中吉

(番外編『シトラス』と第二部『第7話』の間)

 ヴィタは食べ歩きを趣味にはしていない。
「嘘はいけない」
 ニトロ様ならそうツッコむところだろうか? 実際、極めて真剣な眼差しでツッコまれたことがある。
 しかしヴィタはこう反論するのだ。
わたくしの肉体は、ご存じの通り他人より多く食物を必要とするのです。もちろん、それについてカロリーブロックなど機能性食品や軍事用・緊急時用の糧食などで必要な栄養素を摂取するだけでも構いません。しかしそれらは必要なエネルギーを摂取する、その事に特化したものです。様々に味付けを工夫され、美味な商品も存在しますが、その本質は実務的な作業なのです。私は、食べることを楽しみたい。脂質の豊富なジャンクフードや異様に糖分の高いお菓子なども楽しみたい。そして様々な料理を、同じビーフシチューであっても各々創意工夫を凝らしたものを目でも舌でも楽しみ、その創意工夫ごと食すことが私は好きなのです。これは“ただ好き”というだけで、趣味とは言えません。私は、私に必要なことを豊かに行えるようにしているだけなのです」
 その豊かにする行為を趣味と言うんじゃないかな? とニトロ様は納得のいかぬご様子であった。
 されど事実なのである。
 私が純然たる趣味として言えるのは、唯一、植物の栽培だけであるのだ。
「いやいや、あんたさんざん『面白いことが好き』って言ってるじゃないか」
 ニトロ様ならそうツッコむところだろうか? 実際、極めて真剣な眼差しでツッコまれた。しかし、ならばこう反論しよう。
「それは人生です」
 お、おう……と、ニトロ様は言葉を飲んで引き下がった。その後『趣味とは何か』とひどく渋い顔をして哲学し始めたのは私の責任ではないだろう。そもそもその時趣味の話になったのは、ティディア様が『なんでお前はそういうことをするんだ』とニトロ様に問われて『だって趣味だし』とお答えになったからである。
 さりとてヴィタは今、思いのほか仕事が早く終わったために夜の王都をぶらぶら歩いていた。無論、良さそうな飲食店を発掘するためである。
 そもそも『執事』という職業にあって“思いのほか仕事が早く終わる”という言葉は相容れないものである。特に懐古趣味や伝統派に曰く『古き良き』時代の執事像に照らせば、相容れないどころかあり得ないものである。仕事が早く終わるのなら、それは全て予期されていなければならない。想定外の事態に遭遇することは当然あるとしても、己の権限の及ぶ範囲でそれをコントロールできないのは執事として未熟である。想定外に時間の取られることはあっても、例えば想定外の来客のキャンセルによって時間が空いたところでそれ以外の日々の雑務は時間がいくらあっても終わることはないのだから。故に“思いのほか”とは執事の口に出すには恥ずべきことなのである。
 しかし時代は変わった。
 現在となれば執事という言葉の示す職業には様々な形式があり、単にビジネスにおける秘書を『執事』として雇う者もあれば、パートタイムで『執事』を雇う者もある。実際、執事史とでもいうものがあるとしたら、『執事』はいつしか本来の職務を離れ、ほとんど従者兼運転手の別名となっていった歴史もあった。現代においてはA.I.こそを『執事』と言い切ることも可能であろう。
 それにも関わらず、特に貴族の関わる社会には一種の強迫観念があるようで、爵位を賜るなどして新たに当主となった者が――または実業などで成功せしめてその社交界に躍り出ることとなった“庶出の当主”が、ただの箔付けとして未だ『執事』を用意することも現実に存在していた。そのための派遣会社もあるほどだ。
 そもそも現在のアデムメデスにおいて最も有名な執事――王の執事、女王の執事、王女の執事――王家の執事というのも伝統派からすればあり得ぬ存在であろう。
 王家に属する一人一人に用意された『執務室』――という組織、その執務室長が、つまり『王家の執事』と呼ばれる。
 その業務の中心は陰日向に主人の活動を支えることであり、従者を兼ねて主人に同行し、住み込みで身の回りのお世話をしながら使用人や警護にかかわる人員を統制、かつ様々な行事の監督もする……およそ伝統派の言う『執事』と任務を同じくするが、それと大きく違うのは、その任につける者を必ずしも男性に限らず、しかも使用人については男女の別なく配下に置くため女中頭の職責も兼任する立場にあるということだ。そして副執事というものは存在せず、代わりに副執務長が強力なバックアップを約束している。
 その副執務長は基本的に執務室に常駐しており、資産管理等事務作業のほぼ全ても一任されている。
 逆に執務室長は執務室に留まることはなく、現場作業の全てを一任される。
 つまり王家の『執務室』とは“執事”と“家令”を併せたシステムであり、王家の執事とは、その上で“執務室の権限を担った実働員”であった。
 故にその権力は絶大である。
 そう、過去の『執事』が実際どういう存在であったかはともかく、王家の執事は紛うことなき権力者なのである。
 そのため、王家の執事になりたがる者は非常に多い。
 ただ王家に最も近寄れるというだけでも憧れの対象であるのに、そこに権力も付随するとなれば野心家にとっても垂涎の的であろう。
 その一方で本質を見ようとするものは言う。『王家の執事』は、単に歴史ある偉大な執務室の権威が服を着ている傀儡にすぎないと。
 実際に重要なのは執務室の実務を掌握する副室長であり、だからこそ『執事』こと室長は任意に変更が可能な一方、副室長は代々世襲制で、最も重要な機密が外部に漏れないようになっているではないか――と。
 ヴィタとしては、それについては肯定と否定を返すだろう。
 その通り、王家の執事は執務室の権威が服を着ている存在である。しかし勘違いしてはならない。当代の副室長も、その意味においては執務室の歴史が服を着ているのである。室長しつじも、副室長も、“執務室”というシステムの有機的な端末にすぎないのだ。その中で副室長はアーカイブに重きを置いた立場にあり、室長は王権あるいは王位継承権の現在に重きを置いた立場にある。だから、なるほど指摘は正しい。アーカイブは継承ほぞんされずにどうするというのだ? そして現在は常に変化せずにどうしろというのか。現在に変化を禁じれば停滞するのみであり、停滞は腐敗を呼ぶ。アデムメデスを統べるロディアーナ朝、それが一度も腐敗せずに来たなどとは執事の立場にあっても寝言にも言うまい。されどロディアーナ朝が腐り落ちずに存続してきたのは、この『王家の執事』というシステムが体現するように、その時々の要請に容易には応じずとも確実に変化を受け入れてきた柔軟さにこそあるのではないだろうか。
 そして『王家の執事』が王権に関わる主人の現在を反映する以上、それらは代々様々な個性を発揮してきた。中には王よりも影響力を持ち、歴史に汚名を残した者もある。華やかな宮廷文化の担い手として美名を残した者もある。ゴシップの中心になった者もあれば、忠誠と礼節の模範として崇められた者もある。
 では、当代の執事たちはどうか。
 王・王妃の執事はまさに忠誠と礼節の模範であろう。故に目立たない。
 第二王位継承者の執事はその主人に相応しく地味である。
 第三王位継承者の執事は、いない。いや、正確には執務室副室長が兼任しているためいることにはいるのだが、執事の存在が必要になるような公式な場でなければ表に出てくることはない。出てきたとしてもただ儀礼的な飾りである。
 その中で第一王位継承者の執事、ヴィタ・スロンドラード・クォフォは華であった。
 藍銀色の髪の麗人。
 見る者を魅了するマリンブルーの瞳。
 知識も豊富のみならず、あらゆるケースに対応可能な才女であり、しかもセキュリティスタッフにも属しているため経歴は隠されていて、故に否が応にも関心をそそる。さらにその謎多き中に時折垣間見せる“超人”の片鱗――今や『王家の執事』とはヴィタ以外の者は存在しないと思う者さえいるほどだ。一方で『クレイジー・プリンセス』の相棒でもある彼女は、旧来の伝統派や懐古趣味に照らせばいささか自由に過ぎた。
 が、それとてヴィタに何の責があろう?
 主人が「もう今日は自由にしていい」と言った。
 ならば自由である。
 そこで何をしようが本人の自由である。
 自由万歳。
 食い物を自由に食えぬほど悲しいものはない。
 どれほど懐かしもうが既に絶滅した『執事』に空腹を捧げたところで過去の栄光が戻ることはないのだ。せいぜい懐古趣味の剥製を動かすことはできたとしても、それはどこまでも偽りである。
 ヴィタは愉快な気分で夜の街を闊歩していた。
 瞼に浮かぶのは伝統派を声高に自称する伯爵の眼差しである。彼は主人を残してパーティーの場から去り行く女執事に高慢な侮蔑を向けていた。それを我が主人は非常に愉快気に眺めていた。今頃、主人はあの伯爵と穏やかに会話を楽しんでいるだろう。その俎上には、伯爵がこの堕落した貴族社会にあって奇跡的に蘇った華と自慢する彼の執事が載せられているだろう。その身は既に開かれている。引き出されたはらわたは真っ黒で、それが収められていた腹腔には伯爵家の棄損された名誉がたらふく詰まっている。
 王女はそれを巧みに匂わせるだろう。
 伯爵の顔を想像するだけで何と面白い。
 ヴィタはなんだかモツ料理が食いたくなった。
「そいつぁ趣味が悪過ぎる」
 ニトロ様ならそうツッコむだろうか?
