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 いきなりと言えばいきなりで、あんまりと言えばあんまりな切り出しに、ティディアは意表を突かれて目を丸くした。
 が、すぐに気を取り直し、目を細める。
「過去形ってことは、今はそうじゃない?」
「嫌いではないですよ」
「いけずねぇ」
 ティディアがどんな答えを期待していたかは判っている。しかしハラキリは彼女の希望通りの言葉を返してご機嫌を取る気はさらさら無いと肩をすくめて示し、
「まあ、その通り、過去のことですけどね。大嫌いでした」
「……どうして、嫌いだったの?」
「貴女は危険だと思っていたからです。その時点では、貴女と『殺し合う』可能性もあったでしょうねぇ」
 ティディアの背筋が思わず伸びた。
 彼女はテーブルに突いていた両肘を体の脇に引き、組んでいた手を解いて腕を組み、背もたれに体重を預けると、思いもよらぬことを突然……それも追撃を加えるように重ねて口に出してきた友人を見つめた。
「それはまた随分な物言いね」
「いやいや、そうでもないでしょう。我が国の親愛なるクレイジー・プリンセス」
 その別称で――それも明らかに意図的に侮蔑を込めて――呼ばれたティディアの顔から、笑みが消えた。
「……」
 わずかながらも刀剣の鋭さが混じったクレイジー・プリンセスの眼差しを正面から見返し、ハラキリは、一つ、胸の中で短く息を吐いた。それはため息でもティディアの心を刺激したことを悔やむ嘆息でもなく、改めて気を引き締めるために。
(……)
 これから自分が行おうとしていることは、忠告であることに間違いはない。
 だが、同時にある種の危険を伴うことでもある。
 まず自分が口にしようとしていることは勝手気ままな推察であり、それを元に論を組み立てていった先にあるのは、ともすれば『彼』を人質にした話だ。もしかしたら、この席はティディアを単に怒らせるだけで終わるかもしれない――下手をすれば、二人の友達の間にある一つの問題を悪化させ、酷くこじれた結末を招いてしまうかもしれない――そういった類の話だ。
 しかし『彼』を人質にしたその指摘が通ればそれはそのまま自分の忠告が正しいことを示し、その時は、きっと、良い結論を向かえることができるだろう――そういった類の話だ。
(さて)
 ティディアは、こちらの朧げな変化も見逃さぬとでも言うようにして、先を促している。
 ハラキリは言った。
「おひいさん、貴女は実に有能な方だ」
 ハラキリから、つい直前ご機嫌取りを切り捨てたハラキリから、またも突然思いもよらぬ賛美ことばをティディアは浴びせられた。だが、今度は驚かない。彼をじっと、彼の心を覗き観るように見つめ、耳を傾ける。
 ハラキリは続けた。
「明晰なる頭脳、鋭敏なる洞察を備えた眼、多岐に渡り類稀なる才を花開かせ、立ち居振る舞いには華が溢れ、人の目が素通りすることを許さぬただそこにいるだけで他者を圧倒する存在感。人心を魅了する瞳、人心に沁み込む華やかな声。『マニア』の言葉を借りれば、貴女の一挙手一投足は女神のそれです。先ほど貴女がバルコニーに立った時の町の盛り上がりは凄かった。この町の人々はまさに魂を奪われたのでしょう。貴女がダンスに興じている姿も町で拝見していました。周囲の人間は、恍惚と、宙映画面エア・モニターに映る王女に目を奪われていた。誰しもの目を奪い、誰しもを誘惑するその美貌、美しい肉体。パーティードレスの深いスリットから貴女のおみ足が抜け出た時――」
 くっくっと、ハラキリは喉を鳴らして笑った。
「拙者は出店でそのフライドポテトを買っていました。売り子の若い女性は、貴女に見惚れていましたよ。危うく油の中に手を突っ込みそうになっていたので、焦りました」
「……そう」
「貴女は、天才です。それも最強の天才だ。天賦の才だけにあらず、天運にも恵まれ、王位継承候補者という生まれながらの特権まで与えられた者は貴女の他にこの国にはない。クレイジー・プリンセスとして法を外れ民に憎まれることをしでかしても『王権をもって、良し』の一言で全てを合法にしてしまえるのは貴女だけだ。しかも貴女はそれをよくよく自覚した上で無茶苦茶なことをするし、実際してきた。性質たちが悪いなんてものじゃない。正直、本当に、呆れるくらい前代未聞の姫君だ。そのくせその一方で貴女は実に親しみ深く、厳しくも慈悲ある王女として愛され、また数々の問題や懸案を硬軟織り交ぜ解決し、全星系連星ユニオリスタではマイナー国であったアデムメデスの知名度と発言力を劇的に引き上げた手腕のために、『クレイジー・プリンセス』でありながら生来のカリスマ性も手伝って絶大な支持を稼ぎ出す。名君なのか暴君なのか絶妙な所で判断しかねるために、それが故に人心に畏怖を植え付け、それが故に誰もが貴女に注目さざるを得ない。そして一度一瞥わずかなりとて自分に目を向けさせてしまえば、『貴女の力』はその者を惹きつけ、それが例え貴女を疎む者であろうといずれ一人、また一人といつの間にか『ティディア姫』の支持者に変えてしまう、実際、変えてきた。
 貴女は天才です、おひいさん。王の天才――とでも言いましょうか。希代の姫君、確かに貴女は、歴史に輝かしい名を遺す女王となれるでしょう。昔、拙者は貴女を嫌いながらもそう思っていました。
 それとも、
 それともあるいは……覇王、希代の暴君たる初代王の再来、あるいはそれをも凌駕する女王にか――と」
「初代王……ね。覇王、暴君、確かによく比較されるし、よく言われもするわ。ニトロにだって言われたことがあるもの」
「彼は本質にツッコムことがままありますからねぇ」
 ハラキリは残り少ないフライドポテトの一本を口に放り込んだ。
「……本質?」
 聞き捨てならないとばかりに、ティディアが問う。
「ええ。本質ですよ。おとぼけなさるな、お姫さん。貴女がそうなる可能性があったことを誰よりも知っているのは、貴女ご自身のはずですよ」
「随分、自信満々に断定してくれるわね」
 さすがに、害された機嫌を剥き出しにしてティディアは言った。グラスを煽り、蒸留酒を飲み干したそばから継ぎ足す。
 とくとくと小気味のいい音が終わるのを待って、ハラキリは言った。
「貴女は、天才です」
 三度繰り返された言葉に、ティディアの眉が曇る。先に言った時よりも調子が暗いハラキリの口調に、注意を奪われる。
「だからこそ、貴女は何でも判ってしまう。違いますか? 自分にどういうことができて、どういうことができないかも判ってしまう。本来大役であるはずの『王女』という枠すら小さく感じさせるほど何でもできる貴女が、貴女だからこそ何もできないと。
 例えばこの問題はこうすれば解決すると分かっていても、相手は答えが一つの学力テストではなく、無数の応えと無数のしがらみを絡め持つ人の心。正しい解決法も、時と場合によっては正しくない解決法になることをお分かりになるでしょう。例えばこの懸案をこう扱っては解決に導けないと分かっていても、『解決の時』に向けて、あえて無駄な手を認めることで遠大な布石を打つ選択を取らなくてはならないこともお分かりになるでしょう。飴と鞭……それが最後には全てが飴に変わる一時的な鞭だったとしても、そればかりをしていたら貴女がどれほど強力な権力を有する王権行使者であってもついにはただのお飾りにされてしまうために。
