2−5−3 へ

 思っていたよりも、事態は遅々として進まなかった。
 いるかどうかも分からない『ミリー』の母親を当てもなく探し歩き、あっちだかやっぱりこっちだかはっきりしない方向指示に従い続け、ニトロはいい加減精神的な疲労を感じ始めていた。
 土曜日――週末のドロシーズサークルは当然のように人出がある。地下鉄やバス等の交通が充実しているため『公園』とされている各種施設間区域までごった返してはいないが、それでも人の往来は少なくない。
 常に、人とすれ違う度に自分が『ニトロ・ポルカト』であることに――同時に、三十分経っても未だ距離を置いて歩くミリーが、それも人目を思いっきり集めてくれる可愛らしい『ミリー』が『パトネト王子』であることに気づかれやしないかと緊張が続いている。
 一度はミリーに名を呼ばれたちょうどその時にすれ違おうとしていた初老の夫婦と気忙しそうな中年の男性にマジマジと見られ、怪訝な顔をされ、いつ声をかけられてしまうかと気が気ではなかった。やり過ごすことができたのは、幸運以外の何でもないと思う。
 さらに並行して複数の方向へ警戒も続けているのだ。そりゃあ嫌気も差してくるし、むしろそうでない方がおかしいってものだろう。
 なおかつ即座に返って来ると思っていたティディアからの電話も未だ無いときた。
「お母さん、いた?」
「……いない」
 右に三歩、後ろに一歩。
 常にその距離を保ち明らかな警戒心を解かずについてくるミリーは、振り向いたニトロの問いに首を横に振った。
「そっか」
 もう何度目かの変化のない質疑応答を繰り返したニトロの視界には、とぼとぼとついてくるミリーの頭上に芍薬の時計型レーダーが薄くある。伊達メガネのレンズ・モニターは芍薬の肖像シェイプをもう映してはいない。それは歩き始めてすぐに消され、以降、ニトロは情報をリアルタイムで更新されるレーダーとテキストメッセージで受け取っていた。
 そして、そのレーダーには、今や車の青点が星空に輝く月のごとく異彩を放って見えるほど、黄と赤色の点が多く表示されていた。
 母親を探し始めてから三分と経たずに中心点じぶんの近場に毒々しい赤が二つ、しばし遅れて少し距離を置いたところにも一つ。やがて近・中・遠距離にまんべんなくばらけて色濃い黄点が二十数個ほど。
 遠間にいる赤点はカメラを構えていると、付随情報として芍薬はそう伝えてきた。
 また、三つの赤点が一定の距離を保って常についてくる一方で、多数の黄点は時折消えては現れを繰り返している。
 おそらく近い赤の二人は『ミリー』のボディガード、遠い赤は直属のカメラマンか。
 活発に動く黄色達は、おそらく、存在をこちらに気づかれないよう尾行のセオリー通りに人員交代を繰り返している――時折点が消えるのはそのためだろう――スタッフの皆様
 やはり、この『迷子』は仕組まれたことであると確定して良さそうだ。
 だが、とすると――ふとニトロは、この件にはティディアが仕掛けてきたにしては変なところが多いな、と、そう感じていた。
 自分ターゲットに簡単に『少女』の正体を悟らせる杜撰な変装、芍薬の実力を知っているはずなのに少なくとも三人もの『敵』を容易に発見させてくれる不用意さ、思えば数が多過ぎる黄色スタッフ……
 どれもこれも、通じてどこか甘い。
 阿呆なことをする時は前面に出たがる――というかほぼ確実に矢面に立ってくるバカも近場にいないし、何よりカメラの存在を隠さずにきたことはおかし過ぎる。
 芍薬がセキュリティシステムを利用してこちらの周囲にいる人間を目視確認することぐらい考えずとも理解しているだろうに、ティディアがあえて記録していますよと記録者の存在を報せてきた意味は、何だ?
