ニトロとティディアの年の越し方

(第三部の前)

 アデムメデスにおいて大宗教と呼べるものはただ一つ、アデムメデス国教のみである。初代覇王の時代に定められた国教を脅かす一派は以降なく、その故もあってアデムメデスには宗派間の紛争もなく、また国教は『王』を非常に尊重しているためにその政治的権力も特別強くはない。その上、国民性と言おうか、国教自体が寛容を第一に掲げているためもあろうが、宗教を重んじる他所から見ればアデムメデスは無宗教者の集まりのようにも見えるという。
 だが、それでもアデムメデスの生活や文化の根底には確かに『神』が宿っており、折に触れて国民の穏やかな信仰心は発露される。
 その発露の最大例が、年末年始、具体的に言えば12月30日から1月1日にかけて。
 アデムメデスは、つまり、お祭騒ぎとなる。
 国教はその教義の中で、過ぎ去りし一年は「もう戻ってこないように」賑やかに送るものとしている。良いも悪いも同じことが繰り返されませんように、と。
 一方、新たに訪れし一年は「過去の一年のどれよりも素晴らしいものとなるように」賑やかに迎えるものとされている。良いものは以前のどれよりも喜び深く、悪いものは以前のどれよりも悲しみ浅く、と。
 そのために、アデムメデスは一年で最も華やかに賑わうのだ。
 12月30日は言わば準備運動である。
 地域ごとに色づけされた祝い方の差異はあれど、それでも共通するものとして例を挙げよう。
 各地域の繁華街は伝統の金と銀色の飾りでめかしこまれ、大きな公園や目抜き通りには出店が溢れる。楽団が年末特有の曲を奏で、大道芸人が愉悦を誘う。そこで人々は、星の覇権が定まろうとする乱世に始まった風習に則り、良きにしろ悪きにしろ、生きて過ごした一年を噛み締め思いを天に放つために鳥の料理を味わう。
 12月31日は盛り上がりのピークである。
 年末年始に縁のある『五天の魔女の行進』と呼ばれるパレードが星中で行われるのだ。特に圧巻は王都ジスカルラのもので、ジスカルラ港を起点にして国道3号を遡り、銀河に名高いミッドサファー・ストリートを経て国道1号に雪崩れ込んで終点の王城公園へと至る。王都のパレードに参加することは一種の誉れであり、それを目標として一年を費やすサークルも国中に数限りない。
 また、30日、31日の両日には普段は礼拝堂に訪れない者も服装を正して――主にカジュアルフォーマルに、普段から信仰篤い者は礼装で――礼拝し、『年送りの聖言』を唱えて司祭から祝福を受ける。
 1月1日は整理体操である。
 街には時々の流行歌が溢れ、ホームパーティーや小さな舞踏会が開かれ、また、この日も礼拝堂には人が並ぶ。前日の『年送りの聖言』と対となっている『年迎えの聖言』を唱えて司祭から祝福を受けた後、人々は地に足をつけた実のある暮らしが出来るよう願って牛や豚の料理を食べるのだ。子ども達が『五天の魔女』の一人である『央天の魔女』からプレゼントをもらい、大人達が交流のある相手と挨拶状メールを交換し合うのもこの日である。
 そして2日から8日にかけての一週間は家族や恋人など身近な人間と静かに過ごす『穏安の祝日』であり、アデムメデスは9日からまた忙しく動き出す。
 ここでもう一つ、特筆しておくべきことがある。
 それは、12月31日正午から翌年1月1日正午まで、副王都セドカルラにあるアデムメデス大聖堂にて執り行われる大祭儀についての事。
 その祭事はアデムメデス国教年中行事において最大のものであり、一般的には『二年祈祷』という通称で知られている。
 この両日、教義において『神の代行者にして依代』たる王・女王と『天使の代行者にして依代』たる王の子女らは、国教の長である法老長(アデムメデスで公的に王の称号を戴けるのは君主のみである)と共に、31日正午から去り行く一年が繰り返されることのないよう神に祈願し、年が明けてからは1日正午にかけて新しき一年が過去のいつよりも幸福であるよう祈願する。その間、大聖堂では読み手を代えながら聖典の中でそれぞれ『生誕の書』『時の書』『歓喜の書』と呼ばれる章節が朗読される。24時間ちょうどで読み終わるその三章節の朗読を聴きながら、アデムメデスの君主らは、例え『我らが子ら』たる国民が神に祈らずとも、皆に分け隔てなく安寧があるように、そうして絶えず祈り続けるのだ。
 とはいえ、もちろん、実際には24時間ぶっ続けて祈り続けるわけではない。建前では一分一秒たりとて休憩はないが、現実的には各役目ごとに『休憩』となる時間が儀式に則った手順で用意されている。
 また、そのわずかな休憩以外はほぼ24時間祈り続ける王と王妃に対し、王位継承者達は法老長に認められた順番でより多くの『休憩』に入る。それでも名目上は王と王妃が大聖堂の懺悔室で執り行う『休憩ぎしき』の用意のためであり、当然、大聖堂の傍からは離れられない。
 つまり、12月31日午前11時に大聖堂に入る所が確認されたティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、少なくとも1日正午まではそこに拘束されている――そういうことになる。
 ――12月31日、午前11時30分。
 ニトロ・ポルカトは一年最後の一日を心の底から謳歌していた。

 国道1号線は王城公園前からミッドサファー・ストリートまで終日通行止めとなり、今、広い車道は楽団と踊り子、そして『五天の魔女』を演じる役者を乗せたフロート車で埋め尽くされている。楽団が奏でるのは陽気で楽しく、時に陰気で恐ろしい楽曲。踊り子は妖精や精霊、悪魔や小鬼に扮してフロート車の周りで曲に合わせて舞い踊る。主役である『五天の魔女』のそれぞれを乗せた四台のフロート車は工夫を凝らした装飾がされており、その車単体のみにも一見の価値がある。――が、しかし、道の両脇を埋める観衆の声を一身に集めているのは、もちろん車の上、そこにいる『魔女』達だ。
 その光景を、ニトロはジスカルラ第7地区中央公園から眺めていた。彼のいる公園は国道10号に接する形にあり、その10号と並行して2ブロック先に1号がある。彼が視線を向けているのは、公園の植え込みの先、10号と1号を繋ぐ片側二車線の連絡道路であった。彼の立つ位置から1号を臨むと、連絡道路の脇を固める背の高いビル群を枠として、まるで定点カメラを通してパレードを見物しているかのような気分になれるのである。
 右側のビルの陰から、夜明けと日没を表現したフロート車が現れた。車上で大きな白い袋を担いで踊っているのは、良きモノを昇る太陽に預けて地上に降らせる『東天の魔女』と、地上に散らばる悪きモノを集めて沈む太陽で焼く『西天の魔女』だ。車の周りには両魔女の使い魔が舞い踊り、それらはやがて左側のビルの陰に吸い込まれていく。
 次に、現れたのはオーロラを模した車だ。そこでは過去に悪逆非道を尽くしたために魔法封じの鉄仮面を被せられ、その贖いのため、一年に一度きり鉄仮面から解放される1月1日にあらん限りの力で美と幸運の種を撒く『北天の魔女』が歌を歌っている。
<折角なんですから、ついでに近くで見てくればいいのに>
