリに話し聞かせておきながら、しかし彼に語るよりもむしろ何かを問いかけるように一人の女性を窺い見ていたニトロの瞳がぱっと親友に振り向けられた。その眼差しは刺すようなものに変じている。
「それは皮肉か?」
「純粋な感想ですよ。
 さて、これでどうです?」
 ハラキリの隣に座るニトロは、テーブルに置いた板晶画面ボードスクリーンを覗くや友人から送られてきた『レンタル料』に取り消し線を引き、新たな数値を書いて送り返す。
「……ふむ」
 ハラキリはうなってペンを置き、その手を彼の前に置かれた皿に伸ばした。焼いたハムと目玉焼きとチーズを挟んだサンドイッチを取り、ボードスクリーンを見つめたまま齧る。
 ――それを、凄まじい勢いで睨む羨望の眼があった。
 ハラキリの対面で、サンドイッチがほとんど小山と詰まれた大皿を前にもぐもぐと口を動かすヴィタの背後――まるで麗人に取り憑く亡霊のように佇むティディアが、恐ろしくも目を血走らせている。
 ぼそっと、飢えし王女が何事かをつぶやいた。
 亡霊に取り憑かれた女執事が芍薬に淹れてもらった紅茶をすすり、静かに首を振る。
 亡霊の目が沈み、さらに、迫力を増した。
「しかし、話を聞く限りそれなりに君も楽しまれたようですが」
 半分サンドイッチを食べたところで、ハラキリがやはりボードスクリーンを見つめたまま言った。
「楽しんだって言うよりなー」
 ニトロは頭の後ろで手を組んだ。サンドイッチを作る際に使った調理器具を片付けていたアンドロイドが彼の傍に戻ってくる。新しく淹れられた紅茶がカップに注がれていくのを眺めながら、彼は吐息混じりに言った。
「……まあ、否定はしないよ。驚きの再会もあったし、あの子も賢い良い子だった」
「ほうへふは」
 三分の一の大きさとなったサンドイッチを口に放り込んで相槌を返し、ハラキリがボードスクリーンにペンを走らせる。
 ぼそぼそっと、また、ティディアが何事かをヴィタに囁く。ヴィタのイヌ耳が片方ピンと立ち、彼女は若干頬を強張らせつつ……とびきり美味しいマーマレードのサンドイッチをゆっくり一口齧った。するとその頬が見る間に緩んだ。ピンと立てられていた片耳が己の主人をぞんざいに掃き払うかのようにさっさっと振られる。亡霊が、涙を流した。
 ニトロは王女と執事がある意味壮絶な問答を繰り広げている光景を平然と無視し、ハラキリから送られてきた改定料金に一筆加えて送り返した。
 直後、ハラキリも即座にデータを修正してニトロに突き返す。
 刹那、ニトロは突き返されたデータを手も加えずそのまま弾き返した。
 ふらりとティディアがヴィタの背後を離れ、よろよろとニトロに近づいていった。
 それをアンドロイド――芍薬がにべもなく追い払い、抵抗する間もなく追い払われた王女は悲しげにじっと愛しい男性を見つめた後、力なくうなだれ、とぼとぼと部屋の隅に向かった。
 彼女に哀れみの声をかける者は、誰もいない。
 部屋の隅で座り込んだ王女が何だかかすれた声で童謡『メリーさんの棺』を歌い出す。
「うるさい」
 ニトロが語気強く言う。
 ティディアは黙り……抱えた膝に顔を埋めた。
「笑ってやるべきなのか、同情をかけるべきなのか」
 ハラキリは紅茶をすすり、ぼんやりと言った。それは彼が、ティディア姫への扱いに対して初めて口を開いた瞬間だった。
「いやはや何とも対応に困る……おかしな光景ですねぇ」
 目の前には幸せそうに夕食を食べ続けるヴィタと、その後方の片隅でちっさくなってるアデムメデスの第一王位継承者。
 今は縮こまっている亡霊からは、しかし今でもニトロ特製のサンドイッチを食べる従者と友人に向けて強力な『ほどこしをちょうだいビーム』が照射され続けており、収録を終え楽屋に戻ったニトロがサンドイッチを作り出してからというもの凶悪なプレッシャーがこの空間に充満し続けている。
 その上、その『ビーム』を飲み込むほどに強烈な『絶対にほどこすなオーラ』がニトロから放たれているのだから堪らない。