(……『ドッキリ』か? ひょっとして)
 考えられる。
 もしミリーが『パトネト王子』だとこちらが気づいていなければバラシの時に反応を楽しむだろうし、『彼』の正体に気づけと言わんばかりのなめた変装レベルを考慮すれば、それともこちらがパトネトだと気づいていながら『ミリー』に対してどういう対応をするのかを楽しむつもりなのかもしれない。
 加えてあいつは以前から弟と会わせたいと口にしていたから、これはそれを叶える一石二鳥の機会でもあろう。『パトネト王子』が変装――女装しているのは、あるいはそうやってミリーという別人になりきることで、姉が傍にいなくとも他人と接する度胸を生み出させるためのものかもしれない。
 もしそうであるならば、『彼』が『ミリー』という名に妙なこだわりを見せたことにも納得がいく。この当て所ない『迷子ごっこ』もティディアが来るまでの時間稼ぎだと仮定すれば、筋を通すに無理はない。
(……――いやいや……)
 脳裡に溢れる推測の渦を、しかしニトロは小さなため息と共に打ち消した。
 ドッキリ説も、ミリーと出会った時に思い描いた可能性も全てまとめて思考の棚の最下段へと押し込む。
(いくら考えても、仕方がない)
 推測に推測を重ねても、あのバカが作り出す選択肢は無限とも思える『悪夢』だ。そして推測に推測を重ねても、その労力が一気に徒労と変わることも少なくない。
 それは、つい二週間前にもシゼモで痛烈に実感させられたこと。
 不可解な行動を取るティディアに対し、考えに考えた行動予測は彼女の意外な想いに裏切られ、かと思えば日も変わらぬ内にもう一度最悪な方向へ裏切られた
 そしてまた、目の前には不可解な事案がぶら下がっている……
(……何だか、馬鹿らしくなってきたな)
 ニトロは精神的な疲労がことさら重くのしかかってきたように感じ、うんざりと思った。
 まるで居もしない敵を自ら創り上げ、誰も彼も彼女も何も存在しない空間に向かってあれこれ喚いているような気にもなってくる。そんなことをしていても、虚しく疑心暗鬼に内から食い尽くされていくだけのことなのに。
(――うん、やっぱり馬鹿らしい)
 先日ハラキリと話している時、彼が、ふいに思い出したようにシゼモでの失敗について忠告しておかねばならないことがあったと、こんなことを言ってきた――「おひいさんのように何でもかんでも独りでできる超人ならいいですけどね。ニトロ君は違います。君は何でもかんでも独りでやろうとしちゃ駄目です。――していない? ええ、解っています。今のところはね。……上から物を言いますが、君はよく成長していますよ。しかしだからこそ、それ故の弊害に囚われかけている。――そう。弊害です。まぁそうですね、『力を得た者は往々にして自ら縄に縛られ滅ぶ』ということわざでも言っておきましょうか。……ですが、君には、優秀なパートナーがいます。それを決してお忘れなきように」
 現状分析、あのバカの仕掛けてきそうな可能性の吟味は、今も芍薬が的確に行ってくれている。もちろん、だからといって芍薬に任せ切りにせず、自分でも考えることは悪くない。止めるべきことでもない。経験・知識、以前とは比べ物にならない力でより多くのことを考えられるようになった。頭をよぎる可能性おもいつきをある程度自ら吟味することも必要なことだ。それが芍薬への助けになることもある。
 だが、自分は今、そこにあるべき加減を見誤りつつあるのではないか? パートナーに任せ切るべき領分にまで踏み込みかけてはいないだろうか。ひょっとしたら芍薬の強力なサポートをないがしろにしていて、だから戦う前から精神的に疲労し続けて……
 それは、得策ではない。愚かなことだ。いや、それどころか芍薬に対する重大な背信行為でもあろう。
(最近の悪い癖だな。ハラキリの言う通りだ。こんなんじゃ、いつか『考え過ぎ』で独り勝手に動けなくなる)
 そう、自分がすべきことは、そんなことではない。
 すべきは、どんな事態の急変にも対応できるよう余裕を持って心構えつつ、目の前のことに適切に対処していき、いざ『本命』が襲い掛かってきた時にはそれに全力で打ち克つことだ。
 初心でありあるいは究極でもあるそれを果たしてこそ、芍薬の期待にも応えられるマスターというものだろう。
(反省反省)
 自省と共にニトロが改めて思い新たにした、その時――
「あれ?」
 何気なく振り返ると、ミリーがいなくなっていた。
