2−5−7 へ

 翌日――
 早朝五時十二分。


 安らかな寝息を立てていたニトロが、突然、むくりと体を起こした。
 寝ぼけた眼で周囲を見渡すと、カーテンの隙間から夏のまばゆい朝の光が薄暗い部屋に漏れ入っている。
「……」
 ニトロはベッドの上に座ったまま、ぼんやりと考え事をしているような様子でうつむき、それきり動かなくなった。
「ドウシタンダイ?」
 トイレに行こうとするわけでもなく、単純に目が覚めたというわけでもなさそうなニトロを訝しみ、芍薬が声をかける。
「悪イ夢デモ見タノカイ?」
「……いや……」
 寝ぼけた声で、ニトロは言った。
「夢じゃなくて……何か、ティディアが大笑いしているような……そんな気がしてね……」
 芍薬は仰天した。
 何と言えばいいのだろうか。虫の報せ? 野生の勘? 時折見せる鋭敏なその感覚――我がマスターは、対ティディア専用の超能力サイオニクスでも有しているのだろうか。
(ソレトモ、コレガあたし達A.I.ニハ持チ得ナイ『人間ノ力』ナノカナ)
 何の飛躍でもなく、本当に芍薬はそう思った。
 問題は解決しているから、マスターにはゆっくり眠ってもらって、いつも通りに起床した後、昨日買ってきたジャムを塗ったパンと程よく焼いたハムでも食べてもらいながら聞いてもらおうと思っていたのだが……
「大笑イシテタヨ」
 このように起きてしまったのでは仕方がない。
 芍薬の言葉を聞いたニトロはぱちりと目を開き、完全に目を覚まして訊いた。
「何かあった?」
「御意。『結果』ガ出タ」
 ニトロはあぐらをかき、手を組んだ。どんな答えでも受け止めると全身で心構えを示す。
「仮説@ダッタヨ」
「――現在、マスメディア大騒ぎ?」
「イキナリドデカク点火シタトコロ。コレカラドンドン大キクナルヨ」
 多目的掃除機マルチクリーナーが持ってきたコップを受け取り、水で喉を湿らせたニトロは一度うなずいた。芍薬の声に危機感がないということは、自分にそう面倒はないということだろう。
 ニトロは平常心を保ったまま、
「で、どう出てきた?」
 その問いの直後、壁掛けのテレビモニターの電源が入った。昨夜チャンネルを合わせていたテレビ局の早朝ニュースが映り、夏らしく陽気なセットを背景にして、エフォラン紙が本来休刊日である日曜に出した特別号・『ニトロ・ポルカトへの疑惑』について報じる若手女子アナウンサーの険しい顔がニトロの目に飛び込んでくる。
 ニトロは女子アナウンサーが語る内容に眉をひそめ、次いで彼女の横に大きく映し出されているエフォラン紙を眺め――
「……なんとまあ!」
 どういう驚愕の声を上げればいいのか一瞬分からず、ニトロは思いついた言葉をとにかく発した。
 エフォラン紙の一面にはこうある。
『ニトロ・ポルカト 少女に強制猥褻!!』
 使われている写真にはスカートの裾を膝上まで持ち上げている、顔が判らぬよう目の辺りに黒線を入れられた『ミリー』と、その前に屈みこんで膝を覗き込むニトロ・ポルカトの姿。ご丁寧にその写真は来歴証明ペディグリードファイルであることもアピールされている。
 二ページ目であろうか、衝撃的な一面に並べて表示されている紙面には『抱っこ』した小さな少女に嫌がられている姿まであった。間違いなくドーブの店・ディアポルトでの光景だが、おかしなことに背景にあるべき移動販売車ケータリングカーがどこにもない。そして景色の一部がそう刈り取られているだけで、そこには、一面の写真からそちらに目を移せばこれはまさに性犯罪者が美少女をかどわかそうとしている決定的瞬間だ! と思い込まされる絶大な演出力が生み出されていた。
「ダだだ大問題ですぞ! 芍薬!?」
「大丈夫ダヨ、主様」
 険しい顔でエフォラン紙の渾身の記事を読み上げ続ける女子アナウンサーとは対照的に、この上なく悠然と芍薬は言う。
「何で? いやこれ俺の人生お先真っ暗じゃない!? 今も昔もこの手の犯罪は――ってそうだ、芍薬が言ってた懸念ってもしかしたらこういうのじゃないのかな!」
「大丈夫」
 大慌ての……思わずコップを振り上げそうになった手を何とか抑え込んで言うニトロとも対照的に、やはり芍薬は穏やかに言う。
 ニトロは、そこでようやく気づいた。残っていた水を一気に飲んで胸におこっていた火を消し、一度大きく深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「……」
 そう――
 きっと、既に問題は解決しているのだ。芍薬とティディアの間で話もついているのだろう。
「……ティディアは、何て?」
「悪ビレモナク『ごめんねー。でも絶対に悪くしないから、任せて』ッテサ」
 ティディアとの会話を録音していたらしく、彼女の声を再生して芍薬は告げた。
「ドウシテクレヨウカシラ、トモ言ッテタヨ。楽シソウニ」
「……そっか。……それじゃあ、本当に仮説@だったのか」
