2−5−6 へ

 ミリーの『母親』からの応答は、すぐにあった。
「近くまで車でくるからって」
 テーブルに戻り、ドーブが差し入れてくれたスモールサイズのヴオルタ・オレンジを飲むニトロに、その対面でしょんぼりと肩を落としてミリーは言った。
「心配してたでしょ」
 あくまで『迷子ごっこ』に付き合いニトロが言うと、『ミリー』は少し複雑な顔をして、それから小さくうなずいた。
「それで、どこら辺に来るって?」
「……すぐ近くの道路。あっち」
 モバイルを見ながらミリーが指差した方向を見て、ニトロは残っていたグィンネーラを一つ齧り、
「分かった。それじゃあ、そろそろ行こうか」
「それがおよろしいでしょう」
 相変わらず、その声が発せられるとミリーの肩が跳ね上がる。
 カメラをケータリングカーに置き、テーブルに戻ってきたドーブはそれに苦笑しながら、怪訝な顔をしているニトロに言った。
「後十分もすると、そこで行われている講演会が終わります」
 ドーブが示す先、植え込みの向こうにビルの頭が覗いて見えた。
「ここは最寄りの駅への途中になりますので」
 ということは、講演会帰りの人間が多く通るわけか。ずいぶん人気のないところに店を出しているなとは思っていたが、なるほど、そういう人の流れを当て込んでいたのか。
 ニトロは感心半分、同時にそれはのんびりしていられないと――
「ミリーも食べる?」
「……おなかいっぱい」
 残っていたグィンネーラを平らげたニトロはヴオルタ・オレンジを飲み干し、
「ああ、そのままで結構です」
 皿とコップを片付けようとしたニトロを制して、ドーブが言う。
 ニトロは大きな手で先んじてゴミを掴む獣人を見、諦めたように一つ息をついた。
「ありがとう」
「滅相もない。仕事です」
「そっか。でも、ありがとう」
 再度言われ、ドーブは手を止めてニトロを見た。少年は当たり前のことを言ったと悠然としている。その様は、例え当たり前のことをしただけだとしても、ドーブには威風堂々とした風格を伴って見えた。
「……どういたしまして、ニトロ様」
 ドーブの返礼を受けて、ニトロは微笑んだ。立ち上がり、ショルダーバッグを肩にかけながら言う。
「ご馳走様、隊長。美味しかったよ」
「恐悦至極に存じます」
 ドーブは心の底から嬉しそうに顔をほころばせた。
 ニトロは笑顔で応じ、それからちょうど――獣人の大男を避けるように駆け寄ってきたミリーに顔を向けた。
「ほら、ミリーも」
 するとミリーはニトロを見上げ、次いでドーブを見て、ニトロの後ろに半身を隠しながら小さな声で言った。
「……ごちそうさまでした」
「ご利用頂き、ありがとうございました」
 ミリーはこくりとうなずくと、それきりドーブと目を合わせぬよう視線を逸らした。
 だが、ドーブは全く自分に懐かぬ少女を慈しむように目を細め、また頬をほころばせた。
「それじゃあ、隊長、仕事頑張って。どこかで店を見かけたらまた食べさせてもらうよ」
「是非」
 大きくうなずいたドーブに目礼し、レアフードマーケットのバッグを手に提げたニトロはミリーと共に歩き出した。
 そして、二人がテーブルを離れて少し行ったところ。その背にドーブの声がかかった。
「結婚式の晴れ姿、貴方様とあの方の幸せな姿を見られる日を、わたくし心から楽しみにしております」
 ニトロは足を止め、勢いよく振り返った。
「そんな日は来ないよ!」
「またまた、照れなさるな」
「いやだからねっ?」
「そうやってあの方を焦らすプレイも程ほどに」
「プレイ違うわ! そもそも――」
「わたくしは、許されるならばいずれこの国に帰化いたします。貴方とあの方の民となれること、我が人生においてそれ以上の誉れはありません。どうか、あの方と共にアデムメデスを幸福と笑顔でお包み下さい」
 隊長は背筋を伸ばし、ネコ科特有の矜持と、どこか雄々しさすらも漂わせて言う。
 ニトロはその姿に何だか毒気を抜かれてしまい……
(嫌なプレッシャーを与えてくれるなぁ)
 何とも言えぬ心持ちに頭を掻き、一つ息を挟んでから、彼は言った。
「幸福とか笑顔はたった二人から生み出されるものじゃないよ、隊長。いくらあいつが呆れるような『天才』でもそれはできない。
 杓子定規な言い方だけどさ、それができるのはやっぱり皆の存在があればこそ――例えば俺とあいつの漫才で笑ってくれる人がいればこそだよ。そういう人がなければ、あの希代の姫君であっても、誰もいない空洞に向かって虚しく渾身の滑稽話を吹聴するだけ。最後には自分自身が一番滑稽な、哀しいクレイジー・プリンセスになるだけだ」
 ニトロの感情を掴ませぬ不可思議な、それでいて奇妙に清々しい笑顔を向けられて、ドーブはその穏やかな声に応じる言葉を紡ぐことができなかった。
 改めて、その『クレイジー・プリンセス』を射止める少年の器を見せ付けられた気がしてならない。
 ドーブは、迷子の少女の傍らに立つ少年をひたすらに見つめていた。
