友達

 眼下には雪の薄衣をまとうモミやマツ、トウヒらからなる針葉樹林が広がっている。
 まるで凍える大地が己を凍らせる憎き天空へ今まさに無限の矢を射らんとしているかのような光景は、遠く東北東の地平、気候の悪戯か、嫌に血の色を思わせる朝焼けの光を受けてぼんやりと赤く禍々しく――また光陰の境界まどろみ、神秘なるかな、幻想の世界がいずこからともなく表出してきたように神々しく胸に迫る。
 複雑に絡み合う矛盾した性をこうも見事に融和させ、それなのに矛盾した質を見事なまでに乖離させた風景を作り出せるのは自然の驚異というものだろうか。
 一部一部を切り離し付き合わせれば、魔性と神性、天と地、光と闇、命を凍らせていく冬の尖兵に息を吹きかけられながらも緑深く生命力を漲らせる木々、この景色にはけして相容れぬ矛盾が存在しているのに、しかし全てを一つとしてみれば、それらは反目しながらも摩訶不思議と溶け合い、一つの現実としてここにある。
 南大陸はドアクス領、南極圏の深みにある町・ヴェルアレインを目指して飛ぶ飛行車スカイカーの中、素晴らしい景色を眺めていたハラキリは感嘆の息を吐くとハンドルを隠すように現した宙映画面エア・モニターに目を戻した。
 そこには先週……あの『ニトロ・ポルカト強制猥褻疑惑騒動(もしくはエフォラン自滅記念日)』同日に報じられた、ティディア姫とアンセニオン・レッカードが漫才収録前に車中で行っていた『密会(もしくは不倫)』についてコメントを求められている友人がいる。
 それは、昨夜から何度も報じられている映像だった。
 シェルリントン・タワーで行われた月一に一度の王家からの報告――その定例会見の最後に現れた少年。
 サプライズゲストとして呼ばれたニトロ・ポルカトは、突撃取材が禁止されている相手からコメントを取りたくて、でもエフォランの二の舞になりたくないと何日間もずっとうずうずしていたマスメディアの憤懣に生み出された爆光を浴びながら、気色ばんで『不倫についてどう思われていますか!』と声を裏返らせる記者の質問に軽く肩をすくめて答えた。
『こいつが不倫なんかできるわけありませんよ』
 そのニトロの言葉は、確かにもっともなことだった。
 彼とティディアは実際のところ付き合っていない
 であるため、概念的・現実的・理論的に不貞行為は成立しえない
 きっとそのセリフは、ニトロの戦略であったのだろう。彼はその後にこう続けたかったはずだ。『本当は俺たち付き合ってないんですから。だから、こいつが不倫なんかできるわけがないんです』――
 しかし相手は今回も彼の上を行っていた。おそらくティディアは彼の仕掛けを予測していた、いや、むしろ待ち構えていたのだろう。
 会場は再び白い光で埋め尽くされている。
 電子的なシャッター音が轟音となる様は圧巻でもあり、その中で二の句を誰にも聞いてもらえずに狼狽しているニトロはまさに哀しいピエロだった。
 その瞬間、会場にいる全ての意識は、既にニトロを相手にはしていなかった。
 その瞬間には、全ての視線は親愛なる恐怖のプリンセスに向けられていた。
 カメラは歓喜の表情を浮かべるティディアの尊顔をしっかり捉えようとズームし、当然ニトロの姿はあっという間にフレームの外に弾き飛ばされる。
 もはやニトロに成す術はなく、画面は簡単に敵に占領されてしまった。
 敵。――彼女に……
 軽々と不倫なんかできないと恋人に言われ――つまりは、俺のことを好きだからこいつは他の男に心を寄せないしそんなことができるような人間ではないと――恋人からそう絶大なる信頼を受けたために、手で口を押さえ目に感涙を浮かべている姫君に。
『うれしい』
 かすれた、小さな、搾り出された、感激。
 感極まり震えるティディア姫の声を、彼女のみに向けられた高性能指向性マイクが辛うじて拾う。
『――いや!』
 ニトロの慌てふためいた声が低性能マイクのどれかに拾われたが、しかしそれ以上彼が抗議を続けることはできなかった。芸術的なタイミングで涙目のティディアが毅然と胸を張り、会見を終えると告げるや涙がこぼれるのを隠すように会場を後にする。
 それと同時に警備アンドロイドが二体ほどニトロに――見た目にはマスメディアの質問の嵐から大切なゲストを守ろうとしている様子で――襲い掛かり、彼をしっかと捕まえるや彼がろくな抵抗も出来ないうちに王女の後を追ってさっさと退場していく。
 相当うろたえていたのだろう、思い出したようにばたつき出したニトロの脚が一瞬見切れ――
 そこで、映像は終わった。
「まあ、『対メディア』でおひいさんに張り合おうとすればこうなりますわな」
 ハラキリは昨夜から何度となく浮かべている苦笑を刻み、何度見ても面白い映像に肩を揺らした。
 まったく、彼のチャレンジスピリットは素晴らしいとは思うが、相手の土俵(しかも圧倒的な得意分野)にのこのこ乗り込んで策を弄するなど悪手もいいところ。これなら適当に愛想良く流しておいた方が何かとましだ。
 そうすれば、
『お二人の絆、本当にうらやましいです。私もいつかニトロ様のような運命の恋人が出来たらなって思います』
 ――などと、地方のローカルニュース番組の若い女子アナウンサーに心の底から……まるで現実に現れた夢でも見ているかのような羨望の眼差しを受けることはなかったろうに。
 ハラキリが苦笑を深めていると、その女子アナウンサーはふいにさらに顔をほころばせて声を弾ませた。
『冒頭でもお伝えしましたように、今日、ティディア姫がここドアクス領にいらっしゃいます』
 続けて王女は領都で領主・知事の両名と会談をした後、ドアクス領屈指の観光地であるヴェルアレインに移動することを報じ、
『それではコマーシャルの後、ティディア様がお泊りにおなられますヴェルアレイン城と、その城下町、そしてそしてティディア様がお踊りになられる湖上舞踏会会場のご様子をお送りいたします!』
 興奮のため所々言葉遣いをおかしくしたアナウンサーが頭を下げると映像が切り替わり、有名な人形アニメのキャラクターが画面に現れた。
 その人形アニメはティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが姉のソニア姫より第一王位継承権を譲り受けた時期に放送を開始したもので、ティディア姫が『クレイジー・プリンセス』としての本性を現した後でも、当時、過激に彼女をからかい続けていたほぼ唯一の風刺アニメであり、そのため一躍注目を集めた作品だった。