 ヴィタは思わず微笑んでしまう。
 誠実な平民の、嫌悪と諦めと敬意の混じった瞳が浮かぶ。すれ違った青年が目を剥いてこちらを眺めていた。まさかあの王家の執事がこんな場所に? 片目はそう疑問で一杯にして、しかしもう片目では確かに本人を見たと確信して、だらしなく口を開けていた。ヴィタは気まぐれにそちらに瞳を流した。口元にはまだ微笑が残っていた。青年は奇矯な声を上げた。ヴィタは路地に入った。マリンブルーの残り香に足音が誘われる。しかし青年が路地に入った時、そこに藍銀色の髪の麗人の姿は影もなかった。

 さらさらと小川の流れる両岸に並び、優雅に枝を垂れるギンイロタマフサの、綿毛のような花穂が暖かな街灯の光を帯びて美しい。並木に沿ってはいかにも生活道路といった幅の道が続き、それに寄り添い並ぶのは、復興ロマン主義様式を取り入れた建築物群。明かりの灯る窓々の先には商いの活気が覗く。
 ここはグレイスペイア・タウン。
 過去、この小川は地下にあった。
 その当時は暗渠の上に大きな区道があり、そこを流通の要と大きなトラックが日に何百台と走り過ぎていた。
 それが自動運転の発展と飛行車の普及、それに伴う流通網の変化に沿って、いつしか寂れた。
 近隣住民の車が走る他はゴーストロードとでもいう風体で、手入れも後回しにされ、道沿いには雑草がひどく繁茂する有り様。
 誰もが過去の繁栄を忘れかけていた。
 それがある時、突然、この区道の一部が再開発の対象となった。
 道の一部は丘を切り抜きながら進路を変え、他の大通りとつながることでその役割を思い出した。が、進行方向を変える際に切り離された区画は道として役割を終え、宅地となる予定であった。
 そこで反対運動が起きた。
 確かに過去の繁栄は遠い日となった。流通の要としても用をなさなくなった。が、近隣住民にとっては便利な道ではあったのである。道がなくなると不便だし、宅地開発の際に提示された案も景観を大きく損ねる。何度も話し合いが行われた。話し合いはこじれるばかりであった。皆が疲れ始めた頃だったろうか? ある日の討論の最中、一人の公務員が熱心に語り出したのである。
 ここに川を復活させましょう!
 それは、初めは愚案であった。
 しかしそこに道ができる前の風景を紐解き語る公務員の熱意は、やがて地域住民を動かしていった。住民の要望通りそこに道の残ることも良かった。ただ宅地開発から商業地開発へと路線の変わるため新たな困難が生じたが、それもその公務員の情熱が勝った。
 結果、区道となるため200年に渡って厚い蓋の下を流れていた川は再び太陽を取り戻し、予想以上に清らかな流れは、川沿いの商店街と並び絵になる美観を生み出して大評判となった。それは、その再開発から30年が経ってなお奇跡的な成功例として王都第九区の自慢となっているほどである。
 ヴィタがこの町にやってきたのは全くの偶然であった。
 今夜は不思議と「ここ!」と気になる店が見つからず、仕方なしにコンビニのホットスナックなどを齧りながらふらふら歩を進められるだけ進めていた彼女は、少し休もうと川沿いのベンチに腰掛けた。
 さらさらと川床を撫でる水の音が心地良い。
 人よりも鋭い嗅覚にギンイロタマフサの仄かな香りが心地良い。
 人よりも夜目の利く瞳に、この光景は不思議と懐かしく、不思議と暖かく輝いている。
 どこからか笑い声が漏れていた。
 小学生くらいの男児を乗せたコンパクトカーが家路を行く。
 小川の対岸を、キャップの穴からポニーテールをなびかせて走る女性は軽やかに光の中を横切り、軽やかに並木の陰に消え、また現れては消え、軽やかに明滅する。
 ギンイロタマフサの、水の流れに沈み込むように垂れる枝をポンポンと無数に飾る銀色の花穂をじっと見ていると……柔らかな川風に揺れるその様をじっと見ていると、このまま意識ごと暖かな光に溶けて幻想世界に引き込まれて行ってしまいそうだ。
 ヴィタは何気なく、視線を水に乗せて下流に流した。
「あ」
 と、そこで彼女は対岸の酒場に目を止めた。
 そういえばモツ料理を食べようかと思っていたのだ。その店は程よい混み具合で、店構えも良い。肉料理を売りにしているようだから、きっと内臓系もあるだろう。
 ヴィタは立ち上がった。店はすぐそこの小さな橋を渡った先にある。橋では家族連れとすれ違った。親子揃って彼女の顔をどこかで見た顔だと見つめてきたが、王家の執事とは確信が持てないようだった。彼女は今、帽子の中に長い髪を仕舞い込んでいて、そこからわずかに覗く髪色は藍銀色に思えるし、印象的なマリンブルーの瞳は目を奪う。が、顔がどことなく違う気がして戸惑って……そんな三人に、ほんの少しだけ鼻の形を変えたヴィタは目が合ったからというように会釈をして通り過ぎる。
 緩いアーチの下にいかめしく掛かる青銅色の扉を抜けると、一瞬、店内の客が何人か、新たに入ってきた女性に目をやった。そのうち幾人かは待ち合わせの相手ではないと談笑に戻り、幾人かは彼女に注目し続ける。美女の来訪を喜んでいるような、それにどこかで見たような? と首を傾げるような――そうして見つめる中の一人に初老の男性があり、彼は洗いざらしのエプロンの前に空き皿の重ねられたトレイを手に、
「お一人?」
 ヴィタはうなずく。店内には地域の伝統楽器を用いたローカライズ・ジャズが流れている。
「カウンターか、テーブルが良ければ奥の席が空いてるが」
 ぶっきらぼうだが人懐こい響きが店によく似合う。風格からしておそらくウェイターを兼ねた店主だろう、彼は白と黒のまだらに混じる口髭をわずかに緩め、軽くウィンクをする。
「カウンターの方が助かるな」
 入口からまっすぐ行ったところに客席と厨房を区切る形で木目調のカウンター席が鎮座している。厨房の奥には炭石チャコミックの赤々と熱を発する焼き台があり、そこでは網に載せられた分厚い肉が遠火にじっくり焼かれていた。その前で忙しく動く老女がちらと新規の客を見て――ヴィタは己の顔を見た彼女がほんの一瞬間、嫌そうな顔をするのを見逃さなかった――しかしその悪感情はヴィタ自身に向けられたというよりはヴィタのような女に向けられたようであり、そしてそれ以上に美人に良い顔をする店主が気に食わない様子である。
 ヴィタはカウンターに向かった。
 八人掛けのカウンターに空席は二つ。中央寄りの一席と、右端から二番目の一席。一番右端の席に座る男は随分しょぼくれた背中をしている。
 店内の造りも調度も、南大陸北部によく見られる居酒屋のスタイルであった。外観は復興ロマン主義に拠っても、ここには未だに牛飼いの伝統を守ろうという野趣がある。厨房は焼き台を中心にして簡素であり、その脇に大きな寸胴鍋が二つ並び、玉ねぎやニンニクが調理台の傍に山積みにされていた。二つ用意されたまな板の一方は肉専用で、もう一方のまな板との間には塩と調味料の箱が並んでいる。たまたま人員のいない日なのか、料理人は女一人であるらしい。熱気のこもる焼き台の前で、焼き網の脇にフライパンをかざしてジャージャーと胃を刺激する音を奏でている。
 だが、ヴィタの関心はもはや店にはなかった。食い気は失われずとも、早くメニューを検分しようという気もない。ここに一歩踏み込み、店内を一望したその時から、彼女は視界の内にカウンターの右端にあるしょぼくれた背中を捉え続けていた。
 あの背中、彼の姿格好には見覚えがある。ただいつもの能天気な活気がないだけに即断は避けていた。が、一歩踏み出すと同時に彼女の瞳は記憶の中の彼と眼前の実物とを照合し、わざわざ“イヌの能力”で臭紋を嗅ぎ分ける必要もなく、二歩目には確信を得る。
「お邪魔します」
 席に着きながら、ヴィタは小さく言った。
 カウンターに座る際、隣席の客と簡単な挨拶を交わすことは珍しくない。大抵は会釈のみ。声に出すにしてもあくまで挨拶の域を出ない程度だが、彼女の声には明らかに呼びかけの意図があった。それは違和感を生む。男の背が少し伸び、彼は振り返った。
「――あれ? ヴィタちゃん?」
 ヴィタはここまでの道中で購入した真新しい帽子を脱ぐ。と、そこに収められていた藍銀色の長髪が一気にこぼれ落ちる。彼女は帽子をカウンター下の荷台に置くために体を屈ませ、すると髪が顔に幕を掛け、そうして再び彼女が顔を上げた時、その左隣の客――彼女が店に入ってきた時に振り返り、そこに高名な女性がいるようには思えど確信を持てずに怪訝な顔をしていた男が、今や確かにあの女執事が臨席していることを認めて目を丸くした。
「こんばんは」
 ヴィタ・スロンドラード・クォフォは、涼しげな目元をほころばせ、
「奇遇ですね」
 しょぼくれていた男――ニルグ・ポルカトは驚きのままに破顔した。
「やあ、本当だね。ここで会うとは思わなかったよ」
 ヴィタは微笑もうとして、しかし微笑を超えて小さく吹き出してしまった。ニルグの反応がおかしかったからではない。彼の笑顔に、彼の息子の面影を逆引きして、するとニトロであればこんなにも素直に『ここで会うとは思わなかった』などとは受け入れないだろうと思ってしまったのだ。あの少年ならばきっと全身に疑惑を漲らせ、ここそこに何か罠がないか、さらなる伏兵はないかと警戒するだろう。想像するだにその様子のなんと愛しいことか。まさしく奇遇だとしてもそれを気にせずにはいられない少年――骨身の髄まで宿敵の影響力が染みついてしまっている『クレイジー・プリンセス・ホルダー』。ああ、そして本当にそれが奇遇であったと納得した時、その面に表れる安堵もまた可愛らしいのだ。恐ろしい緊張から、根の素直さが素直に溢れ出る一瞬間……人間の感情の表出の、その面白さ。
