2−5−4 へ

 ニトロはミリーの誘導に従い公園エリアを何ブロックも渡り歩き、次第にドロシーズサークルの外れ、より人の少ない方面へと進み続けていた。
 何度か賑わう目抜き通りを歩き、広場でストリートパフォーマーが作る人垣の横を通り過ぎたが、幸いそこでも自分の正体も『ミリー』の正体も暴かれることはなかった。相変わらずミリーは人目を集めるし、そのおまけで自分もちらちらと観察されるが、最後には決まって「お兄さん?」という顔をされるだけ。
 ……まあ、よくよく考えてみれば一人っ子の『ニトロ・ポルカト』が歳の離れた妹を連れて歩いているとは思われないだろうし、まさか実子を連れているなんて思われることはもっとあるまい。それに何より、『パトネト王子』が女装をして姉やお供を伴わずに出歩いているなんて誰も思いつきすらしないだろう。
 それらの先入観に加え、ニトロ・ポルカトとティディア姫、ならともかく、パトネト王子との極めて珍しい組み合わせに感づく者がいたらそれは奇跡的なことなのかもしれない。
 とはいえ、
(むしろ騒がれた方が『お母さん』は見つかるんだろうけどな)
 本当ならば……ではあるが。
 しかしミリーは時折思い出したようにきょろきょろと周囲を見る他は『お母さん』を探す様子もなく、たまにドロシーズサークルの警備アンドロイドを目にした時にはさりげなく――こちらがその『不自然さ』に気づいていないと思っているのだろうが――アンドロイドへ近づかないように誘導してくる始末。
 姉であるバカ姫と違い人を騙すのに慣れていないのだと思うと可愛らしくもあるが、こんなところでその経験を積ませていいのかと思えば複雑な気分にもなる。
 いっそ『パティ』とでも呼んでこちらが理解していることを明かしてやろうか。そうすればこの馬鹿げた『迷子ごっこ』も終わる。『ミリー』が悪い癖を身につけてしまう危険も防げるだろう。
 だが、歩き疲れてうなだれながらも――例えば花壇であったり、鳥であったり、ストリートパフォーマーの手にする道具であったり、何かに興味を引かれるや、控えめに、されどどこか楽しそうに質問をしてくるミリーを見ていると、その姿をこちらの思いのみで無残に打ち崩していいのか……躊躇ってしまう。
「……ニトロ君……」
 しばらく口を閉ざしていたミリーがふいに立ち止まり、一点を指差して言った。
 今度は何だろうとニトロが足を止めてそちらを見てみると、これから向かう先の広場の隅にオレンジ色の移動販売車ケータリングカーが一台、傍にパラソル付きのテーブルを二つ広げて停まっていた。
 ミリーはジッとニトロを見上げて動かない。顔を上げた拍子に生え際近くの前髪が汗の滲んだ額に貼りついている。
「そうだね」
 色々と思うところはあるが、ニトロはミリーの『提案』に従うことにした。
「ジュースでも飲んで、一休みしようか」
 ミリーがぱっと顔を輝かせ、大きくうなずいた。ニトロの前に立ち、手をつないだ彼を引っ張るように歩き出す。
 その力は思ったより強く、ニトロは『ミリー』がやはり男の子だなと感じた。
 それに、内気で弱気でありながら、意外や根性がある。一度『おんぶ』を断ってからはこちらを頼ろうとはせず、ここまで「休もう」と要求もせず、弱音も泣き言も吐かずに歩き続けてきた。
 それは、もしかしたら『彼』が何らかの使命感を持っているからかもしれない――『姉』から頼まれた、だから頑張る……とでも。それとも、お姉ちゃん子ならではの意地とも言うべきか。
<『ディアポルト』。ギグクス&レードロバーニ商事が新しく始めようとしている移動飲食業で、まだテスト段階ってことだけど一応実在しているお店だよ。そこで営業することも、ドロシーズサークルの管理に一ヶ月前から許可を取ってる>
 ニトロの伊達メガネを介した視界に、監視カメラや各種情報源から情報を得た芍薬のメッセージが送られてくる。
(なるほど)
 車体側面に『ディアポルト』と斜体の全星系連星ユニオリスタ共通文字で書いてあることをニトロも視認した。
