中凶:蛇足編

(『2016 中凶』の後)

 尻が痛かった。
 正確には尾てい骨が痛かった。
 詳細に言えば臀部の肉も痛かった。
 今は、痛み止めが効いているから痛くない。
 しかし、いくら痛みが止められていても患部に触れる行為は精神的に恐れが立つので可能な限り避けたい。
 椅子に座ることなく、テーブルに片手をついて、ニトロはホットミルクを飲んでいた。使用したのもカルシウム強化牛乳である。骨にヒビは入っていないと診断されているが、そういう気分である。
 難しい顔をしてカップを傾ける彼に、芍薬が言った。
「バカハ予定通リ、パーティーニ出テルヨ」
 あのティディアの奇襲、それに対するこちらの脊髄反射の結果、今晩の『漫才』の練習くんれんは中止となった。まあ、それは当然であるとして、確かにあのバカ姫は一昨日から今夜のパーティーのことを何度も口にしていた。「一緒に行きましょうよぅ」とかいうふざけた提案はもちろん却下しておいたのだが、そんなに楽しみにしていたのだろうか?
「あいつも結構なダメージだったはずだけどな……」
 無意識に繰り出した『スタナー』――プロレス技は総じて素人が行っては危険である。真似をしてはいけない。プロレスラー達も長年口を酸っぱくして言っている。ニトロもそう思う。それなのにティディアには(時にハラキリやヴィタにも)遠慮なく執行してしまえるのは何故だろう。自分の悪い癖、ツッコミの勢い……それ以上の理由はなさそうだ。が、他に理由を探すとすれば、ひょっとしたらこいつ(ら)には食らわせても色んな意味で大丈夫という特別な信頼を抱いているからだろうか――と、そこまで考えた瞬間、ニトロはゾッとして頭を振った。
「ドウシタンダイ?」
「いや」
 カップを置いて、ニトロは言う。
「今年は生中継されてるんだっけ?」
「御意」
 それはこの時期に毎年行われるパーティーである。大昔のこと、農民の収穫祭を羨んだ王族に連なる公爵様が貴族社会でも……と始めた由緒あるバカ騒ぎだ。正装・仮装・奇装も良し、概ね無礼講で恥を忘れよ。飲めや歌え、夜を通して語れや踊れ。以前は貴族達が贔屓の芸達者を引き連れ自慢し合っていたそうだが、現在は今年ブレイクした芸能人を中心に呼び集めることが恒例となっている。そのため毎年多数のメディアも集合していた。そういった変化に伴い当初は貴族だけの宴であったものが、今では王都の上流社会に顔が利けば誰でも入り込めるようになり、よってその気軽さから王家の人間が参加することは稀であるが、今年は第一王位継承者の参加が早いうちから噂されていた。
「映してくれる?」
「観ルノカイ?」
 少し驚いたように言いながら、芍薬は壁掛けのテレビモニターに灯を入れる。
 宴の変遷に伴い会場も大貴族の大邸宅から『ドロシーズサークル』にあるヘキサ・ドームが恒例となり――画面にシーンが切り出される――そのグラウンドは、まさに華々しく飾り立てられていた。がくの音が場を賑やかし、松明たいまつを模した照明の下に豪勢な酒盃と酒肴の並ぶ中、ニトロは観る、画面に映る酒気と陽気に浮かれる人々の間をゆっくりと進んでいく美々しい姫君の姿を。
 女性レポーターが甲高い声で何やらまくし立てていた。が、興奮しすぎているせいで何を言っているのか解らない。ただ、レースがどうとか、宇宙でも何だとか、そういったことを繰り返し述べていることは分かった。
 話題のレースに豊かに飾られた純白のドレスを纏う王女は歓声に応えて手を振っている。その手も純白の手袋に包まれていて、ドレスの袖は手首まで伸び、手袋との間に隙間はない。スカートの裾も足首までかかり、パンプスも白、彼女は全くの白ずくめだ。肩に流れる黒紫の髪がいつにも増して色濃く見える。
「――ええっと?」
 役に立たないレポーターの音声をオフにして、ざわめく会場の音をBGMに芍薬が言う。
「バカガ登場シテ、マズ、ドレスガオ披露目サレタ」
「うん」
「デ、ソノ『レース』ナンダケド――」
 そのドレスもレースも実際はフライングしてお披露目されていたわけではあるが……その現場では明らかにされなかった詳細に、ニトロは驚いた。
 巻きつくようにドレスを飾る、キラキラ輝くあのレース。それに用いられている繊維にはなんとブリリアントカットされた超極小のダイヤモンドが練り込まれているという。糸の幅に収まるサイズの宝石を加工するナノテクノロジーも驚異的だが、しかもダイヤモンド粒はいくつあるのか。さらに粒と粒をしっかり輝くよう繊維に練り込む技術、加えて耐久性も機能性も無視しているであろう繊維を用いて素晴らしいレースを編み上げる技術ときたら……。
 そう、それは、あくまで技術力を誇るためだけのオートクチュール。
 無数の銀河に一つの逸品――しかし現実的には価値のない一品。値段は付けられまい。
 ニトロは、ため息をついた。
「いや、本当、バカだあいつは」
「御意、大バカダヨ」