「……ソノヨウダネ」
 幾ばくか釈然としない点が残るものの、『結果を確認しての結論』が出てしまったからには、二人はそれで納得するしかなかった。
「ソウソウ、主様ノ言ウ通リあたしノ懸念ハコノ類ダッタンダ。ダカラ、ティディアニハコッピドク文句ヲ言ッテオイタ。ヨクモ主様ノ人生ヲ嫌ナ形デ台無シニシカネナイ手段ヲ! ッテ」
「ん、ありがとう。今度俺からも叱っておく」
「コッピドクネ」
「もちろん。
 ……でも、これ、どうする気なんだろう……。いくらあいつでも、こういう疑いを解くのって難しくないかな」
「問題ナイヨ。伝家ノ宝刀モアルシ」
「伝家――ああ、パティですって言やいいのか」
「御意。デモ、ソレハトドメニ取ッテオクダロウネ。ソレマデハ悠々ト『エフォラン』ノ無駄ナ抵抗ヲ見物スル気ジャナイカナ」
「……どういうこと?」
 ニトロが眉をひそめると、壁掛けのテレビモニターのチャンネルが変わった。
 見ると、王立放送局の女子アナウンサーが、淡々とした表情で『ニトロ&ティディア親衛隊』のWebページに掲載されていた『隊長日記』を紹介している。そこにはミリーだけ顔のぼかされた、三人で撮ったあの写真もあった。
 本来裏付けが取り難く、言責も求め難い電脳情報界ネットスフィア発の情報をこんなにも早く王立放送局が扱うはずはない。なのにそれを報じているということは、こんなにも早い時点で王立放送局報道部が、隊長のその記録を『猥褻疑惑』への有力な反証であると相当の確信を持ったということなのだろうが……
 状況の推移が掴み切れずニトロがでっかい『?』を浮かべていると、芍薬が鼻歌混じりにデフォルメ肖像シェイプをモニターの隅に現した。
「エフォラン紙特別号ノ発行時間ハ四時半。激昂シタ様子デ隊長ガコミュニティニログインシテキタノガ四時三十四分。デ、ソノ十五分後ニハ、ソノ時コミュニティニログインシテイタ会員全員デ、隊長ノ昨日付ケノ日記ヲ色ンナトコロニ紹介開始。
 チャクチャクト『包囲網』ハ完成サレツツアッテ……オ、サスガニ王立放送局ハ仕事ガ早イネ」
「なお、この日記に掲載されている写真の来歴証明は――」
「来歴証明情報モシッカリ確認シテイル」
 ふりふりとポニーテールを振って、芍薬は言う。
「エフォランノモ来歴証明ガアルケド、随分加工シタ後ノ取得ダカラネ。一方隊長ノモノハ無加工・無修正・保存回数『0』ノオリジナルガ『来歴証明サービス課』ニ保存サレテイル。コノ場合ドッチノ証言ガ信頼サレルカッテイッタラ、言ワズモガナ、ダヨ」
 ニトロは何とも言えぬ気持ちで、王立放送局の放送を見つめていた。やがて大した事を報じていないようにも思えるほど淡々と話題が次に移る。
 それを契機にチャンネルが先ほどのものに戻され、すると、さっきまで険しい顔で原稿を読んでいた女子アナウンサーが泡を食ってうろたえている様が映った。
 どうやらもう一つのスクープであるらしい大衆紙・クリッピングデイの一面を飾る王女ティディアとレッカード財閥の末っ子との『密会』を報じようとした寸前、ニトロ・ポルカトの疑惑に関する新しい情報――王立放送局の影響だろう――が差し込まれたようだ。
「なんと、まあ……」
 虚脱したように、ニトロはつぶやいた。
 これは幸運と言うのか、それとも隊長が言っていたように『奇跡』なのか。
 以前では考えられない反応の大きさ、その動き。しかもあの獣人にこういう形で助けをもらうとは……あの二度の襲撃の時分には、全く予想し得なかったことだ。
 感激か、感動か、縁の奇妙なる帰結への敬服か――
 どうにも言葉にしえない感情が
「ありゃー」
 ただただ意味のない声となって、漏れ出していく。
「全ク『日頃ノ行イ』トハヨク言ッタモノダネ」
 祝福の花吹雪まで散らして、ニュースを凝視するばかりのニトロに芍薬は言った。
「本当ニ馬鹿ナコトヲシタモンダヨ、アノ下衆ライターモ。コンナ記事ヲ売リ込ンダラドウナルカ解ラナイ歳デモナイダロウニ。エフォラン紙ダッテソウサ。編集長ハ部数ガ落チ続ケテ首デモカカッテイタノカネ。コンナ阿呆ナ内容ヲソノママ採用シテ。
 別ニアッチニドンナ理由ガアッタカナンテドウデモイインダケドネ……セメテ、人ヲ貶メル方向ナンカジャナク、コンナ『大スクープ』ニ目ヲ曇ラセルコトモナケリャア、モット素晴ラシイ結果ヲ得ラレタノニ」
 ニトロは視線を芍薬に落とした。
「モシ、主様ヲ悪クスルッテコトヲ前提ニシテナケリャ、キット気ヅケタハズダヨ。ソレトモ一度冷静ニ立チ帰ッテ、観察シテ、骨格照合ソフトデ確カメテミレバソコニアル宝物ニ気ヅケタノニ……ネ?」
 ニトロは、静かにうなずいた。
 確かに、『ニトロ・ポルカトと、パトネト王子の散歩』――これは今までどの紙も局もインターネットの記事も報じたことのない特ダネだ。