 出所明らかならば、出所不明な――いかにも急造の――店舗を利用するよりも格段に安心できるものだ。無論、『ティディア絡み』の最中であるのだから全幅の信頼は置けないが、少なくとも視界の隅にある時計盤型レーダーの赤点、そして今や黒い星になったカメラマンよりは信頼できる。
 ニトロはちらりとその黒星がある方向、公園エリアの木立並ぶ植え込みへと視線を向けた。それに応じて、そろりそろりと動いていた黒はぴたりと動きを止めた。
(どういうつもりなんだか……)
 芍薬が『敵』と判断したこちらを取り囲む無数の点の中で、唯一、そのカメラマンの正体だけは既に判明していた。
 それは意外なところで接点のある人物……何だか随分昔のことに思えるが、芍薬がニトロのA.I.になったまさにその時、ニトロの乗る無人タクシーのシステムにハッキングをかけて盗聴を目論んでいた『フリーの下衆ライター』だった。
 あの時は芍薬が素早く対処し、彼の使うコンピューターを破壊し、ついでに違法行為をタクシー会社経由で警察に通報したものだ。以来全く何の接点もない相手だったが、それが随分久しぶりに、性懲りもなく、無断で『取材』を仕掛けてきている。
 ティディアに目をつけられることが、怖くないのだろうか。
 それともティディアに目をつけられるリスクを犯してもなおスクープが欲しいほどに生活が逼迫でもしているのだろうか。
 あるいは、そのカメラマンの存在をあちらも気づいているはずなのに、あえて放っておいているということは、やはりグルか……
(っても、札付きのカメラマン使って得することって何だろうなー)
 ぼんやり考えつつ植え込みに向けていた眼をケータリングカーに戻したニトロは、そこから出てきた店員らしき獣人ビースターの大男を認めて、
「――あれ?」
 思わず、うめいた。
 ディアポルトの制服なのだろう山吹色のエプロンをつけた大男は、手にした布巾でテーブルを拭き始める。リズムを刻んで揺れる尾に合わせ、機嫌良さそうな鼻歌が風に乗って聞こえ――と、ふいに大男の頭の上でピンと立つ耳が大きく動いた。近づいてくる客の存在に気づいたらしく、彼がこちらへと振り返る。
「……あれ?」
 ニトロは、正面を向いた獣人の顔を見つめ、またも思わずうめいた。
 何だか、あの大きな獣人、見覚えがあるような……?
 大男の容姿を何度も確認するように瞳を上下に動かしながら、ニトロは頬が引きつらないよう懸命に堪えていた。
 ――知っている。
 あの獣人は……二度しか会ったことがないが、二度とも強烈なインパクトを与えてくれた獣人だ。そりゃもうコイツならば例え同種族のそっくりさんと並ばれようが間違えない。こちとら今や人を見る時はその体格・骨格まで見取る癖がついている。ちょっとばかり体が――腕周りや胸の厚みが太くなっているようだが間違いない、絶対にあの人物だ。
 一体、なぜ、彼がこんな所に?
 いや! そんな疑問よりまた面倒なことを彼が言い出さない内にここを離れる算段をつけるのが先だ!
「ニトロ君?」
 ――が、ニトロがその算段をつけるより先に、無意識に足を遅めていた彼を訝しそうに見上げてミリーが疑問の声を投げかけた。
 ニトロはしまったと顔をしかめた。
 獣人の目の色が、変わっている。
「おお……これはこれは!」
 獣人は聞き馴染みのある声を上げるや、こちらへ向かって駆け出した。獣人らしいしなやかな体躯の運び、バネの利いた足は瞬く間に距離を縮めてくる。
(あああ! とうとうバレた、しかも相手が悪い!)
 ニトロが内心悲鳴を上げた――その時、伊達メガネのレンズ・モニターに芍薬のメッセージが流れた。
大丈夫だよ
「    ?」
 そのメッセージは不可解極まるもので、ニトロは何を根拠に芍薬がそう言うのか分からなかった。
「奇遇ですねぇ! いや奇跡だ!」
 甚だしい当惑に進退きわまるニトロの前まで駆け寄った獣人は声を張り上げ、と、そこで急にバツが悪そうに顔を歪めると周囲を見渡し、
「ニトロ様。お久しぶりでございます」
 どうやら『正体』を周知させぬよう気を遣ったらしい。ドロシーズサークルの外れともなればさすがに人通りも少なく、見える限り遠くに一人しかいないが、それでも声のトーンを落として彼はそう言った。
(……ニトロ、様? ございます?)