 と、ニトロの手の中にある携帯電話の画面で、ハラキリが言っていた。彼の声は途中で文字に変換され、音声をオフとされた電映話ビデ-フォンの機能により画面下部に表記されている。
<さすがにあの人込みに突入する気にはなれないよ>
 パレードを観る群集の声は、2ブロックを隔てたここでも大きく聞こえている。五穀豊穣と幼い生き物の守り手である『南天の魔女』の色鮮やかな車を眺めながら、ニトロは器用に文字を打った。画面の向こうでは手元で何か作業をしているハラキリが送られてきた文面に気づき、画面を――つまりはあちらのカメラ下のモニタを見、
<いっそ一緒に踊ってきたらどうです? 飛込みで>
 ニトロは肩をすくめる代わりに口の端を片方だけひょいと上げてみせた。
<ここで十分楽しめているよ>
 そう返して、カメラを周囲に向ける。
 ニトロのいる第7地区中央公園には礼拝堂がある。それとも礼拝堂を中心に公園が広がっていると言った方が正しいだろうか。そのため国道1号に程近いこの場所は『有名な穴場』といった賑わい方を見せていた。中央広場だけでなく、ニトロが立つ外周遊歩道に至るまで出店が開かれ、大道芸人達が技を披露し喝采を浴びている。
<さっき『五天の魔女』がここにも来てね。凄い騒ぎだった>
<特に『央天の魔女』周りが?>
<女の子が引きつけ起こしそうな勢いで『フェリーちゃんのお人形』って叫んでたよ>
 央天の魔女は赤い衣に青髪、尖った牙と金色の瞳を持った二十代の女性であり、頭の後ろに扇形の飾りをつけている。その魔女は耳が良く、扇形の飾りはさらによく周囲の音を聴くためのものだ。そうして魔女は子どもたちのお願いを聞き、その子どもが良い子ならばプレゼントを、悪い子ならば牙で以て傷をつけると言われている。
 ハラキリは、その騒ぎを思い出しているのであろうニトロの笑顔を見て、彼自身もいつも笑っているような相貌をさらに緩ませた。それから鼻をかき、その鼻の頭に白い粉をつけ、
<君はおひいさんと一緒にいるだろうと思われているとはいえ……ちょっと心配していたんですが。その分だとバレる気配はなさそうですね>
 細められたハラキリの瞳には、目深にソフト帽を被りコートを着たニトロが映っている。
<よく似合っているじゃないですか>
<芍薬の見立てだからね>
 ニトロは文字を送り返した。
 芍薬が外出するニトロのために用意したものは、セミフォーマルとしても通用するカジュアルなジャケットとパンツ、それにコートを合わせて、最後にソフト帽だった。それらはこの時期に男性が着る物として“一般的”に入るものであり、ニトロの年齢に則したデザインは周囲に違和感を全く抱かせない。さらに見事なのは、違和感を全く抱かせない一方で、それだけ決まっているのに人目を引くものでもない、ということだ。悪く言えば地味ということになるのだが、それがニトロにとってどれほどありがたいことか。――本当に、芍薬はよく考えてくれている。
<お陰で、安心して楽しめてるよ>
 ニトロの返信が来るまでの間、ハラキリはまた手元で何やら作業をしていた。文面が届いたことに気づいてそれを一瞥し、また手元に目を戻しながら小さく笑う。
<それは良かった>
 流石にハラキリが何をしているのかが気になり、ニトロは眉をひそめた。人の密度の薄いぽかりとした空間に移動しながら文字を打つ。
<さっきから、何をやっているんだ?>
<ほら、ご馳走すると言っていた日本にちほんの『トシ・コシ・ソヴァ』を作っているんですよ。あとはこれだけなんですが……これがなかなか上手くいきませんでね>
 と、画面からはハラキリが消え、代わりに、どうやら彼の手元にあるものであるらしい大きな鉢が映りこんだ。鉢の底には何だか固まっているんだかぼろぼろになっているんだか判らない状態のものがある。
<小麦粉?>
 カメラがハラキリを映し直す。
<“そば粉”です。『ソヴァの実』やその粉の特性を複数の文献から探ったところ、どうやらこれが近似のものであるらしいので>
<そば粉を練ってるのか?>
<ええ、麺にするんです>
<そば粉を麺って珍しいな。ガレットや“そばがき”なら知ってるけど>
<一度薄焼きにしてから細切りに、というのも考えたんですが、それとは全く違うようでしてねぇ。どうやら水だけで練るらしいんですが>
<そば粉ってそういうの大変だった気がするよ?>
<流石お詳しい>
 ハラキリは鼻の頭に粉をつけたまま笑った。
<何度も失敗して、どうやら水加減が肝心だということが分かってきました。ニトロ君が来るまでに一応形にはできると思いますので、ご安心を>
 ニトロはふいに上がった歓声に目を誘われた。見れば、白猫と黒猫の着ぐるみが子ども達を集めている。どうやら出店の宣伝部隊らしい。
 可愛らしくデフォルメされた猫達が愛嬌を振りまいているのをひとしきり眺めた後、ニトロは、文字を打った。
<安心できるかッ!>
 ハラキリの<腹は壊しませんよ>という無責任な請負いと笑い声が文字となって流れていく。
 ニトロは息を一つ吐き、
<ひょっとして『オ・セチ』っていうのもうまくいってないのか?>
 二匹の猫に向けて、茶色の熊が走ってきた。子ども達がさらに喜びの声を上げている。子どもたちの明るい笑い声を聞きながら、ニトロはぽちぽちとキーを打った。
<そっちも完全なレシピはないんだろ? 画像と『複数の資料』を元にして推測でって>
 それを聞いた時にも感じた不安が再び去来している。というかより増している。ハラキリは相変わらず笑って、
<大丈夫ですよ。そちらは撫子が請負っていますから。まあ、もちろん、同じなのは見た目だけ、という可能性も大きいですが、それでも味は保証します>
<そっか、そっちは撫子が担当してるのか……>
 画面の端っこにひょいとカッポーギ姿のイチマツ人形が姿を現し、すぐに引っ込んだ。
<それなら安心だ>
 ニトロが渋面を消して口元に笑みを浮かべたのに対し、ハラキリは眉を垂れて苦笑して、
<信用ありませんねぇ>
<『ドキル』の特製グリルチキンだけじゃなく、『ホーミィス』のチキンドリアも買っていこうか?>
<おや、言ってくれる>
 そうは言いながらもハラキリは愉快気に肩を揺らし、
<ま。いざとなったら下手糞なガレットと“そばがき”をご馳走しますから、お気遣いなく>
 ニトロは「笑い」の記号アイコンを送り、それから続けて、
<楽しみにしているよ。地球ちたま日本にちほん学の第一人者さん>
<そいつは『五天の魔女』に愛されたとしても商売にならなさそうですねぇ>
 ニトロの冗談をハラキリは彼らしい調子で返し、そして粉で染まった手を挙げると、
<それでは後に>
 と通話を切った。
「……」
 ニトロは携帯電話をコートの内ポケットにしまった。
 胸には、ちょっとの不安と共に快い高揚感がある。
 年末年始を家族とではなく、友人の家で友人と夜通し過ごして新年を迎えるのはニトロにとって初めてのことだった。中学の頃に十人ほどの友人達と新年を迎えたことはあるが、それは礼拝堂の敷地内でのこと。周りにはたくさんの人がいて、ニトロ自身、新年を迎えるというよりは単に新年を迎えるお祭を楽しんでいるだけだった。今回のように、本当に激動であった一年を、その一年の間に自分を少なからず支えてくれた親友と落ち着いた“大人な過ごし方”で終え、そうして新しい一年を迎えるのは……正直、楽しみでしかたがない。
