シトラス

(『第二部 第 [7] 編』の約一週間前&『おみくじ2014』の約一年前)

 アデムメデスでは誰もが王、あるいは女王になることができる。
 方法は二つ。
 一つは現王朝を打倒し、自らが新たな冠を戴くことである。が、無論、これは現実的ではない。
 もう一つは王、あるいは女王の伴侶となることである。こちらも現実的ではなさそうではあるが、しかし現実に可能な手段であり、実際、次代の共同君主――王配おうはいになると目されているのは全く平民の男子高校生である。
 彼はこれまでの人生において、上流階級との接点など一つも持っていなかった。貴族や資産家の子女が集まるような組織に属したこともなく、現在も通うのは王都に存する何の変哲も無い公立校――スポーツが盛んと言うわけでもなく、学力的にも中庸で、そのため多くの人が足跡を残すからこそ『普通』と認識される高等学校である。ただ、現在の校長が分不相応なほどの野心家で、色々と画策しては空回りしていることはたった一つの際立った特徴と言えるかもしれない。そして彼の野心は確かに一人の少年の人生を大きく変える結果となり、その変化は、無論、少年の周囲にも甚大な影響を与えることとなった。
 クレイグ・スーミアも、その影響を最も大きく受けた一人である。
 誰しも思春期を過ごす場所やそこでの生活に少なからぬ夢想を抱くものだが、クレイグ・スーミアは、流石に学生生活がこのような騒ぎの中で進行するとは思いもしていなかった。環境のあまりにも大きな変化に最初は戸惑ったもので――いや、戸惑わない者などこの学校のどこもいなかっただろう。それでもクラスメートが王女の恋人となってから数ヶ月、この頃の彼は学校敷地周辺に群れるマスメディアや野次馬等の存在に慣れてきて、それらが起こす騒動を幾分笑い話として消化できるまでになっていた。
「それでは今日はここまで。しっかり復習してくるように」
 数学教師が教室用板晶画面ティーチング・ボードの電源を落とすと、教室にため息が満ちた。濃密な授業への疲労を示す生徒とは逆に、教師は熱意の余韻を漂わせながら教室から出て行く。彼の自慢であるブロンドの髪の後ろでドアが閉まると同時、チャイムが鳴った。完璧なタイミング。廊下に面する窓越しに、ご満悦な顔が横滑りしていく。
 若い学生達はすぐさま疲労を打ち消した。
 さあ、昼休みだ。
 小太りの男子が教室を逸早く抜け出て行く。それを追うように多くのクラスメートが教室から流れ出ていく。その様子は『普通』とは違う。その様子は、例えるならば発車時刻間近の電車に乗り遅れないよう急ぐ人々に似ていた。実際、教室の外に用があるならば、または別所で昼食を取ろうというのなら、この教室から早く出ていかなければ面倒なことになるのだ。
 夏期休暇が終わってから一週間が過ぎ、この王都立高等学校は、夏期休暇に入る前にも増して注目を集めている。
 クレイグ・スーミアは窓際に座る級友を見た。
 アデムメデスにおいて他の誰よりも有名となった高校生、ニトロ・ポルカトは、腕を組み、真っ直ぐ正面を見つめて、不動であった。皆と同じく彼も着る半袖シャツは夏用に生地も薄く涼やかなのに、どういうわけか彼のだけは分厚く重々しい緞帳どんちょうに見えてならない。
 教室には十人足らずが残っていた。
 廊下側中央付近では三人の女子生徒が席を寄せて弁当を広げている。窓際最前列に一人でサンドイッチをぱくつく男子がいて、また教室の中頃に授業中から引き続き机に突っ伏す男子がいる。オンラインゲームに熱中して徹夜したという彼は熟睡しているらしい。
 やがて、半開きのドアから地鳴りが聞こえてきた。
 それを耳にして、気を揉むようにクレイグの前に座る男子が振り返り、
「ニトロは一体どうしたんだ?」
 クレイグは、なんだか祈祷の文言でも唱え始めそうなニトロから、問いかけてきた友人へと目をやった。
「朝からずっとあんな感じだけど、わからないな」
「朝からそうだったか?」
「ああ。でも朝からってより――」
 少し迷って、だが確信を得てクレイグは言う。
「ちょっと前からあんなんだな」
「マジで? そうだったかあ?」
「ちょっと前からぴりぴりし出して、今日はとうとうあれだ」
「あー、でもそりゃそうだろ、ティディア様のお誕生日がもうすぐなんだ」
「俺もそうだからだと思うんだが、それにしては……なんていうか、殺気みたいな感じもしないか?」
「俺だってこの歳で結婚ってなったら殺気立つぜ、この歳で親父みたいになるのかぁ……ってさ」
「そんなもんかな」
「ダレイもそう思うだろ?」
 問われたダレイ――クレイグの隣の席に座る筋肉質のクラスメートは肩をすくめてみせる。同意とも否定ともつかないが、十分な応えだった。クレイグの友人は得意気にうなずいた後、不動たるクラスメートを羨望の目で眺め、ため息をつくように言う。
「もうすぐニトロも『王子様』かあ」
 クレイグはニトロを越えて空の先を見る。
「正確には『王子様』にはならないらしいぞ」
「そうなの?」