「本ッ当に頭がおかしい」
 そのドレスを着て無茶な“サプライズ”を仕掛けてきて、挙句『スタナー』を食らって悶えていたクレイジー・プリンセス。
 ニトロは今、心底思う。
 スタナーで良かったと。
 なにしろ他の技――『フライングメイヤー』なり『ブロックバスター』なり『ネックブリーカー・シフト・リバースDDT』なり、そういった技で地面に叩きつけられたらその貴重なレースがボロボロになることだってあり得たではないか。もちろん俺は弁償しないぞ、でも冷や汗がっ。
 震えた背筋を温めようとホットミルクを口にしたニトロは、眉根を寄せた。
「ゆっくり戻して」
 芍薬が映像を遡らせる。
「ストップ」
 スポットライトを浴びてゆっくり後ろ向きに歩いていた王女が止まる。微笑みを絶やさぬ顔は、一時停止をかけても完璧だった。
方眼グリッドを」
 その映像に被せて半透明の白線が格子を描く。
「4の7を拡大してくれる?」
 上から4、左から7の升目が拡大されると、濃緑のドレスを着た女性がクローズアップされた。ドレス……といっても、それはどうも苔したした衣を着ているような感じである。
 ニトロはその緑色の瞳の女性に見覚えがあった。
「やっぱり園長だ」
 王都立セリャンダ植物園のルクサネア女史。
 確かに彼女は王都に居する貴族で、だからこの宴会に来るのも不思議ではないが、それでもニトロには意外だった。彼女はまさに『蘚苔類マニア』といった人だ。上流社会の交流とか貴族らしい生活とか、特にこういった酒宴ばかさわぎには全く関心がなさそうだったのに……
「営業活動ダロウネ」
 ニトロが目を丸くしていると、画面の右下に芍薬があらわれた。三頭身にデフォルメされた姿、そしてモミジを散らしたユカタがニトロの目に入ると同時に画面が四分割される。左上にリアルタイムの映像――シルクハットにラベンダーを飾り、燕尾服に勲章をたっぷりつけた老人と話すティディアが映され、右上には拡大されたルクサネア・セリャンダ・ゼワネット。残る左下にはインターネット放送局のものらしい宴会場の“引き”の画が表示された。林立する照明たいまつの周囲はとても明るく、離れると薄明るい。揺らめく光に影が踊り、明と薄明のグラデーションの生む妖しい光の中にごった返す人々の衣装が目もあやな彩りをなしていて、その上には撮影用・警備用のドローンが無数に飛び交い、それらに混じって天使や悪魔に扮した者達が酒瓶を片手にふわふわと浮かんでいる景色は何とも酔狂である。芍薬はその画から地上にいる三人をピックアップして、自分のいる右下のスペースに引っ張ってくると、
「王都文化振興部部長。管轄区ノ教育長」
 映像を元に愛嬌のある木製人形に変化させた初老の男達を並べ、芍薬は口にした順にその肩を叩いてみせる。最後に残ったのは妙齢の婦人だった。
「デ、王都東教区副司祭ノ愛人」
「ぅごほ!」
 ホットミルクが変なところに入った。むせるニトロに芍薬が慌てて声をかける。
「大丈夫カイ!?」
「だ……大丈夫、大丈夫」
 ニトロは何度か咳をして、落ち着くと、朗らかな笑顔を浮かべる淑女の人形を見た。
「その、副司祭さんは――」
「顔ガ利クノサ」
「ああ、なるほど」
「……ソンナニ、秘密ッテホドジャナイヨ?」
 マスターの不興を買うような情報だったのかもしれないと思ったらしい芍薬が、どこかおずおずとして言う。
「関係者ノ間ジャ『公然ノ』ッテヤツナンダ」
「うん、いいよ」
 ニトロがうなずくと、芍薬はパッと顔を輝かせて後を続ける。
例ノ件デ来年度ノ予算マデハ確保デキタケド、ソレカラ先ハ不安定ダ。『王女』ニ厚遇ヲ受ケタコトガアルッテコトデチョットハ審議モ甘クナルカモシレナイケド、ソレニ安穏トハシテラレナイ」
「だから、今からしっかりか」
「コネクションハ維持スルコトガ大事ダカラネ」
「……でも、園長はそういうのも苦手っぽかったけどな」
 彼女には『件』の後に館内展示を案内してもらい、それからお茶を頂きながら話をした。そこで知ったのは園長が専門に関しては流暢に、それこそ笑える小ネタも挟んで話すのに、一端そこから外れると途端に口下手となることだ。そうなるとひたすら笑顔を浮かべて場を乗り切ろうとする――そんな時は彼女の祖父母が代わりに話を繋いでいた。
 ひょっとしたら運営に関わるからと“営業トーク”も巧いのかもしれないが。
「助手ガイルヨ」
 と、芍薬が右上の画面からルクサネア園長の後ろに立つ男女を自分のスペースに引っ張り込んだ。二十代前半の青年と、その一つか二つ下といった女性。どうやら弟と妹であるらしい。が、姉とはあまり似ていない。二人共に姉より背が高く、青年はどこか軽薄そうな面相をしていて、ともすれば信の置けない目つきをしているところ、それを明るい緑色の瞳が帳消しにしている。反対に女性はよどんでいるような暗い緑の瞳をしているが、けばけばしさ一歩手前の派手な顔造りといかにも気苦労のない目つきが悪印象を拭って垢抜けたさを彼女に与えていた。色も形も地味なパーティードレス姿の姉に対して弟は最近リメイクされたSFアクション映画の主人公ヒーローのコスプレ、妹は最新のモードに準じたイブニングドレス。