「まあ、俺とあいつがどうなるかは分からないけど……ちょっと行き過ぎたところはあったけどね、隊長みたいな人がいるのはあいつにとって幸せなことだと思うよ。だから俺とあいつがどうなろうと――まあ、本当は俺が言う義理はないんだけど、隊長はあいつを支持してやって。それで、その時もし、俺の出した結論が気に食わなかったら殴りに来たっていい。もちろん俺は無抵抗に殴られる気はないから、返り討ちも覚悟の上で」
 言葉尻を洒落めかせたニトロの口調にもドーブは言葉を返せなかった。ただ、彼は、深く深く辞儀をした。
 その上に笑みを含んだニトロの声がかかる。
「ああ、でも。馬鹿が過ぎたら遠慮なくあいつを叱ってやってね。それだって、ファンの立派な務めだと思うんだ」

 ドーブと別れてから五分ほど歩いたところで、ニトロはミリーが『お母さん』と待ち合わせたという道路に出た。
 『レーダー』に映る青点――芍薬の動かす車も付近に来ているのを見ながら、
「お母さん、どこを探していたって?」
 ニトロが問うと、明らかにしょげた様子でミリーはつぶやいた。
「フーバーリード・センター」
 ここに来るまで手をつなごうとはせず、とぼとぼと歩いてきていたミリーは所在なげに胸の前で指を絡ませている。顔は常にうつむき、渋面にも近い眉目は自ら犯した『失敗』への後悔をニトロに何度も自ら報せているようでもあった。
「フーバーリード・センターか」
 ニトロの瞼にレアフードマーケットが開催されているコンベンションセンターが浮かぶ。
「じゃあ、あそこでじっとしていれば良かったんだね」
「…………うん」
「お母さんに会えるのに、嬉しくないの?」
「……」
 ミリーは、小さく首を左右に振った。
「…………自分で、見つけられなかった」
「あれだけ自分で歩いて探してたんだ。それだけで立派だよ」
 ミリーは再び、今度は少し強く否定を表した。
 そしてそれ以降は何を訊かれても応えようとはせず、当然、ニトロに話しかけることもしない。
 仕方なく、ニトロは黙って待つことにした。
 多くはないが少なくもない交通量の道を何台もの車が行き交う。ニトロは車が近づく度にどれがミリーの迎えだろうと目を向けたが、ミリーはうつむきスカートを握りこんだまま微動だにしない。その内、ミリーがわずかに右方を見ていることに気づいたニトロは同様に首を右に回して動かなくなった。
 道とタイヤが互いに削られあう音ばかりが通り過ぎていく。
 有名な歌手のライブツアータイトルを荷台側面に描いた巨大なトレーラーがガードレールのすぐ向こうを轟音を上げて走り抜け、トレーラーを追いかけるようにやってきた風が二人の髪と服の裾をひらめかせる。
 ふいに頭の黒いオナガがガードレールに降り立ちミリーの興味を引いたようだった。が、ミリーはすぐに肩を落として目を地面に戻す。
 ニトロは思わず『パトネト王子』と声をかけ慰めたくなった。しかしそれをしては慰めるどころかトドメを刺すことになると思い直し、引き続き口をつぐんだ。
 気まずい沈黙に十分も耐えた頃だろうか、
「きた」
 と、ミリーが声を上げた。
 その視線の先には、ファミリーカーとして人気のある自動車があった。心持ちスピードが速いのは、法律遵守のA.I.ではなく運転席にいる金髪の女性が自ら運転しているからだろう。
 ミリーが一歩、ガードレールに近づく。ニトロはそのまま待った。
 パールホワイトのその車は一度迷ったように不可解な加減速をし、二人からやや離れたところで停まった。
(ああ、そうか)
 車が停まったのは、公園エリアに車が進入できるように作られたガードレールの隙間の前だった。ニトロは初めからそこで待っておけばよかったと頭を掻き、運転席から慌てた様子で出てくる女性を見ながら言った。
「お母さん?」
「……うん」
「じゃ、行こうか」
「うん」
 ニトロはミリーと連れ立ち歩きながら、歩道に入るや顔を歪ませてこちらへ駆けてくる女性を観察した。
(アンドロイドか……兵士か何かかな)
 見た目にはどこにでもいそうな若い母親といった容貌をしているが、その走る姿を観て、ニトロは彼女が『ただ者』ではないと判断していた。身のこなしからハラキリやトレーニングジムのトレーナー、あるいはヴィタに通じるものを感じる。身長が自分より十センチは低いためヴィタの『変装』という線は薄いだろうが、とはいえ少しは警戒しておいた方がいいだろう。
「ああ良かった、ミリー!」
 ミリーは何の躊躇いもなく『お母さん』に早足で歩み寄り、彼女の腕の中に飛び込んだ。
 人見知りや遠慮の欠片もないところからすると、よほど親しい間柄なのか、それともやっぱりアンドロイドだろうか。
「すいません、ご迷惑をおかけして」
 ミリーを抱き上げ、母親が近づいてくる。
 ニトロはいつでも臨戦態勢に入れるよう注意しながら、泣きそうな顔で何度も頭を下げてくる母親に応えた。
「いいえ、何も迷惑はありませんでしたよ」
 ――それからのやり取りは、実に紋切り型のやり取りだった。