「爵位は得るけど、継承権は持たないんだとさ」
「ややこしいな。でも王子様みたいなもんだろう?」
「みたいなもんではあるみたいだ」
「ならいいじゃないか。ティディア様に愛されるのは変わりないんだ」
「ニトロはいつも否定してるぞ」
「いつもの『お約束』な。いいよなあ、あんな美人となんて。俺だって一度はなんて夢見たもんだぜ」
 そう言って、友人は自身の言葉に笑う。クレイグは愛想笑いを返す。
 廊下には既に人だかりができていた。教室の前は隙間も無い。廊下側の窓に、貼りついているのか押しつけられているのか解らない生徒が無様を晒しているのは乗車率100%超えの満員電車でもなかなか見られない景色であろう。彼ら彼女らはその状態から抜け出そうとしているらしいが左右からの圧力に動きを封じられてどうにもならない。ドアは既に全開にされているが、代わりに人の作る垣根が出入り口を塞いでいた。そこから無数の目が『ニトロ・ポルカト』を覗き見ている。有名人の名を口にしながらざわめいている。しかし当のニトロ・ポルカトは不動のままである。その様子に、ミーハーな生徒の先頭集団も流石にぐずついている。
 クレイグは、危険水域に達しながら微妙なバランスで決壊することのない人垣を眺めつつ、違和感を抱いていた。
 その人垣には、夏休み前にはもっと軽い空気が充満していたように彼は思う。それこそ有名人を有名だから取り囲むという浮き足立った瞳ばかりが並んでいたと記憶している。しかし今月になると、その中に、一種異様な重さを湛える眼差しが一斉に現れた。もしかしたらそのような眼差しは以前から存在していたのかもしれない。だが、以前と明らかに違うのは、それらが肌に感じられるほどに顕在化し、しかもその重い眼差しが様々な色彩を見せていることだ。それぞれの眼差しが何を意味しているのかクレイグには判別ができない。ただ、心地悪さを感じてならない。性質も比重も違う液体が斑となり、いつまでも溶け合わずにひしめき合い、そして重い液体は軽い液体をその重力で引き止めようとしている。人垣が危ういバランスを保ち続けるのにはもちろんニトロ・ポルカトの異様さに押し止められているせいもあるが、同時にその内部で自主的に押し殺し合っている影響も確かにあるのだ。そしてその他者を黙殺しようという意思の滲み出る様は、もし友人が正気づいていれば、きっと気持ち悪く感じるに違いないと彼は思う。
「――!」
 ふいに人垣の奥から声が上がった。細く高く内容の聞き取れない声に続いて、断続的に引き千切れる低い声。つつみが決壊する先触れであろう。熟睡していたクラスメートがびくりと震え、はっと起きたかと思うと慌てて周囲を見回し、失態に気づいて天を仰いだ。彼は目を擦りながらクレイグに近寄ってくる。こうなると頼りはクレイグなのだ。
「よう、おはよう」
 クレイグが言うと、額に腕枕の赤い跡を残す友人が舌打ちをするように言う。
「寝過ごした」
 彼はちらりと外を見た。廊下にたむろする野次馬達。校章の学年を示す部分の色を見れば同級生より三年か一年かが多く、女子の比率が多い。これでも前期より落ち着いた方だ。最もひどい時は廊下の端から端までごった返し、教室内もぎっちりと身動きが取れなかった。
 とうとう垣根が割れた。
 女子が二人、つんのめるようにして教室に入ってくる。
「ニトロ先輩!」
 ほとんど歓声に近い声で一人が呼びかける。もう一人は夢中で携帯電話モバイルを操作している。写真でも撮りたいのだろう。
「……」
 ニトロ・ポルカトは、返事をしなかった。虚空を見つめ、ただただ不動である。
「ニトロ先輩?」
 その下級生の女子二人は『王女の恋人』の異様な雰囲気にやっと気づいたらしい。おそらく教室内の様子を伺うこともなく突撃してきたのだろう。見物人の中には失態を犯した二人を嘲笑うものもある。――気分の良いものではない。そこでクレイグは、
「ニトロ」
 と、声を強めて真っ直ぐ呼びかけた。
「……ああ」
 ニトロ・ポルカトが、ふとまどろみから目覚めたかの様子で声を出した。
「ぼうっとしてたよ」
 露骨に無視されたと思ったらしく眼前で涙ぐんでいる後輩二人と、二つ席を離した場所からこちらを見る友人四人の様子から事態を了解し、彼は笑顔を作る。
「何か用?」
 押しかけてきた後輩へそう問いかけるニトロにクレイグは言った。
「飯はどうする?」
 後輩二人は余計なことを言うなとばかりにクレイグへ目をやるが、彼は意に介さない。それを傍らで腕を組む大柄なダレイの沈黙が支えるから迫力がある。負けん気の強そうな女子二人も腰が引けてしまう。
 ニトロは笑みを浮かべ、言った。
「俺は、いいや。あんまり腹が空いてないんだ」
「……大丈夫か?」
「カロリーブロックがあるから、それで十分。ちょっと考えることもあるからさ」
「そうか」
 クレイグがうなずいた時、また人垣を割って教室に入ってこようという生徒がいた。出入り口を塞ぐ邪魔な男子を鬱陶しげに横に押しやり肩をよじらせて、あからさまに悪態をつきながら踏み込んでくる。人垣の中から振り出されたすらりと引き締まる脚には一夏の跡が浅い小麦色として残り、その先には白い靴下と、彼女の好きな黄色の入ったスニーカーがあった。