「難シイ話ハ姉ガ担当、軽妙ナ会話トーク弟妹テイマイノ担当。下ノ二人ハ植物園ニハ全ク興味ガナクテ、運営ニハ関ワラズ、経済的ニモビタ一文協力シテイナイケレド、貴族社会ハ大好キ。『セリャンダ・ゼワネット』ハ歴史ダケハアルカラ――」
 一般に貴族の格は権勢と家柄によって認められる。権勢はその時々の力に拠るが、家柄を定めるのは職務と血、そして時間だ。どちらが現実に優位を誇るかといえば前者だが、移ろいやすいそちらに比べて後者は主君にどのような仕事を任されているか、何代かの範囲で王族とつながりがあるか、あるいは祖先に伝説的な人物がいるか、それとも家が何百年も続いている等の事実を基にしているだけに堅実な証となり得る。
 あの植物園を作った『緑の王』に取り立てられたセリャンダ・ゼワネット家は既に四百年を数えていた。権勢もなく目立った血筋とも無縁であるため世に重んじられず、逆にその職務を軽視されてすらいるが、それでも貴族社会の中では一定の敬意を向けられる存在には違いない。そしてその敬意こそ、社交界において一部の人間が喉から手が出るほど欲しがる通行証ともなるものだ。
「色々ト好都合ナ立場ヲ守ルタメ、トハイエ、姉ノフォローハ進ンデシテルミタイダヨ。オ互イ相手ノ趣味モ人生観モ理解デキナイノニ不思議ト姉妹キョウダイ仲ハ良イラシイ。姉以外ノ家族ハ二人ノ態度ニ良イ顔ハシテナイケド、今ジャ諦メテ、モシヤ有力者ト玉ノ輿ナリ逆玉ナリガアルカモシレナイカラッテ放任シテル。モチロン、ソレモ頼レル『ルクサネアルーシー』アッテノコトダケドネ」
 ニトロは感心しきっていた。半ば目を丸くして、芍薬を見つめる。
「よくそんなに知ってるね」
 すると芍薬は胸を張り、ここぞとばかりにニッと笑った。
「コンナコトモアロウカト調ベテオイタノサ」
 ニトロも笑った。
 笑わされてしまった。
 考えてみれば――それがどんな形であれ――バカ姫との交渉を以てこちらと関わった相手である。もしやを用心すれば、その情報を収集しておくのは当然であろう。事実、弟妹が『貴族社会』にこだわりがあるのなら、そういった欲望を操ることに長けた魔女の手先になることも大いにあり得ることだ。
 マスターの笑顔に気を良くした芍薬は鼻歌を歌っているかのように体の周囲に音楽記号を躍らせている。
 パーティーの様子をリアルタイムで伝える左上の画面には、相変わらずティディアを中心に据えた映像が流れ続けている。
 陽気な音楽が奏でられていた。古典的な楽器の音、笛、太鼓、ギターにヴァイオリン、アコーディオンもあるだろうか、王女の到来に張り切る楽隊が会場の熱を高めようと腕によりをかけている。
 青い液体の揺れるカクテルグラスを手にしたティディアは元気一杯に指揮棒を振るう楽団長を何気なく見やっていた。王女に見られることで昂ぶる指揮棒はより一層激しく空を切る。そのためどうもテンポがずれているようにも感じるが、そこら辺は奏者が上手くカバーしているらしい。
「……」
 その頃、ニトロは、ティディアはドレスに失敗したのではないかと思い始めていた。
 確かにそれはとても高価なもので、技術的に比肩するものもないだろう。しかし改めてじっくり見てみるとレースの他には見所がないように思える。ドレスのデザインが凝っていればまだしも上半身はレースが縫い付けてあることを除けば極めてシンプル、肌に融け込んでいるかのように思えるほどタイトな造りだ。スカートも一見タイトであるが、こちらは彼女が足を踏み出すと蛇腹を開くようにすっと広がり、その際にはスカートを飾るレースも瞬間的に伸び縮みしているように錯覚させる。が、その視覚効果も見所と言うほどではない。しかもスカートは常に元の形に戻ろうとするから見た目には窮屈さを禁じ得ず、その窮屈さに辟易して、ならばレースのデザインの細部にまで注目しようと思っても今度は純白の生地に白のレースである、その差異で互いが引き立つわけもないし、どうやら引き立て合うようにも飾られていない。
 有体に言って面白味が無いのだ。
 これならむしろてらいのないドレスであった方がよほどましだっただろう。例え誰でも買える既製品を着ても彼女には他の誰にもない蠱惑の華がある。それならばその華だけでこそ皆は満足しただろう。しかし、色々と普通ではない姫君がこういうパーティーに着てくるものとして、それがどれほど貴重なレースを用いたものであろうともただそれだけでは何にもならない。半端な趣向は欲を刺激するだけ。満足をもたらすことは決してない。それどころか刺激されただけにかえって皆は渇望する、不満を募らせる、王女よ、貴重なだけのドレスならば他の誰かに任せてしまえばいい!
