大吉

(番外編『ニトロとティディアの年の越し方』の20日前、第三部『友達』の半年前)

 太陽はそろそろ刻の端に触れるだろう。暖かな冬の日は晴れ渡り、飛行車スカイカーが一台、雲も風もない空を行く。
「それにしても」
 と、腕を組み、助手席の窓から下を眺めてハラキリが言う。目的地はもうすぐだ。
「まさかディナーにお呼ばれするとは思ってもいませんでしたよ」
 運転席で携帯電話モバイルをいじっていたニトロは隣を一瞥し、
「意外だな」
「何がです?」
「ハラキリは顔が広いじゃないか。中にはそういうのが好きな人もいるんじゃないか?」
「そういうのが好きな人物への心当たりは一つだけですね」
「一つだけ?」
「しかもその人物は、君と共通しています」
 ニトロは渋い顔をして前方を見た。果てには地平線が広がる。ほんの僅かに湾曲し、暮れる空と溶け合うその境界に向けて、大地に密集する建造物が何か深い意味のありそうなモザイク画を描き上げている。
「それに拙者は顔が広いわけじゃありません。実際には互いに顔を知らない“交友”の方が多いわけですから」
「うん。自分から振っておいてなんだけど、それ以上は言わないでくれ」
 ハラキリは笑い、
「ただまあ君の言う通り、そういうのが好きな人は確かにいますよ、お姫さん以外にもね。しかしそういう人達は大抵ビジネスライクです」
「ビジネス?」
「席上に咲く会話の花は一体どんな果実を実らせるのだろうと計算せずにはいられないんですよ。意図的にも、意図せずにも、交友関係をただ育むということができない」
「意図せずってのは、つまり無意識ってことか?」
「ちょっと違います。それが習性になっているということです」
「ああ、なるほど。ところでティディアはどっちに含まれるんだ? 『そういう人達』に含まれるか含まれないか、どっちにも取れる言い方だったけど」
「彼女がいつだって虎視眈々ということは、君の方が骨身に沁みているでしょう」
「違いない」
 そうして話す間にも穏やかな西日は加速度的に落ちていき、東の空には夜の前髪がふわりとなびく。眼下に広がる住宅街には早くも玄関灯を点けている家があった。ニトロが招待客ハラキリをエスコートするために用意した無人タクシーはなめらかに減速し始める。そしてある地点に到達したところで、ゆっくりと降下する。
「ところで急にそんな話をし始めたってことは」
 携帯電話の支払いアプリを起動しながら、ニトロは言う。
「もしかして、緊張してるのか?」
「正直言うと、戸惑っています」
「なんで?」
「言ったでしょう? まさかディナーに、と。それも招待主が友人ならともかく、そのご両親です。……なんでしょうね、以前君のお父上に『よかったら食べていきなよ』と言われた時には大して何も感じなかったのですが、今はこう……今更戸惑っています。なんで拙者は了承してしまったのでしょうねえ」
 首を傾げるハラキリに、ニトロは笑ってしまう。ニトロが親友にそのディナーの話をしたのは一週間前のことだった。招待の理由は単純に、いつも息子がお世話になっているからお礼がしたい、というもの。好意の他には何もない。ハラキリは苦笑して、すぐに受け入れた。きっと深く考えることもなく、いや、もしかしたら『そういう好意には遠慮をしない方が得策である』という計算が彼の中で意図せず成り立っていたのかもしれない。
 無人タクシーが住宅街の発着エリアに着陸する。料金を支払ってニトロは外に出た。ハラキリも降りる。空に上がっていく車体を眺めるハラキリに、ニトロは言った。
「まあ、ここまで来たんだ。気楽に楽しんでいってくれよ」
「その方が得策でしょうねぇ」
 そう言ってハラキリはニトロの家に向けて足を踏み出す。その言葉に思わず吹き出しそうになってしまったニトロはそれを必死に押し殺し、ハラキリの隣に並んで歩き出す。
 二人は飛行車発着エリアから真っ直ぐ進み、外壁がクリーム色の家に差しかかったところで歩道を曲がった。すると道の先にポルカト宅が見えた。
「また綺麗になりましたね」
 再建されて新しいポルカトの家屋と、隣家との間に覗く南向きの庭には冬に咲く花々がある。北向きではあるが歩道のタイルの色と、向かいの家と距離のあるために十分明るい玄関にも、よく手入れされた寄せ植えの鉢が並べられている。鉢はハラキリが以前に来た時より増えていた。
 ニトロはハラキリの視線を追い、母の趣味が誉められたと知ってにやっと笑った。
「今日はテーブルも綺麗にセットされてるよ」
「そこまで力を入れられると何だか申し訳ない気がしてきます」
 ニトロは思わず色々言いそうになるのを飲み込み、一歩先んじて進んだ。その歩に合わせて合金製の門扉がスライドしていく。開かれた境界を越え、家の敷地に入ったところでニトロはくるりとハラキリへ向き直った。ドアのロックの外れる音がした。
「それではもっと力を込めまして」
 と、おどけるように言い、ニトロは馬鹿丁寧に辞儀をする。
「ようこそ、ハラキリ・ジジ様。今宵は当ポルカト家にてお食事をごゆるりとお楽しみください」
 その言葉と共にドアがA.I.の手によって開かれていく。
 すると頭を垂れるニトロの視野の上隅にあったハラキリの靴が、ふいに消えた。まるで脱兎の勢いであった。何事かと顔を上げると、何故かハラキリは横に跳んでいた。
「?」
 どうやらひどく驚いているらしいハラキリの視線を追い、ニトロは背後に振り返る。
 そして彼は見た。
 ドアの開いた先に中腰で立つ父を。
 その父が右肩に何やら大きな円錐状の物体を担いでいることを。
 大きな円錐の丸い底は斜め45度に夕焼け空を見上げていた。
 一方で錐の尖った先端からは紐が伸びていて、今、その紐を母が握っている、それらをほんの刹那の間に次々と認識した彼は「わ」と口を開いた。ハラキリのように回避せねばと体が動こうとするのを、それより先に両親を止めねばと思う理性が阻害する。結果、彼はまたも見た、
「せーの!」
 母がそう言って力一杯、紐を引くのを。
 その瞬間、内部からの圧力によって円錐の底が抜けたことを。
 彼は見た。
 ドガン!
 と、耳を聾する炸裂音と共に発射された無数のリボンが空にほとばしり、やがてニトロを目がけて落下する。
 彼は見続けていた。
 短い悲鳴が聞こえる。
 その悲鳴の主は他でもない、両親だった。
 色とりどりに飛びかってきた無数のリボンの間隙に見えるのは、チラチラと舞う金銀の切片、模造の花吹雪、パラパラと地上に散らばるイミテーション・ジュエルの粒また粒、それから軽く飛び上がって尻から倒れた我が父と、その場で両目をカッと見開き硬直した我が母である。
「……」
 ニトロはゆっくりと息を吸った。腹の底から、怒声が迸る!
