2−4−5 へ

 石造りの大きな浴槽から湯が溢れ続ける音、その上を越えてきたシャワーの音を耳にしたニトロは、一度スポンジを持つ手を止め、それから幾ばくか手を早めて体を洗い終えた。
 ボディーソープをシャワーで洗い流し、使い終えた備え付けのスポンジを回収ポケットに放り込む。それから水栓バルブの脇に置いておいたハンドタオルを引っ掴むと、ニトロは女湯の洗い場からまだ体を洗う音が聞こえるのを確認し、そそくさと湯船に向かった。
 ……ティディアに対し『お前の裸はむしろ戦闘服』、とは言ったものの。
 曲がりなりにも成人女性の裸を真正面にするのはやはり落ち着かないし、その上こちらも裸だ。いくらティディア相手だからとて、いや、あるいはティディア相手だからこそ、どうしても隠しようのない恥ずかしさがある。
 ニトロは洗い場から少し離れた対辺の長さ等しい長方形の人工の泉、豊富な湯がなみなみと満ちる広い湯船に早急に、しかして慎重に身を投じた。
 ハンドタオルを湯につけることなく畳み、この地方の作法に従いそれを頭の上に乗せる。
 ため息をつくように息を吐きながら心臓の辺りまでを湯に沈め、そこでようやくニトロはほっと肩の力を抜いた。
 湯の温度はぬるめに落とされ、感触はしっとりと、微かなぬめりで何をせずとも肌を磨こうと撫でてくる。土地独特の赤褐色を帯びた湯は夜の色を溶かし込み、驚くほど黒々として見える。
 背後から届く男女洗い場の屋根にある弱い――洗い場内においては十分な――照明のおこぼれが水面に揺らめいているが、それは周囲に電灯の無い浴槽内を一層暗く見せていて、向こう正面にある林と風呂を分ける壁際に等間隔に置かれた足下を照らすための光玉は、まるで夜の海に浮かぶ漁船の篝火だ。
 湯に沈めた体に目を落とせば、暗い水の中でぼやけている。
 空中と水中の明暗差と、絶えず極々なだらかに波打つ泉のお陰もあって、近くでぐっと覗き込みでもしない限り裸体が明らかになることはない。
 これなら、そこそこ安心だった。
 そりゃあのバカに浴槽の中で仁王立ちされれば体が隠れることはないが、そうでなければアイツに見せつけられることもない。もし仁王立ちされて「ほらほらほら」とでも迫られたとしたら、その時は足を刈って湯船の縁石に頭をしこたまぶつけさせてやればいい。
「……はぁ」
 身に沁み込んでくる温もりに息をつき、ニトロは背を『縁石』にもたれた。
 湯船は目の細かい砂岩を模して作られた建材でできている。耐久性も耐水性も抜群で、何より水垢も着かず雑菌の繁殖も許さない人工石。一見長方形の枠をどんと置いただけの無骨な浴槽は見た目に反してよく研磨され、肌にほどよい感触を与えてくれる。角も丸みを帯びて座りの悪いことはない。それにこの石造りの湯船には継ぎ目といったものが何処にも見当たらず、巨大な一枚岩から削り出されたものであるように造られていた。
 湯は、どこからともなく湧き出ている。
 どこからともなく沸き続け、浴槽の許容量を常に越え、常に絶え間なく石肌を伝い滑り落ち、敷石をひたひたと濡らしながらどこへともなく吸い込まれて消えている。
 ニトロは頭の上のタオルが落ちない程度に空を見上げた。
 露天風呂の外壁の先にはこの場を囲む木立があり、さらにその奥にあるのは、まさに真珠の粉を散りばめた美しい星空!
 この場の照明を乏しくしてあるのはこのためか。林の木立が作る影はがくのようでもあって、そう見ると、ここから見上げる空は、ここにいる人間のためだけに切り出された特別な空なのだと錯覚させられてしまう。
 加えて林から香る緑の匂い――王都より季節の巡りが遅い地方ではあるが、温泉の熱によりこの周囲だけ早々と芽吹いた若葉の清廉な香りが微かに特有の匂いのする湯気に混じって、体の外からだけでなく、胸の内からも心地良さで包んでくれるのが堪らなく気持ちいい。
 なるほど、これは良い。これは素晴らしい露天風呂だ。
 特にまだ裸では寒いこの季節。空屋根から抜けてくる冷気と温泉の暖気の混じり具合は絶妙な按配で、ぬるめの湯ともあいまって長く快適な入浴を楽しめそうだ。
 人気があるのも、クレイグが薦めてくれたのにも、諸手を挙げて賛意を示せる。ニトロはまた息をついて両肩を湯に沈め――
「っ」
 その時、水を撥ねる足音をかすかに耳にし、ニトロはくつろぎかけていた体に緊張感を持ち直した。
 肩を湯の上に出し、マナー違反と分かっているがタオルを湯に着け、湯船の外でぎゅっと固く絞る。身近にあるものを武器にする方法――濡れタオルも立派な『凶器』にできることをニトロはハラキリから学んでいた。適度に水分を含ませたタオルを今一度頭の上に乗せた彼は耳を澄ませ、小さな足音がされど確実に湯船に向かってきているのを確信するや、彼女の裸を自ら視認すれば後から何を言われたものか分からないと真っ直ぐ正面を睨んだ。
 短い時間だったとはいえ露天風呂を満喫できたことに一定の満足をしながら、いよいよ宿敵と『対決』する時がきたと肩を張る。
 彼女は、密着するほど傍に来るだろう。
 というか、きっと密着してくるはずだ。
 まずはそれを適当な距離に遠ざけてから、聞き出さねばならないことを何とか告白させねばならない。
 ニトロは短く息を吐いた。
 それは温かな湯にほぐされて出た吐息ではなく、気合を入れる一種の自己暗示だった。
 そして、とうとう、ティディアが湯に足先をつける音がやや離れた位置から聞こえ――
「……?」
 ――あれ? 離れた?
