地上253m、微風。
晩秋、暮れなずみ、地平線に粘りつく、赤い夕焼け。
残照が天をまだ
ティディアはその景色をじっと見つめていた。
堂々と、
――彼女は待っていた。
高層ビルの屋上、フェンスを越えて辺縁の際に立ち、地上に向けて真っ直ぐ切り下がる外壁を臨んで、純白のドレスに身を包んだ彼女はひたすら待っていた。
そのドレスの生地は、まるで彼女の肌に融け込んでいる。それに飾られた無数のレースが不可思議な光沢を放つ様は、もしそれが可能なら、糸状に延ばしたダイヤモンドが絹地に繊細に縫い込まれているように思えてならない。
彼女は望んでいた。
早く見せたい。
そう、この銀河に一つのドレスを、彼に見せたい。
そして見せる前に……
「来ました」
内耳に仕込んだ小型イヤホンが執事の声を届けてくる。同時に、暮れる情景に重ねて彼女の視界の四隅に『彼』の位置を知らせる映像や座標が表れる。
コンタクトレンズを通して全ての状況を確認すると、彼女は体をゆっくりと前に倒していった。腰の後ろでワイヤーがピンと張る。そのワイヤーに繋がる無色透明のハーネスが肌に食い込む。重力に引かれた髪が彼女の頬を撫で、眼前に垂れ下がる。そのまま彼女は体を倒し続けていき、ついにはビルの外壁に垂直に立つ格好となった。
彼女は一歩、外壁を歩いた。
二歩目には早足となり、三歩目には走り出した。
屋内動物園を備えるこの複合商業ビルは、六角柱の底部をホタテ貝の殻で掻き出したように、出入り口部分が三階まで扇型に凹んでいる。上から見ると外壁から急に人間がすり抜けて出てくるように見えるこの構造は、逆に下からは奥に引き込んだ玄関口から外壁の外に一歩出るまで頭上の様子が判らない。
――二十分前まで甲羅に入ったまま動かぬオオイワガメを飽かず見つめ続けていたターゲットは、ビルに出入りする人々へアンケートを実施しているキャンペーンガールに予定通り捕まっている。
とはいえ理想的な位置に彼を止めることには成功していない。
しかし、許容範囲である。
ティディアは凄まじい速度で垂直の壁を駆け下りる。
ほとんど自由落下しながらも姿勢を崩さず、大気を切り裂き駆け下りる。
やがて彼女は彼を視認した。
少し遠いか?
いや、やはり許容範囲である!
思うに反して王女様と漫才コンビを組むことになってしまった心の傷もまだ癒えぬ中、連日続く芸の
具体的にはひたすら呆然としたい。
芍薬に慰められるのは嬉しいし、ハラキリが気晴らしに付き合ってくれるのもありがたい。だが、それとはまた別に、どうしても逃避が必要だった。
そう、とにもかくにも『逃避』である。
逃げるのは悪ではない。
むしろこういう場合は善である。
しかも逃がした精神を別のものに移して穏やかになれるのなら最高だ。
つまり、ニトロは温かな飼育槽でじっと動かぬ大きなオオイワガメに感情移入して、そのために一時間あまりをただただじっとその場に佇んでいたのである。
心はオオイワガメと共にあった。
我が心を宿したオオイワガメは幸せそうに眠っている。
ならば己も眠っている。
幸せだ。
幸せ? 狭い飼育槽に閉じ込められて、幸せ?
だがその理屈で言うなら狭い星に閉じこもる人間も幸せにはなれないのか?