 ヴィタの思いを全く知らぬニルグは笑顔のまま、彼女の反応を受けてほんの少しだけ首を傾げていた。その姿は彼自身の動作というより、彼にうつった妻の癖がそのまま現出しているようでヴィタはまた面白くてならない。
「本当に。まさかニルグ様がいらっしゃるとは存じませんでした」
 その言葉もまた彼は素直に受け止め、大きくうなずく。ヴィタもまた吹き出しそうになった時、ちょうど良いタイミングで店主がやって来てくれた。
「失礼します。お酒は召し上がられますか?」
 ヴィタはうなずく。
「ええ」
 コトン、と、ピクルスの小皿が置かれた。南大陸北部の居酒屋に見られる文化だった。これはアルコールを頼むと必ず無料で出されるもので、名もそのままに摘みピンチという。見れば、ニルグの前には同じ小皿はなかった。
「こちらメニューです」
 随分古ぼけた厚紙――のように見える板晶画面ボードスクリーンが手渡される。ヴィタはそれを開くことなく言った。
「フィント・パウドを“デシマ”で」
 初老の男性は一瞬目を見張り、それから嬉しそうに口髭を広げた。すぐにビールサーバーに向かおうとし、ふと足を止める。
「不躾ながら……もしや?」
「ええ」
 その肯定に、店主は飛び跳ねんばかりに肩をそびやかした。彼の老いた頬が紅潮し、それだけで何十歳と若返ったかのようである。左隣の男を始めカウンター席がどよめき、それがテーブル席にも伝わり、すると店内のこれまでの賑わいが嘘のように静かとなる。
 店主が意気揚々と酒を注ぎに行っている内に、ヴィタはさっとメニューに目を通していた。トップページの『本日のおすすめ』から、アルコール類、フード、ラストにデザートが二種、ただし酒飲みのためのアルコールを用いたデザートだ。ほとんどの人間は彼女がぱっぱと飛ばし読みしていると思ったが、彼女を知るニルグはその横顔がとても楽しげなのを心地よく見守っていた。
 やおらヴィタの右の手元にコースターが敷かれる。店主が満面の笑みで告げる。
「おまたせいたしました」
 554mlのグラスになみなみと注がれたクラシックスタイルのエール。紅茶を煮詰めたような濃い麦芽色に3mmほどの白い泡の冠が被さって、どこか熟した赤い果実を思わせる香りが華やかにヴィタの鼻をくすぐる。緩やかな曲線を描くグラスの肌にしなやかな指が触れる、冷たいが、冷たすぎない液体の感触を確かめるように。
 そしてグラスの縁に、麗人の唇が触れた。
 エールが彼女の喉に流れ込み、ごく、ごくとリズムよく三度彼女の喉が鳴る。
 グラスを置いた彼女はゆっくりと、肩の力を抜くように息をついた。はぁ、と。
 つられて誰かと誰かも息をつく。さわさわと小声がさえずる。
「なんだか、いいね」
 とても楽しそうに、とても嬉しそうに、ヴィタを眺めていたニルグが軽く頬杖をついて言う。彼の手元には氷の半ば溶けたタンブラーがあり、そこには南大陸の茶が薄まっている。ヴィタは微笑んだ。
「とても美味しいものですから」
 ニルグは笑った。
 それ以上に笑顔なのは店主であった。
 まず間違いなく南大陸出身であろう初老の彼が、地元から発信されたビールを王女の執事に誉められて嬉しくないはずもない。しかしそこで口を挟んでこないのは店員としての矜持のためか、それとももっと彼女の声を聴きたいからだろうか。
 ヴィタはまた一口エールで喉を潤し、
「ニルグ様は何を頼まれたのですか?」
 プチタマネギのピクルスを口に入れるヴィタから、問われたニルグは厨房の焼き台に目を移す。小石のような形状で、表面は白い灰に覆われているようでありながら、一方で内部は赤色光を帯びる炭石チャコミック。それらの敷き詰められた上には重ならないようずらされて上下二段になっている網があり、その上段に熱と赤外線にじくじくと炙られ脂を落とす肉塊がある。
「リブロースのシロゾだよ」
 ヴィタは厨房に声を投げた。
「おかみさん、そのお鍋にはギパが?」
「そうだよ」
 厨房の料理人はぶっきらぼうに応えた。それは自分は高貴な女性を相手にしても何も変わらない、と言いたげな物言いではあったが、彼女の眼差しは常にちらちらとカウンター席の“ご新規”に向けられていて、おそらく客の問いに即答できたのも、機会があればすぐに口を聞きたいと待ち構えていたからだろう。彼女は何気ない素振りで焼き台の肉の様子を見、次いで鍋を軽くかき回す。そこに“誘い”を感じ取ったヴィタは問いかける。
「全ておかみさんが?」
 鍋をかき混ぜながら、料理人が肩越しにちらと目を向けてくる。その瞳は輝いている。
「そうだよ。仕入れから仕込みからね。うちの旦那は金勘定しながら酒を飲むばかりさ」
 ふいに剣が飛び出てきて驚いたのはウェイター兼店主である。彼は教師に告げ口をされた生徒のような調子で何か反論を企て、しかしマリンブルーの瞳が己を見つめているのに気づいて息を飲む。
「――注文ですか?」
 少し上擦った声。ヴィタは目を細め、
「ギパを」
 おすすめの品にもあった、南大陸北部のモツ煮込みである。
「それからサーロインを700、シロゾで」
「ナッ――!?」
 ウェイターが目を丸くして、店内が大きくどよめく。平気なのはニルグのみで、
「そんな食えるかい!?」
 厨房からおかみの素っ頓狂な否定こえが轟く。
「美味しければ、食べられます」
 涼しげに、軽く言い切るその物言いに、常連らしいカウンター客の一人が顔色を変えた。しかしおかみはカラと笑った。
「言うねえ。だけど二時間はかかるよ」
「美味しければ、待てます」
「ハッハ! 言うねえ執事さま、それじゃあ腕によりをかけてそのお上品なお口を黙らせてさしあげるよ。あたしの知ってる執事ってのは、必要なこと以外は言わないもんだからね」
「はい、美味しければ当然、御礼申し上げたく存じます」
 おかみは大笑いしながら肉専用のものらしい冷蔵庫を開け、大きな肉の塊を取り出した。それをまた大きな肉切り包丁で切り分け、秤に載せる。
「7百……50、サービスだよ」
 ――むしろ挑戦か?
「ありがたく頂きます」
 ヴィタは微笑み、エールを飲む。
 おかみは肩を怒らせて、そのわりにとても丁寧にハーブで香味を加えた塩を肉に均一に薄く振りかける。これを炭火の遠火でじっくりじっくり焼き上げる調理法を、南大陸北部で『シロゾ』という。
 これまで黙ってヴィタとおかみのやり取りを眺めていたニルグが、面白そうに言った。
「ということは、閉店まで飲むんだね」
 焼き上がるまで二時間となれば――ヴィタはその必然に初めて気づいたように目を開き、
「そうなるようです」
「それじゃあ僕も付き合おうかな」
「お気遣いなさらなくても大丈夫ですよ。ここはお酒が美味しい、お料理も――」
 と、ピクルスを一瞥し、
「とても美味しいようですから」
「それっこそ当然さ」
 と、おかみが深皿を厨房から直接カウンターに置いてくる。そこには牛の内臓の様々な部位をドライトマトと乾燥トウモロコシとハーブでごった煮にしたものが大盛りとなっていた。それと同時に脇から店主が、
「どうぞ」
 深皿の横にカトラリーが並べられる。ヴィタは軽く会釈した。ウェイターは上機嫌で、料理人は頬を膨れさせる。
 それを内心非常に面白く思いながら、ヴィタはニルグをちらと見た。お茶とサラダだけで『シロゾ』を待つ彼は、妻の友人――そして息子の大変お世話になっている人が話しかけてこようというのを察してそれを促す。彼女は微笑み、先の話の穂を継いだ。
「お付き合いいただけるのであれば、嬉しいです。しかしお時間はよろしいのですか?」
「平気だよ。僕もゆっくりしたいと思っていたからね」
 そこで思い出したようにニルグはサラダにフォークを刺す。ドレッシングのかかったオニオンスライスとルッコラを彼はゆっくりと咀嚼する。ヴィタはエールを飲み、ニルグはサラダを飲み込む。
「何かお元気のないようにお見受けしましたが、どうかされたのですか?」
 一瞬、ニルグは彼女の言葉の意味するところを理解できなかった。しかし、すぐに理解が巡り、彼は目を丸くして彼女を見つめた。唐突に問いを投げかけてきた相手は視線をこちらに寄こしている――それだけで、何も言葉を次ぐこともない。
 ニルグは彼女に応えようか応えまいか逡巡を見せたが、
「ちょっとね、仕事でうまくいかないことがあってねえ」
 店内はまだ静かであった。客らは王女の執事の隣に座る男性が、今やあの『ニトロ・ポルカト』の父親だと理解している。あからさまなほど聞き耳を立て、動画を撮る者まであった。ただ流石にそれは店主が注意する。その様子を背後に、ニルグは弱くも強くもない笑みを浮かべる。
「だから美味しいものを食べて英気を養おうと思ってね」
 仕事の愚痴を期待していた向きには失望があったようだ。ニルグはおよそ現在アデムメデスで最も有名な地方公務員の一人と言って差し支えなく、その職が第九区役所の都市計画課にあることも知れ渡っている。であればこの状態で仕事上のトラブル等を語ることなどできないのは無理もなく、もし二人きりだったとしても守秘義務の関わることもあろう、いかに相手が王女の執事とはいえ、それを彼は安易に愚痴に出すまい。普段は能天気に思える人だが、そういったところは随分しっかりしているものだ。だが、ヴィタには彼の失意に心当たりがあった。彼女はそれをおくびにも出さずにうなずくと、
「それをお聞きしまして、ますます期待が高まりました」
 ギパを――晒された腹の中身を――食べようと匙を手に取るヴィタの双眸が輝いているのを見て、ニルグは大きくうなずく。そこには何の疑念もない。彼は何の曇りもなく彼女の期待が食事のみにあると信じている。
 だがもちろん、ヴィタはニルグの“うまくいかないこと”に興味を惹かれていたのである。
 彼女の心当たり――
 何の因果だろう?