「ん、良いお湯」
 ニトロは――思わぬ距離感を置いて聞こえてきた湯を蹴る音と、その声に、思わずそちらへと振り向こうという衝動を辛うじて押し止めた。
 真正面を向いていても、視野角にはティディアの影が入り込んできている。直に見て測っていない分誤差はあろうが、彼女は、およそ人三人分を開けたところで腰を下ろしていた。一瞬、前屈みになったその頭が純白の塊に見えたのは、どうやら髪が温泉に浸からぬようタオルを巻いているかららしい。
 ちゃぷ、と、水滴が跳ねる。ティディアが気持ち良さそうに息をついている。
 ニトロは驚いていた。
 予想通りティディアは傍に来た。だが、予想を外れ密着するほどではなく、それどころか適度な距離を自ら置き、湯の上に出した肩に手に掬った湯をかけている。
 誘惑の言葉はない。
 誘惑の仕草もない。
 ぼんやりと視界の隅に映る彼女は、静かに湯に浸かり、つと顎を上向けて星空を眺めている。
 ……ともすれば、誘惑された方がマシだと思えるほどの混乱がニトロを襲っていた。
 心の底から解らない。ティディアの考えが、元々理解不能な奴だが現在輪をかけて理解不可能だ。
 一体、何を考えているのだろうか、このクレイジー・プリンセスは。その称号に反してひたすら穏やかに湯を楽しみ、しかしその脳裡にはどんな『未来』を計算しているのだ?
 未知こそ恐怖の源とは言うが、それが今ほど身に沁みて理解できることはなかった。
「…………」
「…………」
 無言の時が、続いていた。
(なんだ?)
「…………」
「…………」
 二人口を閉ざしたままの時間が、相応の湯と共に流れ去っていた。
 常ならばここぞと会話を重ねようとしてくるはずのティディアは一言も発さず、たまに心地良さに誘われた息をつくばかりで、目立った身動きすら見せず、ただそこにいる。
 湯船から溢れた湯水が奏でる、さらさらと。
 夜風になびいた木立が唱える、さわさわと。
 ホテル・ウォゼット自慢の露天風呂には自然と生まれた音しかない。
 少しばかり賑やかな静寂の中、ニトロは耳の奥に聞こえる己の鼓動がやけに煩くて堪らなかった。
(……なんなんだ……!?)
 ニトロは畳みかけるように訪れ続ける『またしても』『いつもと違う』状況に、焦燥感にも似た、それとも恐慌を起こす寸前の切迫感を感じていた。
 なんかもう、何のつもりだティディア! と叫んで両肩掴んで頭をがっくんがっくん揺さぶり回してやりたい気分になってくる。いや、こうなったらそうしてティディアに『白状』させてやった方が楽ではなかろうか。むき出しの、ティディアの、白い肩を、鷲掴みにして、逃げられないように爪を立
(いやいや待て待て)
 はたと思考がおかしくなっていることに気づいたニトロは、湯をすくって顔を洗った。
(ああ……どうもいけない)
 考え疲れた脳がやっつけ仕事で事を済まそうとしていると、我ながらどこか他人事のように分析しながら、間違った方向へ噴き出そうとしていたストレスを胸にこもる古い空気に包んで深く深く吐き捨てる。
 ――と、吐き出した空気の代わりに新鮮な空気をニトロが胸一杯に吸い込んでいた、その時、
「クレイグ・スーミア」
 ぽつりと、ティディアが言った。
「――ん?」
 それも彼女が口にしたのはニトロにとって聞き憶えのある人名で、そして憶えがあるからこそ、彼は彼女が誰の名を華やかな声で聞かせてきたのかを――理解できなかった。
 ティディアはニトロの喉が疑念にうなりを上げたのを耳に、彼の理解が追いつくのを待たずに続けた。
「なかなかしっかりした子ね。成績は上位、クラス委員を務め、クラスメートにも教師にも受けが良い。ニトロ・ポルカトとは一年の時から同じクラスで、ハラキリ・ジジを除けば、ニトロの交友の中で最も重要な学校関係者の一人。そして――」
 ニトロはティディアとの距離をもう一人分開け、顔をそちらへと振り向けた。彼の双眸にはむき出しの敵意があった。
「そして、困った親戚の頼みを、断り切れずに引き受けてしまうくらいにはお人好し」
「……ティディア」
 低い声に応じて、それまで空を見たままにいたティディアは、ニトロに顔を向けた。
 肩から胸元までを湯から現した彼女は洗い場から漏れる光を背に受け、影と色付く湯との鮮やかなコントラストを生むその白い肌はまさに輝いているようだ。闇から抜け出る大理石の女神像――と、形容する者もいるかもしれない。ただどんな女神の像とも違い、彼女の柔らかな頬には肉体を持った者だけが浮かべられる妖艶な笑みがある。
「でも、お人好し度ではニトロに遠く及ばないわね」
「ティディア」
 繰り返したニトロの呼びかけは非難を多分に含んでいた。同時に、警告をも。
 しかしティディアは動じず、へらりと笑って言った。
「やー、何もニトロにここにこさせるよう彼に命じたわけじゃないわよぅ。もちろんセド・ウォゼットに従弟にそう頼み込ませた、なんてこともしてないわ」
「……」
 ニトロは口を真一文字に結び、険しい懐疑の眼差しでティディアを貫いていた。
 だが、それでもティディアは動じない。
 へらへらと締まりを失っていた頬を少しだけ引き締め、少しだけ、残念そうにニトロを見つめた。
「信じられない?」
「信じるだけの根拠がないからには、信じられないな」
「ん、それはもっともね。
 でも、私は、私がニトロの友達をそういう風に使うことはないっていうことを、ちゃんと知ってもらえていると思ってたんだけどな」
 そのセリフを聞いたニトロの双眸から、いくばくか敵意が消えた。
 確かに、それは知っている
 ティディアの言う通り、彼女が、ニトロ・ポルカトがクレイジー・プリンセスの悪戯をキッカケにいずれかの友と友情を壊すことになるような『企み』を仕掛けてこないことは、これまでの経験から信頼できる『暗黙のルール』として認識していることだ。
 だから、クレイグから頼みを受けた時、自分はそれがバカ姫の息がかかった事柄であるとは考えなかった。
 そのことが仇になって現在ティディアと二人、温泉に浸かるはめになったのならばそれは間違いなく決定的な油断であっただろう。
 だが、それでも、ここ今に至ってもなおその線は『無い』と、ニトロには確信が持てた。おかしな話だが、その点に関してはティディアを信頼しているのだ。まあ、といってもそれは『虎は空を飛ばない』という類の信頼性ではあるのだが……。
「なら……なんで今、そんなことを?」
 目をニトロに戻したティディアは、問いかけてきた彼の瞳から敵意が完全に消え、そこに純粋な疑問と困惑だけがあることを見て取った。
 彼女は彼から視線を外すとどこからともなく沸く湯が水面に作る揺らぎを見つめ、しばらくして、言った。
「あまりこういうこと、しちゃ駄目よ?」
 ニトロは眉をひそめた。それは自分の問いへの答えとしては満足のいくものではなく、その上前触れもなく話題まで変化した言葉であったのに、ティディアの横顔はちゃんと答えを返したと、そう語っている。
(……『こういう』こと?)