 慌てて周囲を見渡すと……いた。
 ミリーは左方にある大きな花壇に向かっていた。
 膝を包み込むように脚に当たるスカートを気にしているのだろうか、少したどたどしい早足でそこへと向かうその背姿に、何か興味を引かれたらしい様がありありと表れている。
 ニトロはミリーを追った。
 七歳――あくまで『ミリー』がパトネト王子だったとして――同年代の中でも小さい『彼』の足を追いかけるのにニトロが走る必要はなかった。相手がひらひら動くスカートの裾にやりにくそうにしていることもある。歩幅をやや広げるくらいの並足で、花壇の前にしゃがみ込んだ小さな『仕掛け人』を待たせることなくすぐに追いつく。
「どうかした?」
 ニトロが訊くと、ミリーはしゃがんだまま隣に立つ彼を見上げ、
「これ……」
 ミリーの人差し指が示したのは、糸状の葉を編み合わせるようにしてふっくらと、少しひしゃげた球状に茂らせているものだった。大きさはグレープフルーツほど。さながら目の粗い鳥の巣のようでもある。花壇の一画に整然と並ぶそれらの内部では、葉と葉の隙間を縫って小さな花がいくつも開いていた。
「何?」
 問われてニトロは、即答した。
「カバードエモニフラワー。お店では『揺り籠クレイドル』って愛称で売られてるよ」
 誰もが知る――というわけではないが、わりとメジャーな品種だ。一年草で、何度か母が育てていたことがある。
「面白いことに同じ株の中で色んな色の花が咲いてね、赤や青や白や黄色、その上同じ色のものでも一つ一つ薄かったり濃かったりするんだ」
「……ホントだ」
「まだ咲き始めみたいだからあまり分からないけど、もう少ししたらもっとたくさん花が開いて綺麗なモザイク模様を見せてくれるよ」
 そこまで言って、ニトロは、思わずぎょっとした。
 こちらを見上げるミリーの瞳が奇妙なほどに輝いている。
 ニトロはこれまで内気を源にした無愛想な表情しか見ていなかったから、突然、そう、歳相応の子ども特有の輝きを見せられて驚いてしまった。
「……これは?」
 ミリーが次に指差したのはカバードエモニフラワーの隣の区画に植えられている花だった。日に透ける薄い花弁を濃いオレンジ色に染め、花開く形は椀型、鮮やかで、華やか。これはメジャーな品種だ。
「リトルポピー」
「……あれは?」
 さらに隣のものをミリーが差す。
「ペチュニア」
「こっちのは?」
「アジサイソウ」
「まん中の」
「四季咲きレンゲ」
「あ、ちょうちょ」
「んー、ルリシジミか」
「それじゃ、それじゃあね、ニトロ君」
 矢継ぎ早に答えを返されて、ミリーは少し興奮したように立ち上がり、別の花壇へ向けて走り出した。
「あ」
 それを見てニトロはうめいた。さっき、ミリーは早足程度でもスカートを気にして脚をもたつかせていたのだ。しかもその走るフォームには明らかに体躯を扱い切れていない不器用さがある。
「危ないよ!」
 と、ニトロが言ったか言わぬかの刹那、ドダッと鈍い音を立ててミリーが膝から腹這いに転倒した。
 瞬間的に、『レーダー』に散らばる赤と黄の無数の点がほぼ一斉に中心点こちらへと接近する。直後には元いた位置へと戻ろうという反作用が働いていたが、その時には既に全ての点が真っ赤に変色していた。
本物、だね>
 レーダーの下に芍薬のメッセージが流れる。ニトロも同意見だった。論理的な思考だけでなく、非論理的な直感もそう断定している。ここにいる『ミリー』は、英知を注ぎ精巧に造られたアンドロイドなどではない。間違いなくパトネト本人だ。
 一つの結論を出しながら、しかしニトロは一瞬も躊躇することなく、コンクリートの硬い地面にうつ伏せ四肢を投げ出したままのミリーに駆け寄っていた。
「大丈夫?」
 レアフードマーケットのバッグを置きながら屈みこみ、ニトロが声をかけたと同時――がばっとミリーが勢いよく立ち上がった。
 その顔は硬直し、大きく見開かれた双眸の中で青い瞳だけがぽかんと力を失っている。
 まるで一体自分の身に何が起こったのかよく分かっていないような様子だった。目をぱちくりと閉じ開いて、慌てたように一度きょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、傍で屈んで自分を見ているニトロに目線を落とす。
 激しく狼狽し、ともすればひきつけを起こしそうなほど気を動転させているようにも思えた。
(……まさか)
