2−4−6 へ

 部屋に戻ったティディアはヴィタに電映話ビデ-フォンを繋げ、別邸の様子を聞いてひとしきり笑った後、数件の王女の承認が必要な事案の進行具合をチェックし、新しく上がってきた様々な報告を頭に入れて執事との通信を切った。
 どれほど飲んだのか、頬を朱に染め、ミステリアスな相貌を妙に艶めかせていたヴィタの姿は珍しいものだった。宴会は日付が変わると同時に終わる。その数分後にはヴィタは『酔い止め薬』の効果で体内からアルコールもアセトアルデヒドも、それどころか酔いの面影すらもなくしているだろう。
 彼女のほろ酔い姿を生で見られなかったのはちょっと残念だったかな……と思う頭を、しかしティディアはすぐに切り替え、漫才の新ネタの台本を書き直しにかかった。それも十数分後には大まかなラフスケッチを書き終わり、あとはそのラフに沿って細部を詰めていくという段になった時、ティディアの携帯電話が鳴った。
 その軽快なメロディーは携帯電話に登録されている三つの回線――ヴィタを始めとする部下と『相方』の知る仕事用・家族とヴィタの知る私用・この世で二人の人間しかナンバーの知らぬ極私用回線の内、最後のそれに音声通話でコールがかかっていることを知らせていた。
 無論、その回線のナンバーを知る人間の一人は愛しいニトロ・ポルカト。
 そして、もう一人は、友達。
 ティディアは、
「通話許可」
 と携帯電話に向かって言った。するとすぐにコール音が切れ、耳慣れた少年の声が、自動的にスピーカーフォン機能を働かせた携帯電話から流れた。
「こんばんは、おひいさん」
 一人掛けのソファに座り、机に置いた小さなコンピューター端末――これも私用で、リムーバブルメディアを介す以外に『外部』との接続ができないよう通信装置そのものから除去されているものだ――から手元に表示される宙映画面エア・モニターに目を落とし、その可触領域のキーを叩きながら、ティディアはハラキリに応えた。
おはよう、ハラキリ君。随分早起きね」
「徹夜ですよ。今、お話しても大丈夫な状況で?」
 部屋付きの汎用A.I.はここにきてからずっと『プライベートモード』に設定して眠らせてあり、ついでにこっそり王家のA.I.にハッキングさせて監視させてある。私用コンピューターの横に置かれた携帯電話のスピーカーが伝える声に、それとも自分の口からこぼれる言葉に例えどんなことが含まれていようとも、それを誰かが耳に入れられることはない。
「ハラキリ君が殺人を告白したとしても、誰も訴えることはないわ」
「そんな物騒な」
 画像がなくとも、ハラキリの苦笑した顔が目に浮かぶ。
 ティディアは台本に細かい手を入れながら、
「仕事は?」
「つつがなく」
「怪我なんてしていない?」
「ご心配なく」
「どんなことをしたの?」
「企業秘密です」
「別に知られて問題のあることじゃないでしょ? ね、どんなお仕置きをしてやったの?」
「秘密ですよ。真似されたら、おそらく拙者はニトロ君にえらい目にあわされてしまう」
「ああ、そういうこと。大丈夫、真似なんてしないし、したとしてもネタ元は明かさないから」
「したとしても、と言われた時点で信用なりませんね」
「えー」
「えー、じゃねえ――と、ニトロ君なら言うでしょうか」
「……。
 じゃあ、手段は聞かない。結果ならどう?」
「そうですね……馬鹿息子とその阿呆な仲間達は今頃生まれてきたことを感謝していることでしょうね」
 ん? と、台本を整えていくティディアの指が止まった。
「感謝? 大抵こういう時って『後悔』って使わない?」
「いやあ、感謝、していますよ。そして生きていられることを神さ……えーっと、そうそう、プカマペ様にでも感謝しているんじゃないですかね。まあ、しばらく肉も野菜も食えないでしょうけど。ひょっとしたら一生合成食品ケミカル・ブロックしか口にできないかもしれませんけども」