「何してんの!?」
 偽宝石を踏み潰し、体に絡まる何本ものリボンを掻き分けながらずかずかと玄関に踏み入って、座り込む父の脇、中身を全て吐き出し切った巨大なクラッカーを持ち上げる。残骸となっても存外重い。機械式かガス式かは判らぬが火薬式でないことは確かなようだ。もし火薬式であればここは硝煙に満ち、その臭いは彼に料理を振舞うリビングをも汚染していただろう。
「いつの間に用意してたんだよ、こんなもの!」
 すると硬直していた母が息子を凝視する。彼女はか細くも緊迫した声で、
「待って待ってニトロ、お母さんの話を聞いて」
「なにかな!?」
「ECセットを持ってきて、お願い早く」
 地区ごとに住民で管理・点検を持ち回りしている『緊急救命道具ECセット』は先ほど見たクリーム色の家の側にある。ニトロは首を傾げた。
「なんで?」
「お母さん、心臓が止まっちゃったみたい」
「止ぉまってたらそんなこと言ってられるか!」
「でも今にも爆発しそうにドキドキしてるの」
「びっくりしたんだね、ドキドキしてるんだね、心臓動いてるね、セット必要ない」
「死んじゃわない?」
「生きれる!」
「息子よ、父は不思議とお尻が痛い」
「スッ転んだからだよ不思議じゃない!」
「右耳も痛いんだ」
「耳栓しとけよ分かるだろう!?」
 最後の方ではもうニトロの声には涙が混じっているようだった。情けないやら馬鹿馬鹿しいやら、それも親友の前で、しかも段取りにないことをしでかして! これでは色々台無しではないか!
「メルトぉン!」
 勢い、ニトロはさらに声を張り上げた。
「手配したのはお前だろう!」
 すると家の中のどこからか声が響いた。
「ソノ通リ。超速デ一番景気ガイイヤツヲ通販テニイレテキタゼ」
「何を得意気に言ってやがんだ。止めろよ、もしくは俺に知らせろよ!」
「パパサンママサン、ニトロモオ友達ト一緒ニビックリサセテヤリタカッタノサ。ソノ温カイ親心ガ解ラネェノカ?」
「今すぐ辞書を百万回読み込み直せぃバカヤロウ! これはただの勇み足――」
 と、そこでニトロは気がついた。
 息を飲み、頬を引きつらせる。
 ゆっくりと、振り返る。
 見事にこの祝砲から無傷で逃れてみせたハラキリは、明らかに困惑しきって立ちすくんでいた。
 彼のさらに後方には騒ぎを聞きつけたご近所さんの姿もある。
 ニトロは、赤面しないように落ち着くのがやっとであった。
 深呼吸して、一度両親へと振り返る。息子の恐ろしい眼差しに尻餅をついたままであった父は慌てて正座し、硬直していた母は“気をつけ”の姿勢でさらに硬直する。息子がうなずいてみせる。すると両親もこくこくとうなずき返す。それからニトロはディナーへの……いいや、本当は違う目的のために招待した親友へ、再び振り返った。
 客人はひとまず言葉を待っている。
 ポルカト家一同は、声を揃えて言った。
「「「ホーリーパーティートゥーユー」」」
 ハラキリ・ジジは、今晩この家で催されるのがお礼のためのディナーなどではなく、自分の誕生日会であることを初めて知った。

 正確に言えば、ハラキリの誕生日は十日も前に過ぎていた。
 ただその当日はニトロが『漫才』の仕事のために忙しかった。その日はハラキリも現場には遊びには来ず、だから祝えなかった。ティディアも仕事終わりに彼を捕まえて祝ってやろうとしていたらしいのだが、ひょっとすると彼はそれを察知して逃げたのかもしれない。彼女は残念がっていた。
 もちろん、ニトロも残念だった。
 するとこの話を聞いた彼の両親が、誕生日会をうちで開こうと提案したのである。お世話になっているお礼、というのも全くの嘘ではない。だからこそ父と母も息子の親友を祝う手伝いがしたかったのだし、むしろ自分達も祝いたかったのだ。
 ニトロが芍薬に相談したところ、やはりハラキリはそういう会を開くといえば遠慮するだろうとのことだったので、名目上はディナーとして招待することにした。その企画立案をした時期はちょうど後期期末テストの真っ最中であったため、会を催すのはそれが終わってからということになった。
 しかしこの日程の延期が、ニトロの思わぬところで大きな効果をもたらすこととなった。
 何かと勘の鋭いハラキリ・ジジがポルカト家の嘘に気づけなかったのは、何より彼自身がもう己の誕生日のあったことを忘れてしまっていたことに拠る。元より自分の誕生日そのものに関心の薄い彼だ。そこに忘却が加われば、彼が『もしかしたら自分のために誕生日会を開いてくれるつもりなのかも』と疑うことがなかったのも当然だろう。
 もし、ハラキリが事前にこれを察知していれば、適切な理由を造って断りをいれていたことは確実である。実際、ニトロ達の本当の目的を知った後、彼は強い逡巡を見せた。迷惑とまではいかないが非常に困惑を深め、奥深い苦笑を浮かべた。それはニトロが親友の顔の中に見てきた中でも一・二を争うもので、まるで口の内部で何かが焦げついているかのような顔だった。
「さあさ、ハラキリ君、どうぞ座って」
 ニトロの母――リセ・ポルカトが椅子を引く。
 結局ハラキリが祝宴をがえんじたのは、既に準備が完了していたから――つまりポルカト家の好意を無下にすることを良しとしなかったからである。彼は朗らかな笑顔のリセに促されるまま恐縮そうに席につき、真っ白なクロスを敷いたテーブルを眺めた。
 カトラリーも細長いシャンパングラスもよく磨かれて、高級レストランの食器もかくやとばかりに輝いている。テーブルの中央には椿カメリアをメインにしたアレンジメントフラワーがあった。鮮やかな赤い花弁と黄色い雄しべが目に華やぎ、濃い緑の葉が目を落ち着かせる。その色彩を助けるかのようにカスミソウの白い花が添えられており、それはさながら椿に降る雪に思えた。そして雪は粗い肌の花器を通じてテーブルクロスに広がっている。そう、つまり、これは一面の雪景色であった。そこに寒さに負けず凛と花は咲く。赤く、赤く。
「素敵な見立てですね」
 ハラキリが言うと、リセは相好を崩した。彼女は主賓に自分の意図が伝わったことが誇らしげに息子を見る。その息子の顔には疲れがあった。それは両親を連れてお騒がせしたご近所に頭を下げて、急いで玄関前を掃除してきた名残である。しかし彼はもう済んだことは水に流して母親に笑いかけ、ハラキリの隣に座った。リセはニトロの対面に座る。
 その間セミオープンキッチンで作業をしていたニルグ・ポルカトが、ボトルを持ってテーブルへやってきた。今までワインクーラーにつけられていたそれをテーブルに置き、
「まずは一言、いいかな?」
 訊ねられたのはハラキリであるが、彼はニトロを窺った。それにニトロは疑念を覚えた。別になんてことのない問いかけなのに、何をハラキリはこちらに意見を求めるような目を向けるのか。
 ひとまず、ニトロはハラキリを促す。
 ハラキリは、ニルグへうなずいてみせた。
 するとニルグは胸を張り、
「えー、本日はお日柄も良く」
「そういうのはいいから」
 即座にニトロが言った。前口上を無情にも切断されてしまった父は、しかし息子の有無を言わせぬ圧力に屈し、
「それではここでお祝いの歌を」