 一体、何のことを言っているのだろうか。ニトロはこちらを見ようともしないティディアの横顔の下に隠された真意を掴もうと考えを巡らせ――
 はたと、気づいた。
 そしてそれに思い至った瞬間、ティディアの謎かけのような返答の真意を悟ると共に、これまでニトロの中に降り積もっていた疑念と惑いの全てまでもが、急速に氷解を始めていた。
(ああ、そうか)
 クレイグ・スーミアの人と形を知り、セド・ウォゼットとの関係をも知っているティディア。彼女の実力と性質を踏まえ、そこに今の言葉を重ねれば、彼女が何を言いたいのかは自ずと理解できる。
(そういうことか……)
 解ってみれば、それは何も難しいことではなかった。
 おそらく、ティディアはこちらがホテルの変更を申し出たその日の内に全てを把握していたのだろう。
 一を知って十を知り、十を知って百を解く。一見何の関係もなさそうな個別の情報に関連性を見出し、あれよあれよと言う間に見えざる全体像を暴き出すことに長けた恐ろしい王女様のことだ。
 ニトロが興味を示したホテル・ウォゼット。
 当然、そこに関する情報を彼女は調べ上げる。その際、ホテル従業員の関係者の中にクレイグ・スーミアの名を見つけたならば、突然ホテル・ウォゼットに泊まると言い出したこちらの思惑など見透かせぬわけがない。どこで確信を得たのかは分からないが、どうせハラキリにクレイグと自分の間に変わった動きがなかったかとそれとなく探りをいれたか、ホテル・ウォゼットの情報収集時に確信に至るものを掴んだか、そんなところだろう。
「……何で黙ってたんだ?」
 ニトロはティディアに問うた。脳裡にある推論の正否を確かめるために。
協力してくれるんだったら、言ってくれてもよかったじゃないか」
「言ったら言ったでニトロは余計に警戒するんじゃない? 本当に協力するのか? 協力にかこつけて何が企んでるんじゃないか? って」
「……否定はしない」
 ティディアはふふと笑った。
「ね? それなら普段通りにしていてもらった方が私もやりやすいし、実際、ここの人間はメディアで見聞きしている通りの『ティディアとニトロ』の姿を見たと思ってるわよ。今頃派手な宣伝文句でも考えてるんじゃないかしら」
 決定的だった。
 ティディアは、初めから、自分が『ニトロ・ポルカト』であることを利用して、ホテル・ウォゼットの知名度を上げようとしていることを知っていたのだ。
 同時に、自分が『ティディア姫』をもホテル・ウォゼットが宣伝に使えるよう、彼女を利用していたことも。
 そして全てを理解して上で、ティディアはニトロ・ポルカトの拙い目論見に付き合ってくれていたのだ。
 思えば自分と芍薬が、ティディアの意図をどうしても掴めなかったのもここに端を発している。普段から『敵』と認識しているが故に、『彼女が協力してくれる』という概念そのものを見落としていたからこそ、どれほど推測し様々な仮説を手繰ってみても解答を引き出せなかった。
 だが、『協力』という歯車をはめこんでみれば、不可解であり続けた彼女の言動は一つの目的を実に鮮やかに描き出す。
 彼女の取っていた言動をその時点その時点で客観的な視点に立って考えれば、なるほど、それはホテルでの『王女とその恋人』の一泊デートを円滑に進ませるために最適な行動そのものではないか。
 加えてそのデートの光景は、普段『照れ隠し』ばかりをするニトロ・ポルカトが、多少はぎこちなくともティディアと腕を組んで歩く仲睦まじいものだ。それこそ王女が恋人と甘い一夜を過ごしたことを演出するに余りあるほどの。
 ……本当に、解ってみれば何も難しいことではない。
 胸の中でずっとちくちくと心を刺していた小さな棘が――いつもは煙たがっている彼女を都合良く利用している罪悪感が急に大きくなったようで、ニトロは息苦しさを感じてならなかった。
「……」
 ふと気がつくと、ティディアがこちらを見つめていた。人の心を見透かすような眼差しの下、口の端は頬に引き上げられている。
 その視線にニトロが目をわずかに伏せると、ティディアは半身を傾けるようにニトロへ向き直り、目尻をも垂れて微笑んだ。それはどこか、親が子を、師が弟子を、よくできたと誉めそやす慈しみにも似た笑顔だった。
 いや、実際、よく理解できましたと彼女は言っているのだろう。そして問いかけている。
「……解ってるよ」
 ニトロは口を尖らせ、しかしすぐにここでふて腐れてはそれこそ餓鬼だと思い直し、素直にティディアの視線を受け止めて答えた。
「こういうことは、滅多にしない。今回は特別だ」
「本当に?」
「何だよ、信じられないか?」
「特別なんて便利な言葉を使われちゃったら不安ね。次また友達からティディア姫に〜なんて、頼まれたらどうする? また『特別』に聞く? それともスーミア君だけを『特別』にする? 『滅多にしないこと』も、ただ一度の『特別』から特別でなくなるなんてざらにあることよ」
 痛いところを突かれたニトロは苦虫を噛み潰した顔で、うめいた。
 返す言葉がすぐには見つからない。
 確かに、企業や各種団体からの『お願い』ならば自動的に断りを返せても、友人からの『頼み』ではそうはいかない。そして下手に頼みを引き受けていけば、その先にある大混乱は目に見えている。
 例え……友人が『ニトロ・ポルカト』に頼みをしようと思わなくても、今回のクレイグのように、親戚、あるいは全く関係ない人間から依頼の仲介を持ちかけられて迷惑を被る可能性だってあるだろう。
