大吉++

(『2019大吉』の約一年後)

「ニトロ君は、なんでカプチーノが好きなの?」
『劣り姫の変』が終結してから四週間になろうという頃、ふいにパトネトがそう言った。
 水揚げされてからもまだ海に戻ることを諦めていないうおの目をしてビスケットを齧っていたニトロは、二つの疑問を追いかけるように瞳を上向けた。彼の手元にはコーヒーカップがあり、彼の鼻腔をくすぐるのはカフェオレの、ミルクの香りと混じったコーヒー豆の香ばしさ。今、カプチーノは飲んでいないのに何故?――それが一つ目の疑問。
 もう一つの疑問は、つまり既視感であった。――はて、確か前にもこんな質問を受けた気がするぞ?
(……ああ)
 記憶を辿れば、そうだ、なんだか随分昔のことに思えたが、おおよそ一年前の今日と同じく夏の朝、芍薬に同じ質問をされたんだ。
 芍薬は今、ベランダにいる。
 その時にはなかった機体からだに爽やかな水色のユカタを纏い、袖をタスキで留めてプランターの前で屈みこみ、昼食のための材料を摘んでいる。
 それはパスタに絡めるバジルソースのため。
 芍薬のリズム良く扱うハサミに刈り取られるのは濃い緑も瑞々しいバジルの葉。
 そうだ、あの朝は、この部屋にバジルが初めて芽吹き、それを芍薬はとても喜んだのだ。
 ニトロの頬に我知らず微笑が浮かぶ。
「どうしたの?」
 テーブルを挟んで座る小さな王子様の問いかけに、ニトロは初め何を問われたのか判らなかった。それでニトロが首を傾げると王子様も首を傾げた。『少女よりも少女らしい』と世間に評判の王子様のその素振りには確かに女性的な雰囲気があり、そこには彼の姉の影響が窺える。一方でその容貌にはもう一つ上の姉の面影が濃く表れていて、特に、こちらをジッと観つめてくる双眸がそっくりだった。
「……」
 ニトロは彼の視線から自分が微笑んでいたことに気づき、また微笑んだ。
「少し思い出してね」
「何を?」
 ベランダから芍薬が戻ってくる。ニトロがそちらに気を取られると、パトネトも振り返った。バジルの葉の盛られたザルを片手にする芍薬の頬には不思議な影がある。微笑んでいるような――それとも何か待ち構えているような? サンダルを脱ぐ足の先にも造形美の行き届いた機械人形アンドロイドは、足音はおろか動作音もなくキッチンに向かう。ちょうどその肩が壁掛けのテレビモニターに近づいた時、ふいに画面に光が灯り、芍薬が通り過ぎると同時に一枚の写真が映し出された。
「大体、一年前ダネ」
 ニトロの背後をすり抜けながら囁くようにそう言って、芍薬はキッチンに入っていく。パトネトは調味料の瓶の並ぶカウンターの向こうで早速ソース作りを始める芍薬に向けて身を乗り出したが、後ろ髪を引かれるようにして画面上の写真に目を移し、その葉模様シングルリーフのラテアートをジッと観つめると、ニトロにまた目を戻した。
「前にね、芍薬にも同じことを聞かれたんだ」
 そう前置きしながら脳裡で話を整理していると、ニトロはふと気づいた。こちらの話に体ごと傾けてきているパトネトを見つめ、またも微笑む。
「どうしたの?」
「ちょうどパティと同じ歳のことだったよ」
「何が?」
「カプチーノを気に入ったのが」
 するとパトネトの瞳が輝いた。頬は喜びに赤らみ、その表情は話への期待を話し手にまざまざと伝えてくる。ニトロはカフェオレを一口飲んだ。パトネトの手元にあるオレンジジュースは冷却石アイスキューブに冷やされて、グラスに伝う滴を唐草模様のコースターが吸い取っている。
「あの写真は、そのカプチーノを気に入るようになったキッカケのものでね。俺は両親とフラワー&ガーデンショーに行ったんだ。そのイベントには母さんの希望で行ったんだけど……うちの母さんの趣味は知っていたっけ?」
「お庭いじり?」
「間違ってはいないけど……もうちょっと広くて園芸一般かな。父さんの趣味は」
「お料理!」
 やけに気色ばんで言ってきたパトネトの顔には“間違ってはいない”と言われたことへの悔しさがあった。それを子どもらしい対抗心と言えばそうであろうが、大人でも、もちろん自分にもそういうプライドはある。そこでニトロは子どもの態度を“かわいい”と愛でる笑みは封じ、ただそれが正答であると認める笑みを刻み、
「そう。それで、父さんは母さんの園芸趣味には基本的にノータッチで、ただ趣味に楽しむ母さんを見るのを楽しんでいるだけなんだけど、そのイベントに関してはちょっと違ったんだ」
「どうして?」
「特設展示で、家庭菜園で作れる珍しい野菜ってコーナーがあったんだよ」
「そのお野菜でお料理したかったの?」
