(『敵、見誤り』の後、『友達』の前)

 シェルリントン・タワーを擁し王都ジスカルラで最も繁栄する摩天楼と、最も有名なケルゲ公園を結ぶ国道のちょうど中頃。
「あそこかな?」
「アソコダネ」
 国道沿いの商店街の外れに建つ雑居ビル。その一階で、持ち帰り用の窓口の横にネームプレートのような小さい看板を添えるデリバリーストア。一見ここで料理が作られているとは思えない外観であるが、フル回転している換気扇からは濃い匂いが漂ってくる。どうやら曇りガラスの向こうは戦場であるらしい。
 既に日はとっぷり暮れて、一つの住宅街エリアの食を支えるような大手の日常的なデイリーデリバリーとて繁忙時間を過ぎて一息入れている頃である。
 そこに一台のデリバリーバイクが戻ってきた。細身のドライバーがこちらの動きを一瞥し、ヒーンと底鳴りする電動モーター音を引き連れて、ビルの一階にえぐれるように空いた駐車スペースに入っていく。入れ替わるように一台のデリバリーロボットがゆるゆると出てきて、周囲の安全を確認するや滑るように走り去る。向かう先には肩を寄せ合うマンション群があった。それからまたバイクが出てくる。細身のドライバーはこちらをまた一瞥して、ヘルメットの下で訝しげに目を動かして、すぐに追い立てられるように走り去っていった。なかなかの繁盛ぶりだ。
「オ仕事頑張ッテネ」
「ちょっと緊張するね」
「主様ナラ大丈夫サ」
「大丈夫なように頑張ろう」
「アハハ、――ジャアネ」
「うん、じゃあ」
 ここまで道案内ナビゲートしてくれた芍薬との接続が切れた音が鳴る。ニトロはワイヤレスイヤホンを取り、それをジムバッグの外ポケットに突っ込んだ。萌え出た新緑が色を深めながら瑞々しく伸び行く六月の夜は心地良く、ただ翌日の雨を予告する湿度がじわりと上がる道を横切り、持ち帰り用窓口の前に立つやインターホンのボタンを押す。少しの間を置いて応答があった。
「いらっしゃい、ご予約の方ですか?」
 しわがれて、活力のある声だった。
「いえ」
 と言って、ニトロははたと止まる。
(あれ?)
 彼のここでのビジネスネームはどれだったっけ――そうだ、
「バジレテ君に言われて来ました」
「――ああ! こりゃ助かった! 裏に回ってくれるかい?」
「分かりました」
 裏、とは駐車スペースのことだろう。そちらに回ると軽バンが一台止められていて、奥に階段とエレベーターがあり、その手前にアルミのドアがあった。それが内側に開かれる。
「よおニトロ」
 白い衛生帽子キャップに白いビニールレザーのエプロン、それに白いマスクをつけた小太りの少年が顔を出す。その格好と、いつもの伊達メガネをかけていないことで随分印象が違って見えた。
「右に入って、そこで着替えててくれ。便所は左。もうすぐ行くからよ」
「了解」
 それを聞いたか否か、彼はすぐに引っ込んでしまった。
 自然と閉じかけるドアを押さえ、ニトロが中に入ると、細く通路になっている先に厨房が見えた。右手には見るからに薄い壁があり、そこに薄いドアがはめられている。ひとまず入口の脇にある殺菌装置で靴底を消毒し、アルコール製剤を手にすり込む。薄いドアを開けてパーティションで区切られた内側に入ると、そこにはロッカーと簡易なテーブルと机が並んでいた。更衣室兼事務所といったところか。意図的に本数の減らされているらしい電灯が寒々しく照っている。
「靴ト手指ノ消毒ハオ済ミデショウカ」
 机の上に立てかけられていた板晶画面ボードスクリーンに光が灯り、無機質な声がした。
「済んでます」
「ヨウコソオイデ下サイマシタ。現在ロッカーハ、空イテイマセン。本日ハ、ゴ自由ニ荷物ヲオ置キ下サイ。手ヲ洗イ終エマシタラ、コチラノ契約書ニ、ヨロシケレバサインヲ」
 どうやら汎用A.I.か。
 ニトロが従おうと足を踏み出すと、背後から――薄いパーティション越しにアルミドアの開く音がした。
「あにチンタラしてやがんだすぐにアヂテロに持ってけ! さめっちまうぞ!」
 厨房の方から突然しわがれた声が爆発する。そのボリュームにニトロは思わずびくりと肩をすくめた。
「はぁ!? 少しゃ休ませろ! こっちゃ五時間カロリーブロックしか食ってねんだぞ!」
 こちらはややハスキーな女性の大声。厨房のしわがれ声に少し似ている。ニトロは安普請の壁を眺めた。
「いいから急げ! 大至急だ! またごちゃごちゃ言いやがっぞ!」
「だらアヂテロからはもう受けんなっつってんだろ!? あん野郎にゃろうクレーム入れてぇだけじゃねえか!」
「だが金は払う! 金を払うんなら客だ!」
「ンでつけ上がらせんならトッピングに“クレーム”追加つけて上がりをよこせ! でなけりゃラバートーカー勧めてこっち来させんな!」
「行け! 今日は大入り付けてやる!」
 舌打ちの音が聞こえ、次いでアルミドアを叩きつけるように閉める音が聞こえた。そして、バイクの去っていく音。
「……」
 判ずるにアヂテロという男は常連客で、しかも“構ってほしいから”クレームを入れるタイプらしい。『ラバートーカー』とはユーザー一人一人にマッチングする話し相手を紹介するサービスで、相手も人間とA.I.とを選択できる。表面上は健全な出会いを助けることを標榜しつつ、実際そのように利用する者もいるが、実態は派遣型風俗デリバリーヘルスに近いことが公然の秘密となっているものだ。
「……」
 それにしても彼女の抗議は痛ましい。空腹のままこの匂いをかぎながら働くのは――
(拷問だ)
 流し台があったので念のため備えつけの消毒薬で手を洗いながら、ニトロは苦笑した。食事を摂ってきた自分でさえ食欲を刺激されるのだ、彼女の苦痛はいかほどのものだろう。
 それからペーパータオルで手を拭いて、机上のボードスクリーンに目を通す。時給は聞いていた通り、就業時間は未成年の就業可能範囲一杯まで、日払いで手数料なし、最もシンプルな書式におかしな点はない。ニトロはタッチペンを手にし、
「契約書の控えは――」
「今スグデアレバ、アドレスヲ通知、マタハ社内ネットワークニログインシテ下サイ」
「ならパスを聞いてから」
「コチラデス」
「え?」
 書類に重ねてパスワードが表示される。コード化もされておらず、数字だけで桁数も少ない。それがまざまざと明確に隠すところ一つもなく表示されている。
「え?」
「コチラデス」
 ニトロは戸惑いつつも携帯を操作した。カメラにパスワードを映す。このネットワークに繋ぐことにちょっと怖さも感じるが――すると画面に芍薬のデフォルメ肖像シェイプが表れて、頷いた。早速ニトロはタッチペンをボードスクリーンに走らせた。サインされると同時に写しを受け取った芍薬が頷いて、こちらが何を言う前にネットワークからログアウトする。ポニーテールが軽く揺れ、芍薬の肖像シェイプもぱっと消えた。
(……まあ)
 世間にはザルなところなどザラにあるもんですよーと、いつか親友が言っていたような、言っていなかったような。それとも何かのセキュリティ関連の記事で読んだっけ?
「右端ノロッカーカラ、ジャンパート帽子ヲオ取リ下サイ」
 言われたとおりに右端のロッカーからビニールに包まれたジャンパーと、フックに掛けられた帽子を取る。どちらも先ほど見たドライバーが着ていたものと同じく黒一色の中にライトを反射するラインが入っているだけのもの、おそらく、量販品にロゴを加えただけのものだ。そのロゴにしても長方形の中に店名の入っただけで味気ない。
『オ,ディンム!』――それが店の名だった。
 芍薬に調べてもらったところ中央大陸西南部の古語ほうげんで『えいチクショウ!』という意味らしい。ここに来る前には変な店名だと思ったが、なるほどこれは相応しい。
「……さて」
 ニトロはジャンパーを着て、帽子を目深に被った。それからふと思い立ってモバイルを操作し、カラーコンタクトレンズの色を変化させる。
 厨房からは忙しそうな音が絶えず聞こえていた。何かを切る音、何かを流す音、タイマー音、何かを動かす音に何か扉の開け閉めされる音。ふいに、カチャリとドアが開いた。
「すぐ出るぜ」
 白い帽子を脱ぎ、使い捨てらしいそれをゴミ箱に投げ捨てながら彼はニトロを見て、
「変装はそれだけか?」
 今のニトロの虹彩は金にも見える明るい黄色をしている。顔の印象を大きく変える縁の太い眼鏡をかけて、カツラやウィッグは就業規則で可能かどうか判らなかったので省いた。ニトロはこちらを――特に先ほどと違う瞳の色を――ジッと見る友人に、
「あとはマスクをしようと思ってるんだけど」
「あー……いいや、それでいい」
「そうか?」
「ああ」
 うなずいてマスクも捨て、エプロンだけは別に掛け、彼はロッカーを開くと舌を打った。
「汚ねぇなあ、片付けとけよクソ」
 ブツブツ言いながらジャンパーと帽子を取り出す様子からして、それは彼のロッカーではないのだろう。
「お前の荷物は?」
「これだけ」
 ニトロがジムバッグを持ち上げる。
「貴重品は」
「ないよ。今日は携帯これだけだ」
「なら寄越せ」
 と、フルニエが手を伸ばしてくる。意図を察してバッグを渡すと彼はそれを自分のものであるらしいロッカーにしまいこみ、扉を閉めるとしっかりロックをかけた。暗証番号も再入力したようだ。
 先刻、ジムでのトレーニングを終えて食事をしていた折、ニトロは彼――フルニエから短いメッセージを受け取った。
『助けろ』と。
 ニトロは訊ねた。
『何があった?』
『免許が足りない。バイト代は最低だ。いいな?』
 幾つもバイトを掛け持ちする友人の勤め先の一つがデリバリーストアであることは知っていた。その上で自分に助けを求めるということは、つまり車の自動運転免許を持つ人間が必要らしい。そして、ニトロはここに来た。
 若干サイズの大きなジャンパーを着込み、帽子を被ったフルニエはロッカーからニトロへ向き直ると、
お疲れのところ、わりぃな」
 ニトロは肩をすくめ、
「いいさ。で? 運転は車載か?」
「ああ、お前のカワイ子ちゃんは必要ねぇ」
 フルニエが事務所を出て行く。ニトロは後を追う。外に出ると軽バンの荷室ラゲッジに荷を積み込む二人の料理人がいた。一人は派手に大きく腹の出た老人で、もう一人はそれよりもずっと軽い肥満の男性。後者は助っ人に会釈をするとすぐ内に戻っていった。老人は衛生帽のツバを上げ、
「やあ、急にすまんね。おれぁ店長のボチェリクマだ。フルニエのお友達ともだちなんだって? よく――」
「バジレテだ、オヤジさん」
 荷物を確認していたフルニエが鋭く言う。老人は手を叩き、
「ああそうだった、バジレテ君。こいつぁ失敬失敬。ところで友達ダチを紹介してくれねぇのかな?」
「あんたにゃ人手こいつと免許以外は必要ねぇだろ? どうせ契約書に書いてあるんだ、そっちをあたれよ」
