大吉

(『第二部 幕間話2』の翌日)

「主様ハ、ドウシテカプチーノガ好キナンダイ?」
 一緒に暮らし始めてから二ヶ月が過ぎた頃、ふいに芍薬がそう言った。
 水揚げされてから氷無しで二日間放置された魚の目をしてトーストを齧っていたニトロは、のっそりと顔を上げた。
 音もなく朝の光の差す無音の部屋の、壁掛けのテレビモニターに音もなく光が灯る。
 そこにバリスタ姿の芍薬が表れた。
「イツカラ? 何カ理由ガアルノカイ?」
 昨日、旅券パスポートに出国制限がかけられていると知ってからというもの、精神的にも肉体的にも脱力しきっているマスターに芍薬は問いかける。
「ソレトモ、ナントナク気ニ入ッタノカイ?」
 トーストを口に加えたまま、ニトロはぼんやり上目になっていずこかを眺めた。しばらく考えて、トーストを齧り取る。バターの風味が鼻に抜けた。彼はトーストを皿に置き、
「特別こだわりがあるってわけじゃないんだけどね。けど何となく気に入ったってわけじゃないよ。理由とすれば、特別印象が良かったってことだと思う。それ以来、何も考えない時は何となくカプチーノを選んでるって感じかな」
「印象ガ良カッタ理由ハ?」
「あれは……何歳の頃だったかな、七歳か八歳か。両親とフラワー&ガーデンショーに行ったんだ」
「七歳ダネ、デモ八歳ニナル年ダ」
「写真があった?」
「御意」
「カフェの写真はある?」
「アルヨ、アア、コレカイ?」
 モニターにラテアートの施されたカプチーノが映る。白と茶の二色で描かれた葉模様シングルリーフ。そのカップに添えられている手は小さい。
「それだよ。久しぶりに見るなあ」
「綺麗ナモンダネ」
「イベント出店のカフェだったんだけどね。マシンだけじゃなくてバリスタもいたと思うから、結構本格派だったのかも」
「調ベラレルヨ?――ケド、ソノ前ニ話ガ聞キタイナ」
「うん」
 ニトロはひとまず残り少ないトーストを食べきってしまう。
「その前後の写真に、うんざりしてる俺と、バツの悪そうな母さんはいない?」
「御意、アルネ」
「あ、出さなくていいよ」
 思い出の甘さの混じる苦笑いを浮かべ、ニトロは言う。
「そのイベントには、まあ、もちろん母さんの希望で行ったわけなんだ」
「御意」
「父さんは母さんの趣味には基本的にノータッチで、ただ趣味に楽しむ母さんを見るほうが楽しいって感じでね。だけどそのイベントに関してはちょっと違った」
「ドウシテダイ?」
「特設展示で、家庭菜園で作れる珍しい野菜ってコーナーがあったんだ。だから両親共に朝からうきうきだったよ。ただ残念なことに、二人が一番見たいコーナーは配置が遠く離れてる。しかもトークイベントか、それともギャラリートークっていうのかな、そのコーナーで直接専門家が話してくれるものがあったんだけど、その時間が被ってた。後でアーカイブも見られるけど、二人とも直接見たい。だから二手に分かれて、俺は母さんについていった。
 母さんは新品種のバラと、バラの手入れについての話を熱心に聞いてたよ。その横で俺は専門家顔負けの質疑応答をする紳士淑女レディス&ジェントルメンに囲まれて呆然だ。趣味人の熱気に圧倒されっぱなしだったよ」
 芍薬は目を細めてポニーテールを揺らす。
「実際、その日の質疑応答は白熱してたんだと思うよ。登壇してた講師の人が『冷や汗ですね』とか言ってたから。思いのほか長引いちゃって、後のイベントが押してるってんで終ったけど、母さんは大満足のご満悦。終ったからって父さんに連絡すると、父さんは父さんで面白いみたいでまだそのコーナーにいるって言うから、じゃあそっちに行こうってことになったんだ。でも、途中で母さんが足を止めた。そこには盆栽ポッテッド・プラントコンテストの入賞作があった。やけにぐねぐねした木とか、やけに整然と配列された草木とか、俺には良さの解らない――ていうか『変なの』って思うことしかできない鉢が並んでたけど、母さんはため息しきりでね。で、一つ一つの鉢を楽しそうに見ているうちに、一つの鉢の前で立ち止まって凄い顔をした」