 この国は、それができる国ですからね。いかにクレイジー・プリンセスでも、あるいは初代王が蘇り再び王座についたとしても覆せぬシステムのせいで。王権を担う者を支持するか、どうか――その『王の権力』の強弱を投票によって決めるシステム。時に一人の王が民を絶対君主制の下に支配することを可能にしながら、されど、どれほど独裁的に支配されていても投票を機に民が王を法の下に支配できる政治システム。二代女王が確立した、王権の外に設置されたこの王と民の間のルールを破ることだけは、どんな賢君だろうと暴君だろうとできはしない。何故なら、それをした時点で『この国の王』ではなくなるのですから。
 しかし、以前の貴女なら、いつかそれをすら行っただろうと今でも拙者は思っています。合法的に、あるいは非合法的な手段によってかはともかく、クレイジー・プリンセスとして暴れ回ることにも……飽きた時には
 ハラキリに見つめられるティディアは、彼と目を合わせたまま、静かにヒズロゥを飲んだ。
「もしくは、貴女は表では高い支持を得たまま暗躍し、この国で『反乱』を起こすことも考えたかもしれません。何千年も昔の領土問題を蒸し返すか、それとも王女のえこひいきや気まぐれで領境くにざかいを書き変え、仲の悪い領主や政治家同士の疑心暗鬼をくすぐり一種紛争を起こすのも面白いかもしれない。火種を裏から煽り大火なったところでそれを鮮やかな手腕で鎮火させ、意気揚々と正義の味方を気取ってみるのも面白いかもしれない。それとも、クレイジー・プリンセスを打倒せよ! 貴女は民のためになることも多くしてきた。その影で割りを食った貴族や政治家は多い。絶大な人気を誇る王女ティディアに跪き垂れた頭の中で煮え湯を滾らせ続ける者も無論いる。表向きはどうあれ潜在的には敵も多い貴女が、ちょっと本気を出して民の敵にもなればすぐにそう言う輩を作るのは簡単でしょう。そうして支持率を下がるところまで下げ、そこからクーデターを起こし『国取りゲーム』を楽しむのもまた面白いかもしれない。クレイジー・プリンセスを打倒せよ! 最後には全ての敵意を束ねて己に向かわせて、暴虐の限りを尽くしながらやがては滅ぼされる悪の美学……希代の悪女として踊ってみるのも、面白いかもしれない
 ティディアはハラキリを見つめ続けていた。
「もちろんこの国を良くすることに注力し『何も問題がない国』という奇跡を実現させる賢君の道を選ぶ可能性もあったでしょう。傍若無人なクレイジー・プリンセス、親しみ深く厳しくも優しいティディア姫、そのどちらも紛うことなき貴女だ。ですが、ではどちらに転んだだろうかと問えば、拙者は暴君に転ぶと踏んでいました。確証といいましょうか、証拠といいましょうか。それはある。ちょっと結果論になってしまうので恐縮ですが……その確証であり証拠であるのは、ニトロ・ポルカト、彼です。彼こそがその一例に他ならない。彼は『ニトロ・ザ・ツッコミ』としてある意味校内の有名人でしたから、拙者は彼を知っていました。――が、それだけです。知っていただけで、彼はさして興味を抱かせるような人物ではなかった。
 しかし、現在の彼はそうじゃあない。彼は、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナという強大な『敵』を得て、驚くほどのスピードで成長し今や貴女と拮抗できる人間にまでなった。貴女に狙われることを常に気にかけながらも、そのくせ軽々と貴女と対決することを日常的に受け入れられるのは彼ぐらいなものです。貴女と常に極自然体のまま常に対等にあれる唯一の人間、と言っても差し支えはないでしょう。
 そして拙者は、彼が成長していく過程を、お姫さんが楽しんでいたことを知っています。どんどん強くなっていく、どんどん逞しくなっていく、日々知恵をつけ、日に日に様々な力を身に付け、日ごと日ごと『敵』に翻弄されながらもついには世間の目にも強烈な存在感を与えるまでに成長しながら、必死に、懸命にクレイジー・プリンセスたる自分と戦ってくれる愛しい強敵――その何にも代え難いモノを手に入れて、ニトロ君にとっては皮肉にも、貴女自身も輝きを増していく姿を拙者は近くで見てきたのですから。
 ……いや、それは拙者だけじゃない。近く、などという距離的要因など関係ないことですね。ニトロ・ポルカトという『恋人』を得てから、ティディア姫の人気も支持率も止まることなく右肩上がりであることにもそれは無関係ではないのですから。人によっては貴女が以前にも増してより名君になったと言う。人によっては貴女が以前にも増してより美しくなったと言う。あの『隊長』も、ニトロ君を認めてからはそう繰り返しメールマガジンに書いていましたよ。特に美しさに関しては、この春先から、より鮮やかに」
 ハラキリはおかしそうに言い、そして軽く手を叩くように掌を合わせた。
「さて。
 そんなお姫さんが、ニトロ・ポルカトという強烈な存在を知り得なかった場合、貴女を面白がらせ、その上貴女を輝かせる『強敵』を求めないという未来が果たしてあったでしょうか。そんな退屈で面白くない毎日を、果たしてクレイジー・プリンセスが、我慢できたでしょうか」
 ティディアは、何も言わずじっとハラキリを見つめ続けていた目を伏せ、フライドポテトを手に取った。萎びたそれは、やけに塩辛い。そしてフライドポテトを食べ終えた彼女は、大きく一息をつき、
「わりと面白い『妄想』だったわ」
 口の端を持ち上げて、ハラキリの妄想に己の想像を重ねるように楽しげに言って、ティディアは続けた。
「もしそうなっていたら、ハラキリ君とはあの『映画』のように対決することもあったかしら。それとも、君は味方として最高の手駒になってくれていたかしら」
「味方はありえませんよ。言ったでしょう? 貴女と『殺し合う』可能性もあったと。『映画』のように直接顔を合わせたかどうかは、分かりませんけどね」
「そうねー。さすがに騒乱の中じゃ相対せずに……いえ、君の存在は、きっと私の耳に届いたはずよ。そうしたら私は、君に会いたいと思ったと――」
 と、そこで、はたとティディアは気づいた。
「あ、もしかして、ニトロの『依頼』をあんなにあっさりと受けたのは私のことが嫌いだったから?」
「正直に言って、半分は」
「後の半分は?」
「あの話を聞いた時点で『足抜け』はできませんよ。腹を括りました」
「……それは、私に消されると思って? それとも、依頼を断らないっていうポリシーでもあった?」
「当然、あの時点では事情を知った拙者を貴女は必ず消しにくると思っていました。ポリシーというか……折角の個人的な初仕事を断るのは勿体無いというのもありましたね。そして、嫌いなバカ姫と勝負するのも楽しそうだな、とも思っていました」
「楽しそう? 私と進んで敵対することが? いくら嫌いだからって、楽しいことかしら」
「嫌いでしかたない王女様を一度でもぎゃふんと言わせられたなら、それが人生の幕を引く仕事となったとしても、一つ上々なモンでしょう? 実に楽しいじゃないですか」
 軽く肩をすくめてハラキリは言う。
 ティディアはハラキリの愉快な主張に、少なからず笑い事ではないことを言っているのに洒落めかしている友達の口調に、笑った。
 あの『映画』の際、ニトロが意外なルートから手に入れた助っ人。あのシナリオをなぞるだけだと思っていた『映画』を、当初の予想よりもずっとずっと楽しく、ずっとずっと面白くしてくれた助演男優。
 危険にも気軽い調子で飛び込んできたハラキリ・ジジ。