 さらにパトネト王子は女装をしている。その理由はお忍びの変装ということですぐに決着がつくだろうが、問題はそこにはなく、重要なのは『彼のファン』が大喜びするということだ。エフォラン紙史上最高の売り上げが期待できたことだろう。
 だが、それは、もはやどう足掻いても叶わぬ夢。
 いや、もしこのままずっと――『真相』が明かされた後にも販売を続けていられれば、最高の売り上げは叶うかもしれない。
 だが、それは、もはや醜い死に花だ。
「隊長達ノ影響ヲ受ケテ、善意ノ者ヲ犯罪者ニスルトハ――ッテ非難ガ拡大シテイル。中ニハ『ニトロ・ポルカト』ガソンナコトヲスルハズガナイッテイウ感情論モアルケド……何ニシテモ、主様ノ日頃ノ行イヲ皆ハ見テルモンダネ。
 主様、あたしハ誇リニ思ウヨ。コレガ例エ『バカ姫』トノ関ワリカラ生マレタモノデアッテモ、あたしハ嬉シインダ」
 芍薬は、言い募るにつれ興奮してきたように言う。
 モニターでは女子アナウンサーの読んだ続報に対し、コメンテーターが「だからと言って、この写真についての疑いが晴れたわけではない」と意見を出している。それを問題が解決していない時点で聞いていれば、悪意に満ちたコメントと思っただろう。しかし疑いが晴らされると解っている身であると、それを慎重なコメントだと思えるのは何とも不思議なものだ。
 ……ニトロは、そんなことをおかしなほど冷静に考えている自分に気づいた。
 その拍子につい直前までどこか漠然としていた彼の心が、我を取り戻したように――また、芍薬の喜びに触発されたように、その胸の中で高らかに歓喜を歌い出した。
「大袈裟ダッテ主様ハ言ウカモシレナイケド、ネェ主様、コレハ主様ノ人徳ダヨ」
「……うん」
 ニトロは溢れてきた感情をそのままに、満面に笑みを浮かべた。
「ありがとう、芍薬」

 ニトロが起きた時刻と、ほぼ同時刻――
 芍薬との『会議』を終えてからというもの、ティディアは複数の宙映画面エア・モニターに次々と現れる情報のドラマティックな変化を観劇しながら、ヴィタの淹れた朝のハーブティーを楽しんでいた。
「これは……思った以上に盛り上がりそうねー」
「はい」
 笑いを堪え切れず声を揺らして言ったティディアに、彼女の対面、同じテーブルでハーブティーを飲む麗人がうなずく。いつも涼しげなその顔は、主人と同じく堪え切れぬ愉悦に緩んでいた。
「そうだ、このコミュニティにはビデオチャットはある? なかったらこの前みたいに意心没入式電脳集会マインドスライドミーティングでもいいんだけど」
「――どちらもあります」
 手元の端末を操作しその確認を取った後、主人が『恋人』と『女装した弟』が並んで写る貴重な写真を手に入れようとしていることを言われるまでもなく心得ている執事は脳裏に本日のスケジュール表をさっと描き、分刻みのタイムテーブルの中に適当な隙を見つけて言った。
「晩餐会の前、ラッカ・ロッカへの移動中がちょうど良いでしょう」
「分かった」
 ティディアはすこぶる機嫌良くうなずいた。ハーブティーを一口飲み、どうにも愉快でならずふふと鼻を鳴らす。
 カメラとネット回線越しとはいえ王女わたしが直接「写真のコピーを頂戴」と頼みに来たら、あの獣人はどんな反応を見せるだろう。『恋人』を擁護してくれたことに感謝を告げたら、どれほど恐縮することだろう。ああ、それもすッごく楽しみだ。
「ミリュウに感謝しなくっちゃ」
 と、そうティディアがつぶやいた時、プライベートの電話回線に着信が来た。
「あら」
 噂をすれば……と言ったところか。電話を掛けてきた相手の名は、ミリュウと記されている。
 ティディアは宙映画面エア・モニターを一つ増やし、それを最も手前に表示させ、通話をつなげた。ぱっと画面に興奮を隠し切れないらしいミリュウが映る。
「おはようございます、お姉様。朝早くに申し訳ありません。もう起きていらしたでしょうか」
 姉が毎日この時間には既に起床していることを知りながらも、ミリュウは丁寧に挨拶をしてくる。
 ティディアは機嫌の良さで水増しされた極上の微笑みを返し、
「おはよ、ミリュウ。こんな時間にどうしたの?」
 妹は、毎日この時間は就寝中のはずだ。
 それを意識した姉のセリフにミリュウはあえて応えず、少し間を置いて呼吸を整えると、まるで命懸けであるかのような――あるいは実際そのつもりなのかもしれない――真剣な眼差しをティディアへ真っ直ぐに向けて、力強く言った。
「お姉様に、ご報告しなければならないことがあります」
「ニトロの冤罪報道のこと?」
「は――       え?」
 大きくうなずき大きく肯定を返そうとしたミリュウは、一瞬あり得ぬ次元から虚を突かれたように呆け、そして、大きな疑問符をその顔に刻んだ。
 それまでそこにあった真剣な眼差しは哀れにも崩れ去っている。点となった目は、絶対的な信頼を置くティディアを見ているのか……見ていないのか。ひそめられた眉の間からは『?』が絶え間なく列を作って漂い出ている。
「あら、まだ報告を受けていない?」