「ドンナダイ?」
「あれはどう言えばいいんだろうなあ、驚いてるし、感心してるし、それを心から賞賛しているけれど反論もございますって感じなのかな」
「複雑ダネ。ソレダケ聞クト、アノ母上ニハ想像デキナイ顔ダヨ」
「うん、俺も、だからよく覚えてる」
 ニトロはサラダの皿に残っていたミニトマトを口に放り込んだ。歯の間で、酸味と甘味が瑞々しく弾ける。
「それで思わず聞いたんだよ。その鉢にはただ真っ直ぐ堂々と伸びる木が一本。それなのになんでそんなにビックリしてるの?――母さんは笑ってさ、この木はね、って言うんだ。この木は『七曲松ワインディング・パインツリー』って言って、普通なら絶対に真っ直ぐ伸びない木なの――だけど真っ直ぐだよ。定規でピンって背筋を伸ばしたみたいに――だからすごいのよ? 一応真っ直ぐ伸ばすことだけならお母さんでもできると思うんだけど、だけど、これだけ真っ直ぐに育てるには一体どれほどの工夫と、注意と、根気と、決断と、努力があったのか判らない。この松を育てた人がもう一度と思っても、同じようにできるかも分からない。この松は……ここまでに20年かかっているけれど、同じようにやっても、ここまでなる前にほとんどが病気になって枯れちゃうんじゃないかな」
「――御意」
「それで俺は、でもお母さんは好きじゃないの? って聞いたんだ。母さんはちょっと驚いた顔をして、その後、困った顔をしていたな。で、しばらくその松を見て考えた後、いいえ、って言った。この松を素晴らしいと思うし、素敵だと思う。この松の美しさには見惚れてしまう――実際、その時の金賞だったよ――でも、と、母さんは続けたよ。この松はとても真っ直ぐに伸びているけど、同時にとてもひどく曲がっているの」
「……」
「だからその分だけ、お母さんはちょっとだけ好きじゃないかな?」
「……」
「でも、そんなこと言ったら盆栽は全部嫌いにならないといけないと思うし、そんなこと言い出したらうちのお庭だって同じようなものだから、だから、お母さんはこの盆栽はやっぱり美しくて好きだと思う。……そう言っていた母さんの顔は子どもながらに大人みたいに見えたな」
 すると芍薬が小さく吹き出した。
「ソノ言イ方ダト普段ハマルデ大人ジャナイッテ感ジダネ」
「その頃からツッコミまくってたからね」
 と言って、ニトロは嘆息し、しかしすぐにニヤリと笑う。その変化が不思議で、芍薬は切れ長の目を丸くしてマスターを見つめた。
「で、俺はやっぱり子ども心ながらに母さんの言葉に感銘――うん、今、言葉で言うなら感銘を受けたんだ。それでその木をしばらくじっと見ていた。そしたら、母さんがいつの間にかいなくなってた」
「エ?」
「てっきり父さんのところに行ったんだろうって思ったよ。父さんのいるコーナーはすぐ近くだったからね。でも、いない。父さんと合流した俺はビックリだ。母さんに電話をかけようとしたけど、参った、その携帯、落としちゃまずいからって俺が預かってた。俺は大慌て、父さんは朗らかに笑ってる。笑ってる場合かって言いながら一緒に探すけど見つからない。イベント会場をぐるぐる回ってようやく見つけたのはモニュメントになってた巨大なフラワーアレンジメントの前だったよ。どこ行ってたんだよ! 母さんは涙目でごめんなさぁい、面白そうなトークショーが始まっちゃってぇときた。しかも母さんはそのステージまで俺と一緒に行っているつもりだったんだって言う」