 本当に……自分の身に何が起こったのか理解できていないのだろうか。
 思えば、あるいは、彼は生まれて初めて転んだのかもしれない。いや、物心ついてからだろうか――ああ、いやいや、そんなことはどちらでもいい。だが、これまで彼の周囲には常にその身を守るものが大勢あっただろう。加えて内気で閉じこもりがちな性格だ。活動的でもない。王子の走る姿が映った映像は、少なくともニトロの記憶の中には一つもなかった。
 実際、ここまで派手に転倒したことがないとしても不思議はないことだ。
「――大丈夫?」
 ニトロがもう一度問うと、ミリーははっとして顔をしかめた。ようやく自分が転んだことを理解したようだ。ミリーは両手の平を見、それから、
「いたい……」
「手をすりむいた?」
 ミリーは首を振った。手は大丈夫なようだ。
「どこが痛い?」
 ミリーは涙ぐみ、ぐっとスカートを握るとそれを軽く持ち上げた。裾が腿まで上がり、生地に隠されていた膝が露になる。
 少し、左膝を擦りむいている――が、その程度だった。
 子供服の生地は転倒時に衝撃を幾分和らげ擦り傷を負わないように加工されているものが多く、このワンピースに使われているものは中でもかなりの高級・高性能品であるらしい。受身も何もなく膝を打ったのに傷は極浅く、血は少量滲み出るのみだ。周囲の赤らみ方も薄く打ち身の程度も軽い。
 このまま放っておいてもいい軽傷……ではあるものの、自分でも膝を見たミリーがさっと青褪めたのを見て、ニトロはショルダーバッグに手を突っ込みながら言った。
「ちょっと沁みるよ」
 バッグの内ポケットから手の平サイズの救急箱――もちろん何らかのトラブルに巻き込まれた時のための備えだ――を取り出し、小指サイズのスプレーをミリーの傷に吹きかける。消毒と血止め、痛み止め、それに傷の治りを早める成分の入った薬だ。宣告されていた通りに沁みたのだろうミリーが小さく短いうめきを上げた。それと時を同じくしてたちまち血が止まり、気のせいか、既に薄皮が傷を隠し始めたようにも見える。
 ニトロは次にガーゼを取り出すと余分な薬を拭き取り、最後に手際よく傷を絆創膏で保護した。
「はい、終わり。もう大丈夫だよ」
「骨は、折れてない?」
 スプレーを収めた救急箱をバッグの所定の位置にしまっていたニトロは、その質問に思わず笑った。
「折れてないよ」
 随分大袈裟だなと思いながらバッグから目をミリーに戻すと、そこには目に涙を一杯にためて怯えている子どもの顔があった。
「……」
 ニトロは、頬に浮かべていた笑みを消した。そして失敗したと反省する。
 こちらに取っては大袈裟な物言いでも、あちらにとっては『真剣』なのだ。
 笑っては失礼だし、それでは不安を消してやることもできないだろう。
「うん。折れてない」
 真っ直ぐミリーの瞳を見据えて、ニトロは言った。
「本当?」
「本当だよ。骨が折れたらもっと痛くて立ってもいられない」
「……折ったこと、あるの?」
「あるよ。膝、じゃないけどね」
 ニトロは立ち上がった。今にも涙をこぼしそうだったミリーの顔が上向き、涙の代わりに問いがこぼれる。
「いつ?」
「小学三年生の時。母さんとショッピングモールに行った時、エスカレーターの段に足を引っ掛けて転んでね」
 そう言って、ニトロはミリーに右手を見せた。
「この手を下手に突いちゃって、中指が折れて逆に曲がった」
 ミリーは眉をひそめ、
「いたかった?」
「痛かったよ、すごく。今でも憶えてる。けど……」
 ニトロは口元に小さな笑みを浮かべた。記憶の箱から飛び出してきた過去のシーンが瞼と鼓膜の裏に再生される。
「それより、母さんにツッコミまくったことの方が、よく憶えてるかな」
「……?」
「母さん、俺の曲がっちゃいけない方向90度に曲がった指を見てさ、笑って言ったんだ。あらー、ニトロ凄いわ。そんなに指が曲がるなんてお母さん知らなかった。才能ね、天才よ、将来はそれで食べていけるわ有名人よって。
 もう俺は母さんの素っ頓狂なセリフに頭にきちゃって、心配もしてくれないのかって思うと悲しいやら悔しいやらでさらに頭にきて、怒鳴ったんだ。これは曲がってるんじゃねえ折れてンの! 解るでしょお母さんほら僕の指曲がってるんじゃなくってぽっきり骨がつながってないの、ほらほら振ってみたらもうぷらっぷらじゃアアアしまった痛ああああ!」
 右手を震わせ掲げ、その時の様子を再現しながらニトロは続けた。