「それもいいから」
 ガタッと音を立てたのは、今まさに立ち上がらんとした母であった。彼女は軽い中腰の状態で息子を凝視する。父も息子を凝視していた。二人とも愕然としている。見ればハラキリは苦笑とも渋面とも言えぬ影を口元に刻んでいる。ニトロはやはり断固として両親を止めねばならぬと決意した。――と、いずこからともなく伴奏が流れ出す。皆がハッとするところ、またも即座にニトロが言った。
「メルトン、勝手に流すな。止めろ」
 しかし伴奏は止まらない。そろそろ前奏が終わる。ニトロの両親は逡巡している。二人はまだ歌うことを諦めきっていないらしい。主奏に入りさえすれば歌えるという希望が瞳の中で輝きを増している。そこで息子は携帯電話を素早く操作した。一拍置いて、
「ホギャン!」
 メルトンが悲鳴を上げた。ニルグとリセが驚いたように中空を見つめた。そこはいつも宙映画面エア・モニターが投射され、二人に呼び出されればすぐにメルトンが肖像シェイプを表す場所であった。だが、そこには何も映らない。ただ伴奏が止まった。ニルグとリセが絶望的な顔をした。
「大丈夫だよ、メルトンにはちょっと休憩してもらうことにしただけだから」
 ため息混じりにニトロは言い、続ける。
「歌はなしってことになったはずだろ? 『拷問になる』からさ」
 そのセリフに反応したのはハラキリだった。彼の視線を感じて振り返ったニトロは思い出し笑いを口元に浮かべ、
「芍薬に聞いたよ。『誕生日の祝いの歌を黙って聞かされるのは拷問だと思う』――だろ?」
 ハラキリは、苦笑した。ニトロは目を細めると両親に振り返り、
俺も、やっぱり歌いたい気持ちは分かるよ。だけどそんなことしなくてもハラキリには伝わるからさ」
 その言葉で両親はとうとう納得したようだった。バツが悪そうに笑って母が座りなおす。そして父もバツが悪そうに笑みを刻んでボトルを手にする。小気味の良い音がした。ニルグはハラキリの傍らへ歩を進めると、汚名返上とばかりに、ベテランのソムリエのような所作でボトルを傾けた。
 細かな泡を立て、グラスに淡い金色の液体が注がれていく。
 見た目にはシャンパンにも似ていた。
 しかしハラキリは鼻腔に触れたその香りに、それが発泡性のリンゴジュースだと知った。ニルグは次にニトロのグラスに注ぐ。そのラベルを見て、ハラキリは少し驚いていた。評判の高い林檎酒シードルの醸造家が、自慢の果汁をアルコールの飲めない人にも味わわせたいと生産しているものに違いない。彼のシードルはプレミアがついて手に入りにくく、そのリンゴジュースも『ジュース』という括りの中では最も手に入りにくい逸品である。
 ハラキリがふと視線を感じて振り向くと、ニトロが微笑を浮かべていた。それはどこかその品を用意したことを誇るようであり、また説明を受けずともその価値を見抜いたことへ賞賛を向けているようでもある。
 全てのグラスを満たし終え、ニルグが席についた。さりげなくラベルが主賓に見えるようボトルを置き、グラスを手に取る。リセとニトロも手に取った。最後にハラキリがグラスを持ち上げる。
 ニルグが言う。
「息子がいつもお世話になっています。ありがとう、ハラキリ君」
 ハラキリは戸惑ったように――そう、それにこそ、ニトロは先ほどハラキリが見せた不思議な様子の正体を悟った。
 戸惑い
 ここまでの道中、ハラキリ自身口にしていたその感情がおもむきを変えて今、彼の顔にはっきりと現れていた。いつもは飄々として掴み所のない『師匠』が確かに同い年なのだとニトロは実感する。と同時に彼の胸に強烈な不安が芽生えた。いや、正確には蘇った。しかしその不安が当たっているかどうかを確かめる術はない。
 その内にハラキリは戸惑ったままニルグの言葉を、そのポルカト家の総意を受け止め、うなずいていた。
「お誕生日おめでとう」
 ニルグを追ってリセも言う。慌ててニトロも言祝ことほいだ。
「おめでとう」
「――ありがとうございます」
 少年の返答を受けてニルグはグラスを掲げた。
「乾杯」
 穏やかな音頭に、ニトロとリセも唱和する。ハラキリはグラスを控えめに掲げて、苦笑した。それはニトロの良く知るハラキリ・ジジの笑顔だった。戸惑いが完全に消えたわけではなさそうだが、それを上回る何かが彼の心に湧き起こったらしい。ニトロは安堵した。勝手に設けたこの誕生日会――もしかしたらハラキリにはひたすら迷惑なことを押し付けているだけなのかもしれないと不安になっていた彼は、不思議な感慨と喜びを覚えながら親友と目を合わせた。
 そして二人は同時にグラスに口をつける。
 爽やかな果実の香味と素晴らしい酸味が走り抜け、さらりと流れていく上品な甘みを奥ゆかしいコクが支えている――
「ああ、これは美味しい」
 思わずといったようにハラキリがそう漏らすと、ポルカト家が微笑む。
「それじゃあ料理を出そう」
 ニルグが立ち上がり、キッチンに戻っていく。
「これが今日のメニュー。ニトロから苦手なものはないって聞いているけれど、もし何か注文があったら言ってね」
 と、リセの差し出してきた板晶画面ボードスクリーンを受け取り、その献立を見てハラキリはまた驚いた。前菜二種・パスタ・メイン・デザートというコースの中、初めの冷たい前菜には異星いこくの名があり、メインには希少な『ヴァーチ豚』が用いられている。それはアデムメデス三大豚の一つで、その人気から王都でも手に入りにくく、となれば当然――
「……」
 つい「これほど奮発なされなくても」と言いそうになったところ、ハラキリは堪えた。ここで金銭のことを言うのは礼を失する。だが彼が何かを言おうとした様子は表に出ており、リセが耳をそばだてるようにこちらを見ていた。
「そうですね……」
 ハラキリはメニューを手元に置き、ニトロの母と、キッチンからスプレー缶のような器具と皿を手に戻ってくるニトロの父を順に見て、
「おそらく、シードルも購入されているのではないですか?」
 最後にリンゴジュースのボトルに目をやって、ハラキリは言った。
「流石」
 と、ニルグが感嘆する。リセは感心の目をニトロへ向けていた。息子と感動を共有したいらしい。それにニトロはちょっと恥ずかしそうにしている。ハラキリはその光景に笑みを浮かべ、
「おじさんとおばさんはどうぞそれをお召し上がりください。豚にリンゴは王道ですから」
「いやー、やっぱりハラキリ君は物知りだねえ」
 自慢の息子の自慢の親友をニルグが褒め称える。リセはまたニトロを見る。ニトロはちょっとテンションが上がり始めた両親に懸念を覚えた。が、その懸念よりも先に彼は一つ大きな問題に直面していた。
「そうなんだ! もうコンセプトに気がついたんだね?」
 父が嬉しそうに語り出す。それをここで止めねばテンションもさらに上がってしまうだろう。ていうか父に熱弁させては自分が恥ずかしい。
「父さんそれより前菜をッ」
「――ああ、そうだね。先に料理を出さないと」
 そう言ってニルグはスプレー缶のような器具の蓋を取った。そこにはノズルが三つあり、彼は持ってきた皿の一つに一番右のノズルを近づけた。
 ジュ、という音がして、皿の上に拳大の綿が生まれた。