 ニトロは一瞬、聞き間違えたかと思った。しかし確かに、彼はそう言っていた。
(何だ?)
 目の前に立つ獣人は、これまでの二度とは態度が180度変わっているように見えた。常に肩を怒らせ居丈高であった姿はどこへやら、今は身を縮めるようにして、肩もなだらかに、目も口も声も何もかもから角が取れて丸くなっている。
「よく……俺だって判ったね、隊長さん
 何を言えばいいのか分からず、ニトロはとにかく思いついた疑問をぶつけてみた。ここまでもっと間近ですれ違いながら誰も気づかなかったのに、そういえば『隊長』はしばらくこちらを観察しただけで正体を見破ってきた。
「それは貴方様のことは日々よおく拝見していますから。いえ、さすがに一目では判りませんでしたが……しかしお名前を呼ばれたお姿を前にしてまで気づけなかったら、それは私にとって非常に恥ずかしいことです」
 そこまで言って、さらにバツが悪そうにして獣人は頭を掻き、尾と鼻の周囲にある髭をピンと張ると、
「その節はまことにご迷惑をおかけしました。わたくし、ニトロ様の拳で目が醒めたしだいでございます。二度も犯した過ちを悔い、己を責めぬ日はありません。今更ではございますが、直接こうしてニトロ様にお会いできたのは慈悲深き神のお恵み。心から、深く深くお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
「え……あ、ええっと……」
 惑いの海を急速潜行し続けている脳味噌はまともな対応を探り出せない。ニトロは何をどうしたもんやら必死に考え、とりあえず、
「いいよ、もう。結局、大事にはならなかったし」
 ニトロが搾り出すように言った赦免の言葉を、獣人はまなじりを濡らし感極まったように受け止めた。
「ありがとうございます! ニトロ様のその寛大な御心、わたくし、常々大いに感動しております」
 深々と頭を下げ、声を震わせ言われ、ニトロはもう何も言えずにぽかんと口を開けた。
 それを面白がるように、ニトロの視界に獣人に被せて芍薬のデフォルメ肖像シェイプが現れる。
<今も『隊長』だけどね、現在は、『ニトロ&ティディア親衛隊』の隊長なんだ>
 ぽかんと開けていたニトロの口が、さらに呆けて開く。
<だから、大丈夫>
 そんな情報聞いてない! と芍薬に文句を言いたい気分だったが、まあ、特に連絡必須な事項ではない。『危険』でないなら芍薬が報告してこなかったのは不思議ではないし、問題でもない。それとも、芍薬は、こんな愉快なことはいつか絶好の機会に知らせようと『悪戯心』でも抱いていたのだろうか。
 ――いや、その肖像が浮かべる笑顔。キラキラと輝くアニメーション。きっと、そうに違いない。
<ちなみに、アタシは会員番号2106番だよ>
(まさかの四桁!?)
<登録総数はもう三万を超えてるんだ。主様の人気、高いんだよ♪>
(よもやの五桁!!)