「ちゃんと、区別はするよ」
 ややあって、重々しくニトロは答えた。
「もし、またクレイグから頼まれたとしても、その時はその時でしっかり考えて返事をするさ」
「うん、それなら安心」
 ティディアは伏目がちに言ったニトロへ、一転即座にうなずきを返した。
 それに面食らったのはニトロだった。彼は目を瞬き、湯船の縁石に背をもたれて星空を見上げるティディアに言った。
「随分……簡単だな」
「んー、ちょっと意地悪言っちゃったけどね、元々ニトロのそういう分別は信頼しているから。その言葉を聞けたらそれでいいの」
 そこまで言って、ティディアは小さく肩を揺らした。何か思い出し笑いをしている様子だった。彼女は訝しげなニトロの目に気づくと、
「こういう話、ニトロともっと前にしているつもりだったのよ」
「何で?」
「ニトロに色々なところから『依頼』がくるのは解っていたから、それをニトロが安易に引き受けたところで、そんなことしちゃ駄目、大変なことになるからって優しく諭してポイント稼ぎでもしようって考えていたの。時期はあの『映画』が公開されてすぐくらいかなって予想していたんだけど……でも予想以上にニトロがしっかりしてたから、ここまで待つことになっちゃった」
 と、いうことは、今回の件もある程度ティディアのずっと前からの『予想範囲』の内にあったということか。そう思うと何だかまた彼女の掌で転がされていたような気がしておもしろくなく、ついニトロは憎まれ口を叩いた。
「意外だな」
「ん?」
「ポイント稼ぎなんて言わず、獲物が調理道具一式揃えて進み出てきたんだ。それなら協力してやる代わりに私の言うこと何でも聞け、ってくらいするのがお前だろ?」
「そうねー、それなら対価に一夜を共にしてもらおうかって? そこまでいったらニトロはまるで古臭いドラマにあるような、家業を助けるために地元の悪徳権力者に身を売る娘ね。それも自分の家のことじゃなく、友達の努力の足りない親戚の家のことで身を売る大馬鹿者」
 ティディアは失笑し、言った。
「冗談じゃないわ。そんなのは私の流儀に反する。そんなやり方でニトロとセックスできても、ちっとも面白くない」
 ティディアの口調は軽かったが、そこに込められた感情が強いものだということは確かめずとも知れることだった。
 つい彼女への反抗心から口を滑らせたこととはいえ、いくらなんでも彼女に侮辱的なことを言ってしまったとニトロは悔やんだが、
「だって私は、そんな姑息な手を使わなくとも正々堂々ニトロを落とすんだからっ」
「待ていっ!」
 さすがに聞き逃せぬ主張に対し、ニトロはツッコンでいた。拳を握ってほざいたティディアは妙に無垢な眼差しで小首を傾げている。それが余計に頭にくる。
「お前これまであの手この手で嫌がらせしておきながらこの期に及んで正々堂々だと?」
「違うわ、あの手この手で正々堂々誘惑しているの」
「百歩譲ってお前の言うのが正々堂々な誘惑だとしても、それ絶対肝心な土台から腐って倒れて方向性間違ってるからな。どこまで行っても堂々巡りで目的地にはけっっッして辿り着かねぇからな」
「えー、そうかなー。なんなら今ここで正々堂々エッチなポーズで迫ってみるけど? 絶対にニトロは私を襲いたくてたまらなくなるわ」
「そーれーが間違ってるっちゅーてんだ!」
「間違ってないわよ、私スタイルに自信あるのよ? 何せ芍薬ちゃんのお墨付きだから勘違いじゃないわよ? 普通、そういう女の裸を見られたら男は喜ぶもんでしょ? 女が色香を武器にするのだって普っ通の正攻法じゃない。ほら間違ってない」
「そもそもお前が『普通』じゃないからその論理は通らない! 故に解答、不正解!」
「――!」
 ティディアは口を丸くあけて目玉をひん剥いた。ニトロの指摘によほど驚愕したらしい、
「なるほど!」
 ニトロは脱力した。
 急激に湯当たりしたかのようにがっくりとうなだれ、背を縁石に寄りかからせたまま滑り落ちるように肩まで湯に沈んだ。
「お前ねぇ」
 絶対に分かってボケているティディアにどうツッコんだものかと口をもごつかせていたニトロは、ふと彼女の発言の一部が気になった。
「芍薬のお墨付き?」
「ああ、さっきちょっとね」
 言って、ティディアは何か嫌なことを思い出したのか、不機嫌そうに頬を硬くした。
「……どうした?」
「折角良い気分だったのにヤなこと思い出した。あのオーナー、ニトロのこと粗末に扱ってくれちゃって」
「――は?」
 ニトロが疑念を口にすると、ティディアは彼に食って掛かるように体を向け、
「ニトロは気づいてる? ここに着いた時、オーナーはニトロの名前を一度も口にしなかったのよ? こっちが我慢して何も言わないのをいいことに舞い上がって……レストランでだってそう、ニトロに見せたあの態度は何!? 本当だったらもう怒鳴り散らして帰ってるわよ、そりゃもう営業許可取り消し・財産没収・全国ネット生放送で名指しで罵倒よ私を本気でもてなしたいならそれこそニトロを大事にしろってーのよ!!」
 ティディアは溜め込んでいたものをようやく吐き出せたという剣幕で、ばしゃばしゃとニトロに急接近し彼に掴みかからんと今にも立ち上がりそうな――いや、もう半分立ち上がった彼女の乳房が湯の中から現れ、ニトロの目前で張りも形も美しい柔肌を震わせている。