「――いえ! あの……ずっと、一晩中考え事をしていましたので……許すまで誰もどんな報告も通してはならないと、厳命を……」
「そう」
 しどろもどろに答える妹へ、ティディアは(妹の反応から、彼女がこの報道には一切関わっていないと確信したことをおくびにも出さず)王立放送局が『ニトロ&ティディア親衛隊』の日記の存在を伝える映像と、状況の推移をまとめた関連データを送った。
 次第に……ミリュウの顔色が、興奮を隠し切れぬ赤みから、狼狽を隠し切れぬ青みへと変じていく。
「これ、ミリュウの『手柄』でしょう?」
 ティディアがそう言うと、ミリュウはぽかんと姉を見つめ――
「――イえ!」
 やおら顔から完全に血の気を失い、感情をコントロールしきれないのか甲高く裏返った声で言った。
「これは……わたしの……」
「でもこれパティじゃない」
 畳みかけるようなティディアの言葉。
 ミリュウは、空気を求める魚のようにぱくぱくと口を開閉し、あーとかえーとか意味もなく声を出し、やがて、覚悟を決めたのかごくりと音を立てて空唾を飲み込んだ。
「――はい」
 ミリュウは、認めた。
 この件に自分が関わっていることを認めた上で、決死の意志を取り戻して言った。
「そのことで、ご報告があったのです」
「昨日、楽屋でニトロから聞いたわ。お姉ちゃん、嬉しかった。パティとニトロをずっと会わせたいと思っていたのに、ニトロったら恥ずかしがってなかなか会ってくれてなかったから……
 ありがとう、気を利かせてくれたんでしょう?」
「???」
 ティディアの言葉を聞くミリュウは、またもあり得ぬ時空から虚を突かれたように呆け、そして、大きな大きな疑問符をその顔に刻んだ。
「……あの……お姉様」
「ん?」
「ニトロ・ポルカトから聞いたと、今、仰いましたか?」
「ええ」
「ニトロ・ポルカトは……その言い方ですと、パティと、気づいて……?」
「ええ、そうよ。賢い良い子だって言っていたわ。女装して別人装っていたことには驚いたけど、何か理由があるんだろうってそのていで付き合ってくれたみたいね」
 その刹那、ミリュウの体が傾いだ。もしかしたら、ほんの短い間、気が遠のいたのかもしれない。
「……違うの?」
 ミリュウの様子に――白々しく――疑問を浮かべてティディアは言う。
「いえ!」
 ミリュウは懸命に、必死に、言葉を返した。
「はい。その……通りです。お姉様は以前からわたし達をニトロ様と会わせたいと仰っていましたし、わたしも、お姉様と同じように、パティの人見知りを何とかしたいと、思っていましたので、その『練習相手』としてはニトロ様が誰よりも最適であろうと思い、パティに女装をさせ、パトネトとしてではなく他人を演じさせ、はい」
 もたつきながらも、それは筋の通る『理由』だった。語る妹を見つめ黙って聞いていたティディアは、彼女の対応力の成長振りに喜び、にっこりと笑った。
 しかしその姉の顔に浮かんだ笑顔を、ミリュウは自分の『手柄』を誉めそやすものだと誤解して受け止めていた。
 結果的に姉を喜ばせたことが嬉しくもあるが――腹の底から気持ちの悪い地鳴りが心臓を揺り動かしている。嵐の海のように荒れる鼓動が、鼓膜を破ろうとしているかのようだ。
「……それが、まさかこのような事態を招くとは……」
 うなだれて言うミリュウに、ティディアは軽く手を振って言った。
「問題ないわ。二時間後にはエフォラン紙からコメントが出るから」
「……はぁ」
「そうねー、あそこの芸風からすると『ニトロ・ポルカトが潔白であるとは限らない。権力と衆愚と成り果てたネットスフィアの圧力に屈することなく、全力で真実を明らかにしていく』って感じの挑戦的なやつかしらねー。
 だけど午後には敗北宣言。それまで抵抗すればするほどあの子がパティだって知った時の衝撃が大きくなる。ああ、どれだけ煽ってくれるかしら。っ楽しみだわー」
 底意地の悪い邪悪な笑顔を浮かべて姉が言うのをミリュウは茫然自失と眺め……ふと、目を落とし、再び姉が寄越した情報を見た。
 データは適時更新されている。
 そこには、『ニトロ&ティディア親衛隊』なるネット上の個人サークルを嚆矢としたニトロ・ポルカトを擁護するうねりがあった。
 淡々とマイペースに昨夕から今朝までのニュースを報じていく王立放送局を除き、ほぼ全てのマスメディアがうねりに同調している。エフォラン紙を発行するエフォラン・コミュニケーション社だけが孤立している形だ。
 おそらく今、エフォラン紙はこの件の帰結はうやむやに――ニトロ・ポルカトへの疑惑は最後には『悪魔の証明』に陥るか、この報道が間違っていると誰も証明できなくさせられると考えているのだろう。であれば、今後も一紙だけそれを主張していたという事実を武器に、持続的に『疑惑の残るニトロ・ポルカト』をダシにしていくことができる。あわよくば、今はまだ形のないティディア姫の恋人という権力者に対抗する勢力の尖兵となり、なおかつその中で確固とした主導権を得ようという腹積もりかもしれない。