 その素性から、彼がクレイジー・プリンセスに命を狙われる少年を助けるというとんでもない依頼を受けたのも、そう不思議なことではないと思っていたが……まさか、こんな風に考えていたとは思っていなかった。
 もはや遠く懐かしい出会いの一瞬が脳裡に蘇り、感慨にも似た感情が心をくすぐる。
 ハラキリはティディアが笑うのを、狙い通り笑わせたことに満足しているかのような様子で眺めていた。そして彼女がひとしきり笑い、呼吸を整えているところに、言う。
「と言っても……拙者の動機は、途中から変わってしまったんですけどね」
 興味を引かれたらしく、ティディアの目がきらりと輝いた。
 ハラキリはもったいぶるようにグラスに口を当て、強い酒で唇をすすぎ、
「途中からは、ニトロ君を助けよう。それが動機となっていました。自分でも驚くことでしたが、拙者はただの依頼人であるはずの彼を友達だと、あの短い時間の内に次第に強くそう思うようになっていたんです。思えば依頼を携えやってきた彼と初めて言葉を交わした時に、こう……妙に気が合いそうだと感じたというか、何というか……
 ……本当は……友達なんて邪魔なだけだと思っていたんですけどねぇ。
 以前の自分であればこんなことは夢にも思わなかったでしょうが……ニトロ君には秘密ですよ? 彼と出会ってから、拙者の人生は変わった。父と母に友達は良いものだと聞かされながらも、友情なんてやたら美化されるだけで役に立たないものなどどうでもいいと思っていたのに、なるほど、美化されるだけの価値はある。少々面倒なところもありますが、彼がいるだけで人生の重みが違う。……そう、なんとも、楽しいものですね」
「うん、解るわ」
 何気なく、ティディアはうなずいた。
 そこに即座にハラキリが言葉を刺した。
「お解りいただけますか。ではやはり、その点では貴女と拙者は同類だったのでしょうね
 うなずいたティディアの顔が、一瞬、固まる。
 何を言われたのか理解できないのか、それとも何故ハラキリがそんなことを言うのかが解らないのか。虚を突かれて友達をじっと見つめる。
 ハラキリはティディアの黒曜石――宝石にも武器にも変えることができる貴石――紫を帯び黒く澄んだ瞳に向け、二つ目の剣を突き刺すように言った。
「ここからが本題です、お姫さん。
 貴女は、ニトロ君を本当のところ一体どのように思っているのでしょうか。
 また、貴女はどこまで、貴女の心を自覚しているのでしょうか」
 固まっていたティディアの表情が見る間に硬直した。先とは別種の硬さ……ハラキリの真意を探ろうとする眼差しは剣よりも鋭く、己の心に踏み込まれようとしていると悟った瞬間に現れた堅牢な鎧が彼女の全身を包み込んでいる。このまま城壁の中に立て込まれれば手も足も出せなくなるであろう。
 だが、ハラキリは、ともすれば忠告を聞き入れなくなってもおかしくないティディアの様子に焦るどころか、穏やかに微笑んでいた。
「……」
 ティディアは唇を結んだまま、わずかに瞼を動かし、ハラキリに先を促した。
「拙者がお姫さんとこんな話をしようと決意したのには、三つの理由があります。
 一つは、色々と考えをまとめる機会に恵まれ、今なら『赤と青の魔女』のお話を貴女にしてもいい――いや、しなければならないと思ったから。
 一つは、その貴女がシゼモであんな大失敗をしたから。
 最後の一つは……いや、これは後に伏せましょうかね」
「もったいぶるわね」
「申し訳ない。ですが、これはひどく個人的な動機でして。話にもそう直接関係しているわけでもありませんので、どうぞご容赦を」
「……いいわ。後で必ず教えてくれるって条件付きなら、容赦しましょう」
「ありがたい」
 ハラキリは冷めて表面に皺が寄ったグリル・ソーセージを取った。歯を立てるとバキリと変に堅い音がした。塩と香辛料の効いた肉の腸詰は冷めたなりの味わいがあった。それを飲み込んでからグラスを一気に空にし、アルコール混じりの熱い息を吐く。
 そして、
「……初めは。拙者は。実のところ、貴女はニトロ君のことを『相方』としてのみ見ていると思っていました」
 聞く者の注意を一つの漏れもなく引きつけるように、あるいは一つも言い間違いをしないように、ゆっくりとした慎重な口調でハラキリは言った。
「だから初めは、貴女は、ニトロ君が形式上でもいいから結婚してくれれば良かったんじゃないでしょうか。拙者はそう思っています。そうすれば、貴女の望む『夫婦漫才』は叶いますから。要は――あなたが惚れたのは、ニトロ君のツッコミとしての能力。自分と相性の良い、相方としてのニトロ・ポルカト。ニトロ君自身ではない
 ティディアは即座に反論しようとした。
 ――なのに、どういうわけか、彼女はそれをできずにいた。
 ハラキリは彼女を見つめたまま、黙って聞くように促している。その瞳にはティディアですら抗えない力があった。
「結局、貴女がニトロ君を落としたかったのは、彼が形式だけの結婚をしてくれる人間ではないからです。貴女が彼の心を手に入れたかったのは、何も愛情のためではない。ただ、形式だけの結婚をしてくれない男と『契約』するために、惚れさせる必要があっただけのこと。ああ、そういう堅物の心を奪うというゲーム感覚もあったかもしれませんね。まあ、どちらにしろ、どちらにもしろ、その時点では、貴女がニトロ君に抱いていた感情は、言ってしまえば『好きな男・恋人・夫』とは本質的には名ばかりに、ただ貴女の最も近くにいるだけの気に入りの従者――というところでしょうかねぇ」
 勝手な断定を連ねていくハラキリの言葉はまるでティディアを挑発しているようでもあったが、それでも、彼女は反論できなかった。
 友達。ハラキリ・ジジ。彼には、揺ぎ無い確信がある。
「しかし近頃……というよりも、彼に直に触れ出してから徐々に、でしょうか。貴女は、どうやら本当にニトロ君自身に思慕を寄せていたようだ」
 組んだ腕をテーブルに突き、ハラキリは少し身を乗り出した。
「貴女が『天使』で暴走した時のことです」
 ハラキリの視線はティディアのタンブラーに落とされていた。先はウイスキートディで満たされていたガラス製品に、ティディアも視線を落とす。空っぽのタンブラーは、また何かで満たされることを待っているようにそこにある。
「あの日、拙者はお姫さんに色々と驚かされました。暴走してしまったこと、ニトロ君並あるいはそれ以上に『天使』と相性が良過ぎたこと……そんなことがどうでよくなるくらいに驚かされたんです。何しろ『天使』で暴走したお姫さんを突き動かしていた目的が、差し当たって最もやりたい・やらねばと貴女が心に秘めていたことが、『ニトロ君に抱かれ、愛されること』――それだったんですからね」
 ティディアははたと視線をハラキリに戻した。その顔には訝しみの影がある。ハラキリが何故そんなことで驚いたのか、今度こそ全く理解できないといった様子だった。
 そんなことは当たり前じゃないか――そう言っているようだった。
 ティディアのその姿に、ハラキリは微笑みを浮かべずにはいられなかった。彼は彼女に問いかけるようにして言った。
「貴女を突き動かす目的が『ニトロ君に愛されること』だったんですよ? お姫さん。ニトロ君と『漫才をすること』ではなく。夫婦漫才をしたい、そんな阿呆な夢を叶えるために目をつけ、わざわざあんな『映画』まで用意してご自身の傍に引き込んだ男を前にして、貴女が彼に関わった原点ともいえるその動機は、『天使』のために暴走した……言わば最も本心を曝け出している貴女の口からは一言も現れなかった。それどころか貴女はニトロ君にこう言ったそうです。