 ――その感情を画面の中に表す者はない。
 王女の周りにあるのは追従ついしょうの顔ばかり。
 なるほどそのレース飾りに完全に心を奪われているらしい女性の顔もある。
 それでもニトロには、その面々にすらやはりほのかな失望が透けて見えるような気がしてならなかった。王女から距離を置けば、例えば会場の隅や、テレビの視聴者の集うネットコミュニティではもっと露骨に気持ちが表されているのではないだろうか。
 ニトロは意の座りが悪くてならなかった。
(珍しく本当に失敗したのか、それとも)
 頭に天国錦鶏ヘブンリーフェザントを一羽丸ごと乗っけているような帽子を被る女性に一言二言返していたティディアが、ふと、誰かに目を止めた。
 その様子がやけに異様な感じでもあったから彼女の視線を皆が追う。
 カメラも追う。
 四分割された画面の一つが切り替わる。
 全ての眼差しが集まる先でビクリと震えたのは、誰あろう、ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットその人であった。
 矢のような無数の視線に射抜かれて彼女はその場で立ちすくむ。
 姉の後ろで『教育長』と話していた妹が異変に気づいて振り返り、教育長の細君を笑わせようとしていた兄の袖を慌てて引いた。
 そこへ王女が一直線に進んでいく。その進路上に入り込もうとしていた千鳥足の酔漢が驚き慌てて立ち止まろうとして失敗し、傍にいたこちらも足元よろめく酔婦を巻き込み悲鳴を上げて派手に倒れる。それらをひょいと飛び越し脇目も振らず王女は突進していく。
「おや」
 思わぬ展開である。ニトロは注視した。芍薬が邪魔にならないよう姿を消し、分割していた画面を統合し、その映像にモニターを占有させる。
 突然やってきた第一王位継承者を前にして、全く対応し切れぬ植物園園長の凍りついた顔がクローズアップされていた。
 芍薬はいくつかのチャンネルから最も良く状況の掴める映像を選別する。
 画面が切り替わり、すると半ば威圧的に立つ王女の前でセリャンダ・ゼワネット姉妹きょうだいが揃って目を剥いている姿が認められた。この反応は姉妹で似ているな――などとニトロが考えていると、最初に事態を飲みこんだ妹が挨拶をするために膝を曲げようとした、その瞬間ティディアがルクサネア・セリャンダ・ゼワネットの左手首をわしっと掴んだ、かと思えば何も言わずに楽隊の方角へと彼女をさらう。
 あっという間の全く訳が分からない状況にルクサネアは声もなく、しかし転んで王女に迷惑をかけてはならないと思ったのか彼女はつまずきながらも懸命に足を運んで途中で右左と交互に出すのを間違えて右右右とケンケンをしながらもどうにか次代の主君についていく。王女に挨拶しようと膝を軽く曲げた状態で取り残された妹と、どうやら「お」の形に口を開いたまま突っ立つ弟は、その姉の後ろ姿を未だに目を剥いたまま見送っていた。
 呆気に取られているのは何も弟妹だけではない。
 会場中の皆も何が起こっているのか、それとも何が起ころうとしているのか全く理解できず、楽団へ突撃するティディア姫と、彼女にほとんど引きずられている苔したような女を呆けたように見つめていた。
 と、その人々から声が上がった。
 カメラもその変化を捉える。
 ニトロも目をみはった。
 ふいに――まさに突如として、王女の着る純白であったはずのドレスが玉虫色に変わっていた。ドレスだけではない、手袋も同様に変色している。一方でレース飾りには一切の変化はなく、これまでと同じくダイヤの輝きに満ちた白色のままである。が、だからこそ、そのレースもまた目覚ましく変化していた。玉虫色の上できらめくその白さは格段に目に映える。さらに照明だけでなく地の色の反映をも受けることで、その煌きにはこれまでにない趣が生まれていた。
 何が契機となってそのような変化が起きたのかは解らない。
 光線の加減かもしれないし、この場に見えない女執事が特殊繊維に働きかける波長の光を主人に当てるよう工作しているのかもしれない。あるいは彼女がアルコールを摂取したからだろうか?