 次にニルグは真ん中のノズルにチューブのようなアタッチメントをつけ、それを綿に突き刺す。プシュル、プシュル、という鋭い音が繰り返されると綿の中にカラフルなほしが散った。
 最後に一番左のノズルを綿の上で解放する。すると目に見えるか否かというほどに細い金糸が綿を飾った。
「チーズと野菜のカクトンこく風です」
 調理そのものが一つの芸のようであった。作り上げられた前菜を差し出されたハラキリは軽く頭を下げ、思わず笑う。カクトン星といえばあの『映画』の中で自分がニトロへ振舞った非常食の出所でどころだ。
 ハラキリは三人の分も作られるのを待とうとしたが、ポルカト家の眼差しはご賞味あれと勧めている。そこで彼は前菜用に置かれていたスプーンを手にした。
「いただきます」
 金糸を纏うカラフルなほしを包んだ綿の一部をすくい取り、口にする。ひんやりとした綿は確かにチーズであった。それなのに口に入れた途端、綿飴のように溶けた。そして星はこのチーズに合う野菜のエキスが凝縮したもので、舌や上顎に触れただけでぷちぷちッと弾けて、チーズの風味との相乗効果で旨みを増す。時間差を置いて溶けた金糸は舌に残る後味をさっぱりとしてくれた。
「これもまた美味しい」
 ハラキリの言葉に心底嬉しそうにニルグが目を細める。そして彼はポルカト家の分を作るとキッチンに戻り、調理器具と交換に新しいボトルを手に戻ってきた。それから、
「――あ。そうだ、ニトロ」
「芍薬ができるよ」
 父の意図を察してニトロが言うと、キッチンにロボットアームが伸び上がった。
「メルトンからもう全部聞いてると思うから、何でも指図してやってよ」
「うん、分かったよ」
 次の料理も全て最後の一手間を加えるだけで完成するようになっていた。皆が冷たい前菜を味わう間に多目的掃除機マルチクリーナーが忙しなくアームを動かし、バゲットをスライスし、保温容器から食材を取り出し、漬け込まれていた食材を器から取り出し、洗い置かれていた野菜をカットし、やがて頃合を見計らうと大皿を頭に抱えるようにしてキッチンから出てくる。
「オ待タセシマシタ」
 と言ったのはメルトンだった。ニルグとリセが安心したように微笑む。が、ニトロはメルトンの声に硬さがあることに気づいていた。間違いなく芍薬の厳しい監督を受けているのだろう。そして芍薬は、本当なら自分がそう言いたかったところを、両親に気を利かせて引いてくれたのだ。その気遣いがニトロには嬉しい。それを察したのだろうハラキリが、ニトロに愉快気な目を向ける。
 テーブルに置かれた大皿には様々なピンチョスが並べられていた。全部で8種。一口サイズのそれらは会話を楽しみながら食べるに最適で、彩りも工夫されて見た目にも楽しい。ハラキリはこの豪勢な大皿を、期待を込めて眺めていた。先ほどの前菜も美味であったし、ニトロの父の料理にはご相伴に預かる度に舌鼓を打たせてもらっているのでそれぞれがどんな味のするのか実に楽しみである。
 その一方、ニトロは眉をひそめていた。
 ピンチョスの量が、明らかに多過ぎる。8種のピンチョスがそれぞれ十個もあった。一つ一つがいくら一口サイズだとしても、これではここで満腹になってしまうではないか。それに今朝自分が仕込みの手伝いに来た時はこれほどの種類はなく、4種を五個ずつ、そうだったはずだ。それが何故こんなことになっているのだろう? 急に物足りなくなって追加したらうっかり作りすぎた?……あり得ない話ではないが――
「あ」
 と、父がつぶやいた。
 ニトロは父を見た。
 父はピンチョスの大皿を見て何かを思い出したようだ。隣で母も同じことを思い出したのか、「あ」と口を開けている。そして二人は急にそわそわし始めた。ハラキリも訝しげに二人を見ている。そこで、ニトロは聞いた。
「どうしたの?」
「ええっとねえ……」
 父がまごつく。妻と目配せし、互いに何か相談したいことがあるのに相談できないもどかしさに悶えるような素振りを見せ、そして二人同時に息子を見る。息子はピンと来た。だが彼は父の言葉を待つ。父はようやく言った。
「そうだ! 冷蔵庫にこれのソースがあるから持って来てくれないかな」
 一見してピンチョスに追加のソースが必要そうなものはない。
「……」
 ニトロは父を見つめた。父は目をそらす。
 ニトロは母も見つめた。母も目をそらした。
 隣で息の鳴る音が聞こえる。横目に見ると、腕を組んだハラキリが目を細めていた。彼はニトロと目が合うと、言った。
「持ってきてくれませんか。是非味わってみたい」
 思わぬ援軍に父と母が顔を輝かせる。
「……そうだな」
 ニトロは立ち上がった。
 この『ドッキリの仕掛け人』の素質ゼロの両親に隠し事を頼むとは、あのバカは一体何を考えているのだろう?――心の中で悪態をつきながら、ニトロはキッチンに向かう。するとそこに控えていたマルチクリーナーが車輪を細かく動かし前後に揺れていた。どうやら芍薬も事態を理解したようだが、対処のしようがなくて地団太を踏んでいるらしい。
「ああ、そうだ、こうなったらメルトンに聞かなくてもいいよ。手遅れみたいだから」
 小さく言うと、マルチクリーナーのロボットアームが急に万歳をした。それはどうやらメルトンの操作によるものらしい。もしかしたら芍薬に拷問されかかっていたのかもしれない。マルチクリーナーが踊るように回転し、また急に止まる。――おそらく調子に乗って芍薬にひどい暴言でも吐いたのだろう。その報いは仕方あるまい。
 ニトロは嘆息し、キッチンに踏み込む前にぐるりと全体を見回した。
 それからテーブルに目をやると、父母はこの後の展開に大きな期待を寄せているようだ。その頬は胸の高鳴りを伝えてくる。一方でハラキリは慣れた様子でこちらを窺っている。
 ニトロはキッチンに向き直った。両親の様子からして間違いなくここにあのバカは潜んでいるのだろう。では、どこだろうか? キッチンには収納が多くある。足下にも、頭上にも。最も可能性があるのは床下収納だろうか? うちの床下収納は広い。人一人が隠れるには余裕である。
 キッチンに入ったニトロは、そこでまず床下収納の蓋をぐっと踏みつけた。
 ……下から抗議は、ない。
 今一度ぐるりとキッチン全体を眺める。塩をまぶして数日寝かせた豚肉の塊が容器の中で常温に戻されている。4口あるクッキングヒーターの一つでは鍋に湯が沸かされつつあり、もう一つの鍋にはスープが保温されていた。次のパスタはスープ仕立てなのだ。そのパスタは自分が生地を打ち、父が作った魚介の餡を母が包み込んだもの。……異常はない。
 十数秒が経っても何も起こらない。
 仕方がない、ひとまずそのソースとやらを探してみようとニトロは冷蔵庫を開いた。すぐに閉めた。そして彼は冷蔵庫に体当たりするように背中をぶつけた。
「?」
 一瞬、ニトロは異世界に迷い込んだ気がして周囲を見回した。
 父と母が固唾を呑んでこちらを見守っている。ハラキリがいつものようにこちらを見ている。マルチクリーナーは、動かない。
 ニトロは肩越しに冷蔵庫の扉を見つめた。
 そりゃ実家うちの冷蔵庫は大きい。確かに一般家庭にしちゃ大きいけれども……!