 ――『夫婦になること思い出した
 本当に驚きました。貴女のことを嫌いだった時は、この女は一生真の意味で心を開き信を預けられる人間を得ることは絶対にないだろうと確信していたのに。それを見事に覆されてしまって、本当に……驚きました」
 かたりと音が鳴った。何かとハラキリが目をやれば、ヴィタが身じろぎをしたために生まれた音だった。
 その音は実に小さい音ではあったが、この場においては雷鳴よりも大きい。音を生んだヴィタの顔にも、あからさまに失態を悔いる表情が浮かんでいる。
 だが、ティディアは、微動だにせずハラキリを見つめ続けていた。シャンデリアの光を受けて輝く瞳には、今は理解の色がある。彼女もハラキリが何を言いたいのかを理解し、かつ、その重大性に気づいているようだ。
 ハラキリはティディアの眼差しに促されるように、続けた。一瞬、己の考えをまとめる手伝いになったテレビ局の楽屋でのヴィタ――現在王女の最も近くにいる者――との議論をセリフに加えようかと考えたが、いや、それをして彼女にまで累を及ぼす必要はないとすぐに頭から切り離し、
「極論を言えば、相性が合い、ニトロ君のツッコミと同系統で、言い回しも同質であれば誰だって良かったはずです。貴女が欲しかったのは夫婦漫才の『相方』だ。夫婦であることは手段。目的じゃあない。
 しかし今、貴女が欲しいのは『夫婦漫才をしてくれる夫』だと確信しています。あなたとそれをすることができる夫。果てさて、手段と目的がすり替わったのか。それとも手段が目的を上回ったのか。ねえ? お姫さん。ニトロ君でなければ、もうどうしても嫌なのでしょう?」
 ティディアは答えない。
 ハラキリはティディアと目を合わせたまま、組んでいた腕を解き、右手をひらりと振った。その瞬間、かすかにティディアのまつげが揺れた。
「怖くて試せませんけどね? もし貴女が色仕掛けの一環で首尾良くニトロ君を手篭めにできたとして……ついにニトロ君も諦めて、貴女のなすがままになっていたとして。その時貴女は、最後までニトロ君を犯しきれるでしょうか」
 ティディアは、答えない。
 ハラキリは続けた。深刻な話をしているはずなのに、決して眉間に皺を寄せず肩肘も張らず、世間話をするように。
「拙者の予想はこうです。
 貴女は、最後に怯える。
 そして逃げ出す」
 グラスの中、球状の氷はゆっくりと溶け、火に触れれば燃え上がる蒸留酒スピリッツを冷やしながらゆっくりと薄めていく。
「『魔女』は、繰り返しニトロ君にこう言っていました。
 『愛して』。
 それは強要にも聞こえますが、一方で懇願にも聞こえる。そうそう、『エッチして』とも『愛されたい』とも言っていましたね」
 ハラキリは、微笑みながら遠慮会釈もなく言いのけ続ける己を睨むように――いや、睨んでいるティディアから一度目を逸らし、一呼吸をおいた後、また彼女を見据えた。
「『手篭めにする』というのは意中の人を落とす手段としては決して適切なものではありません。強引過ぎるし、実際、犯罪です。それは貴女も重々承知のはず。それでも貴女がそれを選ぶのは、ただその過程でニトロ君が色に負け、あくまでニトロ君から貴女に入れるよう誘導するためでしょう? ニトロ君が『魔女あなた』に見せられた『幻覚』は、まさにその通りだった」
 何も言わぬティディアの頬の奥が、強張っていた。歯を噛み締めているらしい。
「お姫さんはあの時、貴女も知らない心を拙者に見せてくれていました。
 貴女は、完全にキレて暴走する前、必死に自分を抑えていたんですよ? ニトロ君を力ずくでは手に入れられないことをちゃんと知っていて、それをすれば自分の夢が壊れることもちゃんと理解していたから――だからこそ、そうしてしまうことに怯えて、あなたの最も深いところにある、ニトロ君と結ばれたいという……」
 ハラキリは一度口をつぐんだ。懸命に言葉を選び、そして言う。
「懐に忍ばせた剥き出しの剣のような真心を押し止めようと、自分を懸命に抑えていた。抜きどころを間違えればニトロ君を間違いなく傷つけ、あるいは殺してしまう剣――そのくせ懐に隠し続けていれば貴女の胸をも少しずつ傷つけかねない本心。その剣のような願望と、しかし片方ではもう一つの貴女の本心であるニトロ君を傷つけまいという理性との間で壮絶な葛藤を繰り広げ、戦い、彼を貴女自身から必死に守っていた。
 心の底から感服しました。貴女の理性がついに力尽き、完全暴走した時にそのことを確認して。あの『天使』の衝動を一時的・部分的にでも押さえ込むなど、ニトロ君だけでなく、これまであれを使った誰にも出来なかったことです。一体、ニトロ君に愛されたい貴女はどれほどの想いで『ニトロに愛されたい』という衝動を押さえ込んでいたのか――と」
 ハラキリは、しばしティディアと睨み合うように見つめ合った後、これまで語っていたことをリセットするかのように声を明るめ、
「まあ実際、最後の方は洒落になってませんでしたけどね。言ってることは同じでもその行動はまさしく暴君そのもの、自分の思い通りにやって、思い通りにならないのがおかしいという我儘なお子様……最初から完全暴走されていたらと思うと今でもゾッとしますよ。いや、それにしても本当にニトロ君がさらに強くて助かった」
 ティディアは、何も応えない。
 ハラキリは目をヒズロゥの瓶に向け、瓶の首を掴むとグラスに傾けた。無色透明の酒が流れ落ち、氷を伝いグラスの底に溜まる。彼は乾いていた唇を酒で湿らせ、目を落としたままため息混じりに言った。
「……貴女は、どんなことでも見事にこなせるというのに…………ことニトロ君のことになるとてんで駄目ですね。これまでの件を思い返せば全て裏目裏目、愛を囁いてみても誘惑を繰り返してみても無意味に終わり、ある意味では貴女自身が育てた強敵を攻略できなくなって楽しみながらもひどく身悶えている。『赤と青の魔女』の件はイレギュラーとしても、シゼモの一件はあまりに無様。比類なき才女、歴史上最も美しい姫君、他の誰にどう賛美されようが……驚くほど不器用で、愚かだ」
「男って、ちょっと駄目なくらいの女が好きってよく言うわね」
 ようやく、ティディアが口を開いた。
 ハラキリは目を上げた。
「よく、そう聞きますね」
「もしそれが本当だったとして、私がそれでニトロに好かれないのはどうしてかしら」
 その様子にはハラキリが久々に見る――『赤と青の魔女』の暴挙について彼女が泣きそうになりながらニトロに謝った時に初めて見せたものと同種の――ティディアの弱さがあった。
 ハラキリは微笑し、
「さあ? ですが、少なくとも今、拙者は貴女に好感を抱きましたよ」
「あら、それは告白? 駄目よ。私はニトロだけ」
「いやいや、好感度が上がったところで何も貴女に恋心を持ったわけじゃありませんて」
 急に気を取り直したようにティディアに軽口を叩かれて、ハラキリは微笑を苦笑に変えた。しかしすぐに口元を引き結び、
「お姫さん。拙者がこんな話をしようと決めた理由の根源は、そこにあるんです」
「どこ? ……ってとぼけたいところだけど。
 不器用で、愚か――ってところね?」
「ええ」
 ハラキリはうなずいた。
 ティディアはハラキリの顔に初めて現れた表情から彼の感情を読み取り、
「それが……何か心配なの?」
「心配ですよ。貴女が今後、暴君となる可能性が唯一つ、そこに残されているんですから」
「……聞くわ」