 母親の感謝と、それに対する応え。
 母親の後悔と、それに対する応え。
 母親の安堵を語る言葉と、それに対する応え。
 ニトロが「迷子防止札アンミスカードは必ず持たせるようにしてくださいね。ポケットの中に縫い付けたりしてでも」と忠告をすると、母親はしきりに涙ながらにうなずいた。どうしてミリーの携帯端末モバイルに連絡をしなかったかと問うと、母親はそれをミリーが持っているとは思わず、娘と同様に持っていたモバイルは家に置いてあるものだと思い込んでいたと言う。さらには気が動転し過ぎ、ドロシーズサークルの警備に『迷子届け』を出したのもついさっきだと言われたニトロは呆れるしかなく――同時に無理が勝ち過ぎる手際の悪さだとも思いながら――「次からは落ち着いて」と若い母親に言うことしかできなかった。
 母親は何度もニトロに頭を下げ、ミリーにお兄さんにお礼を言いなさいと言い、娘が「ニトロ君」と言ったところで初めて『ニトロ・ポルカト』だと気づいたように驚愕の声を上げ……また何度も感謝と悔いと安堵と――加えてニトロとティディアを礼賛する世辞を繰り返し、ここで母親を待っていた時間を軽く超えたろうか、ひとしきり『儀式』が済んだところでやっと母娘は車に乗り込んだ。
 そして、
「――ん?」
 後は車が発進して見送るだけだと思っていたニトロは、ふいにミリーが起こした行動に小首を傾げた。
 ミリーが思い直したように車を降り、ニトロの下に戻ってくる。
「……ねぇ」
 ミリーは、怪訝な表情を浮かべて自分を見つめるニトロを見上げて言った。前髪の奥に双眸を隠すように目を伏せ、そこから上目遣いに人を窺い見る瞳が、どこか射抜くようにニトロを捉えている。
「ニトロ君、最後にもう一つ教えて」
「何を?」
「あのね……ニトロ君は、ティディアお 姫様のこと、好き?」
 それは、なかなか強烈な問いかけだった。
 答えは決まっている。嫌い、その一言だ。
 しかし、その感情を……ティディアお姉ちゃんのことが大好きな弟に、そのままぶつけてしまっていいものだろうか。
 ニトロは短い間に葛藤と逡巡を胸裏に巡らせ、しゃがみ込んでミリーと視線を合わせると、こう答えることが正解なのだろうかと迷いながら――かつ、これは最後の最後に訪れた『本番開始』の合図なのだろうかと周囲に気を配りながら、言った。
「今はティディアと喧嘩中なんだ。だから今は、嫌いだよ」
 ミリーは、じいっとニトロを見つめていた。
 ニトロに嘘をついたという後ろめたさはない。それも、事実であることに間違いはないのだから。
 やがてミリーは自分の中で納得がいったのか、小さくうなずいた。
「……ケンカをしたら、次は仲なおりだね」
 ニトロは少し曖昧に微笑んだ。
「……じゃあ、バイバイ、ニトロ君」
「バイバイ、ミリー。元気でね」
 小さく手を振ったミリーにニトロが手を振り返すと、ミリーは踵を返して車に戻った。
 エンジンがかかり、母親がぺこりと一つ頭を下げ……そうして母子は、無事に帰路に着いた。
「……やれやれ……」
 パールホワイトのファミリーカーが見えなくなるまで見送ってから、ニトロは疲労を吐き出すようにつぶやいた。
 ――随分悩まされた割に、終局は随分とあっさりとしていたものだ。
 母娘が去ると同時に、ニトロの伊達メガネが映すレーダーの赤点は、潮が引くようにいずこともなく消えてしまった。
 未だに残っているのは、例の黒い星と青い点の二つだけ。
 黒い星は動かない。じっとこちらを窺っているのだろう。誰かに見られているような感覚は今も絶えない。
 青い点はもうそこまでやってきていた。二百メートルほど先の交差点を曲がり、こちらへと向かってくる。
 ミリーの『お母さん』が車を停めた場所でニトロは乗り慣れた自家用車が来るのを待っていた。法定速度でやってきたそれは目の前で静かに停まり、後続車が追い越していったところで運転席のドアを自動で開く。車に乗り込んだニトロが荷物を助手席に置きシートベルトを締めると、ドアをロックした芍薬は車のアクセルを入れた。
「結局……何だったんだろう」
 黒い星との距離が急速に開いていくのを目に、ミリーと出会ってからずっと引き締めていた心をようやく緩めてニトロは言った。
 黒い星がレーダーの外に出て、伊達メガネのレンズ・モニターからレーダーそのものも消える。それと入れ替るタイミングで、ダッシュボードのモニターに芍薬の肖像シェイプが現れた。
「芍薬の言う通り『害』はなかったけど……
 だから余計に、もう何が何だか解らない」
「幾ツカ仮説ハ立テテルケド」
 自分の予測が正しかったことが証明されたというのに、どこか浮かない顔つきで芍薬は言った。
「ヒトマズ一番可能性ガ高イノハ、主様ガターゲットジャナイ――ッテコトカナ」
 芍薬の、ともすれば突拍子もない説にニトロは驚いた。
「じゃあ、誰が?」
「下衆」
「……あのライターか。でも、何で?」