 目を閉じて、一瞬だけ認めたその光景を瞼に再生させる。
 彼は目を開けた。
 勢い、冷蔵庫も開けた。
「!」
 ニトロは目を見開いた。
 やはり幻ではなかった。ここは異世界などではなく、アデムメデスであり、これは現実である。
「さむい……さむい……」
 ニトロの耳をそんな囁きがくすぐる。彼は言った。
「何してんの?」
 冷蔵庫には女が二人、詰まっていた。
 食材を取り出し仕切りも全て取り外し、そこにパズルのピースを合わせるようにおかしな格好でぎゅうぎゅうに詰まっていた。
 しかも二人して半裸である。
 ビキニを着て、腰ミノを巻いただけという状態。
 そりゃ寒いだろう!
「ややゃやーん、ニニトロ、つ冷たいィイイかたッ」
 声を震わせてアデムメデスの王女様はそう言った。
 しかしニトロの双眸は言葉よりも冷たい。彼の眼差しにティディアがぶるりと大きく震える。
「いつからいたんだよ」
「ククククラッカーかからららら?」
 あの音を聞いてからということは、それなりに時間が経っている。ニトロはため息をついた。
「そんなんなってんなら何でもっと早く出てこねえんだ」
「だだってえ」
「だってじゃなくて」
「だだだんどりはオッケー。ででももっちちょっとスッケジュふぅルが」
 ああ、と、ニトロは理解した。あのクラッカーの後始末で時間を食ったことで、こいつの計算が狂ったのだ。本来は何事もなくパーティーが始まって、そうして冷たい前菜が出される頃合に息子を手伝わせるよう父に言っていたのではないだろうか。そうであればここまで冷え切る前にドッキリ大成功であったろう。――いや? もしかしたらこいつは両親が隠し事をしているとすぐに気づかれて、前菜どころかパーティーが始まる前に居場所がバレるだろうと当て込んでいたのかもしれない。とすればこいつにとっては父と母が(おそらくクラッカーの衝撃で)一時この『ネタ』を忘れてしまったのは致命的であったはず。それなのに、
「どうしてそこまでネタを遂行しきろうとするのかね」
「そぉれが私ッ」
「正直言って頭がおかしい」
「いえー」
「なんで死ななかったんだ?」
「ひっどーい言い方ッ。ヴィタがぬヌクかったのーぉ」
 確かに、最初に冷蔵庫を開けた時、ニトロが見たものは冷蔵された王女がモフモフ毛並みの獣人に包まれている姿だった。次に開けた時は王女と女執事が絡まっていた。思えばヴィタはわりと平然としている。流石に寒そうではあるものの、目が合うと彼女はにっこりと笑った。どうやら肌を接する王女がわりと震えているのが面白いらしい。バカ姫の執事の素質としては、きっとこれ以上のものは他にあるまい。
「ところで、早く出て来いよ。本当に手遅れになるぞ?」
「ひひっぱってー」
「……つまり、自力では出られない?」
「詰まってしまいました」
 と言ったヴィタの舌は滑らかで、やはり大してダメージを受けていないらしい。ニトロは彼女を呆れて見つめ、
「むしろよく詰まることができたもんだと思うよ?」
「ついでに冷えて固まってしまいました」
「ついでどころか必然だよね」
 ヴィタはともかく、本当に冷えて動けないティディアはぎこちなく舌を出す。唇がやばい色をしている。
 ニトロはため息をついた。
「バカが」
 リビングに振り返ると、今度は両親が怪訝な顔をしていた。計画では息子がビックリ仰天、冷蔵庫から飛び出してきた美女達が主賓を祝福する――とでも聞いていたのだろう。その息子が冷やかに立ち位置をずらすと、やっと視認できた冷蔵庫の中身に両親こそビックリ仰天した。悲鳴とも困惑ともつかない声が二人の喉の中で炸裂する。その後ろでハラキリは愉快そうにグラスを傾けている。
「主賓に頼むのも悪いけどさ」
 ニトロが言うと、ハラキリはうなずいた。
「ええ、手伝いましょう」
 ニルグとリセが慌てて立ち上がるのを制して、ハラキリがやってくる。
 ハラキリがヴィタを支えている間、ニトロはティディアをどうにかこうにか引っ張り出した。無理な体勢で冷却された体はとにかく硬く、動きも鈍く、それだけに重く感じる。関節を外すことも骨を折ることもなく救出できたのは幸いであったろう。冷蔵庫で遭難していたお姫様は、救助人に抱きつき言った。
「あー、ニトロもぬぬっくいー」
 その瞬間、ニトロはこのクレイジー・プリンセスの真の狙いを悟った。
 思わず彼女を湯の沸く鍋に向けて放り投げそうになる。
 だが彼はそれを必死に堪えた。
 そんなことをすれば隣にあるスープが駄目になってしまう。それに今日はハラキリの誕生日会だ。彼はヴィタが冷蔵庫から出てくるのを助けながら、こちらににやにやと目を向けている。形はどうあれ親友は楽しんでいる。であれば、であれば……!