 王都第九区役所都市計画課の目下最大の課題は、オンギュレイト・ボウルの再整備にある。そこは、元々は97年前に官民貴共同運営のモデルケースとして発案され、2エーカーの土地を贅沢に使ったデザイナーズアパルトメントであったが、その建築中に運営会社の倒産、及び責任者の逐電、担当デザイナーの自殺により作業継続も事後処理も立ち行かなくなり、関係していた貴族は早々に撤退、区も責任追及の声を曖昧に逃れ続ける内にいつしか廃墟となっていた場所であった。
 それを完全に区の所有物としたのがおよそ30年前。当時は造りかけで放棄された建造物が緑に覆われて、元来のデザイン性も手伝って独特の雰囲気を伴い、初めは廃墟マニアに、次に創作活動を行う者に大変な評判を呼んでいたものであった。そこで、その評判を受けて廃墟をそのまま芸術文化活動を行える施設『オンギュレイト・ボウル』として活用しようというのが、区の指針となった。
 そして、そこでも中心となった一人が、何を隠そうここグレイスペイア・タウン――小川沿いの街並みを実現させた公務員である。彼の開発成功の威光が、莫大な税金を用いて採算度外視の文化施設の整備と運営を行うことを可能とした。無論、当時からそれについて――特にランニングコストについて反対論はあった。ただ、反対派の主張に反して、運営は概ね順調に行われていたといえよう。当施設はアーティストやサブカルチャー愛好家に愛され、利用され続けてきた。廃墟内の――電気水道、消防設備などを整備した以外は廃墟そのものである各スペースは、年・月・週・日単位で賃貸され、その契約期間はどんなに長くとも築後100年目を超えることはない。何故なら建築物の老朽化を見越して、築後100年を機にオンギュレイト・ボウルは解体・再開発されることが当初より決められていたためである。
 その時限性もまた一種の魅力となり、そこは絶え間なく利用者を引きつけてきた。
 これまでオンギュレイト・ボウルでは無数の映像作品が撮られ、様々なイベントが開かれ、そこから新たな芸術活動も生まれ、伝説的な前衛作家まで生まれてきた。もちろん毎年黒字とはいかず、結局反対派の主張通り整備費用の回収も不可能とされているが、一方で公共施設に求められるのは商業的な成功だけではない。その点、オンギュレイト・ボウルは成功の部類として認知されている。
 さて、話は今から3年後に始まる再整備に戻る。
 建造物が築100年を迎える3年後の12月、全ての賃貸契約が満了となるはずだった。それから撤去作業、及びその確認のための二か月の猶予を挟み、翌年3月から新たに商業施設として生まれ変わらせる工事が開始される予定であったのだ。
 そこで種々の契約を固める最中、改めて調べて見ると、オンギュレイト・ボウル敷地内に個人が所有する区画があると発覚したのである。
 驚くべきことであった。
 そのわずか1パースクの土地――わずか1パースクだったとしても、最も有名な廃墟の一角を占めるその重要な土地の不動産登記がされたのは、なんと30年前……『オンギュレイト・ボウル』が全て区の所有になる直前のことであった。そしてそれからの30年間は、区に無償で貸与されていることになっていたのである。
 何故、当時にそのようなことが可能で、何故、それが発覚もせず契約も認可されたのか? 全ては現在調査中である。が、関与したと思われる幾人かは所在の掴めない上、そのうちの一人は死亡、関与したことも現在の居場所も明確である二人は完全に正当な手続きをもってそれが結ばれたことを主張しているため、問題の解決は非常に難しい。
 その正当性を訴える二人のうち、一人は大規模な夢のデザイナーズアパルトメントの建設を企画立案することに協力し、後に撤退した貴族の中の末席にあった女男爵であった。現在は『称号貴族ペーパーノーブル』に落ちぶれ、特に何の権力もないというのに、齢117を数えながら快活にして交渉に来た者に対しては尊大、強気である。後ろ盾の存在を調査関係者の誰もが噂している。それがある限りは彼女が“当時”を語ることもないだろうと予測されている。
 そして、彼女と並んで正当性の片棒を担ぐもう一人が、ここ『グレイスペイア・タウン』の再開発を成功させ、『オンギュレイト・ボウル』でも主導的立場にあった例の公務員――第九区役所で伝説となっている男であった。彼こそが、現在、その問題の土地の所有者であった。
 25年前に退職し、退職直後は講演などを行っていたらしい元公務員が区との交渉の席でまくし立てた主張は、なるほど御大層なものではあった。確かに、当時から反王党派ではあったらしいから、プライベートにおける長年の困窮がさらにそれを過激に至らせ、よって彼が「もし現在が公民派の主導にあれば事を荒立てることもなく私の土地を喜んで譲渡したが、しかし現在の王党派全盛――否、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ心酔の社会には抵抗を示さねばならない」という主張に至ったのはある意味で筋が通るだろう。しかしその1坪が階級社会の打破、真の国民主権の獲得を目指す橋頭保になるはずもないのは彼も十分に理解しているはずだ。何しろ、第一回の交渉時から、彼の主張の背骨は金にあることが明白であった。逸話に語られる粘り強い交渉力も影を潜め、彼は己の最終目標を隠し切れずに議論の端々に“立退料”を匂わせるどころか、一度は明言すらしていたのである。
 ――それが、現在の第九区役所都市計画課の皆にどれほどの失望を与えたことだろう?
「……」
 そう、反王党派である。
 何度も繰り返されている彼との交渉において『ニトロ・ポルカト』の名が出たことをヴィタは知っていた。彼はその少年、王女を制す平民を誉めそやしていた。しかし、その本心は? 彼がその少年の父を交渉の場に呼んだこともヴィタは知っている。それは交渉に何の関係もないことと拒否された。しかし、それがニルグ・ポルカトに与える影響は?
 この問題は表沙汰にはなっていない。
 区からすれば不祥事である。
 元公務員も現在の己が過去の名誉を傷つけるとの自覚はあるらしい。
 だから今は未だ全てが水面下にある。
 だが、いよいよ事が暗礁に乗り上げたならば、個人で容易に情報を発信できる世の中である、彼がメディアを利用しようと考えることは想像に難くない。男は元伝説の公務員として現在の腐敗を訴えるだろう。正義を訴えるだろう。そして……それが世間に受け入れられるかどうかの判断を下せるような状態に、彼はない。
「……」
 しかし、そうなるとヴィタには一つ疑問が生じる。
「ここにはよく来られるのですか?」
 その問いかけは、実に何気なかった。彼女はギパを匙にすくい、小間切れになった胃と小腸を薄赤いスープと共に口に入れる。はらわたから出たコクと、ドライトマトの旨味、乾燥トウモロコシの甘みが力強いハーブの香りに引き立てられて彼女の舌に幸福を築く。
 その味が自然とヴィタの目元を緩ませる。
 それを見て、ニルグは彼女の本当の関心がどこにあるかなど露も疑わず、
「時々ね、時々」
 酒のグラスをそうするように、茶の入ったグラスを揺らして彼は物憂げに言う。
「ニトロもよく連れて、散歩なんかもね」
 さらなる有名人の話題が出て店内の聞き耳がより一層屹立する。ヴィタは主人に話してやるネタができたと思い、一方で個人的な興味を俄然膨張させていた。彼女は“ここ”とは“この店”の意味で用いた。なのにニルグはそれを“この町”と変換している。それは明らかに彼が彼の心の最も強く囚われている事柄に引かれてしまったからだ。
「そんなにもお気に入りなのですか?」
 さらりと、ヴィタは促す。
 ニルグは乾きかけたオニオンスライスをドレッシングに浸し、少し宙を見つめる。と、その目尻に皺が寄った。
「お気に入りというのかな。思い出というのかな」
「思い出」
「そう。僕はここを見て、素敵な街並みに感動して、王都に住もうと思ったんだ。ああ、僕もこんな風に街をつくりたいって」
 思わぬほど大きな思い出が掘り出された。ヴィタは歓喜に耳が――頭部脇に擬した猿孫人ヒューマンの耳ではなく、上部にある本物の耳、普段は髪の内に埋没させたイヌ科の耳がピクつくのを必死に抑えた。
 しかし……だとすれば、彼の――ニルグ・ポルカトの『しょんぼり』はいかほどのものだったろう? 想定はしていた。王都第九区役所都市計画課の彼の失望が、あの伝説にあることを。それは正しかったが、その意義も度合いも、ヴィタの想定よりずっと深いものであるらしい。
「ニルグ様は、それを立派に叶えているではありませんか」
 無頓着にエールを飲みながら、ヴィタは言う。
「それも素敵で、素晴らしいことだと存じます。何の不満もないでしょう」
「いや、不満なんてないよ。とんでもない!」
 思わぬ指摘を受けてニルグは慌てて、
「僕は果報者さ。本当に恵まれているよ。愛する妻がいて、立派な息子がいて、それだけでも十分なのに夢だったことまで叶ってる。僕は本当に運がいい」
 ヴィタはまた無頓着に――愚痴を聞くでもなく、世間話をするでもなく、ただ話の流れを澱ませぬ調子でエールを飲み、
「では?」
「ただちょっとね、
 ……思うことがあったんだ」
「そうなのですか」
「うん」
「思って、またどう思われたのでしょう」
「そうだねえ」
 ニルグはまた宙を見つめる。そして彼はふと炙られる肉の様子を見るおかみに目を止めたようだ。それから年季の入った天井を見る。清掃は行き届いているが、それでも落とし切れぬ染みがこの店の歴史を証言している。
「やっぱり、ここは素敵だった」
「はい」
「町ってさ、一人で作れるものじゃないよね。ここは店長とおかみさんが作ったんだ。この店がなければ街並みからも景色が一つ消えちゃってさ」
「そうですね、そう思います」
「僕はたぶん、ちょっと勘違いしてたんだ」
「そうなのですか?」
「僕はさ」
 ヴィタの促しの急所を突くようなタイミングに、ニルグの口がなめらかにすべる。
「ニトロには呆れられるんだけど、あんまりがっかりしたりすることがないんだ。だってこの世は素晴らしいものね?」
「そうですね」
 思わずヴィタは笑ってしまう。ニルグの瞳は晴れやかだ。
「だけど、さすがにがっかりしちゃってねえ」
 ヴィタは相槌を控えた。少し考え込むように押し黙ったニルグは、彼女の促しがないからこそ、先を言える。まるで独り言のように彼は続ける。
「だけど違ったんだ。がっかりすることなんてなかったんだよ。やっぱり素晴らしかった。ここは、この町は。ここでこうしてヴィタさんと偶然会うなんてこともあってさ」