「ドウイウコトダイ?」
「母さんは確かにそのステージまで子どもと手を繋いで行っていたんだよ。『行きましょ』って声をかけて、伸びてきた手を取って、それを完全に俺と一緒だと思い込んで。でも振り返ると全く知らない子だった。母さんはビックリだ、その子もビックリだ、お互いに相手を確認せずに手を繋いじゃってたんだ。母さんは慌ててその子の親を探したよ。幸いすぐに見つかった。大人同士で不注意の謝罪合戦だ。俺もその子も会場で貰った――10歳以下限定で配られてたマスコットキャラクターの帽子を被っててね、そう、その写真に写ってるやつ……で、どうやら相手の親は俺のことをその子と間違えてた。てっきりそこにいると思ってたのに、違う。血の気が引いたらしいよ。母さんはそれからすぐに盆栽のところに戻ったけど自分の息子はいない。それで今まで一生懸命探し回ってたって――まあ、それでお互いにすれ違いまくってたんだろうね。迷子センターに行こうとは全く思いつけなかったらしい、俺に言われてやっと気づいたくらいだ」
 芍薬は笑ったものか笑えないと思ったものか複雑な顔をしている。ニトロはその様子に笑い、
「まあ、笑い話だよ、今となっては」
 そこで芍薬は相好を崩した。
「コウ言ッチャナンダケド、本当ニ抜ケテルトコロガアルネ」
「しかも迷子になったのはそれ一回じゃないからね。俺と父さんが母さんを探し回るのは他にも何回か。そのうち一度は迷子センターに母さんを迎えにいったこともあるんだ」
「ソノ話ハ次ノ楽シミニシテモイイカイ?」
「いいよ。ちなみにそういう時、父さんはまるでカクレンボを楽しんでいるような感じだから性質が悪い。のんびりしてるっていうか呑気っていうか」
「天然?」
「だとしたら人工の危機感をもう少し持って欲しいもんでねぇ」
「デモ、ソレダカラ――」
 と、そこまで言って芍薬はバツが悪そうに口をつぐんだ。ニトロは笑い、
「うん、だからバカに容易にいいように丸め込まれちゃうんだよ。本当に困ったものさ」
 芍薬は小さく笑い、照れ臭そうに頭を掻く。
 ニトロは一息ついて、氷で薄まったオレンジジュースで口を潤し、
「で、その後に入ったのがそのカフェだった。母さんがぶんむくれの俺の機嫌を取ろうとするから――ホントのところ、俺も不注意だったんだ。母さんも不注意だったにしろ、俺も母さんが声をかけてたのに気づかなかったんだからね、でもまあそれで逆に余計に腹が立ってさ、そこで一度休憩しよう、ご飯を食べようってことになって。俺はね、正直それで誤魔化されそうなのが嫌だったんだよ。それで子どもっぽく反抗しようとしたんだと思う、その頃はまともに飲んだことのなかったコーヒー系のを選んだんだ。絶対一杯一人で全部飲むって。後から聞いた話だと念のために親がこっそりカフェインレスに変更していたらしいんだけど」
「ソレガカプチーノダッタノカイ」
「そう。何となく名前の響きだけで選んだはずだよ。そして運ばれてきたものを見て、驚いた」
 芍薬は画面の中で写真を見る。その口元には微笑が浮かんでいる。
「ラテアートもその時初めて見たから感動したよ。味も香りもそれまで飲んだことのある乳製品ミルクコーヒーとかとは全然違うからまた驚いて。まあ、親の狙い通り、それですっかり気分が変わっちゃってさ。食用花を使ったサンドイッチもカスタードプリンも美味しかったからカフェを出た頃にはすっかりご機嫌だ」
「子ドモダッタンダネ、主様モ」
 ニトロは笑う。
「うん、子どもだったよ。でも多分、今でもね」
「――御意」