「おい、離れろバカ」
 せめて彼は毒づいた。
「やー、冷ぃえ切っちったのあたたためてぇ」
 やっぱり熱湯で解凍してやった方がいいかもしれない。
 見ればマルチクリーナーがロボットアームを鍋に向けて伸ばしている。それに気づいたティディアが身を震わせる。しかし自分からは決して離れようとはしない。
「……父さん、母さん」
 ティディアに抱きつかれたままニトロはそちらへ振り返った。
 すると両親は凍えた『恋人』を優しく抱きとめている息子を微笑ましく見つめていた。
「……」
 何だかもう、ニトロは力が抜けてしまった。
 ため息をつき、嘆息を吐き出し、両親に言うべき小言を飲み込んで、こちらの首に腕を巻きつけて離れない変態を引きずりリビングに戻っていく。
「つうか、今日は仕事だったはずだろ?」
「どうにか時間を捻出しました」
 応えたのはヴィタである。彼女はすたすたと普通に歩いている。
 何かに気づいたらしい父と母がリビングから出て行った。
「他の中身はどうしたんだよ」
「冷蔵庫ごとお父上のお部屋に移してあります」
 やはり応えたのはヴィタである。ニトロは訝しげに彼女を見、それからキッチンを一瞥し、
「え? だってあれ」
「あの冷蔵庫はティディア様のご購入されたものです。ですので清掃のことなどお気になされませんよう」
「むしろ清掃したら値段が下がっちゃうわー」
 ニトロはティディアのむき出しの背中に思いっ切り手を打ちつけた。
「ひぎゃあーお!!」
 冷えたところにこれは効く。派手な音と共にティディアが悲鳴を上げる。が、それでも彼女はニトロから離れない。真っ白な肌に手の跡が赤く綺麗に浮かび上がってくるのをうっとりと眺めているヴィタに、呆れ半分ニトロは言う。
「こんなことに無駄金使うのはどうかと思うよ?」
「それ以上に回収できますし、何より良い余興かと」
 彼女のマリンブルーの瞳はハラキリを示している。彼は愉快そうな面持ちである。
「余興と言うなら、その格好は何です?」
 そして彼の発した問いに、スレンダーな肢体を大胆に披露するヴィタは言う。
「グーリー諸島の伝統的な衣装です」
 その言葉にハラキリは色々察したようだった。どこか皮肉気に笑み、ニトロにくっついたままの姫君を見る。背中に真っ赤な手形をつけたティディアは少しだけ彼に振り返り、目元をそばめた。
「なるほど、それはどうもお気遣いをいただきまして」
 とハラキリが言った時、ニルグとリセが戻ってきた。二人とも椅子を運んできていて、ニルグの方にはリセのストールが重ね置かれている。そのストールは確かバーゲンで手に入れた掘り出し物と母が喜んでいたものだ。王女と女執事は笑顔で受け取り、それを羽織る。
 椅子はテーブルの側面に、それぞれ左右に分けて置かれた。ハラキリとニルグの横にヴィタが座る。ティディアはニトロとリセの横に椅子を用意されたが……
「おい、いい加減離れろよ」
「照れなくてもいいのにぃ」
 どういう代謝をしているのか、もうぽかぽかと体が温まっているティディアがニトロに頬擦りをする。彼の背筋に怖気が走った。鳥肌が立つ。それに気づいた彼女が言う。
「ちょっと! これは流石に失礼じゃない?」
「もう一発食らわせてやろうかッ」
「いいわよー、今とっても背中が温かいもの」
 そのやり取りで、リセがティディアの背中の手形に気がついた。非難の目を息子に向ける。息子はちょっと泣きたくなる。だが彼は頑張った。
「折角の料理が悪くなるだろ?」
 ティディアはちらりとテーブルを見た。ピンチョスの大皿には、明らかに自分達の分もある。ニトロの父には必要ないと言っておいたのだが……いや、だからといって用意しないような人ではないか。
「そうね」
 ニトロから離れ、ティディアはうなずいた。
「少し頂いていきましょう」
 誰よりも顔を輝かせたのはヴィタである。そしてティディアはニルグの席にあるボトルに目をやった。
「お時間をとらせてしまったわね、お父様、ぬるくなっていなければいいのだけれど」
 柔らかい口調でティディアが言うと、ニルグは穏やかにうなずき、
「飲むかい?」
「少しだけ」
「おい、この後も仕事なんじゃないのか?」
他星たこくの方を招いての晩餐会ね。そこでは皆様お酒も召しますのよ?」
 挑発するような言い方にやりこめられて、ニトロは唇を引き結ぶ。笑い声が聞こえてそちらを見れば、早くもティディアを実娘のように思っているリセがキッチンからグラスを二つ持ってきていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 と、ニルグがそう言ったのはハラキリに向けてであった。ハラキリがうなずいて、待ちくたびれていた林檎酒シードルが開けられる。ニルグはまずティディアに酒を注いだ。琥珀にも似た金色、わずかにとろみのある中を繊細な泡が絶えず昇っている。次にヴィタ、妻にも注いで、最後に自分のグラスを満たす。それから彼は空いていたハラキリのグラスにリンゴジュースを再度注ぐ、と新鮮な泡が再び弾けた。
 ハラキリ・ジジのための誕生日会が再開され、すぐに会話の花は大輪となった。冷蔵庫の中に潜む、という体験談をティディアが笑い話に変えて披露する。ニルグとリセは巨大クラッカーの失敗談をティディアに語る。そこで初めてハラキリがその時の感想を口にした。戸惑いながらも見続けていた滑稽な親子のやり取りを飄々と語り、その語り口が、笑いの対象にされているポルカト家の三人をこそ笑わせる。園芸仲間でもあるリセとヴィタは椿カメリアを主体とした今日のアレンジメントフラワーについて語り合い、そこにティディアも参加する、と、彼女はそこから食用花に話を繋げ、ニルグを引き込み、それに関する夫婦の思い出話を引き出してからハラキリにも話を振る。ハラキリは異星いこくの花、そして芍薬の名前の由来を語り、特にリセの興味を引いた。ニルグは以前息子ニトロがその地球ちたまの料理を食べさせてもらったと言っていたことを思い出し、ハラキリにそれを聞く。時折ティディアが潤滑油を差し込んで、会話はさらに盛り上がる。
 ピンチョスは順調になくなっていった。無論、最も食したのはヴィタである。会話に耳を傾けながら涼しげに休むことなく食べ続ける執事の健啖さには、それを知っているニトロも改めて感心させられてしまった。ニルグとリセはひたすら嬉しそうにニコニコと藍銀あいがね色の髪の麗人を見つめていた。
 やがて前菜の時間が終わる。
 次のパスタに移る前に、ティディアが立ち上がった。ストールを外し、それを貸してくれたリセに目で礼をしながら背もたれに掛ける。
「さて」
 主人の目配せにヴィタはうなずき、同じくストールを背もたれに掛けて友人リセに礼を言うと、リビングの中でテーブルの向かい側、ちょうど庭がよく見られる位置にあるソファへ向かった。彼女はソファの前に置かれている背の低いテーブルを――手伝おうとするニルグとリセを微笑で制し――素早く移動させて広い空間を作ると、さっと廊下に出て行く。
 そしてティディアが言う。