 ニトロは横目で二匹の猫と熊が組み体操を始めたのを見ながら、足を公園の中心――礼拝堂に向けて踏み出した。
 程良く広い公園の人の流れは、木立の向こうに見える尖塔に向けるものと、そちらから帰ってくるものの二種類に大別できる。ニトロは出店の並ぶ道を、礼拝堂に向けて進む流れに乗って歩いていく。そろそろ昼食時ということもありスナックやジャンクフードの強い匂いが腹を刺激するが、いや、そろそろ昼時だからこそ人の数も落ち着いている。この時間帯に目的を――礼拝を済ませておきたい。
 しかし、礼拝を目的としながらも、ニトロは元より礼拝堂の内部に入るつもりはなかった。
 何しろ礼拝堂の内では帽子を脱がねばならない。それでは流石に『ニトロ・ポルカト』だと気づかれてしまう。だが、幸いなことに今日明日は大挙して訪れる人々のため、礼拝堂の扉は開け放たれているのが常だ。内に入らずとも、祭壇と、アデムメデス国教の太陽を模した象徴イコンに面することはできる。そこで小さく頭を垂れて、心の中で聖言を唱えよう――礼拝としては取り繕いにもならない形だが、ニトロは「それくらいは」と、そのために足を伸ばしてここに来たのだ。
 礼拝堂の面前に広がる中央広場は、公園のどこよりも賑わっていた。
 遊歩道から広場に入ると、ちょうど公園を挟んで鎮座する礼拝堂が目に飛び込んでくる。第7区中央公園の礼拝堂は、国教の様式として東に鐘楼、西に『日の見の尖塔』を持ち、本堂には千年前の流行であった円い屋根のこぢんまりとしたデザインを採用していた。このタイプはアーチ型の大きな扉を持ち、開け放たれているその大きな出入り口からは少年少女で編成された聖歌隊の歌声が流れ出している。
 広場の中心部はがらんと空いていた。おそらくそこには、最も人の集まる時分には礼拝堂に入ろうとする人間の列が伸びてくるのだろう。他方、広場の外縁には店が所狭しとあり、温かな飲食物の店と、とりわけ護符関係の店が並んでいて、今はそこに人が集まっている。
 空いた広場の中心を歩きながら――先ほどの猫や熊と同じ宣伝用だろうか、ニトロはある店の脇に座り込んでいる白馬の着ぐるみに目を引かれた。そこから店の看板に目をやって、ふ、と彼は内心苦笑する。
 その店は様々な他星のお守りを扱う店だった。馬を初め動物を象ったものや、どこかの国や星の神の偶像であるらしいアイテムが棚に並んでいる。ふと多くの女性を集めている店を見つけて見てみれば、それは恋愛運を高める流行の“おまじないグッズ”の店だった。もちろん国教由来の護符を売る店が一番の客を集めているが、そのすぐ隣ではセスカニアンこくの占い師の弟子という触れ込みの女性が水盆を覗き込んでいる。
 いくらアデムメデス国教の教えが寛容を旨としているとはいえ、
(節操がないなぁ)
 しかし、まあ、節操がないと思いながらもこの光景を許容している自分も『節操がない』のだろうと、ニトロはまた内心で苦笑する。
 ニトロは広場を抜け、礼拝堂の前に差し掛かった。
 ――それにしても不思議な雰囲気がここにはある。
 背後では稼ぎ時だと張り切る店々が俗な空気を擦り合わせて発熱しているが、そこには礼拝堂内から少年少女で編成された聖歌隊の歌う今年一年の暮らしを優しく包む詩曲が流れ込んでいて、一方世俗から切り離された礼拝堂の中には俗な熱気と声が流れ込み、太陽を模した象徴イコンを戴く質素な祭壇の下では礼拝に訪れた人々が敬虔な様子で頭を垂れ、朱字に白い刺繍を施した法衣に身を包む司祭の祝福を受けている。
 俗と聖が交じり合い、溶け合い、感情を掻き立てながら真摯に心を整える情景。
 一年の境目として相応しい独特の空気。
 礼拝堂の直前で、ニトロは自身も敬虔な気持ちになっていくのを感じていた。これ以上進めば祭壇に向かう流れから逃れられない。彼は一歩脇にずれ、ゆっくりと歩を止めた。すぐ脇を、赤子を抱いた女性と畳んだベビーカーを持つ男性が通り過ぎていく。
 ちょうど祭壇では十数人の礼拝者に司祭の祝福の言葉が投げかけられている。ニトロは帽子のつばに手を触れ、胸中で『年送りの聖言』を唱えながら、聖歌と共に堂内から響いてくる司祭の言葉に合わせて小さく頭を垂れた。
 彼の様子を不思議そうに見上げながら、祖父母に連れられた小さな男の子が通り過ぎていく。
(――よし)
 目的を果たした満足感を噛み締め、ニトロは小さく息をついた。顔を上げ、踵を返す。自分と同じような格好をした少年の二人組み――会話からは受験生であるらしい――とすれ違い、ニトロはこの後の予定を脳裏に描く。
 まずはここを出て、5ブロック先の惣菜店『ドキル』で(友人のクレイグに名を借りて)予約しておいた名物のグリルチキンを買う。それから芍薬が待っている駐車場に戻って、途中でファストフードのドライブスルーに寄り、小腹を満たしながら少しドライブと洒落込んで、頃合を見てハラキリの家に向かおう……いや。ニトロはふいに思った――その前に、
(お土産でも買っていくか?)
 ジジ家に、何より芍薬に、お守りでも。
 芍薬も含めジジ家の皆はそのような縁起を担ぐ性質ではないが、こういうのは気持ちの問題だと思う。最近はオリジナルA.I.用のお守り、なんていうのもあるし、邪魔にならない程度なら……そうだ、車につける護符なら場所にも用途にも困らないだろう。
 そこまで考えたニトロは改めて周囲の店を見渡し、何か良さそうなものはないかと探そうとした。
 と、その拍子に、彼は気づいた。
 広場の真ん中に、先ほど見かけた白馬の着ぐるみが佇んでいることに。
 その白馬の着ぐるみは、改めて見ると愛嬌のある不細工な形にデザインされていた。その外見は、基本的に太い。前足も後ろ足も共にやけに太い。馬のラインは辛うじて守ってあるものの、あんまり丸すぎて牛にも見える。首の長さと鬣がなければ牛だと断言しても差し支えはないだろう。足の太さを鑑みるに、どうやら前と後ろの二人がかりで動かすタイプのためであるらしく、であれば着ぐるみを二つ並べてくっつけているようなもので、無論、それなりに大きい。顔の各部分のデザインはアニメチックだ。目も鼻も大きくて丸々としている。口は開閉できるらしく、その間からはプラスチック製の歯がむき出しになっていた。まっすぐ礼拝堂に向けて鼻先を向けているから、ある種、突然現れた礼拝堂のためのオブジェのようにも思えてしまう。
 すなわち一度その立ち姿を見止めれば、物凄い存在感であった。
「?」
 ニトロは眉根を寄せた。
 何だろう、白馬から、その存在感以上に物凄い視線を感じる。
 自然、ニトロの足が止まる。
 すると白馬がのそっと動き、礼拝堂に向けていた鼻先をニトロに向け直した。
 当然、白馬に集まっていた視線の何割かがニトロに移る。
「……」
 目深に被った帽子の下で、ニトロは口の端が軽く引きつるのを感じていた。
 胸の内には『嫌な予感』が急速に湧き出してきている。
 彼はコートの内ポケットに手を差し入れるや携帯電話のショートカットキーに触れ――と、その瞬間、まるで嘶くように白馬が後ろ立ちとなり高々と前足を振り上げた。
 そして、
 なんとそのまま二足歩行で走ってくる!