「……そうですね」
「僕の憧れは、まだ憧れのままだった。そうさ、一人でつくれるものじゃないんだ」
「それは、とても素敵なお考えです」
 と、ヴィタはニルグを見つめて言った。その眼差しは熱を帯び、傍目には彼女が彼に心を寄せようとしているように見える。しかし、それを真正面から受けたニルグはそこでハッと我に返ったように口をつぐんだ。目が泳ぐ。明らかに動揺している。熱を帯びて肯定してくる彼女の眼差しを浴びて、ふいに、彼は己がしゃべり過ぎていることを悟ったのだ。そこで反射的に胸を張る。そうやって妙に威儀を正そうとするのは、危うく失態を犯しそうになった己を誤魔化そうという意図からくるものであろう。だが、それも傍目からは女の眼差しに応えようという男の態度に見えただろう。
 ヴィタは満足だった。
 ニルグの失意しょんぼりの理由は明白となり、この話を打ち切るための作為が予想外に面白い挙動をもたらしてくれた。
 さあ、仕上げである。
「流石はニトロ様のお父上です」
 すっかり感動しきった顔でヴィタは言う。
「我々には耳の痛いお言葉です。さようです、己一人の力で何事も成せると思ってはなりません。しかし常にそう思いがちであり、残念ながら、我々の中にはそう思い込んで傲慢になる者もままあるものです。さようです、ニルグ様、我々もまた常に省み続けねばなりません」
 自ら相槌を打つように所々で小さくうなずきながらそう言った彼女のセリフは、真摯で清廉な権力階級の一員といったものであった。数秒前には二人の間に不倫の匂いを嗅ぎ取ろうとした衆も、その真面目腐った麗人の声に冷や水を浴びせられてがっかりしてしまう。一方で普段『クレイジー・プリンセス』を献身的に補佐する女執事からその言葉を聞けたことに感動する者もいる。
 ヴィタは興が乗ったようにエールを飲んだ。勢いよくグラスを置いた時には残りはわずかであった。
「……」
 彼女はエールの残量を見つめ、くるりと振り返った。と、間近に控えていた店主とバチリと目が合う。そのマリンブルーに射止められたかのように、彼は震えた。
「エイデン・ピルスを」
「――あ。
 サイズは」
「“デシマ”」
「かしこまりました……」
「それからバガノイを」
「後もあるんだよ? 食いきれるんだろうね」
 ヴィタはすっと厨房に目を流す。これまでずっと熱心に火を管理しているようで、意識の半分以上はこちらに向け続けていたおかみがわざとらしい不機嫌さを額に刻んでいる。
 するとヴィタは残りのエールを飲み干し、ギパの入っていた深皿をカウンターの上段に置いた。いつの間にか深皿は綺麗に空っぽになっていた。
「とても美味しいです」
 おかみは焼き台からカウンターに寄ってきて深皿を見て、それからマリンブルーの瞳を見て、深皿を手にすると愉快そうに肩を揺らして戻っていった。皿を食洗器に放り込み、次の注文に取りかかる。
 店主が細く背の高いグラスを持ってきた。程よい厚さに白い泡で蓋をされた薄い山吹色の満ちた中には細かな泡が軽やかに昇っている。
 ヴィタはグラスを持つと、それを勢いよくごくごくと飲んだ。
 カウンターにおかみが皿を置く。細切りの野菜と、細く切られて揚げられた肉とが甘辛い調味液で和えられたもの。それを一口咀嚼し、ヴィタはまたビールを飲む。一連の動作はこれといって特別なものではないのに奇妙なほど洗練されている。それも何かマナーを型通りに固めたようなものではなく、ほどよく肩の力が抜けていて、
「相変わらず気持ちいいね、見ていて」
 ニルグの言葉は周囲を代弁していた。
「そうでしょうか」
「……僕も飲もうかな」
 その言葉に、ヴィタは機を得た。ずっと気になっていたのだ、
「ニルグ様は、お酒ではないのですね」
「ん?」
「落ち込んだり、嫌なことがあったり、そういう時にお酒をお飲みにならないのですね」
「ああ」
 ニルグは微笑んだ。
「お酒は楽しく飲むものだよ」
 ヴィタはニルグを見つめる。ニルグは言葉が足りないと思ったように目を上向け、また笑む。
「憂さを晴らすために飲むのは悪いことじゃないよ? お酒で楽しい気分になって気分を変えるのはね。けど、落ち込むために飲んだら神様に怒られる」
「神様ですか?」
「そう、お酒は神様が贈ってくれたものなんだ。それを自分を傷つけるために使うのは、神様の望むところじゃないよ」
 ヴィタは職業上、国教会の教えや種々の説話を記憶している。確かに酒を人類にもたらしたのは神である。が、そこにニルグの言う『神様の望むところじゃない』というものは見当たらない。それこそ、きっと彼独自の意見だろう。しかしおもしろいのは――
「落ち込むため、ですか」
「うん。だけど、そうなりそうな時は美味しいものを食べてエネルギーを蓄えるのが一番だと僕は思ってるんだ。あんまりやけ食いしてたら太っちゃうだけだから、そこは気をつけないといけないけどね」
 なるほど、それは長くポルカト家の健康を食の面から管理していた人の意見に相応しい。ヴィタは楽しい気分でビールを飲む。甘辛い肴がまたビールを誘う。
「……うん、僕も飲もう」
 早速二杯目を飲み干そうというヴィタを眺めて、改めてニルグは言った。気がつけば、そう思ったのは彼だけではなかったらしい、店主が忙しく客らに次々と酒を運んでいる。
「飲まれますか」
 ヴィタが聞くと、ニルグはうなずいた。うなずいて少し考えて、
「おかみさん、持ち込みは良かったよね?」
「持ち込み料2500リェンと、わたしらにもさかずきふるまうのが決まりだ」
「いいワインがあるんだ」
 と、ニルグはヴィタに目配せして携帯モバイルを取り出す。
「シロゾに合うよ」
 そして彼は電話をかける。にわかに盛り上がり出した周囲を気にしてか、あるいは逆に全く無頓着にそうしてか、彼は通話オンリーで相手に言う。
「ああ、ニトロ? ちょっと頼みがあるんだけど――」
 にわかにヴィタは胸が躍るのを感じ、彼女もまた、まるでガンベルトから銃を取り出すように携帯を手に取った。

 およそ一時間後、その店にニトロはやってきた。
 彼はその店にヴィタのいるのを知っていた。
 大衆は口さがなく、また人の口に戸は立てられぬ。ネットに店の客が流した情報を芍薬が拾い損ねるはずもなく、彼はここに彼女のいるのを知っていた。
 しかし、それでも少年はやってきた。
 頼まれた通り母を連れ、指定されたワインを手に提げて。
 父の頼みを断り、母にワインを持っていってもらうよう言うのは簡単だった。が、何やら父が期待に満ちて頼んだワインを運ぶ際、母がうっかり足をもつれさせることなど容易に想像できる。こういう時の両親の失態ぶりは神がかっているものだ。
 過去に何度も来たことのある小川沿いの風雅な道。
 今宵は適度な夜気に満ちて街灯の光も澄んでいる。
 懐古趣味に興じた街並みでありながら、どこか幻想的なほど現代的なのは、きっとここに生きている人々の暮らしがリアルタイムで反映されているからだろう。
 その中で、今夜一際衆目を集めている店の前には人だかりがあった。思えばこれだけ集まった内の一人として店に入っていこうとしないのは不思議な群集心理である。抜け駆けを互いに牽制しあって膠着状態にあり、またおいそれと野次馬根性丸出しで入店することもはばかられるのだろうか。
 その人だかりの間を縫ってニトロが進むのを止める者はなかった。中には彼が『ニトロ・ポルカト』であると気づいたものもあるが、ほとんどの者が彼を見た瞬間にただぎょっとして道を開けてしまう。
 青銅色のドアを正面にして、ニトロはふと足を止めた。
 その背中によそ見をしていた母がぶつかる。
「わ」
 驚いて彼女は一歩引き、
「ごめんね、……あら」
 もしかしたら、これもこの店に藍銀色の髪の麗人のいると知りながら、ファンや野次馬が入店できない理由かもしれない。
 ドアの脇にはだらしなく座り込んで眠る男がある。
 彼がどうしてそこで眠っているのか、この場にいる者のほとんどは知っているだろう。そう、彼は幸運にも麗人の隣の席に座っていた。興奮してしまったのだろう、それとも単に酒癖の悪かったのか、彼は杯を進めるうちに段々とあからさまに麗人にモーションをかけ始めた。というか麗人の肩に手を置いたり、手を握ってみたりと一方的なスキンシップを図った。
 すなわち、彼は反則を犯した。
 一発退場である。
 彼は店主と常連客のタッグにつまみ出された。
 目撃者によると彼はまた店に入ろうとして拒絶され、それからドアの前をしばらくうろついていたらしいが、そのうちにあの麗人の出待ちをしようというように座り込み、するとすぐに眠ってしまったという。
 電脳世界に恥を半永久的に刻印されたこともまだ知らぬだろうに、夢の中の彼は眉をひそめて苦しそうだ。それが今では魔除けの像的な役割を果たしているとしたら、それはそれで少し面白い。
「……」
 面白い――そう思ってしまったニトロは、また顔をしかめた。ちょうどその時彼に声をかけようとした少女がぎょっとして後ずさりする。
「ニトロ?」
 と、そこに声をかけたのは母――リセだ。
「ああ、ごめん」
 ニトロはドアに手をかけ、押し開いた。
 店に入ってきた人間へ、店内の人間の全てが振り返る。そしてほぼ全ての人間がぎょっとした。一様に息を飲み、一瞬前まで賑やかだった店を静寂が襲った。
 にこやかな中年女性を連れてきたその少年は、ひどく苦い顔をしていた。
 今まさに苦み成分を凝縮した丸薬を噛み潰したかのように、ひどく凄惨な顔をしていた。
 想定外の登場をした有名人の様子に固唾を飲む客らの中で、果たして藍銀色の髪の麗人は極上の笑顔である。それを見た瞬間、ニトロはハッと我に返ったように表情筋の力を抜いた。彼女を早々に喜ばせてしまった腹立たしさにむしろ平静を取り戻し、
「えーっと?」
 てっきりヴィタと食事を楽しんでいると思っていた父の姿はカウンターにない。すぐに賑わいを取り戻し、有名人の登場を歓迎する声の上がる店内をぐると見回せば、いた。父はテーブル席で見知らぬ誰かと話していた。相手は三人、いずれもかなりの酔っ払いである。父は全くのシラフだが、分厚い肉を齧りながら陽気にヘベレケ達と盛り上がっている。――あれはちょっとした才能だと息子は思う。
 母はまっすぐ父の元に向かっていった。陽気な父が手を振って、のん気な母が手を振り返す。ヘベレケ三人組がニトロ・ポルカトの母を酒臭い息で出迎える。
 ヴィタがちょいちょいと手招きしていた。