「プカマペ様って、久々に聞いたわねー。大体そんなになるって一体どんなナイトメアを味わわせたのよ」
「貴女がニトロ君に味わわせてきたものよりは楽しい夢だと、個人的には思ってます」
「あ、それはひどい言い草」
 話の流れで『何をしたのか』を言わせようと思っていたのだが――それに感づいていたのだろう、ハラキリが返してきた痛烈な皮肉にティディアは笑った。
 テーブルの上で照明の光を幻想的に反射している切子ガラスへ手を伸ばす。支配人が差し入れてきたフルーツジュース。一口飲むと芳醇な香りと甘みが口腔に広がり、程良く爽やかな酸味が後味もさっぱりと喉を潤す。
 ティディアは台本を見つめ、気に食わなかった掛け合いの『間』を修正し、一息ついた。
「それで何の用かしら。ハラキリ君から電話をくれるなんて珍しいじゃない。何か困ったことでもあったの? 仕事以外で」
「いいえ。特に何の用もありませんよ」
「? じゃあ何で?」
「強いて言うならこの電話自体が目的でしょうか。おひいさんとこうして呑気に話せるということは、お二人とも平穏無事に温泉を楽しまれたということですから」
 ふむとティディアはうなずいた。
 ハラキリはこちらの状況を確認しに電話をかけてきたのだ。
 彼女はそれを悟ると同時、それにしては扱う単語がやけに仰々しいとも思った。
「平穏はともかく、『無事』って何だか大袈裟な言い方じゃない?」
 問いかけへの応えには僅かな間があった。もし映像があったら、そこには肩をすくめるハラキリの姿が映っていただろう。
「そうでもないでしょう。貸したアンドロイドは貴女を文字通り塵にできるんですから」
「いくらなんでもそこまで芍薬ちゃんを怒らせるほどバカじゃないわよ」
「温泉郷の『魔力』にとち狂ってニトロ君を襲う――その可能性はゼロではないかと」
 ティディアは、フルーツジュースをまた一口飲んだ。ハラキリの言い分は間違ってはいない。確かに――自分で思うのも何だが――その可能性はゼロではなかろう。
 しかし、間違っていないからこそ面白くなかった。
「そうね」
 ティディアはハラキリに同意を返しながらコップをテーブルに置き、声だけで表情が伝わるよう口を尖らせた。
「でも、ハラキリ君はニトロと私がいい感じになってとうとう結ばれた――っていう筋書きを見落としてない?」
「見落としてませんよ。ただあり得ない奇跡は最初から除外してあるだけです」
 ざっくりと、平然と、常に口調は気楽な様子。飄々と人を食ったような態度で言うハラキリの姿が、コンピューター機器と切子ガラスが並ぶテーブルの向こうに見えるようだ。
 ティディアはニトロとは別種の『愉快』を与えてくれる友達に、しかし口振りは不機嫌なままに言った。
「そんな風に断言するけど……温泉郷の『魔力』でニトロが私の魅力に心奪われちゃった、なんて可能性は考えないの?」
「その可能性こそゼロです。例えニトロ君が雰囲気にとち狂ったとしても、お姫さんにちょっと見惚れる、くらいなもので、それも一時の気の迷いでお仕舞いでしょうね」
「やけに自信満々ね」
「根拠がありますから」
「……後学のために、ご教授願えない?」
 そのセリフ自体がティディアの言う『ニトロが私の魅力に心奪われちゃった』を否定しているようなものだ。電話口から小さな笑いが漏れ、
「おひいさんとこうして呑気に話せていること自体が、『根拠その壱』ですよ。もしお姫さんがニトロ君に襲い掛かったら芍薬に――それともニトロ君に、あるいは二人がかりでボコボコにのされてご就寝。電話を取れる状態じゃないでしょう。
 ニトロ君がとち狂った説に関しても、こうしてお姫さんが電話に出ているわけがありません。その場合は、今は喘ぎ喘いでニトロ君にしがみついている頃合でしょう。拙者の電話程度の些事、遠慮なく無視されますよ」