 また、もしも『ニトロ・ポルカト有罪』ともなれば言うことはない。最高だ。そうなればエフォランは空前絶後の利益と名声を得よう。確かに姉の言う通り、それをこそ狙う芸風がそこにはある。
 だが、それは実現不可能な、幻にすらなれない蜃気楼。
 そこで踊ろうとする者は道化と言うのもおこがましい、ただの愚か者だ。
 姉が垂涎間際の顔で恍惚としているのも当然だった。
 例えクレイジー・プリンセス・ティディアが絶対なる王権を暴力的に行使しなくとも、今日、エフォラン紙と母体であるエフォラン・コミュニケーション社は自ら絶望に身を落とす。
 そして――
 ミリュウは無意識のうちに生唾を飲み込んだ。
 ――そしてそこには、少なからず自分が原因の一端として関わっているのだ。
 少なからぬ人間の人生を大きく変えさせてしまった事態の……根源として。
「――」
 ミリュウの額に脂混じりの冷たい汗が滲んだ。目の回りは落ち窪んでいるように影を纏い、その中で臆病な光がうろうろと見つめるべき場所を探している。
「……」
 ティディアは、当初の勢いの面影すらもなくした妹の様子を見て、内心ふむとうなずいていた。
 これは、どうやら妹は無闇に責任を感じているらしい。
 この件の源流を求めればミリュウの行動に行き着くことは確かだが、それを言うなら過去、ニトロが私の求愛を跳ね除けたこと、さらに私がニトロを見初めたところまで遡ることができる。時に真面目過ぎる妹が責任を感じてしまうのは解るが、しかし、正直関係ない。
 この結果をもたらしたのは、あくまでエフォラン紙の連中……特にこの記事を書いた者と、記事の掲載を許した編集長だ。
「ミリュウには、何の責任もないわよ」
 ティディアに言われ、ミリュウははっとして姉を見つめた。
「彼らにこの情報を『活かす』チャンスがなかったわけじゃないもの。もし彼らの目が濁っていなければ、もう一つの『スクープ』をその手に得られたでしょうにね」
 優しくミリュウを見つめ返して、ティディアは言った。
「彼らは彼らの『力』の振るい方を誤った。そのために自身を傷つけた。しかも今回の件は罪なき個人を犯罪者に仕立て上げるれっきとした反社会的行為でもある。なあなあで済ませられるわけもないし、済ませるわけにもいかない。そしてその全ては、エフォラン紙自らが選択した行いの結果。
 ここまで言ったら判るわね? ミリュウ。これは『力』を持つ者の責任が問われているだけ。あなたが気に病むことはないわ」
 ミリュウの目には涙が浮かんでいた。それを彼女は驚いたように拭った。自分でも、涙が溢れるとは思っていなかったようだ。
「も、申し訳ありません、こんな……わたし……」
(……その涙、これだけのせいじゃないだろうけどね)
 ティディアは恥ずかしそうに涙を取り繕うミリュウの言葉にうなずきを返しながら、そう思った。
 妹は一晩中考え事をしていたと言っていた。きっと私にどうやって切り出し、どのように語るかを考え続けていたのだろう。ニトロへの『弾劾』を開始しようとしていた時の覚悟のほどを思えば、時間をかけ、勇気の全てを振り絞ってきたことにも容易に想像がつく。
 パティを巻き込んでまで失敗してしまったことも悔しく、無念だろう。
 恥ずかしさもあるだろう。
 無力感、失望、怒り、様々な感情がない交ぜとなっていることだろう。
 だが、それもまた一つの『修行』だ。
「後はお姉ちゃんがうまくやるから、ミリュウは何の心配もしなくていいからね」
 ティディアがそう言うと、ミリュウは何かを言いかけ――
「……はい」
 しかし、うなだれるように頭を垂れた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「あら、迷惑なんて幾らでもかけていいわよぅ。ほら、遠慮なく迷惑をかけられるのが家族じゃない?」
 そう言って微笑みかける姉の声は温かく、慈愛に満ちたその目に――子どもの頭をそうするように、心を優しく撫でられる。
 ……それが、今のミリュウにはとても辛かった。
「……ありがとうございます」
 ミリュウは再び頭を下げ、もう一度礼を述べると、肩を落としたまま「それでは失礼します」とつぶやくように言って通話を切った。
 ティディアはもう何も映さぬ画面を消して息をつき、カップの底で温くなったハーブティーを飲み干した。
「ミリュウ様は」
 おかわりを目で促され、ヴィタはガラス製のティーポットに新しい葉を入れながら言った。
「最初から搦め手を仕掛けたわけではなかったようですね」
「そうね。いきなり搦め手って、素直なあの子にしては思い切りが良過ぎるなとは思っていたけど……」
 ティディアはドロシーズサークルのセキュリティシステムから提供を受けた監視カメラの映像を見て苦笑いを浮かべた。そこにはスカートの裾を膝上まで持ち上げる小さな少女と、その膝に手当てを施すニトロがいる。