「うわ!?」
 思わずニトロは驚声を上げた。
 ただでさえ存在感のある大きな馬の着ぐるみが腹を見せて前足をばたつかせてえらい勢いで二本足で突進してくるのだ。よく見れば足には無駄に本物の蹄鉄が打ってある。宙を掻く前足は、つまり、凶器だ。全身を支える後ろ足が石畳を蹴るたびにガゴンという恐ろしい音が鳴り響く。ついでに一歩の度に大きな口が空を噛むように開閉を繰り返し、プラスチック製の歯がガッチンガッチンと気味の悪い音を打ち立てている。
「うわわわわ!?」
 白馬の接近に伴いニトロの驚声が悲鳴に変わる。
「うわわわわ!!」
 さらに白馬までもが悲鳴を上げ出した。
 その声はニトロの記憶の中に黒カビよりも深く根を張るものであり、その着ぐるみの中から漏れ聞こえてくる声を聞いた瞬間、ニトロは逆に悲鳴を止めた。
「ちょ、ヴィタ! 前! 空しか見えない!」
「私は何も見えません!」
「まさかの設計ミス!?」
 白馬の中からは悲鳴を追って、そんなやり取りまで聞こえてくる。
 ――さて、どうしたものか。
 ニトロは、刹那、考えた。
 このまま自分があの暴走馬を避けたらどうなるか。背後には人もいる。怪我人が出るのはよろしくない。では、受け止める? 無理だ。女性二人に着ぐるみの重量、そこに怪脚力が加わっている。まともにぶつかれば無事では済まない。
 ならば、
「ニトロどこぉ!?」
 その問いには答えず、ニトロはすっと脇にずれ、白馬の突進をかわし様、その後ろ足を掬い上げるように蹴り上げた。
「あ」
 ヴィタの声が、近くで見るとかなりの高級品らしい生地の向こうから聞こえてくる。
「ああ!」
 白馬の口からは悲鳴が吹き出る。
 おそらくは、白馬の中身の現状は、後ろ足担当のヴィタが前足担当であるティディアの腰を両手で抱え、例えばダンサーのリフト技のように持ち掲げている状況であろう。
 白馬は見事に足を取られて、腹から落ちるように倒れこんでいく。
 ――もし、ティディアが上手いこと着地できたなら、何の被害も出なかったことだろう。無論、転ばされたことに気づいたティディアもそうしたかったのだと思う。
 だが、彼女は先ほどまで足をばたつかせていた。加えて、重い蹄鉄を履いていたことも災いした。ただでさえ目隠し状態だ。転ばされたことへの反応が遅れた上にばたつかせていた足の勢いが余りすぎ、彼女は適切な体勢を整えることができなかったのである。そのため足を振り上げた反動で馬の前半分はのけぞり――つまり、中身の王女は半ば後転するような姿勢であった。
 それがどういう結末を迎えるか。
 高々とヴィタに抱えられていたティディアは、まるで振り下ろされるハンマーのように尻から着地することとなったのである。
 広場の石畳と肉と骨が、ドン、と怖気のする音を奏で――
「ッふぅンッ!!?!」
 その激痛を物語るくぐもり重い悲鳴が礼拝堂の開け放たれた出入り口を突き抜けた。そして悲鳴は祭壇に到達し、よく音の響く堂内で何度も反響する。
 その直後、
「痛くない!!!」
 己の悲鳴が反響する最中にあっても敢然と叫び、白馬が前足を揃えてぴょんと飛び上がった。その動きに後ろ足も見事に合わせて飛び上がり、そして白馬は、二人四足でしっかと地を踏みしめる。
 ……されど、白馬の前半分だけが産まれたばかりの仔馬のように小刻みに震えている様はいかんともしがたいようではある。
 ニトロは流石にちょっとだけ哀れになって声をかけた。
「おいバカ女、何でお前がここにいるんだ」
「うわひっど! もうちょっと優しい言葉の掛けようってものがあるんじゃない!?」
 声の方角からニトロの位置を察し、ぐるりと白馬がその鼻先を彼に向ける。
 ニトロは――周囲に『ニトロ・ポルカト』と名を呼ぶ声のあることを耳にし、嘆息をつきながら帽子のつばを上げ――着ぐるみの構造を見て取るや乱暴に馬の鼻を掴んで首を引き抜いた。すると、するりと、中から白いTシャツ姿の女の上半身が現れる。
「いや〜ん」
 白馬の中から現れたティディアは妙になまめかしい声を上げ、言葉とは裏腹に胸の谷間を強調するポーズを作った。
 着ぐるみの中が暑かったからだろうか、それとも痛みのためのものか、彼女のシャツには汗が滲んで純白の下着のラインが透けて見えている。それも彼女の狙いの一つだろう。白馬の中から『王女』が現れたことに対する驚き、継いで上がった歓迎の歓声と共に、それらとは別種の歓声も大いに上がる。
 しかし、ニトロにはそんなことはどうでもよかった。軽い頭痛を覚えながら眉間の皺を指で叩き、
「もう一度聞くぞ」
 と、ティディアに問うた。
「何でお前は重要な大祭儀をほっぽり出してここにいられるんだ?」
 半人半馬の様相となったティディアは、よく見るとちょっと涙目であった。やはりまだ激痛が走っているのだ。それなのに彼女は笑顔を浮かべる。ひょっとしたら尾てい骨をやっちゃっているかもしれない苦悶を凌駕する喜びで頬を染め、ポーズを取るのをやめると手を腰に置きニトロを下から覗き込むように見つめ、そうして心の底から楽しそうに、やっと手に入れた玩具を自慢する子どものように、
「あ、会場入りする私を見た? あれアンドロイド。やー、芍薬ちゃんにばれないようにカメラの角度とか着る服とかここに来るまでの手順とか散々知恵を絞ったかいがあったわー」
 ニトロの頬が引きつった。
「そういう意味じゃあない」
「それなら私の『役目』のこと? それはミリュウが私の分も全部やってくれるって。頼りがいのある妹がいてお姉ちゃん嬉しい!」
 ニトロのコメカミが波打った。
 なるほど、
「確かに、ミリュウ様が代行を務めてくれるんなら儀式に支障はでないだろうさ。ミリュウ様はお前のためなら徹夜なんてへっちゃらだろう。それに病気なり低年齢なり正当な理由がある欠席の前例なら、確かに、いくつもある。だからパトネト様は元々欠席だろう? ミリュウ様はお前のためなら、そりゃあ24時間たった一人で大役の全部をこなすはめになっても文句の一つも言わないだろうさ。ただし、ミリュウ様がもし姉がずる休みするための身代わりに『頼りがい』をいいことに使われているってんならそいつは姉バカの滑稽ってもんになっちまう」
 畳み掛けるように言い募りながらニトロは腕を組み、集まり近寄り出していた周囲の人間が思わず足を止めて後退するほどの怒気を乗せ、問うた。
「さて? お前の正当な理由は何だ」
「法老長に許可もらった」
「……」
 一瞬、ニトロはティディアが何を言っているのか理解できなかった。
「……は?」
「法老長に許可もらった」
 ティディアに嘘をついている気配は、ない。
 いやいやこいつは真正面から嘘をつき通せる奴だ! しかし――しかし?
「は?」
 ニトロはもう一度訊ねた。
 ティディアはもう一度答えた。
「法老長に許可もらった」
「猊下ああああああ!?」
 大聖堂のある方角に向けてニトロは叫んだ。この声が届かないとしても、この思いはどうか届いて欲しい。アデムメデス国教会の最高位にある者よ、あんた何考えてんだ!
「っつーか、マジで!?」
 ニトロは翻ってティディアを見た。彼女はけらけらと笑っていた。この寒空の下、汗に濡れたTシャツ一枚であるのに全く寒くも痒くもないといった風体で。そういえば身を折り曲げて着ぐるみの下半身に入りっぱなしのヴィタは結構苦しいのではないのではなかろうか?――じゃなくて!
「猊下が何でそんな許可出しちゃったりしてんの!? もしやお前、人質でも取って脅したな!」
「そんなことしないわよぅ。だってほら、うちのモットーは『寛容』じゃない?」
「程があるわ! 大体『恋人と過ごすために大祭儀サボります』ってのを認めるのは寛容と違うだろ!」
 言い切り、その瞬間、ニトロは己の大失態に気がついた。
 ティディアの頬が、激しく緩む。緩みきった頬は口の両端を蕩けさせ、彼女に至福の笑みを刻ませる。
 ニトロは慌てて口を開こうとした、が、
「ごめんね? 私、なかなか貴方と二人で静かに過ごせなくて」
 先にティディアがしんみりとしてセリフを決める。
 すると周囲に、憂いを帯びながらも王女の責任感を忍ばせつつも『恋人』への深い愛を告げるティディアのその言葉、その表情に、ため息が漏れた。
(――しまった!)
 流れの中とはいえ、よもや自ら『ニトロ・ポルカトはティディアの恋人である』――その虚構を前提としたセリフを公衆の面前で吐いてしまうとは。しかも周りの皆様には、ティディアの返しのせいで、自分がティディアと二人きりで過ごせないことに拗ねていると受け止められている、絶対に。
 ニトロは必死に考えた。
 今の発言とやり取りの効果を打ち消す一言は、ないか!?
「それに『ニトロと過ごすために』なんて、私は一言も言ってないわよ?」
 しかしニトロは、ティディアのたった一言で挽回のチャンスを永久に奪われてしまった。
 確かに、彼女は一言もそんなことは言っていない。
 例えニトロの指摘が“真”であったとしても、彼女が自ら言っていない以上それを“真”と決め付けることはできないのである――いや! 逆に、決め付ければ決め付けるほど、『ニトロ・ポルカト』は『ティディアの恋人』であると自ら強調する結果となってしまうのである!