 何にしても、その変化は『クレイジー・プリンセス』に期待する者達を満足させていた。それまで焦らされていただけに、そこにはより大きな感動があった。
 王女の動作に応じてたえなる色彩は複雑に変幻する。
 一口に玉虫色と言ってもそれは実に多彩で、時に赤を、時に青を、はたまた黄や紫へと基調色ベースカラーをも変化させ、さらにその上に鮮やかなスペクトルを千変万化に揺らめかせる。
 なんとも不思議な色調であった。
 やがてそれを見る者達は星雲を思い出す。
 そう、その色を見つめていて自然と思い浮かんでくるのは、宇宙空間に広がる遠大にして神秘的なあの光陰。となれば輝くレース飾りはまるで網目をなす星屑の帯であろうか?……そうだ、星屑の帯、星雲! おお! 王女は宇宙を纏っておられる!――その認識によって存在感を増した姫君の姿態を、荘厳な美を、眠りから醒めたかのように理解した者達がハッと息を飲む。息を飲んでまた感動を大きくする。
 そうして人々の顔色が変わっていく様をニトロはじっと眺める。
「ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットニハ、一ツダケ専門外ノ趣味ガアル」
 と、芍薬が言ったことで、ニトロは思い出した。植物園で彼女の祖父母と話した折、ふとした弾みで出た話題。園長は――孫娘は早朝の苔庭を歌いながら見回ることが好きなのです。それを庭の隅でじっと聴くことが、祖父母わたし達の最大の悦びなのです。
 ティディアがルクサネアを連れていったのは、やはり歌壇だった。楽団の傍らにちょこんとある粗末な台で、しかしそれがこの浮かれた騒ぎに相応しいのだとばかりに腰を据えている。
 壇上にのぼせられたルクサネアは途方に暮れたように周囲を見回した。
 ティディアは楽団長に何やらひそひそと話しかけている。耳元に唇を寄せられた口髭の似合う団長は、緊張しながらも蕩けそうな顔をしてうなずいた。
 次にティディアは歌壇に戻ると、全身で救いと堪忍とを乞う女に何かを囁いた。
 植物園園長の目の色が、変わった。
 地味な苔色の衣を纏う婦人は、すっと背筋を伸ばした。
 ティディアが横目に合図をし、楽団長が指揮棒を振り上げる。
 前奏が流れる。
 ニトロはああとうなずいた。
 これはセリャンダ・ゼワネット家よりも古い歌。
 楽団長が歌壇に向けて指揮棒を振り、穏やかにルクサネアが歌い出す。
 彼女の声を――何と例えよう。
 春鳴き鳥の声、妖精の囁き、鈴の音、あるいは奏でられるハープの弦そのものが歌声となったかのように、それは美しく宴会場に響き渡っていく。
 酒気と陽気に満ちた会場が水を打ったようにしんと静まる。
 歌唱の技術は本職に劣れども、声の天分はそれを補って余りある。聞き惚れる。
 詞に紡がれるのは野の草花の名前。
 それは、レシピ。
 それは乙女がお伽噺に語られる恋の薬を作る歌。
 いつの間にか全体の照明が落とされ、歌壇に集められた光の粒子が声に震えていた。
 ニトロの瞼の裏にはいつか訪れた苔庭が浮かんでくる。
 確かに、早朝のあの庭で、どこからともなく聞こえてくるこの歌声を聴いて過ごせるというのは至福であろう。
 恋の薬の最後の材料は、乙女の涙。
 それに悲恋を予感するか、それとも喜びを予感するかは聴く者しだい。
 歌い手の唇は一体どちらを予感しながらつぐまれただろう。
 余韻が消える。
 ああ、消える。
 すると一拍の間を置いて、満場の拍手喝采が沸き起こった。
 テレビ越しにニトロも思わず手を打っていた。
 歌壇のルクサネアは、今度は歓声にどう応えればいいのか分からず顔を真っ赤にして佇んでいる。王女に何を吹き込まれたのかは知らないが――おそらく園の運営に関わることだとニトロは睨むが――歌い終わって我に返った時、彼女はとんでもないことをしてしまったと思ったらしい。とにかく何度も辞儀をして、やっと壇の傍にやってきた弟妹を見つけるや急いで逃げ込んでいく。弟妹はそのような姉を誇りながらも呆れたように出迎えて、それから彼女の代わりに周囲に笑顔を振りまいた。やがて弟に促されたルクサネアが、まだ真っ赤な顔をしたまま、目の前の貴婦人にやっとぎこちない笑顔を向ける。その貴婦人はラメの入った青い化粧によって文字通り真っ青な顔をしていて、アイシャドウはくすんだ金色、唇はビビッドな黄色、体にはコプアクアこくのドレス――巨大クラゲに胴体を突っ込んだような外観で、気泡の散るジェル状の肉厚な生地を通して向こう側が透けて見えるのに本人の体は全く見えない不思議なドレスを纏い、そうして例の副司祭の愛人を傍らに控えさせていた。
「この人は?」
 異星のメイクのせいで表情は掴みにくいが、非常に鷹揚な雰囲気を持つ女性だ。特にその面差しは鷹揚過ぎて妙な危なっかしさも感じる。
