コケオドシ

(第二部『幕間話』と『第 [3] 編』の間)

「お呼び出しを申し上げます」
 静けさを求めて王都立セリャンダ植物園にやってきていた時のことである。何処いずこからか、琴の音のように美しい声が彼の耳に聞こえてきた。
「ティディア様のいとし君、ニトロ・ポルカト様」
 涼しくもしっとりとした観覧温室に揺らめき渡るその呼びかけに、呼ばれた当人はゆっくりと気を失いそうになった。
 彼の眼前の地面はいわゆる『コケの絨毯』に覆われていて、適度な間隔で植わる広葉樹の作る薄明の下、観察用の木道にうずくまって表土を埋め尽くす小さな植物の小さな世界に入り込まんとばかりに没頭していた彼は、もし、そのまままことに失神してその緑の寝床に横たわれたならばどんなに幸せだったろう。
「当園園長ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットがお待ちしております。大至急総合受付までお越しください」
 その声はいつしか震えていた。
 ニトロは立ち上がった。
 立ちくらみのようなものに襲われてふらりとする。
 再びこのままコケの絨毯に倒れ込みたい誘惑にかられるが、彼は堪えた。続いて何事にも我関せず立ち去ろうかという誘惑にもかられるが、それも堪えた――というより、諦めた。
 行かねばなるまい。
 ニトロ・ポルカトは木道を歩き出した。
 彼は独りだった。
 ここは全国でも珍しい蘚苔せんたい類専門の植物園、マイナージャンルである上に目立たぬ立地から休日の真っ昼間でも他に客はない。チケット売り場では「え? お客様?」なんて驚かれてしまった。研究者や好事家ならともかく、ただの高校生が観覧にやって来たことが相当珍しかったらしい。そういえば、その時応対してくれた女性の声は今のアナウンスのそれと同じだったように思う。
 彼が孤独に浸っていた観覧温室は広く、約2500平米もあった。周囲は全面ガラス張りで、しかもそのガラスは断熱に優れ遮光率を調節できる新時代の産物である。これだけの広さの室温・湿度を保つ設備も相応の性能を要しているだろう。何しろ王都の風土に合わぬ植生を維持しようというのだ、その困難は想像に難くないし、その証明も彼は既に目にしていた。
 まず、この温室は苔の研究・栽培・展示及び運営業務を担う館に隣接しているのだが、その館は一見ゴシックホラーの舞台ででもありそうなほどに古びていた。所々で壁にひびが入り、おそらく客の入ることのない部屋のものであろう窓も割れた部分を応急処置しただけでそのままに、全体的に塗装は風雨と歴史によって色褪せている。
 修繕に回すだけの予算は無いのだろう。
 館の外観を犠牲にし、いや、他の何を置いても大切に守られている苔庭を縦横に縫う観察用の木道は、その源を館の内部に置いていた。庭側から見ると、道の先は館の苔むした石壁にぽっかりと開いた穴へ吸い込まれるように延びている。だから館に向かうニトロもその穴の中に吸い込まれていく。薄明るい庭から薄暗い穴に入り、そのまましばらく進むと足下は木から石へと変化して、やがて現れる靴裏の殺菌装置を設けたゲートをくぐれば、そこは広々とした館のエントランスホールである。
 古びながらも手入れの行き届いた清潔な空間。
 温室から戻ってきたニトロから見て右手には館内展示への通路があり、左手にはグッズや園芸用のコケ等の販売コーナーと申し訳程度の喫茶スペースがあって、そこから正面出入り口に向けて半円形のカウンターがある。
 そこに作業着を着た若い女性が待っていた。
 彼女はニトロの姿を確認するや血の気のない頬に微かに紅を差した。すぐに駆け寄ってくる。その足取りはふらついている。彼女は小ぶりなラップトップをまるで愛し子のように胸に抱いていた。黒縁の大ぶりな眼鏡の奥では緑の瞳が揺れている。
 ニトロは入園時にチケットの買い方を教えてくれたこの女性が、どうやら園長その人であるらしいと悟った。他にスタッフの姿は見えない。販売コーナーと喫茶スペースの手作り感からしても、この植物園は彼女を含めたセリャンダ・ゼワネット家だけで切り盛りしているのだろう。
 今は『王都立』となっているこの植物園は、昔は王家の施設であった。
 そしてそういう施設には大抵その維持管理を担う一族――そう、セリャンダ・ゼワネット家のような貴族が存在し、それら貴族は、その施設の所属が王家から自治体に移された後にもそれを維持し、管理することを生業とし続けている。しかも管理者を辞めるかどうかは当主の決断に拠り、よほどの理由がなければ自治体に罷免する権利はない――そのようになっている。
 それは公に特権的に職を保障されているということであるが、といってその生活は安穏としたものではない。
 この植物園に限っても『王都立』とはいえ運営の実態は半官半民のようなもので、王都から予算は出ているものの、館の状態から明白なようにそれだけでは回しきれない。その予算にしても決定権は自治体にあり、いかほど認められるかは施設の重要度と当主の折衝力にかかる。よほど有名な観光名所であるか親族に有力者でもあれば別だが、そのためこの類の管理者一族は兼業したり、家族の何人かは運営に専念し他の何人かは生活のために“出稼ぎ”したりと役割分担し、あるいは生活費を切り詰め自己資産から持ち出しをしてまで運営を続けている場合も多数あった。
 だが、そうまでして何故その生業を続けるのか?