 もちろん芍薬は潜入捜査のために――また、以前のようにティディアが介在していないかと警戒のために入会していたのだろうが、それにしてもその会員数には驚かされる。こう言っては悪いが、おそらく前回と同様にクローズドコミュニティの、たかだか個人運営のサークルだろうに……。
 ニトロが唖然としていると芍薬が手を振って消え、その裏から『隊長』の怪訝そうにこちらを窺っている姿がニトロの目に飛び込んできた。
「あの……どうかされましたでしょうか」
「――あッ、ああいやいや、別に何でも」
 慌ててニトロが笑顔を浮かべて取り繕うと、獣人は安堵したように髭を垂れ、そしてニトロの後ろを覗いた。
 獣人を避けるようにして、ミリーがニトロの背後で身を小さくしている。ニトロの手はより強く握られていた。
「その子は、ティディア様との?」
「ンなわけあるかい!」
 単純なボケに単純にツッコミ返すと、獣人は嬉しそうに目を細めた。
「そうですね。いくらなんでも大きい。親戚の方ですか?」
「……」
 どうやら『ミリー』が『パティ』であるとは全く気づいていない――いや、思いついてもいないようだ。やはり、あのパトネト王子が女装をして、姉と共にいないことはありえないという先入観が働いているのだろう。
「迷子だよ。自分で母親を見つけたいそうだから、手伝ってるんだ」
「それはお優しい」
 嘘偽りない感嘆の吐息混じりに獣人は言う。
 ニトロは、何だかやりづらくて仕方がなかった。
「それで、歩き疲れたからジュースでも飲んで休もうってことになってね」
 出会いの経緯から敬語も遣い難い。まあ、これこそもう仕方がないだろう。
「営業中? 休憩中だったら、」
 ニトロが言い切るより先に、獣人が居住まいを正して言った。
「これは気づきませんで! 大変失礼いたしました。ささ、どうぞこちらへ。お詫びと言っては何ですが、お好きなものをいくらでもご提供させていただきます」
「いいよ。ちゃんと客として扱って」
 ほぼ反射的にニトロが言うと、それにも獣人は感嘆の吐息をつきうなずいた。
 ……本当に、やりづらい。
「ささ、こちらへ。お嬢さんも、どうぞ」
 獣人が笑顔で言うが、ミリーはニトロの陰から出てこない。
「……じゃ、行こうか」
 振り返り、ニトロが言うとようやくミリーはうなずき、しかしそれでもニトロを盾にして歩き出した。
「人見知りみたいでさ。気を悪くしないでね」
 背後のミリーと手をつなぎながら、さらに腰の後ろに回しているショルダーバッグをミリーに掴まれて、ニトロは酷い歩き難さに転ばないよう注意しながら先を行く獣人に言った。
「気を悪くするなど、とんでもありません。しかし、人見知りの子に助力を求められるとは……いやはや、さすがはニトロ様」
「いや……。
 ア ハ ハ」
 これはもう本ッ当に、マジでやりづらい。
 ニトロは乾いた笑いを発した後、こっそりと小さく肩を落とした。

 隊長は、ドートガオイングア・グァ・グロイトリ=ブギルと名乗った。本来の発音はアデムメデス人には聞き取りにくく、こちらに合わせるとそうなると言う。彼の母星ぼこくには名字ファミリーネーム名前ファーストネームという概念がないためにそれで一つの名となるそうで、しかしそれではいくらなんでも長いと、友人や仕事仲間からは『ドーブ』という通称で呼ばれているらしい。
 そのことを語っていた時のドーブの目はニトロにもそう呼んで欲しいと訴えるものであったが、とはいえニトロに取って彼はどう足掻いても『隊長』と定まっている。強烈な刷り込みはそう簡単に抜けるものではないし、その方が自然に呼びやすい。
 何度か「隊長」と言うと、ドーブはそれも『罰』だとばかりに受け入れたようだった。
「で、隊長は……この店の店長をやってるの?」
「今は、そうです」
「今は?」
「この事業はわたくしが発案したものです。本格的に事業を動かす際には店に出ることなく本部から各店舗を統括するのですが、新規事業を立ち上げる場合、その幹部となる者は誰であれ現場を知っておくことが絶対条件というのが弊社のルールですので、ですから事業のテスト、マーケティングも兼ね、今はこうして店長をしているのです」
 分かりやすい言葉を選び選びそう語り、ケータリングカーの中に入ったドーブにニトロは怪訝な目を向けた。