「そそそそれにこんなんじゃ食べてなんかいけないよ、世の中そんなに甘くないって僕思うんだ。中指が単に逆に曲がるだけじゃすぐに飽きられてポイだよ!――『そうかしら? お母さんニトロのこと信じてる!』――ありがとうでも世間も見つめて! 大体お母さんだってすぐに飽きるから見てなよほらほラってあやッ痛ッダーター僕のバカァ!!」
 ティディアと関わってから図らずも培われた演技力。ミリーの意識が怪我した膝からこちらに集中したと確信したところでニトロは脱力したように肩を落とし、
「その間ずっとエスカレーターに乗っていたから言い合ってる最中も上の階に運ばれていてね、最後はエスカレーターの終わりでまた足を引っ掛けて母さんと仲良く一緒にすっ転んだ」
「……いたかった?」
「痛くなかったよ。母さんがとっさに俺を抱えて下敷きになってくれたから」
 ニトロはミリーの目から涙が消え去っているのを見て、微笑んだ。
「その後病院に行って……そこで父さんから聞いたんだけど、母さん、俺の折れた指を見たら頭真っ白になっちゃって、どうしていいか分からなくって、だけど俺を不安にさせちゃいけないからってとにかく励まそうとしてたんだってさ」
「……いろいろ、まちがってる」
 思わぬミリーからの『ツッコミ』に、ニトロは口角をニッと大きく引き上げた。しかもその言葉、『漫才』でよく使っている言い回しだ。
「うん、正解」
 ニトロはそっとミリーの頭に手を置いた。
「母さんもまさか指を折った俺にツッコまれるとは思ってなかったらしくて、だから余計にしばらく凹んでた」
 それに、母は何もできなくてごめんねと謝ってもいた。あの時応急処置をしてくれたのは即座に駆けつけてきたショッピングモールの警備アンドロイドだったし、病院への手配をしてくれたのもそこのスタッフだった。
 子どもだった自分はしょげる母に何を言えばいいのか分からず黙ったままだったが……その時から母の思いに抱く感謝こそあれ、恨みの一つも感じたことはない。
「ミリー」
 意図せず胸に込み上げてきた温かな感情に目を細め、ニトロは小さな『仕掛け人』の頭を優しく撫でた。
「もう、大丈夫だね」
 訊ね、手を離すと、ミリーはややあってから小さくうなずいた。
 そして、ニトロを見上げ、じいっと見つめる。
「……何?」
 そういえばミリーとの距離が縮まっている。それどころか頭に触れて撫でる、なんてことさえしていた。ミリーは今も手を伸ばせば届く位置にいて、そこから離れようという素振りもなく、前髪を盾にして窺い見るような眼は相変わらずだが、しかしこれまでになかった視線を向けてきている。
「……ミリー?」
「……」
「…………えっと……?」
「おんぶ」
 手を伸ばして、おもむろにミリーは言った。
 落ち着かない沈黙に当惑していたニトロは仰天し、あまりに想定外な要求に言葉を失った。
 ついさっきまで警戒心全開だった内気な『ミリー』が――おんぶだと?
「ニトロ君、おんぶ」
 確かに『おんぶ』と言っている。
(――ああ。そういやよくおんぶとか抱っことかされてたっけな)
 一時思考が停止していたニトロの脳裡に、過去、『彼』がもっと幼い頃、ティディア姫に抱っこされて公の場に現れる王子の映像が幾つも流れた。何の公務の際だったか歩き疲れて父王に背負われていたこともあったし、何のイベントだったか長時間の抱っこでミリュウ姫が腕をぷるぷるさせていたこともある。最近でも、ミリュウ姫に背負われている姿が流れたはずだ。
 だからといって、あの内気さと人見知りの激しさで有名なパトネト王子が『おんぶ』などと要求してくるものだろうか。こんなにも短時間で、まさか花壇での触れ合いだけで懐かれたというのか。と、思った時、ニトロは閃いた。
 ――そうだ。おんぶといえば、この子の姉を背負って歩いたことがある。彼女が可愛がっている弟にそのことを話聞かせていたのだろう。そしてその姉のことを大好きな弟が、姉と同じ体験をしたいと考えていたとしてもおかしくない。今ならタイミングもいい。『彼』も勢いに乗り、自らが他者との間に作り上げている高い壁も乗り越えられるだろう。
「ニトロ君」
 要求を繰り返すミリーの瞳には、いつの間にか涙が滲んでいた。
 ニトロがどう応えるか思案していたほんの数秒すら、『ミリー』に取っては我慢できないものであるらしい。僅かな間とて己の望みが聞き入れられていない現実への拒絶が今にも溢れ出しそうだ。