「おう、ミーシャ」
 と、寝起きの男子が言う。教室にやっと入ってきた少女は軽く手で応え、ぶつくさと言う。
「今日はひでぇな。校長は何してんだよ」
 校長が“大切な生徒”を守るために人払いをするのは、五月以降の昼休みの風物詩でもある。クレイグが答える。
「出張だって聞いた。実は接待だって話だけどな」
「誰から聞いたんだ?」
「フルニエ」
「あいつは耳が早いな。相変わらず」
 ミーシャは白い歯をちらりと見せて笑う。
「で、そのフルニエは?」
「いつも通り」
 授業が終わるや一番に教室を抜け出たのは彼だ。それはこの人だかりを嫌ってというよりも、行きつけの食堂の席を確保するためである。
 うなずいたミーシャは、それから不満気にクレイグを睨み、
「で、どうしたんだよ? キャシー達が待ってるぞ」
 わざわざ迎えに来たミーシャに言われて、クレイグは急に焦りを感じた。その様子にミーシャはクレイグからぷいと目をそらす。それをダレイが黙して見守り、その光景にニトロは罰が悪そうに言った。
「なら早く行けよ。ダレイ、何なら運んでってやれ」
 ダレイはうなずき、立ち上がった。背の高い彼に見下ろされ、本当に運ばれてしまうような気配を感じてクレイグはさらに焦り、
「いい、いいよ、行こう。じゃあニトロ、明日は一緒に食おうぜ」
「分かった」
「ポルカトは来ないのか?」
 ミーシャが目を丸くした。心底意外そうで、また心底困惑して声も高まっている。
「腹が減ってないんだと」
 クレイグの前の席に座る友人が立ち上がりながら言う。寝起きの男子はこれ幸いとばかりにダレイの後に続く。
「そうか……」
 うめくような、ただつぶやくような、ミーシャは複雑な声を口の中で潰した。ポルカトは不躾な後輩の要望に応えてカメラに収まっている。そのお人好しっぷりには軽い苛立ちを覚えてしまうが――ふいにポルカトと目が合って、すると、何故だろうか、その瞳に心の中を見透かされるような気がして彼女は顔をそらした。
「ミーシャ?」
 廊下に向かいかけていたクレイグが振り返る。ポルカトも不思議そうに彼女を見ていた。後輩二人は自分達を前にして他の女に目を向ける『ニトロ・ポルカト』と、彼の友人であるらしいその女へ嫉妬の眼差しを交互に送る。
「あ、ごめん。行こう」
 陸上部所属のミーシャは素軽い動きで自然とクレイグの隣に並んだ。
「じゃあポルカト、明日は一緒に食おうぜ」
 ミーシャが何かを誤魔化すように口早に言う。先ほどクレイグにも言われたばかりのことを繰り返され、彼女の様子にその内心を薄々悟りながら、しかしポルカトは何も言葉にはせず、
「オーケー」
 と、ひらりと手を振り、写真を撮った後もなお用のあるらしい後輩二人に向き直る。
 きゃいきゃいと話題の先輩に話しかける後輩のトーンの高い声を背にしてクレイグ達は廊下に向かった。長身で筋肉質のダレイが先頭にぬっと立ち、堂々としたクレイグがその後ろに控えると、その得も言われぬ迫力に人垣が割れて道が開ける。寝起きの男子がダレイに話しかけながら外に出て、その後にミーシャがもう一人の男子と話しながら続き、最後に、クレイグはちらりと背後に振り返った。
「……」
 ニトロ・ポルカトは、一見、ミーハーな客に普段と同じように受け答えをしている。お約束の「本当は付き合っていない」発言が聞こえてくる。お約束を聞けた嬉しげな笑い声が彼の声を潰す。もう一度写真に応じる彼の作り笑顔にも変わりはない。しかし、硬い
「……大変だな」
 今日の彼の様子もいつか“笑い話”にできるようなものなのだろうか。
 そんなことを思いながら、クレイグはダレイとミーシャの後を追った。クレイグ達がいなくなると、まるで最後の支えが折れたかのように人垣が崩れた。溜まりに溜まっていたものが教室の中へと雪崩れ込んでいく。秩序は失われた。教室に残っていた三人の女子はちょうど人雪崩ひとなだれの陰になるところに陣取っていていて、奔流のすぐ傍でその騒ぎをランチのお供にしていた。サンドイッチをぱくついていた男子は当然のごとく被害にあって無礼者共を大声で罵倒するが、それもすぐに怒涛に飲み込まれて消えてしまう。
 ダレイを先頭にしたクレイグ達が流れに逆らい混乱から抜け出ると、その先で二人の女子と二人の男子が仲良く話しながら待っていた。
 その中で、王女と同じ黒紫の髪を背に流す少女が振り返る。
 窓から差し込む光に純白のブラウスが映えて、彼女の自慢の髪がきらめきながら翻る。
「わるいわるい、待たせた」
 クレイグが笑顔で言った。
 キャシーは彼を笑顔で迎えた。
 距離を縮める二人から目をそむけた少女の視界に、『ニトロ・ポルカト』の教室に向けて駆けてくる大人の姿が飛び込んできた。校長の取り巻きと揶揄される体育教師を先頭にして三人の各学年主任が続き、さらに警備アンドロイドまでが動員されている。
「ポルカトが困るな」