「こんクソガキが」
「そんクソにゃここで食ったもんも混じってら」
 思わず笑い、ニトロは言った。
「随分楽しくやってるんだな」
 するとフルニエがニトロを睨む。
「ンだと?」
 という詰問も、次に起こった笑い声に押し潰された。大口を開けた老人の前歯は一つ欠けている。その様にフルニエはぷいと顔を背け、助手席に向かった。
「行くぞ」
「ああ」
 ニトロは助手席に乗り込む友人から店長へと目を振り、
「では、本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ頼んますわ。おいフルニエ! マジおめぇの友達ダチかよずいぶん礼儀いじゃねぇか!」
「だらバジレテッてんだろカンピンジジイ!」
 普段から口が悪いが、学校にいる時より一段と険立つ友人の口調は新鮮というより興味深い。激しい音を立ててドアを閉めた彼はシートベルトを締めている。ニトロが運転席に乗り込むと、
「お前は今から『ポルカロ』でどうだ」
 その提案にニトロはシートベルトを締めながら、
「あまり変わらないな」
「大違いだろ? よくツッコンでたじゃねぇか」
 苦笑し、ニトロは承諾を返した。それから、ふと問う。
「キーは?」
「あ? ああこれだ」
 電子キーを受け取ったニトロはエンジンスイッチの窪みに指を入れ、ACC電源アクセサリーポジションをオンにする。携帯モバイルを操作して自動運転免許ライセンス情報を車載コンピューターに送るとメーターパネルに光が広がった。車載A.I.が言う。
「メンバー該当ナシ、新規ユーザー登録ヲ開始シマスカ?」
一時的ゲストだ」
 横からフルニエが言った。
「カシコマリマシタ。ゲスト登録ヲ開始シマス、音声ヲドウゾ」
 今度はニトロが応える。
「ゲストです」
「――ヨウコソ“ニトロ・ポルカト”様、ドウゾ快適ナゴ利用ヲ」
 そこでニトロはエンジンスイッチをぐっと押し込んだ。
 エンジンがかかる。
 フルニエは携帯モバイルを操作していた。普段彼が手にしている型ではない。どうやら店のものであるらしい。
「行キ先ヲ登録シマシタ」
 車載A.I.が言い、モニターに近隣の地図と車の位置情報が映る。
「じゃあ出発」
「了解、発進シマス」
 ヘッドライトが灯り、車はゆっくり道に出て行くと右手に向かった。大通りに向けて加速していく。駐車場で手を振る店長に会釈したニトロは助手席からの気配に顔を向けた。フルニエが、モバイルを差し出してきていた。
「預けとく。こいつで代金も受け取るんだ」
 ニトロは受け取りながら、
「てことは俺に会計しろって?」
「したことねぇだろ? 経験させてやるよ」
「経験あるぞ」
「あんのかよ」
「中学ん時の社会実習で、出店でみせでね」
「ンだ? オママゴトじゃねぇか」
「その時の報酬こづかいで食った御飯オマンマは実に美味かった」
 斬り返されたフルニエは喉の奥で笑い、リラックスしたように息をついた。実際、彼も相当疲れているはずだ。それでも聞いておかねばならないことがある。
「どれを使うんだ?」
「これ」
 示されたアプリを開く。と、ニトロは思わず笑んだ。
「ああ、こりゃオママゴトで使ったやつだ」
 フルニエは声を上げて笑った。
「それじゃあ説明はいらねぇな?」
「あー、見た目は変わってる、け、ど――うん、大丈夫そうだ」
「手間が省けた。オママゴトも馬鹿にできねぇな」
「フルニエは」
バジレテ
「バジレテは、どんなオママゴトをしたんだ?」
「オフィスワークだ。部下を顎で使うのは気持ちよかったぜ。今からそん時みてぇにお前を使ってやるよ」
「うん、それで、何で俺を使わなきゃならなくなったんだよ」
 フルニエが自分に頼みごとをしてくるのは珍しい。特にこういった“借り”になりそうなものであれば非常に稀だ。フルニエはため息をつき、腕を組む。
「今日は前から忙しくなるのが判っててよ、なのにドライバーが一人急に休みやがった。その上さらに注文が重なりやがって、それでもバイクとロボットだけで事足りるんならナンとかなったんだが、どうしてもこいつが必要でな。だが他に車を使える奴がオヤジさんとネェさんしかいねぇ、だが二人ともこっちにゃ回せねぇ、休みの奴らにヘルプ頼もうにも一人は旅行中、一人はどうしても捕まらねぇ。それで、お前だ」
 その答えにニトロは納得しつつも疑念を残していた。しかしそれを訊けば本当は嫌々来ました――と取られかねないのでひとまず放置して、別の疑問を口にする。
「その休んだ人は?」
「食中毒」
「おい飲食店デリバリー大丈夫か」
「出勤前に発症やッてくれたのはラッキーだったな」
「まあ、そりゃそうかもしれないけど……原因は?」
「昨日安飲み屋で粗悪なもんをがっついたそうだから生焼けの肉でも食ったんじゃねぇの? 他にヤバイの食ってたかもしれねぇけど」
「そりゃ、笑い話にもならないなあ」
「マジで笑えねぇよ。お陰でこっちは地獄だ、いや厨房はまだいいがネェさん達はマジで馬車馬だぜ。鞭入れられて泡吹いてもまだ走らなきゃなんねぇ」
 車は国道に入っていく。模範的に加速し、定速で走っていると、右車線を“操縦コントロール”であるらしいスポーツカーが鼻歌を歌うように走り抜けていった。この先には王都東部から北に向けて副王都へ走り、そこからまた王都西部に戻って南部へ巡る環状線――通称『外環』への入り口がある。その『外環』からはここから最も近い速度無制限道路に行くことができた。それともこの先にある有名な高級住宅街に帰っていくところだろうか、スポーツカーのカスタムされたテールライトを見ながら、フルニエが言う。
「みっともねぇだろ?」
「いや、そんなことはないさ」
「いや、丸聞こえだったろ」
「――ああ」
 話題変わって、あの怒鳴り合いか。ニトロはうなずいた。
「少し驚いた」
「あのジジイ、ニトロが」
ポルカロ
「ポルカロ、がいるって分かってんのにあれだ。恥を知らねぇ」
「さっき言ってた『ネェさん』ってのは、あの女性ひとのことか?」
「ねえさんって歳じゃねぇんだがな」
「怒られるぞ、てか、怒られのか」
 フルニエは笑い、
「そう。で、オヤジさんの孫だ」
「じゃあ家族経営なんだ」
「いいや、オヤジさんは実質経営者だが、雇われだ」
「じゃあ、仲が良いんだな、一緒に同じところに雇われて」
「何言ってんだよ。丸聞こえだったんじゃねえのか?」
「喧嘩するほど仲が良いって言うぞ?」
「お前が言うと説得力あるなあ、え?」
 ニトロは閉口した、が、沈黙が変な方向へ話を流さぬよう問いかける。
「しょっちゅうあんな風に喧嘩してるのか?」
 話を変えようとするニトロへフルニエはさして疑問を持つ様子もなく首を振る。
「しょっちゅうどころか口を開けば喧嘩だ。あれはじゃれあってる程度だな」
「へえ、それでよく同じところで働けるな」
「喧嘩するほどッつうよりな、金の切れ目が縁の切れ目ってあるだろ?」
「ああ」
 フルニエは愉快気に肩を揺らし、
「オヤジさんとネェさんは、金の切れ目が縁の結び目になってんのさ」
 友人の様子と、その内容にニトロは目を細める。
「面白い言い方だな」
 するとフルニエはニヤリと笑ってみせ、
「オヤジさんには借金がある。三人の元妻への慰謝料を元金にして為替で大損、こりずにちまちまやってるが今年もやられっぱなし」
「おっとプライバシー」
「本人がベラベラパブリックにしてんだ、お前も戻ったらベラベラやられるだろうぜ」
「てことはこれは予習てことか」
 ならば今の『慰謝料を元金』という言い回しもあの店長のものかもしれない。思い出したが、出発前にフルニエが言った『カンピンジジイ』の“カンピン”は無一文を意味するスラングだ。ニトロの苦笑いを引き出した友は満足気に続ける。
「ネェさんにも借金がある。貢いだ恋人に逃亡資金も貢いで先物にも貢ぎ、最近じゃあ馬にも貢ぐ」
「おっと二人して、てか現在進行形?」
「そのうえオヤジさんの娘、ネェさんの母親ママが偽宝石を買い込んだ挙句に置手紙をしてドロン」
「で、その置手紙が連帯して二人の絆を保証してると」
「ニト――ポルカロは理解が速いから楽だぜ」
 具体的な誰かを思い出しているのだろう、フルニエは哂い、続ける。
「それでいつも金の愚痴、労働の辛酸、それでなくても顔を合わせりゃ互いの顔に借金の文字が浮かぶんだ、口を開きゃああなるのはむしろ自然だろ?」
「まあそれはそうかもしれないけれど……それでよく為替や馬に手を出す余裕があるな」
「妙なもんだよなあ、二人して自己破産もいっちょやってるってのによ。どうやって工面してんだか。“闇”が店に押しかけてきたこともねぇしなあ」
「いい弁護士でもつけてんのかな」
「それはねえな。借金のために金がかかることはやらねぇ、それで楽になるとしてもな」
「おっと? じゃあアプリなら」
「その手のアプリは弁護士の手先」
「自前のA.I.に検討させれば」
「A.I.の判断より人間の勘」
「――ん? つうかそもそも自己破産してたのに保証人になってたのか?」
 その疑問符に、フルニエが目を上向ける。
「言われてみりゃあ確かにそうだな。“謹慎期間”はもう過ぎてたのか何か妙な手を使ったのか、こんど聞いてみるか。つか、お前、妙に詳しいな」
「中学の家政科でもやったろ?」
「そいつは俺の睡眠時間だ」
「寝過ごしちゃってたか。でも……それで本当にどうやって生活を?」
「その秘密も盗みてぇんだがなぁ、まだよくわからねぇんだよなあ」
 その秘密、ということは、まずは料理の腕を盗みたいのだろう。
「わかってんのは二人とも馬車馬ってことだな。オヤジさんには腕もある。妙なコネもある。今の店もうまいことオーナーを焚きつけて始めさせたのさ、何よりそれがデカイ」
 ――だから、なおさらネェさんは祖父から離れられないのかもしれない。
「繁盛してたろ? うちはよ」
 ニトロはうなずく。フルニエは得意気に鼻を鳴らす。ニトロは笑いそうになるが、そうすれば友は怒るだろう。彼はやはり“カンピンジジイ”と仲が良いのだ。
「だけど注文するのはいいが、付き合うのはよした方がいいぜ」
 唐突に、掌を返すようなセリフにニトロは眉をひそめた。
「なんでだ?」
 問われたフルニエはやはり得意気に言う。
「貧乏人は性格が汚ぇんだ、そして頭が悪い。その分悪知恵は働くけどよ、結局それで自分を食い潰すんだからしょうがねぇ。しかも自分は弱者だから誰にお恵み強請ゆすりかけてもいいと思ってる」
 ニトロは苦笑し、
「いやいや、全員がそうじゃないだろ」
「俺の経験はそうだって言ってんな。客層って言葉があるだろ? あれが俺の連帯保証人だ。ついたな」
「到着シマシタ」