 ……無論、誰もが次に恐ろしいクレイジー・プリンセスに王権という暴威を振るわれる対象はこの番組だと予測していたものだ。
 だが、何故か、ティディアはそうはしなかった。
 どういうつもりか彼女はそれを捨て置き、彼女に対して嫌味な罵倒(といっても酷さは人形アニメの方が数段上だった)を続けていた別の対象――数名の無能なタレントを潰したと豪語する悪名高いコラムニストを潰したのだ。
 そのことを不思議に思った某局のニュースキャスターが、ある時思い切ってティディアに質問をした。
 何故、あのコラムニストは潰したのに、あの風刺アニメは潰さないのか? と。
 ティディアは答えた。『今のままじゃいずれ潰してもいいわねー』そして続けた。あのアニメは以前の方が面白かった。そこそこ人気が出たくらいであぐらをかいているのかしら。最近雑なセリフが多過ぎるし、単なる受け狙いに走ったセリフも増えてきた、過激なだけじゃすぐに底が知れるわよ、大体先週の回のあのセリフはスポンサーへのゴマすりだろう、お金が入って反骨精神が逝っちゃった? 以前はスポンサーのダサい広告をあげつらって怒らせてスポンサー交代劇までネタにしていたくせに、ああそうだ先週の回の演出は総じて手を抜いたな、いちいち場面転換のタイミングが悪い、あのセリフとそのセリフは使う単語を変えて語尾もいじって前後を入れ換えた方が強烈に作用する、風刺にもなってない悪口雑言は芸にはならない等々『笑えない、つまらない、もっと面白くなさい』
 実に的確な評論だったと、今もってティディアのそれらの指摘は評価されている。
 もちろん立つ瀬がなかったのは人形アニメの製作者である風刺作家だ。自分の風刺に自信を持っていた作家は風刺対象に逆に丸裸にされるという最悪の形で己の未熟を明確にされた挙げ句、気づいていなかった――それとも、気づいていながらそこから目を逸らそうとしていた――自惚れまで暴露されてひどく打ちのめされてしまい、結果として半年の休止を余儀なくされた。
 それ故、この件は『クレイジー・プリンセス』の別の怖さを世に知らしめた事例としても広く知られている。
 その上、半年後に復活した人形アニメのクオリティが上がっていたことも、これまた別の意味でティディア姫の素晴らしさを皮肉にも世に知らしめたものだった。
 作家は二度とティディアに前のような評論をさせないつもりらしく、アニメはそれからというもの現在に至るまで高いクオリティと人気を保ち続けている。
 そして……当然と言うかこれも皮肉と言うか……アニメのキャラクター達の中で主人公を押しのけて人気なのは、ここぞという時にだけ出てくる高飛車で傲慢で我儘で悪辣でそのくせ救いようがないほど馬鹿な悪女――『ディティア』で、販売用のレプリカで一番の売り上げを記録しているのも彼女の人形だ。
 陽気で間抜けな音楽を流すコマーシャルは、『ディティア』の新バージョン発売を報せると共に、新キャラクター『トニロ』の発売開始を報せている。
 風刺作家も『ニトロ・ポルカト』の扱いには困ったと見えて――最近になってようやく――『彼』はアニメの中で主人公の実家の商売敵という立ち居地で登場した。
 まあ確かに、親愛なるティディア姫であれ恐ろしいクレイジー・プリンセスであれ、希代の姫君を誰よりもうまく笑いに変えてしまう少年は、彼女をネタにしたい者達にとっては大いなる驚異であるだろう。であるから、『トニロ』が出てくる回はほとんど風刺作家の自虐的な話となりがちだ。しかも打ちひしがれた主人公とその両親を商売敵ながら無邪気に――それ故ある種残酷に――誰彼構わず優しく慰めまくる『トニロ』が励ますことで何ともいえぬ笑いが生まれて好評だから、作家も複雑な心境に違いない。
「……本当に、様々なところに影響を与えていますね」
 ハラキリは人形アニメのコマーシャルが終わったところでつぶやき、シートに体を沈めて目を閉じた。
 瞼の裏に、画が巡る。
 人形アニメ。ティディアの定例会見。ニトロの間抜けな失策。先週、弁当抜きの罰を与えられて楽屋でしょぼくれていた王女。サンドイッチの山をぺろりと平らげた執事。コマーシャルが終わり、女子アナウンサーがヴェルアレイン城下町にいるレポーターを呼ぶ声が耳に届き、つられてそこにある建造物が思い出される。過去の王と女王にまつわる秘話を持つ、南の極地に建てられた質素な城。が、それはすぐに瞼から消え、次いで一仕事終えた後、エプロン姿で芍薬とサンドイッチを作るニトロが現れた。鼻歌混じりに目玉焼きを作る善良な少年の姿がやがて薄れていき、入れ替るように思い出されたのは頭を下げるしかないエフォラン・コミュニケーション社社長とエフォラン紙編集長の謝罪会見。部数もスポンサーも速やかに去りゆく中、どうにかして生き残るために紐の燃えカスみたいな望みにすがるがごとくなりふり構わず懺悔と称してニトロ・ポルカトへの謝罪と『未来の王』を崇め奉る特集を始めた三流ゴシップ紙。それについてクラスメートから感想を訊かれた友人は、困った顔で笑っていた。
 そして瞼の裏に……忘れてはならないとばかりに、獣人の顔が記憶の中から蘇る。
 ――元ティディア親衛隊隊長。
 現在はニトロ&ティディア親衛隊隊長であり、先週の騒動で一気に時の人となった獣人。
 彼は今、ニトロに倣うように不必要に表に出ようとはせず、己の立ち上げた事業と、爆発的に会員を増やした自分のコミュニティの運営にのみせっせと励んでいる。
 そのコミュニティの会員数は、現在約二十万。騒動が起きて半日が過ぎたところでサーバーがダウン、以降新規登録を一時ストップし、現在は再びクローズドコミュニティとして活動している。しばらくは会員が増えた故のトラブルの処理に会員心得の徹底と、なるべく早く『これまで通り』のコミュニティに戻すことで手一杯だろう。そしてその閉鎖性が逆に『会員になりたい』という欲求を加速させ、民放テレビが特集を組むほど話題を呼び続けているのだから、人の心理とは面白いものだ。
 もちろん、ハラキリは騒動が起きてすぐに芍薬の手引きで会員となっていた。