 ぽつりとミーシャはつぶやいた。
 それを聞いたのは、ダレイだけだった。

 購買に立ち寄ってから、クレイグ達は屋上に上がってきた。開け放されたドアを抜けると一面の天然芝が緑に輝いて、訪れた生徒達を大らかに歓迎する。芝が根を張るのは特殊なシートであり、その下は固いコンクリートであるのだが、足を踏み入れるとそうとは思えぬほどの柔らかさが靴底を通して伝わってくる。転落防止のために背の高い柵が内側に仰け反っている様はまるで庭園のアーチを思わせ、屋上中央には大きな鉢に植えられたレモンの木が五株ほど並べられていて、その小さな並木が青天井のこの場に涼しい木陰を作っている。木陰と、柵の下にはベンチが幾つか置かれていた。
 クレイグ達が上がってきたのは教室棟の屋上であり、右手には同じ風景を持つ特別教室棟の屋上がある。両方共に生徒に人気の場所であった。が、今も多くの男女が思い思いに昼休みを楽しんでいるとはいえ、その数は常より明らかに少ない。遠近の空に五月蝿さばえのごとく舞う無数の飛行車スカイカー空中走板スカイモービルが人気を払っているのだ。例え進入禁止空域に入らなくともそれらのカメラは容易にこの場所を盗めるだろう。加えて不届き者を牽制するために王女が私費で導入してくれた小型哨戒機ドローンが巡回する様も物々しい。以前には恋人の膝枕を楽しむ者だってないことはなかったのに、今は芝に座って語らうくらいがせいぜいだ。
 お陰でクレイグ達は難なく場所を確保できた。南側の柵を背にして、いつ頃のことか工作サークルが柵に勝手に取り付けた簡易庇――扇の形をして、普段は折り畳まれているそれをキャシーの友達が勇んで広げると、その傍らの背の低いベンチに影が落ちる。一人の女子とその彼氏、そしてキャシーが日陰に守られたベンチに座り、他は芝に座った。キャシーの目の動きで彼女の友達が脇に退き、自然とクレイグが彼女の側に座る。が、それに気づいているのはキャシー以外にいない。彼女の友達とクレイグ自身も気づかず、外から見つめるミーシャさえも気づかなかった。ミーシャはダレイの隣に胡坐をかいて座った。食事はハーフサイズのベーコンエピとクロワッサン、それとジュースだ。キャシーは話題のフードデリバリー業者のランチボックスを持ってきていて、洒落たサンドイッチをクレイグ、それから他の男子達に振舞った。
 会話の中心にいるのは、常にクレイグである。
 しかし、その中心は常にキャシーに寄り添おうとしていた。
 誰がどう話を進めようと画策しているわけではない。キャシーがそうしているわけでもない。それでも自然と話を引きつけるのはクレイグであり、そしてキャシーなのである。ある人はそれを華と言うだろう。またある人はそれを演出力と言うだろう。
 ミーシャはキャシーに羨望を抱いていた。
 彼女みたいに笑えたらと思う。
 クレイグは楽しそうに黒紫の髪の人気者と話をしている。
 ダレイがチーズとサラミを齧りながら黙々とバゲットを一本食べ切っていくのを皆が笑って見ていた。キャシーの感嘆にダレイもまんざらではなさそうだ。ニトロ・ポルカトの協力で――といっても、結局二人を結びつけた花火大会をポルカト自身は『ウェジィ』の騒ぎのために見逃したのだが――めでたくカップルとなった二人は今月末の王女の誕生日に何が起こるかを話し合っている。それに食いついたのがキャシーで、クレイグはさっきの教室での出来事を彼女に聞かせて喜ばせる。が、彼女は、目が醒めたら人だかりで驚いたと言う男子の話も同じように喜んで聞いた。彼女が喜んで聞いてくれるから、その男子は話を誇張して下級生の様子を語って聞かせる。
「ほんと迷惑だね。ポルカトさんも、そんなの断ってもいいのに」
 心から憤っているようにキャシーは言う。クレイグ達ポルカトの友人も実際そう思うので、我も我もとうなずく。それは美味しいサンドイッチを振舞ってくれた可愛い女の子と同じ気持ちになるということだから快い。
「俺もいつもそう思うんだよ」
 クレイグの友人がキャシーの気を引こうと身を乗り出す。
 その勢いにカップルとキャシーの友達が笑う。笑われた男子は気分を害すが、それをキャシーがフォローするからすぐに収まる。収まったところでクレイグが改めて彼をからかって、すると今度こそ笑い話に変わる。輪が一つとなる。
 その中で、食いちぎったベーコンエピの房をもそもそと噛みながら、ミーシャだけが疎外感を感じていた。無論、誰かが彼女を疎外したわけではない。それは彼女自身が作った心地である。だが、だからと言って彼女に罪があるわけではなく、誰を責められるものでもないためにかえって空しい、空しくて、苦しい心地であった。彼女は自然と輪から離れがちとなり、笑い声が上がる度に心が離れてしまって、時折当ても無く目を泳がせていた。そうしている内に、彼女は見つけた。
「あ、ジジだ」
「ん?」
 思わずつぶやいたミーシャに反応したのはダレイだった。大きな体は少し振り向いただけでも目立つ。つられて皆の目がミーシャの目の先を追い、すると、ここから最も離れたレモンの木陰に、何やら木をぼうっと見つめる変わり者が認められた。