「と、いうことは――これはニトロが幸運なのか、それともあの子が不運なのか……逆にあの子が幸運で、ニトロが不運なのか」
 ティーポットに電気ポットが瞬間的に再沸騰させた湯が注がれる。乾き縮んだ茶葉が熱い奔流の中で踊り、湯が色づいていく。
 五分ほどの蒸らしの時間。ティディアは沈黙し、ティーポットの丸いガラスの腹の中を茶葉が対流に乗り、さらに色濃く香りを開かせていくハーブティーを見つめた。
「……」
 ミリュウが主に考えていたのは、どうやら『ニトロ・ポルカトが変装したパティに気がつかなかった』ということであるらしい。それをネガティブキャンペーンの材料として、彼が私に『相応しくない』ことを示唆し、あるいはその大義名分をキッカケとしてそれを強く訴え始めるつもりだったのだろう。
 では、あの一度ニトロと芍薬に痛い目にあわされたフリーライターの存在は、妹の計画には一切含まれていなかった奇跡的な不確定要素で間違いない。
 二度目にニトロと芍薬に痛い目に合わされ現在はニトロの熱心なファンとなっているあの隊長については、おそらくミリュウは気にもかけていなかっただろう。
(まあ、計画実行中に想定外が起きることは珍しくはないけれど)
 それを巧く取り入れるか、それとも排除できなかったのは、ミリュウの未熟。
 よもや僅かな計画のズレがここまで大事になるとは思ってもみなかっただろうが……だが、怒鳴り込んできた芍薬はその懸念を持っていた。
 状況と情報を掴んでいる立場にあればこの状況はけして想像できぬことではない。
 当然、ミリュウもそれを知ることのできる立場にあった。
 妹は――己の実力を痛切に思い知ったことだろう。同時にまた、彼との実力差も痛烈に思い知らされ、しばらくは、何も考えられないでいることだろう。
 生気を失った妹の顔に重なって、昨日楽屋に遊びに来ていたハラキリに、ドロシーズサークルでの件をこちらに――ヴィタがニトロの手作りサンドイッチを食べる後ろで空き腹抱えて悲しんでいた私に問いかけるように話していた『恋人』の猜疑の眼差しが思い返される。
(ミリュウ、心してかかりなさい。ニトロは手強い相手よ)
 えも言われぬ期待が膨らむ胸中で、ティディアは重い実感をこめてそう妹に呼びかけた。
「失礼致します」
 ヴィタが言って、ティディアのカップに蒸らし終えたハーブティーを注いだ。次いで自分のカップにも注ぎ、対面に座り直すと、
「よろしいのですか? このまま放っておかれても」
「もちろんよ。不満は早い内に解消しておいた方がいいもの。お婿さんと小姑の冷戦っていうのもそそるけど……」
 ティディアはヴィタ特製のブレンドハーブティーの香りに鼻腔をくすぐらせ、吐息をつくと、
「二人には、仲良くして欲しいからね」
 お姉ちゃんの顔で、しみじみと言った。
「しかし、やり方がいささか乱暴では」
「でも面白いじゃない?」
「はい、面白いです」
 あっさりとヴィタは肯定した。
「それに、ニトロになら安心して任せられるもの」
「任せる、ですか」
「ええ。本来ミリュウは調停役型だから、人と喧嘩をするには向いていない。だけどそうも言っていられない立場にいるんだから……ここで少しは慣れておかないと」
「政治家や貴族との喧嘩と、ニトロ様とのそれでは質が違うと思います」
「何事も経験よ。大体、あのニトロとあの芍薬ちゃんを相手にする経験が他に活きないと思う? 最低でも度胸はつくわよー。特にニトロを怒らせると、そんじょそこらの相手なんか屁でもない」
 ヴィタは沈黙し、ハーブティーを飲んだ。反論はないと無言で示し、
「……それに」
 カップの縁に形の良い唇を添えたまま、続けた。
「ニトロ様相手ならば、負けても安心、ですか」
 ティディアはハーブティーを音もなくすする。口腔に満ちるその爽やかで甘い風味に、王女の頬が緩む。
「そうねー。今回もジャブにしたって断片的に聞いた部分だけでも穴だらけ、相手がニトロじゃなかったらと思うとちょっとぞっとしちゃうわ」
「――かしこまりました」
 ヴィタは同意を省き承諾を以て応えた。それはこの件に関してこれ以上疑問を呈することはないという意思表示だった。
「では、アンセニオン・レッカードの件についてはどうされますか」
 ティディアはエア・モニターを操作し、民放テレビ局の早朝のワイドショーにチャンネルを合わせた。王女と財閥の末っ子の『不倫』を、男子アナウンサーが熱っぽく聞く者を煽り立てるように報じている。
「横恋慕に付き合っている暇はない」
 興味なくさらりと断じ、ティディアはA.I.達が集めてくるニトロ・ポルカト冤罪騒動の情報に画面を切り替えた。
「とりあえず彼が商談の情報をリークした相手と証拠は掴んでおいて。使えそうだったら使うから」
「かしこまりました」