「……事後かもしれないじゃない」
「本懐遂げた貴女が簡単に彼を放すとは思えません。百万歩譲って事後だったとしたら、貴女は幸福を噛み締め浮かれに浮かれていることでしょう。しかしお姫さんのお声にはその色気が微塵もない。――ああ、事前だったとしたら、その場合はそわそわとしてすぐに通話を切られたことでしょうね」
「ふむ」
 ティディアは鼻を鳴らし、うなずいた。なるほど立派な根拠だ。必要十分。これ以上に彼の考えを支える論拠となるものは必要ないだろう。
 が――
「で、『根拠その弐』は?」
「勘です」
 ティディアは思わず吹き出した。『その壱』に対して随分な落差がある。それは感覚の問題で、そこには論の筋道だって無い。
「根拠いきなりぺらっぺらになってない?」
「むしろこちらの方が『その壱』より強固だと思いますけどねぇ。貴女と、ニトロ君の共通の友人としての意見、と言い換えてもいいんですが」
 ティディアは宙映画面エア・モニターを消した。よいしょとテーブルから切子ガラスを取り、ソファに深く腰を沈める。
「友達の意見、か」
「ええ」
 ティディアは吐息をついた。上目遣いに宙を見て、感慨深げに言う。
「不思議なものね。妙な説得力がある」
「自分でも言っていてビックリするくらいそんな感じがします」
 遠く西の地にいる友達の声は笑いを含んでいる。ティディアは微笑み、甘酸っぱいフルーツジュースを口に含んだ。
 一度大きく息を吸い、肩の力を落とす。
「ハラキリ君の言う通り、こっちは平穏無事よ」
「そりゃ良かった。楽しかったですか?」
「今も楽しんでるわよー」
 そこでティディアはうふふと笑い、
「思っていたよりずっとね」
「……何か良い事でもありましたか?」
「あら、そう思う?」
「とても嬉しそうな声ですから。というか、気づけって言っているような口振りじゃないですか」
 どこか呆れているような口調でハラキリが言う。
「それも話したくて仕方がないってご様子で」
「聞きたい?」
「話したいのでしょう?」
「だって、私、さっきまでニトロとお風呂に入っていたのよ? もう嬉しくって嬉しくって。ハラキリ君にもこの喜びを聞いて欲しいわ」
「……」
 ふいに、ハラキリが沈黙した。
 ティディアはすぐに彼が言葉を返してくるものだと思い反応を待ったが、無い。しばらくの間、静寂が続き――
「        は!?」
 ハラキリの驚愕が携帯電話を震わせた。スピーカーの許容値限界ギリギリといった音量で感情を表されたティディアは心外なと眉をひそめ、
「そんなに驚くこと?」
「いや……えーっと、あれ? ニトロ君、ひどく深刻にとち狂ったんですかね。あ、まさか泥酔させましたか? ああ、それは芍薬が許しませんね。いや、そもそも、ということは芍薬に止められなかったということですか。まさか芍薬まで重大なバグを発生させてとち狂ったなんてことはありませんよね」
 非常に珍しく非常に動揺したハラキリの調子が伝わってくる。ティディアはそれが非常に愉快で大きく肩を揺らした。
「正気だったしシラフだったわよ、間違いなく、ニトロも芍薬ちゃんもね」
「はぁ……それは、驚きましたねぇ。一体、どういった流れでそうなったので?」
 話を促されたティディアは、いったん口を閉じた。
 ――ハラキリのことだ。各メディアに流れる『ティディア姫とニトロ・ポルカトのシゼモ出張』の情報は全てチェックしているだろう。
 とはいえ、児童養護施設であの女の子から『けっこんゆびわ』をもらった時のことは自分の口から伝えたい。
 ティディアは極短い思案の間に話したいことをまとめ、ハラキリに語った。
 楽しいドライブ、美味しい夕食、所々で腹立たしいこともあったことをスパイスに、そして幸せな入浴の時間を。
 そして――
「どう思う?」
 それまで嬉々として思い出語りをしていたティディアから突然問われたハラキリは、面食らったように言葉を返した。