 隊長から送られてくる三日に一度のメールマガジンは主にティディアの活動に関する感想を書きながら、実に温かくニトロとティディアの二人を見守ろうとする姿勢が窺えるもので、時折まさに馬鹿親のような愛情に溢れているものだった。バックナンバーも含めて読み終えた時のハラキリの感想は、『ああ、本当にこの獣人は“ニトロ君とおひいさんの”マニアなんだな』――その一言に尽きる。
 以前の隊長は、ひどく攻撃的にはっちゃけていたと聞く。それが今日のように温かくはっちゃけるようになったのは、間違いなく、ニトロ・ポルカトに負けたためだ。友人の語りによれば『拳で目が醒めたしだい』だったか。
(……)
 ハラキリの頬には笑みが浮かんでいた。
 本当に、友人は様々なところに影響を与えている。
 友人……そう、人生初めての友達。
 ニトロ・ポルカト。
 あの獣人も、彼に変えられた一人だ。
(……君が初めて家にやってきたあの夜、まさかこんな未来がやってくるとは思いもしませんでしたよ)
 ヴェルアレインの町は早朝にも関わらず人出で賑わっていると、スタジオにいる同僚に呼び出されたレポーターは叫ぶように言った。喧騒に負けないよう「では次に、本日17時より開催される『湖上舞踏会』の会場をご紹介いたしましょう! 会場は! なんとこの日一夜のためだけにヴェルアレイン湖に作られた水上ダンスフロアで――」とレポーターが張り上げる声に耳を傾けていたハラキリは、やおら頬から笑みを消し、目を開いた。
「韋駄天、『リーリーク』までは?」
 ハラキリが乗るスカイカーは、南副王都サスカルラで借りたレンタカーだ。それを操縦するA.I.はマスターの質問に――乗り慣れた己と同じ『韋駄天』と名づけられたカスタムカーでないためか少し居心地が悪そうに、また少し面倒臭そうな調子で答えた。
「コノママナラ四時間ッテトコロダナ」
「そこからヴェルアレインまではどれくらいかかりそうかな」
「尋常ジャネェ渋滞ダ、『リーリーク』カラ……ソウダナ、現時点デモ幸運ニ恵マレテ三時間。ヴェルアレイン行キノ地下鉄モ乗ルマデニ何時間モ並バナケリャイケェネエ状態ダカラ、コリャアムシロ歩イタ方ガ早インジャネェカナ。着イタ頃ニャモット酷クナッテルダロウ。ダガ、飛ンデイクナラ三十分モカカラナイゾ」
 ヴェルアレイン周辺には警察と王軍・ティディア直属部隊の警戒網が敷かれている。周辺一帯が平地でこれといった障害物もないため特に空への警戒は強く、スカイカーで通行しようというのならば厳しい審査を覚悟で飛行許可を求めねばならない。
 そのため、ハラキリは警戒網の直前にある町・リーリークから国道を走るよう韋駄天に命じていた。陸路なら、危険物の持ち込みを監視するゲートを何度もくぐるだけで行ける。
「時間はある。渋滞に巻き込まれて構わない。何だったら歩いても構わない」
「寒イゾ」
「凍えながら歩くのも一興」
「ソンナ面倒ヲ選ラバネェデ許可ヲ求メリャイイダロウ。顔モ利クンダ」
「駄目だ」
「意固地ダナ。何故ダ」
 ハラキリは、にやりと笑った。
 それは彼が――人生二番目の――友達から特に影響を受けた笑みだった。
「それをしたらおひいさんにここに来ていることを知られてしまう。それじゃあ、面白くないからさ」



 ヴェルアレイン市長が全身全霊を込めて企画・主催した『湖上舞踏会』――小振りで円に近いハート形をしたヴェルアレイン湖、その水上に特設された会場ダンスフロアで開かれているパーティーに、後援者として名を連ねるティディア姫が参加してからもう五時間が経つ。
 アデムメデスの王女は南極圏の夜空を天井とした100m四方の広場で、地元の貴族や政治家だけでなく、一介の学生からその教師、あるいは酒場の主人にその女将、果てはまだおしゃぶりを離さぬ子までと老若男女を問わずに手を取りステップを踏んだ。それだけではない。すこぶる機嫌の良い彼女は時に自ら楽器を取り、時に美しい歌声を披露して、パーティーを大いに盛り上げた。
 現在、ニュースやネットには、楽しそうに笑う姫君と盛り上がるパーティー会場……さらには会場の外、お祭り騒ぎに沸くヴェルアレインの城下町の映像が溢れている。全国規模の主要な情報ネットワークはこの話題で占有された状況だ。観光事業に頼るヴェルアレインにとって、これ以上の宣伝はないだろう。
 ティディアが舞踏会から引き上げる際、感情の昂ぶりに顔を赤くして王女に何度も頭を下げていた市長も、これで観光者数が十数年間減少し続けていた問題から解放され、来年の任期切れまでには苦悩と苦闘に刻み込まれた眉間の皺を伸ばせるはずだ。
「うん。上々上々」
 円に近いハート形――いびつな円の天辺を指で押し込まれたように湖にせり出す岬にそびえるヴェルアレイン城の居室で、宙映画面エア・モニターを無数に表示させ『成果』を確認していたティディアは、全ての画面を一斉に消すと腕を組んで大きくうなずいた。
 それから彼女は大きく息を吸い、腕を組んだまま椅子の背もたれに体を押し付けて伸びをした。吸っただけの空気を一気に吐き出し、脱力し、同時に組んでいた腕を解くとそのまま体の横にだらりと垂らして天井を見上げる。
 小さく品の良い形のシャンデリアがキラキラと輝き、光を部屋に振りまいている。
 目を細めてクリスタル製の電灯が放つ柔らかな光を眺めていたティディアは、姿勢そのままにもう一度大きく深呼吸をした。
 目を落とし、自分の他に誰もない部屋を見る。
 どこともなく視点を定めず、ただぼんやりと。
 ティディアは既に舞踏会で流した汗をシャワーで洗い落とし、簡素ながら上質の部屋着に着替えていた。
 ニトロとの日課である漫才の練習も既に終えてしまっている。
 今日の予定は、もう一つも残っていない。
 やりたいこと・やるべきことを探せば幾らでも見つかるが、差し当たって緊急・速やかにやらねばならないと目の前にぶら下がっている事案もない。
「……うん。上々、上々」
 城の中庭に面した部屋で、多忙を極める日々の中にも極稀にぽっかりと訪れる安穏とした時間を満喫しながら、ティディアはこのまま一日を終えようと決めた。
 そして、思う。
(今頃、ニトロは楽しく夕飯を食べてるんだろうな)
 王都ジスカルラとヴェルアレインの間にある時差は、約四時間。
 愛しい人は、今日は実家にいる。