 それを見て、ニトロはしみじみと思った。
(結構、甘やかされてんのかな……)
 あのティディアが不必要に甘やかすとは考えられない。あいつは弟の人見知りをどうにかしたいとも言っていた。だが、では他の周囲の者はどうだろう。
「ね、おんぶ」
 ニトロは、決めた。
「自分で歩けるよね」
「……いたくて歩けない」
「嘘は駄目だよ」
 即、ニトロが強固な意思を口に出すと、どれだけ頼んでも無駄だと賢明に悟ったのだろう、ミリーは口を尖らせて腕をおろした。うつむいた頬は膨れている。
 ニトロは構わず脇に置きっぱなしだったショッピングバッグを持ち上げ、
「――ほら」
 そして、空いている右手を差し出した。
 ミリーは一度不機嫌そうに顔を背けたが、ニトロがいつまでも手を引っ込めずにいると……やがて、根負けしたようにおずおずとその手にまだ小さな手を乗せた。
「それで、お母さんはどっちにいると思う?」
 手を握ってきたミリーの手を握り返し、ニトロは訊いた。
「……あっち」
 ミリーが指差したのは、先ほど向かおうとしていた別の花壇だった。ニトロは苦笑うしかなかった。
「花が好き?」
 花壇へ歩き出しながら、ミリーは首を左右に振る。
「じゃあ、何で?」
「……聞いてたとおりだった」
「何を?」
「ニトロ君……お花のことよく知ってるって」
「知ってるって言っても、ちょっとだけだよ」
「でも、知ってた。ホントだった」
 その声には、これまでにない力強さがあった。
 きっと、ティディアが、『未来のお兄さん』は母の趣味に付き合わされている内に人並み以上に園芸植物に詳しくなっていると話し聞かせていたのだろう。あの花の名を答えていた時の目の輝き――奇妙に感じていたそれも、今なら『大好きな姉の言葉』が正しかったことを実際に体感した感動だったのだと理解できる。
「――」
 そこで、ニトロは思いついた。
「俺が花のこと知ってるって、どこで聞いたの?」
 子ども相手に気が引けるが、カマをかけてみる。
「…………インターネット」
 しかしミリーはニトロの期待に反して別の情報源を口にした。
 確かに、以前、ティディアがマスメディアに『恋人との近況』を語った際、ニトロ・ポルカトが園芸に多少の造詣を持っていると軽く触れたことがある。そのアーカイブはネット上にあるし、散らばってもいる。
 この答えが『彼』が機転を利かせたためのものか、それとも本当にそこから得た情報だったのかは判らないが……まあ、どちらでもいい。後者であればただそれだけのこと。前者であれば、この程度の小手先の技で『彼』は引っかからないと確認できたのだから上等だ。後は芍薬がこの情報を有効に活用してくれるだろう。
 ――それに、
(うん、俺も気になってた)
 それよりも、ミリーとの会話が一段落したところで芍薬がレーダーに示してきた変化の方が重要だとニトロは思っていた。
 今や車の青点以外は真っ赤となった二十数個の赤い印の中、一つだけ赤・黄と点滅を始めたものがある。
 それは、元々『赤』と断定されていた三つの内の一つで、カメラを所持していると伝えられていたものだった。こちらからある程度離れつつ一定の距離を保ち追跡してくる、何度かその方角に目をやり視認しようとしたが巧みに障害物を利用しはっきりとは姿を見せない相手。
 ……ミリーが転んだ時。
 他の全てが動揺を見せたその一瞬――
 それだけは、不自然なほど動きがなかった。
 まるで子ども一人転んだくらいが何だと言うように、微動だにしなかった。
 何が起こっても撮影に徹するプロの矜持と言われればそれまでだが、それにしては違和感がある。ニトロはそう感じたし、芍薬もそう思ったようだった。
(さてさて、本当に何だろうな。この状況)
 未だ、それを解き明かすに足る情報はない。
(ティディアの電話もおせえしなぁ)
 何だかここまでくると、諦観の故か、余裕を持つことを腹に決めたためか、それともやけっぱちか、おかしなことに愉快な気分になってくる。
「あ、ちょうちょ」
 ミリーが言った。
 見ると比較的大きな蝶が一匹、ひらりふわりと優雅に舞っている。
 視線を感じて目を落とすと、ミリーが答えを求める眼を向けてきていた。
「あれは、アデムメデスアゲハチョウ。
 ここらへんのは背中がティディア姫の髪と同じ色をしているよ」

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