「……ねえ、ヴィタ」
「はい」
「ニトロ、妬いたりしてくれないかしら」
「それに関してわたくしの意見が必要でしょうか」
「……ヴィタまでいけずなんだから……」
 涼しげにハーブティーを飲む女執事にティディアがぶう垂れると、また、彼女の専用回線に電話が入った。
「――あらあら。お姉ちゃん、今朝は忙しいわねぇ」
 今度の相手はパトネトだ。
 ティディアが回線を接続すると、エア・モニターに顔を蒼白にしたパトネトが映った。
「、どうしたの?」
 思わず驚きの声を上げると、パトネトは泣きそうな声で言った。
「……怖い夢、見たの」
「怖い夢?」
「うん」
 パトネトはうなずき、涙の滲んだ目をティディアに向け……しばらく姉を見つめてから、言った。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
「何?」
「お姉ちゃん、ボクを食べちゃうの?」
「え?」
「ボクのことおいしいおいしいって長いお舌で頭をつついて食べちゃうの?」
「ちょ、パティ」
「おいしくないよ、ボク、良い子にするからお姉ちゃん食べちゃわ「パティ、落ち着きなさい」
 ティディアが優しくされど語気強く言うと、びくりとしてパトネトは口をつぐんだ。
「そう、パティ、落ち着いて。一体どうしたの? お姉ちゃんがパティを食べちゃうなんて、そんなことあるはずがないでしょう?」
「だってお姉ちゃん、悪い子を食べちゃうんでしょ?」
 いまいち目が覚め切っていないのか、夢と現の境を歩いている様子でパトネトは言う。
 ティディアはあまりに前提条件がなさ過ぎる弟の問いをどう理解したものかと悩み……しかし、すぐに結論に辿り着いた。
 弟の言葉を鑑みれば、悪い子は〜〜に〜〜されちゃうという『躾の脅し文句』からその考えが出てきたのだろう。だが、王家ではそういう躾の仕方はしていない。側仕えが言った可能性がないわけではないが、弟にそれを言えるだけの人間は困ったことに今のところ皆無だ。
 ――いや、皆無だった。それが正しい言い方だろう。
 ニトロ・ポルカト。
 あの人が、そう言ったのだろう。悪い子はティディアに食べられちゃうぞ――そんなところだろうか。
(人を鬼か悪魔みたいに……)
 ティディアは苦笑を噛み殺した。パトネトを映すエア・モニターの向こうでは、同じ結論に達したらしいヴィタがポーカーフェイスの裏で笑いを懸命に堪えている。
「いいえ、パティ、そんなことはないわ」
 ティディアは微笑を浮かべて、優しく、ゆっくりと弟に言い聞かせた。
「私はパティを、絶対に食べたりしない」
「本当?」
「ええ、本当よ。だって私が食べちゃうとしたら、それはニトロだけだもの」
 冗談めかしてティディアが言うと、そこでようやくパトネトは安心したようにほっと息をついた。
「……パティ、もう平気ね?」
「うん」
「それじゃあ、もう少し寝なさい。ちゃんと寝ないと体に悪いわ」
「うん、お姉ちゃん」
 うなずくパジャマ姿のパトネトは、そこでふと、何かに思い至ったような顔をした。安心したら睡魔が戻ってきたらしく目をしょぼしょぼとさせながら、それでも疑問をそのままにしておけないとばかりに言う。
「お姉ちゃん。ニトロ君は、悪い子なの?」
「ん?」
「だって、お姉ちゃん、ニトロ君は食べちゃうんでしょ?」
 ティディアは口元が緩むのを止められなかった。
 自分が『食べちゃうとしたらニトロだけ』と言ったのだから、確かに、パトネトに悪夢を見させた論理を辿れば『悪い子はニトロ』になる。
「……そうね」
 愛らしい弟は今にも眠りに落ちそうだ。目を細めたティディアは腹の上で手を組み、弟へ子守唄を聞かせるように囁いた。
「ニトロは私を悩ませる、悪い人よ」





 最悪にも敬愛する姉から与えられた、天地を揺るがす衝撃。
 一時間は何も考えられずにいたミリュウも、時を置き、冷静さを取り戻していた。
 そして冷静を取り戻した脳裡は、否応もなく、正確に『失敗』の原因を割り出した。
 そう……見誤っていたのだ、わたしは。
 ニトロ・ポルカトを。
 また、己自身を。
 『ミリー』の正体を見抜いていたニトロ・ポルカト。それを見抜けなかった自分。
 『パティ』であると見抜きながら看過していたニトロ・ポルカト。それすらも見抜けなかった自分。
 目が曇っていた。ニトロ・ポルカトを貶めようとするあまりに……今まさにピリオドに向かっているエフォラン紙と同様に、ニトロ・ポルカトの行動を己の都合に合うように解釈してしまっていた。
 思い返せば――ニトロ・ポルカトが、気づいていた節は確かにある。
 パティに付けたマイクと、弟のボディガードとして近辺に張り付かせていた戦闘用アンドロイドのカメラを通してていたその言動……時折見せていたパティを窺い見る眼、姉との電話の折に最初から姉が何かを企んでいると決め付けての暴言。
 何故気づかなかったのだろう!