「拙者は、貴女が今後、面白さを求めて暴君になる可能性はないと思います。しかし、貴女が貴女ご自身を制御できなくなった場合は、その限りではないとも思っています。貴女の中で『何か』が狂い、それがやがて貴女の思考や勘を狂わせていき、様々なことを思う通りにうまく進められなくなり、そうしてなまじ貴女が才気溢れるがために、貴女がなまじ才気溢れる頃の自身を知っているがために『こんなはずじゃない』とパニックに陥ってしまうようなことがあれば。貴女は我を忘れて暴君となり、破滅という安息に逃げ込もうとするかもしれない」
「それは、」
 ティディアは堪らず苦く笑った。
「さっきのものと比べて随分面白くない妄想ね。しかも誇大妄想じみてない?」
「そうですか? 拙者は先よりずっと現実的だと思っていますけど」
「何故」
「これまでの……ニトロ君と出会うまでの貴女は強かった。一人で完結した、確かに最高の芸術品だったかもしれません。しかし今は違う。ニトロ君は、貴女を弱くした。貴女はもう『一人』ではない。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの心には、ニトロ・ポルカトという人間が今や致命的なまでに食い込んでいる」
 ティディアはフライドポテトを取り、それを口に放り込むと咀嚼しながら、
「つまり、ハラキリ君は、不器用で愚かな私がニトロを失って『何か』を狂わせることを恐れている――と」
 ハラキリはうなずいた。
「それは幾らなんでも私のことを見くびっていないかしら。たかだか一人の男との失恋でそこまで気を衰えさせるほど、私は弱くないわよ」
「そうですね。たかだか――で形容できる男性とであれば、そうでしょうね。しかし、言い切れますか? お姫さん。貴女にとってニトロ君は、たかだか一人の男だと。先ほど貴女は否定しなかった。『ニトロ君でなければもうどうしても嫌なのでしょう』と問いかけた時、否定をしようともしなかった」
「しなかった。でも、それだけのことじゃない? スライレンドで魔女わたしがハラキリ君がどう解釈する言葉を言っていたとしても、それだって、それだけのことじゃないかしら」
「いいえ、ニトロ君は貴女にとって、あまりにも特別過ぎる。彼以上に貴女と相性がいい男はいないでしょう。彼よりも貴女に見合う男もいないでしょう。いや、そんなことも、クレイジー・プリンセスに対抗できるとかティディア姫を輝かせるとか、そういう重要なことすらももはや瑣末なことだ。
 ニトロ君は、あらゆる意味で貴女にとっての比類なき『本物』になっている。
 貴女を本当の意味で抱き締められる、傍若無人で賢く慈悲を知り善くも悪くもある希代の王女をまるで演じてでもいるかのように本心を誰にも悟らせない貴女から、『本物』の心を向けられる唯一の存在に。それを、それだけ、と切り捨てることは決してできません」
「それは思い込みじゃない? ハラキリ君は、君のお気に入りのニトロ・ポルカトを過大評価して、そう思い込んでいるんじゃない? それとも、君が今言ったそのことにまで、決して思い込みではないと言い切れる確証や証拠があるのかしら」
「……思い込みですか」
 語気強く、微かな嘲りも混ぜ込んで言い返してきたティディアの言葉。それを噛み締めるようにつぶやいたハラキリは、噛み締めたものを吐き出すように大きくため息をついた。
「そうですね、そうかもしれません。
 ですが……これは友達の意見として言いますが」
 ハラキリは最後のフライドポテトを取ったティディアがそれを食べ終わるのを待ち、言った。
「貴女はきっと、貴女が思う以上にニトロ君を愛している」
「――」
 ティディアは瞠目した。息が詰まり、苦しく、一時の間、胸も横隔膜も麻痺して動かず、彼女は呼吸を取り戻すことができなかった。
 驚きのあまり唇が震える。
 ハラキリのその言葉は、自分がニトロに、シゼモの温泉で告げたものと酷似していた。
 ――『きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きなのよ』
 偶然の一致だろうか。
 ニトロに告げたその大切な言葉。
 それとも、もしやニトロがあの大切な言葉をハラキリにしゃべったのだろうか。
 ……ありえない話ではない。自分としては、できればあれは秘め事として他人には語って欲しくなかったし、ニトロもああいうことをぺらぺらしゃべるような人間ではないと思っている。が、あの秘め事の後、私は彼を怒らせた。ひどく、怒らせてしまった。その怒りに任せて、彼が親友に愚痴を吐き出した際、あの言葉も一緒に教えてしまったとしても不思議はないし、それは仕方のないことだろう。
 いや……そんなこと、この際どうでもいい。
 それよりも重大なことがあった。
 何より他のどんなことよりもティディアに衝撃を与えていたのは、ハラキリの言葉をきっかけにして、ニトロにあの告白をしたその時、己の胸に溢れていた、己しか知らない、自分でも驚くほどニトロにキスをしたいと思った気持ちが蘇り――それが、彼女に己自身への否定を許さないでいたことだった。
 そう。
 友達のその言葉を、私が否定してはならない
「とはいえ、まあ、たかだか一人の男との失恋……と貴女は言いましたが、それが『失恋』なら構わないんですけどね」
 一体、何のためだろうか! 急にハラキリに彼自らの発言を翻すようなことを言われ、ティディアはすぐには対応できずにまごついた。
「……矛盾しているわね」
 ややあって、ティディアはようやっとそう言った。
 しかし彼女とは対照的に、ハラキリは打てば響くというように応える。
「ええ。ですが、明確な『失恋』と、そうでない『失恋』の差は大きいと思います」
 ハラキリは……ティディアの動揺に気づいていた。
 だが、そこにはあえて嘴を入れず、間を取るために残っていたミートパイを取り上げ平らげる。プランクトン由来のたんぱく質から造られた調整肉アジャストミートの気の抜けた美味さを酒で流して、彼は肩をすくめた。
「シゼモでの一件は、心の底から大いに呆れさせていただきました。そして同時に心の底から驚愕しました。あの『事件』の直前、貴女と電話をしていた時にはまさかあんな展開を見せるとは思ってもいませんでしたし、それこそありえないと思っていましたから。唯一あのような結果を招く筋書きが考えられるのは、千載一遇の好機と勘違いした貴女が我を忘れて――どんな阿呆なことをやっていても実は理性的な、ニトロ君の言葉を借りればどんな状況でも『いちいち確信犯』である貴女がよもや素で我を忘れて! と、いうことですが……どうでしょう。正直、そんな拙者の誇大妄想に満ちた心配を先取りしたような過失が起こっていたなどとは、考えたくはないのですが」
「…………」
「……まあ、いいです。しかし、あれはよくない。いくらニトロ君が寛大だとて明らかに限度を超えている。分かっているでしょうが、あんなことをしていたら、貴女はいつか必ずニトロ君に見捨てられます」
 持って回った――あるいはティディアにその心構えをさせようとしていたのか――ハラキリのその一言は、ティディアの魂に冷水を流し込んだ。
「厳しい王女として、多くの人間を見捨ててきた貴女のことだ。その意味はよく解っているでしょう?」
 ティディアは、緩慢にうなずいた。緩慢にうなずくことしかできなかった。
 ニトロに見捨てられる。
 それを、ニトロの無二の親友であるハラキリに保証された恐怖!