 それは管理者家族が貴族であることと不可分であるからだ。
 より良い生活を求めるなら管理者を辞めるのも一つの道ではあるが、その場合は貴族の地位を失うことになる。といって自転車操業を続けた挙句にもし運営に行き詰っても結果は同じ、そしてそれは極めて不名誉なことである。そう、名誉だ。一族の名誉。誇りもあり、一族の歴史が厚ければそれだけ脈々と受け継がれてきたものへの愛もある。おいそれと辞められるものではなく、またその誇りによって活きている者もある。そのため、これらの施設は該当一族の重要な収入源でありながら、同時に重大な負債でもあった。ふと視線を感じればホールの隅に園長と血の繋がりを感じる老人と老婆がいて、揃って何事だろうとこちらを窺っている。
「お待ちしておりました」
 ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットは美しい声を押し込めるようにして辞儀をした。
「突然お呼び立て致しましたご無礼を、どうかお許しください」
 明らかに彼女は自分を圧し殺し、明らかにもっと吐き出したい言葉を噛み殺している。ニトロは全く事情の解らないこの時点で、しかしほぼ全てを理解した。だから必要な一言だけを言った。
「何と言ってきましたか?」
 園長は何も答えず、手にしていたラップトップをニトロへ差し出した。そのモニターには押ボタン型のスイッチが表示されている。何やらカウントダウンもされていた。
「……」
 ニトロは園長を見た。
 彼女はやはり何も言わない。
 彼の無言の問いかけに対して無言で容赦を乞うている。
 彼は、理解していた。
 彼女は説明してはならないのだ。
 と、何か重要なことを思い出したように彼女はラップトップのキーボードを素早く叩いた。すると二人の傍らに宙映画面エア・モニターが投射された。
「――まらない質問をするのねえ」
 エア・モニターに表れたのは、差し向かいで誰かと話す王女の姿だった。
「何かぼろっちい店でお粥を食べたわ。ハナバ菜のお漬け物が素晴らしかった。名物なんでしょ? この辺の」
 王女と対談しているのは若い男だ。細面で、髭を顎の先にちょろりと伸ばしている。雰囲気からしてコメディアンだろうか。彼は王女にその“ぼろっちい店”を知っているかと問われてしどろもどろになっている。それで王女に地元愛を疑われてさらにしどろもどろだ。やはり彼は当地の人気コメディアンであるらしい。
「……」
 ニトロは再び園長を見た。彼女の顔は若い男と同じくらい、いや、カウントダウンが進むにつれてさらに色を失っていく。
 その間、コメディアンはちらちらと視線を上向けていた。まるで天上の神へ救いを期待しているかのようだ。
「……」
 ひとまず、ニトロはこうする他はないのだと、行動した。
 セリャンダ・ゼワネットの差し向けるラップトップのモニターの、明らかに胡散臭いスイッチに指を押し当てる。
 するとエア・モニターの中で男の顔が輝いた。
 男と王女の間に上からするすると何かが降りてくる。それは――何だろう?――糸、その糸の先に結ばれているのは……フック? そこに男が手を伸ばす、が、それに先んじて、しかも極自然に王女がその天からの贈り物に手を伸ばす。数式に適切な数値が当てはめられたかのごとく、彼女の動きは自然であると同時に必然だった。二人の間に降りてきたフックが王女の鼻に装着される。
 Oh ジャストフィット。
「え、ええ〜! ええ〜!?」
 鼻フック王女にコメディアンがひどく慌てふためく。それと同時に――この放送は生中継であるらしく、さらに王女と男の対談はある番組の『コーナー』であるようで、これを視聴者と並んで観ているスタジオのタレント達が驚きわめく様子が右下に表れた。ぎゃあぎゃあと纏まらない声を聞き分ければ、なるほど、そもそもこのコーナーはあのコメディアンに対する『ドッキリ企画』であったのだろう。しかしその仕掛人はスタジオにおいても“サプライズゲスト”であった様子。あんまりサプライズ過ぎてスタッフまでもが大恐慌だ。笑っている者もいるが、それは面白いから笑うというより笑うしかないから笑っているといった有り様である。
「……」
 ニトロは園長のラップトップに目をやった。――カウントダウンは、止まっていない。
「……」
 ニトロは園長を見た。
 もちろん彼女からは緊張と不安、そして恐怖が去ることはない。
 残り三分弱、刻一刻と減少する時間に対してスイッチにも何の変化もない。
 コメディアンは動揺しまくって汗まみれだ。
 ただ一人、鼻フックのお姫様だけが平然と他愛もない話を続けていた。もはや独演会である。
「……」
 ニトロは己の顔から熱が引いているのを自覚していた。瞼が半ば落ちる。眠気にも似た虚無感が去来する。だが、彼は、義務的にもう一度スイッチを押した。
「え〜! ええーッ!?」
 コメディアンが狼狽する。スタジオでも大きな騒ぎが起こる。フックを結ぶ糸が巻き上げられ、となれば美しい王女の鼻は必然、豚鼻となった。しかしそれでも彼女は平然と語り続ける。話は何故か恋愛論になっていた。ミニスカートから抜き出る足を組み直し、誰の目も奪う美女が前のめりにコメディアンに顔を寄せる。すると鼻の穴はさらに縦方向へとおっぴろげ。穴の奥まで手入れが行き届いているにしても、これはネットを通じて銀河配信なのですぞお姫様!