 何やら興奮顔でこちらに小走りで向かってきた初老の男性にニトロは挨拶し「頼まれたものです」とワインを渡す。ウェイター姿の彼はそれを何やら下賜品のように受け取るのでニトロは恐縮してしまったが、とかく役目を終えたからには帰ろうとして、
「……」
 ヴィタは手招きし続けている。まるで獲物を狙うネコのような雰囲気で、ちょいちょいと、そうしてしつこく手招きする藍銀色の髪の麗人の瞳を振り切れず、ニトロはカウンターに向かった。
「こんばんは、ニトロ様」
「やあ、こんばんは」
 ヴィタが右隣の空席を目で示してくる。
 ニトロはあからさまに嫌そうな顔をするが、ヴィタは微笑む。仕方なく、彼は席に着いた。
「こりゃようこそ、ニトロくん!」
 と言ったのはおかみである。
 彼女は前掛けで手を拭い、カウンター越しに右手を差し出してきた。その勢いにニトロは内心驚きつつ、半ば反射的にその手を握った。おかみは皺の寄った目尻をそばめ、すぐに握手を終えると、
「是非うちの料理を食べてってくれませな、ニトロくん、腕によりをかけるよ」
「――あ、はい、頂きます」
 それを聞いたおかみは大きく目を開いてその場に留まる。どうやら注文を聞きたいらしい。
 ニトロはようやく気を取り直し、ちらとヴィタを見る。彼女の前には五つの皿があり、自分が何を期待されているのか賢明に悟った彼女は力強く言う。
「まずはギパを」
 ニトロはうなずき、
「じゃあギパを」
「かしこまりました」
 おかみは馬鹿丁寧に――どこか貴族の屋敷の召使のように――礼をするや踵を返した。そしてすぐに南大陸北部の郷土料理を持ってくる。
 ニトロは差し出された深皿を受け取った。
 おかみは期待に満ちている。
 彼は気まずい思いを感じながらも――悲しいことにこういう状況にも慣れてきた――ギパを匙で口に運んだ。
 その瞬間、彼の表情が変わった。
 そして、その顔を見て、おかみはもはや心残りはないとばかりに脱力し、そのままどうにか再びどこか貴族の屋敷の召使のように礼をする。それを店主が不満気に見ているのをヴィタは見逃さず、思わず口元が緩んだ。
 焼き場に戻るおかみの広い背中から隣のすらりとした麗人に目を移したニトロは、彼女の微笑に気がついて眉をひそめた。
「……もちろん嫌なことを考えてるよね」
「ええ、もちろん」
 ニトロはあからさまにため息をつき、ギパを口に運び、
「『シロゾ』って焼き方のが美味しいみたいだけど?」
「私のものはあと一時間ほどかかります。もちろん、お分けしますよ」
「てことは、あと一時間はここにいろって?」
「はい」
 ニトロは苦笑し、ヴィタの手元を見た。彼女はそこにあったメニューを彼に手渡す。
「ヴィタちゃん、こんばんはッ」
 と、そこに何も気苦労のなさそうな調子で声をかけてきた相手はリセである。ヴィタは振り返り、これまでになく柔らかな顔で言った。
「こんばんは、先日のミスティはいかがですか?」
「やっぱり根腐れ。上は生きてたから胴切りしてみたけど、うまく根付けられるかは運次第かな」
「その点弱いですからね。ミスティは」
「頑張ってくれることをお祈りするしかないかなあ」
「……なんのこと?」
 気になってニトロが訪ねると、区役所の誰かがちょっとした憩いにと持ってきたミスティ属のサボテンが、その人の机の上でぐったりしていたらしい。そこで母が様子を見てほしいと頼まれた。ヴィタはそれを母とのネットコミュニティで知っていた。園芸友達同士はさらにバラの新品種について情報を交換し合って盛り上がりつつある。
 店主が予備のスツールを持ってきた。
 ニトロは右に寄り、ヴィタは左に寄って空間を作る。そこに新たな椅子スツールと共にリセが入り込み、するとニルグがやってきた。
「助かったよ」
 ニルグは先ほど店の前で酔い潰れていた男の座っていたらしい空席――ヴィタの左隣に座った。ニトロは軽く身を乗り出し、母とヴィタ越しに父に言う。
「あまり飲み過ぎないようにね」
「大丈夫さ、父さんお酒に強くない」
「強くなくても飲み過ぎるのは山ほどいるよ」
「それにニトロもいるから大丈夫」
「息子に監督されるより父としてはんを示そうって気はないのかな」
「楽しいよ?」
「いつも楽しそうだよ」
 ニルグは笑う。リセも笑う。息子は身を引き、ため息の代わりにギパを食べる。
 ヴィタの微笑むところに店主がワイングラスを持ってきた。四脚のグラスの一つはニトロの前に置かれる。
「『酔い止め』は飲んでいません」
 そう言って、ニトロは丁重に断った。店主はすぐにうなずき、そのグラスを下げると、代わってワインを持ってくる。とくとくと、三脚のワイングラスに濃い赤が注がれる。
「それじゃあおかみさん。店長も」
 と、ニルグがワイングラスを持ち上げる。見れば厨房のおかみも、ワインを注いでいた店主もいつの間にかグラスを持っていた。
「乾杯」
 ニルグの音頭で皆のグラスが掲げられ、そして、それぞれが木と果実の豊潤な香りを口に含む。
「ああ、こりゃいいね、うちのシロゾにゃ最高だよ」
 上機嫌におかみが言った。その背後にはじくじくと油を落とす肉の並ぶ焼き場があり、そこから漂う香ばしい匂いが食欲を掻き立ててくる。ニトロはその肉料理と、料理人が保証するワインとのマリアージュを試してみたい誘惑にかられた。このギパの味を思えばそれはきっと極上であるはずだ。
 ――が、彼はすぐに気を取り直し、カウンター席の端っこでミネラルウォーターを注文する。
 妻と友人が趣味の話で早速盛り上がるのを父が嬉しそうに眺めているのを、ニトロはどこか距離を置いて横から静かに眺めていた。すぐに運ばれてきた南大陸の雪解け水がひんやりと喉に澄み渡る。
「……」
 ここまでの道すがら、ニトロは母に最近の父に何か落ち込むことのあるようだと聞いていた。
 それに彼は少なからず驚いていた。
 父が落ち込むことなど、物心ついた頃からこれまでの記憶に数えるほどもない。無論、それは父が子にそのような姿を見せていないだけ、家族であっても知らぬことばかり――ということもあって当然だが、一方で我が父に限ってそれはないと思うし、互いに何でも打ち明けあう妻でさえ「珍しい」と証言することである。
 今、母に話を振られた父が笑って応える。思い出話に花が咲く。
 そこには何の屈託もない。
 カウンターの端っこで、息子は安心する。
「バガノイを」
 ニトロが注文すると、リセを挟んだ先でヴィタがネコのように目を細めた。
「なに?」
「いいえ」
 そうはぐらかされると気になるものであるが、ニトロは追及はやめにした。どうせこの後、きっと疲れる。ここで気力を削られるような状況を招きかねないことはしない方がいい――と、思えばこそ、
 ブルル……
 ニトロのポケットで携帯モバイルが震えた。それを取らずとも彼は知っている、そのバイブレーションは芍薬の予言成就のしるしなのだ。
 バン!
 瞬間、ドアが激しく打ち開かれた。
 同時に悲鳴のような怒号のような、とにかく大きな歓声が店内に流れ込んできた。
 ニトロ以外の全ての者の目がそちらに向けられる。
「騒がしいのが来やがった」
 つぶやき、一息遅れてニトロもそれを見る。
 美しい貴婦人がいた。
 ドアを押し開いた姿のままに、つい今しがたまで夜会に出ていましたとばかりのイブニングドレス――ただ少し時代遅れなデザインに身を包み、彼女は言った。
「どうも! 呼ばれてきましたティディアです!」
「呼んでねえ! 帰れ!」
 誰かが驚愕の声を上げようとした。また誰かも仰天の声を上げようとした。だが誰よりも早く、全てを圧して怒鳴ったのはニトロである。それはあまりにも絶妙なタイミングで差し込まれ、故にそれは滑稽な響きを生んだ。突然現れたこのくにの王女――ここにその執事がいるからには、彼女の現れることは何ら不可思議なことではない。しかしそれでもここに王女の現れるのは非現実的であり、しかも彼女が背後に同じようなドレス姿の貴婦人を数人侍らせて、そこに巻き込まれたようにただ一人同行してきた男性は夜会服の着こなしも乱れてヘベレケに酔っぱらっているらしい……そんな光景を現実だと速やかに認識するのはとても難しいことであった。なのに、闖入者とツッコミの共鳴に生じた滑稽味が、それを予期していなかった全ての者に、これは現実なのだとすんなりと了解させてしまった。
 故にこの場において驚愕は静まり、仰天は伏せ、代わって感激がせり上がる。
 地の底から沸き上がってくるような吐息がやがて声に変り、それは歓声となって爆発する。
 店外と店内の声が合わさって轟音となった。混乱はない。あるいは王女に駆け寄ろうとする者がいくらもあったろうが、しかしニトロのツッコミが既に皆を観客にしてしまっていた。観客はそのに釘づけだ。けして演者になることはない。その効果に気づいているのは面白好きの二人である。ヴィタは惚れ惚れとし、ティディアはゾクゾクと身を震わせて一歩踏み出す。
 その王女の一歩が、歓声に一瞬の間を生んだ。
「おかみさま?」
 そしてその瞬間、彼女の華やかな声が店内に響いた。指名された女性は厨房で身を固めている。双眸にどこか敵対的な光があるのは、そうすることで身を守ろうとしている老いた動物のようだ。一方でティディアはどこまでも柔らかに言う。
「どうも初めまして」
 スカートを軽く持ち上げ、優雅に、非の打ちどころのない辞儀カーテシーをする。
「うちの食いしん坊が是非姫様にも食べて欲しいと言うから、お姫様も来てしまいました。私にも腕によりをかけて下さいますか?」
 すると魔法のように、強張っていたおかみの体から力が抜けた。王女の声が全身に染み渡ることで毒が消えたのか、あるいはいかに防ごうと思っても光栄に浴することに抵抗できなかったのか、もしかしたら貴婦人の辞儀に見惚れたのかもしれない。頬にワインからくるものとは違う赤が差す。
「ああ、ああ、もちろんですよ」
「本当はシロゾを頼みたいところですけれど、お時間がないでしょう? 良いところのステーキをいただきたいのです」
「ああ、もちろんですよ!」
 そうして店内に進みながらティディアは言う。直後に夜会服姿の中年男性が千鳥足で続き、それを囲むようにして二十歳前後の女性達が続く。彼女らは皆々享楽的な眼差しで見慣れぬ店内をきょろきょろと見回していた。ドアが閉まると外の歓声が途絶え、外界と隔絶された店内には何か奇妙な空気が満ちる。それは“特別感”といったものかもしれない。そうだ、今、この店には妖精か何かが迷い込んできたのだ。これから一体何が起こるのだろう?