「主様ヘノ『取材』、現在ハ目立タナイケド、シゼモジャ『追跡』ヲ企ンデタ連中ガイタロ? ソロソロバカ姫ノ戒メガ緩ンダカナッテ期待シテ、喉元過ギタ熱サモ忘レテ動クノガ出テキテモオカシクナイ時期ダヨ。『エフォラン』ノ主様ヲ揶揄スル記事ダッテ、最近度ガ過ギテキテルカラネ」
 不愉快そうに言って、「マァ、ウケハ取レズニスベリマクッテルケドサ」と芍薬が付け加える。ニトロは一度目にした風刺にもなっていない記事を思い出して苦笑し、
「だから、それを牽制するためにあのライターを見せしめにするってことか」
「御意。ソレニ、ソウダトシタラ、バカノ電話デノ強イテ隠ス気ハ無イケドアエテ明カス気モナイ――ッテイウ態度モ解ル。『ミリー』ヲ『パティ』ッテホノメカシテイタノモ、主様ヲ騙スコトソノモノガ目的ジャナイノナラ問題ハナイ。コッチガ急イテ動カズ慎重ニ対応スルコトモ想定済ミダロウシネ。主様ノ質問ニ否定ヲ返シタコトダッテ、確カニコッチガ思ッテイルヨウナコトヲ目的ニシテイナイカラ嘘ヲツイテイルワケジャナイ」
 それについては同意しかない。ニトロはただうなずきを返し、
「それにしても、その生贄があのライターってのは出来過ぎだね。どうせティディアに貧乏くじを掴まされたんだろうけど」
「あたしモ出来過ギダトハ思ウケド……アノ下衆ガ引ッカカッタノハ、タマタマジャナイカナッテ思ッテル」
「――たまたま?」
「アレノ動キヲ監視カメラノ映像ヲ遡ッテ追イカケテミタラ、主様ガレアフードマーケットヲ出テカラシバラクシテ、慌テテ会場カラ出テキテタンダ。マルデ誰カヲ追イ掛ケルヨウニネ」
「……レアフードマーケットの取材でもしていて、写真の確認中に俺っぽいのが映り込んでるって気づいたのかな。パパラッチするくらいなら有名人の変装対策に骨格照合ソフトくらい持ってるだろうし」
「ソレトモ『セド・ポルカト』ッテ予約確認ノ時ニ言ッテイルノヲ聞イタノカ、録音サレテタノカモネ。ソレデ気ニナッテ声ノ主ヲ照合シテミタラ、」
「ビンゴ――か」
 確かに、その名は金冠鶏の卵の売り場で口にした。
 パパラッチをする者が『ニトロ・ポルカト』の家族構成を把握していることは何ら不思議のないことだ。
「ソウデナカッタラ、『誰カ』ガ『ニトロ・ポルカトガイタネ』ッテ近クデ言ッタノカモ」
「俺に不当な取材をしそうな相手だったら誰でも良かったけれど、たまたま絶好の相手がそこにいたから採用した……」
「御意。実際、ソレコソ奇遇、イヤ奇跡ダケドネ」
 ニトロと再会した時の『隊長』のセリフを引いて言った芍薬は苦笑いにも似た笑みを浮かべ、
「マ、モシ下衆ガイナクテモ、レアフードマーケットニハ、マダマイナーナ出店者ニ記事ニシテヤルカラッテ現物センデンヒヲ要求スル者ガイルッテ噂ガアルクライダカラ。事前ニ用意シナクテモ『人材』ハ沢山イルッテ見越シテタンジャナイカナ、アノバカハ」
「その噂、本当だとしたらあくどいなあ」
 渋面で、ニトロはうなった。
 まあ、レアフードマーケットには高名なグルメガイドブックに匹敵する影響力もある。あの場に出店して話題を呼んで、一気にメジャーな名産物となった物も少なくない。そういった手合いが存在していたとしても無理からぬことだ。
「噂ノ真偽ハ定カジャナイケドネ。トリアエズノ穴埋メ記事ニ使イヤスイ題材ダカラ、ソウイウノヲ狙ッタ『小遣イ稼ギ』ハ実際多イミタイダヨ。記事ガ没ッテ結果的ニ騙シタ格好ニナッタッテイウパターンモアルカモネ」
「何にしても小遣いを稼ぐ必要があるクラスのライターがいるなら『ターゲット』を見つけやすい場所、ってことか。確かにそれっぽいのもちらほらいたっけな」
「アトハ、アノライターガ主様ト『ミリー』ノ写真ヲドウ使ウカガ問題ナンダケド……」
「迷子に付き添っただけだよ。何かに使えるかな」
「何ニデモ使ウサ。ピンキリダヨ、ドノ世界デモ人間ハ」
「耳が痛いね」
 ニトロが笑ってそう言うと、つられて芍薬も笑った。ともすればA.I.に自分のことも含めて苦言を呈されたと受け止められる台詞回しではあるが、マスターがそうは受け止めず、その応えもただ洒落めかしの他に意図のないことを芍薬は理解していた。
「ソウハイッテモ、ソレニシタッテ『粗イ』トハ思ウンダケドネ」
「何か気になる?」
「懸念ガアルンダ」
「どんな?」
「……コレバカリハ、結果次第カナ。デモ対策ト準備ハ怠ラナイデオクカラ、主様ハ安心シテイテイイヨ」
 ニトロはうなずいた。それ以上の追求はしない。芍薬が答えをはっきり出さなかったということは、現時点で言っても仕方ないということだ。
 だが、別の疑念があって、ニトロは芍薬に訊いた。
「でも、そのためにわざわざパトネト王子まで動かす必要ってあるのかな」
「都合ガイイト思ウヨ。ドンナ報道ガサレタトシテモ、『弟』ガ『恋人』ト一緒ニイテ何カ問題ガ? ソノ一言デフォロー完了ダカラ」
「女装……は、似合ってるでしょ、とでもあいつがにっこり笑えばそれで終了か」
「『クレイジー・プリンセス』ノ便利ナ効能ダヨ」
「全くだ」