「名残惜しいけれど、私達はここまで。短い時間だったけど、楽しかった」
 ティディアはゆっくりとテーブルから離れ、執事の作った空間に至ると、軽やかに踵を返した。
 艶やかな黒紫の髪が翻る。
 彼女の肌を隠すのは丸いカップ状のトップスと、細い植物の葉から作られているらしい腰ミノ。その枯れ色の葉の隙間には白いボトムが覗く。フローリングを踏む素足は爪も玉のように磨かれて、足首には貝殻を連ねたアンクレットが巻かれていた。
 ヴィタが戻ってくる。
 ティディアと同じ衣装を着る彼女の手には小さなギターのような楽器があった。彼女は向こう側の透けて見える薄絹も持ってきていて、それをティディアに手渡した。ティディアはそれを首にかける。首から垂れる薄絹は端が床まで届くほどに長い。その余剰を王女はまず肘に掛け、布の端に近いあたりを手に載せる。するとそれはまさに天女ニンフの羽衣のように見えた。
「お別れをする前に、拙いながらも芸を一つ」
 微笑み、ティディアは言った。彼女の斜め後ろにヴィタがあぐらをかいて座りこみ、楽器を構える。藍銀色の奏者の横には窓の外、室内からこぼれる光を受けて、ノースポールの白い花々が星団のように輝いている。
「皆様には日頃のお礼を込めて。ハラキリ君には祝福を込めて」
 その口上にハラキリは小さな笑みを浮かべ、うなずいた。椅子の向きを変えてティディアとヴィタを正面に見られるようにする。ニトロもそれに倣った。
「僭越ながら、心からの歌声を」
 ぽろんぽろんとヴィタが小さなギターのような楽器を鳴らす。4本の弦を調ととのえて、彼女はコツ、コツ、と楽器の胴を叩いて拍子を取る。
 ティディアが息を吸い――
 そしてここに、美しい歌声が満ちた。
 それはまるで海を渡る風に似た透明な声。
 リビングという生活空間にあって遠く遠く、聴く者をどこまでも遠くに運び去ってしまうかのように軽やかで、しかしどこか恐ろしく深い声。
 ヴィタの奏でるのは4弦しかないとは思えぬほどに音が豊かで、温かく、少し切ない。
 メロディに乗せられることばには異郷の香りがあり、それはきっとヴィタの言ったグーリー諸島の古語であろう。誰もその意味するところは解らない。しかし解らなくとも、そこに込められた思いは胸に染み入ってくる。
 ティディアはゆらゆらと揺れていた。ゆるやかに左右に、柔らかに前後に、足を踏み出す度に彼女のアンクレットの貝殻がシャラシャラと囁く。地を踏みしめて腰をくねらすと腰ミノがせせらぎ、うねる肉体は海のうねりにも似て、されどそこには得も言われぬ女の官能が燃えている。
 薄絹を風になびかせるようにして彼女は舞った。
 まさに命の海に漂いながら、彼女は歌った。
 ニルグとリセは息を止めて聞き惚れる。
 ニトロさえ陶酔感に襲われた。
 ハラキリも聞き入る。
 そのハラキリに、ティディアは時折眼差しを送っていた。そして空を撫ぜる手が彼に心を送る。それはその歌舞の形式に則ったものであろう。それでもそこには確かに言祝ことほぎがある。
 ――瞬間、ニトロとティディアの目が合った。
 ニトロは思わず苦笑した。冷蔵庫の中で冷えて固まっていたバカが今、どうしてこんなにも美しく歌えるのだろう?
 そして苦笑するニトロと最後の詞を声高く歌い上げるティディアとを視界に収めるハラキリの口元には、曖昧な笑みがあった。
(不思議な関係ですよねえ)
 一人の友と、一人の女。
 ニトロからすれば、その女のバカな思いつきに巻き込まれて人生が変わった。
 自分からすれば、二人が織りなす騒動に巻き込まれたことで人生が変わった。
 本音を言えば、自分は誕生日のお祝いの歌を歌われることだけが『拷問』だと思っていたわけではない。自分のための誕生日会、というのも考えただけでゾッとするものであった。しかし今、こうして自分は楽しんでいる。体裁を整えるための作り笑いではなく――
「「ブラーバ!」」
 歓声が背後に上がる。そこでハラキリはティディアが歌い終えたことに気づいた。ニトロが拍手している。歌い終えたティディアはヴィタが立ち上がるのに手を貸しながら、横目にこちらへ瞳を向けていた。その黒曜石のように妖しく色めく黒紫の瞳と目を合わせた時、ハラキリは彼女がこちらの心を覗き込んでいることを知った。彼は苦笑し、遅れて手を鳴らす。その拍手の裏側に彼の心が隠れたのを見たティディアは吐息の代わりに微笑を浮かべ、目をニトロに移した。そうして素直に感動を示すニトロの顔を見た時、刹那、彼女のその顔に形のない感情がふいに表れた。それをハラキリは見逃さなかった。とはいえそれが意味するところまでは掴めず、いつか誰もが恐れる『クレイジー・プリンセス』の弱点を掴めることを期待して、今は礼を述べる。
「素晴らしい贈り物を感謝します。おひいさん、ヴィタさん、ありがとうございます」
 歌い手と弾き手は揃って頭を垂れた。
 一段と拍手が高まる。
 キッチンからも音が聞こえて、ニトロが振り返るとマルチクリーナーのロボットアームが手を叩いていた。メルトンだろう。ピュイッとスピーカーから口笛が鳴る。それもメルトンのものであろう。しかしそれを許したということは、芍薬もその歌を認めているらしい。
 頭を上げたティディアは嬉しそうに笑っていた。ヴィタも微笑んでいた。そして王女と執事は慌しくその格好のまま玄関を飛び出ていった。四人が玄関まで見送りに出ると、二人は既に迎えに来ていた車に飛び乗っていた。窓からティディアが手を振るうちに車は走り出す。道を曲がり家の影に消え、そして車は影の中から夜空に向けて上昇すると息つく間もなく王城へと飛び去っていった。

 ティディアとヴィタが残していった感動は、しばらく消えなかった。
 四人がリビングに戻るとテーブルには新しい皿が並んでいた。
 スープ仕立てのパスタが供される。
 話題はやはりあの歌声を離れなかった。背もたれにストールの掛かる空席は、あの旋律を留めるためであるかのようにそこに残されたままだった。
 ニルグとリセは頭が痺れているようで、その気持ちは――悔しいが――ニトロも否定できない。だから彼は二人がパスタと共に酒盃を進めることにあまり意識をやらなかった。
 それが失敗だった。
 いくら感動とその余韻のためとはいえ、ニトロはどうにかして両親がアルコールを摂る速度を緩めるべきだった。
 両親が飲みすぎて泥酔したとか、嘔吐したとか、そういう無様な事態となったわけではない。父も母も酒の飲み方を知っている。ただ、それでも酒によって陽気になることは避けられない。
 そう、ニルグとリセはとても陽気になった。
 歌声への陶酔は酒の酔いに移り、酒の酔いは再びハラキリ・ジジの誕生日を祝う心を盛り立てる。そうだ、あのような素晴らしい歌を聞けたのはハラキリ君のおかげである。あの王女様にあんなに心を込めて歌を歌ってもらえるなんて! それもこれもハラキリ君が素晴らしい人だからだ。そんな人が息子のことをいつも気にかけてくれるなんて……お父さんは、お母さんは、嬉しくてたまらない!
 たまらないのはむしろニトロであった!!