「貴方が店主様ですね」
 その口調はどういうつもりだ? ニトロが目で問うのを瞳に受けながら、しかしティディアはその黒曜石の輝きを初老の男性に移し、
「ごめんなさい、うるさくして。でも、これからまた賑やかにしても良いかしら。迷惑料というのも野暮だけど、これからはここを私の貸し切りにして下さる? あら、もちろんお客様方を追い出そうなどとは申しません。それよりもここにいる方々のお代も全て私が持たせて頂こうと思うのですけれど、よろしいかしら」
 一瞬の沈黙。
 そして理解が及んで歓声が上がる。
 拍手も起こり、それを受けてティディアはうなずく。そのうなずきにやがて店内が静まっていく。
「どうやら皆様のお許しは頂けたようですけれど……」
 そこでティディアはじっと初老の男を見つめた。心持ち――ほんのわずかに上目遣いに。
 男に断ることなどできたろうか? いや、そもそも男に断るつもりもなかっただろう!
「どうぞどうぞ姫様、もちろんですとも! ご来店下さりまことに光栄でございます。それ以上に何を言えばよろしいのでしょう? 三ツ星には到底叶わぬ店構えですが、酒と料理は負けぬと自負しております。どうぞ存分にお楽しみください。お楽しみいただければわたくし共、子々孫々の栄誉にしたく存じます」
「ありがとう。そうさせていただきますわ」
 ティディアは背後の女達に顎をしゃくるようにして合図する。と、女達は黄色い声を上げて店内に散っていった。気の赴くままに、あるいは酔客に乞われて空いた席に着く。次々に酒を頼む声が上がり、店主が途端に忙しく動き出す。一人では捌き切れぬと踏んだらしい常連の一人が手伝いを買って出た。ただそこには親切心だけが働いているわけではないらしい。
「ティディア様はいかがなさいますか?」
 髭を蓄えた四十男が目元を垂らして問いかける。カウンター席に迫りつつあったティディアは軽く振り返り、
「エイデン・ピルスを」
「は。――それで、サイズは」
「あら、たくさん飲ませたいの?」
 流し目気味に問われ、男は照れたようにうつむいた。しかしその目はけして姫君から離れない。
「“デシマ”で」
 そう言って、ティディアはさらに微笑みかける。
「飲みたい気分なの」
「は! ただいますぐに!」
 踵を返した常連を迎えたのは役目を盗られた店主の恨みがましい眼である。常連は彼に笑いかけながらビールサーバーに向かう。店主は次こそはと決意した目をティディアに向けるが、彼女が意中の席に着こうとしているのに気づいて慌ててもう一脚、予備のスツールを運んできた。
「ありがとう」
 お姫様に礼を言われた店主は天にも昇りそうな様子だ。スツールを手に入れた王女はそれをカウンターの右端にいるニトロの左隣に押し込もうとする。変に気の利くリセが椅子の位置を左にずらし、追ってヴィタもずれてニルグもずれる。するとニルグとその左隣の女性客の幅が詰まってしまって、すると彼女は席を譲るように立ち上がった。ニルグが礼を言うと彼女は笑顔を返し、そのままその場で立ったままグラスを傾ける。それはただ飲むふりをしているだけで、その目と耳をこの場から離さないための演技であった。
 ティディアの元に、ビールが届いた。
 店内が静まり返る。
 自分の役目を理解し切っている彼女はグラスを手に、軽く半身で振り返ると、
「乾杯」
 一斉に、「乾杯」と「万歳」の混じる声が店を揺らした。
 王女がグラスをあおる。
 ごくごくと一気に飲み干してしまう。
 それに歓声が上がり、その勢いを駆って改めて宴会が始まった。酔客と貴婦人が言葉を交わす。どちらも物珍しそうに相手を眺めながら。ただ一人、夜会服のくたびれた紳士はどこに留まりたいわけでもなさそうに、しかしどこかに行くのは嫌だというようにテーブルの間を漂っている。
「奇遇ねー、まさかニトロがいるなんて思わなかった」
 今度こそはと駆け寄ってきた店主にフィント・パウドを注文し、ティディアはニトロへ振り返る。
 ニトロは渋面の口元を苦々しく歪めて言う。
「“一気”は本当に良くないんだな、もう頭がいかれてやがる」
「やー、まだ全然酔ってないわよぅ」
「酔っ払いはみんなそう言うんだ」
「酔いに任せて大胆になってもいい?」
「お前が大胆じゃなかった時が思い出せないんだが」
「だってそれは通常運転」
「道交法で捕まっちまえ。つか何だよさっきの口調はムズ痒い」
 ふふとティディアは笑って顔を左側に向ける。
「ご挨拶が遅くなってごめんなさい、お父様、お母様」
 ニトロは頬杖をついて料理をつつく。父と母はティディアと仲良く話し始める。それがまた気に食わなくて不貞腐れる。その様子をツマミにしてヴィタはワインを飲む。と、ティディアがそのワインに気を留めた。
「それは?」
「うちの持ち込みだよ」
 ニルグが言う。
 王女は執事に非難の目を向けた。
「先に言うべきじゃない?」
「失礼いたしました」
「もー」
 ティディアはニトロに振り返り、
「私にも頂戴?」
「なんで俺に言う?」
「だって持ち込みでしょ?」
「グラスを頼んで店主さんに――」
 そこに耳聡く店主がグラスを持ってやってきた。それを王女の前に恭しく置き、そのまま去ってしまう。どうやら気を回してくれたらしい。ニトロには迷惑千万、ティディアには上々である。彼女の満足気な笑みに店主は喜色満面だ。そういえば本来執事の仕事は酒器酒類の取り扱いがメインにあったと聞く。ニトロは女執事を見た。麗人は微笑んでいる。職務放棄の笑みである。彼は頬を引きつらせ、ヴィタから母へ、母から父へと目を移したが、揃いも揃って王女様にワインをお注ぎしようという気持ちは欠片もないらしい。少年は嫌々ながらボトルを持ち上げ、嫌々ながら、酌をした。
「ありがとう」
 ティディアはどこまでも満足気である。そして色も香りも見ることもなく無造作にワインを一口含み、ゆっくりと味わうと、感想を待っているニルグに振り返るや正直な意見を述べ始めた。一つ二つの欠点はあるようだが、それもそのワインの産地の高級品に比べてのこと。総じては高評価であった。ニルグは喜んでいたが、それは高評価に対するというよりティディアがちゃんと味わってちゃんと自分の感想を言ってくれたことが嬉しいらしい。その夫の顔に、隣では妻が喜んでいる。息子は渋面をどうしたものかとさらに渋面となっている。それがヴィタにはたまらない。
 店主が王女のために新たなビールを運んできた。
 そのグラスが置かれるや否や、
「?」
 ニトロの困惑することに、ティディアは満杯のビールグラスを手に、ワイングラスに赤を残したまま席を立った。そしてそのまま最寄りのテーブル席に“挨拶”に向かう。そのテーブルから、感動そのものが音になってこぼれ出る。
 ティディアは人懐っこい笑顔を浮かべて、酌婦よろしく同席している貴婦人に鼻の下を伸ばしっぱなしの酔っ払い達に声をかけていった。その都度、客らはその一時だけは完全に酔いの醒めたように白い顔をして王女の言葉を謹聴していた。そして王女が去るとその美しさにまた顔を蕩けさせるのだ。その様子に、同じテーブルに席を占める貴婦人が――王女の連れてきた若い貴族の女達は一様に不満を述べるのだが、するとそれに焦った男は立場を取り繕うために女に酒やら食事やら、とかく何かをふるまおうとする。だが、貴族の女らはそもそも王女に――蠱惑の美女に張り合おうという気はないらしい。同じテーブルに焦る男がいないのなら結局は王女の美貌について同意を示し、直前までの不満が嘘のように笑顔でおしゃべりを再開する。中には特に仲良くなったらしい女性客と自撮り写真を撮る者もいた。つまりとかく貴婦人達は楽しく遊んでいるのである。中には必死に口説かれている者もあり、その困ったような女の笑みはむしろ至福というものであろう。そしてニトロはその口元に、男に口説かせるだけ口説かせて、満足したら容易に席を移る未来を見る。その脇をふらふらと乱れた夜会服の紳士が千鳥足でさまよっていく。
 それからの店内はおかしな展開を見せ始めた。
 ティディアは一所ひとところに留まらず、あるテーブルを盛り上げると次のテーブルに移り、あるいは盛り上げたテーブルに隣のテーブルの客らを合流させていく。
 いつしかカウンター席にいるのはニトロとヴィタだけとなっていた。
 さっきトイレに行った母は貴婦人の大きな花のコサージュに目に止め、そのままそのテーブルに留まり、そこにやってきたお姫様の笑い話に酔客らと一緒に拍手喝采である。どうやら母もほどよく酔っぱらっているらしい。
 ティディアは時々カウンターに戻ってくると、席の確保をするように、いつまでもそこに置き放しているワインを少しずつ減らしていた。それは時間の経過による味の変化を楽しんでいるようにも思えるが、戻ってくるたびにこちらにただ微笑みかけて、それこそを目的としているかのように去っていく。
 父はというと、今は一人、盛り上がる宴会の辺縁にぽっかり空いたテーブルに座っていた。食べかけの料理の残るテーブルに、しかし飲みかけの酒は残っていない。先ほどまでそこに座していた者らはそれぞれの器を手にしてティディアのテーブルを囲んでいる。そのテーブルには相変わらず母もいて、父はその賑やかな光景を、何か昔話の挿絵を眺めるように見つめている。
 ――その姿に何か引かれるものがあったのだろうか? ずっと店内をさまよっていたあの酔いくたびれた紳士が父一人のテーブルに辿り着くと、急に泣き崩れるように腰を下ろした。父の目は自然とそちらに向けられていた。
 店主は次々止まぬ酒の注文に対処して大わらわである。
 おかみは満腹のはずなのに食欲の増した客らの注文に大わらわだ。