「てことは……隊長はもしかしてギグクス&レードロバーニ商事の社員ってこと? この店はそこのだって聞いたけど」
「これは説明不足でした。その通りです。いやこれはニトロ様、よくご存知で……何やら光栄でございます」
 ギグクス&レードロバーニ商事はアドルル共和星に本社を持ち、そこに勤めているとなればそれだけで多くの国で社会的な信用を得られる国際企業だ。新事業を発案し、しかも幹部になるというのなら、ドーブはそこでそれなりの地位にいる人物であるのだろう。さらに話の流れで彼が元々本社の人間であったと聞き、『隊長』としての彼しか知らなかったニトロは驚くしかなかった。
「それが何でアデムメデスに?」
 疑問に思って当然なことをニトロが聞くと、ドーブは照れ臭そうに語った。
 キッカケはアデムメデス支社への出張の時。
 その時、ドーブは幸運にも――あるいは不運にも――直接彼女を見る機会があったのだという。
 そう……王女、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを。
 そして早い話が『一目惚れ』し、その翌年、彼はどんな形であれティディア姫の力になりたいとアデムメデス支社へ転勤してきた。
 ギグクス&レードロバーニ商事は輸出入業を軸に、進出した先のくにで柔軟に事業を展開していくことで知られているが、それにしたって社員ドーブの行動も柔軟すぎやしないだろうか。
「ニトロ君」
 愕然としていたニトロを、未だドーブを避け彼の背後に隠れているミリーが呼んだ。
「あ、ああ。決まった?」
 ニトロが振り向き問うと、ミリーはメニュー表を指差した。
「えと、これ」
 ニトロはミリーが示した文字を読み、
「ヴオルタ・オレンジ?」
「うん」
「……。ヴオルタ・オレンジって?」
 それは『(オレンジジュース)』と注記されているソフトドリンクだった。ヴオルタとは柑橘類の品種だろうかと疑問に思ったニトロは、ドーブに質問を振った。
「オレンジジュースにヴオルタというわたくしの故郷のフルーツを凍らせて砕いたものを、氷の代わりに加えたものです。すっきりとして美味しいですよ」
 なるほど、では一風変わったミックスジュースみたいなものか。ニトロはうなずき、
「じゃあ、それを……大きさは?」
「ちゅうくらいの」
「ミドルを二つ。あと……グィンネーラって?」
「わたくしの故郷の軽食スナックです。感覚としてはチキン・ナゲットに近いものですが……折角ですので、どうぞお召し上がりください」
「うん。それでよろしく」
 ドーブは早速作業にかかった。全自動調理器を操作し、コップと皿を用意する。
「ニトロ君!」
 と、急にミリーが大声を上げた。
 その声の大きさが今までにないものであったためにニトロは思わずびくりとして振り向くと、ミリーが瞳を輝かせて両手でニトロの両腕を掴み、
「だっこ、だっこ!」
「抱っこって……」
 先ほどのおんぶを超える、急に人が変わったかのような強い要求にニトロはうろたえた。だが……何やら爪先立ちになっているミリーの視線を追い、その眼が視野になかなか捉え切れぬものをどうにか見ようと頑張っていることに気づき、彼は納得した。
 ミリーは、調理器が商品を作り上げていく様を観たくてたまらないらしい。
 それならいいかとニトロはレアフードマーケットのバッグを脇に置いてしゃがみこみ、抱きついてきたミリーをしっかり腕で支えて立ち上がった。ミリーはカウンターの奥でクレープ状の生地を四角く厚く焼き上げていくロボットアームを凝視し、鼻息を荒くして瞳をさらに輝かせる。
 子どもらしい好奇心の発露だろうか、それとも科学技術分野に才能を見せる『パトネト』の興味の爆発だろうか。
 ニトロは『ミリー』の様子を微笑ましく思いながら、同様に目を細めているドーブへ話を戻した。
「それにしてもさ、隊長」
「何でございましょう」
「会社クビになった挙げ句、強制送還されるかもって思わなかった? あんなことして」
 ニトロに訊かれ、ドーブはまた照れ臭そうに笑った。が、髭と長い尻尾はしょげて垂れ落ちている。
「いやあ、お恥ずかしい。何もかもわたくしの不徳の致すところ。わたくしの、独り善がりなティディア様への間違った愛が故の愚かな過ちでございます」