 忌々しげに言う芍薬に辛酸と呆れを混ぜ込んだ形に口を歪めて応え、そしてニトロはふむと一息ついた。
 芍薬の仮説には筋が通っていると思う。自分の中にある疑問点も、フォローしている。ただ、何かすっきりしない。芍薬の言葉初めの浮かない表情からして、芍薬自身もそう感じているのだろうが……
「それじゃあ、他のは?」
 ニトロが話題を転じると、芍薬はひとつうなずき、
「元々『ドッキリ』ヲシヨウト思ッテタケド、運良ク都合良イ『ターゲット』ヲ見ツケタカラ予定ヲ急遽変更シタ」
「うん。それもあるかも」
「――ソシテ、ココカラハ可能性ガ低クナルケド」
「うん?」
「パトネト王子『本人』ガ、コレヲ企画シタ」
 ニトロはまたも驚いた。目を丸くして、赤信号の前で車を止める芍薬の肖像を見つめる。
「伝エ聞ク性格カラハ考エラレナイケドネ、デモ、アクマデ伝聞ダカラ。モシカシタラ実際ハ行動力ガアルノカモシレナイ。花壇デ主様ヲ質問攻メニシテイタノヲ聞イテ、『ディアポルト』デ調理行程ヲ見タガッタ勢イモ思エバ、好奇心ノアルモノニ対シテハ特ニソウダッテ推測デキル。
 ナラ、バカ姫ニ主様ノ話ヲ沢山聞カサレテ、次第ニ主様ニ対シテ強イ好奇心ヲ抱イタトシタラ……考エラレナイコトジャナイダロ? 何セ、アノバカ姫ノ弟デモアルンダ」
「言われてみれば……うん。その線もあるかも……」
「モウ一ツ」
「ん?」
「『パティ』ヲ動カセルノハ、バカ姫一人ダケジャアナイヨ」
 ニトロは、うつむいた。が、体は前に乗り出し、目つきも真剣に芍薬の推測を受け止める。
「ああ……そうか。『ミリー』か」
 ぽつりとつぶやいたマスターに、車を発進させながら芍薬が言う。
「大好キナオ姉チャンニ似タ名前」
「だから、その名前だけで呼ばれたかったのかな」
 気難しさを感じさせる自己基準を持っていた『ミリー』だ。そういう妙なこだわりを持っていたとしても不思議はない。
 だが、
「でも、ミリュウ姫が俺に何で?」
「……主様ハ」
 少し言い難そうに、芍薬は言った。
「大好キナオ姉様ヲ奪ッタ男、ダヨ」
「……あー」
 ニトロは思わず、うめいた。
「そういうことか。ミリュウ姫は『わたしは宇宙で一番の“ティディア・マニア”です』って公言してたっけ」
「御意」
 芍薬の肯定が何だか残酷に聞こえる。
 車の天井を見上げていたニトロは、しかし――と思い直した。
「言われてみるとその可能性こそが『正解』だって思えるけどさ」
 もし今日の一連の出来事がミリュウ姫の企てだったとしたら、所々で感じたティディアのものにはない『粗さ』にも納得がいく。
 だが、
「なのに芍薬が可能性を低いランクに落とした理由、当ててみようか」
 芍薬は、こくりとうなずいた。
「もしミリュウ姫の仕業だとしたら、こんなことを仕掛けてくる『目的』に見当が付かない。また、ミリュウ姫には『ティディア姫の恋人』に仕掛けてくる度胸はない」
「御意」
「かなり検討し直して、やっぱりその結果に行き着いた?」
「御意」
 芍薬は大きく肯定した。まるで自分の考えを見抜かれたことが嬉しいような、それともマスターが、自分が思い込みのみで結論を下したわけではないと理解してくれていることが嬉しそうな表情だった。
「あたしモ初メハコレカナッテ思ッタンダケド、検討スレバスルホド『無イ』トシカ思エナクッテネ。大体、動機ガ解ラナイ。一応、動機トシテ最モ考エラレルノハ、姉ノ自分ヘノ関心ヲ薄クサレテシマッタコトヘノ逆恨ミ。転ジテバカ姉ノ主様ヘノ関心ヲ落トスコト、モシクハ主様ノ印象ヲ悪クシテ主様ヲ『恋人』ノ座カラ引キズリ落シタイ。
 アルイハ、自分ヘノ関心ヲ取リ戻スタメニイビツナアピールノ手段トシテ婿イジメニ出テキタカ」
「前者なら諸手を挙げて全力で協力するんだけどなあ。後者なら、それを理由にしてティディアに――は言っても無駄だから、マスメディアに家族関係で悩んでって格好の根拠を提示して『破局』宣言できる」
 まるで希望の星を見る目で言ったニトロは、芍薬が困ったような顔をしていることに気づき、ははと乾いた笑いを浮かべて小さく肩を落とした。
「分かってる。うん、解ってるよ芍薬。動機がそのどちらかだと仮定してみても、いや、仮定すればこそ、今回の『目的』にはどうしても説明がつかない……そうだろ?」
「御意。何シロ今回仕掛ケラレタノハタダ『ミリー』トブラブラ歩クコト、タッタソレダケダヨ? 『敵』ガミリュウ姫ダッタトシタラ、タッタソレダケノコトデ一体何ガシタカッタノカ。
 マサカ主様ヲ仕事ニ遅刻サセテ仕事ヲ軽ンジル男――ナンテ演出スルコトガ目的ダトハ思エナイシ――」
「それでいつまでも母親見つけられずに収録自体キャンセルしなくちゃならなくなったとしても、あいつは俺を責めるどころか『善人・お人好し』って点で外向けにアピールするだけだろうね。愛する国民の子どもを見捨てぬ王様――論法はそんなところかな」
 芍薬はうなずいた。
「カトイッテ主様ガ『迷子』ヲ見捨テルコトヲ狙ッテイタトシタラ、ソレハ幾ラ何デモ迂闊過ギル。警備ニ保護ヲ頼ム、タッタソレダケノコトデ責任ハ果タセルンダカラ。