 たった一言の失言の産む力。
 この頃には周囲には“観客”の作る人垣が完成しており、そこには携帯端末のカメラの音や録画モードを報せるランプが見え隠れしていた。
 ニトロは、絶望に沈んだ瞳で、ティディアをめつける。思い返せばこの手の誘導はこのバカの得意分野であるというのに! この一年の終わりに至ってなお、この掌で弄ばれ続けている感覚が腹立たしく、そしてそこから未だに全く逃れられないのかと思えば余計に悔しく、ニトロは、自身の失言を棚に上げてティディアを八つ当たり気味に睨みつける。
 が、一方のティディアの瞳は実に希望を湛えてキラキラと輝いていて、
「ヴィタ!」
 彼女の呼び声に、白馬の背中がジーーーッと割れた。
「はい!」
 割れた馬の背からビックリ箱の仕掛けのように飛び出したのは、無論、藍銀色の髪の麗人であった。その跳躍力は素晴らしく、周囲の顔が一斉に上向き……周囲の目を一身に受けながら、麗人は飛び出た時の勢いが嘘のように思えるほど柔らかに音もなく着地した。それはそれだけで一つの芸であり、芸を見届けた周囲から再び歓声と歓迎の声が上がった。厚手の生地の白い上下を着た彼女はやはり汗だくであり、しかしその表情は疲れを見せるどころか涼しげで、また、妙に晴れやかな気色さえ窺える。
 王女の女執事は、朱字に金糸と銀糸で緻密な刺繍のされた衣を胸に抱えていた。
 周囲が見守る中、ヴィタは不思議な形に折りたたまれていたその衣を手際よく広げる。するとヴィタの前に、執事が衆目を集めている内に着ぐるみから抜け出してきたティディアが立つ。ティディアは白いTシャツの下に白い絹のロングパンツを履いていた。従者と同じく白づくめのティディアが両腕を、そう、まるで翼のように斜め後ろに広げる――と、すぐさまヴィタが華麗な所作で広げた衣を主人に纏わせていく。直前のヴィタの跳躍が動的なショーであれば、それは静的なショーのようにも思えた。
 やがてショーが終わると、ため息がそこかしこから漏れた。
 希代の王女――そして蠱惑の美女と讃えられる王女が、今、神々しくも眼前に佇んでいる。
 ヴィタの手によりティディアが纏ったのは、法衣であった。それも第一王位継承者のための法衣である。本来であれば、今頃彼女はその姿で大聖堂の祭事に勤しんでいるはずだった。
「さあ、ニトロ!」
 法衣に身を包んだティディアが、両の腕を今度は『恋人』を迎えるために広げる。
「一緒に辻説法に行きましょう!」
「辻説法?」
 何とも奇妙な展開に眉をひそめてニトロは問う。元からそうだが、今日もこいつの考えることは理解できない。
「『二年祈祷』のルーツは知っているでしょ?」
 ニトロはうなずいた。それは有名な話だ。反射的に答える。
「天啓を受けた『五天の魔女』に巡礼の道を示した伝説の女司教メルリナが――」
 そこまで言って、ニトロは悟った。
 口をつぐんだ彼の後を受けて、ティディアが言う。
「そう、年末年始にかけて町の辻で行った説法が始まり。そして年末年始の大祭儀として今の形になるまでは、各地の司祭は町を練り歩きながら辻々で聖典を読み聞かせていた」
「つまり……」
 ニトロは身を引いた。ティディアが、何故、法老長に『それ』を許可されたのか。
「大昔の習慣を蘇らせようってことか」
「礼拝堂の内側で待っているだけじゃあ“神”の言葉を広められないわ」
「ぬけぬけと『聖職者』らしいことを言いやがって」
 アデムメデス国教において王家の人間は、その性質から生まれながらに漏れなく最高位の――名目だけで考えるならばそれこそ法老長より上の――聖職者として扱われる。もしこの場で法衣を着た(つまり聖職者となった)ティディアに洗礼を頼む者があれば、彼女はそれをする資格が無論ある。『天使の代行者にして依代』の辻説法……なるほど、それはテレビで流し見される大聖堂の大祭儀よりも民の耳に、心に、直接訴えかけられるだろう。
 ――だが、
「筋が通っていることは認めるけどな。――断る」
「あら、何故? 善行を積む絶好の機会なのに」
「俺は『一般的なやり方』で年を越すよ。それも立派な善行として認められているはずだろう?」
 すると、ティディアが目を伏せた。
 ニトロが怪訝に思っていると、彼女は哀しげに、まるで周囲に向かって言うように、
「……うん、悪いなぁって、ちょっと思っている。だって来年からはもうできないもの
 ニトロの喉からヒッと小さな音が鳴る。彼は思う間もなく叫んだ。
「そういうのやめろよな!」
「でも将来に向けた予行練習としては良いタイミングだと思うの」
「だからそういうのやーめーろ!」
「法老長もそういうことならバンバンやっちゃえ、と」
「猊下あああ!?」
「その猊下からニトロ様に伝言があります」
「何かなヴィタさん!?」
「『君のツッコミに星の未来が』」
「そういうのをそんな大事おおごとにしないで!」
「『あと、この“天使様”を止めるのわしらじゃ無理。このまま“神”になったら絶望』」
「ッ猊下ああああああああああああああ!?」
 ニトロは頭を抱えた。当代の法老長は庶民的で冗談が通じて、自身もユーモアに溢れる好々爺として有名だ。
 ――にしたって、
「国教徒を導く貴方様が率先して諦めないで下さあああい!!」
「むしろ率先してニトロ様をお認めになっていらっしゃるのかと」
「だからそういうのやーめーてー!!」
「結婚する前から法老長に祝福される前例はないわ。私達、幸せね!」
「俺は不幸せだ!」
 手を組んで瞳をきらめかせるティディアに対し、ニトロは拳を握り、
「ていうかな、お前『悪い』と思ってるんなら何でこんな強引な形で俺を巻き込みに来たんだ! 断られても退かねぇし、寛容の精神は一体どうした天使の代行!」
「寛容も愛の前には無力!」
「突然何を抜かしてんの!?」
 今度はティディアが拳を握った。
「私はニトロと一緒に年越しがしたい!」
 ニトロは一瞬目の前が真っ白になった気がした――が、すぐに我を取り戻し、叫ぶ。
「おっ前何だかんだ理由付けておきながら! 結局! それが本音かあ!」
「だからさっきニトロが私と同じ気持ちで「違う、同じ気持ち違うぞ!」
「私達以心伝心ね!」
「お前はほんっと諦めが悪いなあ!」
「だって、一年の締めの日にニトロといられないなんて楽しくないもの」
「俺はお前といられなくて心の底から楽しかったんだがな」
「そんな強がりはいらないわよぅ」
「いや強がりち「大体! ニトロが私と一緒にやってくることは法老長だけでなく『央天の魔女』も認めてくれているのよ!?」
「――は?」
 ニトロは、呆けた。
 突然何を言い出すのか、このバカ姫。バカだバカだと思ってはいるものの、とうとう最終段階までバカが進行したのか? 言うに事欠いて、央天の魔女が認めている?