 フルニエの最後の言葉と、車載A.I.の言葉は同時だった。車が右折し、すると前方にゲートが照らし出された。その向こうには歩道と駐車場のライトの余光を受けて、三階建てのビルと倉庫が融合したような建物が見える。車のシステムと管理システムがやり取りをし、ゲートがゆっくりとスライドして開いていった。
 ぱらぱらと車の止まる駐車場の一画で降りたニトロは早速荷室ラゲッジから台車を下ろすフルニエを手伝った。運び出すように指示されたのは、30センチほど高さのある保温バッグが二つ、その半分ほどのが一つ。それにポータブルクッキングヒーターが二台と使い捨てのスープボウルとスプーンの束の入った袋が一つ。
 保温バッグと使い捨ての食器はともかくクッキングヒーターがあるのは疑問だった。
「重いぞ」
 保温バッグの一つを持ち上げるフルニエの様子にもニトロは疑問を持った。なんだか鍋を持つような格好だ。そして彼はもう一つの保温バッグを持ち上げようとして理解した。実際、鍋だこれ。てっきり単品物や弁当プレート物がたくさん入っていると思っていたのだが、それとは重心のありようが全く違う。自分も料理をするから判る。汁物を入れた寸胴、それも軽く20人前はあるであろう重み。
 となるとさらに疑問はつのる。
 デリバリーストア『オ,ディンム!』のWebサイトにはこのような注文が可能とは書いていなかった。鍋ごと、しかもポータブルクッキングヒーターのレンタルとは聞くまでもなく範疇外だ。
「俺もこんなん受けんなって思うんだけどよ」
 てきぱきと言われた通りに働きつつも戸惑いの消えないニトロへ、フルニエが機嫌悪く言う。
「ここはお得意様でよ。だから多少の無理も聞かにゃならねぇっんだ。それでこんなピンチになるんだから世話がねぇ」
 保温バッグを載せた台車をフルニエが押していく。タイヤがゴロゴロと鳴る。ニトロはポータブルクッキングヒーターと食器を手に追いかける。彼が横に並んできたところでフルニエはヒーターを一瞥し、
「しかもそれのレンタル料はサービスもいいとこだ。そう言ってもそれはエサだの一点張りだ。金にがめつくて、がめつく稼ごうとするくせに、そうしようとしてかえって損してやがる」
「だから為替も失敗するんじゃないかな」
 一瞬、フルニエはきょとんとした。
 そしてニトロを見つめると、声を上げて笑い出した。が、それが今は不適だと気がつくや体裁を取り繕う。
「そうツッコンでやってくれよ。お前が言や目が覚めるかもしんねぇ」
「どうだろう。かえってムキになるんじゃないか?」
 フルニエは笑いを堪える。
 二人は倉庫がそのまま作業場になったようなところに入っていった。
「ども! 『オ,ディンム!』です!」
 快活にフルニエが言った。
「おー、ごくろうさーん」
 こちらに振り返った者のうち、長方形の板に貼られた下地にモルタルを塗っていた男が手を止める。
「あれ、見ない顔だね。新人さん?」
「今日は臨時でしてね、いつもは厨房で」
「おー、そっか、いつもウマいのをありがとう。いつも助かるよ、あ、そこに置いといてくれる?」
 無精髭と目のクマが不眠と疲労を示す男が指差したのは、作業場の隅にある折り畳みテーブルだった。塵やホコリで汚れたスツールが何脚か添えられて、そこは簡易な休憩所となっている。
 ニトロは――礼を言われたことに平気な顔をしているが、本当はふんぞり返りたいであろうフルニエとテーブルへ荷物を運んだ。近くにいた作業員が二人、受け取りにやってくる。
 作業場には様々な資材が並び、人間とロボット達の忙しく働く音と声とが交錯していた。ここでは様々な大道具を製作しているらしい。すぐ傍に有名企業のロゴの入った壁がある。おそらく展示会場で他のパーツと組み合わせられてブースとなるのだろう。向こうではロボットがレーザーで発泡剤からキャラクターを切り出し、その横では先に切り出されたものにロボットが彩色して、それらを作業員が手伝っている。対応してくれた男のモルタル壁は随分時代がかった代物だから、舞台か古典主義的なイベントのものだろう。納期の近い仕事が複数重なっているらしく、ここもまた戦場である。
(てことは)
 ポータブルクッキングヒーターと食器を丸刈りの女性に手渡し、横を見ると、フルニエが保温バッグから取り出したのはやはり寸胴鍋であった。それを受け取る相手への説明からして、蓋の開かないようラップフィルムで厳重に封印された中身はやはり具沢山のスープであり、鍋とは別の容器に入れてきたニョッキのようなものにぶっかけて食べるという。荷室ラゲッジから下ろす際には量に驚いたものだが、今となってはこれで足りるのか心許ない。
 フルニエがもう一つの寸胴鍋を保温バッグから取り出しながら、顎でどこぞを差してくる。
「会計しといてくれ」
「了解――えぇっと……」
「あ、こちらで」
 無精髭の男がモバイルを示して言った。その足はちょっとふらついている。
「領収書くれる?」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
 ニトロはアプリを操作した。過去の記憶と現在の使用感を引き合わせ、少しだけまごついたが無事に目的の機能を有効にする。
「ではこちらをご確認のうえ、お支払いをお願いします」
 彼の差し出したモバイルの画面を見ることもなく男はモバイルを重ねてきた。ピッピッと電子音が連続する。金銭と領収書のやり取りが無事に完了したことを示す音だった。
「はい、どーも」
「ありがとうございました」
 男はモバイルを――受け取った領収書を見つめたまま会釈を返してきて、それから作業場に顔を向けると、
「ほおい、適当につめこんでくれぇ!」
「うーい」とも「おーう」ともつかぬ響きが起こり、早速何人かの作業員がテーブルへ向かう。商品を受け取った二人は空腹に堪えられない様子で鍋の封印を解いていた。
「次行くぞ」
 台車の取っ手に手を添えるフルニエに呼ばれ、ニトロは慌てて彼を追った。と、作業場の出際でフルニエが足を止めて振り返り、
「ではまたお願いしまーぁす!」
 快活な笑顔と共に帽子を取って頭を垂れる。ニトロも追って同様に頭を下げた。
「おー、また頼むねー」
 応対してくれた男が作業に戻るのと同時にフルニエも踵を返す。ニトロも駐車場に向かった。台車のタイヤがコロコロと鳴る中、ふいにフルニエが言った。
「ちゃんと帽子を取ってたな」
「? ああ」
「誰に教わった?」
「両親」
「そうか」
 フルニエは当てが外れたように、しかし返答に対して何か感じたように口元を下げて早足で歩く。その意図を察し、ニトロは苦笑半分、しかしもう一つ隠れた友人の意図が掴めぬ心地の悪さに口を結んで後を追う。
 空の保温バッグと台車を積み込み、助手席のドアに手をかけながらフルニエは言った。
「聞いたか?」
 ニトロは首を傾げた。
「何を?」
「ウマいんだとよ」
 ポンポンと腕を叩いて、そして彼は乗車する。
 ニトロは口元を引き上げながら運転席に乗り込んだ。
「アヂテロって奴は――」
「?」
 シートに腰を下ろすかどうかのタイミングで話しかけられて、ニトロは半ば呆けた顔でフルニエを見た。自慢してきた彼をからかおうとしていた言葉が喉の奥で潰れてしまう。
「まあアイツもお得意様なんだけどよ」
 それがオヤジさんとネェさんが口にしていた名だと気づいて、ニトロはようやくうなずいた。とにかくシートベルトを締めてエンジンをかける。次の目的地は既にナビに入っている。
「発進シマス」
 車は静かな駐車場からゲートへと進んでいく。
「聞いてた通り、まあいちいちうるさくてな。だがそれも目的があってのことなのさ」
 それがあきらかにこちらにからかわれることを回避するためにフルニエの持ち出した話題だと理解しながら、ニトロはうなずいた。
「アイツはネェさんを狙ってんだ」
 ニトロは腕を組んだ。少しくうを見て、顔をフルニエに向ける。
「おっと客のプライバシー?」
「真面目だなあ、ニトロはよ」
「ポルカロな」
 フルニエは舌を打つ。
「マジクソ真面目ヤロウが」
 ニトロは、にんまりと笑う。
「で? その俺の知らない誰かがどうした?」
 促すと、フルニエはニヤリとして嬉しげに言う。
「クレームもその口実、つうかそのアピールなんだろうな」
「アピール?」
「わたしはこんなことにも気づけるほど優秀なんですよ」
「……例えば?」
「ミックスベジタブルのグリーンピースが前回に比べて2つ、コーンは1つ多かった、しかしキャロットは4つも少ない! ってドヤ顔で押しかけてきた時はぶん殴ろうかと思った」
「おお……そりゃあ……」
「ただ一度も金返せってきたことはねぇんだ。ケチと思われんのが嫌なんだろう、ネェさん相手には特にな、ネェさんが注文口に出た時にゃあバカみたいにトッピングやサイドを足してくるんだから間違いない」
「あれ? 『オ,ディンム!』は自動受付じゃないのか?」
「イレギュラーが少しでもあるようなら人間サマが応じるようにしてんのさ。それで妙な注文も入ってくる。いつも大盛じゃ多いが並じゃ少ない、ちょうどいいように調整してくれ――で、俺がグラム単位での調整を仰せつかる。新規のお客様相手に“ちょうどいい”も何もねぇだろ? だがオヤジさんはチャンスを逃さなかったって喜びやがる」
「『いつも』なのに『新規』ってことは、他の店ではいつもそうだった、ってことか」
「ん?――ああ、そういうこった」
「その時は?」
「ちょうどいいって返ってきた。以来常連」
「オヤジさんは大喜びか」
「営業努力は俺のもの、成果は店のもの、だが給料は据え置き。その後そいつ用のグラム表をまとめたのも俺なんだがな」
「頑張ってんだなあ、フルニエ」
 それがあまりに素直な言葉だったからか、いつもなら照れ隠しに反発していただろうフルニエは自然と笑みを浮かべた。しかしすぐに真顔となり、何かを言い返そうとしたが、機を失したと気づいたように黙り込む。
 ニトロは前方を見た。
 車はまた国道に入っていく。
 フルニエは――普段の彼は、滅多にこのような話をしない。アルバイトの話はしても概ね自分を良く見せるようなことか、誰かを当てこする材料ばかりを舌に載せる。だからニトロは『オ,ディンム!』を出た時から新鮮な気持ちを抱いていた。曲がりなりにも今は“同僚”だ。少なからずその立場が友の口を軽くしているのだろう、そうして彼に内輪の話を楽しませ、愚痴をも言わせているのだろう。特にオヤジさんやネェさんへの複雑な心情は、そのまま彼の内面に直に接しているようにも思えてならない。
 ……自惚れかもしれないが――
 ニトロは思う。
 もしかしたら、自分は彼がこんな話をするのを初めて聞いた人間なのではないか?