「っ――待て! 落ち着けティディア!」
 ニトロは慌てて顔を背け、ティディアの肩に手を当てると脇にいなしながら渾身の力で彼女を湯の中に押し戻そうとした。
 ――と、
「きゃば!」
 ただでさえニトロに迫り無理な体勢を取っていたのだ。ティディアはものの見事にバランスを崩し、勢い顔面から湯の中に突っ込んでしまった。いきなり水中に沈められてわたわたと腕をばたつかせる。その上『いなし』て『押し戻そう』という彼の動揺がありありと表れた力のベクトルに、下半身は彼に向かって座りながら上半身は浴槽内側へとひねらされ、その反動で腰を縁石にぶつけてそのまま姿勢を固定されるというおかしな有様。肩はニトロが押さえている。……動けない。――ッ息が! ごぼごぼと彼女の肺から溢れた空気が泡を立てる。
「あ」
 ニトロはティディアが立ち上がらないよう力を込めていた……結果として彼女を溺れさせようとしていた手をぱっと離した。
 ごぼりと一際大きな泡が水面で弾け、ゆら〜りとティディアが水の中から顔を出す。頭に巻いていたタオルは解け、濡れた前髪が額に首にとへばりつき、肩にかかろうという後ろ髪は湯に広がり揺れている。
 また水中に戻されてはたまらないと思ったのか、肩まで出したところでティディアは止まった。渋い顔で恨めしそうにニトロを見つめ、傍に漂っていたタオルを掴むと湯船の外でぎゅうと絞る。絞り出された水が敷石に落ちてけたたましく音を立てた。
「えーと…………大丈夫か?」
 ニトロが問うと、ティディアはうんとうなずいた。
「……」
「……」
「…………芍薬も、同じことを言っていたよ」
 ティディアが髪をまとめてタオルを頭に巻き直しているのを待つ間が持たず、ニトロは湯に落ちていた自分のタオルを拾って絞り、間の詰まり過ぎていた彼女との距離を少し開けながら言った。
「芍薬ちゃんが?」
 すると、意外なほどティディアが食いついてきた。何が嬉しいのか顔を輝かせ、
「何て言っていたの?」
「いや……だから、オーナーが俺の名前を言わなかった、気づいてるかって。お前と同じことを」
「ほんとに?」
「嘘ついたって仕方ないだろう、こんなこと」
「それもそうね」
 ティディアは目を細めている。口元はほころび、満面の笑みだ。
「そんなに嬉しいことか?」
「嬉しいわよー。ニトロのことで一緒に怒れるのも嬉しいし、それも同じこと言ってたなんて、私と芍薬ちゃんは結構気が合うってことじゃない?」
「ソレハ絶対ニナイヨ」
 間、髪をいれず、いずこからか芍薬の声が響いた。
 それにティディアはさして驚いた様子もなく、どこへなりとも聞こえるように言った。
「ひどいな、私、芍薬ちゃんのこと大好きだから一生うまくやっていきたいのに」
「あたしハ大嫌イダ。一生ナンテ御免ダネ」
「あら、ニトロと私が結婚しても?」
「それこそありえない」「ソレコソアリエナイ」
 ニトロと芍薬の素晴らしいデュエットがティディアの鼓膜をしこたまに叩いた。
「……主従揃ってつれないんだから……」
 ティディアは長嘆息をつき、気を取り直すように湯を一掬い胸元にかけ、肌を美しく磨くそれを軽くすりこむように指を這わせた。
「それにしても、勿体無いわね。この露天風呂がなくなったら」
「……何か、なくなるって言ってるような口振りだな」
「なくなるんじゃない? 上が中途半端に無能だから。このままじゃジワジワ活力を失って『死んでいく』だけだもの」
「そりゃまた手厳しい」
 ニトロは苦笑した。ティディアの痛烈な物言いもそうだが、この会話を聞いている芍薬はどう思っていることだろう。
「でも、中途半端に無能って何だ?」
「ニトロはそうは思わない? 外装、内装、部屋、料理、この露天風呂、一つ一つの要素を切り取ってみれば、それぞれの質は悪くないわ。『その決断』をした者が、改革改善をしているんだって悦に浸れるくらいには。でも、その実、改革改善と思っているものはあれもこれもと自分の願望を実現させたいオーナーの自慰行為にすぎないから、ホテル・ウォゼットはアンバランスでおかしくなっている。
 まるで、彼女のおもちゃ箱の中を見せられてるようよ。どうだ、私はこんなにいいものをたくさん持っているんだって。それでうまくいく場合もあるけど、それは特殊な例。ここにはそぐわない。おもちゃ箱から選び抜いて綺麗に飾り立てたドールハウスを見せなきゃ、客は困っちゃうだけ」
「……うん、そう思うけど……」
「色々調べてみたけど、ロセリアはけして無能じゃないわ。彼女のおもちゃ箱にはセンスいいものも入っている。だけど、自分で自分の長所を潰しちゃっていて、そのくせそれを自覚していないから性質が悪いし、なまじ創業者の娘で、創業者夫婦も一人娘にバカ甘だからなおさら手に負えない。世襲のデメリット、って言ったらそれまでだけどねー」
「いやいや、世襲の権化みたいな奴が何を軽々しく言ってんだ」
「ん? ああ、そうね。でも私はこの国にとってデメリットかしら」
 ティディアは小首を傾げ、無邪気に言った。
「そうじゃないって? 自画自賛は往々にして冷笑を買うもんだぞ」
「やー、邪険に言わないで。ニトロ」
「……。
 ……正直、俺にはまだ判らない」
 ニトロはうつむき、一度考えをまとめた。
「大体、お前がこの先どういう王女に……女王になるのか、それはその時になってみないと判らないだろ? ただでさえ史上稀に見る名君なのか、史上稀に見る暴君なのか、今だって『皆』して判断に困ってるんだ――」