「キャリル・トルッポシオ夫人。曽祖父ガ“大老”デ、祖母ハ“ビネトス領主”夫人、母ハ有名投資家ノ妻、本人ハ資産家ト結婚。娯楽シカ知ラナイカラ娯楽ニダケ熱心ナコトデ知ラレテル。我侭放題ニ育ッタワリニ、至ッテ毒ノナイ『天使様』トモネ」
 ニトロはうなずき、となるとそこに見られる人物相関図に苦笑する。収穫祭
「何ていうか、狸と鴨が数え合ってる感じだね」
 コネも解るがもっと単純に楽しめばいいのに、と思ってしまうのは楽天すぎるだろうか? そんな自覚も込めた毒に芍薬は小さな笑い声を相槌として返してくる。
 名も無き歌姫への賞賛の声が落ち着いた頃、楽団が太鼓を打ち出した。そこに笛の音が重なり、陽気に爪弾かれるギターを聞くにつれ、人々はダンスが始まるのだと察して会場の中央部に目をやった。
 するとまた喝采が起こった。
 美声によって鎮静されていた酒気と陽気が、楽の音と、パンプスを脱ぎ捨て素足で踊り場に立つ一人の貴人の姿によって一時いっときに戻ってきた。しかもそれは一度抑えられていた反動で先にも増して明るい。
 その喝采には礼賛も含まれていた。
 それはあの歌い手を発掘した彼女の慧眼を讃えるものであり、また、率先して“下々”となって踊ろうという心意気へのものである。
 ただし、その心意気は皆に少なからぬ気後れも引き起こしているようだ。
 楽の音の伝える、これから始まるそれこそは、この宴の機縁であり、この夜に必ず踊られる農民の踊り。厳格であった国教会が大地を祓い、歴史の中でその農民達の村も消えた後、皮肉にも貴族社会が保存してきた――
「なんていう踊りだったっけ」
「『ギルヤン・ガィリャード』」
 男女で軽く跳びながらステップを踏み、相手と手を組んで体を寄せ合ったり、腕を組んで回ったり、肉体の接触もそれなりにある踊り。四人一組が基本であり、一定のタイミングでパートナーを替えながら踊る。そのため転倒の機会がいくらでもある踊り。その転倒がもしや恋の始まりとなれば幸いであろうが、破滅の発端ともなれば目も当てられない。
 そう、ティディア姫と踊ることを望まぬ者はない。
 しかし、そのドレス、そのレース飾りに傷をつけてはと恐れるのも無理はない。
 それでも、その気後れを踏み越えようという男達はやはりいた。
 歓声が上がる。
 踊り場にいちに飛び入った男はタキシード姿の伊達男。
 ニトロは眉根を寄せた。
 見覚えのある人だ……テレビやネットニュースで何度か見た……
「アンセニオン・レッカード」
 マスターの意を察した芍薬が言い、ニトロはポンと手を打った。
 そうだ、レッカード財閥の御曹司。人気者のアンソニーだ。
 次いで争って踊り場に出てきたのは二人の男で、国軍の服を着た若い紅顔の男と、やたらとリボンで飾り立てた学士服アカデミックドレス姿の初老の男。踊りは四人一組を基準に、八人、十二人と数を増やせば輪を連ねることも可能だが、会場の空気はまず四人一組からと固まっているらしい。となれば二人のうち片方はいらぬ存在である。二人は肘をぶつけ合う。無言でどちらも退かぬ争いは滑稽でさえあった。
「こういう場合ってさ、巧みに退いたりするのが上流社会の“嗜み”じゃないんだっけ。感情的に『露骨』なのは品位を貶すとかなんとか」
 直接的な実体験はないにしろ、様々なメディアからはそのように聞く。
「“コノ宴”ノテラレタッテノモアルダロウケド」
「うん」
「若イ方ハ、ニコロ・エルジン・セグル伯爵。モウ一方ハ、ギリグ・テンドーヌ――ティーン向ケブランド『ディクシャ&セクシャ』ノデザイナー兼創業者。ドッチモ『ティディア・マニア』ダヨ」
「おや。ああでも、だからか、なるほど」
「伯爵ハ名前ノ響キガ主様ト似テルノガ特ニ悔シイミタイ」
「そんなこと言われてもなあ」
「ケド、バカガ主様ヲ呼ブ度ニ自分ガ呼バレテル気ガスルノハ嬉シイラシイ」
「ああ、そうなんだ……」
「ダカライッソ『ニトロ』ニ改名シヨウカッテ本気デ画策シテルソウダヨ」
「そいつぁ何の解決にもならないんじゃないかな」
「マッタクネ」
 争い続ける二人は段々エスカレートしてきている。初めは哂っていた周囲も冷やかになってきた。このままでは折角の場の空気も冷え切ってしまうだろう。
 それを敏感に察したらしい。
「やめて! 私のために争わないで!」
 と、実に悲壮な感じでお姫様がのたまった。
 ニトロはもう冷め切ったホットミルクを黙々と飲み干したが、その『お約束』は効果覿面てきめん、冷却から加熱に転んだ会場は大盛り上がりである。
 そしてそれがいくら『決まり文句』だとしても争わないでと憧れの君に言われては仕方がない。伯爵とデザイナーは争うことは止めたものの、しかし進退を決めかねてその場で棒立ちになってしまった。見かねたように燕尾服に勲章をたっぷり飾る老人が進み出てきて、二人と王女との間に立つ。何をするのかと皆が注目する中、彼は袖口からサファイアの輝くカフスボタンを外すとそれを後ろ手に隠し、
「左か、右か」