 とうとう事態に耐えきれなくなったらしいコメディアンが四方八方に向かって腕を振ってわめき出した。ギブアップと聞こえる。助けを呼んでいる。スタジオは大爆笑どころか引きつり笑いで思考停止である。
 一方、ラップトップを差し出していたルクサネア・セリャンダ・ゼワネットはへなへなとその場に座り込んだ。
「ああ」
 ラップトップをほとんど落とすように床に置き、吐息に等しい声を一つ漏らすや両手で口を覆ってほろほろと涙を落とす。思わぬ展開にニトロがぎょっとしていると、彼女の親族らしき老人達が慌てて駆け寄ってきた。祖父母であろう人らに彼女は安堵に声を震わせて「予算が、予算を」と繰り返す。その声は震えるが故に美しさを増していた。見ればラップトップのモニターでは『♪おめでとう☆成功報酬は例の口座に振り込むね♪』という文字が右から左に繰り返し流れている。
 ニトロは、エア・モニターを見た。
 番組はまだ続いていた。
 興が乗ってきたらしいティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが言葉を躍動させている。その勢いのままに彼女が身を乗り出したり身を引いたりする度に、鼻フックのテンションが強まり弱まり、引き上げられた鼻の穴がクッと伸びたりパッと縮んだり。しかしその滑稽さも未だスタジオのパニックを笑いとまでは変じられていない。そこには、そう、それを笑っていいのだと許すツッコミが足りていない。
 されど王女と直接相対する哀れなコメディアンは己の取るべき行動が見定められずに硬直し、顔の上半分で笑い、下半分で泣いていた。それに嗜虐心を煽られたらしいバカ姫が握った拳を振り振り弁舌に熱を込め、しかも自説の補強のためにコメディアンの女性問題を暴露した。もう彼は堪らない。鼻フック王女に同意を求められても半狂乱である。ゴシップメディアにもスクープされていないネタ、それもなかなかエグいネタをこんな時にこんな状態でぶちこまれればそりゃあ絶望の鼻水も噴き出そう。
 その反対に、事情を理解してこちらも泣き出した家族と喜びを分かち合っていたルクサネア・セリャンダ・ゼワネットは、ふと我に返った。
 あの少年に礼を言わねばと立ち上がる。
 だが、その時にはもう、そこに『ニトロ・ポルカト様』の姿はなかった。

 ニトロは再び観覧温室に戻ろうとゲートをくぐりつつあった。
 簡単な報告を芍薬に送り、もしまだあのバカが鼻フック恋愛論を弁じているなら現場の制御システムをどうにかするよう頼む。
 すると、なんかすんごい悲鳴がホールから響いてきた。
 少し遅れてルクサネア園長以下セリャンダ・ゼワネット家の合唱も聞こえてくる。
 それは忠誠を誓う王の子女の状態への名状しがたい驚愕、そしてこの期に及んでも姫君への心配を失わぬ忠順な声であった。
 しかしそれも、温室内に入るとすぐに聞こえなくなる。
 ニトロは苔むす空間を奥へ奥へと進んでいった。
 木陰の薄明に映える濃厚な緑は目にも美しく沁み入り、これで霧でも出れば神秘的なものとなろう。
 コトン、コトンと木道に鳴る足音は尾を引くことなく苔の陰に吸い込まれて消える。
 それがまた幻想を彼の胸に刺す。
 彼は、ため息をついた。
 ――あのバカは、本当にしょうもない。
「嗚呼」
 いっそ本当にこの瑞々しい絨毯へ飛び込んでしまおうか。そしてどこか片隅に横たわり、それから我が身を苔に覆わせてしまうのだ。この血肉を苔がすっかり隠してくれるまで眠っていよう。そうすれば静かに暮らすことができるだろう。
 コトン、コトンと木道に足音の鳴る。
 ニトロはため息をついた。
「そんなわけ、あるはずもないか」
 彼は苔むす小宇宙を歩き続ける。
 緑色の世界の底に、孤独な足音が鳴り続ける。
 コトン、コトンと。
 コトン、コトンと。
 コトン、コトン――コトン、コトン――コトン――

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