 ニトロ・ポルカトの親友として知られる、ハラキリ・ジジ。『映画』のPRのための銀河ツアー中に災難にも『神技の民ドワーフ呪物ナイトメア』に関わる事件に巻き込まれ、しかも何らかの活躍を以て生還したという同級生。その凄まじいエピソードは今学期に入って彼の変わり者っぷりに拍車を掛けていた。大体ただの高校生が『呪物』相手に何ができたというのだ? 伝え聞くにはセスカニアン人の“英雄”の手伝いをちょっとだけしたということだが、それでも大したものである。彼は本当に不思議な人間だった。あの『映画』に出演しただけでなく、あの王女様とも親しいというし、話題性では『ニトロ・ポルカト』にも負けないはずなのに、何故か彼は地味である。親友が教室で面倒事に忙殺されている時にも、あのように誰にも邪魔されずにレモンの木を観察できるくらいに自由を満喫している。
「呼ぶ?」
 ミーシャは何気なく言った。
「邪魔しちゃ悪いよ」
 ほとんどノータイムで応えたのは、意外にもキャシーだった。
「なんか熱心だしな」
 同調したのはクレイグだ。ミーシャはストローをくわえてジュースを吸った。そして、
「ちょっと行ってくる」
 ミーシャは立ち上がった。彼女を止める者は誰もない。彼女は尻に付いた草を軽くはたき落としながら、キャシーを一瞥した。――気のせいだろうか、少しだけ、キャシーの態度が硬くなっている。まるで何かを恐れているかのようだ。
 それを奇妙に思いながら、ミーシャはレモンの木を見つめるジジに歩み寄っていった。屋上に点在する生徒達がこちらに好奇心を向けている。地味とはいえ、やはり『ハラキリ・ジジ』が気にはなっているのである。
 ミーシャはいつまで経ってもこちらに気がつく気配の無いクラスメートに、あと数歩のところで声をかけた。
「ジジ」
「おや、ジェードさん」
 ハラキリ・ジジの前まで来て、足を止めたミーシャは眉をひそめ、半ば睨むような目つきで彼を見る。
「ミーシャでいいって言ってるだろ?」
「しかしジェードさんもニトロ君のことを『ポルカト』と呼んでいるでしょう?」
 ミーシャはああとうなずいて、
「?」
 ひそめた眉根をさらに困惑に寄せた。腕を組んでちょっと考える。筋が通っているような、筋違いの理論で不意打ちを食らったような、どう判断したものか分からず小首を傾げ、
「なら、ポルカトのことをニトロって呼んだらジジもあたしをミーシャって呼ぶのか?」
「その時は拙者のこともハラキリと、どうぞ」
 飄々と言われてミーシャはさらに混乱しそうだった。煙に巻く、というのはこういうことなのだろう。キャシーが彼を呼ぶのを真っ先に“反対”したのも解る気がする――
「なあ」
 ミーシャは、キャシーの態度が気になって仕方なく、思い切って訊ねた。
「ジジは、キャシーに何か嫌われるようなことをしたのか?」
「何故です?」
「いや、なんとなく」
「嫌われていましたか」
 さして気にする風でもなくジジは言う。ミーシャは調子が狂いそうになるのを抑えて、
「嫌っているわけじゃなくて……ジジの邪魔しちゃ悪いって言ってた」
「はあ。ではむしろ好意を持たれていると?」
「それはないだろ」
「でしょうねぇ」
「……なあ」
「からかっているわけではありませんよ。何を聞かれているのか判らないので、答えられません。ですから、どういう訳かを聞いているだけです」
 そう言われてはミーシャに返せる言葉はない。しかし面白くない。ミーシャの健康的な肌の色に攻撃的な不満が乗るのを見て、ジジは言う。
「拙者は人当たりの良い方ではありませんから。何か苦手と思われているのかもしれませんね」
「苦手か」
「ジェードさんだって、拙者のことは得意ではないでしょう?」
「お前みたいのはニトロくらいじゃないとあしらえねえだろうよ」
 半ば喧嘩腰にミーシャは言った。それは嫌味のつもりだったが、ジジは笑った。
「ミーシャさんはどうやら拙者のことが苦手ではないようですね」
 そう言われてミーシャは目を丸くした。彼の言い回しは癪に障るが、一方でどこか奇妙にも心地良い。それに、
「今、ミーシャって?」
「ニトロ、と呼びましたから。それともミサミニアナさんとお呼びした方がいいですか?」
「いや、ミーシャでいい。うん、ミーシャでいいんだ……ハラキリ」
 ハラキリは笑ってみせる。
 その時、ミーシャは気づいた。
 キャシーが彼を呼びたくなかったのは、きっと、この変わり者がいたら自分のティアラがひどく滑稽なものになりかねないからだ。
「で、拙者に何用でしょう」
 クラスメートから目を離し、ハラキリはしげしげと木を眺めながら言う。鉢植えながら2mほどに成長したレモンの木は葉の色も鮮やかに茂っている。ミーシャはハラキリを不可解な異物のように眺めながら、
「別に用ってわけじゃないんだ。ただ何をしてるんだろうって」
「それでわざわざ?」
「うん」
「あちらでお話していた方が楽しいでしょうに」