「どう、と申されましても……良かったですね、というのが正直なところですが」
「……それ、淡白すぎない?」
「自覚はしています」
「ああ、でもそうじゃなくて、ニトロが私のことをどう思っているかなって聞いているのよ」
 ティディアが熱のこもった声で改めて問いを送ると、それをハラキリは苦笑で受け止めた。
「それこそどうと申されましても。正直にお答えしてよろしいですか?」
「あ、待って。違う。それはもう判ってるから聞きたくない」
「それでは……もしや、今現在に限って、ニトロ君がお姫さんをどう思っているか、ということですか?」
「そう、そっち」
 ティディアは勢いよくうなずいた。その勢いが伝わったのだろう、電話口から小さな吐息――笑いがこぼれる。
「ニトロ君は貴女に対し、大いに戸惑っている。拙者はそう思いますよ」
 ハラキリは声に笑いを含めたまま言った。
「そして、少しばかり見直していることでしょうね」
「やっぱり?」
 身を乗り出して、ティディアは喜ばしい意見をくれたハラキリに訊いた。
「私に惚れてくれちゃったり――は、言い過ぎね」
「お姫さんは実に賢明な方です」
「……いけずー。
 でも、結果的にポイントは稼げたわよね」
「ニトロ君にも話を聞いてみないことには判りませんけどねぇ。まあ、結果的に、無欲の勝利だと思いますよ。その点に関しては」
 ティディアはソファにどかりと背を戻した。ハラキリの同意を得て、急に自信が――ニトロの好意を引き寄せられるという自信が急激に膨張する。
 いや、これまで何をしても頑ななまでに好い感情を向けてくれなかったニトロが、ここにきてようやっと評価を上げてくれたのかもしれないのだ。
 これは、あるいは絶体絶命の戦局を覆す一手なのではないのだろうか。
 今日この良き日の一得点が突破口となって、っつーかうまくいったら一足飛びに――
(やー、それはないわね)
 ティディアはとめどなく突っ走りそうになっていた夢想をそこで止めた。軽く頭を振り、その時ふと携帯電話のディスプレイに大きく時計が表示されたのを見て、一つ息を吐く。
 彼女は立ち上がるとコップをテーブルに置き、携帯電話を手に取った。
「そろそろ『練習』の時間だから切るわね。電話、ありがとう。楽しかったわ」
「こちらも貴重なお話を頂けて、楽しかったです」
「帰りは明日?」
「いいえ。ついでですので何日かふらついていきます」
「そう。楽しんできてね。もし王・国立施設に立ち寄りたくなったら、私の名前を使って」
「お心遣い感謝します。その時は遠慮なく。
 では、根を詰めすぎて明日に差し支えなきよう……お休みなさい」
「お休みなさい」
 一拍を置き、ハラキリが通話を切った。
 それを待ってからティディアは携帯を操作し、隣室のニトロへと『仕事用』の回線で電話をかけた。
「――もしもし?」
 ティディアは――てっきり芍薬が取り次ぎに出るだろうと予想していた。しかし受話口から届いたのは予想に反してニトロ本人の声で、彼女は一瞬面食らってしまった。
「あれ? もしもし?」
「――ああ、ごめんなさい」
 再度の呼びかけにはっとして、ティディアはニトロに応えた。
「何だよ」
 短く用件を訊いてくるニトロに、ティディアは言った。
「練習のことだけど」
「ん、そろそろだろ? 今そっちに行こうとしてたところだよ」
 ――え?
 と、ティディアは口を開けた。
 我ながら間の抜けた問い返しをしなかったことを偉いと思う。
 それ程にニトロが言ったことは予想の外……いや、思考の彼方にもなかったセリフだった。
『今そっちに行こうとしてたところだよ』
 ……来る?
 ニトロが。
 あの野生の草食動物並み――ともすればそれ以上の警戒心を見せる、あのニトロが……
 こっちに来る?
 私の部屋に!?