 眉をひそめて呆気に取られているニトロに対し、ティディアは夢見るようにうっとりとして、言う。
「さっき央天の魔女にお願いしたのよ、『ニトロと一緒に年を越せますように』って。そしたらいいよーって」
「いいよーって、お前そんな話に何の――」
 そこまで言って、ニトロははたと気づいた。
 自分達を取り囲む人垣。
 その中には、『央天の魔女』を疑いなく信じる年齢の子どもが目に見える範囲ですら多くいる。特に最前列にいる女の子は……そうだ、央天の魔女に必死に『フェリーちゃんのお人形』を頼んでいた子であったはずだ。
 今、ここで央天の魔女の話を否定しては……
「お前なんか、央天の魔女に噛まれて泣くのがせいぜいだ」
 辛うじてそれだけを言うが、ティディアには何の痛痒もない。
「……」
 とうとうニトロはうなだれ、内ポケットに手を伸ばした。携帯電話を取り出すと、画面にはしょんぼりとした芍薬のデフォルメ肖像シェイプがあった。
<近場ノレンタルアンドロイドモ、飛行車スカイカーモ、何モカモ抑エラレテイタヨ……>
 ニトロを見上げて、芍薬が文字を打つ。
<バカノ主張カラスルト『緊急避難』ノ要件モ満タサナイカラ“徴発”モデキナイ>
 加えてこの状況でティディアから逃げるためには交通違反も辞さない必要がある。しかし、周囲にはパレードのための警備に警察が溢れかえっている。逃亡のためにそれらをも敵に回すことになったなら、間違いなく交通違反どころではすまないだろう。
 いざともなれば、ニトロのためになるならば、我が身を捨てて犯罪行為も辞さない芍薬ではある。が、今回、その行為の生む様々なデメリットを甘受してまで『逃亡』を選択すべき案件であろうか――ニトロは芍薬の苦渋の決断を理解する――結論は、否だ。『今後』を見越して勘案すれば、現在の状況は、有体に言って『詰み』である。ティディアにニトロへの接近を許し『辻説法』なる突発祭事を宣言された時点で……負けであった。
<……ゴメンヨ>
 一年の総決算の日に、重い悔しさを滲ませて芍薬はうなだれる。
 ニトロは芍薬の頭を撫でるように画面に指を添え、ため息をついた。
「ハラキリへ、状況を」
 マスターの優しい声を聞き、顔を上げて芍薬はまたすぐ恥じ入るように頭を下げる。
 ニトロは素早くキーを打った。
<来年もよろしく。芍薬無しじゃ勝てないから>
 芍薬は頭を上げない。それでもマスターの慰めフォローを受けて、その頭の後ろには、慎ましやかに喜びを表すアニメーションがキラリと光っていた。
 そして、アニメーションの光が消えるのと同時に、芍薬も姿を消す。
「芍薬ちゃん用の体も用意しているからって伝えて?」
 ニトロの様子に事を察し、ティディアがウィンクをする。
「ウルサイバカ」
 ふて腐れた早口が携帯電話のスピーカーを小さく揺らす。ティディアは微笑み、
「芍薬ちゃんと会えたのも嬉しいことだったわ」
 今度は、芍薬は何も答えない。代わってニトロが答えた。
「それで? どうせお前は何もかも用意周到なんだろう?」
 その言葉は、ニトロがティディアに付き合うということを意味する。成り行きを――最後には『何だかんだ言いながら、ニトロ・ポルカトはティディア姫に付き合うだろう』と思いながらも――見守っていた観衆がざわめいた。それは一芝居を見終えた観客の感嘆の息でもあり、また、思わぬ幸運が自分達に訪れたことへの感激の声でもあった。
「もちろんよ」
 ティディアは満足げにうなずくと、ひらりと手を振った。その所作一つで、聴衆の心が動かされる。彼女は瞳を――ニトロが折れた頃からさらに、特に――輝かせて言った。
「流石に本当に辻でやるわけにもいかないからね。5区のスポーツ公園、そこの陸上競技場を開けさせてあるわ」
「開けさせて?」
「担当者を呼び出して鍵開けさせて」
「……我が儘王女が」
「来年もたくさん叱ってね?」
 ティディアは微笑んだ。
 彼女の顔は、今や仄かに桃色がかっている。それは体温のためではなく、彼女も知らずの内に上がった心温のためであり、その頬は幸福に色めき、色づいた彼女の蠱惑の美貌はより増して魅力的であり、彼女の微笑みを見る周囲からは絶え間なくため息がこぼれている。
 ニトロはそれらとは別のため息をつき、携帯電話の画面に芍薬が表してきた地図を見、
「ここから7kmってところか」
「ええ、歩きながら行きましょう。
 でもその前に、まずはここにいる『我らが子ら』を祝福しないとね」
 法衣をまとう『天使の代行者』の言葉を、周囲は大きな声で歓迎した。一際大きな声を上げているのは熱心な国教徒であろうか、それとも『ティディア・マニア』であろうか。
 白馬の着ぐるみをまとめて紐で縛り終えたヴィタがやってきて、ニトロに一冊の厚い本を手渡す。
「最後の最後まで、やってくれたね」
 ニトロの言葉にヴィタは目を細め、
「このままですと、年の初めの一秒目からも『やる』ことになりますね」
 ニトロは片眉を跳ね上げた。
「ついさっきまでは、人生最悪の年越しになるとは思ってなかったよ」
 ヴィタはマリンブルーの瞳をニトロの皮肉できらめかせ、
「来年も楽しませてくださいませ」
「できればお断りしたい」
 その応えにヴィタは涼やかな口元に笑みを刻み、小さく会釈してまとめた白馬の着ぐるみまで戻った。観客を掻き分けやってきた数体のアンドロイド――いずれも無位の僧侶の着る白いローブをまとっている――の一体に着ぐるみを預け、代わりに受け取ったアンドロイドと同じローブをまとう。型は無位のものと同じとはいえ、生地は違った。最上級の白い羅紗に流れ落ちた藍銀色の髪が正午の光を受けて輝き、彼女が朱字に金糸銀糸で豪奢に飾られた法衣をまとう主人の傍らに控えると、冷色の美と暖色の美が立ち並んだそこには一瞬にして芸術的な“絵”が生まれていた。
 また、ため息がこぼれる。
 ニトロはため息を聞きながら、ヴィタから受け取った本に目を落とした。今では非常に珍しい紙製の本。現在アデムメデスにおいて流通経路を持つ本物の本は聖典以外にない。熱心な教徒や祭事を執り行う礼拝堂関係者は高価なこれを手に入れるが、それでも一般的には電子書籍版が使われているため、ニトロも製本された聖典を手に取るのは初めてだった。
 その手触り、その重量感に奇妙な満足感を覚えながら表紙を見れば、これは最も重要な章節を抜粋しながら編纂された――それ故に最も普及している聖典と知れる。
「ニトロ」
 ティディアが優しい声でニトロを呼ぶ。
 振り返ると、アンドロイドが人々を礼拝堂に正対する形に並べていた。見れば司祭や聖歌隊の少年少女も礼拝堂から出てきていて、その最前列に並んでいる。厳格そうな顔をした老人……先ほどまで人々に祝福を授けていた司祭の畏まる姿を見ていると、どんなにバカなことを繰り返しても、目の前の法衣を着たこの『敵』こそがやはりこのくにの王女なのだと、ニトロはひどく痛感させられてしまう。
「ニトロは私の隣に並んで、聖典の表を皆に見えるように」
「俺はこの姿のままでいいのか?」
「ニトロは『一般の代表』だから。それでいいわ」
 ニトロは苦虫を軽く噛み潰したように頬を固め、
「……年の終わりくらい手を抜けよな」
「それだけ私はニトロを思っているのよ」
「年の終わりになってもお前の言葉は軽いなぁ」
「あら酷い」
 言いながらもニトロはティディアの隣に並ぶ。するとニトロの傍らに一体のアンドロイドが立った。それは背の低い中性型のアンドロイドであり、礼拝に来た一般人(教徒)を介添えする役のローブをまとっていた。
「ハラキリ殿ハ笑ッテイタヨ。差シ入レニ来テクレルッテ」
 小声で囁かれ、ニトロはそのアンドロイドに芍薬がいることを知った。彼は小さなうなずきを返し、それから気を取り直す小さな息をつき、
「まあ、ある意味で一年の象徴かな」
「御意」
 芍薬の声が笑みに揺れているのを聞き、ニトロはもう一度うなずいた。芍薬を気に病ませたまま一年を終えるのは嫌だったから、その声が聞けたのなら、ひとまず、良い。
「さて、始めようと思うんだけど……ニトロ」
「何だよ」
「さっきからお尻が痛いの。説法中、さすっていて?」
「蹴るぞ」
「ありがとう」
「ようし思い切りやってや――え?」
 反射的に蹴り足を引いていたニトロは一拍を置いてティディアのセリフを理解し、目を上げた。すると彼女と目が合う。この一年、もう見飽きるほど見てきた黒曜石の瞳が、濡れているようなまつげの下で笑っている。