 それは皮肉でも嫌味でもなかったのだろう。しかしミーシャは言葉に詰まった。思わず頭に血が昇りそうになる。それは怒りではない。怒りではないが彼女にはまだ怒りとしか判別のできない感情だった。その感情の矛先が間違った方向に伸びそうになるのを自覚しながらも、彼女は喉を突くものを吐き出さずにはいられそうになかった。するとハラキリが急に振り返った。彼の視線と感情が衝突する。その火花が見えた気がする。彼女は息を飲んだ。相手の細い双眸の奥に思わぬ力を感じ――それは……気のせいだったろうか? すぐに目をそらされたので判らない。
「レモンを見ていたんです」
 どうしたわけか、いつになく素直な調子でハラキリが言う。
「校内でる実は誰が収穫してもいいことになっているでしょう?」
「――え? ああ、うん。あまりとってる奴は見ないけどな、園芸部以外」
「それで頃合になったらこのレモンを採って、ニトロ君に何か作ってもらおうかと思っていたんです」
「ニトロってそんなに料理が得意なのか?」
「概ね何でも作れるようです。ですので、レモンパイとかどうかなと」
「へえ、いいな。あたしはリンゴの皮もむけないよ」
「今はA.I.も便利な道具もありますしねえ、それが普通だと思いますよ」
 ミーシャは黙した。ふと、キャシーはお菓子作りが得意だと聞いたことがあるのを思い出したのだ。
「どうかしましたか?」
「え?」
 彼女は驚いた。ほんの少し落ちただけなのに、ハラキリは目敏めざとく気づいてきた。
「いや、うぇ」
 うまく言葉を継げない。ハラキリはミーシャから目をレモンに戻し、
「ですが、駄目みたいですね」
「な、何が?」
「ほら」
 ハラキリがまだ青い果実を指差す。
 それは傷だらけで、所々変色もしていた。
「腐ってはいないようですが、多分、駄目でしょう。もしかしたら病気に罹っているのかもしれない。ほとんどの実がこんな感じです」
「……何でこんなに傷があるんだろ」
「これですよ」
 と、ハラキリは果実の傍の枝を指差した。そこには鋭い棘がある。
「自分の棘で、自分の実を傷つけているようです」
「そうなのか?」
「そうとしか考えられません」
「害虫とかは?」
「園芸部か管理ロボットかが何かやっているんですかねえ、不思議と見当たりませんし、傷の形もやはり棘由来と思えます。まあ、それならそれで棘については完全放置なのがまた不思議ですが」
「……それで?」
「『それで』?」
「それで、なんで終わりじゃないんだ?」
 ああ、とハラキリはうなずき、
「それで、それでは何故、こんな実を傷つけるほどの棘を生やすのかな――と考えていたんです」
 ハラキリは言葉を切った。ミーシャはまだ続きがあると思って耳を傾ける。それに気づいているであろうにハラキリはまたレモンを見つめるだけだ。正直、埒が明かない。が、ミーシャはまだあちらに戻る気にもならず、何とか話を続けようとした。
「虫除けとかじゃないのか?」
 質問を投げられて、ハラキリは答えた。
「虫を避けるためには大きすぎる気がします」
「鳥除けは?」
「こんな酸っぱいのを鳥は好みますかね」
「――人間除けッ」
「人間がこれしきで参るものですか」
「そんじゃあ単に嫌がらせじゃねぇのかな!」
 段々とイラついてきたミーシャが声を荒げて投げ捨てるように言う。と、
「それはおもしろい」
 ハラキリは率直に言い、うなずいた。それがあんまり率直だったものだからミーシャは毒気を抜かれてしまった。
「色々考えてみたつもりでしたが、そういう非合理的なものには考えが及んでいませんでした。なるほど確かに。進化や変化は常に合理的と限ったものではありませんものねえ」
 その物言いにミーシャは馬鹿にされているような気もしたが、ハラキリには他意が全くないらしい。新たな視点を得た彼は実に興味深そうに棘に触れている。少し押し込めばその指からは血が粒となって出てきそうだ。ミーシャは危うさから目をそらすようにうつむき、いたずらに纏まらない心を無理矢理押し固めて、言った。
「そういうの……調べれば分かるんじゃないか?」
「ええ、分かるかもしれません」
 ミーシャは顔を振り上げた。
「じゃあ何で調べないんだよ」
「既に誰かが答えを出しているとしても、自分で考えてみるのも悪くないでしょう?」
 思わず、ミーシャはハラキリを凝視した。
 ハラキリはへらりと笑う。
「ま、暇潰しですよ。ついでに無事な実を探してもいるんですけどね」
 ミーシャは同い年の男子をじっと見つめ続けた。ハラキリ・ジジ。変わり者。運動が得意なくせに運動部には所属していない。誰に対しても敬語を使い、人付き合いは悪い。彼とは一学年時から同じクラスだが、少なくともニトロ・ポルカトと交友を結ぶまでは彼の友と言える者はいなかったはずだ。彼は、こんな奴だったろうか?――こんな奴だったのかもしれない。何しろこんなにまともに話したのはこれがやっと三度目だ。最初も二度目もニトロを間に挟んでいて――
「あ、そうだ、ニトロが」
「ニトロ君が?」