 ハイテンションになった父も母もハラキリ・ジジに祝いの言葉を繰り返しながら、しかしその会話の中心はやがて自慢の息子のこととなる。息子の親友にもっと息子のことを知ってもらいたくて、饒舌に両親は思い出を語り出す。
 彼は恥ずかしかった。
 されど両親は止まらない。というかこの環境にすっかり順応したハラキリがそれを面白がらぬわけがない。よって彼はニルグとリセをうまく促す。ことあるごとに自分も二人に祝い倒されるために気恥ずかしさを覚えることもあったが、それ以上に両親よりも顔を赤くしてツッコミを入れまくるニトロ・ポルカトが楽しくて、ハラキリも相応に悪乗りしていた。
 酔いが巡ってもニルグの料理の腕は狂わず、メインの『ヴァーチ豚、クレプスの岩塩と共に寝かせた肩ロースのグリル』の焼き色は見事の一言で、その味わいがまたリンゴの風味とよく合った。ハラキリの食は進んだ。両親のシードルも進んだ。ニトロは恥ずかしかった。だが親友が隠すことなく楽しそうに笑っているから、本気になって怒れはしなかった。
 ハーブソースを纏わせたヴァーチ豚の最後の一切れを心ゆくまで堪能したハラキリは満足の息をつき、
「お疲れですか? ニトロ君」
 訊ねられたニトロは眉間に皺を寄せ、
「お陰さまでな」
 ハラキリは愉快そうに肩を揺らす。テーブルの向こうには笑い疲れた両親が、この会ももうすぐ終わる、と、寂しそうにしている。
「ニトロ、デザートを持ってきてくれないか?」
 父が言う。もっとハラキリと話したいのだろう。ハラキリは気を取り直した母と薔薇の話をしている。どんな話題にもうまく対応する術を持つ彼は、薔薇の世界について掘り下げるのではなく、薔薇が関わる他のテーマ――今はロディアーナ宮殿にあるロザ宮の薔薇園に話を持っていき、そこで相手の知識の中に己も知る題材を発見するやそれをすぐさま話頭に上げていた。正直、ニトロはその技に舌を巻く。
「冷蔵庫に入ってるから」
「わかった」
 ニトロは立ち上がり、キッチンに向かおうとして足を止めた。ヴィタがうちの冷蔵庫は父の部屋にあると言っていた。そこで踵を返して二階に向かい、違和感凄まじくも父の部屋に確かに置かれていた冷蔵庫からチョコレートケーキを取り出して、リビングに戻った。食卓では父が母に相槌を打ちながら、ハラキリの知識に感心していた。
「持ってきたよ」
「うん、切り分けよう」
 ニルグが立ち上がるより少し早く、マルチクリーナーがやってくる。その手にはナイフが納められていた。
「……どっちかな?」
 ナイフを受け取った父に訊かれ、ニトロは即答した。
「芍薬だよ」
「本当に?」
 母が驚いたように言う。マルチクリーナーは手でお辞儀をすることでマスターの言を肯定した。
「すごいわねぇ」
 感心しきりの母の横で、父はマルチクリーナーに向かって礼を言っていた。マルチクリーナーはその場でくるりと回るとキッチンに戻っていき、今度はケーキ用の皿を重ね掲げて駆け戻ってきた。
「ありがとう、芍薬さん」
 父が言うのにニトロが言う。
「今のはメルトン」
「え?」
「ソーダヨ、パパサン! 間違エルナンテ酷イヤ!」
「ああ、ごめんよメルトン」
 慌てて謝るニルグの横で、リセが目を丸くしてニトロを見つめる。
「すごいわねえ」
 ニトロからすれば、単に芍薬は最後に『ポルカト家のA.I.』にもちゃんと仕事を与えるだろうと思ったのだし、メルトンはメルトンで自分もパパにお礼を言われたいからと芍薬に仕事をねだると思っただけのことだった。それにマルチクリーナーの挙動も違う。芍薬は落ち着いていて、メルトンはどこかはしゃいでいるようだ。が、そう言われれば我ながらよく分かったものだとも思う。
「今のは立派な芸でしたね」
 笑いながらハラキリが言った。
「そうか?」
 はにかみながらニトロは席に着いた。
 入れ代わるようにリセが席を立ち、キッチンに向かう。
 ニルグもケーキをそれぞれの席に切り分けるとキッチンに向かった。
 コーヒーの香りが漂ってくる。
 最後の飲み物である。
 会の終わりがすぐそこにやってきていた。
 カップを用意する父と、コーヒードリッパーに湯を注ぐ母。少し飲みすぎた両親は幸せそうに言葉を交わしている。ニトロは胸の内で一つ息をつき、目を隣に戻し、
「なんだか落ち着かない感じになっちゃったな」
「いいえ」
 ハラキリは首を振った。
「楽しかったですよ」
「そうか? それなら良かったんだけど」
「ええ、お招き頂きありがとうございました。本当に、楽しかったのですよ」
 ニトロは少し驚き、ハラキリを見つめた。ハラキリは今まで見たことのないような柔らかい笑みを浮かべていた。
「なんでも経験してみるものですね。しかし今日ほどの会はもうないでしょう、だから今回だけで十分です」
 だがすぐにいつもの彼らしいセリフを聞いて、ニトロは思わず笑った。そして言う。
「いいや、もうないなんてことはないさ。来年も、再来年も、きっといくらでも」
「そうですかねえ」
「ああ、だってほら――」
 そこまで言ってニトロは迷った。このハラキリを納得させるにはどう言えばいい?
「だってほら?」
 何も言い出せずにいると、ハラキリが意地悪く問うてくる。ニトロは何かの弾みで言った。
「俺が俺だ」
 きょとん、と、ハラキリは呆けた。
 それを言ったニトロ本人は我ながら何を言っているんだと呆れてしまった。本当はもっと言いたいことがあった。ハラキリがないと言うなら『俺が』用意する。もちろんそれは俺一人で用意するものではなく、父も母もいるし、芍薬もいる、ついでにメルトンも協力してくれるだろう。なんなら次は学校の友達も呼ぼう。未来には希望を持っていた方がいいじゃないか。俺はそう思うんだ。だけどそれだけでハラキリが納得するとは思えない。全ては君の推測、そう言われてはおしまいで、もし確実な根拠を求められればそれは結局『俺だ』としか言えない。俺の気持ちだけだと。他にも色々な考えが脳裡に駆け巡り、それらをひっくるめて押し固めたら飛び出したのがさっきの一言。――我ながら言葉足らずにも程がある!
 一方で呆けていたハラキリは、やおら声を上げて笑い出した。
「なんだよ」
 それがあんまり大きな笑い声だったから、ニトロは頬を固めた。ハラキリは目に涙すら浮かべ、
「確かに、確かに」
 そう繰り返し、どうにか笑い声を押さえ込むとニトロを見つめ、急にニヤリと笑った。
「……なんだよ」
「君が君であるならば、これからもお姫さんと一緒に楽しませてくれるでしょう」
「!」
 カッとなってニトロが反論を繰り出そうとした時、キッチンから両親が戻ってきた。
「なになに、そんなに笑ってどうしたの?」
 コーヒーの揺れるサーバーを手にして母が目をきらめかせている。
「僕たちにも聞かせてくれないかな」
 トレイにとっておきのカップを載せた父が期待に顔を輝かせている。
 ニトロは誤魔化そうとしたが、ハラキリがしれっと会話の穂を接いだ。
 笑い声が起きた。
 祝宴は、もう少しだけ長く続きそうだった。

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