 今夜は父の作ったハンバーグやローストビーフやバーベキューチキンや蒸し魚のスープやピザやパスタやドリアやパイやデコレーションケーキやらを食べるらしい。
 もちろん、ヴィタならともかく、それだけのメニューをこなせる腹をニトロはもっていない。
 どうやら久しぶりの息子の宿泊に発奮したらしい父親が、息子の知らぬ間に――つまりニトロがキッチンに寄らず「うん、もう食べさせるのより作るのが楽しくなっちゃってるよね」とブレーキを掛け損なったがために突っ走ってしてしまったらしい。
 夫婦揃って『天然・マイペース・突発暴走型・深慮不足属』とでもカテゴライズできようか、朝から仕込みに励む夫を妻はのん気に応援するのみだったそうだ。ニトロとの漫才の練習の前に映電話ビデ-フォンに割り込んできたリセお母様はそれをニコニコと語り、息子に「だから結果を考えようっていつも言ってるだろ? 前もこんなことあったよね」と叱られてもニコニコと嬉しそうに笑っていた。
 八つ当たり気味にニトロに両親の暴挙を止めなかったことを責められていたメルトンは彼を嘲笑うようにからかっていて……まあ、止めなかったのは、おそらくわざとだったのだろう。それをニトロも判っているから、彼は面白くなさそうな顔で芍薬にお仕置きを委託していた。
(いい悲鳴だったわねー)
 メルトンの、まさか――容赦のあるニトロではなく――芍薬にお仕置きされるとは思っていなかったらしく、あの悲痛な叫びはここ最近聞いたものの中で一番だった。
 哀しくて、切なくて、それでいて笑える。
(もしかしたら、メルトンちゃんはニトロに構って欲しくてああしたのかしらね)
 練習中もニトロの後ろで、息子と未来の義娘と話したくてたまらないといった顔でうろうろしていたリセお母様。
 息子に美味しいものをとキッチンで腕を振るい、練習の終わり際にエプロンをかけたまま画面に飛び込んでくるや今度は息子と一緒に来るよう誘ってくれたニルグお父様。
 本当は大好きな『兄』にいらない悪戯や反抗をして泣きを見るメルトンちゃん。二度目の悲鳴はほとんど断末魔だった。
 そこに、芍薬ちゃんもいて、ニトロがいる。
 できれば参加したかった。彼の実家でも開かれているパーティー、温かな晩餐に。
(――だけど)
 それは、できない。
 明日もこちらで朝から仕事がある。
 食べ切れない料理は冷凍すると言っていたから、朝一に使いをやろう。せめてそれだけでも……余り物を食べる形ででもパーティーに参加した気になりたいから、手に入れておきたい。
「……あら」
 ふと中庭に面した窓を見れば、おりしもはらはらと小さな氷の花が舞い出していた。
 極地の人口密集地には大抵ドームが張られ、一年を通して気温が調節されている。
 だが、ヴェルアレインのような観光都市にはその地方特有の情緒といったものが、決して無視できない重要な要素として関わるものだ。
 この城と、湖と、城下町の上空にはドームはなく、その代用に素子生命ナノマシン素子生命群エレメンツが生成する素子壁バリアが張られていて、可視化すれば網状のバリアはある程度の風や雪を素通りさせ、また、熱が内にこもるようにも働き、冬の夜間、その庇護の下にあればたちまち魂まで凍りつくような極地の寒さを感じることはないが、地元の人間以外であれば『極寒』を感じるに十分であるよう気温を適宜調整している。
 とはいえ今夜の祭りに演出された寒さは必要なく、むしろ客に凍えられる方がマイナスだと気温はプラスの設定だ。その上、大通りのみならず路地まで人や出店で溢れている。夜通し続く大騒ぎの熱は、この程度の雪などものともせずに溶かしてしまうだろう。
 はらはらと音もなく舞い落ちる雪は、それだけに儚さをますます感じさせるものとしてティディアの目に映った。
「絶好ね」
 ティディアは市長に頼まれていたことを思い出してクローゼットに向かった。もし気分が向いたら……という頼みだったが、こんなにも良い演出があるのなら市長の望みを叶えてやろう。
 部屋着を脱ぎ、ナイトドレスに着替え、ティディアは居室を出た。足早にエレベーターに向かうと最上階の一つ下の階まで上がり、城の中で最も高い位置にある湖に面するバルコニーに出る。
 パーティードレスの薄い生地しかまとわなくともそこで踊れば汗をかくほど暖房の効いた湖上のダンスフロアを見下ろせば、愉快気に踊り回る人々がまるで小さな小さな人形劇の役者と見えた。ダンスフロアにもその近くの岸辺にもまだまだ数多くの人間がいる。町には光が溢れ、道はその全てが光の帯となり、その光の中にもまた数多くの民がいる。
 それら全てがちらつく雪のヴェールを纏い、舞い散る白氷に反射した町の光がさらに町から影を奪い、漆を張った鏡のように輝く町を映す湖面、その水上には日没と共に放たれた機械蛍ファイアフライヤが何千と飛び交い、波が立つたび闇の肌にきらきらと光の粒が舞い散って、神秘なるかな――幻想の町がいずこからともなく表出してきたようにそこにあった。
 わっと、町が沸いた。
 歓声や指笛の音が幻想を破り、血肉のある現実の町の生命力をティディアに伝えた。
 ダンスフロアの豆人形達は踊ることを止め、ヴェルアレイン城に向き誰もが手を振っている。
 町の中空に映し出された大型のエア・モニターには、質素ながら威風堂々としたヴェルアレイン城のバルコニーに立つ王女の姿がある。
 ティディアは微笑を浮かべ、優雅に手を振った。
 ――蠱惑の笑み。
 見る者の魂を奪う――魔の瞳。
 南極圏の夜を背に、はらはらと儚い雪が舞い散る中、王女ティディアのその真なる美貌がいや増して美しく、より妖しく輝く。
 嘆声か、ため息か……
 明瞭とは解らぬが確かに彼女に心を奪われた者達の鼓動が、町を揺らした。
 ティディアは艶やかな指先をそっと唇に触れ、極自然と投げキスをするように手を下すと、踵を返してバルコニーから消えた。
 王女が消えた直後……ヴェルアレインは、静寂に包まれていた。
 驚くほど、音がなかった。
 雪が大気を滑り落ちる音が聞こえる。
 去り際にティディアが見せた所作に溢れる神々しき華、悪魔の魅力に、刹那、町の皆の心臓が止められていた。
 そして、皆の心臓が鼓動を取り戻した時――
 雷鳴にも地鳴りにも似た歓声が、雪を巻き上げ、ヴェルアレイン全域を揺るがした。

「?」