「……何か、不都合でもあったのか?」
 ニトロが声のトーンを落として聞いてくる。それは、もしかしたら王女が出ねばならない程の大事でも起きたのでは? と訝しんだからかもしれない。
 ティディアはほんの僅かな時とはいえ動揺していた心を治め、
「不都合なんてないわ。台本のデータをそっちに送ろうと思っていたんだけど」
「いいよ、そっちに行った時にもらう」
「ええ、その方が手間もないわね。それじゃあ、待ってるわ」
「ああ」
 素っ気無くうなずきを返して、ニトロは通話をぷつりと切った。
 ティディアは耳に当てていた携帯電話を何となくジッと見つめ、妙に喉が渇いていることに気づいてジュースを一気に飲み干し、ぐっと握り締めていた携帯を切子ガラスのコップと共にテーブルに置いた。
 ――手の平には、びっしょりと汗があった。
「あれ?」
 ティディアは胸に渦巻く疑問をあえて口に――音にした。
 ニトロが……まさかこっちの部屋に練習に来るなんて……この後は、もちろん自分がニトロの部屋に行くつもりだったのに……ニトロの部屋、ニトロの領域、強大な力を有する芍薬の監視下へと、自ら。
「……ああ、そっか」
 そこまで考えたところでティディアは猛烈な自嘲に襲われた。
 何と信じ難いことかと思う。ニトロにこっちに来ると言われたくらいで、何と呆けた頭になってしまっていたのか。
 芍薬。
 そう、芍薬がいるではないか。
 ついうっかり――それはおそらく都合良く――忘れていた。
 ハラキリが提供した無駄に凶悪な機能を備えるアンドロイドに乗るニトロの戦乙女は、当然彼と一緒に来ることだろう。
 そうだ。そうであれば、何もニトロが自分のテリトリーにこちらを誘導する必要はない。何しろこっちはこの身一つ。怪力無双の女執事もなく、ホテル・ウォゼットの部屋着をまとうだけ。
「……参ったな」
 ティディアは自嘲に歪む唇を、苦く引き締めた。
 何をうろたえているのだろうか、自分は。
 たかだかニトロに部屋に行くと言われたくらいで。
 何を――淡い希望を胸に秘めて、こんなにも狼狽しているのだろう!
 今日一日で珍しく稼げた貴重なポイントくらいで、ニトロが、自分に、心を許すなんてことはない。それは十二分に解っている。それくらいで彼が何とかなるなんて、それこそただの妄想、高望みにも程がある。
 ……だが。
 だが、もし、その貴重なポイントが、予想以上にニトロに効いていたらどうなのだろう。
 もし、高望みに手を触れるための踏み台くらいにはなる程度に、そうだったらどうなのだろう。
 だとしたら、もしやこれは、千載一遇のチャンス……なのではないだろうか。
 いつもは効かぬ色仕掛け。
 いつもは効かぬ誘惑の言葉。
 しかし、今日はその『いつも』ではない。
 確かに今日は、ハラキリも同意をしてくれたように、ニトロに好印象を持ってもらえたかもしれない。いや、持ってもらえたと思う。その印象を残しておくのは得策だろう。それこそが正解、それこそが好手であるだろう。
 だが……だが、しかし!
 自分のニトロに対する考えがいつもいつも裏目裏目となることばかりであることを考えれば、今ばかりは、あえて逆――あえて悪手を打つのが正しいのではないだろうか。
 ――否! 違う! それは間違い、希望的観測に根付いた単なる妄想だと、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは言う。
 それなのに、そうじゃないのでは? とまた、私――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ自身が疑問を投げかける!