「本心をぶつけ合っての失恋なら、いつか思い出として語ることもできましょう」
 ハラキリはティディアの顔が青褪めたのを見て、視線を手元に落とした。彼女は自分がどんな顔をしているか、きっと知らない。あまりまじまじと見てやらない方がいいと、そう思った。
「そうすれば貴女に深く食い込んだニトロ・ポルカトという存在は、例えそれを失っても、時を経ればティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの生きた歴史として貴女の心を強くもしましょう。
 しかし、もし貴女が本当の真心をぶつけて敗れたのではなく、ただ見捨てられる形でニトロ・ポルカトを失ったとしたら……そこに残るのは絶望的な空虚、そして喪失感だけです。
 精緻な心の部品を狂わせるには十分過ぎる、破滅的な喪失感。
 本来彼に問うはずだった愛情は行き場を喪い、当然貴女の心の中に居場所もなく、存在意義を無くしながらも何処にもいけずにその空虚の中で放心し続ける」
 ハラキリは、トン、と人差し指でテーブルを突いた。
「……決着のつけられない想念ほど人の心を蝕むモノはない、拙者はそう思います」
 彼の指先は、決着のつけられない想念のために心を病んだ男が献身的な妻と晩年を過ごしたこの城を差し示している。
 ――ティディアは何も言えずにいた。
 彼女は、ただただハラキリを見つめていた。
「お姫さんにお聞きします。誰にも代えられぬ男性が貴女の相手をしてくれている頃を知るクレイジー・プリンセスが、何者にも代えられぬニトロ君に見捨てられた後、果たして『こんなはずじゃない』と静かなパニックに陥らない保証はありますでしょうか。パニックとまでいかなくとも、喪った『恋人』を想い、焦がれ、彼がどうしても貴女と関わらざるをえない状況を……彼にまた相手にされたいと、例えばあの『映画』のように、暴君となった貴女を打倒するため、貴女に対抗できる唯一の人間が必ず担ぎ出される状況を整える可能性は決してないと、貴女こそそう言い切ることができるでしょうか」
 沈黙が、訪れた。
 一分、二分、五分、、、十分、、、、、、長い、長い沈黙だった。
 テーブルを挟んで対峙する二人はその間わずかなりとも身動きせず、どちらかが口を開くのを待っていた。
 重苦しい静寂。それともそれを破れば何かとんでもないことが起こりそうな緊張。
 ――やがて、
 先に口を開いたのは、ティディアだった。
「結論としては、だから二度とシゼモのような失敗をするな、ってことね?」
「端的に言えばそうなりますね」
「それなら、それだけ言ってくれれば良かったじゃない」
「端的に上っ面をなぞっただけの一言で釘を打てるほどお姫さんは簡単な相手ではありませんよ。それにこの釘には貴女の『自覚』が必要だ。彼に向ける感情をはっきり自覚しているのと自覚していないのとでは大きく意味が違う。例えどれほどニトロ君のことで心を奪われる時があったとしても、無自覚に心奪われては困惑し戸惑い正常な判断をできなくなりましょうが、自覚した上で奪われるのであれば余裕もありましょう。余裕さえあればこそ、それをとっかかりにお姫さんの正常を保つこの釘はきっちり働いてくれる」
「釘か……」
 ティディアは最後の最後までそれを丹念に打ち込んできたハラキリから、一度目を逸らした。
「とても太い釘ね。それに、とても深くて抜けそうにない」
 ため息をつき脱力したように肩を落として、彼女は続けた。
「これまで面白くない予測を示した報告を色々受けてきたけれど……ハラキリ君の忠告は、その中でも最も面白くない『報告』だわ」
 そう言って、ティディアは微笑みを浮かべた。
 蠱惑の笑み、人心を掴む美しい王女の微笑――いや、そこにあるのは、一人の女性の微笑みだった。
 ハラキリは真剣な眼差しで彼女の言葉を受け止めた後、同じように微笑した。飄々とした風情の中に、感嘆――それとも同情だろうか、奇妙な感情が宿っている。
 その顔を見たティディアは、ぽつりとつぶやくように言った。
「もしかしたら私、こんなにも『私』に近づいてくれたハラキリ君を好きになっていればよかったのかもしれないわね」
 ティディアが頼りなくこぼしたセリフの陰に隠された意味を受け取ったハラキリは、しかしいつものように飄々と応えた。
「いやいや、お姫さんのことを最も理解しているのは何だかんだ言ってもやはりニトロ君ですよ。それに、拙者じゃ駄目です。ニトロ君のように貴女のご期待には添えませんでしょうし、何より荷が勝ち過ぎる」
 グラスを手に持ちカラカラと振って言う友達を見て、ふと、ティディアは渋面を作った。
「あれ? もしかして……今、私はハラキリ君にフられちゃった?」
「……」
 ハラキリは酒を飲みつつ思案し、
「おお」
 と、手を打つ代わりにうなった。
「そうですね。拙者は貴女をフったようです」
 ティディアは渋面を崩し、情けないとばかりに眉を垂れた。
「……ニトロにもフられてばっかりだし……私、そんなに魅力がないのかしら」
「とても魅力的な女性だと思いますよ。ただ単に拙者にとっては対象外なだけです」
「それも何だか失敬極まりない気がするんだけどな」
「そうですか?」
「そうよぅ」
 実に大したことではないとばかりに軽く流され、口を尖らせてティディアはすねてみせた。
 考えてみれば、今夜は初めからハラキリにペースを握られている。突然の訪問、直属兵の制服に、その下から現れた『漫才コンビ』のTシャツ、スライレンドを思い起こさせる――その理由は、先ほど嫌と言うほど味わわされた――ウイスキートディ。
 小さな戸惑い。わずかな心の揺れを増幅されて、彼しか知り得なかった私の正体を突きつけられ、有効な言葉を返せないでい続けている。
(……そういえば)
 ふいに、ティディアは思い出した。
「そうだ、まだ三つ目の『理由』を聞いていないわ」
 ちょっと湿気たポップコーンをつまんでいたハラキリが、お? と目を上げた。
「……三つ目ですか」
「そう」
 ティディアはいい加減話せと言わんばかりに力強くうなずく。
 するとハラキリは、少し照れ臭そうに顔を歪めた。
「……お姫さん」
「……何?」
 珍しいハラキリの様子に、ティディアは思わず慎重に返事をした。
「『魔女』は、拙者に一つ、嬉しいことを言ってくれました」
 ティディアはうなずく。自分が意識と呼べるものを失っていた時、ある意味で、本音だけで動いていた時、彼に何を言ったのか。
「貴女は、拙者のことを『友達』と、そう呼んでくれたんですよ」
「……え? それだけ?」
「ええ」
 ティディアは拍子抜けした。だが、ハラキリは本当に嬉しそうに笑っている。だから、興味を覚えた。
「そんなに嬉しいことかしら」
 好奇心をくすぐられた猫のような眼で、ティディアは問う。
 その彼女の無邪気な反応を見るハラキリは、ニトロに『トレーニング』の指導をするようになって少し経った頃……『トレイの狂戦士』が現れる直前くらいだったか、ジムから帰る道すがら、話の流れの中でニトロが何気なく言っていたことを思い出していた。
 ――『あいつはヴィタさん相手にも心を開いていない。友達っていうより、同志……間違いなく同志なんだけど、あくまで同志なのかな。それとも仕事仲間なのか……どこか距離を置いている。ヴィタさんにすらそうなんだから、ひょっとしたらあいつには友達って思える人間がいないんじゃないのかな』
 正確には、魔女が言ったセリフは――『ハラキリンはたった一人のお友達』。
 だが、ここでそれをそのまま言っては王女の同志たる執事に、同志なのに友人関係にはならないヴィタに対して何だか自慢しているような感じがする。
 それに、どうせティディアは魔女がその時どのような文脈で発言したのかを後々知ることになるのだ。その時、彼女は、今こちらがどのような真意を持っていたか、その全貌を察してくれるだろう。
 そう考え、ハラキリは語る言葉を端折りながら、しかしだからこそ余計に強く感情を込めて言った。
「そりゃあ嬉しい。お姫さんは、断言してくれたんですよ? 拙者のことを『友達』だと。ニトロ君を通して貴女と付き合う内に、拙者は嫌いだった貴女のこともいつしか友達だと思うようになっていました。ですが、それはこちらが一方的にそう思っているだけ、かもしれない。そこに貴女は言ってくれたんです。『友達』だと。心隠さずに」
 同じことを繰り返し言い、繰り返す度に熱を増してハラキリは言う。
 それをティディアは不思議な気持ちで眺めていた。
 彼が、こんなにも感情を隠さず、それどころか情感を努めて伝えようとしているかのように語るのは初めてだ。
 耳を通して体の内に入ってくるその声に、やけに、心が揺さぶられる。
「嘘も偽りも言わぬ中、貴女は言ってくれたんです、『友達』だと。