 城の中まで響いてきた轟音を感じながら居室に戻ったティディアは、部屋に入るなり柳眉の間に疑問符を浮かべた。
「随分、遅いわね」
 後ろ手にドアを閉めながら、つぶやく。
 ニトロとの漫才の練習の終わり際、忠実な女執事は夕食をとる暇のなかった私達のために「お夜食を用意してまいります」と言って部屋を出て行った。
 それからもう三十分は過ぎている。
 手間のかかる料理でも作らせているのなら別だが、それなら後は側仕えに持ってくるように命じて戻ってきているはずだ。
 部屋着に着替え終えたティディアが、のんびりドレスを丁寧にハンガーにかけていてもヴィタが戻ってくる気配はない。おかしい、連絡を取ってみるかとティディアが居室のA.I.に声をかけようとした――
 と、その時、ドアがノックされた。
 そのノックのリズムは、ヴィタ用に割り当てられたものだった。
「入っていいわよ」
 クローゼットの扉を閉めながら、少し怪訝の色を残して言う。
 すると、
「失礼します」
 即座にドアを開け、大きな温蔵箱ウォーマーボックスを提げたヴィタが部屋に入ってきた。
 フード付きのコートを着た彼女は部屋の様子を確認するなり軽く後ろに振り向いて、誰かを促すような素振りを見せた。ティディアが訝しむ間もなく、執事の後ろに続いて直属兵が一人、無言で王女の居室に足を踏み入れた。兵は肩から提げた小振りなウォーマーボックスの他に、大振りのアタッシュケースを片手に持って――いや、そんなことはどうでもいい。
 ティディアは、驚いていた。
 いかな直属兵であれ、この部屋に通ることをあらかじめ許されている側仕え以外の人間を主の許可なしに通してはならないことをヴィタが失念するはずがない。
 しかも――寒冷地用の制服に身を包み古代のヘルメットを模した大きな帽子を目深に被る男は、主たる王女に敬礼をすることもなく口元に笑みを浮かべている。
 帽子の分を差し引けば……並んだヴィタより拳一つほど背の高い若い男だ。立ち姿には力がある。鍛えられ、鉄の芯が通った男性の迫力。加えて個人的なパーソナリティからくるものだろう、どこか曲者じみた雰囲気。人を食ったような微笑を浮かべる口元には、どこか飄々とした景色が――
「――」
 ティディアは重ねて驚いた。
 気づいた。
 その直属兵の姿を借りた者の正体に。
 彼ならば、確かに、ヴィタが主人の許可なしに部屋に案内してきても何も問題はなく、兵に定められた敬礼がないのもむしろ当然のことだ。
「流石、察しが良いですねぇ」
 彼は少し拍子抜けしたように、しかし妙に満足そうに言った。
 聞き慣れた声にティディアの頬がほころぶ。そして同時に、何だかやり返された気がして悔しくもなる。
「こんばんは、おひいさん。夜分遅くにお邪魔して申し訳ありません」
 アタッシュケースを足下に置き、帽子を取りそれを胸元に当てて軽く辞儀をするハラキリには、挨拶を述べる口とは裏腹に遠慮というものがない。相手に迷惑をかけているかもというそぶりもなく、徹頭徹尾『ちょいと遊びに来ましたよ』といった風情だ。
 ティディアは友人の態度に思わず笑みを深め、
「どうしたの、その服。やけに丈がピッタリじゃない」
「自前のものですから」
「自前って……軽く言うわねー。犯罪よ? そんなに精巧な偽物を作ったりしちゃ。
 ……それともそれは、とうとうその制服を着てくれるっていう意思表示なのかしら」
 つまりは、直属の部下になってくれるのかという――以前きっぱり断ったことも考えれば――皮肉に、ハラキリはいつも笑っているような目をさらに細めた。
「いやいや、我ながら似合わないと思い知りましたので。これはこれっきりの一発芸ですよ」

 ハラキリとヴィタが運んできたウォーマーボックスの中には、様々な料理や菓子が詰め込まれていた。
 断熱材と保温機の力で未だ作り立ての湯気を上げるそれらは、ヴェルアレインのいたる所で圧倒的な数の客を相手に戦争を繰り広げる店や出店で売られていたものだ。
「大変だったでしょ。それとも、制服のお陰で楽だった?」
「町を巡回している『同僚』に職質されたら面倒なので、制服に着替えたのはこの城に入ってからです。お陰でやはり大変でしたよ。人波に揉まれ揉まれて漂流した先で買う、というのを繰り返すしかありませんでした。目当てのものを――なんて選ぶことなんかできやしません」
「ふふ、お疲れ様。それでいつ頃こっちに来たの?」
「リーリークに着いたのが大体11時で……ここに着いたのは、結局18時を過ぎた頃でしたかね」
「言ってくれれば迎えにやったのに」
「それだと楽しくない。でしょう?」
 部屋の真ん中に用意させたテーブルに、およそ王族が過ごす部屋には似合わぬ料理が並べられていく。フライドポテト、揚げ菓子、グリル・ソーセージ、ポップコーン、パイ、ピザ、焼き物系、クレープ系、いかにもなジャンクフードや軽食スナックの見本市。
 その向こうで、何やら大事そうにアタッシュケースを扱いながらニヤリと笑ったハラキリに、ティディアはそうねと笑い返した。
「でも、こういう食事でいいの? ここには腕の良い料理人がいるのに」
 ゲストを迎えたホストの気遣いをティディアが見せると、ハラキリは軽く肩をすくめた。
「言葉が適切かどうかは判りませんが、こういう時に上物を頂くのは無粋じゃないですかね」
「……ふむ、それもそうね」
「それに流石に今日はおひいさんも外に忍び出ることはできないでしょう。なら、こういう形で『お祭り』に参加するのも悪くないかと」
 その言葉は、ついさっき自分がポルカト家のパーティーに『余り物を食べる形ででも参加した気になりたい』と思ったことに通じていた。
 妙に嬉しい気持ちになって、ティディアはジャンクフード特有の強い香りを嗅ぎながらはにかむように微笑んだ。
「ありがとう」
「いえいえ」
 ハラキリは直属兵の寒冷地用の制帽と制服の上着を脱ぎ――それらはコート掛けに掛かっている――白いTシャツ姿になっている。その姿を見るティディアは、何のつもりなのだろうか、と腑に落ちぬものを感じていた。友人が着る無駄に高級な生地が使われたシャツは彼女のよく知る『ブランド』のもので、左の胸にあるワンポイントは『ニトロ・ポルカトとティディア姫』のサイン……そう、そのシャツは見間違えようもなく高校生と王女の漫才コンビ縁の商品であったのだ。