「来年からも、ずっとよろしくね」
 ニトロは今日一番の大きなため息をついた。
「せめて『来年も』に限れよ」
「それは短すぎ」
「俺にとっちゃそれでも長すぎだ」
 ニトロはティディアから視線を外し、祝福の始まりを待つ人々に目をやった。
 すると、それを合図にしたかのように、皆が敬虔に目を伏せ頭を垂れる。
 その光景はニトロに人々が従ったようであり、いや、事実そうであった。人々のその態度は、もちろん彼の隣に立つ王女の威光が手伝ったためのものではあっただろう。しかし、それでもその事実は、彼が王女の威光を担うに“当然の存在”として人々に受け入れられていることの証拠でもある。彼にとっては非常にむず痒い思いがする。反面、傍らの王女は満足げに微笑んでいた。彼が順調に得出したモノを年の終わりに確認し、彼女は不思議なほど心から喜びを感じていた。
 そして、その喜びを振りまくようにして。
 ティディアは、威風堂々と右手を人々に向けて差し上げた。

 アデムメデスのその年の終わりは、年の終わりになっても話題に事欠かない王女について持ちきりであった。
 報道各社はこぞって王都第5区スポーツ公園に中継班を飛ばした。
 王都第5区スポーツ公園は『五天の魔女』のパレードを見物していた者が全て流れ込んできたかのような混雑で、主場である陸上競技場の周囲にはティディア直属の王軍、王家のA.I.の操るアンドロイド、それらと警察の指示で作られた人の列が大河を作っていた。混雑のわりに混乱もないのは、即席とはいえ場に神聖な空気が流れていたためでもあるだろう。グループ分けされ順序良く陸上競技場に入る者は、簡素な朝礼台の上でスポットライトを浴びる『天使の代行者』の姿を眼にした。そしてその姿を見た者は口々に彼女の神性を湛えていた。
 ティディアは、聖典を見ることなく、一字一句漏らさず『時の書』にあたる章節を暗誦していた。その華やかな声は歌うようであり、マイクを通して公園中のスピーカーから聞こえる声でさえ、まさに『天使』のものであるように思えてならない。競技場に入れない者は自らの端末や所々に映し出された宙映画面エア・モニターで蠱惑の――いや、聖廉なる美女の姿を見つめ、彼女の声に酔いしれていた。
『ニトロ・ポルカト』は、聖典を胸に、ティディアの立つ台の下に控えていた。運良く最前列に並べた者の笑顔に応え、時折には求めに応じて握手をし、あるいは混雑の中で疲れた子どもの世話をする。「トイレ」と叫び出した子どもの声を聞き、民衆の中に自ら分け入り、その子どもと手を繋ぎトイレへと案内する姿は――善意で動いたニトロに取っては皮肉にも――評判となっていた。
 そう、結局、ニトロはその真面目な性格とお人好しのために、しっかりと己に期待された仕事を全うしていたのである。
「もうちょっとちゃらんぽらんにやったらよろしいのに」
 ――12月31日、午後11時20分。
 ティディアの法衣を変える準備、という名目で競技場スタンド内の一室で休憩に入ったニトロは、約束通りに差し入れを持ってきてくれた親友にそう指摘され、
「う」
 と、うめいた。うめくしかなかった。
「まあ、ニトロ君らしいですけどねぇ」
 苦笑なのか呆れ笑いなのか、それとも単純に面白がっているだけなのか。ニトロはハラキリの笑い顔から目をそむけ、軽く口を尖らせながら言った。
「悪かったな」
 その様子にハラキリがまた肩を揺らす。
 二人の前には小さなテーブルがあった。そこにはハラキリがニトロに代わって受け取ってきてくれた『ドキル』のグリルチキンと、ハラキリが家から持ってきたやけに底の深く白い器が四つ並んでいる。
「悪クナンカナイヨ」
 と、言ったのは芍薬だった。介添え役のローブを着たアンドロイドに入ったまま、芍薬はハラキリが持ってきた温蔵箱ウォーマーボックスを片付けている。その傍らでは、撫子の操るイチマツ人形が黙々と携帯用の蒸気再熱器スチーマーを操作していた。
「まあ、確かに悪いことではありませんねぇ」
 そう言いながら、ハラキリは底の深く白い器――アデムメデスにも同じ物はあるものの“あちら”ではドンプリというらしい食器に、慎重に軽量スプーンで測りながら合わせ調味液を入れている。
「それは?」
 興味を引かれ、機嫌を直したニトロが訊ねる。
「ソイソースに、塩や調味油などを混ぜたものです」
「ソイソース?」
「文献を漁ってみるに、これ以外に考えられないもので。あちらの豆とこちらの豆にどれだけ差があるかは分からないので、その点が不安と言えば不安ですが」
「いや、それはそうだけど……でも、ソイソースに塩? 辛すぎないか?」
「これを魚の乾物などから取ったスープで割るんです。『ソヴァ』の名のつくものには色々手法があるようでしてね。その中でもこれが一番分かりやすかった――故に大失敗はないだろう、と」
「へぇ」
 ハラキリはドンプリの三つまで調味液を入れた後、四つ目には何も入れずにおいた。
「後で作ってやってください」
「かしこまりました」
 二人の横で同じテーブルに座る――グリルチキンを前にお預けをくらっている――ヴィタがうなずく。彼女の視線はずっとグリルチキンに注がれており、その様子に、ニトロは小さく笑った。彼女の凝視しているものは、秘伝の配合のスパイスを合わせたヨーグルトソースに漬け込んだ後、石釜で焼き上げた『ドキル』の名物のグリルチキン。保温されていたそれを齧れば、スパイシーさの中にほのかな酸味、それらをまとった鶏肉の旨味が口一杯に広がるだろう。
 と、そう考えただけでニトロの口の中にヨダレが吹き出す。
 ちょうどその時、イチマツ人形の前で蒸気再熱器スチーマーがチンと音を立てた。イチマツ人形が蓋を開けると、蒸気で瞬間的に温め直された白い麺が現れた。
地球ちたまのは、こう、ねずみ色がかっていたんですがねえ。どうも製粉方法が違うようで」
 ぶつぶつというハラキリはポットを手にしていた。その中身をドンプリに注いでいく。綺麗な琥珀色のスープだった。丁寧に漉したのか、混じりけのない澄んだスープは黒い調味液を溶かすように巻き込んでいき、やおら白い器の中で透き通った黒褐色に変じる。
 そこに、イチマツ人形が掲げ持つ器から、撫子の指示を受けた芍薬が静かに麺を落としていく。ニトロとハラキリは当分に、二人の二倍の量をヴィタに。
「ちゃんと『麺』になってるじゃないか」
「結局、ちょっと反則をしました」
「反則?」
「そば粉だけでは硬かったりブツブツ切れたりとどうにもならなかったので、少々小麦粉を“つなぎ”に」
「それくらいいいじゃないか」
「それもそうですね」
 ハラキリはあっさりとうなずく。
 なるほど、彼くらいのいい加減さがあれば良かったのかな、そんなことを考えてニトロは苦笑してしまう。
 ドンプリの中では、透き通った黒褐色のスープの中に白い麺が静かに沈み、また浮いている。見た目にはいっぱしの麺料理だ。
「これに色々具を載せることもあるわけですが」
 ハラキリがスティックスを配りながら言った。
「今回は味見、ということで、これで」
「毒見の間違いじゃないか?」
「それならおひいさんも無理矢理ここに連れてきていますよ」
 飄々としたハラキリのそのセリフに、ニトロは堪らず大声で笑った。つられて芍薬が笑い、二つに増えた笑い声に引きずられてハラキリと撫子も笑い、とうとうヴィタまで吹き出した。
 部屋の外からは、流麗なティディアの暗誦が届き続けている。
 ひとしきり笑った後、ハラキリは時計を見、
「さあ、食べましょう。『トシ・コシ・ソヴァ』は31日に食べないと意味がない」
「そういうもんなの?」
「縁起物らしいですから」
「そっか。そういうことなら」
 ニトロはハラキリが手を合わせるのを見て、小首を傾げながらもそれに合わせた。
「あちらの作法です」
「これまでそんなことしたっけ?」
「縁起物らしいですから」
「それなら、まあ、そっか」
 早速食べようとしていたヴィタも渋々従う。
 三人共に合掌したところで、アデムメデス国教の神の神性を伝える文言を聞きながら、
「いただきます」
 ハラキリが言い、ニトロとヴィタも言う。
「麺を食べる時は、豪快に音を立てて啜るのがマナーだそうですよ」
「そりゃ珍しい」
 感心しながら、ニトロはまずスープを啜った。魚の乾物で取るスープは聞いたことがあるが、この調味液との組み合わせは初めてだ。口にするのにギリギリの温度のスープは口腔内で薫り高く広がり、