 キッチンからミキサーの音が聞こえてくる。パトネトがちょっとそちらを見て、また向き直ってきたところでニトロはうなずき、
「いいのがあれば是非にね。だから両親共に朝からうきうきだった。ただ残念なことに二人が一番見たいコーナーは配置が遠く離れててさ、しかもそれぞれのコーナーで専門家が直接講習してくれるものがあったんだけど、その時間が被ってたんだ。後でアーカイブも見られるのに二人ともリアルタイムで見たいって言う。だから二手に分かれて、俺は母さんについていったんだけど――」
 そしてマスターの語る、一年前の朝と同じ話を再び聞きながら芍薬は思う。
(不思議ナモンダネェ)
 クリーム色のペーストを休ませていたミキサーに摘んだばかりのバジルの葉を入れ、再度ミキサーを働かせてソースを仕上げると、その半分をあらかじめ熱湯消毒していた瓶に入れ、残りは小分け冷凍用のシリコンケースに入れていく。作業はほとんど自動的だ。予定していた動作プログラムをアンドロイドを介して実行しながら、芍薬はあの朝の記憶メモリ記録ログを参照する。そしてその後、『恥』に気づいて悶絶した時の記憶メモリも呼び起こす。
(……)
 マスターは、パトネト王子の質問を受けた時、間違いなくアタシと同じことを思い出したはずだ。どうやらマスターはその時のことをはっきりと覚えていたようで、ちょうどベランダに出て、しかもバジルを摘んでいたアタシを気にしたからにはそれは間違いないだろう。そして当時のアタシが『恥』と思ったことも思い出したに違いない。マスターの浮かべた笑みは、きっとそのためだったに違いないのだから。
(ナノニ……)
 芍薬は今、それを『恥』とは感じていなかった。
 いや、正確に言えば恥ずかしさはある。あんなにはしゃいでしまったあの時の自分を思い、それをマスターに見られていたことを思うとむず痒さを感じてしまう。
 だが、それは笑みをもたらすむず痒さに過ぎず、時に命を絶する種類の『恥』ではない。何より芍薬が不思議なのは、そう、そのむず痒さが“笑みをもたらす”ものだと自分でも思うことであった。
 つまり、それはもはやアタシにとって『笑い話』。
 一年前には『いつになっても』そうとはならぬよう願っていたのに、現在に至れば、むしろそれをマスターがいつ話題に出してくれるだろうかとさえ伺う自分がいる。
(不思議ナモンダネエ)
 あの時、現実と理想の乖離に悶えていた自分は、とても微笑ましい。
 ただそう思えるのは、きっとそう思えるだけの場所にアタシを立たせてくれるマスターとの歴史のあればこそで――そう思うと、“そう思えること”がまたとても嬉しくて、恥ずかしさとは別のむず痒さがココロを悶えさせてくる。
「どうしたの?」
 そのふいに投げかけられた問いかけが自分に対するものだったとはしばらく気づかず、芍薬はぼんやりした調子で顔を上げ、はっと居を正した。
「何ガダイ?」
 気がつけばマスターも小さな客人もこちらを見ている。
「いや、なんかすごく笑顔だから」
 どうやら話を中途で止めてこちらに注目しているらしい二人の様子に、何よりマスターの言葉に芍薬は顔を赤らめた――実際にアンドロイドの感情表現技術エモーショナル・テクノロジーがそれに反応し、その顔が赤らんだ。
(シマッタ)
 機体アンドロイドの反応のよさをうっかり失念していた。ココロとカラダを切り離しておけばこんなことにもならなかったのに!
(……)
 ――いや、
(マア、イイカ)
 もう、こういう失態をことさら恥に思うことはない。もしそれがアタシの理想、アタシの追い求める『格好』からは外れた姿だったとしても、本当に大事なのはそこではない。だからただ普通に恥ずかしがればいい。
「チョットネ、思イ出シテタノサ」
 頬の赤みは消えても声には照れ笑いが滲んでいる。ニトロは穏やかに問うた。
「何を?」
「アタシモ、一年前ノコトヲ」
「あー……もしかして、バジルのこと?」
 芍薬は、堪らずふっと息を吹き出すように笑った。
「ソウダヨ、主様。大当タリ」
「なに、何なに? なんのこと?」
 王子様がテーブルに手をつきそのまま立ち上がらんばかりに必死に食いついてくる。その瞳は興味と好奇心に輝き、眉根は疎外感に寂しい。ニトロはそれを一瞥し、芍薬に目を向けた。
「話していいのかな?」
「モチロン」
 その気遣いに、マスターの心に、芍薬は笑顔でうなずいた。
「今トナッテハ、笑イ話ダカラネ」

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