 芍薬は今一度写真データを見る。
 ニトロはすっかり冷めてしまったフライドエッグとベーコンの残りを食べ、
「それで。それからもう少し体も大きくなって、普通にカフェイン飲料を飲めるようになった頃、注文するのは大体カプチーノになりました――というお話です」
「ゴ馳走様デシタ」
 洒落た芍薬の返しにニトロが笑うと芍薬も笑った。芍薬にはすっかり光の戻ったマスターの目がまた嬉しい。
「……今日は、どこかにカプチーノを飲みに行こうかな」
 もしかしたらマスターは、意識せずともそのフレーバーに触れるたびにその日の瑞々しい感動を繰り返し思い出しているのではないだろうか――そんなことを思いながら、芍薬は早速美味しいカプチーノを淹れるカフェを探そうとして、
「ア!」
 と、芍薬の叫びを聞いたニトロが驚き目を向けると、その視界をかすめて多目的掃除機マルチクリーナーがベランダの方へ全速力で駆けていった。
 何事かとニトロが見ていると、マルチクリーナーは光の良く当たる窓際に置かれたビニールポットの手前で急停止した。ロボットアームの先に付いたカメラでポットを覗き込む。
「出タ!」
 モニターの中の芍薬がぴょんと跳ね、手を叩いた。
「主様! 芽ガ出タヨ!」
 六つあったポットの一つをロボットアームに持たせてこちらに駆け寄らせ、芍薬の見せてくるそれには確かに緑の小さな双葉。
 数日前、いかに温暖な王都といっても時期が遅くなっているから苗を買おうと言うマスターに反し、芍薬のたっての希望で種を蒔いたバジルの芽。
「出タヨ芽ガ! ワーイ!」
 意外なほどの喜びようだった。普段の凛とした芍薬からは伺えぬほどの無邪気さだった。そしてそれを芍薬は隠そうともしない。そんなにもお手本みたいな『ワーイ』を聞いたニトロの頬には自然と笑みが浮かんでくる。肖像シェイプの周囲に花と光を散らせて小躍りして、合わせてマルチクリーナーもくいくいと腰を振っている。
「一緒ニ蒔イタヤツダヨ主様! コレモチャント育テルヨ!」
 ベランダには母の持ってきたハーブの鉢がいくつかある。その世話をしているのは主に芍薬だ。だから、てっきり芍薬は自分でも一から育ててみたくなったと思っていたのだが――
「ヤッパリピザカナ! タクサン採レタラバジルソースモイイネ! 主様ニ美味シイノヲ作ッテミセルカラ、楽シミニシテテオクレネ!」
 ――いや、実際、芍薬は一から育てたかったのだろう、そしてそれを食べて欲しかったのだろう。ニトロはこちらが笑顔でうなずくや大事そうにポットを元の場所に戻し、他のポットはどうかと覗き込むマルチクリーナーと、モニターの中でニッコニコしている芍薬を両目に見て思う。
(こうなると今回は出星しゅっこくできなくて良かったかな)
 もしそうしていたらきっとこの喜びは分かち合えなかったろう。間を置いた通信による報告では、あるいは芍薬がこんなにも喜ぶことも知らずにいたかもしれない。
「出テタ! 主様コッチモ出テル!」
 ニトロは立ち上がり、窓際の小さな小さな家庭菜園に向かった。
 ロボットアームの指の先――喜ぶ芍薬の指が示すポットを屈みこんで見てみると、彼の鼻にバジルの鮮烈な香りが漂う。こんなに小さな芽であっても既にそれは生命力を溢れさせている。
「本当に、楽しみだね」
 そう言うと、背後のモニターで芍薬がまたぴょんと跳ねるのが分かった。溌剌とした声が返ってくる。
「御意!」
 ニトロは自分の頬が思わぬほど大きく引き上げられていくのを感じた。
 そしてその全てを、初々しい朝の光が温かく照らし上げていた。

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