「――うん。こっちも珍しい味だけど、美味しいよ」
「それは良かった」
 二人の傍らでは豪快に音を立てながらヴィタが麺を啜っていた。その表情は涼やかであるが、口元は愉しげに緩んでいる。食べるのが愉悦を誘っているということは、少なくとも不味くないということだ。
 ニトロの感想に、ヴィタの愉悦。
 さすがにハラキリの頬もほころぶ。
「料理って、いいだろ?」
「いやいや、面倒ですよ」
 ハラキリの応えに――ほころんでいるくせにと――笑いつつ、ニトロはヴィタに倣って豪快に音を立てて麺を啜った。
(うん、麺もなかなか)
 初めて試みたというにしては上出来だ。というよりも、美味しい。このスープにこの麺は違和感がある気もするが、それでも、美味しい。
「温まるね」
「温かいですからねぇ」
 そういう意味で言ったのではないが……ニトロはそれでもいいかと納得し、再び麺を啜ろうとして、
「あの、麺のおかわりは」
 横手から入り込んできたヴィタの言葉に吹き出しそうになった。目を丸くし、見れば確かに彼女のドンプリから白い麺が消えている。
「もう食べたの?」
「少々危うい感じもしますが、なかなか乙です。これはいつか現地のものも食べてみたいですね」
 そのセリフに、ニトロはハラキリと目を合わせ、また笑った。

 ――12月31日、午後11時50分。
 一体どこで時間を計っていたのか……ティディアはその時刻になると同時に『時の書』の暗誦を終え、口を閉ざした。
 すると、彼女を目の前にしていた陸上競技場内の者達を初め、そこを中心にしたかのように静けさが広がっていった。
 お祭騒ぎの喧騒が音を下げていく。
 公園の人出を見込んでやってきた移動販売車からの威勢のいい掛け声も、大道芸人や楽器を持ち出した人間の囃し立ても鳴りを潜める。
 身じろぎや囁きさえ憚られるような静けさの中、競技場に入ってくる三つの影があった。
 先頭に立つのは、白いローブを着た藍銀色の麗人である。
 最後尾には背の低い介添え役のローブを着たアンドロイドが聖典を胸に続いている。
 そしてその二人に守られるようにして、カジュアルフォーマルなコートを着た少年が、白地に金糸と銀糸の刺繍の入った法衣を携えて歩いてくる。威風堂々というわけでもなく、しかし『漫才コンビ』の経験も手伝った自然体で、自然体であるが故に『ニトロ・ポルカト』には眼前を歩く麗人に劣らぬ存在感がある。
 それを後に『王の片鱗』と語る者もいただろう。
 飾り気のない朝礼台にヴィタが上がり、ティディアの法衣を脱がし、降りる。
 ティディアは上下共に純白の姿となり、スポットライトの中、赤と青の双子月の光を夜と混ぜ合わせたかのような黒紫の髪を揺らした。
 その時、静けさが一瞬崩れ、ざわめきが起こった。
 それは息を押し殺した嘆声であった。
 何故なら、光を集める白一色を身につけた王女の姿が、まさに自ら輝いているように見えたからである。輝きの中に揺れる黒紫の髪は、まるで幻そのものの影であった。
 これまでにも増して美しい。
 誰かが呟く必要もなく、その姿を見る者の心は彼女の美しさによって一つとなる。
 ざわめきの中、ヴィタに代わってニトロが朝礼台に上がった。
「美味しかった?」
 ヴィタの合図で集音マイクがオフとなったのを目の端で確認し、ティディアが小声でニトロに問う。
「お前の分も辛うじて残ってるよ」
 ティディアに――流石にたどたどしく(周囲から見れば微笑ましく)――法衣を着せながら、ニトロは同じく小声でそれだけを答えた。
 だが、ティディアはそれだけでもニトロの感想を完全に理解した。
「楽しみね」
 微笑み、ニトロに法衣の紐を止めてもらい、なお微笑む。
 彼女の微笑みはざわめきの音量を押し上げていた。
「ね? キスしていい?」
「ンなことしたら今度こそケツを蹴り上げる」
「そんなことされたら私、天国まで飛んじゃうわ」
「何言ってる、お前は途中で墜落して地獄行きだ」
「あ、でも、悲鳴と共に年明けってのも面白いかしら」
「この流れで悲鳴はドン引きだなぁ」
「ドン引かせるのもまた一興」
「大不興の間違い」
「やー、ツッコまれ続けて年の際まで気持ちいいわー」
「……」
 一瞬、本当にケツを蹴り上げてやろうかとニトロは思った。が、流石に自重する。蹴られたら蹴られたで、このバカはまた自分に優位な状況を作り上げてくるだろう。
 ――ふいに、これまでのざわめきとは違う、大きなどよめきが上がった。
「ソロソロダヨ」
 芍薬が台に上がってきて、聖典をニトロに手渡す。
「芍薬ちゃんもここに残る?」
 ティディアの誘いに芍薬は反射的に否定を返そうとしたが、思いとどまった。
「ソウサセテモラウ」
 言って、ニトロの傍に寄る。
「嬉しいわ」
 ティディアは目を細め、その瞳を整然とした大群衆を作る『我らが子ら』に向けた。
 どよめきが、時を数え始めている。
 初めは飛び飛びに、やがて、連続し。
「ニトロ、挨拶は何がいいと思う? 今年もよろしく? 新年おめでとう? 良き年にお祝いを?」
「その衣に見合った定番があるだろ」
「それじゃあそれを一緒に言いましょう」
「断る」
 皆が「1分」と合唱した。
 その時、ティディアがちょいちょいと指を動かした。
「?」
 ニトロがその示す先を見ると、
「……やろう」
 そこには王立テレビのカメラを引き連れて、白いローブを着たハラキリがやってきていた。同じローブを着たヴィタと合流し、朝礼台の真正面に陣取った後、彼はニトロの視線を受けても悪びれることなく肩をすくめてみせる。
 ほくそ笑みを頬の裏に隠して、ティディアが言う。
「一緒に言いましょう?」
「ハラキリに、か?」
 30と数えられる。
「共通の友人に挨拶するのがそんなに嫌?」
 20――ハラキリとヴィタが、競技場内にいる白いローブを着たアンドロイドが、また王女の手伝いにやってきた国教関係者達がハンドベルを手にする。
「……嫌と言えると思うか?」
「笑顔でね?」
「うるさいよ」
 10――大合唱が起こる――9――競技場の外からも声が聞こえてくる――8――空気が震えていた。同じく時を重ねる地域の全てで、今、目を覚ましている者の全てが合唱しているようにさえ思えた――7――過ぎ去りし一年は「もう戻ってこないように」賑やかに送るものとされている。良いも悪いも、同じことが繰り返されませんようにと。過ぎ去りし一年が、今、送り出されていく――6――新たに訪れし一年は「過去の一年のどれよりも素晴らしいものとなるように」賑やかに迎えられる。良いものは以前のどれよりも喜び深く、悪いものは以前のどれよりも悲しみ浅くと。たった数秒先に、今、新しき一年が歩み寄ってきている――5――ティディアが右手を差し上げた。その左手はニトロの聖典を抱える腕に触れている。ニトロは彼女の手を振りほどこうとして、やめた。空気を震わす歓喜の声。それは幸福の時を呼ぶ声だ。それを濁らせるわけにはいかない――4――ティディアの笑顔が国民の顔に笑顔を感染うつす。クレイジー・プリンセスと恐れられながら、反面、深く親しまれている希代の王女――3――つくづく、ニトロはとんでもない奴に目を付けられたと内心嘆息する。右腕に触れる力はさほど強くないのに、そこに底知れぬものが秘められていると思うと恐ろしさすら感じてしまう――2――ニトロは息を整えた。とにかく、これは『ティディア&ニトロ』の営業だと思えばいい。いつもと違うのは舞台ではなく朝礼台の上ということ。聖典を胸に抱き、カメラに笑顔を向けて、時々こうして細かく裏切ってくれる親友に言葉を向けて投げればいい――1――そうは思ってもニトロの顔の下には渋面が刻まれそうになる。と、その時、ニトロの背に小さな力が加わった。芍薬の手だった。その瞬間、ニトロは自然と微笑みを浮かべ――……0。
 そこかしこでハンドベルが振り鳴らされた。
 礼拝堂からは鐘が鳴り響く。
 新年を告げる刻の音の中、人々が歓びを声にする。
 ニトロはティディアと息を合わせた。
 カメラの横ではハラキリとヴィタが口を動かしている。
 一年に幸福を願う歓声の中、ニトロとティディアは声を揃えて叫んだ。

「皆共に、幸深き素晴らしい日々を!」

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