「つまり、頭に血が上ってて後先考えてなかったと」
「ははは、つまりそういうことで」
 どんな理由があろうと人一人に襲撃をかけるなど笑い事ではないが……希代のカリスマを持つ王女の虜となった『マニア』の怖さを十二分に知っているニトロはドーブの言い分に寒気を覚えながらも妙に得心してしまい、一方で、彼が躊躇いなく『間違った愛』と言い切ったことに安堵もしていた。
 血気盛んにティディアへの盲目の愛を叫んでいたあの『隊長』が、本当に安全な人物となっている。何か憑き物が落ちたようでもあった。
(そういや、ティディアが言ってたな……)
 ――「もしかしたら、ニトロのファンになるのも、いるかもしれないわね」
 ニトロはあの『二度目の襲撃』の夜、背中から聞こえてきた苦しそうなのに嬉しそうな声を思い出し、その予想が少なくとも一人に対しては当たっていたことを知った。
 しかし、まさか彼が新たに『ニトロ&ティディア親衛隊』なるものを立ち上げていたとは……新規事業を立ち上げていることといい、アデムメデスにやってきたフットワークといい、呆れるほど行動力のある人だ。
 ふいに、ミキサーからころころと音がした。
 見ると、そこに落ちたのは『透き通った木苺』だった。これがヴオルタなのだろう。凍っている様はクリスタル製の彫刻にも見える。続いてオレンジジュースが注がれ……
 ミリーが、小さく歓声を上げた。
 ミキサーの刃が回転を始めるや『透き通った木苺』はあっという間に細かく砕かれ、鮮やかな山吹色のジュースと均等に混ざり合っていく。作り方はスムージーにも似ているなとニトロは思った。それともクラッシュドアイスを用いたカクテルだろうか。プラスチックの透明なコップに注がれたそれは、ヴオルタの微細な欠片が光を受けてキラキラと輝いて、見た目にもとても美しかった。
 ジュースはスナックの完成に合わせて作り上げられたらしく、カウンターに置かれた二つのコップの横に、二センチ角の賽の目に切り分けたパンケーキのようなものを載せた皿が置かれる。
 これがグィンネーラであるようだ。ドーブと話しながら見ていたところ、厚いクレープ状の生地を色違いで二種類――薄色を三枚・濃色を二枚焼き、それを交互に重ねて最後に押し固めたもので、ニトロも初めて見るその軽食スナックに強く興味を引かれていた。
「……んー……」
 と、耳元でうなり声が上がり、ニトロが何かと思えばミリーが腕をつっぱっていた。
 今度は、降ろせ、と要求しているらしい。
 ニトロは我儘な『お姫サマ』に苦笑いし、ミリーを降ろした。するとミリーは再びニトロと手をつなごうとする。
(……おんぶは良くて、でも用が済んだら抱っこされてるのは嫌で、だけど手はつなぎたいのか)
 本人なりの基準があるのだろうが……難しい。これは、苦心している周囲の人間も多いことだろう。
 ニトロはミリーと手をつなぎ直し、腰の後ろに回してあるショルダーバッグからマネーカードの入った財布を取り出し、カウンターにある電子マネー端末に触れようとし――
 その瞬間、財布と端末の間に大きな手を大慌てで差し入れドーブが言った。
「いいえ! 結構ですニトロ様!」
「だから、普通の客として扱ってって」
「そういうわけには参りません。ニトロ様から御代はいただけません」
「……それ、俺、嫌なんだ」
「それでも、お願いいたします。ここはわたくしの――奢りということで、どうか」
 ニトロは、ドーブがこのタイミングで『奢り』という単語を選び、そこだけ声音を強めて使ってきたことに反論の言葉を飲み込まされてしまった。その言葉自体にはただ他者にご馳走する意味合いしかないが、そのニュアンスには『対等』や『上から目線』などいくらでも自由に付与することができる。その行為自体にも、両者間での力関係の明示化などそもそもの言動外の意味を加えることができる。
 ここであえてそれを強調してきたのは……それをこちらの『良いように』取って、『良いように』納得してくれということだ。それに、これ以上拒否すれば彼をとめどなくへりくだらせていくだけであろうことが、そこからありありと伝わってくる。
「……分かった」
 短い言い合いの負けを認め、ニトロは財布をしまった。