 だとしたら、彼には、いつもこういう話をできる相手は一人もいないのかもしれない。
「……」
 自分には、何でも話せる相手が二人いる。
(――)
 ニトロはふいに胸に湧き起こった奇妙な感情に――感謝とも優越とも、憐憫ともやましさとも見分けのつかぬ感情に、額の熱くなるのを感じた。それを誤魔化すように息をつき、
「ネェさんは気づいているのか?」
「あん?」
「その手元から狙いのズレたアプローチにさ」
 と、フルニエの顔が明らんだ。彼は嘲笑を浮かべ、
「気づいてねぇんだ、これが。他の奴らは――オヤジさんもみんな気づいてんだが、ネェさんは気づかねぇ。つか、気づけってのが無理だ。一番クレームを受け付けてんのはネェさんだぜ? アイツは逆上のぼせてるがネェさんにとっちゃ逆上のぼせるの意味が違う。みんな気づくより先に手が出る方に賭けてるぜ」
 ニトロは腕を組んだ。
「その前に対策した方がいいと思うぞぉ?」
「それには同感だ、下手すりゃ店がやばい。だがネェさんも金ヅルだとは理解してるからな、すぐ“出禁”にしろとか言うくせに何だかんだで青筋立てながら笑顔でおだてて金落とさせようとしてる。あれはちょいと見事だ」
「ますます対策した方がいいよ。ストーカー関連の支援団体のアドレス送っとこうか? ストーカーまでいかなくても突然爆発されたら大変だ。どっちが先かはともかく、それが素手とは限らないんだ」
 そこでフルニエは、はたと嘲笑を消した。ニトロは言う。
「それと、賭けは気づく方に賭けた方がいいんじゃないかい?」
「あン?」
「『ラバートーカー』って、ネェさん言ってたろ」
「あー? ああ、言ってたな」
「本当にまだ気づいてないにしろ、ああいう風に言うってことは薄々感じるところがあるんだろ」
「あー……」
 ぽかんと口を開けて気の抜けた声を発したフルニエは、次第に真剣な顔になり、腕を組んだ。
「よし、俺の総取りだ」
 ニトロは苦笑した。
 フルニエは、天を仰ぐように頭をシートにぶつけた。前言を散らすように息を吐き、
「こいつぁ真面目になるべきところか」
「俺はそんな風に働いたことがないから、商売の世界でそういう時の分水嶺ラインがどうなってるかは知らないけどさ」
 そして、あるいはオヤジさんやネェさんの“世界”のルールだとどうなっているかは知らないが――。
 黙したニトロの横で、フルニエはしばし考え込み、
「いや、オヤジさんと話しとく。――ああ、だが、俺が気づいたってことでいいよな?」
 それは自分の手柄にしたいというわけではなさそうだ。ニトロはうなずき、
「そりゃもちろん。俺はここで聞いたことを明日には忘れるからな」
「おぉ? なんだそのハラキリみてぇな言い草」
 突然親友の名が話頭に上ったことと、その内容にニトロは目を丸くした。
「そうか?」
「ああ、狡猾っつうか腹芸つうか、なんか気取ってやがる」
 その言い草に、ニトロは笑った。なるほど、フルニエはハラキリ・ジジのことをそういう風にも見ているのか。
「まあ、忘れないよ」
 思わぬニトロの笑い声に戸惑っていたフルニエに、彼は言う。
「忘れないけど、都合よく忘れるさ」
「へッ、まぁた気取りやがって」
 そう言いながらもフルニエも笑った。そして彼は続ける。
「だけどな、気づいても、ネェさんは受けねぇぜ? 初めッからアヂテロはお先真っ暗なんだ。何せネェさんは年下のぽっちゃりが好みで、良くも悪くも頭が回るのが前提だ。ところがアヂテロは医療の守護天使シャジャグロのお力で若作りしただけのなよなよしたジジイだ、脳も「おっと、流石にそこまでかな」
「ッぁア?」
「俺から水を向けたくせにこう言うのもなんだけど、多分ね、ここまでだと思うんだ」
 フルニエは途端に不機嫌になり何かを言いかけたが、それをため息に変えて前を向く。
「お前はそう言うが、もう何歩も踏み外してるかもしれねぇぜ?」
「それなら困った」
 フルニエがふっと吹き出す。しかし笑うのが悔しいように組んでいた腕をほどいて伸びをして、
「ンなら、お前が困ってる間に俺は逃げよう」
「てことは俺だけ捕まって怒られろと?」
「真面目な奴は真面目に怒られてこそ真面目ってもんだろ」
「真面目に怒られるからには相手も真面目じゃなければ真面目に反抗するがな」
「どっちにしろメンド臭ぇ、――そろそろだ」
 いつしか車は国道を外れ、緑地帯と併走する道を抜けて閑静な住宅街に入っていた。貴族趣味的な邸宅がゆとりを持って敷地を並べ、敷地内にしてもたっぷりとした余白マージンを美しいガーデンとして整えている。
 ふと、ニトロは地図を思い浮かべた。摩天楼を遠望し、ケルゲ公園を間近に眺望するこの有名な高級住宅街と『オ,ディンム!』の位置を示す。先ほどの製作所を中継していたので気に留めていなかったが、その距離を鑑みれば、機動力のある大手ならまだしも個人店の配達可能範囲としては疑問があった。
「随分遠くまで来たな」
 疑問を含めて訊くと、フルニエはまた腕を組み、
「イレギュラーだ」
 意匠も凝った街路灯に照らされる彼の顔は、不機嫌で、どこか沈鬱なものを窺わせた。
 およそニトロが彼のおもてに初めて見る顔である。
 車は進み、右手に新小古典主義的な――小古典時代の鷹揚なデザインを現代的な手法でソリッドにリバイバルした四階建て……いや、階高が高いのでそう見えるが、おそらく三階建てのアパルトマンが見えてきた。と、
「到着イタシマシタ」
 車載A.I.が速度を落とし、そちらに向かってタイヤを回す。アパルトマンの管理システムと通信し、車は業者用の駐車スペースへと誘導されていった。横手の薄暗いスペースでパーキングブレーキが引かれる。
 フルニエは何も言わずに車を降りた。
 ニトロも追った。
 荷室ラゲッジに残る荷物は大きな保温バッグが一つと、小振りが一つ。それらには寸胴鍋の入っていた保温バッグと違ってロゴがなく、真新しい。
 大きな方をフルニエが取り、さっさと歩き出す。
 ニトロも小振りなバッグを取ってドアを閉めると、ロック音を背にした。
 ふいに二人の前に立体映像ホログラムが現れた。やはり新小古典主義的な服装をした門番である。その案内を受け、フルニエは大股に歩いていく。顎を引き、胸を反らす様はいかにもここに鉄砲を撃ち込んでこいと言わんばかりだ。
 ニトロはそれを不思議に思いながらも早足で続いた。アパルトマンの表に出ると、一階にはポーチが四つ。カンテラを模した照明に照らされる木目調の玄関は、その1室で一般的なマンションの3室を余裕で飲み込むであろう広さに比して謙虚であった。上階への時代がかった――しかし最新の――エレベーターが真ん中にあり、見たところ二階は二部屋が分け合い、三階は一部屋に占有されているらしい……モチーフの時代に沿うならば、逆に屋根裏には使用人用の小部屋が並んでいるところだが。
 ホログラムの門番はエレベーターの前で“気をつけ”をした。
 蛇腹式の菱格子ひしごうし戸が自動で畳まれていき、フルニエとニトロがそこに入ると、門番が最後に乗り込んでくる。戸がまた自動で閉まり、エレベーターは滑車の回る音を流してチューブの中を上昇し、二階で止まった。
 門番が出ていき、左に折れる。
 追っていくと、優雅な花唐草模様の浮き彫りにされた瀟洒なドアがあった。
 一礼をして門番が消えるが、その気配――管理システムのセキュリティがこちらを補足している感触は残っていた。
「ヨウコソ、『オ,ディンム!』様。オ入リ下サイマセ」
 勤勉実直な執事を思わせる声がして、ドアが開いた。
 玄関というよりも応接室と言った方が正しい部屋が二人を出迎えた。
 骨の細いシャンデリアの下に図案化された鳥の模様が幾何学的に並ぶ絨毯が敷かれ、薄ピンクのゆったりとしたソファが一脚、それに対して白い革張りの椅子が二脚、間には赤みがかった飴色の小机。小机には品の良いウェルカムフラワーが飾られている。
 二人が踏み込むと、ドアの正面と、それと右手の外壁に沿ってそれぞれ廊下が続いていた。その正面の廊下の脇に、やはり勤勉実直な執事を思わせるホログラムが現れる。フルニエが小さく鼻を鳴らし、ニトロはそれにはツッコまぬことにして、“先輩”が言わぬので代わりにツッコむ。
「お受け取りは」
 その問いかけに執事は丁寧に頭を下げると、
「コチラヘオ願イ致シマス」
 フルニエが先に立つ。
「……」
 ニトロも、続く。
 執事はその場に留まり、二人がすれ違うや消えてしまった。
 廊下は横に三人並んでも余裕のある幅があった。照明は落とされ、両側の壁に交互に掛けられた絵画に当たるスポットの余光によって数歩ごとに明るくなっている。フルニエはそれらを一顧だにせず進み、ニトロはちらちらと絵を見た。最初に飾られていたのは小古典時代の画家のものだ。美術の教科書に載るほど有名ではないが、肖像画家として人気があったと――同時にそれを説明した女のガイドつきで――記憶している。もしその柔らかな笑顔を浮かべる女性の肖像が本物であればこれほど無防備に飾る度胸は大したものだ。一方、二枚目からはよく分からなかった。現代の前衛芸術のようでもあるし、近代期のシュルレアリスムを模したものにも思える。もしかしたら名のあるものか、いや、名はなくとも所有者の琴線を掻いたのには違いあるまい。そこからはどうやらどれも同じ作者の手によるものであろう絵が続き、最後に、神話を題材にした小古典時代のメロロマン派の絵が恋を賛美する。
 ところでメロロマン派の『メロ』とは、どこかの古語で歌を意味するそうだ。