 そこまで言って、ニトロはティディアの目がきらめいていることに気づいた。今の自分のセリフ、判断そのものは不明確にしているとはいえ、判断基準の中で為政者としてのティディアを『善い王女』だと捉える側面を不覚にも告白している。
 彼は一拍を挟み、
「って言っても、少なくとも俺個人に取っちゃ史上最凶最悪のバカ姫だからな。そこは間違えるなよ?」
「ええ、分かってる」
 ティディアは笑った。いくら嫌っている相手でも、認めるところは認めてくれるのがニトロの良いところだ。心底からの喜びにくすぐられながら、言う。
「でもまあ、ほら、私のことに関しちゃ問題ないわよ。例えこの先どんな暗君になっちゃったとしても大丈夫、我が親愛なるアデムメデスの民は愛してくれる。なんたって私は美人でスタイル抜群、才能に溢れてその上頭脳明晰だかぁ痛っ!」
 瞬きした間にスパンと額を叩かれていたティディアは、残心と構えた手刀からぽたぽたと水を滴らせているニトロをビックリ眼で見つめた。
「え? 何で?」
「ここはドツクところだろ?」
「……あえてスルーよ。いいえ、むしろそこを認めて誉めて抱き締めて」
「そいつはムカっ腹立つだけで笑えないな。ボツだ」
「…………はい」
 ざっくりと言い負かされてしょぼくれたティディアは……やおら笑った。
「何を笑ってるんだよ」
「オーナーだけが、ここの問題じゃないわ」
「?」
「ロセリアにも、ニトロみたいな人がいたら良かったのにね」
「俺みたいな人?」
「ええ。少なくとも先代は跡継ぎ娘を今からでも厳しく教育し直すべきだわ。それとも、セド・ウォゼットが。彼の責任だって重いんだから」
 思わぬ展開に、ニトロは黙してティディアを注視した。友人の話を聞く限り悪い印象を得ていなかった支配人のことをそう評され、驚きを禁じえなかった。
 ティディアは自分を見つめるニトロを見、
「実質的には名義だけ、だったとしても、支配人である以上はそれなりの勤めを果たさないと。大体、私に取ってのニトロみたいに、フォローができて、私が間違っていると思った時にははっきり止められる人になれる一番の位置にいるのに、それをしていないんじゃあ職務怠慢も甚だしいわよ」
 ニトロは眉をひそめた。何だか自分とティディアがベストパートナーになっているような言い方をされているが、まあ、それはここでツッコむべきものではないだろう。
「大学で経営を学び優秀な成績を修めているくせに、今はその能力を発揮することもなく妻の尻拭いに一生懸命。オーナーの立案に対して多少の口を出すものの、例え良い結果を招かないと分かっていても結局は身を引いて妻の機嫌を取るばかり。確かに彼のフォローは評判が良いみたいね。だけど、例えばホテルの敷地内に入る時、安っぽく思わせないためだか知らないけど自動案内を切った門のせいで待たされたことはどう? 細かいことだけど、そこで感じた客の苛立ちや戸惑いの記憶は消えないものよ。この競争激しいシゼモでそれを無視できるものかしら。そしてそういったところへのフォローが行き届いてないのは、彼の視線は客へのサービスに注がれている一方で、あくまでロセリアを助けることに向かっているから。そしてまた、彼は彼の目に入らなかったでしゃばりオーナーの失態までもフォローしきれない。
 悪く言ってしまえば、セドがやっていることはホテル・ウォゼットを緩慢に絞め殺す手伝いでしかないわ。いくらロセリアにとって良き夫でも、共同経営者としては失格ね。彼の最大の短所と言ってもいい」
 さらさらと淀みなくティディアに論じられ、ニトロは苦笑して訊いた。
「お前、どれだけここのこと調べたんだ?」
「きっとニトロに阿呆って言われるくらい」
 しれっと言われてニトロは苦笑を深め、
「けど……夫婦だからこそできないこともあるんじゃないか? セドさんだって力関係って言うか……立場もあるだろうし」
「それは一理。だけどそれを言い訳にして家業ホテルを潰したら元も子もないんじゃない? 二人して路頭に迷うくらいなら別にいいけど、従業員はいい迷惑だし、ここの料理と露天風呂のファンもがっかりね」
「それはそうだけど」
「見たところあの二人の場合、ロセリアが改革改善と錯覚独善の分別を知るか、露骨にでも婉曲にでも形はどうでもいいからセドが主導権を握るか……そうして彼女のセンスを彼が『ホテル・ウォゼット』へ適確に取り入れることができるなら、ここは良くなる。経営も悪化することはないでしょうね。以前より評価の高いホテルにだってなれるかもしれない。なのに、それをしようともせず、できず、結果、二人の短所だけを噛み合わせて中途半端に無能を晒すことになっている」
 そこで彼女は頭の上で手を組み、うんと伸びをした。その拍子に彼女の乳頭が湯から現れそうになり、慌ててニトロは顔を背けた。
 ティディアは顔を背けたニトロに横目を流し、にたりと笑った。
「だけど、わざわざこのティディア様と愛しいニトロが『宣伝材料』を提供したからには、ここをこのままにしておくわけにはいかないわねぇ」
 その眼差しに、ニトロは得も言われぬ悪寒を感じた。
「お前……何を企んでる?」
 反射的にニトロの口をついた問いに、ティディアは、今度はすぐに答えた。
「心配しなくていいわ。別に営業許可を取り消して乗っ取るとか……あ、いっそそっちの方がいいかな……」
「おい」