 ソレトモ時間ヲ稼グダケ稼イダラ、機ヲ見計ラッテ『母親』ニ主様ノコトヲ誘拐犯ダト訴エ出サセルツモリダッタカ。……マア、ソウサレタトコロデ、コッチハ即座ニセキュリティノ監視映像ヲ提出スレバイイ話ダケドネ」
 ニトロはうなずき、だけど――と、芍薬に切り返した。
「ミリュウ姫がそこまで思い切ったことをできるもんかな。『劣り姫』なんて言われちゃいるけど、兄弟の中じゃ一番の常識人だよ。姉弟……特にティディアと比べて劣るって評価されてるだけで、人から悪く言われるような人物じゃない」
「御意。あたしモ、例エドレホドノ嫉妬ヲ原動力ニシテイタトシテモ、ミリュウ姫ハソコマデ陰険ナコトガデキル人間ジャナイト思ウ。ソノ上、モシソレヲ『目的』トシテタトシタラ、今度ハ『パトネト王子』ヲ持チ出シテクル必要性ガナクナッチャウシネ。
 ジャア、『ミリー』ガ『パトネト王子』デアル必要性ガアルコトヲ考エテミタラ……
 ミリュウ姫ハ、『ミリー』ガ『パトネト王子』ダト主様ガ気ヅカナイコトヲ期待シタカ」
「俺があんな簡単な変装を見抜けないことを、ネガティブキャンペーンの材料にしようって?」
「御意。第一王位継承者ノ夫ニナロウトイウ者ガ、王族ノ顔モ覚エテイナイナンテ問題ガアル。ソレモタダノ第一王位継承者デハナイ、歴史ニ輝カシク名ヲ残スデアロウ『ティディア女王』ト共ニ玉座ニ座ル男ダ。事ハ国ノ未来ニモ関ワル。名君ノ夫トシテ、彼ハ不適格、王トシテモ不相応シクナイノデハナイカ――論法ハ、コンナトコロカナ」
「だとしたら、たかだかその程度のネガティブキャンペーンのために随分と割りの合わないことをしているなぁ。大体、ティディアがそんなことを気にするわけがない。むしろこれ幸いと家族に会わせる根拠にしてきやがるよ」
 芍薬はニトロの嫌気に同意するようにため息のアニメーションを出した。そして肩をすくめて続ける。
「ソレニ、ダトシタラ、あたしノ存在ガ随分ト見クビラレテイルモンダケドネ。アンナ変装、見破ルノニ1ミリ秒ダッテカカラナイヨ」
「まあ、芍薬の力をミリュウ姫は知らないだろうから。知ってたら、あんな変装は企画段階でボツだよ」
 ニトロに慰められた芍薬は少し面映そうに鼻を指で触れ、話を本筋に戻した。
「ソシテ何ヨリ、ミリュウ姫ニハ重大ナ弱点ガアル」
「絶対にティディアには逆らわない――いや、逆らえない、かな?」
「御意。『ティディア姫』ハ、ミリュウ姫ニトッテ『絶対的な存在』ソノモノダカラネ。ダカラ、万ガ一ニデモソレニ嫌ワレカネナイコト……『ティディア姫ノ恋人』ニチョッカイヲカケルナンテコトハ、ドウシテモ考エヅラインダ。アノバカハ『小姑ト恋人ノ喧嘩』ガ起キタラ嬉々トシテ楽シムダロウケド……」
「肝心のミリュウ姫はティディアが関わることにはどんなに不満があっても押し黙るし、押し黙ることしかできない」
「ソウイウ性格ダヨ。昔ノ『資料』カラ見テモ、最近ノ様子カラ見テモ」
「うん。俺も、そう思う」
 ただ、そういう人物に限って他人には量れない理由で、あるいはふとした拍子に『一線』を越えたら怖いけどな……と、一瞬そんな考えがニトロの脳裡をよぎった。
 ティディア・マニア、と言えば『隊長達』の前例もある。
 しかし、その前例はおそらくミリュウ姫には提要されないだろうと、ニトロはすぐに考えを改めた。いくら『マニア』を自称しているとはいえ、ミリュウ姫と『隊長達』には決定的に大きな違いがある。隊長達はあくまで他人であるのに対して、ミリュウ姫は実の妹だ。彼女自身、それが何よりの誇りだと何度も発言している。
 そして、その事実は例えティディアに恋人――伴侶ができたとしても決して覆されることはない。そう、彼女には、『隊長達』とは違ってティディアに可愛がられる一番の妹という絶対的な優位性があるのだ。揺るぎない拠り所があるのだから、やすやす暴走して折角の優位を自ら捨て去ることはないだろう。
 劣り姫――そうは呼ばれていても、彼女は『クレイジー』ではないのだから。
 そこまで考えたところで、ニトロは、すれ違おうとしている対向車の運転席で中年男性が熱唱している姿にふと目を奪われた。男性は拳を握り、顔面を紅潮させてまで全力で歌っている。周囲の目などもはや完璧に気にしていないのだろう、実に楽しそうな姿だ。
 A.I.同士が運転する車はきっちり時速50kmですれ違う。
 インパクトのある歌唱を見せてくれた中年のサラリーマンが過ぎ去った後にはもう、ニトロの脳裏をよぎった予感も共に背後へと消え去っていた。
「まあ、結局、引き続き『相手』の出方を……窺うしかなさそうだね」
 一つ息を吐き、肩を軽くすくめ、ニトロは重々しく歯切れ悪い口振りで言った。
 芍薬は、マスターの言葉に苦い面持ちで鈍くうなずく。
 可能性は絞れども、明確な結論を出せぬまま『結論』を出さねばならない居心地の悪さ、また、それをそのままにしておかねばならない心持ちの悪さ――