 ちょうど廊下の先から歌が漏れ聞こえていた。
 ただこれは古い時代のものではなく、最新のヒットチャートで上位を賑わすポップシンガーのものだ。ダンサブルなメロディーに弾むような声がノっている。
「あ、料理屋さんね!」
 廊下を抜けた先の部屋は広かった。パッと視界が開け、一番に目に入る大窓は摩天楼の輝きを遠景にして、そこは天井が高いこともあり、廊下を抜け切ると一種の解放感さえあった。廊下の床は部屋に入ってもまだ突き当りまで伸びているような体をしていて、部屋に入ってすぐ手前にオープンキッチンへの入り口があり、奥に進むと右手に二段ほど内側へ下りるステップが現れる。それを下りた先のフロアは、リビングやダイニングというよりはプライベートホールといった様子だった。キッチンに備えられたカウンターはさながらホールを見下ろすギャラリー席。そのカウンター側に寄せてフロアの左角あちら側にアップライトピアノがあり、右角こちらにはミニバーがある。フルニエとニトロへ声をかけたのは、そのミニバーで談笑するグループの一人だった。
「どうも『オ,ディンム!』です! このたびはどうも!」
 フルニエが軽く帽子を持ち上げて会釈する。ニトロも倣う。
「待ってたわ、もうお腹ぺこぺこ! でも時間通りね。それに、本当にそうやって持ってきてくれるのね」
 夕焼け前の柔らかな陽光のような明かりの下、シックなカジュアルドレスに身を包み、幼く見えるもののおそらく二十代前半の女性がこちらに愛嬌を振りまくように小首を傾げてみせる。ウェーブのかかった髪が上品に広がった。
 ――が、それだけだ。
 彼女は受け取りに来ようとしない。
 今、この場には十五人ほどの若い男女がいて、フロアと大窓の外に続くバルコニーとで思い思いに夜を楽しんでいた。が、その中で、誰一人として商品を受け取りに来ようとしない。ポップシンガーはAメロを歌う。
「あら? テーブルはそちらよ? それとバルコニーに」
 ウェーブの髪の女が不思議そうに言う。どうやら間違いなくここの主人であるのだろうが……
「お皿もそちらにあるわ」
 彼女はキッチンの戸棚にまるで展示するように並べられた食器類を指差す。その爪には何か光るものがあり、それにふと自分でも気づいたように彼女は周囲の男達に振り返った。パーティーの始まる前に友達にネイルアートをしてもらったのだという。彼女を取り巻く三人の若者達は女主人へ柔らかな笑顔を向けた。それぞれ内輪のホームパーティーに相応しい程度の服装で、しかしどれもがハイブランド、ないしはオートクチュールだろう。話題の友達が呼ばれて、フロアの開けた所にいるグループの中から派手な髪の女が女主人の元へ向かうと「わたしのアーティスト」と紹介されて矯声を上げた。
 ニトロは、戸惑っていた。
 商品をテーブルに置く、というまでならまだ理解できる。しかしデリバリーで皿への盛り付けまで頼んでくるのはどういうことだ? よもやケータリングと混同しているのか。それともこういう契約で料理を届けに来たのだろうか? そこかしこに薄ら笑いが窺える。ポップシンガーはサビに入る。
「ほらよ」
 振り返るとフルニエが保温バッグのポケットから使い捨てビニール手袋のケースを取り出していた。ということは、やはりこういう契約だったのか。ニトロがケースから取り出した二枚を手にはめると、体温と皮膚の水分に反応して密着してきた。使い捨ての中でも高品質なものだった。ニトロが少し驚いている隙間を狙ったように、フルニエが彼の肩にかかる小振りな保温バッグのストラップに手をかけてきた。
「皿を取ってきてくれ、適当でいい」
 ニトロは、うなずいた。
 皿に盛るまでが契約だったのであれば、それはそれでいい。
 しかし……気になるのはフルニエの表情だ。本人はただビジネスに励んでいますとばかりの顔をしているが、そこには人知れずギャンブルに大勝ちした者の笑みが潜んでいるように思えてならない。
 フロアに下りたフルニエは、己に目を向ける者、そして目を向けない者にまでビジネススマイルを振りまきながらまっさらなテーブルの脇に立ち、大小の保温バッグを置くや早速使い捨て容器に詰められた料理を取り出し始めた。ポップシンガーは転調する。
 一方、キッチンスペースに入ったニトロはちょうど良さそうな大皿に目をつけ、フロアに背を向けている自分の顔を誰も見ていないことをいいことに、深く眉間に皺を刻んだ。
 大皿は白磁に華やかな赤を基調に彩色したもので、図柄の中央には紋章が描かれていた。ただのアンティーク趣味で収集した代物ではない。他の皿にも同じ紋章が見えて、確認するまでもなくフルコースにも使用できるよう揃えてある。
(なるほど)
 継承権の有る無しでその“価値”もまた変わろうが……彼女の周囲にいるのは彼女と同じ貴族か、いわゆる『上流階級ハイソサエティ』の子女ばかりで、そこにちらほらと“平民”も混ぜてあるようだ。ここには自分にとって馴染み深くはないが、知らぬわけでもない特有のにおいが充満している。それは甘美で、背徳的で、ある人には毒酒だが、それだけに神の美酒となる。
 ニトロは慎重に皿を取った。屋内とバルコニー用と二枚必要だが、重さもあり、重ねて運ぶのは少々怖い。フロアに下りるとこちらのことなど意に介していない男が隣の男とじゃれ合い後ずさってきて、危うくぶつかりそうになったニトロは慌てて身をひるがえす。酒の入った相手はそれに気づかず、もう一人の男は気づいていたが、ワイングラスを少しスワリングさせただけで何事もない。
「おお、サンキュー」
 ニトロが無言でテーブルに大皿を置くと、フルニエは先輩風を吹かすような態度で言ってきた。ちらと睨むが、こちらもまた何事もない、迷いのない動きで容器から――蓋を開けるだけで十分なはずのパーティープレートから、使う必要のなかったはずの大皿へ料理を移していく。
 それでは下っ端らしくとニトロはキッチンに戻り、大皿をもう一枚運んでくる。
 フロアに戻るとフルニエはもうほとんど盛り付けを終えていた。
「ちょっと待ってろよ〜」
 と、彼は最後にフリットを並べていく。その手際に思わずニトロは感嘆していた。スピードの必要な繁盛店で鍛えられているだけはある。彼が料理をするところは以前にも見たことはあるが、それはただの手遊びだったのだろう、段違いだ。
「よし、持ってってくれ」
 空の大皿を置き、ニトロは黙って食べ物で満載の大皿を持ち上げた。今の変装は簡易だ。帽子を目深に被っているとはいえ、この距離で、この手の人々に声を聞かれれば正体を悟られる可能性は高い。
 沈黙は金である。
 ポップシンガーは新たな曲を歌う。
 ニトロは大皿をバルコニーのテーブルへ運んでいった。
 そこに注文主がやってきた。
「わあ、美味しそうなのね! こんなにも!」
 無邪気な喜びで、その青い瞳は輝いていた。
「これは何? この葉っぱも食べられるの?」
 指差したのは――その爪には小さなダイヤがある――飾り切りを施したキュウリだ。
「……食べられます」
 喉の肉を裏返して押し込んだような声で、ニトロは言った。
「キュウリですから」
「キュウリ! キュウリなの!? これが! 素敵! ねえ、これは?」
「エビのフリットです」
「エビ? これが? まさか赤ちゃんなのかしら」
 その刹那、ニトロはいつもの調子でツッコミそうになった。ていうかこういう“キャラ”を材にした漫才ネタがある。よもやそれを現実で!――いや、確かにこういう類型タイプというものはあるし、だからして矮小と誇張によってキャラクター化もできるのであろうが、ただそれと違うのは、この女主人には自由意志があり、そしてキャラクターとは違って他者の寓意も悪意もないことだ。そう、この女性には嘘がない。
「いえ」
 彼女の背後の顔を視界の隅で見ながら――ポップシンガーはBメロに――ニトロは言う。
「おそらく成人、少なくとも赤ん坊ではありません」
「そう、よかった」
 と言って彼女はフリットに手を伸ばす。
 またも一瞬、ニトロはツッコミそうになった。お会計がまだです――しかし、構わないだろう。赤い尻尾を優しくつまんだ彼女は思い切ったようにパクリと食べて、ラメの入った紅色に染まる唇を丸めたかと思うと、大きく弓なりに開いた。
「こういう味なのね! ちょっとスパイスが強めだけど、いいえ、でも美味しいわ!」
「お酒に合いますよ」
 苦笑を噛み殺し、ニトロは言った。すると彼女は手を打ち、
「そうね! ええ、そうだわ、お酒に合うように作ってくれたのね! ねえ、どのワインがいいかしら。赤? 白?――レデルグランドのロゼなんてどうかしら」
「お嬢様、少年が困っていますよ」
 バルコニーから笑みを含めて声がかかる。この中で最も年長らしい男が、この中で最も華やかなグループの中心で、まるで滑稽話のように両脇に綺麗どころを侍らせていた。
「さあ、お放しになって下さい。相応に働かせてあげませんと」
「そおよぉ」
 派手な髪の女がお嬢様を後ろから抱き締める。
「それに、はしたなくてよ? ワタクシの女神ミューズ様」
「ああ! そうね、はしたなかったわね。皆様失礼しました。ついはしゃいでしまって」
 派手な髪の女の後からやってきた取り巻きの一人が恭しく跪き、可憐な花を扱うようにお嬢様の手を取ると、そっとその指をハンカチで包む。それだけでも少々度が過ぎちゃいないかと思うそばから声を震わせて、
「この幸運なハンカチはいつまでも私の胸に、貴女の無垢の思い出として、よろしいですか?」
(ッッッ!!)