 木を眺めながらハラキリが問う。それは明らかに他の話題より反応が良かった。その様子にミーシャは嬉しくなる。だが、それはレモンのせいかもしれない。彼女は言った。
「なんか殺気立ってるみたいだって、クレイグが心配してた」
「そうですか」
 うなずくハラキリは、皮肉だろうか、苦笑だろうか、片方の口角を少しだけ持ち上げていた。複雑な笑みだった。そこに何種類の心境が表れているのかミーシャには判らない。しかしその中に一つ確実な『理解』があることを悟った彼女はつい勢い込んで訊ねた。
「なんか知ってんのか!?」
 しかしハラキリは事も無げに言う。
「ティディア様のお誕生日が気に掛かっているんでしょう」
 ミーシャは自覚無くうなだれる。
「やっぱり、そうなのか?」
「他に思い当たりませんねえ」
「……結婚……だもんな、この歳で」
「この歳でも別におかしいわけではありませんが。ミーシャさんには考えられませんか?」
 その不意打ちに、ミーシャは頬が熱くなるのを感じた。ハラキリは何やら盛り上がるクレイグ達を見ている。ミーシャは恥ずかしいところを見られずに良かったと安堵したが、無論ハラキリはそれを見逃してなどいなかった。……だが、そこに自分が介入する必要はないと、クレイグとキャシーを、そして向上心の強いキャシーと彼女が接点を作れる男達(そこには当然自分もニトロもいる)との関係性を思い描きながら、沈黙を選ぶ。
「このレモンさ」
 話題をそらしたいのだろう、ミーシャが言う。自分たちのいる屋上の木々と、向かいの屋上に並ぶ木々をぐるりと眺め、
「この中に一本だけ、甘いのがなるのがあるらしいぞ」
 初耳の情報にハラキリがへえとうなる。それに気を良くして彼女は続ける。
「何代か前の校長がここに木を置いたんだけど、本当はオレンジにしたかったらしい」
「それが何故レモンに?」
「業者が間違えた」
「それはまた」
「でも交換はしなくって、そのあと一つだけ甘いのを追加したんだってさ」
「何故交換しなかったんでしょうねえ」
「それも考えてみたらどうだ?」
「これは手厳しい。――ところでミーシャさんはそれをどこで知ったんです?」
 一瞬ハラキリにやり返した気になっていたミーシャは、その質問に小さく呻いた。
「……フルニエに聞いた」
「彼は物知りですからねえ」
 ミーシャはうなずき、唇を結んだ。人から聞いた話を得意気に語ったのがやけに恥ずかしくなる。
「しかし、甘いのを当てるためには“挑戦”しなければなりませんね」
 ハラキリはミーシャに『考え』を投げかけたつもりだったが、彼女は応えない。
 そこでしばらく沈黙が流れた。
 空は快晴で、いくつか白い浮雲が青に泳ぎ、晩夏の日差しは鋭くも残暑は穏やかで、肌に汗が浮かんでもすっきりとした空気がそれをすぐに乾かしてくれる。この場所は芝の緑が暑熱を和らげてくれるからさらに心地良い。
 少年達の笑い声が聞こえた。
 少女達の笑顔は輝いている。
 人の心はその時々で移り変わり、その時々に浮き沈み、いくつも感情の表れては消える度に途切れながらも常に地続きだ。
 レモンの木の下で、玉を散らす木漏れ日の中で、少女はただ密やかに翳っている。
 お姫様もこれくらい可愛げがあったらどうだったろうと、ハラキリは内心苦笑混じりに思う。だが、彼はそれをおくびにも出さず、酸いばかりを噛むクラスメートへ言った。
「ミーシャさん、頼まれてくれますか?」
「何を?」
 急な言葉にどきりとして、ミーシャがハラキリを見る。
「これをスーミア君に」
 と、ハラキリは話題にしていた傷だらけの青いレモンをもぎ採った。その際、果皮が棘に擦れた。すると新しい傷から鮮やかな香気が立ち昇る。それを彼は差し出すというより押し付けるようにミーシャに渡した。渡された彼女は目を丸くする。彼は告げた。
「ニトロ君に渡すように言ってください。それでご心配の“殺気”は消えるでしょうから」
「……あのさ」
「はい」
「これに何か意味があんのか?」
「ニトロ君には判るでしょう」
「何だよそれ。教えろよ」
「秘密だからこそ意味のあることってあると思いませんか?」
 ミーシャは口をつぐんだ。何だかハラキリに心を奥底まで見透かされているような気がしてひどく不愉快になってくる。手の中で、傷だらけの未熟果が笑っていた。
「……わかった。頼まれたよ」
「よろしくお願いします」
「でもな」
「はい?」
 その時、ミーシャは大きな躊躇いを感じて口を閉ざした。だが、彼女はその躊躇いを振り払い、言った。
「本当なら、友達なら、お前こそがあいつの“暇潰し”に行けよな」
 ハラキリはミーシャを見つめた。驚いているようだった。その間に彼女は彼に軽く別れを告げて踵を返した。
「……」
 急に決然とした相手の様子にハラキリは小さく笑い、次第に話に聞いた甘いレモンが気になってきたのでそれを探してみようかと再び観察に戻った。
 一方、他人のことなど存ぜぬと言わんばかりの変わり者に確かな影響を与えたことを知らぬまま、少女はスカートを翻して仲間の下へと真っ直ぐ歩いていく。