 一番高い可能性は挙げられても、所詮それは可能性でしかなく、あるいは『事件』は現在も進行中であるという不気味――
 共に感じている不快感を共に露骨に表し合ってしまったニトロと芍薬は思わず目を合わせて動きを止め、そして、同時に破顔した。
 今回の件は確かに奇妙で、不可解で……これまでの出来事とは異質なものを感じる。だが、それに囚われて気を沈めているのは面白くない。
 ニトロは揺らしていた肩をもう一度すくめ、今度は明るく言った。
「今のところ仮説@が一番可能性高いと思うから、芍薬、警戒することが増えて大変だろうけどよろしく頼むね」
「承諾」
 頼もしくうなずいた芍薬にニトロは微笑みを返した。
 そして、
「あ、そうだ。サンドイッチ用のパンのことだけど、どうせならティディアにとことん後悔させてやりたいからさ。寄り道できる範囲に美味しいパン屋がないか調べてくれる?」
 言い終わるが早いか、芍薬の背後に王都ジスカルラの地図が表示される。そこには数個の明るい星が印されていた。どの星もドロシーズサークルから漫才の収録を行うテレビ局までの道に沿い、道を外れても数キロの範囲で収まる位置にある。
 ――いやいや、いくらA.I.の得意分野の仕事といっても余りに早すぎやしないだろうか。
 ニトロが呆気に取られていると、芍薬は実に気分良さそうにウィンクをした。
「ソウ言ウト思ッテピックアップシテオイタヨ、主様」

 ドロシーズサークルと呼ばれる地域の外縁に、ショーやイベントで使われる道具や機材を保管している倉庫街がある。
 その中の人気のない場所に、『ミリー』を乗せた車は止まった。
 運転席からやけに表情のない女性が降りてくる。彼女は助手席側に回り込むと恭しく頭を垂れ、静かにドアを開いた。
 シートから飛び降りるようにして小さな少女が車から出てくる。
 そこに駆け寄ったのは、ボーイッシュな服装に身を包み、大振りの鳥打帽キャスケットから長く美しい黒紫の髪をなびかせる少女だった。
「パティ! 膝、膝は大丈夫!?」
 彼女は『パティ』の前に跪き、その膝に触れたものかどうか迷っているように両手をわたつかせながら声を上げた。『パティ』の顔とスカートに隠れた膝を交互に見る目は不安に彩られている。表情にはどこか悔恨の念があり、声はひどく震えていた。
「痛かったでしょう? ごめんね、お姉ちゃんがこんなことを無理に頼んだから……!」
 両手を温かい両の手で包み込んで謝罪を投げかけてくる姉に、『弟』はゆっくりと首を左右に振った。
「痛くないから、大丈夫」
「本当? 我慢しなくていいのよ。そうだ、すぐにフレアに診せないと、フレア!」
 慌てた様子でミリュウはドアを開いた女性――パトネトの警護のための特別なアンドロイドに振り向き言った。即、アンドロイドが一歩踏み出し、そこにパトネトがもう一度弟は首を左右に振って言った。
「フレア、いい」
 ピタリとアンドロイドが止まり、その場で姿勢を正す。ミリュウの命令よりも、アンドロイドを動かすA.I.『フレア』のマスターであるパトネトの命令が優先された結果だった。
 ビックリ眼で自分を見つめるミリュウを前に、姉を驚かせてしまったことを悔やむようにパトネトは一度目を伏せ、それからすぐに目を上げて言った。
「大丈夫。お薬つけてもらったから」
「……本当に?」
「うん」
「我慢しなくていいよ?」
「ううん、平気」
「……ごめんね」
 言うパトネトを見つめていたミリュウは、やおら立ち上がり、もう一度謝りながら彼を優しく抱き締めた。抱き締められたパトネトは姉の腹に頬を当て、嬉しそうに笑って姉を抱き返す。
「ありがとう、パティ。お疲れ様。大変だったでしょう?」
「ううん。楽しかった」
「楽しかった?」
 ミリュウはぎょっとした。思わぬ言葉を口にしたパトネトの肩に手を置き、彼を見下ろす。そこにあるのは唐突な変化にきょとんとしている純真な瞳だ。彼女は今一度しゃがみ込むと弟の目を真っ直ぐ見つめて、問うた。
「まさか……パティ。まさかニトロ・ポルカトのこと…………好きに、なったの?」
 ミリュウの顔は不安に強張り、瞳を彩るのは――
 恐怖。
「……」
 パトネトは姉をじぃっと見つめ返し、やおら、頭を振った。
「ううん」
「……違うの?」
「うん。楽しかったのは、ティディアお姉ちゃんと同じ」
「お姉様と?」
「ティディアお姉ちゃん、ニトロ君を時々だまして遊ぶって言ってたでしょ? そのことをお話ししてくれるティディアお姉ちゃん、楽しそうだった。その気持ちがよく分かったの。だから、ティディアお姉ちゃんと、同じ」
 その言葉を聞いたミリュウから、不安も恐怖も全てが消し飛んだ。
 少し『騙す』という行為に弟を加担させてしまったことへの罪悪感が心を刺したが、腹の底で鈍く唸るニトロ・ポルカトへの悪情がその痛みを瞬く間に飲み込んでしまう。
 それに何より、ティディアと同じ、というセリフが嬉しかった。
 敬愛するお姉様と同じ――何と素晴らしい響きだろう!