 もしかしたら、それも彼流の一発芸なのかもしれないが。
(まったく……曲者なんだから)
 アタッシュケースの中から取り出したタンブラーをテーブルに置くハラキリを目に、内心で微笑んでいたティディアはふと背後に振り向いた。
 視線の先、部屋の隅に小卓があり、そこでウォーマーボックスを一つ独り占めにして執事が遅い夕食をとっている。
「ヴィタはそこでいいの?」
「ええ」
 と、答えたのはヴィタではなく、ハラキリだった。
 ティディアが眉根を寄せて振り向くと、彼はタンブラーに続けてアタッシュケースの中から小さな瓶を二つ、魔法瓶を一つ、大きな瓶を一つと取り出しながら言った。
「いつもニトロ君とは二人でダベるということをしていますが、おひいさんとはこうして二人でダベるということは、したことがありませんでしたから。
 ああ、気を遣わせてすみませんね」
 最後の一言はヴィタへ向けられたものだった。少し焦げた肉を包んだクレープを口にくわえたまま、彼女はこくりとうなずいた。
「ま、そういうわけです」
「そう」
 ティディアは嬉しかった。
 確かに、ハラキリと二人で話したことはあっても、それは『敵同士』としてか、あるいは『協力者』、それとも『交渉相手』としての会話であるばかりだった。思えばハラキリの言う通り、こうして友達と二人、腰を落ち着け面と向かって喋るのは初めのことだ。
 まあ厳密にはヴィタがいるのだから二人きりでは無いが、しかし彼女が距離を開けてそこにいるのは、何か用があれば使えと、さしずめウェイトレス辺りを役目としているからだろう。
 ――が、
「……」
 ティディアは嬉しさと並んで、戸惑いも強く感じていた。
 テーブルの上にハラキリが並べ終えたのは、タンブラーとグラスが二つずつ、それぞれ蜂蜜とウイスキーが入った二つの小瓶、魔法瓶が一つ。その脇にアデムメデスの極地で主食としてあり続ける凍土麦パミインから作られた蒸留酒・ヒズロゥが一瓶ある。
 別に自分は気にしないが、世間的に言えばハラキリは未成年で、シゼモでニトロにツッコまれたようにこのまま彼が飲むのを黙認すれば『監督責任』を問われることになろう。だが、この地方はいわゆる『特区』の一つであり、住民でなくても十五歳以上であれば法的に飲酒が許される。だからその点に関しては何も問題はない。
 ウイスキーの小瓶には大量生産の(その中で上等の)銘柄のラベルが貼られていた。ヒズロゥも世間で最も人気のある『ディオニカス』――社名がそのまま銘となった品。ここにも例えば嫌いな酒があるとか、そういう問題も何もない。ただ、なるほどここでも彼は徹底している、と感心するだけだ。
 問題は……
 そう、ティディアを戸惑わせているものは、また別のところにあった。
「勝手ながら、最初はこれで」
 ハラキリはそう言いながら二つのタンブラーに蜂蜜を同量落とし、そこにウイスキーを加え、最後に魔法瓶から湯を注ぎ込んだ。円筒形の耐熱ガラスの中で、比重の違う三つがマーブル模様を描くようにして交じり合う。
 本来はここにスライスしたレモンかシナモン、クローブ等を加えて基本的なレシピとなる。が、この『ウイスキートディ』はここまでで完成だ。スライレンドでは、採蜜を終えた養蜂家が馴染みのカフェに差し入れに採れ立てを持ってきて、そのお返しにカフェのオーナーがお疲れ様とホットウイスキーに蜂蜜を少し落として差し出した……という起源と共に、まるで地域の名産に敬意と誇りを表しているかのように他の味を入れず、こうして作られている。
(……何のつもりかしら、本当に)
 ハラキリがあの地を思い起こさせる品を無意味に用意するはずがない。意識して観れば蜂蜜の瓶にはスライレンド産を示すマークが浮き出ている。何らかの意図があることは明らかだ。
「どうぞ」
 と言った後、ハラキリは急に思い出したようにケースからマドラーを取り出し、差し出す寸前だったウイスキートディを一混ぜしてからティディアの前に置いた。
「――ありがとう」
 彼に何の意図があるにせよ、友達が作ってくれた酒を断る理由はティディアにはなかった。タンブラーを手に取る。中身の熱を外に伝えない特殊な耐熱ガラスは、指に少しばかりの冷ややかさすら感じさせた。
 ティディアとハラキリは互いに目の高さまでタンブラーを持ち上げると、小さく「乾杯」と口にしあった。
 一口飲むと、温められて香りを増したウイスキーがアルコールをまとって鼻腔を突き抜け、追ってスライレンドの蜂蜜の上品な甘みに包まれた蒸留酒スピリッツの辛さ、味わいが舌を伝い喉に落ちていく。じんわりと、腹の内から体が温まっていく。
「……美味しい」
「我ながらうまく出来ました」
 しみじみと言ったティディアとは対照的にしれっと言って、ハラキリはフライドポテトをつまんで齧った。
 ティディアもフライドポテトをつまんで齧る。塩が利きすぎていた。しかし、不思議と美味しい。以前『お忍び』でファミリーレストランに行った時に見た、こうやってフライドポテトを同じ皿から取り合いながらケラケラ笑っている学生達の姿がふとティディアの脳裡に浮かんだ。
 その光景を目にした時、何かしら己の手に入らぬものへの感傷を覚えた……ということは一片たりとてない。それを思い出した今とて、同様に特別な感慨もない。
 ただ、これはどう捉えるべきだろうか、ここには何ともこそばゆい楽しさがある。
「この分では、月は見られそうにありませんね。ちょうどふたつ共に満月でしたのに」
 もう一つフライドポテトをつまんだティディアに、ハラキリが言った。彼は窓の外を眺めている。少しだけ、雪が勢いを増していた。
「そうね。ちょっと楽しみにしていたけれど……」
 このヴェルアレイン城は、在位期間一日という最短記録を持つ93代女王がその二十四時間中に王権をもって作らせたものだ。92代王、つまり、己を真の芸術家だと信じて疑わなかった前王……それゆえに芸術的な王となろうとし、叶わず、王としての自己と芸術家としての自己を両立させることができず精神を病んだ夫との暮らしのために。
 ――『故郷の空が懐かしい。昔は嫌いで、憎んでいた、寒くて何もない場所。だけど、夫と出会った場所。彼が私に愛を告げてくれたあの場所。あの夜と同じように、凍りついた夜空に神が浮かべた宝石を眺めながら、愛する男性と静かに暮らしたい』――それが、93代女王が王位を継ぐ息子に告げた『理由』だったという。