「あ、冗談冗談。そんな怖い目しないで。ただオーナーに冷や水ぶっ掛けてやるだけだから」
「……冷や水って何だよ」
「よくもニトロを軽んじたなって、そんな感じで怒ってやるのよ」
「それは「やらなくていい、ってニトロが言ってもやめないわよ。それに、良い方向に転んだらオーナーが心変わりをするキッカケになるかもしれないんだから」
 こちらの言葉に被せて言ったティディアの意図が解らず、ニトロは彼女を説得しようとしていた口を閉じ、次の言葉を待った。
「ロセリア・ウォゼットは私のことを信奉しているそうよ。そこでその王女様の怒りを買った挙げ句、無能まで指摘されたら――どう?」
 問われ、しかしニトロは答えられなかった。
 ロセリアがティディアに対して格別の眼差しを向けていたことは知っている。その相手にいかられけなされれば、それはショックも大きかろう。単純にロセリアのティディア姫への感情が反転するだけで終わることも考えられるが、それを契機として経営者としての性質が変わる可能性も確かにあるだろう。
「それでも変われないのなら、スーミア君には悪いけど、私達が『デート』をした思い出のホテルはいずれなくなるわね」
「…………要するに、また協力してくれる……ってことか」
「ん?」
「このホテルの状況が上向くように、って」
「そりゃね。ニトロの顔を潰すようなことはしないわ」
 にこりと笑って、ティディアは言った。
「ま、それくらいしておかないと気が晴れないってのもあるんだけどね」
「こら待てお前、本当に冷や水ぶっ掛ける『だけ』だろうな」
「そのつもりよ。今のところ」
「って今のところって何だ。その場のノリで洒落にならないこととか――」
「ねえ、芍薬ちゃんもロセリアを震え上がらせることに賛成よね?」
「サン 」
 反射的に賛意を示したのだろう芍薬の声が、途中ではっと我に返ったかのようにぷつりと切れた。
 だが、それで十分だった。
 ティディアがニトロを見る。その目には、『反対?』とありありと書かれている。
 無論、ニトロにはもうティディアへ向けられる反意はなかった。この件に芍薬が――それこそ思わず賛成するほどであるならば、バカ姫がやりすぎないよう釘すら打てるわけもない。
(……しょうがないか)
 ティディアも、彼女らしくもなく我慢してくれていたということもある。
 それにここまで黙って協力してくれていたのだから、やりすぎるということもあるまい。
「分かった。それについては何も言わない」
 ニトロが言うと、ティディアは小さくうなずいた。
 と、洗われた髪に残っていた水か、汗か、それとも湯気の冷えた水玉がティディアの首筋に沿って落ち、細やかな玉肌に弾かれるように露となった鎖骨の上を滑るとすっと胸の谷間に吸い込まれて消えた。
 ニトロは図らずも――そして悔しくも――ドキリと胸を高鳴らせていた。
 湯殿の空気にある魔的な空間演出力とでも言うのか。それとも半日悩まされ続けたティディアの真意を知った今だからか、妙に彼女の女性としての魅力が目にまとわりついてくる。
 伏せられた睫毛、和やかな表情、髪の際の産毛も艶かしいうなじ。彼女の体を縁取る芸術的な曲線。湯から覗く乳房の見た目にも伝わる柔らかさ。その下には暗い湯の中でぼんやりと輪郭を滲ませてなお美しい――
 ほぅっとティディアが息を吐いた。
 温泉は、既に夜がもたらす肌寒さを感じさせぬほどに二人の体を温めている。
 ティディアの静脈が浮いて見えそうな白肌を、熱を帯びた肉が桃色に染め、また一筋彼女の体を水滴が滑り落ちる。
「……漫才の、新作のことだけど」
 ニトロはティディアからぱっと目を外し、湯の水面を、木立を、星空をと視線を移しながら言った。
「話していた三連ボケのところ、最後に俺が間違えるってのはどうかな」
「……私が三つ目はまともなことを言って、ニトロがそれをツッコンじゃう?」
「ああ。そしてそれにティディアがツッコミを返すと、俺は勢い任せに逆切れツッコミ」
「……そうすると『転・結』との繋がりがなくなっちゃうわね。そこからはケンカ漫才にしないとおかしくなるし……」
 ティディアは拳を顎に当て、しばらく考えた後、何やら得心がいったように大きくうなずいた。
「うん、でも、いいかも。ハイスピードなケンカ漫才もやってみたいし、流れ的にもダイナミックにできそうだし……。うん。いいわ、それでやってみましょう」
「言い出して何だけど、原型ほとんどなくなるぞ? 失敗作になる可能性だってでかい」
「問題ないわ、すぐに作り直しておく。それに『実験』するなら失敗上等、思い切ったことやった方が面白いじゃない? あ、一応言っておくけど、ビンタ食らうことは覚悟しておいてね」
「……分かった――けど、あまり痛くするなよ」
「んー? ふふふ。笑いを取れるくらいにはしておくわよぅ」
 ニトロが冗談めかして言った希望にティディアはサディスティックな口調で応え、それから彼女は片腕で胸を隠すと、
「そろそろ上がるわ」
 ニトロは視野に彼女が入らないように首を回した時、ざあっと、水飛沫が音を立てて湯に弾けた。
「台本を書き直したいから先に部屋に戻ってる」
「ああ」
「のぼせないようにね」
「気をつけるよ」
 ティディアは浴槽を出て、溢れ続ける湯水がひたひたと濡らす敷石を踏み、脱衣所へと向かった。
 そして、一時の後、
「ティディア」