 ニトロはツッコミ魂を抑えるのに必死だった。
 ポップシンガーのファルセット。
 ああ、とにかく仕事を終えよう。
 彼は大皿をバルコニーのテーブルに置いた。そしてこの場の雰囲気に飲まれたように目を伏せて動きながら、しかし注意深く周囲を観察していた。こちらに向けられる目は大別して三種。見下しているか、見世物にしているか、全く関心を向けていないか。イレギュラーとして疚しさを感じているらしい眼差しが一つ、二つか? 一人の若い男はこちらを手伝わなくていいのかと感じているらしい、もう一人の女は周囲の態度が気に食わないらしい。だが、それらも沈黙することで異口同音にうずもれる。女主人は再び三人の取り巻きに囲まれていた。
 甲高いファルセット、そしてビブラート。
「ヤヴィズム」
 ふと、ニトロは言ってしまった。
「え?」
 若い女主人が目を輝かせる。
 しまった――と思うがもう遅い。取り巻きの目も、派手な髪も、バルコニーの視線もこちらに集まっている。ニトロは声を作り直して続けた。
「タンブラーに氷をたっぷり、1:2か3でソーダを。好みでレモンを搾っても」
「ハイボール、そうよね?」
 取り巻きの一人に確認を取って、まるで覚えたての数式を使って問題を解けたことが嬉しいかのように、
「ハイボール! それが合うのね!――でも、ヤ……」
「ヤヴィズム」
 背後からあの男が言う。
「庶民の愛するウィスキーです。お嬢様の繊細なお口に合うとは思えません。無論ここにあるはずもありませんし、それを勧めるとは」
「でも……」
 言いよどむ女主人へニトロは微笑む。
「もちろんそちらにあります、グリプラガンでもよろしいかと」
 さらりとそのミニバーにある中で最も庶民的な高級ウィスキーの名を挙げ、ニトロはフルニエの待つテーブルに向かう。するとフルニエはこちらに厳しい目を向けていた。
 ニトロが戸惑う暇もあらばこそ、彼は言う。
「会計を忘れるなよ」
「ああ!」
 その言葉に反応したのは、誰よりも女主人であった。
「そう、お会計、忘れていたわ、いいえ忘れてはいなかったけれど、つい夢中になってしまって」
 そして彼女はミニバーに行く。
 ニトロは周囲の目に変化のあることに気がついていた。
 見下しているか、見世物にしているか。その二つは変わらぬが、これまでの無関心は消え、代わって軽蔑とほのかな敵意が加わっている。そう、庶民のウィスキーが無礼を働いたと見なして。
「お会計、そうよお会計!」
 ミニバーから戻ってきた女主人は妙に興奮していた。手には電子マネーカードがある。傷一つない新品であるらしい。
「これも楽しみにしていたの」
 何の底意もなくニトロに笑顔を向けて彼女は言う。
「だって初めてお金を払うんですもの」
「いつも我々を養育して下さっているではありませんか」
 からかうようにバルコニーの男が言った。取り巻き達も同意して笑っている。
「いいえ、いいえ」
 女主人は嬉しそうに首を振る。
「こうして自分でお会計をするのは初めてよ? ずっと憧れていたの、ねえあなた、どうすればいいのかしら? 今も金貨であればそれを受け取ってもらいたかったのだけれど、ああ、ドキドキしちゃう」
「……」
 ポップシンガーのリフレイン。
 ニトロはモバイルを取り出した。
 リフレイン。
 手早く操作する。
「こちらを、ご確認下さい」
「どちら?」
 女主人はニトロに体温の感じられるほど近づいて提示された画面を覗き込む。
 見下しているか、見世物にしているか。その眼差しの隙間から小さな舌打ちが届く。明らかな敵意と侮蔑――そこには嫉妬もあるのか?
 ニトロは低く、小さく落ち着かせた声で、ぼつぼつと途切れるように説明していった。
「そして合計が、こちらになります」
「ええ、いいわ」
「領収書は」
「もらっていたほうがいいの?」
「ご自由に」
 すると女主人はニトロがぎょっとするほど頬を赤らめ、
「それではね、それでは、頂戴?」
 ――ニトロはモバイルを操作し、
「ではこちらにカードを」
「見せるの?」
「重ねてください」
 人生の履歴を感じさせない、爪の全てに宝石の欠片を塗りこんだその手は陽気にカードをモバイルに重ねる。ピッピッと電子音が連続する。
「……これで終わり?」
「はい」
 女主人の顔が達成感に染まった。涙で目が潤む。それはとても純粋で――しかし純粋ということは、それ以外には何もないということだ。
「あら? 領収書はどこにあるのかしら」
 カードを表、裏とひっくり返して女主人は困惑していた。その姿と、それを包む全てを避けるようにニトロは目を伏せ、
「データとして、カードの中に。見るには――」
「そうなのね! それならいいの、ヒュキロに任せるから」
 そのヒュキロが誰かは知らぬが、おそらく先ほどの執事姿のA.I.か、実家の会計係であるのだろう。女主人は喜びそのもので頬を染め、マネーカードを胸に抱くと取り巻き達のところへ駆けていく。
 ニトロは思う。
 あのはしゃぎっぷりは、もしや解放感を土台にしているのではないだろうか?
 と、その時、
「おぉい、ポルカト」
「ポルカ!」
 それは、あまりに無意識だった。
 状況に対応するために頭を働かせ、また女主人に意識を向けすぎていたがために、まさに脊髄反射のごとく、ニトロは本名を呼んできたフルニエに思わずツッコンでしまっていた。
「あ」
 と、ニトロはうめいた。
「あ!」
 と、誰かが声を上げた。
 一時いっときの、されど嫌に長く感じる沈黙。
 簡易な変装、そこに素の声、しかも世に出始めの頃に流布された有名なツッコミ……正確には順序が逆転しているが、その程度で見逃されるはずもない。ポップシンガーはノリノリだ。
「ニトロ・ポルカト!」
 叫んだのは派手な髪の女だった。彼女は口を手で覆い、目を大皿のように丸くしている。バルコニーに大きなざわめき。女主人は呆気に取られてこちらを凝視していた。
 ニトロはフルニエを睨んだ、その偽りの黄色い瞳で。
 フルニエは、それでもただただビジネスに従事する顔で――しかしこれぞ人生最大の会心事と語る笑みをニトロの目には映して――顎を動かし言った。
「デザートの皿が足りねぇ、取ってきてくれ」
「とんでもありません!」
 そう叫んだのは、女主人だった。
 その背は型枠に納められたようにまっすぐと伸び、先ほどまでの無邪気さの面影もない顔でまっすぐニトロを見つめる。その頬からは彼が見たはずの喜びも消えていた。青褪めるというよりも、夢から醒めたような眼差しがそこにはあった。
「まあ、まあまあニトロ・ポルカト様。お人の悪いことをなさりますのね?」
 それは抗議ではない。ハメを外した貴族の子弟を窘めながらもそれを楽しむ貴婦人の大らかさで、彼女は微笑んでいる。
 つい数秒前まで混乱寸前だった周囲は、その一声で、全く鳴りを潜めてしまった。中には女主人の態度に呆気に取られている様子の者もあったが、ただ大半はここに『ニトロ・ポルカト』がこのような形で登場したからには『クレイジー・プリンセス』の影もあるはずだと怯え、あるいは期待している。――女主人は、どうであろうか? 彼女の瞳には疑惑というものがない。
「……大変失礼致しました」
 ニトロはフルニエを一瞥した。彼は様子を伺っている。しかしそこには幾らかの当惑が――失望にも近い狼狽が見えた。ニトロは女主人を見つめ、
「無用な混乱を避けるために正体を隠し、その結果あなた様方を騙すような形になりましたこと、まずはお詫び申し上げます」
 帽子を取り、頭を下げようとして、しかしそれを押し留める貴婦人の眼差しに気づいてその簡略的な礼だけで止め、
「ただこれは誓って友人の――彼のことですが――本日はその臨時の手伝いとしてやってきたものです」
「あら、そうでしたのね? ではここにいらっしゃったのは偶然ということでしょうか」
「少なくとも僕の意思の及ぶところではありません。もちろん、これは姫君の悪ふざけでもありません」
 この一言で、それを納得した者は果たして何人いただろう?
 しかし女主人は手を合わせ、
「まあ、まあ! それではやはり偶然ですのね!?」
 ニトロは、危うくたじろいでしまうところだった。
 彼女はこちらの言葉をすんなり信じ切っていた。そしてその結果により生じた歓喜を盲信し、しかもそれを隠さない。
「なんて素晴らしいのでしょう! このような幸運にも恵まれるなんて、わたくしは幸せすぎて怖いくらいです!」
 周囲の空気が変わる。
 不安定化していた彼女への視線が元に戻る
「さあ、ポルカト様、よろしければわたくしたちのパーティーに参加していただけませんこと?」
「いえ」
 ニトロは帽子を胸に当てた。
「僕は、こちらに仕事で参りました」
 丁寧に頭を下げると、はっとしたように女主人は瞬きをすると、ゆったりと微笑んだ。
「そうでしたわね。ニトロ様、貴方はお噂通りのお方ですのね。それでは、よろしくお願いいたしますわ」
 ニトロは目礼を返し、フルニエに向き直った。
 彼は平静を装っている。その頬にはビジネススマイルが貼り付いている。
「皿だったよな?」
「取り皿もだ」
「それだと手が足りない、来てくれよ」
「――おおよ」
 あらゆる視線を背に集めながらニトロはフルニエとキッチンに向かい、表情を崩さぬ彼に小声で問う。
「一つだけ聞かせろ。盛り付けるのも話のうちか?」
 フルニエは戸棚に手を伸ばす。持っただけで割れてしまいそうなほど薄い皿を何枚か取り、しばらく間を置いて、うなずく。
 ならばこちらは彼女を愚弄する企ての一助というわけではないのか。それについては安堵する。しかし、では自分は彼女に注意をしておくべきだろうか。――ニトロは取り皿にするのに適当なものを選んだ。
(……いや)
 両者の間でちゃんと話がついているのなら、その他については何も言うべきではないだろう。話がつくまでの経緯を問い質してから彼女に改めて忠告する選択肢もあるが、それは老婆心にしても少し踏み込みすぎだ。しかも場合によってはその忠告は侮辱にもなりうる。特に彼女の住む“世界”では――忠告をするにしてもルールに抵触すればその力を失うのである――しかし、自分はそれを碌に知らない。いくつか相談できる顔も浮かぶが、思い浮かぶと同時にその全てが同じことを言ってきた。「それは彼女の問題だ」と。
 フルニエがデザート――パンケーキやホットプリン、パンプディングにベイクドアップルを盛り付けていく間にニトロは取り皿を運び、それからキッチンに戻ると、よく手入れされた純銀製のカトラリーをまとめて、それぞれのテーブルに取りやすいよう配置していく。その姿を女主人もパーティー客もずっと見つめていた。その視線がニトロには痛かった。が、その中に先ほどよりも配達人こちらを手伝うべきかどうか迷う姿が多く見えるのには内心苦笑していた。そこには『クレイジー・プリンセス』への不安を隠せない者があり、中には逆に『王女の恋人』に近づきたいという願望を隠せない者もあるが、どちらも今さら手伝えるはずがない。バルコニーの男は平然と近くの人間に話しかけている。が、そのくせこちらに顔をよく観られないようにしている。