 今思えば、今考えれば、今……
 いや、後から考えれば分かる、というのは得てして当然なことだ。
 ただ、全ては、己の未熟がもたらした結果。
 そう、自分は、とんでもなく未熟だった。
 あのパパラッチ。あのフリーライター。存在に気づいていたのに、それを排除することはニトロ・ポルカトの利益になると思ってしまった。己の策にはない不確定要素を、ニトロ・ポルカト憎しのあまり捨て置いてしまった。
 それがどうだ。彼が行った行為は、下手をすれば愛する弟にまで不名誉をもたらすことではないか。
 近視眼的、視野狭窄、責める言葉は幾らでも見つかる。
 恥ずかしい。あれしきの不確定要素があったところで策に重大な影響はないと軽んじた、その時の己の傲慢さが!
 見誤っていたといえば、ニトロ・ポルカトの社会的な存在感もそうだ。
 あの移動販売業の獣人。あの大男の熱烈な素振りを、その時の自分は『分かっていない』と嘲っていた。
 何を高慢な……分かっていなかったのは、自分自身こそだ。
 ニトロ・ポルカトを守るために、『隊長』は、クローズドネットワークで作り上げていたサークルをオープンとし、己の素性を世間に知らしめてまで行動している。これはまさに『ニトロ・マニア』だ。『ティディア・マニア』と匹敵する――つまりは、ニトロ・ポルカトが、この国の民を少なからず強く強く惹き付けている証拠ではないか。
 ……ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの隣で。しかしそんなにも傍にいながらも、王女の威光に頼らず、彼自身の力で。
 心の底から悔やむ。
 ニトロ・ポルカト。
 彼は、自分とは違う。
 愛するティディアお姉様の下で『劣り姫』と呼ばれる自分とは違い、彼自身の力であるいは……あるいはティディアお姉様と拮抗している!
 ――このままでは、駄目だ。
 昔、姉は教えてくれた。失敗をしたのならそこから学びなさい。そして学ぶことができたなら、その失敗はあなたにとっての幸運に変わる。
 ドロシーズサークルでの失敗。学ぶべきことはあまりにも大きい。これを幸運に変えずにいることは、それこそ恥の上塗りであろう。
 敵を見誤っていた。
 ならば認める、ニトロ・ポルカトの力を。ちょっとやそっとの――今回のような舐め切った策では意味がない。正当に評価し、人生を懸ける覚悟で挑まなければならないことを。
 己を見誤っていた。
 ならば認める、現在の自分では彼に拮抗できないことを。もっと、もっと、例え己の身をやつすことになろうとも、例え――
「――ッ」
 ミリュウはその時、愕然として思考を止めた。
 自然と脳裡に浮かんだ恐ろしい考え……
 まさか、自分がそんなことを思うなんて……
「……」
 だが、ミリュウは、やがてそれもいいと思いを改めた。
 いや、ミリュウは、やがてそれをも覚悟しなくてはならないのだと考えを改めた。
 腹の底で鈍く唸る想念が決意を呼ぶ。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ、今回の失敗でお前は解ったはずではないか。
 見誤っていた
 人生を懸ける覚悟で挑まなければならない
「そう……」
 例え――姉に嫌われることになろうとも、全てを懸けてかからねばならない。ニトロ・ポルカトを、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナから引き離すためには!
「そうよ」
 ミリュウは、姉の笑顔を消して以来何も映さぬ宙映画面エア・モニターを前に握り続けていた拳を一度開いた。汗に濡れた掌を凝視し、また、握りこむ。頬には暗澹たる笑みが浮かんだ。
「そのために……わたしは『クレイジー』にならなくちゃ」
 つぶやくミリュウの意志は固く引き締まり、わずかに涙の滲んだその両眼は、空の一点を睨みつけていた。

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