「ここは、隊長に奢ってもらうよ」
 ドーブは安堵したように頭を下げた。
「ありがとう」
 ニトロは微笑を浮かべて礼を言い、さてテーブルに行こうかと足下に置きっ放しだったレアフードマーケットのバッグを持ち上げ、そこではたと困った。
 手が、塞がってしまった。
「お持ちいたします」
 ニトロの困惑を敏感に察してドーブが言った。
 ケータリングカーの出入り口からぬっと出てきた大男の接近に驚き、ミリーが慌ててニトロの後ろに隠れる。その素早さにニトロとドーブは思わず顔を見合わせ、二人して決まり悪く笑ってしまった。
 仕方なくニトロはミリーをドーブから守るようにして歩き、白いパラソルが柔らかな影を落とすテーブルへ向かった。
 持ち運びがしやすいよう極薄い天板と細い脚で構成された合金製の白いテーブルに、ドーブがトレイに載せてきたジュースとスナック、それと手拭用のウェットティッシュを置く。
 ニトロは四脚ある椅子の一つに腰掛け、横の椅子にレアフードマーケットのショッピングバッグを置き、そこに重ねてショルダーバッグも置いた。ドーブが
「ごゆっくり」
 と言って離れていくのを見計らって対面に座ったミリーを見つつ、ショルダーバッグの専用ポケットから携帯電話を取り出してテーブルの上に置く。
 ミリーはヴオルタ・オレンジのコップを両手で持ってストローを吸っている。その仕草がどことなく『女の子っぽさ』を感じさせるのは、きっと『彼』が二人の姉の影響だけを素直に受け入れているからだろう。
「美味しい?」
 ニトロの問いに、ミリーはこくりとうなずいた。
 ニトロもヴオルタ・オレンジを飲んでみると……確かに、これは美味しい。氷の代わりに使われたヴオルタというフルーツ、あの透明な果物はまさに『氷』だった。舌触りも歯ごたえもシャリシャリとして、ただ氷と違うのはほんのりと果物特有の甘さが閉じ込められていること。それが、少し酸味が勝つ品種のオレンジを使っているらしいジュースと抜群の相性で、柑橘の酸味を丸く抑えながらも爽やかに甘く引き立てている。そもそも果汁の塊であるのだからジュースが水っぽくなることもない。それなのに、後味は水を飲んだ時のようにすっきりとして。
「へぇ」
 思わず感嘆の吐息を漏らすと、こちらの様子をケータリングカーの中から窺っていたドーブがしきりにうなずいていた。自分の提供した飲み物、それも故郷の味を認めてもらえてとても嬉しそうだ。
 次にニトロはウェットティッシュで指を拭き、グィンネーラをつまんだ。
 そして、また驚いた。
 なるほど、これはチキン・ナゲットに似ている。が、似ているのは食感だけで味は別物だ。ドーブの故郷の食材を使っているのだろう香ばしく焼き上げられたクレープ状の生地――色の薄い生地は擬似的な皮、濃い生地は肉といった風で、交互に層となったそれを噛んだ瞬間、チキンというよりはハンバーグのそれに近い『肉汁』がたっぷりと溢れ出す。外見からは想像できないジューシーな味わい、初めて体験する異国の風味に、ニトロは感動を覚えていた。
(こりゃあ、父さんにいい土産話ができたな)
 思いがけぬ『再会』がもたらした『出会い』に何だか嬉しくもなる。あの隊長にはえらい目に会わされたものだが――その半分以上はあのバカ女のせいだとも思うが――これで父が喜ぶ顔を見られるなら、嫌な思いをした甲斐も多少はあったというものだろう。
「おいし……」
 ニトロの真似をするように指を拭いてからグィンネーラを食べたミリーも、そうつぶやいた。
「うん、美味しいね」
 ニトロが言うとミリーは何故か恥ずかしそうにうつむき、ジュースを飲んだ。
 ――と、
「主様」
 テーブルに置いた携帯電話がピッピッと小さく音を鳴らし、追って芍薬の声が流れた。闖入してきたその声に驚いたらしいミリーが肩をすくめて目を見張っている。
「ああ、芍薬だよ。俺のA.I.」
 ニトロが言うと、ミリーは安心したように肩の力を抜いた。
 A.I.には人見知りしないらしいミリーの様子に微笑を浮かべて、ニトロは携帯電話を置いたまま、芍薬に応答を返した。
「何かあった?」
「御意。
 電話ガキタヨ。
 ――姫様カラ」

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