(――どうしてかしら……)
 ティディアは苦々しく、そして何故だかひどく恥ずかしく、思った。
 どんなことに対しても明晰に考えをまとめられるこのティディア姫が、ニトロのことに関してはこんなにも愚かに迷ってしまうのは、どうしてなのだろうか。
 まさか、苦手意識でもあるのだろうか。
 これまでの生涯で最も誰よりも思い通りにならなかった少年に、だからこそ自分の思うことは彼には通じないという苦手意識が、この心に刷り込まれてきたというのだろうか。
 コンコン……
 と、ドアがノックされた。
 ティディアはドアを見つめ、
(今日は、何もしない。それが正解)
 そう自分に言い聞かせ、ドアに向かうとロックを外した。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 定型文的な挨拶を交わして部屋に入ってきたニトロは、一人だった。彼が後ろ手に静かにドアを閉める。オートロックが作動したことを知らせる確認音が、部屋にニトロと二人きり、ティディアの鼓膜をやけに大きく叩いた。
「……あれ?」
 思わず、ティディアは疑念を口に漏らしていた。
「どうした?」
 自分と同じ部屋着――貫頭衣のようなだぼついた上着と膝下までのズボン。ゆったりと作られ締め付けのない、ホテル・ウォゼットのマークがワンポイントと打たれた服を着て、小首を傾げるニトロはあまりに無防備だった。
「芍薬ちゃんは?」
「待ってるよ」
「……何故?」
 佇むティディアの脇を抜けるニトロの面には、感情を掴みきれない笑みが刻まれていた。
「今日のお前ならいいだろ」
 ニトロは自分の泊まる部屋との差異を探すように視線を巡らせながら内へと歩み入る。彼の後ろに続き、その力の抜けた背を見ていたティディアは、いつか彼に背負われた時の安堵感と心地良さを思い出していた。
「だから、休憩してもらってる」
 ちょうどベッドの脇で足を止め、肩越しにティディアを見る彼の目は細く、普段であれば警戒を解かぬ彼が――それこそ二人きりでは決して見せてくれることのない屈託ない笑顔が、そこにはあった。
「……」
 ティディアは、ニトロを見つめていた。
「……どうした? ティディア」
 彼女は己の名を柔らかく呼ぶ彼に目を奪われていた。
 ――もしや、これは、千載一遇のチャンス……なのではないだろうか。
 先ほど脳裏を巡った思考が舞い戻り、瞼の裏を駆け巡る。
 いつもは効かぬ色仕掛け。
 いつもは効かぬ誘惑の言葉。
 しかし、今日はその『いつも』ではない。
 確かに今日は、ハラキリも同意をしてくれたように、ニトロに好印象を持ってもらえたかもしれない。いや、持ってもらえたと思う。その印象を残しておくのは得策だろう。それこそが正解、それこそが好手であるだろう。
 だが……だが、しかし!
 自分のニトロに対する考えがいつもいつも裏目裏目となることばかりであることを考えれば、今ばかりは、あえて逆――あえて悪手を打つのが正しいのではないだろうか。
 そう、今ここでこの好機を逃してしまうことこそが、我が人生最悪の一手となるのではなかろうか!
 コラ待て考え直せと『私』の声が耳を叩く。ウルサイ!
 ……っそうだ、そうなのだ! いつもは裏目に出るこの『私』! ここでこの機を逃せば、きっともうチャンスは来ない!!
 そして、気がつくと――
「あれ?」
 ティディアの耳を叩いていたのは、ニトロのぼやけた疑念だった。
 そこでティディアは、今自分がニトロにタックルをかまし、いつの間にか彼をベッドに押し倒していたことを知った。
 ふと、きょとんと呆けたニトロと目が合う。
 見る間にニトロの顔が引きつっていき――
 その、刹那――
 ティディアの脳裡を今一度逡巡が支配した。
 あ、やっぱこれヤバイんじゃない?
 ティディアは今一度迷った。
 どうする?
 ティディアは、思い切った。
 こうなったら
 ――イクしかない!