相対性の価値観で心は癒せない。
彼はひたすらオオイワガメを愛し、無心となった。
結局はオオイワガメが動いた時に愛は破れ、ニトロ・ポルカトはそれと共に我を取り戻して現実へ舞い戻る失望を味わったのだが、それでも元気はいくらか取り戻せていた。
気持ちを切り替えることに成功した彼は今夜の
季節に応じて装飾の変わるエレベーターで真っ直ぐ一階まで降り、近くに新旧の飲食店がごちゃっと固まる
そこで彼は、人目を引く衣装を着た女性に呼び止められたのである。
周囲にも彼女と同じユニフォームを着た女性達がいて、それぞれに人に声をかけていた。
どうやらアンケートを採っているらしい。
彼の正面に立ち声をかけてきた彼女もやはりアンケートへの協力を口にしてきた。その際の笑顔には妙に抵抗しがたい……あえて言うなら百戦練磨のセールスパーソンだけが放てるであろうパワーがあった。それでも彼は丁重に断ろうとしたのだが、三歩前に満面の笑顔のキャンペーンガールが待ち構えるところ、背後と左右を自分と同じくビルから出てきた人達に塞がれてしまい、とうとう逃れることができなかった。
アンケートは栄養機能食品について。回答すると新製品のサンプルがもらえるとのこと。
捕まったからには仕方がないと、ニトロは暮れなずむ空の下でアンケートに取りかかった。
キャンペーンガールが差し出す
「?」
不自然なタイミングでキャンペーンガールが一歩下がった。
それを認めた瞬間、彼は上空から何かが落ちてくる気配を感じた。
「!?」
彼は驚愕した。
思わぬ衝撃と共に右肩に何かが載せられ、突然、彼は背後から抱きすくめられていた。
胸に白絹に覆われた女の腕が回っている。
度肝を抜かれた。
その細腕からは予想し得ない力で、ぎゅっと締めつけられる。
「ニートロ!」
「おわああ!?」
華やかに耳をつんざくその声に、背後から頬擦りをしてこようとするその欲望に、彼は悲鳴を上げながら反射的に右手を振り上げた。考える間もなく我が右肩に顎を載せているそいつの頭をより強く肩に押しつける。次の瞬間、彼の足から力が抜ける――否、彼は自ら尻餅をつく!
彼は事態を正確に理解していたわけではない。
もし一息でも間を置けば巻き上げられるワイヤーによって上空へかどわかされていたであろうことを察知していたわけでもない。
それは純粋に防衛本能の働きであった。
「わあああ!?」
その証拠に、その技をかけながらも彼は悲鳴を上げ続けていた。
そう、うっすらこれはバカ姫の仕業だと理解しつつあっても、それを認知する前に彼は危険な技を繰り出してしまっていたのである。
この、コンクリートの上で。
彼が渾身の勢いで尻餅を突き切った時、その衝撃はそのまま彼の肩に固定された女の顎に襲いかかった!
「へぐ!?」
彼女の顎を打った力はさらに
一方、技を仕掛けたニトロもただでは済まない!
「ふぬん!?」
それもそうだろう!
コンクリートの上に全力で尻餅を突けばケツが割れる! ていうか尾てい骨が割れる! 今回は幸い割れなかったけれどもそれでも死ぬッほど痛い!
痛い!!
「「ふぬおおおお!?」」
不意打ちを
その傍らではワイヤーで軽く宙吊り状態のティディアが顎と首を押さえてのた打ち回っていた。
一瞬の出来事だった。
仕掛け人であるキャンペーンガールとその仲間達は唖然とし、次いで狼狽し始めたが、その中の一人だけは舌なめずりをしていた。
また、周囲にいるこの愚かな出来事と全く無関係な人々は、うめき喘いでのた打ち回っている二人が己が
しかしそれらの反応は複雑である。
空から降ってきた白いお姫様。を瞬殺した少年。
そうして現在二人仲良く苦痛に悶えるこの光景。
果たしてどう応対すればいいのだろう?
歓声を上げればいいのか、心配すればいいのか、はたまた応援すればいいのだろうか。
戸惑いと、にわかに生じる興奮の中、激痛に耐えるニトロは決心していた。
今夜の練習は当然ボイコットするとして、この技は、この『スタナー』は、尻がいくつあっても足りないから二度と使わないことにしよう――と。
中凶