 冷たいんだか熱いんだか暑いんだか寒いんだか判らない空気。
 サンドイッチは美味しい、紅茶も美味しい、だが――何だこれ。
「別におかしくもなんともないさ。ただの天国と地獄だよ」
「『ただの』と言うわりに随分大仰な対象な気もしますが……というより、この場合はむしろ罪と罰では?」
「そりゃどっちもあいつのものじゃないか。俺のサンドイッチが罪か罰ってんならあれだけど」
「ふむ、『美味い』が罪ならばそれも成り立ちますか――ね、と」
 ハラキリは、ボードスクリーンに力強く数字を書き込んだ。
 送られてきた『料金』を見たニトロは芍薬に目を向けた。端整なアンドロイドは微笑を浮かべる。
「商談成立ですか?」
「おう、これでよろしく」
「では早速手配しましょう。明後日にはお届けしますよ」
「分かった」
 ニトロはハラキリと軽く握手を交わし、そしてティディアの丸い背中を見た。
「……」
 ため息をつき、面倒臭そうに声をかける。
「次は作ってきてやるよ」
 がばっ――と、本当にそんな音を立ててティディアが立ち上がった。振り返ったその顔の中で、びっくりするくらいに瞳がらんらんと輝いている。
 ニトロはぶっきら棒に手を振った。
 ティディアは嬉しそうにうなずき……
「……今日は?」
 恩赦をくれたニトロの優しさ――あるいは甘さにもたれかかるように、彼女は言った。
 即、ニトロはにっこり笑ってうなずいた。
「やっぱ次もなし」
「ぅわ! 前言撤回! お願いニトロやっぱり今日はいいから次は、次回こそは!」
「うるさい黙れ♪」
 断じるニトロはにっっっこりと笑っているが、その目は全く笑っていやしない。瞼も目頭も目尻も緩んでいるのに、そこだけ嫌に硬質な瞳がギラリと輝きティディアをめつけている。
 その殺意すらも生易しい視線を一身に浴びたティディアは言葉も息も吐けず――
 彼女は一度当てもなくきょろきょろと瞳を動かし、やがてビーフパストラミのサンドイッチをぱくつくヴィタ、へらへらと状況を観察しているハラキリ、ニトロの傍で直立不動の芍薬――最後にニトロへと順に目を巡らせて……やおら寂しそうに微笑むと、再び部屋の隅に向かって座り込んだ。
 壁に向き、壁に話しかけるように今度は有名な哀歌『憂愁』を口ずさみ、
「だから黙れ」
 再びニトロに語気強く言われて、ティディアは抱えた膝に顔を埋めた。
 さすがに気が咎めたのだろう。ヴィタが食事の手を止めマリンブルーの瞳をニトロに向ける。温情を求める執事の声なき声にニトロは一考の余地もなく首を左右に振った。
 ヴィタは目を落とした。下手に彼の不機嫌を刺激しては余計に悪い結果を招きかねない。彼女は涼やかな顔のままに胸中でため息をつくと、やや厚めに切られて焼かれたハムと目玉焼きが織り成すハーモニーに、ハムと同じく『レアフードマーケット』出品の特製チーズが素晴らしいアクセントを添えるサンドイッチをみ、
「そうだ、ヴィタさん」
 ふいにニトロに呼ばれ、ヴィタは咀嚼もそこそこにサンドイッチを飲み込むや目を少年に戻した。呼びかけてきたニトロの声はやけに明るかった。さらに、彼はあからさまにわざとらしい調子で続ける。
「次は……また二週間後か。弁当箱、忘れずに三つ持ってきてね」
「三つ、ですか」
「そう」
 ニトロがヴィタ――と、ティディア――から預かっている弁当箱は、全部で三つだ。いつも二つをヴィタ、一つをティディアのものとして持ってきては、汚れた弁当箱をそのまま二人に返し、代わりに『その次』のための三つを受け取り持って帰る。
 次回、ティディアの分の弁当を作ってこないのなら、必要な空箱は二つのはずだった。
 なのに――ということは……
「かしこまりました」
 麗しい微笑みを浮かべたヴィタは、優雅に頭を垂れた。そしてやや長く下げていた頭を上げると、これまでより、より美味しそうにサンドイッチを食べていく。
(……なるほど)