 その『理由』への是非はともかく、夫妻が没してからというもの、特に行事がない場合に限り一部が民に解放されているこの城で(またはこの城の傍、ヴェルアレイン城下で)赤と青の双子月を見ることは、愚かしくも情の深い女王の逸話のために最高の『観光』となっている。
 しかも現在ここには――ある種『芸術的な』王女がいるのだ。
 元より今夜は曇りの予報だった。それなのにここで空が晴れて月が輝けば……それこそ芸術的なことだろう。
「けどま、仕方がないわ」
「いっそ雲を吹き飛ばしてはどうです?」
「んー。でもそれって、それこそ無粋じゃない?」
「そうですね。無粋です」
 自分から言い出しておきながら、ハラキリはあっさりとうなずいた。そして湯気立つウイスキートディを一口、窓を眺めて続けた。
「かえってこれくらいの雪なら趣がありますしね。夜通し騒ぐ町にしんしんと降る雪。それを見ながら飲む酒というのも、月見酒に負けず劣らず乙なもので」
 ティディアはハラキリの物言いに思わず笑い声を漏らした。
「時々、ハラキリ君と話しているとずっと年上の男と話している気になるわ」
「時々――と言いたいところですが、実に頻繁に言われます」
「でしょー」
「自覚はしていますよ。まあ、生来の性質というものもありましょうが、大人との付き合いが多かったものですから、むしろこうならないのが不自然な成り行きというものです」
 『大人との付き合い』――
 そこには普通の会話として使われる文脈にはない、およそ普通の少年が口にするようなものではない意味が込められていることをティディアは理解していた。ハラキリも彼女がそれを理解することを折りこみ済みで語っている。
「で、そちらの『大人の付き合い』はどうされるおつもりで?」
 実にさらりとした口調のまま、ハラキリはティディアに訊ねた。
 ティディアはグリル・ソーセージを指でつまんでパキリと一齧りし、
どのこと?」
「レッカード財閥の末っ子ですよ」
「ああ、あれ。別にどうもしないわ」
「貴女に『浮気疑惑』を立てて、ニトロ君の貴女への愛情を揺さぶる。恋の駆け引きとやらの常套手段ではありましょうが……」
「なっさけないピエロでしょー」
「でしょー、って」
 ハラキリは切り分けられているピザの一つをくるくると丸めるように畳みながら、苦笑した。
「意地が悪いですねぇ」
「私が意地が悪いなら、あんな小汚い手を使ってくる相手はどうかしら」
「そりゃあ小汚い、でしょう?」
「ん、そりゃそうね」
 畳んだピザを齧り、ハラキリは言った。
「とはいえ、アンセニオン・レッカードがさらに恥を掻きに出てくるなんてことはありませんか?」
「何でそんなことをハラキリ君が気にするのよ」
「そうなるとニトロ君の面倒が増えるじゃないですか。そうすると、拙者も色々面倒に巻き込まれそうな気がします、いえ絶対に巻き込まれます」
「それが嫌?」
「嫌ですね。アンセニオン・レッカードは面白い相手ではないと思いますから」
「……そうね」
 率直なハラキリの言葉に目を細めたティディアは、タンブラーに唇を寄せ、
「ニトロの足下にも及ばないわ」
 断じて、彼女は甘いホットウイスキーをくっと飲み、ほうと息をついた。
「ビジネス相手としてなら良かったけれど、こういうことをしてくるならそっちの評価も落とさないとね」
「……そうですか」
 ハラキリはうなずいた。
 ピザを食べ切り、チーズのついた指を舐め、指を――
「あ、そうでしたそうでした」
 と、食事を取り出す際、ウォーマーボックスの蓋に退けておいたウェットティッシュの袋の束を取り上げた。
「これは気が利きませんでした」
 言って、いくつかをティディアに渡す。
「不慣れね」
 ウェットティッシュを取り出しながらくすりと笑ってティディアが言うと、ハラキリは指を拭きながら肩を小さくすくめて応えた。
 その小生意気な様子にティディアは楽しげに肩を揺らした。サラミの載ったピザの切り身を取り、尖る先端に歯を立て齧り取る。溶けたチーズが思いのほかよく伸びた。危うくテーブルに垂れ落ちそうになったチーズの糸を、彼女は行儀悪く音を立てて啜り取った。
「不慣れですか?」
「ただの粗相よ。油断しちゃった♪」
 ハラキリの小さな反撃をティディアは気分上々に潰してみせた。
 ハラキリの目元がかすかに歪む。
 ティディアはふふんと鼻を鳴らした。
 しかしそのわずかな攻防は即座に終わり、一口大に切られた焼き芋に軽く塩を振ったものを一つ口に放り込んだハラキリは、
「最近、何か面白い作品に触れられました?」
 と、また話題を変えた。
「最近なら、フィッツマードの新刊が面白かったわね」
 それを皮切りにティディアとハラキリはとりとめもなく雑談に興じた。
 最近読んだ本や雑誌から得た情報を広げて菓子や料理、それを売る店、あの店は商品の質に対して店舗の質がよくない、逆にあのチェーン店はデザインはいいのに使うインテリアの材質を落とし過ぎ、そうだインテリアといえば――とハラキリの家の内装に話題は飛び、そこから異星の文化、そういえばセスカニアン星で話題になりだしている映画は面白かったですよとハラキリが言うと、互いに未見の映像作品や文学作品を紹介しあい、共に既知のものであればその感想を言い合った。
 これは面白かった、ええ、面白かったですね。特にこのシーンが、へぇ、私はあのシーンがお気に入り。
 あれは拙者は面白くなかった。
 あら、私は面白かったわ――
「チュニックの『嘆き』ですか……。同じスカイニフルの『相対神化論』を下敷きにしたものなら、アデマ・リーケインの『花園に来る』の方が拙者は好きですけどねぇ」
「あんなの『相対神化論』の上っ面をなぞっただけの駄作じゃない」
「だからこそですよ。『リオナ、それともパメラ・レオニラル』というアデムメデス文学史に燦然と名を残す大傑作を書き上げながら、一方であんな駄作を書く。そのギャップに文豪アデマ・リーケインの面白さがあると」
「ああ、なるほどそういう読み方。それも面白い読み方だとは思うけど……まぁ、テストじゃ点数はもらえないわね」
「大丈夫です。そちらの『考え方』もしっかり修得していますので」