 拙者は貴女を友達だと思っていた。そして、貴女もそう思ってくれていた。
 確かにこれはそれだけのことです。それ以上の意義もありませんし、ありえないでしょう。しかし、これはね、お姫さん。この『それだけのこと』は、おそらく、貴女がニトロ君に『愛している』と言われることと同じくらいに、拙者にとっては嬉しいことだったんですよ」
 ティディアは……迷いなくそこまで言い切るハラキリの言葉を、とても嬉しいと思っていた。
 思っていたが……なのに、いまいち、どういうわけか――それを実感できずにもいた。
 おかしな己の心境に疑念を向けながら、彼女はむしろ自分に問いかけるように、ハラキリに言った。
「ハラキリ君にとって、友達、って、そんなにも重要なものなのね」
「ええ。友達にはそれまで持っていた価値観を大きく変えさせられましたからね。友情に関してもそうですが……こう、人生の価値観とでもいうものまで」
「人生の価値観とはまた随分大きいわね。友達がいると人生が楽しいものだ、それだけじゃないってこと?」
「いや……何と言えばいいですかねぇ」
 ハラキリはうつむき、一つうなってから、言った。
「拙者は、死ぬのは怖くありません。こう言うと人として大事な部分が麻痺しているのか、ただそういう格好付けで言っていると思われるかも知れませんが、事実そうでしてね」
 ティディアは、ハラキリがそう感じているのは言葉通りに真実だろうと思った。彼は自分のことを客観的に捉え過ぎているところがあるし、あの『映画』でも常に決死とか、例え戦闘用アンドロイドを前にしても――いくら訓練しているとはいえ少しでもミスをすれば即座に殺されてしまうのに――死ぬ覚悟を感じさせなかった……言ってしまえば自分が死ぬことを他人事のように覚悟していた態度を思えば、彼の言葉が何の飾りもないものだと理解できる。
「しかし、どう死ぬかというのはちょっと問題でしてねぇ。
 例えば国のためというのは拙者には大仰過ぎる。主君のためというのは似合わない。寿命を真っ当というのはどうもできないような気もしますし、真っ当ではないこともしてきましたから、それもどうかなと疑問に思う。それなら放浪の果てに野垂れ死にというのが格好の付く死に様かなと思っていましたが……今になって思うのは、もし友達のために死ぬということがあれば、それが何より満足いく死に方かもしれません」
「くだらない」
 ハラキリが言い終えた瞬間、ティディアは自分でも驚くほど怒りを込めてそう言っていた。
「賛同なんかできないわね。もしハラキリ君の死が『自分のためだった』なんて知ったら、その友達はどう感じると思う?」
 ティディアは、自分の口がハラキリを、自分が意図する以上に強く責めていることを自覚していた。……こんなにも己の心と体を律せないことは初めて――違う、二度目、だった。
 ハラキリは笑っている。
 彼自身、そのように責められるのが当然の価値観だと、そう思っているのかもしれない。
「ま、例え話ですよ。例えるなら、それだけ拙者にとってニトロ君の登場は人生の締めを飾る死生観をも変えてしまうほどのインパクトだった、ということです。『友達』だけではなく『友達という概念』自体まで、ハラキリ・ジジという人間を構成する上でなくてはならない重要な価値観に変えてしまうまでに。……お陰で、その分、軽々しく友達を作ることは今後金輪際できそうにありませんけどね」
 ハラキリはおかしそうに笑って言う。
 ティディアは肩を揺らす彼を、どこか傍観するように眺めていた。
 ハラキリが自身の死生観を例え話に落とし込んでも、その彼自身が『例え話』とは微塵も考えていないことは明白だった。
 私はそれしきのことも判らぬほど不器用で愚かな人間ではない。
 そんな――彼の友達として――この上なくふざけたものでしかない死生観など捨てさせたいし、そうさせねばならないとも……そう思うのに……
 なぜだろう、言葉が出ない。
「まあ、そういうわけで、拙者はニトロ君の友達として、彼が貴女の毒牙にかからないよう助力してきたのと同様に、拙者はお姫さんの友達として、貴女が彼を無意味に失い傷つき……最悪の『妄想』に陥らないでくれれば、と願っているわけです。そのためにできることはしておこうと思った、それが最後の理由ですよ」
 ティディアは少し口を速めて言うハラキリを、ただ、眺め続けていた。
「……さてと、これくらいですかね。拙者の話は」
「――え?」
 我知らずぼうっとしていた。ティディアはハラキリの話題の切り上げに思わず疑念を口にした。辛うじて素っ頓狂な声にならなくて良かったと安堵する。
「もう語れるものはありませんよ。ダベりならまだまだできますが、流石にこれ以上はご迷惑でしょう」
 ハラキリは手に持ったグラスを、溶けていびつな丸い氷を見つめながら揺らしている。
「……これからはニトロ君に対する行動を改めろ、とは言いません。愛せ愛せと強いて人の愛を得ることが道理でないように、こう愛せと強いるのも筋の通らぬことですから。ですから、どうぞ貴女の思うように、楽しく、面白く、活き活きと、それこそ今まで通りにニトロ君を落としにかかってください。無理をしたところでどうせニトロ君には不気味がられるだけですしね。
 ただし――さっき言ったことの繰り返しになりますが、どうぞ後悔だけはなきよう。うまくいくならそれでよし。駄目ならちゃんとフられて下さい」
「フられる? フるんじゃなくて?」
 せめてもの反論をティディアは口にした。それがどんなに意味のない返しだと理解していても、つい、口に出た。
「貴女がニトロ君をフれるなら、すぐにそうしてやってください。彼はとても喜ぶ」
 思った通りに反論はさらりと、かつ意地悪に潰された。
 ティディアはぼんやりと思った。
 ――ハラキリは、自覚していないだろう。
 このような形でこれほどティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナをやりこめた人間は、ニトロ・ポルカトではなく、彼が初めてだということを。
 ハラキリは、凝りをほぐすように伸びをしている。その顔には清々しさすらあった。
 その様子をじっとティディアが見つめていると、彼女の視線に気づいたハラキリは爽快な疲労感の滲む笑みを浮かべ、
「いやー……不慣れなものでしっかり話をまとめられるか不安でしたが、どうやら拙者は拙者の役目を果たせたようですね。ホッとしました」
「役目を果たせた?」
 看過できぬハラキリの言葉を確かめるように口にし、ティディアは内心焦って彼に不安をぶつけた。
「それはもう君は関わらないということ?」
「いいえ、この点ではもう関われることがないというだけです。できれば貴女の胸の内に残るものの他は、この会話も全て忘れて欲しいくらいなんですけどね。拙者が人の恋愛に口を出すなど、いやいや恥ずかしい」
 さっきより照れ臭そうにして、ハラキリはグラスに残った酒を一気に飲み干した。
 ティディアは、彼の言葉に不思議な安堵感を覚えていた。不思議――そう、不思議でならない。自分の、この心境は、一体何なのだろうか。
 ハラキリは照れ隠しでもするようにそそくさと足元のアタッシュケースを取り上げている。そして彼はその中からメモリーカードケースを取り出すと、ポツリと何事かをつぶやきながら手元でいじり、それからティディアに差し出した。
「……これは?」
 差し出されたケースを見て、ティディアは訊ねた。
 するとケースに刻印されたメーカーのマークが光り、二度点滅した。ハラキリが差し出す直前にケースをいじっていたのは、どうやらこのためだったらしい。彼は新しい主の声がセキュリティ情報に上書きされたことに満足げにうなずき、
「『赤と青の魔女』の記録です。ニトロ君にはあの件の詳細をお姫さんに語らぬよう口止めされていますが……ここには貴女の心があります。それを貴女に還さぬというのはおかしなことですし、おそらく、拙者の言っていたことをご自分でも確認できるでしょう。暇が有り余って己の醜態を見る勇気がある時にでも覗いてみて下さい。ファイルのパスワードはケースを開けた際、上蓋の裏に一度きり現れます。ロックの解除手順もパスの一部になっていますので、間違いなく暗記して下さいね。ケースを開ける際の音声パスは『天使の贈り物』です」
 ティディアは素晴らしく的確なパスワードに思わず苦笑を浮かべ、飴色に輝くケースを彼の手から受け取った。
「一応言っておきますが、この記録はこちらで編集したものですのでご留意を。あの件についてはこの中にあることが全てではありません。お姫さんが正気であったと仮定して、あの場で貴女が知り得たこと以外の情報は抜いてあります。拙者が今日ここで語ったことはこの場にいる者しか知り得ないのに、お姫さんはニトロ君と拙者しか知り得ぬことを知る――というのは公平ではありませんからね」