 ポップシンガーが交代し、アイドルグループが賛美歌をサンプリングしてポップに歌い始めた。
 パーティー客の視線は女主人とバルコニーの男と『ニトロ・ポルカト』との間でぐるぐると回り続ける。
 その渦の外れで、フルニエが独り、仕事を終える。
「では」
 彼の小さな声に反応したのは女主人だった。
「今思い出したのだけれど、お電話でお話したのはあなたよね?」
 急に問いかけられたフルニエは随分驚いたようだったが、すぐに顔を帽子の陰に沈ませ、「はぁ」とほとんど吐息に近い答えを返した。すると女主人は両手を胸に当て、瞳を輝かせる。
「やっぱり! それでは、このお料理もあなたが?」
「――いえ」
「違うの?」
「普通、調理人と配達人は違いますので」
「そういうものなの?」
 取り巻きの一人に確認すると、その男はうなずく。
「それならシェフに伝えておいて。ごくろうさまって」
「はぁ」
 フルニエは帽子を取って礼をする。
「あなたもね、ごくろうさま。
 ポルカト様、ささやかながらこの他愛もない心臓より血よりも熱く御礼申し上げますわ」
 帽子を被り直す嘘つきを見つめていたニトロは女主人に振り返り、仕事中は被っていた帽子を取ると、頭を下げた。
「至らぬところはお許し願います。どうぞまたご利用下さい」
「その時もまたいらしてくださるかしら」
 ニトロは失礼にならない程度に苦笑する。
「先ほども申し上げましたが、本日は臨時ですので」
「それではご招待いたしますので、是非」
「機会があれば。しかし無礼を承知で申し上げますが、一度配達に来ただけの者を簡単に信用なさるのはいささか無用心に過ぎます」
「そうですの?」
 その心からの疑念を受け、ニトロは、ふと思いついた。
「レンフィーナはそれを教訓にしていると存じます」
「あら」
 女主人は片手を唇に当てた。そしてうっとりとほころぶように微笑み、ニトロを見つめた。
「それでは今夜はこのままお別れするしかなさそうですわね。またいつかお会いすることがあれば、その時は改めてご招待いたします」
 ニトロは今一度頭を垂れる。
「光栄です」
 と、そう応じた瞬間、突然ニトロは笑い出したくなってしまった。このアパルトマンに来るまでに言われた言葉。そうだ、今まさに自分は気取っている。頭を上げると、そう言ってくれた相手は無愛想なビジネススマイルで待っていた。
 アイドルグループは100年前のダンサブルナンバーをカバーしている。
 ニトロはフルニエの先に進んだ。
 来た時は無人で迎えられた配達人達は、全員の見送りを受けてドアを出た。先頭に立つ女主人はドアが閉まるその瞬間まで、いや、きっとドアが閉まった今も笑顔でいるのだろう。
 エレベーターの前に来た時、二人の先導に表れた立体映像ホログラムは門番ではなく、部屋の中で出迎えてくれた執事だった。車に乗り込んでもまだ執事はそこにいた。車が走り出し、駐車スペースを抜け、車道に入ってもぼんやりと闇夜に浮かぶ執事はまだその場で頭を垂れていた。その間、二人は一言も発しなかった。
 饒舌であった往路はもはや影も形もない。
 ニトロは前だけを見る。
 フルニエも前だけを見ている。
 互いに腕を組み、互いに口を固く結び、顎の筋を強張らせる。
 車は来た道をなぞるように帰路を行く。違うのは製作所には立ち寄らず、国道をまっすぐ店へと向かうところだ。
 30分近く無言のまま走り続け、そろそろ店に着く頃だろうという時、ふと、おもむろにフルニエがモバイルを操作した。
 進路が変わった。
 店への道を通り過ぎ、しばらく行ったところで車はロードサイドのコーヒーショップに入っていく。
 フルニエが下りた。
 ニトロは下りない。
 車はフルニエを残したまま出発した。どうやらフルニエがナビにそう動くよう命じていたらしい。駐車場を出て、すぐ脇道に入る。1分も行かないところに公園があった。住宅地の中にあるにしては比較的大きい。子ども用の遊具が並ぶスペースと、小さい広場に大人用の健康促進のための遊具があるスペース。それと花壇に寄せて並べられるベンチ。投光器に明るく照らされるそこに人影はない。その公園脇に車は停止した。
 ニトロは携帯モバイルを取り出した。メールが一つ。確認すると母からだった。緊急性はないようだ。着信も一つ。こちらは友達からだ。気になるが、こちらも緊急性のないようなので後に回す。
 しばらくすると、コンコンと窓が叩かれた。
 そちらを見ると、寒々しい助手席の窓の向こうにフルニエがいた。
「……」
 彼の手にはテイクアウトのコーヒーカップが一つずつ。
「……」
 ニトロは、車から下りた。
 それを見てフルニエが公園の中に入っていく。
 車載A.I.に駐車ランプを点けるよう小さく言って、ニトロはドアを閉めた。
 フルニエは投光器の傍のベンチに座り、リサイクルファイバー製のコーヒーカップもベンチに置く。それを挟んでニトロも座った。
 どこかから赤ん坊の声が聞こえてきたが、急に消えてしまった。窓が開いていることに気づいて慌てて閉めたのだろう。
 ややあって、フルニエがコーヒーカップの一つを取り、蓋にある飲み口を開ける。
「そんなに怒ンなよ」
「怒らないと思ってたのか?」
「いや、思ってた」
 ニトロはコーヒーカップを手に取った。熱が伝わってくる。蓋を開けずとも漏れる香りは高い。
 フルニエはコーヒーカップを置き、腕を組んだ。
「今日、俺は確信したぜ」
「……」
「金持ちは性格が悪くて、頭が卑しい。だから他人様の信用でメシをがっつきながら、そのツケをまともに払おうとしねぇ卑怯な真似もじやしねぇ。しかも自分は強者だから誰を嘲ろうが許されると思ってやがる」
「……」
「あのお嬢様が俺の連帯保証人だ。いや、あのお嬢様を連帯保証人にしちまったら俺が損すんな。だが同情なんかする必要はねぇぜ? お前も気づいたろ、ああいう手合いは人にしてもらうのが当然って思ってんだ。いや、させるのが当然、そうされて当然、俺達みたいのは働かせて当然、むしろそうでなければならねぇ。そうだ、注文を受けたのは、俺だった。お嬢様は仰った『お料理にはうちのお皿を使ってね』――ケータリングと勘違いしてんのか? って思ったけどよ、それ以前にあのお嬢さん、使ってね、だ、既に決定してんだ、そうしてくれるのでなければおかしいとハナから決めつけてやがんだ。声だけでも分かったぜ、その傲慢さがよ、お前もすぐに分かっただろ、あのお嬢さん、やたら無垢を気取ってやったが身に染み付いた差別意識は垂れ流しだ。平民をにこやかに見下してんだよ。デリバリーというお料理を食べてみたくって。あら、デリバリーというお料理はないのね? でもいいわ。でもいいわ! なあ、お前が『ニトロ・ポルカト』だって分かってからの態度を見たか? いや傑作だったぜ。パーティーやってるってのは注文の時に言ってたがよ、それもセキュリティがやばいことになる情報をぺらぺら喋りながらだぜ? 俺は受けたよ、世間知らずで傲慢なお嬢様のご注文を、いい金にもなるからな、受けてやったさ。そしたらウィモンの奴が中毒やられやがって、パーティーに集まってたのがああいう連中で、俺の方こそラッキーだ。お前も見ただろう? お前が『ニトロ・ポルカト』だって分かった時の連中の顔をよ。特にだ、特にバルコニーの連中は最高だった。どうやらタカリの大将はそこそこ肝が据わってるようだけどよ、露骨に隠れた奴もいたぜ? その後もお前にゃ警戒しっぱなしだ。ビクビクもんだ。お前のクソ真面目さを知ってやがるんだな、お前にどう思われるかが怖いんだ。自分達のやってることを知ってるから、知ってるからこそなお性質が悪ぃ、それをコワーイお方に告げ口されんのを怖がってやがんだ。知ってたか? 何度かお前に声をかけようとしていた女がいたんだ。何度かお前に近づこうとしてたんだ。その時の並のおべっか使いじゃ敵わねぇほど下心丸出しのお目目をお前は見たか? だがお前が真面目に仕事をしてるもんだから結局声はかけられねぇ、ああ、臆病だ、臆病で卑怯な奴らばかりだ」
「それでお前は満腹になったのかい? フルニエ・カデンドロ・フィングラール」
 そう呼ばれた瞬間、フルニエは弾かれたように組んでいた腕をとき、拳を握り、凄まじい形相でニトロを睨みつけた。その名は己が『称号貴族ペーパーノーブル』であることを彼にまざまざと思い起こさせるのだ。貴族が余剰となった時代以降、貴族からも平民からも嘲笑の的となってきた名ばかりの存在であることを。しかも彼は彼の父が貴族として相応の職責を得ねばその称号なまえを名鑑から除かれる世代である。己の力だけではどうしようもないのに、屈辱だけが勲章となってその胸に継承されている。
 ニトロは手にしたままのコーヒーカップを両手で包み、ただ前を見ていた。それでも視界の端に映るその顔は、自分の知らない誰かのものであった。
 やがて、ニトロの視界からその見知らぬ顔が消える。
「ああ、満腹だぜ。吐き気がするほどにな」
 声はどこか遠く聞こえた。おそらく反対側に顔を向けているのだろう。ニトロは静かに言う。
「お前は、惨めだった」
「……うるせぇよ、ニトロ・ザ・ツッコミ。偉そうに言いやがって」
 しばらくの沈黙の後、ニトロはコーヒーカップの飲み口を開けた。それから息を一つ大きく吐くようにして、
だから、俺だったのか」
 実を言えば、ニトロは常々フルニエを偉いと思っていた。偉いなどと言えばきっと傲慢になるだろうが、しかし、だからこそ、彼に助けろと頼られたのは嬉しかったのに。
「クレイグやダレイでなく、俺を選んだ理由がよく分かったよ」
 あの二人も自動運転免許を持っている。釈然としないものはあったのだ、
「それにオヤジさんのツテでも助けは呼べただろうからな」
「いや」
 フルニエは首を振った。
「あいつらにゃ頼れねぇ。あいつらを信用してねぇわけじゃねぇが、荷が重すぎる。クレイグなら乗り切れるかもしれねぇが、どっちにしたって不愉快で、笑いものになるのがオチだ」
 ニトロは苦笑した。
「俺なら不愉快で笑いものになってもいいのか?」
「お前は逆に不愉快にして笑いものにできるだろうが」
「そういうふうにすると思ってたのか」
アヤだ。だが、そうだろ? お前なら不愉快にも笑いものにもならねぇ、しかもお前はコツを知ってる」
「コツ?」
「ああいう連中とやりあうコツさ」
 ニトロは、笑う。
「いいや、そんなコツは知らない。知ってると思ったこともない」
「ンなこと言ってうまくやってたじゃねぇか、ンだよレン……レ、なんだ?」
「レンフィーナ」
「それだ」