 三十分ほど前に店に駆け込んできた店主とおかみの娘であるらしい中年女性が折角のお姫様と口を聞くチャンスを棒に振りそうな状況にやきもきしながら洗い場で忙殺されている。食洗器はフル稼働。だがグラスは常に不足している。
「……」
 父がそこを眺めていたように、カウンター席から宴の様子を見つめ続けていたニトロもまた、何か物語の一場面を眺めているかのような気分となっていた。
 十数分前までは、宴会の様子はもっと混沌としていたと思う。
 テーブルごとに盛り上がり、テーブルごとに話題が広がり、テーブルごとに笑い声が上がっていた。
 しかし、今や宴席は一体となっている。
 その中心は、母の座るあのテーブル。
 宴客らは椅子を持ち寄るなり、あるいは立ったままそこを囲み、無作法にもそのテーブルの上に直接腰掛けて大胆に足を組む女の話に耳を傾けている。
 女とは無論、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 男も女も、平民も貴族も、皆々彼女の語りに引き込まれていた。
「それは面白過ぎるでしょう? でしたら放っておく手はないではありません!?」
 ここに来てからずっと続けている優雅な口調に蓮っ葉な声音を含め、社交界のゴシップを語るお姫様。確か貴婦人の一人が何か恋の噂を始めたのがキッカケだった。しかし話題はすぐにそれ、二人目の貴婦人が話し始めたのは恋というよりただの猥談。次いでリクエストを受けてお姫様が始めたのが、登場人物の名を伏せているとはいえ明らかに四年ほど前に『クレイジー・プリンセス』も関わる三角関係として噂されたゴシップ、その真相であった。
 話し始めは皆、それは宮廷恋愛の一つだと思っていたらしいが、実際まさか当人からの暴露話だと悟ると俄然息をひそめて姫君の語りに食い入った。
 その内容はまさしく“蠱惑の少女”に手玉に取られる間抜けな青年と好色な中年を愚弄する滑稽話。
 漏れ聞こえる物言いにニトロは眉をひそめることもしばしばであるが、聴衆にそれを非難する向きが欠片もないのは語り手の口調のせいか、それを含めた話術の成せる業だろうし、加えてこのネタを許容する空気を語り手が巧く醸成し、聴衆がそれに酔い痴れているからでもあるだろう。それとも……これが一種古典的な笑い話であることも理由なのか? 語り手自身、己が悪女だとあけっぴろげにする語り口も実に開放的である。
 ――
 こうして見ると、なんだかこの店が、本当に南大陸北部の牛飼いや羊飼い達の集まる酒場に思えてくる。そこで開かれているのは着飾った町娘たちを集めたパーティー。下世話で、だけど元気で、参加者の皆がひたすら楽しめる最高の宴。
「さすればB氏は言うわけです――」
 好色な中年の口説き文句を中断し、町娘のリーダー的地方貴族の令嬢よろしくティディアは足を組み替えジョッキを傾ける。その豪快な飲みっぷりに、聴衆は次の文句を待たされ焦らされるのすら心地良さそうに喝采する。
「『これから立派にお国を治められるであろう貴女様は、しかしながらその貞淑さに反し何度となく大きな誘惑に遭われるでしょう。それは類稀な女王となられる貴女様には大変な障害となるやもしれませぬ。しかしご安心召されよ、わたくしのご教授差し上げるものを味わえば、もはやそれ以上の満足はないと必ずや知ることができるのです。E夫人をご存じでしょう? 社交界でも指折りの浮気娘を。そうであった彼女を。さよう、彼女の浮気癖が治ったのは、わたくしの『治療』のおかげなのですぞ?』」
 言葉だけではない、口調だけではない、聴衆は語り手の顔に――王史上最も美しいと言われる彼女の顔に、あの男爵の優越感と征服の傲りに膨れた性欲を見る。
 あわや、うら若き王女は押し倒されそうだ。
 そこに乱入してきたのは恋敵のA氏である。
 修羅場に聴衆は身を震わせて、しかしどうにも抑えられぬ笑みを浮かべて聞き惚れる。
 ニトロは、そこでとうとう首を傾げた。
「どうされました?」
 ヴィタが間を置かずに問うてくる。まるで、その反応を待っていたかのように。
「いや……」
 このまま応えると彼女らの思い通りになりそうだが――
「……こんな話をしに来たの? あいつは」
「はい」
 自作自演のメロドラマ、その愁嘆場を再現する女優から、ニトロは隣の女に目を移す。
 マリンブルーは輝いていた。
 ニトロは爆笑をさらう姫君に視線を戻し、半眼になるや吐き捨てる。
「クソ女」
 口向きはティディアに、しかしそれが自分に向けられたものであるとヴィタは無論悟っていた。その上で、彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。その通り、私は平気で人を弄するクソ女なのです。
 その気配にニトロは肩をわずかに強張らせ、
「てことは、やっぱり父さんとは計画通りに奇遇だったのかな」
「幸運とは思わぬところに落ちているものだと存じます」
「――なるほど? だとしたらアドリブ上手にも程があるんじゃないかな」
「そうでしょうか。だとすれば、ニトロ様はいつもそれを見事に捌いてくださいますね」
「そいつぁどの口が言うって婉曲的にツッコまれているのか、それとも遠回しにお誉めいただいているのか、どっちだろうね」
 その問いかけにヴィタは堪らぬように微笑むと、南大陸のエールを飲み切った。確かそれで7デシマ……3リットルを軽く超えている。その頬はほのかに赤らんでいるが、それが酔いによるものなのかどうかは不明であった。ただ、妙な色気があるのは否めない。
 ニトロはため息をつき、ふいに、彼女の前の皿から大きな肉を一切れ奪い去る。
 確かに「分ける」とは言っていたとはいえ、本人の承認の下でなければそれは盗難である。普段ならこのような行為を怪力執事は許さぬだろう。しかしその“サーロインのシロゾ焼き”の窃盗を、彼女は満足気に黙認した。何故ならば、半ば憤懣任せに肉にかぶりついた少年のその表情――王女のゴシップトークに夢中になっているおかみが見事に焼き上げた肉の旨さに、ニトロは感動した。その感動が、この場から去りたいのに去れないフラストレーションを何とか抑えてくれる。ヴィタは満足気に微笑んでいる。
 母は少し酔い潰れ気味で、今はティディアのテーブルを離れ、ゴシップトークに花が咲く輪の外でぼんやりとしていた。おそらくもう話はよく耳に入っていないだろうが、その場の雰囲気が楽しいようでずっとにこにこと笑っている。
 母の隣には父がいた。
 父は妻の様子に気を遣いながら、一方で夜会服姿の紳士の話をじっと聞いていた。この陽気な中でただ独り、時折ポロポロと涙を流し、時折落ち着かぬように笑い、グラスを片手にずっと落ち込み続けている男の話を父は穏やかに聞き続けていた。初めは喉に詰まったものを吐き出そうとして吐き出せない様子で、言葉もブツ切れに意味のつながらない会話を垂れ流しているようだった彼も、今は訥々とつとつと話し続けている。その内容をニトロは知れない。その会話を聞くことは、ゴシップトークの賑わいに遮られ、己の耳には適わない。
 だが、ニトロは紳士の目に少しばかり輝きが戻ってきているように思えてならなかった。そしてそれは苦しみを吐き出せた安堵というよりも、感動や驚きに近いもののように思えた。あの紳士は時折、そうだ、何かを発見して驚いているかのように父を見つめることがある。
 ふと、ニトロの脳裏に芽生えるものがあった。
「もしかして、あの二人を会わせたかった?」
 ヴィタは小さく首を振る。
「会わせたかった、ということはありません」
 ニトロは氷の入ったミルクを飲む。
「会わせたかったわけじゃないけど……結果オーライ?」
 ヴィタは思わず小さく吹き出した。
 ニトロは彼女に目をやった。その目を真っ直ぐ見返して、女執事は少しばかり背を伸ばす。そして美しい双眸を細め、
「この世界は素晴らしいのですよ、ニトロ様」
 そうして彼女の浮かべたその微笑みを、
「――」
 ニトロは見つめた。いや、思わず、見惚れてしまった。
「ちょっとハニー! だ・め・よ? 浮気はだめよーぅ?」
 突如、酔宴の中心からツッコミが飛んできた。
 しかしそのツッコミは不当である。
 カッとニトロの頬が紅潮する。
「ああ? さっきから黙ってりゃ下世話なことを放言してやがるお前がどの口で言ってやがんだ?」
 ニトロのその喧嘩腰の口調は、しかし彼の意図せぬ効果をもたらした。そう、彼女の昔の話を聞いていた恋人がとうとう我慢できずに怒り出したのだ、と。それを囃し立てるように口笛や手拍子が鳴る。
「つうか酔っ払いども! あんたらもお姫様がンな話をするのを少しはどうかと思えよ大人だろ!?」
 少年のツッコミに場が盛り上がる。ティディアはいやらしくにんまりと、
「大人だから大人の話をしているんじゃなあい?」
「黙れ阿呆! そしたら何だ? 大人っつうのは恥知らずの別の名か!?」
「言うにぇショーねん!」
 誰かが呂律の回らぬ舌で囃し立てる。それを誰かが後押しする。
 やがて酔っ払いは手に負えないとニトロが思い知るのは一分後のことであり、それに便乗して恥知らずな行為に出ようとした『恋人』を抱き止め即座にツームストーンパイルドライバーを決めるのは三分後のことである。
 その時、脳天と床板が破滅的なキスをする裏で、ニトロの父と夜会服の紳士が穏やかに握手しているのを眺めるヴィタは涼やかに笑い、そして、とても美味しい肉料理の最後の一切れを飲み込むのであった。

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