「フェアな審判ね」
「面白い表現ですね。確かに、審判とでも言える立場ですかねぇ。観劇の特等席にはヴィタさんがいますが……観測の特等席には、拙者がいるようですので」
 ハラキリがヴィタを見ると、彼女は満面に――それも初めて見る――笑みを浮かべていた。その執事の全く予想していなかった反応にハラキリは戸惑いながらも笑みを返し、
「なら、審判さんは、これからは私とニトロの間でどう動いて、どう裁くつもりなのかしら」
 問いかけてきたティディアに、少し考えてから答えた。
「それはパワーバランスを見て、ですね。彼が貴女にとっての『本物』となったからにはそのバランスも微妙な平衡をみているでしょうが……それでも物的にも財力的にも、ついでに環境的にも有利なのは貴女です。ま、これまで通りバランス良く行ったり来たりと調子良くふらふらさせていただきますよ。それに、まさかこの一席だけで拙者の態度ががらりと変わったら、お姫さんも戸惑ってしまうでしょう?」
「……うん、それもそうね。それは嫌だわ」
 ティディアが笑ったのを見て、ハラキリも笑みを返して立ち上がった。
「それでは、この辺でお暇いたします。片付けは……申し訳ないですが、お願いできますか?」
「ええ、もちろん」
「ありがとうございます。それにしても、何だか最後は拙者ばかりが話してしまいましたね」
 ティディアは、首を振った。
「楽しかったわ。ご馳走様。それに、こっちこそ色々ありがとう」
「……お粗末さまです」
 ハラキリは小さく会釈をした。
「ヴィタ」
「はい」
 ティディアに命じられ、執事は素早く預かっていたハラキリの上着を手に取ると二人の下へ歩み寄ってきた。
「ハラキリ君を送って。その後は戻ってこなくていいわ、部屋で休みなさい」
「かしこまりました」
 ハラキリが上着を着るのを手伝っていたヴィタはティディアに返事をすると、自分のコートを取りに行った。
 ヴィタがコートを取ってくるのを待ち、ハラキリがドアに向かう。先に立つ女執事がドアを開け、優雅な立ち居振る舞いで客人が出て行くのを助ける。
 ――と、そこでハラキリが足を止めた。テーブルから見送りの眼差しを向けるティディアへ振り返り、
「では、おやすみなさい。ティディアさん」
 にこりと笑ったハラキリは――ティディアのことを初めてそう呼んだ。
 姫とも王女とも付けず『ティディアさん』と――『ニトロ君』と、そう親友を呼ぶ時と同じ響きで。
「  おやすみなさい」
 ティディアは目を丸くしたまま、搾り出すように言った。
「また、王都で」
「ええ、王都で」
 直属兵に化けたハラキリと、コートを着た執事が部屋を出て行く。
 ティディアはドアが静かに閉まるのを見届け、それから手の中のカードケースに目を落とした。
「……………………びっくりね」
 胸に――これまでに味わったことのない感情が去来していた。
 どういうわけか、ハラキリの友情を浴びてもどこか漠然としていたこの心……それが今……今更、今頃になって――底の奥底から驚きを感じていた。
 ティディアは、己の心が込められているというカードケースを愛しげに撫で、立ち上がるとクローゼットに向かい、その中に置いていた仕事用のバッグに大切にしまいこんだ。
 窓を見ると、雪が降り続けていた。
 窓に歩み寄り、開ける。遠くから祭りの喧騒が届いてくる。
 空には地上の光に照らされる厚い雪雲があり、月はやはり見られそうになかった。
 だが、それでいい。
 しんしんと降る冷たい雪が、心にはしんしんと温かく降り積もる。その温もりが少し、しんしんと、痛い。
「……」
 ティディアは、胸に溢れる感情を持て余すように窓を閉めた。
 テーブルに戻り、椅子に座り、ヒズロゥの瓶を手にすると残りを全てグラスに注ぐ。少し溢れ出てしまったが構わない。グラスを持ち、彼女はその半分を一気に飲み込んだ。
 冷たいのに熱い液体が喉を焼き、腹の内に落ちる。
 それを待っていたかのように、心がまた騒ぐ。
 吐き出した息は、ことさら熱く感じられた。
(……もしかしたら)
 ハラキリ君が強い酒を持ってきたのは、慣れぬ話をする勢いをつけるためだったのかな――と、ふとティディアは思った。
 それを確かめる術はないが、今の自分なら、それが正しいと確信できる。それが正しいと判る。何故なら、私は希代の王女ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナなのだから。
 無敵の……
 そう、無敵の、クレイジー・プリンセスなのだから。
 ハラキリの声が脳裡に蘇り、それをそのまま口にする。
「……ニトロ君は、貴女を弱くした――か」
 無敵のクレイジー・プリンセス・ティディアを。
 無敵ではなくした、ニトロ・ポルカト?
「…………貴女はきっと、貴女が思う以上にニトロ君を愛している」
 ティディアはグラスを置き、その縁を撫でながらつぶやいた。
 以前の自分。
 無敵であったティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナでは決して得られなかったであろう感動が、もはや胸などでは収まりきらず、体中を駆け巡り、全身を震わせている。
 ハラキリは、私に『友達』と言われて嬉しかったと言った。ニトロの友達であると同様に、私の友達であると言ってくれた。いや、それだけではない。けして心地良くはなかった彼の数々の言葉が……何故なのだろうか、今、例えようもなく優しく感じられてならない。
「……ニトロが私を弱くした……か」
 ティディアはついさっきまでそこにあった友達の顔を思い返した後、目を瞑り、いつだって克明に思い出せる愛しい少年の顔を瞼に浮かべた。
 愛する人は、少し怒った顔をしている。
 本気で怒ると誰よりも恐ろしく、そのくせ怒った後には、どれほど怒らせた相手にもお人好しの顔を覗かせるニトロ・ポルカト。
 私を悩ませる、悪い人。
 心を奪う、憎い人。
 ……ああ、そうか。ハラキリが友達への思いを語った時、彼に言うべき言葉を出せず、己の心と体をうまく律せなかった理由が、ようやっと分かった。
 ニトロへの想い。
 気づいていなかった――それとも気づきたくはなかったのか、そのあまりにも大きい想い。
 それをハラキリにはっきりと自覚させられたことで、動揺していたのだ。
 その上……そのあまりに大きなニトロへの情に知らぬ間に心を奪われ、そのために、その時既に他の情動を受け止められるだけの余裕が心から失われていたのだ。ハラキリに『貴女に友達と言われて嬉しかった』と言われたことを私も嬉しいと思いながら、無自覚の感情のために余裕がなく、この心は嬉しいという何の変哲もない感情ですら正常に処理できなくなってしまっていたのだ。
 そして、ともすれば単なる思い込みにしかならない断定と断言をつなげて作られていた友達の忠告に、その要所要所で反論することができなかった理由も今なら解る。
 ハラキリの忠告を支える論理の影には、常に『ニトロ・ポルカト』がいた。
 彼が紡いだものは『ニトロ・ポルカト』の存在を盾にした――悪く言えば人質に取った筋書きであり、だからこそ私は反論できず、また反論する言葉を見つけられもしなかったのだ。何故なら、“ハラキリの忠告に対する反論”は決してハラキリへの反論には成りえないのだから。皮肉なことに、それは己のニトロへの想いに反抗することに他ならないのだから……そんなことが、できるはずもない。
 また一つ自覚する。
 ニトロへの想い。
 それを否定することなど自分にはできない。
 できないからこそ、できないと理解し納得してしまうからこそ、そのためにまた自分がどれほどのニトロへの想いを抱いていたのか――それをどれほど自覚していなかったのか……痛切に思い知る。
 また一つ自覚する。
 その通りだ。彼がこの心にいる限り、私は無敵ではない。私は私の心に住まうニトロ・ポルカトに克つ術を持っていない。彼を追い出そうかと思うだけで、ああ、ことここに至れば心臓を千切らんとする痛みが走る。この弱点を攻められれば、私は、無力だ。
 また一つ自覚する。
 ハラキリ・ジジ。私のたった一人の友達、たった一人の私の親友。
 君は正しい。
 確かにニトロは私を弱くした。
 それなのに、なぜだろう!
「不思議なものね。それがこんなにも嬉しいなんて」
 ティディアは、いつしか顔をしかめていた。
 微笑むべきか、泣くべきか、それが判らぬように顔をしかめていた。
 ティディアは、しかしそのしかめられた顔に誰も見たことのない美しさを湛えて。
 ただ――
 幸せであった。

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