 ふいにニトロに呼び止められ、ティディアは振り向いた。ニトロは去り際の時のまま、目をこちらにやらず微動だにせず、そこにいる。
「何?」
 ニトロはすぐには言葉を継がず、やや間を置いた。その短い沈黙には彼が押し込めている感情の渦が滲んでいた。ティディアも、彼を急かし促さず、静かに待っていた。
「今日は……ごめん」
「何が?」
 再度の問い返しには苦笑が混じっていた。
 ニトロは、ティディアのその口調から彼女がこちらの意図を解っていることを察し――同時に謝らなくてもいいという意思をその声から感じながらも、それでも言った。
「お前のこと、いつもは避けようとしているくせに都合良く利用していた。さっきも、悪いことを言った」
「? 悪いこと?」
「ティディアが『身売りする娘』に例えた話だよ」
「ああ、そのこと。別に気にしてないから謝なくていいわよ。利用って言ってもこれくらい何でもないし、第一それならニトロのことを散々利用している私の立つ瀬がないと思わない?」
「お前はあからさまだろ。俺は黙ってた」
 ニトロは一つ息をつき、
「そのくせ利用していただけじゃなく、お前のこと侮辱するようなことまで言って、それでも謝らなかったら……俺は、卑怯だ」
 水が鳴った。ニトロへと近づいて、一つまた一つと足音が鳴った。
「ほんと、ニトロは真面目よねー」
 音が止まったのは、ニトロのすぐ後ろだった。ティディアがしゃがみこむ気配が彼の背に伝わる。
 そして、そっと、ニトロの頬をティディアの手が撫でた。
 突然背後から視界に飛び込んできたその手にニトロは驚いたが、しかし、彼がそれを避けることはなかった。
「ニトロが罪悪感を持っているのは解っていたから、私はそれだけで十分。これも気づいてないんでしょうけど、結構、顔に出ていたわよ?」
「……そりゃ、気づかなかったな」
 ニトロの頬に当てた手を引き、ティディアは鍛錬により引き締まり男性的な筋を浮かべる肩に触れようとして……やめた。
 ――これ以上彼に触れては、絶対に抱き締めたくなる。
 さすがにそこまでは受け入れてもらえないだろう。
 あるいは、もし、例え彼が抱き締めるくらいは許してくれたとしても、抱き締めようとした瞬間に芍薬にいたく怒られる可能性が非常に高くて怖い。
「それに、利用されて嬉しかったし」
「嬉しかった?」
 思わずといったようにニトロが肩越しに振り向いた。すぐ後ろにいたティディアとばちりと視線をぶつけ、しまったと顔をしかめて即座に顔を振り戻す。
 ティディアは彼の様子に小さく笑いながら、
「ええ、利用される程度には信頼されているって分かったし、ニトロが私を頼ってくれることなんて滅多にないから、ニトロの役に立てたのも嬉しかった。おまけにオイシイ思いもたくさんできたわ。一緒に温泉にだって入れた」
 ティディアは立ち上がった。胸には彼に口づけをしたい気持ちが、自分でも驚くほどに溢れている。
「……ニトロ、私はね、きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きなのよ」
 その穏やかな声には、何の嘘も、何の飾りもない。
「だからこれくらいのことで謝られたらかえって困っちゃうわ。それでも、もしニトロの気が済まないって言うのなら……そうね、明日一日中、あの『けっこんゆびわ』を一緒につけていてくれる? そうしたら、あの子もとても喜んでくれるから」

 また後で、練習の時に――
 そう言い残してティディアが去った後、ちょうど羽のないスズメバチを少し太らせた形状の、表面を周囲の光景をまるきり映しこむほどに磨かれた銀色の小さな四足を持つ小型警戒機が一機、ニトロの傍に姿を現した。
 それは音もなく湯船の縁に着地すると、
「部屋ニ支配人マネージャーカラドリンクガ届イテルヨ。ヨロシケレバ、ッテ」
「うん」
「アト、メッセージモ」
「何て?」
「『頼み』ヲ聞イテクレタコトヘノ感謝ト、オーナーノ非礼ヲ詫ビル内容ダヨ。挨拶ノ時ノコト。今更ダケドネ」
「そっか……」
 つぶやき、ふとニトロはティディアが言っていたことを思い出し、
「レストランでのことは?」
「話題ニモナイヨ」
 芍薬はニトロが何を思ってそれを問うたか、察していた。
「バカ姫ノ言ウ通リダ。見テナイカラ、見落トシテル
 ニトロはうなずいた。
 なるほど、ティディアは、正しいようだ。クレイグの話だけを聞いていたら判らなかったであろう彼の従兄の欠点を、こうもすぐに確認できるとは……
「今、聞クカイ?」
「部屋に戻ってから聞くよ」
 ニトロは言って頭の上のタオルを手にした。そのまま手を頭の後ろで組み、吐息と共に星空を仰ぐ。
 しばらく黙したままちらちらと瞬く星々を見上げ、そこに小学校で習った一等星があることを今になって知ったニトロは、再び吐息を――長いため息をついた。
「今日は……何かこう……ティディアに、やられちゃったかな」
「……御意」
 警戒機の姿勢が、芍薬のうなずきを反映して傾いた。
「帰ッタラ大反省会ダネ」
 さらさらと、湯が流れる音がやけに大きく聞こえている。
 ふいに木立がざわめき、入り込んできた冷たい夜風に緑の匂いが一段濃くなり、湯気が幻想的に揺らめく。
 ニトロは不思議とこぼれた笑みを口元に、言った。
「うん。帰ったら、大反省会だ」

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