「またニトロ君に『する』ときは、ボクをさそってね」
「ええ。ええ、パティ」
 少女よりも少女らしく微笑む弟を、ミリュウは抱き締めた。
「その時も、力を貸してね」
「うん」
 耳元で囁かれる返事にミリュウは嬉しくなり、パトネトの頬に口づけをした。解放された弟は照れ臭そうに、しかし得意気に笑った。
「さあ、帰りましょう」
 ミリュウはパトネトと手をつなぎ、背後に止めていた飛行車スカイカーに乗り込んだ。『母親役』を演じたフレアにパトネトを送り届けた車を処分するよう命じ、飛行車スカイカーのドアを閉め、運転席にいる男性型のアンドロイドにロディアーナ宮殿へ戻るよう命じる。
 広々とした後部座席の高級シートに並んで座る姉弟は、手をつないで上空へ飛び上がっていく浮遊感を楽しんだ。
「…………あのね、ミリュウお姉ちゃん」
「なぁに?」
「……ごめんね」
 そしてちょうど車が前方へと加速を開始した時、思い出したように――それともこれまで言い出せなかったことをようやく口に出せたように、パトネトが言った。
 突然謝られたミリュウは当然驚き、弟に目をやった。
「最後、大失敗しちゃった」
 そこには力なく肩を落としているパトネトがいた。その姿はミリュウの胸に温かなものを溢れさせ、彼女は弟の手を放すと、彼の頭を優しく撫でた。
「いいのよ、お願いだからそんなことで謝らないで、パティ。あなたはよくやってくれたんだから」
「でも、もっと時間をかけられなかったから、ニトロ君、仕事に間に合っちゃう……」
「ええ。だけど、パティには気づかなかった
 パトネトはミリュウを見た。
「お姉様の恋人でありながらこんなに可愛いパティに気づかないなんて、やっぱりニトロ・ポルカトはお姉様に相応しくない。このことを知ったら、お姉様はこれから教え込むから気にしないって、きっとそう仰るだろうけど……けれど、きっと、心の内では酷くガッカリなさるわ」
 一定の達成感への喜びを言葉の裏に貼り付けていたミリュウは、最後の自身のセリフに眉を曇らせた。その眉の曇りは目に落ち、頬を伝い、やがて唇に自虐的とも言える笑みを作らせ、
「あんなに愛しているニトロ・ポルカトが、お姉様の大事なパティに気づかないんですもの」
 そこにあるのはティディアがニトロを想う強さへの嫉妬か、それともその姉を傷つける結果を喜ぶ自己への嫌悪か。それとも、未来の義兄に気づかれなかった弟への憐れみの故か。
「そのくせニトロ・ポルカトときたら、お姉様をまるで鬼か悪魔みたいに例えて。悪い子はティディアお姉様に食べられる、なんてどういうこと? さらに呼び捨て、あいつ呼ばわり、絶対、アイツはお姉様を軽んじている。馬鹿みたいなファンに偉そうにして、お姉様の威光を笠に着て良い気になっているんだわ」
 複雑な感情を浮かべるミリュウを見ていたパトネトは、もにょもにょと唇を小さく動かし口の中まで出てきていた言葉を飲み込んでいた。
 その言葉とは……ニトロ・ポルカトは、多分、気づいていたというセリフ。
 もちろん、はっきりとニトロ・ポルカトに『気づいている』と正体を突きつけられたわけではないから、それはパトネトの推測と感覚的なものでしかない。しかし彼は、ニトロ・ポルカトが時折見せた――あるいは姉のティディアにも似た――こちらの心を見透かすような瞳を克明に覚えていた。あの瞳、そう、間違いなく彼は気づいているはずだ。
 それに例え彼自身の力では気づけなかったとしても、彼には優秀なA.I.がいる。あの獣人と撮った写真を送っていたから、別れるまでは気づかれていなかったとしても、現在ではもう絶対にばれているだろう。
 芍薬。
 その名はティディアに何度も聞いた。気になり、その芍薬に『負けた』という王家のA.I.の回復を待って話を聞いた時には、それに市井のA.I.にしておくには惜しいとまで言わせていた。
 ――だが……
 パトネトには、言えなかった。
「絶対にお姉様には相応しくない。お目を醒まして差し上げないと……」
 今までにミリュウが浮かべたことのない暗い翳り。本心では、嫌な感じがしている。そんな顔を姉にして欲しくないと思う。それなのに、言えばそんな暗い笑みを姉にもたらしたニトロ・ポルカトの利益になることを、姉のその翳りを前にして口にできようもない。
 そしてまた、少なくとも姉が達成感を得て喜んでいるのならそこに水を差したくもない。いや、それどころか、ニトロ・ポルカトが『ミリー』の正体に気づいていたとなれば姉が必死に考えていた今回の策自体が全て無駄になってしまうのだ。
 言えるはずがない。
 言うわけにはいかない。
 それが、姉を慕うパトネトの、今できる精一杯の優しさだった。
「……」
 パトネトは、自分の頭を撫でた後は膝に置かれた姉の手をそっと握り、姉に甘えるように肩を寄せた。
「あ」
 嬉しそうな声を上げてミリュウはパトネトの手を握り返すと、ふと思いついたように弟とつなぐ手を解いた。七歳の男子にしては華奢な腰に腕を回し、
「よいしょ」
 と、自分の膝の上に座らせる。
 背後から包まれるようにミリュウに抱かれたパトネトは、心地良さそうにはにかんだ。
「がんばろうね、お姉ちゃん」
「――うん」
 ミリュウは、何だか泣きそうになった。
 弟の健気な言葉、優しい声に、胸の奥がざわめいてならなかった。
「うん。パティ、ありがとう」
「あ、でもね、もう女の子の服はヤ」
「え?」
 肩越しに振り返り言うパトネトを、ミリュウは眉をひそめて見つめた。
「なぜ?」
「ボク男の子だもん。スカートはもうヤ。おまたがすーすーする」
「……とっても似合ってるのに」
「ヤ」
 パトネトはそっぽを向いて頑として拒絶する。
 ミリュウは、至極残念そうにため息をついた。
「帰ったらドレスを着せたかったのになぁ……」
「イーヤ!」

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