「小古典時代の代表的な悲劇のヒロインだよ。こないだ国語ン時に話題に出たろ?」
「子守唄を歌う方が悪ぃと思わねぇか?」
「また寝過ごしやがったのか」
「どんな話だ?」
「調べろ。ただ、彼女は恋人からの手紙を届けにきた紳士を信用するあまり、破滅するんだ。その紳士が決して信用できない相手だとは思いもせずにな」
「ンならあのお嬢様には皮肉じゃねぇか。――ああ、でも、それを知ってても自分には気づかねぇのか」
「ダイオンならストレートに効くかな」
「そいつは知ってる、人間嫌いのダイオン、オヤジさんが好きなんだ、気前が良すぎて破産して、その時誰も助けてくれなくて正気に返った」
「狂気に落ちた、だろ?」
「いいや正気さ。だが正気も狂気も似たようなもんだ」
 ニトロは笑った。
「そいつはハラキリが言いそうなことだなあ」
「なんッ!」
 フルニエは怒鳴りかけたが、後を続けずそのまま言葉を飲みこんだ。
「……オヤジさんのツテなら」
 そして話題を戻し、彼はため息をつく。
「オヤジさんはともかく、俺が信用できねぇ。信用できねぇ奴と行くには面倒なところだ。だから結局、選択肢はお前だけだった。……“計画”が頭に浮かんだのも、そん時だ」
 ニトロは、ニヤリとした。
「嘘つけ。選択肢の中にはハラキリもあっただろ」
「いの一番に外した」
 ということは選択肢にあったというわけだが、ニトロはあえてツッコマずにおく。
 フルニエはコーヒーを飲んだ。
 そして、
「すまなかった」
「……」
 ニトロは、コーヒーに口をつけた。
「もし俺が怒らないと思っていたんなら、付き合いを考えなきゃいけなかったよ」
「……」
「ただまあ『ドッキリ』にしちゃ王道だったな。それだけにそれだけじゃあ大したもんじゃないが、仕掛けのタイミングにゃ舌を巻いたよ。ただ、その後が悪過ぎる。俺に投げっぱなしってのはどういうことだ? 俺と彼女らを泳がせておいてから美味しく絡んでくる、なんてこともない。臨機応変に対応できなくて、しかも、あえての放置としても傍観に堕しちまって区切りをつける監督責任も取れやしない。そんなん間抜け以外の何でもねえ」
 フルニエは、ニトロを凝視していた。その顔は複雑であった。明らかに“計画”にダメ出しされたのに、そこには『バカ』と比較されている部分もあるのだと察してどう反応したものか判らずにいるのだ。するとニトロは露骨に嘲笑を浮かべ、
「お姫様と比べられて気持ちいいと思うくらいのプライドがあるんなら、堂々としてろよ貴族様」
 フルニエは顔を赤くした。またも拳を握るが、すぐに息をつき、
「分かった、悪かったよ。そんなふうに虐めるな」
「――少し言い過ぎた。ごめん」
 ニトロはコーヒーを飲む。
 フルニエもコーヒーを飲む。
「ところで」
 ニトロはもう一口コーヒーを啜り、
「ここでサボってていいのかな?」
「さっきので俺の仕事もお前のも上がりだ。つか、もう俺達ゃ働いちゃなんねえ」
「……あー」
 そういえば先ほど携帯を見た時、時計は22時直前だったか。
「普通ならな」
 フルニエが付け足した一言に、ニトロは苦笑する。
「働き者だよ。フルニエは」
「それでも俺の一日分があいつらの一時間の稼ぎにもならねぇんだから、この世はどうかしてる」
「狂気も正気も似たようなもんなんだろ?」
 フルニエは、声を上げて笑った。
 そして大きなため息をつき、
「あのお嬢さん、いつ気がつくと思う?」
「もしかしたらもう気づいてるかもしれないぞ?」
「賭けるか?」
「賭けになるか?」
 フルニエはくっくと笑い、吐き捨てる。
「幸せなもんだぜ」
 ニトロは低く空を見た。
「どうかな。死ぬまで気がつかないでいられれば幸せだろうけど……それとも実は気づいてもショックを受けないようなメンタルをしてるか、気づいてもそれすらあんな風に楽しめるほど突き抜けてるか」
「どうかな。そんで死ぬまで気づかないでられると思うか?」
「賭けになるか?」
 フルニエは笑い、むせて咳をする。ニトロはコーヒーを飲み、息をつきながら言う。
「でも、可能かもしれない」
「そんだけ金持ちならなあ」
「いや、生かさず殺さず毟り取る――そういうのが得意なのもいるだろ?」
「ああ。いそうだったな、あん中にも」
「……小古典時代の芸術ってさ」
「あん?」
「おおざっぱに言ってロマンス最盛期なんだよな。そん中でも恋と愛の幸福を心臓にして」
「お嬢様の心臓はその時代で止まってそうだったぜ?」
 思い返せば、通路に並んでいた前衛的なあの絵画。あれらは趣味から外れている。
「クオリアが言ってたんだけど」
 急に共通の友人の名を出され、フルニエがわずかに目を丸くする。ニトロは続ける。
「芸術は『感情を永遠にするもの』らしい」
「だから、その時代で止まってるって?」
 ニトロは苦笑した。確かに今の流れではそうなるか。
「いいや、そうじゃなくって、てことは永遠にしたいほどの感情が芸術を生むんだろうなってことだよ」
「……そんで?」
「お嬢様が夢見ている永遠にしたいほどの感情は、きっと怒りや憎しみ、もちろん絶望なんかじゃないだろう」
「分かった、ああ分かった。お前はやっぱりクソ真面目だ、つか良い子ちゃんだ、このお人好しが」
「だって夢見が悪いと思わないか?」
「いいや、思わねぇな。いいかニトロ、そいつはお嬢さんの問題だ。それくらい自力で解かせねぇとお前もあのお嬢さんを育てた連中と同じだぜ」
 一瞬、ニトロはきょとんとした。先刻自分の思い浮かべた顔、その顔の全てがきっと言うだろうと思ったこと、それと同じことをフルニエは言った。その上で、彼は痛烈な指摘を加えてくれた。さらに彼は続ける。
「だがもしお前がマジでご招待いただくようなことがありゃ、それとなくヒントを投げてやれ。そういう間柄なら、まあそれくらい別にいいだろうさ」
 ニトロは笑った。声を上げて笑い、笑いすぎてむせた。窓を開けている家があったら迷惑だったかもしれない。彼はどうにか喉を落ち着かせ、
「そうだな。もしそういう機会があったら、その時また考えよう」
「それにしてもなあ、あのお嬢さん、一生自慢するぜ?」
 と、急にそう言われてニトロは目を丸くした。
「何を?」
 するとフルニエは妙なしなを作った。
「わたくしの初めてのお相手は、あのニトロ・ポルカト様ですのよ?」
 ニトロは半眼で友人を見つめ、やおら嘆息し、
「……その言い方はともかく、まあ、確かに事実だ。別に構わないだろ」
「そうか?」
「それが自慢になるならな」
「ああ、そうだ」
「今度は何だよ」
 するとフルニエがモバイルを取り出し、操作する。
「今日の給料だ」
「あれ? 今渡すの? フルニエが?」
「オヤジさんの了解は取ってある。タイムカードは押してねぇが、車を出してからの5分単位で計算してる、いいな?」
 5分単位は契約書にあり、車を出してからというのも今回に関しては妥当だろう。ニトロはうなずいた。
「あ、あとな、お前はこのまま直帰しろ。店に着いたら電話するから、それで登録ゲスト解除してくれりゃいい」
「え、何で?」
「メンド臭ぇことになるからだ。言ったろ? 付き合うなって。バッグは後で届けてやる、オヤジさん達にゃうまく言う。お前はよく急用が入るからな、それも不思議じゃねぇし、何かごちゃごちゃ言っても俺が責任を持つ」
「……いや、戻るだけ戻るよ」
「俺の好意が受けられねぇか?」
「それでフルニエの立場が悪くなっても困る。気持ちは嬉しいけどさ」
 思えばこちらのバッグを自分のロッカーに入れていたのは、彼の気遣いだったのだろう。――それにしても本当に、彼のオヤジさん達への態度は複雑だ。ニトロはフルニエから視線を外し、言う。
「だけど『ニトロ・ポルカト』は、俺だ」
「……ホントにクソ真面目が。あーあ、オヤジさんが契約書を見てねぇことを期待するか」
「そんなに面倒なのか?」
「面倒だ、いや、お前はうまくかわすだろうが、見てる俺が恥ずかしくなる」
 それはおそらく、それだけ相手を親身に感じているがために。
「あとなあ」
「うん?」
「まあ、だからお前だったわけでもあるんだけどよ、お前にはカワイ子ちゃんがいるからな? 強引に食いついてこようとするなら遠慮なく追い払え、俺に構うことぁねぇから」
 そのカワイ子ちゃんとは二重の意味で言っているようだが、とすれば?――思わずニトロは呆れて言った。
「そんなに信用してないなら、辞めたらどうだ?」
「信用してねぇのはそういうとこだけだ」
 むっとしたようにフルニエは言う。が、すぐに口調を改め、
「まだ盗むもんがあるからな、盗み切ったらおさらばだ」
「……」
 本当に、人の人を見る目は複雑だ。
 ニトロは小さく笑み、
「それじゃあ今急用ができたようだから、店についたらすぐに帰るようにしよう。――で」
 電子マネーの受け渡しを可能にした携帯モバイルを差し出す。
 すぐにフルニエがモバイルを重ね、ピッと電子音が鳴る。
「――確かに受け取った」
 ニトロが金額を確認すると、フルニエは急に笑い出した。
「どうしたんだよ」
 訝しげにニトロが問うと、フルニエが言った。
「これで俺は一生自慢できるな。俺はあのニトロ・ポルカト――そん時は呼び名が違うか?――まあ照れんな照れんな、ともかく俺はそのニトロ様に給料を手渡したんだってよ。構わねぇだろ?」
 そう言われてはニトロに返せる言葉は一つだ。
「まあ、事実だし、構わないけど、それが自慢になるならな?」
「なるさ。お前にとっちゃ端金はしたがねだろうが、給料には違いねぇ」
 携帯の画面に表示されているのは1時間25分ぶんの最低賃金。
「いや、端金なんかじゃないよ。大金だ」
「どうした、目が腐ったか」
「まだ腐ってないと思うけどね。ああ、でも、そうならないためにもこいつは大事に取っておこうかな。それで本当に困った時にだけ使わせてもらうんだ」
「はあ? 何言ってんだ?」
 フルニエは半ば苛立ちを見せたが、ニトロの口元に浮かぶ奇妙な影に気づくと訝しげに『王女の恋人』たる友人を見つめ、やがて呆れたように息をついた。
「まあ、お前の金だ。お前の好きに使つかやいい」
「そうするよ」
 愉快気に笑い、ニトロはモバイルをしまう。
「なあ、フルニエ。この金はね、本当に、俺は嬉しいんだ」
 その言葉には不思議な奥行きがあった。それにフルニエは何か重いものを感じた気がした。だがそれが何かは全く解らず、ただ本当に嬉しそうな友人の顔を見ていると不思議と彼も笑ってしまった。
「そうかよ。んじゃあ、やっぱり俺は一生自慢することにするぜ」
「フルニエが良かったらそうしてくれ」
 そして、ふいにニトロは気づき、また愉快気に笑った。
「自分が友達に自慢してもらえるような人間だってんなら、俺も嬉しいからさ」

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