「本当、曲者……というか、そこまでくると生意気ねー」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
「ええ。褒めてるんだから、そう受け取っておいて」
 二人のウイスキートディは早いうちに空となり、それからはそれぞれの手元に蒸留酒・ヒズロゥの注がれたグラスがあった。いちいち何かで割って飲むのも面倒なので、二人共に最初からずっとヴェルアレインの天然氷でオンザロックを楽しんでいる。
 テーブルに広げられた食事は二人で食べきれるかどうか分からない量だったのに、今やほとんどなくなっていた。
 アルコール度数40度のヒズロゥの720ml瓶も既に半ばを下回っている。
 しかし談笑する二人の様子に変化はなかった。結構な量のアルコールを摂取し『酔い止め薬』も飲んでいないのに、ティディアもハラキリも共に顔色一つ変わっていない。思考も呂律も確かなもので、動作が大きくなることもない。酔いがあることは確かなのに、外見も内面もシラフもいいところであった。
 そして――ふと気がつけば、日が変わっていた。
 窓の外の雪は勢いを増すことも衰えることもなく、はらはらと降り続けている。
 二人の口も勢いを増すことも衰えることもなく駄弁を続け、時忘れの尽きることなき話題はやがてそうなることが自然の成り行きであるように、何よりも共通の話題へと絞られていった。
 それはもちろん、ティディアの『相方』であり、ハラキリの級友である少年のこと。
 ニトロって、ニトロ君に、
 ニトロを、ニトロ君は、
 ニトロが、
「ニトロ君の――あだ名というか通称というか……」
「愛称?」
「そう言うとニトロ君から『愛しんでねぇ』って言われちゃうんですが、まあどうでもいいですね。あれら、いつの間にか色々定着しましたねぇ。本を正せば『ニトロ・ザ・ツッコミ』という内輪だけのものだったのに」
「広がり初めは『身代わりヤギさん』だったわね。同時期に『クレイジー・プリンセス・ホールダー』」
「『ティディア姫の恋人』というのもそうだと言えばそうですかね。で、その後にできたのは『トレイの狂戦士』」
「それから、『スライレンドの救世主』」
 その愛称を口にするティディアは少し複雑そうに唇を歪めていた。微笑みながらも辛酸を噛み締めているような顔だ。おそらく、後悔というよりも、危うくニトロを失いかねなかった恐怖を思い出しているのだろう。
 この国の第一王位継承者を務める女友達の表情を観つつ、しかしハラキリはそこには触れずに話を進めた。
「おひいさんは、その中のどれがニトロ君に相応しいと思います?」
「決まっているじゃない。その中だったら間違いなく『ティディア姫の恋人』よ。最近じゃあ『ニトロ王』というのも目立ってきているから、私もう嬉しくってねー」
「そうですか」
 ハラキリはうなずいた。グラスを口に運び火酒を一口流し込む。グラスがテーブルに戻される時、球状に成形された空気の泡一つない氷がグラスと当たって透き通った音を鳴らした。
「ハラキリ君は?」
「拙者はもちろん、『クレイジー・プリンセス・ホールダー』が最も的を射ていると思っていますよ」
 ハラキリは手元のグラスを、その中でシャンデリアの光を受けて磨きこまれた宝石のように輝く氷をじっと見つめたまま言った。
「何せ彼は貴女を抑止できるだけではなく、本当の意味で、貴女を抱き締めることができるんですから」
 ――それは、突然の出来事だった。
 ハラキリが視線を手元からティディアへと上げた時、一瞬にして、空気が変わっていた。
 これまでの談笑の和やかさは霧散し、これまで影と振る舞い部屋の隅で気配を潜めて耳をそばだてていたヴィタも敏感に空気の変化を察知し、一体何が起こったのだと体ごと意識をテーブルの二人に集中させる。
 ハラキリは、どこか挑みかかるようにティディアを見つめていた。
 その視線を受けるティディアは、口元に微笑を浮かべている。だが、彼女の姿には、議会で論敵に臨む際に見せる自信と威厳にも似た雰囲気があった。
「察しのいい貴女のことだ。拙者がただダベりに来たわけではないことを、当然理解されていたでしょう」
「……解らない方がおかしいと思うわ」
 ティディアの視線がウイスキートディの入っていたタンブラー、『漫才コンビ』のサインが入ったハラキリのシャツと辿り、最後に真正面に座る曲者の瞳に戻る。
 曲者は満足そうにうなずき、
「実は、おこがましくも忠告に参りました」
「忠告……というわりには、何だか敵意を感じるんだけどな」
「敵意なんかありませんよ。貴女に際し、気を引き締めているだけです。
 これは至極重要な話だと、拙者は思っていますので」
 ふと、どこか挑みかかるようなハラキリの視線が揺らいだ。
 その時、ティディアは悟った。この眼は挑みかかる時のそれではなく、彼が何か『不慣れ』を隠そうとしている強がりの眼なのだと。
 それを知れば何だか気が抜ける――が、しかし何故か、けして気を抜いてはならないとティディアの心は震えていた。ハラキリは曲者だ。何のために強がっているのかが解らない以上、下手に隙を見せるわけにはいかないと、王女ティディアとして過ごしてきた経験までもが警告している。
 それなのに――自分でもおかしなことだとティディアは思っていたが――心の片方では、喜びも感じていた。
「ハラキリ君がわざわざこんな遠くまで忠告に来てくれるんだもの。それは、よっぽど重要なことなんでしょうね」
 忠告は、大抵相手を思い遣ってするものだ。そして友達が、そんな想いを抱えてこんな所まで来てくれた。
 ……それも、いつもはニトロにばかり忠告や教示をするハラキリが。
「聞かせてくれる?」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せてティディアは嬉しそうに言った。
 ハラキリは彼女を見据えたまま、少し首を傾げた。鋭く息を吸い、
「どう、切り出しましょうかね」
 つぶやいて、ハラキリはまた一口蒸留酒で喉を焼いた。目を上向けてしばし思案し、やおら唇を引き絞ったかと思うとそれを緩め、そして一つ息をついてから、彼は言った。
「……お姫さん。
 拙者はね、貴女が嫌いでした」

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