 伯爵は右と言った。同時にデザイナーも右と言った。そこで伯爵が左に変えた。
 老人はうなずき、
「小生はお二人に対して公平に振舞い申した。それは畏れ多くも我が老骨をご照覧ある王太子殿下がお認め下さろう」
 朗々と宣した仲裁者を、ティディアが承認する。
 かくして伯爵が勝った。
 ただ賛辞は老人に集まった。老人はシルクハットを振って歓声に応える。デザイナーはその影に隠れて未練たらたらの様子で引き下がっていったが、その姿が皆の注目から外れたのは不幸中の幸いであっただろう。伯爵は神に感謝を捧げ、姫君こそ聖女だとばかりに熱く見つめている。
 あとは女性が一人必要であるが、その女性はいつの間にか踊り場に現れていた。
 小粋な御者ぎょしゃの出で立ちで男装した少女。美人ではないが魅力的な容貌をしている。男達の争いに乗じてライバルが名乗りを上げる前に忍び出ていたのだ。なるほど、流石は今年ブレイクした新人女優。その抜け目の無さにティディアは目を細め、すると女優は忘我にも近い笑みを浮かべた。もしかしたら彼女はアデムメデス一の財閥の御曹司や、貴族の跡継ぎよりも姫君とこそ踊りたいのかもしれない。彼女のことを妬ましく睨んでいる僧服の女性がいて、その隣にはネコの着ぐるみパジャマ姿で僧服女パートナーをまた激しく睨む女性がいる。
「罪作りな奴」
 ニトロは苦笑混じりにつぶやく。あいつに焦がれる気持ちは解らないし、解りたいとも思わないが、人に焦がれる気持ちだけなら理解はできる。しかしあいつはそういった気持ちを軽やかに弄ぶのだ。そして弄ばれたいと願う者がいる。弄び、弄ばれて、そこに喜びが生まれる。それを国教会は背徳と呼ぶ。げに、この世は罪深い。
「主様?」
 僧服のイメージからおかしな方向に思索が進んでいたところ、芍薬に呼びかけられてニトロははっと我に返った。
「ああ、大丈夫。ちょっと罪と赦しについて考えそうになってただけだよ」
「イヤ本当ニ大丈夫カイ?」
「大丈夫大丈夫、解決したから」
「本当ニ?」
「うん、考えるだけ無駄だ」
 芍薬が控えめに笑い声を上げる。
 宴会場に流れる笛と太鼓の音がいよいよ本番、『ギルヤン・ガィリャード』の旋律を奏で始めた。
 王女が初めに軽やかにトントンとその場で小さく跳んだ。
 継いで他の三人も跳び始める。
 トントンと小さく跳び続け、四人のリズムが揃ったところで皆がステップを踏み出した。
 そのステップは単純で、右斜め前に踏み込み(左手でパートナーと手を触れる)、元の位置に戻り、左斜め前に踏み込み(右手でパートナーと手を触れる)、元の位置に戻る、前に踏み込んでパートナーと両手を繋いで胸を合わせてくるりと時計回りに半回転、立ち位置をパートナーと入れ替えたところでまた右斜め前に踏み込む――と繰り返す。基本はこの形で、最後のパートナーと両手を繋ぐところだけはいくつかの変化を見せ、また立ち位置を変更することさえ守ればアレンジも自由だ。この変化とアレンジの呼吸が合うかどうかで互いの相性を測る、という意味合いもあるらしい。そしてこれを六回繰り返した後、男達は力比べをするように腕を組み、女達は腰に手を回し合い、同性同士で一度踊ってから四人全員で手を繋ぎあい、輪を作って回り踊って最後にパートナーを変更しながら分かれる。そこでまた最初のステップに戻る。
 これを五回踊ったところで1セット。
 ――気まぐれに観始めたにしては、観過ぎてしまった。だが、思わぬ歌声を聞けたのは幸いだった。友達に話を振られても十分対応できるだけの種も仕入れられた。
「“アンソニー”に戻ったところで消してくれる?」
「承諾」
 ニトロの足元に多目的掃除機マルチクリーナーが身を寄せてくる。彼はロボットアームにカップを手渡した。マルチクリーナーはキッチンへと走っていく。
 異変が起こったのは、王女が再びアンセニオン・レッカードをパートナーにしようとした時のことだった。
 ニトロが言うまでもなく、芍薬はテレビモニターを消すのを止めた。
“変な声”が所々に上がっている。
 驚きか、戸惑いか、それは何やらいぶかしんでいるような声であった。
 ダンスパートナーのアンセニオンは、明らかに驚いている。
 また声が上がった。
 アンセニオンの驚きに不思議な色が加わる。
 それを目撃する人数は徐々に増えつつあった。
 今また玉虫色に輝いている王女のドレスが……やはり、部分的に透けた。それは胸元に起こり、王女の乳房の谷間が松明の光にはっきりと照らし出される。玄妙な色彩に穿たれた穴は一呼吸の末に閉じるとまた別の箇所に現れた。王女が左斜め前に跳んだ時、今度はヘソが見えたかと思うと左脇腹から左太腿にかけて何かがぜたように大きな穴がパッと開いて閉じる。
 低い声がどよもす。
 それは明らかに興奮を隠していない。
 元より酒気と陽気に支配され、飲めや歌えや踊れや踊れ。――今、そこに加わったのは蠱惑の美女の破廉恥なサプライズ!
 興奮を隠せるはずもない!