「お前――っ!」
「ニトロ!」
 怒鳴り声を上げベッドに己を組み敷く女の体を押しのけようとニトロが腕を動かすよりも速く、ティディアは彼にぎゅっと抱きついていた。
「離せ!」
「嫌!」
「この……ティディアっ! 結局これが狙いだったのか!」
「そんないつもいつも計算ばかりしてないわよ!」
 一年前ならいざ知らず、今やニトロはティディアの体重を軽く超える質量を持ち上げられる。もし少しでも二人の間に隙間ができればそこに腕を差し込まれ、撥ね退けられる。純粋な腕力勝負では分の悪いティディアは懸命に『技』を繰り、重心を操り、ニトロに体を合わせ続けた。
「じゃあ何だ、何でこうなってる!?」
「ニトロが悪い!」
「ぅおおぃナ・ン・デ・ダッ!!」
「言ったでしょ、ニトロのこと、あなたが思う以上に好きだって!」
「こういうことする奴の言葉が信じられるかぁ!」
「だってこんなこと、好きじゃなきゃしないわよ!」
「お前の好きは俺の思う好きとは絶対違う! っつーかそもそも好意を犯罪の理由付けに使うなクソ痴女!」
「じゃあ魔が差したってことで」
「なおさら悪いわ!」
 ニトロが身じろぎをするが、腕を自身と痴女の間に入れることができずにうめく。背にしているのは柔らかな羽毛、クッションの利いたマット、支えが効かず、さらに膝から下がベッドの外にあるせいでブリッジをして上に居付くバカのバランスを崩すことすらできず、そのくせ体は固定されて横にも後ろにも動けない。
 ティディアはもう冷静にはなれない頭の中で、しかしこれはチャンスだと、はっきりと認識していた。
 本当に稼げた『ポイント』は強力だったのか。ニトロの抵抗が普段より弱い気がする。何しろ事ここに至っても未だあの『馬鹿力』が出てこない!
 適度に鍛えられた少年の肩に顔を埋め、背に腕を回し、そのせいで両腕は彼の下敷きになっているが、柔軟なベッドのお陰で痛みはなく、むしろそれが彼を捕まえおく重要な支点となって機能している。
 ふいに、ティディアは必死にもがこうとするニトロの首筋の上に、彼の耳を見た。
「……」
 彼の、耳たぶが、視界に入った。
「離せってンだティディア!!」
 ――甘く、噛んでみた。
「ッ!」
 その瞬間、ニトロの体がびくりと跳ねた。
「うひぃぃぃぃぃぃ」
 そして奇妙な悲鳴を上げたニトロの体から、急速に力が抜けていった。くたりと、嘘のように、抵抗が消えた。
 ティディアは内心で歓声を上げた。
(これは――!)
 もしかするとニトロの急所を突いたのだろうか。
 ニトロは観念したかのように脱力し、ふと、腕を背に回してきた。そっと、軽く抱き締め返すように。
 ――これは――やはり……っ!
(とうとう!?)
 ティディアは目に涙が滲むのを止められなかった。全身を歓喜に強張らせ、ニトロはどんな表情をしているのだろう、顔が見たいと体を離そうとした、
 その時、
「、ん」
 背に回っていたニトロの手が、背から脇、乳房を触ろうとしているのか肋骨に沿って親指を這わせ、ティディアはくすぐったさよりも異様な快感を覚えて思わず身を震わせた。
 ニトロの指は――やおらティディアの胸部を横から挟み込むよう左右対称の位置で止まり――くっと骨の間に入っ――
 ギャッ!?
「いィ――――!!」
 刹那、肋骨から背骨、背骨から脳髄へと駆け抜けた尋常ならざる激痛にティディアは喘いだ。
 喘ぎ、身をよじり、そして見た。
 己の下で、ものすっごく冷めた目つきをしている少年を。
 コメカミには青筋が立っている、尖らせた親指を力ずくで肋骨の隙間にめり込ませ、あるいは……肺にまで突き刺そうとしている愛しいニトロを!