 その様子をニトロの隣で眺めていたハラキリは、実家に『金冠鶏の卵』を何時頃持っていけるか連絡するよう芍薬に頼んでいる友人を今一度見つめ、次いで部屋の隅で丸まっている王女に目を向けた。
 彼女は相変わらず抱え込んだ膝に顔を埋めているが、いつの間にやら横倒しになり、床に猫のように転がっていた。その背中はどこか嬉しそうだ。さっきまで力なく萎れていたというのに生気も戻っている。
(許しを与えることで罰が活きることもある――と、聞いたことはありますが、実践を見るのは初めてですね。うまくやるとこうなるわけですか)
 ティディアはぎゅっと膝を抱えたまま動かない。それは危うく罰を長引かせかねなかった愚行を繰り返さぬよう、自らを戒めているようでもある。
 また、彼女はもう亡霊が放つ怨念のような訴えも取り下げていた。今日はしっかりとニトロの罰を受けると決意したらしく、もはや彼女から『ほどこしをちょうだいビーム』はかすかにも照射されていない。
 ……想い人から与えられた空腹を噛み締めているその口は、再来週、きっとニトロの手作り弁当を大事に大事に噛み締めることだろう。
(……それとも……)
 ハラキリはたった一人の女友達から、たった一人の男友達へと視線を移した。
 ニトロはヴィタと談笑し、芍薬の淹れた紅茶を美味しそうに飲んでいる。
 それを見るハラキリの脳裡には世に語られる友の『あだ名』がいくつも浮かんでいた。
(これこそニトロ・ポルカトにしかできない操縦法――なんですかね)
 ハラキリが薄く笑っていると、それに気づいたニトロが怪訝に眉をひそめた。
「……何?」
「いいえ、何でもありませんよ」
「そう言われても……気になるんだけど」
「気にするのは次の弁当の中身だけでいいんじゃないですか?」
「そうもいかないさ。いつ何時バカが襲いかかってくるかっていっつも気にしてなきゃいけないんだから」
 明らかに『彼女』に聞こえるようにニトロは言う。
 ハラキリは薄く浮かべていた笑みを色濃く刻み、
「そうですか……いや、そんなんでよくノイローゼとかになりませんねぇ。気が変になりません?」
「一時期本気で危ないかなーと思ったけどねー。っつーか、そのあたりはハラキリも知ってるだろ」
 ニトロは紅茶をすすり、人を食ったように肩をすくめる親友の態度に片笑みを浮かべながらも、
「でもまあ、お陰様で乗り越えられたよ。それに今じゃあ、それも俺の仕事、みたいなもんだしさ」
 冗談でも洒落でもなく軽く言われて、ハラキリは思わず笑った。
 冗談でも洒落でもなく、その気になればアデムメデスという国一つを『殺せる』王女を相手に、彼はそんなにも軽々とそう言ってのけるか。
 見ればヴィタがニトロを凝視している。その滅多に感情を克明に映すことのない顔には、ニトロ・ポルカトという個性への深い関心が表れている。
 ティディアも膝を抱え寝転がったまま器用にこちらに振り向いていた。その人心を惹きつけ、あるいは惑わせ、屈服させる魔力を湛える瞳には、不思議なことにある種の快楽にも似た心地良さが見受けられる。
 何事もなく平然としているのは、ニトロと、そのパートナーだけだ。
 その光景を目に焼きつけるようにして見つめていたハラキリは、やおらため息をついた。
「いやいやニトロ君」
「ん?」
 紅茶を飲んでいたニトロがカップをソーサーに置き、かすかに首を傾げる。
 無邪気とも取れるその姿に奇妙な感慨を覚えたハラキリは、いつものようにへらへらとした笑みではなく、深い感嘆と賞賛を込めた微笑みを浮かべて言った。
「いつの間にか、君は本物になりましたね」
 ニトロは親友の唐突な言葉の意味をいまいち把握し切れずきょとんとしたが……
 しかし『師匠』に純粋に褒められていることだけは理解し、少し不思議そうにしながらも、少し――くすぐったそうに口の端を持ち上げた。

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