 さて、ここで問題となるのは、一体どこまで見えるのか? ということである。
 上下の恥部は巧みに配されたレース飾りに覆われているし、穴も完全に透明というわけではなく、よく見れば透け感が強いというものであるようだ。それでも胸の谷間やヘソ、影の濃くなる部分は目立って見えた。今度は火花のように小さな穴が複数、すっすっと肩から背にかけて流星のごとく走って消える。それらの『穴』がドレスのどこに開くのかは誰にも解らず、おそらく開かない部分もあるだろう。しかし左側面の腰つき、ヒップは確かにかすめていた、その悩ましいラインは丸見えだった。また一つ爆ぜる、右肩から背中にかけて大きく露となる。クレイジー・プリンセス! 秘部が本当に見えないと誰が言い切れる? 下乳が見えた! もはや王女に対して投げかけるには非礼を極める喚声と、それを諌める眼差しに、それらとは別にただ純粋に彼女の美に見惚れるため息が重なる。
 ――そう。
 彼女は――王女は――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、美しかった。
 ステップを踏み、その身をしなやかに躍らせる。瞬間、瞬間、露となる彼女の肌が性を喚起するのは確かであろう。しかしそれだけではない。その肌は、その美しさは、それが現れる不規則さはそれを見る者の心をひどく掻き乱し、乱された心は粗雑で素朴な農民の踊りに潜む原始的なエネルギーに無防備にも晒されて、常に一定のリズムで絶えぬ太鼓に痺れ、引き込まれて次第に単純化していき、次第次第に回る踊りに巻き込まれながら上昇し、非礼も非難も感嘆も一緒くたに皆々気がつく暇もなく、やがて規範に監視された日常では考えられぬほどに精神を昂揚させられていく。
 既に多くの事物が忘れ去られたその時代――多くの民が魔法を信じていた時代の踊りを妖しい美貌の王女が踊る。
 汗を流す尊顔には笑みがあった。
 この場の雰囲気を、この踊りを楽しむ清らかな笑顔。
 それもまた魔性であった。
 霊妙に輝くレース飾りはまるで封印の鎖。
 星雲にも思えた玉虫色は、今や女神の衣。
 鎖に縛られ衣に隠された女は今こそ解放されんと躍動し、そうして事実解放されている……否、解放しているのだ。活力を、生命力を。
 また爆ぜる。
 爆ぜてまた燃え上がる。
 ティディアによって動かされ、煽られ、掻き混ぜられた集団感情は宴会場を大きく揺らし、踊り場にはいつしか何人もの飛び入りが現れ、それらはほとんど無秩序に踊り出していた。
 パートナー替えのため、王女と腰を取り合いくるくると回る歳若い女優は法悦に蕩けている。
 男も女も、そこにいるただ一人とだけ踊りたくてステップを踏んでいる。
 ――歌にあった恋の薬がその効能を実現させたかのように。
 熱狂が渦を巻いていた。
 ティディアは、あの伯爵とはもう踊らなかった。
 伯爵が再び王女と手を触れようとした瞬間、彼は興奮のあまりに目を回してしまったのである。倒れた伯爵を給仕姿のアンドロイド達が運び出す。見る限り命に別状のあるものではなく、すぐに復活するだろうが、踊りの輪に戻ることは止められるだろう。例えその静止を彼が振り切ったところで、もう戻れはしないだろう。
 音楽が再開する。相手のいなくなったティディアには「私を相手に」と願う者達が今にも殺到しそうであったが、それよりも早く、彼女はふと目についた少年を外輪から内輪に誘い込んだ。
 中学生くらいだろうか。
 正式な社交界デビューもまだであろう。
 親しげな王女に面し、似合わぬ礼服モーニングを着た少年は顔を真っ赤にして硬直している。どうやら踊り方も覚えていないらしい。そこで王女が隣に並んで教えようとする。が、ふと彼女の脇から乳房を横にかすめて穴が爆ぜ、それをばちりと見てしまった少年はもう全く動けない。女は微笑み、神秘的な手袋に包まれた人差し指を唇に当てると、口紅をわずかに少年の額に移してやった。彼はさらに硬直した。
 その光景に沸き起こった反応にはどれほどの嫉妬が含まれていただろうか。
 どうにかよちよちと歩く少年を保護者に送り返し、ティディアは近くで未練を引きずっていたあのデザイナーを誘い、踊った。無秩序に乱れた隊列が整うまで――初々しい相手が駄目ならば――『補欠』を相手にするのが良いと判断したらしい。実際それは皆に妥協させるところであり、やがて踊りの輪も整っていく。
「また『マニア』が一人増えたかな」
「確実ニネ」
 テレビの灯が落とされて賑やかな宴が消える。それもまた、まるで魔法にかけられたかのように。
 マルチクリーナーが水を持ってくる。
 ニトロは痛み止めを飲み、ベッドに向かった。
 歩くと尾てい骨に響く気がする――痛み止めが効いているからそんなはずはないのだが、それでもどうにもそういう気がする。
 そろそろとベッドにうつ伏せになると、背中にそっと毛布が掛けられた。視界の隅に、静かにキッチンに戻るマルチクリーナーが見える。
「明日には治ってるかな」
「明日ノ治療デ、キットネ」
 正確には今日か……そんなことを思いながら、ニトロは枕に顔を埋める。
 電気が消えた。
「治療費ハ水増シシテ分捕ブンドッテクルヨ」
 ニトロは笑い、そして憎いほど存在感のある影を瞼から追い出し、吐息を一つ、ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットの歌声を思い返しながら穏やかに目を閉じた。
 この部屋は、とても静かだった。

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