「折れ――る骨ッ砕―け……っ! ぅァ――ぃぃ痛だたただだ!!」
 ティディアは頭を抱え悶え絶叫し、体を起こすと無我夢中でニトロの手を振り払ってベッドの上から逃げ出した。
 とにかくニトロにもう『お仕置き』されたくないと一心不乱にドア近くの壁際まで駆け、何だか脈打つ溶けた鉛を埋め込まれたようなアバラの痛みに唇を噛み、涙が滲む双眸をベッドへと振り向ける。
 と、そこにはすでにニトロはいなかった。
「……どこへいく」
 ――と、すぐ隣から、耳に噛み付くようなニトロの声がした。
 ティディアの顔が、体が、凍りついた。彼女は視野角の隅にある影には目をやろうとはせず、冷や汗を一筋頬に伝わせ、言った。
「……ひどいわ。こんな愛撫じゃ女の子は気持ち良くなれないわよ」
「悪いな。俺は師匠にゃそういう技術は教わってねーのさ」
「……ずるいな。ハラキリ君、ニトロにばっかり色々教えて」
「……」
「……」
「……なあ、ティディア」
「はい」
「『エフォラン』ってゴシップ紙、知ってるか?」
「知ってます、三流紙の見本です」
「これも師匠が教えてくれたんだけどさ、ああいうところって、貶めたい相手ターゲットを見つけたらまず最初は『よいしょ』をするんだってな。持ち上げて、持ち上げて、気持ち悪いほど褒め称えて。そしたら頃合を見て、『叩き』のキッカケになる一打を放つ。前から隠し持っていた醜聞か、ああ、もちろん何か悪い噂なりトラブルなりが露見したのをキッカケにしてもいい。そうしたら一気に掌を返して、相手を落とす。相手はそれまで散々持ち上げられてるから余計にダメージが大きい。二階建てのアパートから突き落とされるなんてもんじゃない、二百階建てのビルから突き落とされるようなもんさ。地面に叩きつけられて、地面の底を抜けて地獄の奥底にまで叩き落される」
「……うん、知ってる。上げて落とすのは、ゴシップ紙に限らず常套手段だもの」
「うん。知ってるなら、解るよな?」
「…………何が?」
「俺さ、今日、お前のことを本当に見直していたんだ」
「…………」
 ティディアは沈黙した。
 いや、肌に触れる殺気に、口が動かない。
「さて、バカ姫」
 ニトロの声は、地獄の奥底を抜けたさらに底から響いてきているように、恐ろしい。
「自分から高いところに登って落ちる気分はどうだい?」
「ヒッ!」
 喉を引きつらせ、反射的にティディアは脚の筋肉を爆発させていた。短距離走のアスリート並みにロケットスタートを決められる瞬発力を全身全霊脱出のために使用し、一息の間もなくドアへと駆け寄る。
 ティディアはノブを掴むと同時、ドアを渾身の力で引き開けた。
 すると目の前に、腕を組み、双眸を赤くギラつかせて仁王立つアンドロイドが現れた。
「――」
 ティディアは半分廊下に飛び出していた体をぎしりと止め、息も止めたまま静かに後ずさり、そっとドアを閉め直した。
 オートロックが作動したことを知らせる確認音が、ティディアの鼓膜を嫌に撫でる。
「……」
 前門の鬼神。
 後門にも、鬼神。
 体幹に絶対零度の悪寒が走る。
「……ニトロ」
 ティディアは背後から彼に抱き締められながら、言った。
「ほんとに、魔が差しただけなの」
「……」
「計算じゃない。企んでたんじゃない。それだけはお願い、信じて」
 己を抱えるニトロの手は腹の前で組まれている。
 ティディアの明晰なる頭脳は、この体勢が意味する未来を寸分の誤差なく予測していた。
 ジャーマン・スープレックス――その美技、必殺の技。
「ね?」
「ド阿呆」
 即一言で斬り捨てられ、ティディアは絶望に青褪めた。
(嗚呼、本当に私の阿呆)
 ティディアの心身には激しい後悔が荒々しく巡っていた。悪手を打ってしまったからには、逃げ出そうなんてせず、素直にあのままお仕置きされておけば良かったのだとも思う。そうしておけば、せめて束の間だけでも温かなニトロの胸で眠れる可能性が残っていただろうに。
 部屋には絨毯が敷かれている。
 高級品の、素足で歩きたくなるほどの良い絨毯。
 だがその直下の床はとてもとても固く冷たい。
 ティディアは、無駄な抵抗とは解っていても、ドアノブに救いを求めて手を伸ばし――
「持ち上げてぇ!」
 しかしそれより先にニトロの両腕がティディアの胴を締め、気合一発、彼女の体を一瞬にして抱え上げた。
 虚しくティディアの手が宙を掻く。
 凄烈な勢いでニトロの背が弧を描き、
「落とぉぉぉぉぉす!!」
「うひいいいいぃい!!






――――――――――。


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