 キャシーはダレイと話していた。口数の少ないダレイは最小限の応えで彼女を楽しませている。クレイグは友人と話しながら、キャシーとダレイの会話を気にしているようだ。
 ミーシャは息を止めないために呼吸をする。
 日に日に恋心が大きくなっている。もしかしたら彼はその心を自覚まではしていないのかもしれない。けれど、それを聞いてみることは、できない。
「ジジは何してたんだ?」
 戻ってきたミーシャに、クレイグが聞く。キャシーは木陰に残ったハラキリ・ジジを見つめていた。それは熱心とも言える様子であり、その眼差しにはどこか大人びたところもあった。ミーシャはまた戸惑った。先ほどキャシーに対して思ったことは間違いだったのだろうか? それとも、ハラキリが来ないと確信したからこそ今は見つめているのか。その瞳が帯びる熱は恋にも近いと、そう思う。そう思うや心のどこかに安堵する自分がいるのを感じて、彼女は手の中のレモンを見る。そして、
「これを」
 ミーシャは青い果実をクレイグへほうった。
「おわ」
 クレイグが慌ててそれを受け取る。
「ポルカトに渡してくれって、ハラキリが言ってた」
「『ハラキリ』?」
 と、言ったのはキャシーだ。他の皆も驚いたようにミーシャを見つめた。ジジを親しくファーストネームで呼ぶのは、未だにニトロ・ポルカトだけである。
 ミーシャは小さな優越感を感じ、それに縋る自分を嫌悪しながら、笑顔を作った。
「ま、ちょうど頃合だろ?」

 クレイグ達が教室に戻ってくると出際に見た人垣が嘘のようになくなっていて、代わりに教室の前後にあるドアの横に警備アンドロイドが立っていた。
「学生証ノ提示ヲ願イマス」
 アンドロイドはドアを開けようとしたクレイグ達を遮り、そう言った。クレイグも、ダレイも苦笑する。これは間違いなく凄い騒ぎがあったはずだ。学生証を提示すればこのクラスの生徒だとすぐに証明され、中に通された。級友達はもう大分戻っている。次の銀河共通語の授業に向けて予習を始めている者も多い。今日はリスニングだから“耳慣らし”をしているのだ。静かなざわめきが教室を埋めていた。
 席順は特に決められていないので皆は思い思いに席を取っている。といっても、その位置は時を経るうちに自然と固まってくるもので、クレイグが得たのも昼休み前と同じ席であるし、隣にはダレイがいた。すぐ前の席には一緒に戻ってきた友人が座り、もう一人も寝心地の良い席に戻ってあくびをする。
 そしてニトロ・ポルカトも同じ席に居つき、またしても不動であった。先ほどと違って明らかに疲れが見える。それが人相に影を落としていた。今度こそ本当に祈祷の文言でも唱え出しそうだ。それも誰かを呪い殺すために。不気味である。恐ろしげである。彼の近辺に座る級友は居心地が悪そうで、その様子は哀れですらある。
 クレイグはニトロに歩み寄った。
「ニトロ」
 ニトロは反応しない。
「おい、ニトロ」
 二度目の呼びかけでやっと気づいた。
「ああ、クレイグ。どこに行ってたんだ?」
「上」
「いい天気だからな、気持ち良かっただろ」
「ジジがいたよ」
「ハラキリが?」
「ああ、で、これをニトロにって」
 机の上に、クレイグはミーシャを経由してきた傷だらけの青いレモンを置いた。ニトロは不思議そうな顔をして、
「これを、俺に?」
「ミーシャが言うには、ニトロに渡せば分かるそうだ」
「ハラキリがそう言ってたって?」
「ああ」
「そうか、分かった。ありがとう」
 クレイグは席に戻った。そしてニトロを見ると、彼は腕を組み、レモンを見つめて何やら考え込んでいた。
「お見事」
 と、ダレイが面白そうにつぶやいた。クレイグはうなずき、
「変わり者だけど……いや、変わり者だからできるのかな」
「そうかもな」
「ちょっと悔しいなあ」
 クレイグの声は、言葉の意味に反して実に明るい。ダレイは微笑んだ。
 相変わらず不動ではあるものの、その目と意識をレモンに向けるニトロ・ポルカトにはおかしな緊張はもはや無い。殺気も完全に消えている。周囲のクラスメートは安堵しつつも今度はレモンの存在に気をとられているようだ。少しして、ニトロが動いた。携帯を取り出して操作し、即座に返ってきたらしいメールを一読して眉をひそめる。携帯を青いレモンの横に置き、腕を組んで再び長考に入る。
 事情を知らない級友達はニトロ・ポルカトとレモンを眺めて顔にクエスチョンマークを刻んでいた。事情を知るクレイグ達は笑っていた。昼休みになるや最初に教室を出て、最後に戻ってきたフルニエが守衛アンドロイドに驚いて、次に教室のおかしな様子に戸惑って早速クレイグに問いかけてくる。
 クレイグはどこから話すか迷いつつ、結局初めから話すことにした。
 何度も首を傾げるニトロ・ポルカトはどうしても答えに辿り着けないでいるらしい。
 爽やかな香りが漂っていた――頼りなく、青臭くも鮮やかに、清々しい香りが漂っていた。

← 数日前 第二部 幕間話4

→ 約一週間後 第二部 第 [7] 編

→ 約一年後 おみくじ2014

メニューへ