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 ニトロは憂鬱だった。
 この後ティディアと衣装合わせをしなければならないことが、憂鬱でならなかった。
 しかもその場所は王城近くのブランドショップ、それも王家の運営するアパレル会社の三号店である。つまり敵地だ。そこで舞台用のスーツを試着するわけだが、そのスーツも夏に向けて販売促進されている新しいラインナップからと既に決められている。ティディアは昔からある、最近ちょっと売り上げの下がったクラシカルな男物のスーツを着る。良い宣伝になることだろう。つまり利敵行為である。
 しかし、それらはまだいい。
 それにも増して歯痒いのは、これがあのバカにとっては一種のデートであるということだ。嬉々としてあれこれと着せ替えてくるだろう。スーツだけで済むはずがない。シャツもある。ネクタイも選ぶだろう。ネクタイピンや靴、果ては下着類まで同ブランドで新調させてくるはずだ。さらに奴は間違いなく試しにネクタイを自分に結ばせろと言い出す。必要以上に顔を近づけて、あわよくばそれ以上を狙ってくるだろう。ああ、考えただけでも鬱陶しい。彼は心底憂鬱でならない。――とはいえ、その憂鬱も、今は押し殺せていた。
「コレナンカドウダイ?」
 カジュアルなサマージャケットの並ぶコーナーを背にして立つ芍薬が楽しげに言ってくる。その明るい声はニトロが片耳につけたイヤホンを通して聞こえるもので、165cmに整えられた肖像シェイプのその涼しげなユカタ姿も、彼の伊達メガネが現実世界と重ねて見せる映像である。芍薬はすらりとした手で己の横を示していた。そこにはニトロの体形を反映した3Dモデル――顔のディティールなどは省略されたマネキンがある。芍薬は背後のハンガーラックから実際に一着取り出すようにデータを引き出して、さっとマネキンに着せて見せる。
「ホラ、似合ウヨ」
 なるほど、と、ニトロは思った。先ほどコットンパンツを買った店にもちょっと良いサマージャケットがあったのに、芍薬が購入を待つよう言っていた理由に合点がいく。が、彼は気を惹かれつつもコーナーの上にポップアップされている値段を見て眉を曇らせた。意図的にもごつかせた小声で、彼は言う。
「う〜ん、でも、ちょっと高いかな」
 すると芍薬は切れ長の目を柔らかく細め、
「品質ヲ考エタラ相応ダヨ」
「さっきのは?」
「断然コッチ。カエッテ得ダヨ」
「うーん」
 そう言われたら確かめなくてはならない。ニトロがハンガーラックに近づくに連れ、その前に姿を表示していた芍薬は本当に“そこにいる”かのように身を退かせた。赤い鼻緒のゾーリが軽やかに床に擦れる音が、店内の賑やかな音に混ざって耳にそっと触れた気がする。現実に溶け込む仮想世界に立つ芍薬の傍らで、仮想を内包する現実世界に立つニトロは、サマージャケットの生地にそっと手を触れる。
「なるほど」
 触れるや否や小さくつぶやき、彼はぐっと身を寄せ商品をじっくり眺め出した。そして心を惹かれた色の――それは芍薬が目をつけていたものでもある――ジャケットをハンガーラックから抜き出して、前後のデザインを改めて確認し、裏地にも目を通す。
「ボトムスは何でも合いそうだね」
 ニトロがそう言うと、芍薬は彼の視界の奥に適当な大きさのウィンドウを表し、そこで3Dマネキンのコーディネートを変えてみせた。ジャケットはニトロの手にしたものに固定し、ボトムスは現在所有しているものを次々と表示していく。最後に先ほど別の店で買い、今は裾上げをしてもらっているコットンパンツが映ったところで、
「うん」
 ニトロはうなずき、手近にあった買い物カゴを取り、それにジャケットを入れた。と、そこで芍薬が言う。
「モウ一ツ上ノサイズデ試シテミテ」
「あれ、このサイズじゃ入らない?」
 この店のジャケットはSやL表記で、細かく分かれてはいない。そこでいつものサイズを手に取ったのだが……
「ココノハチョット小サメニ作ラレテルンダ」
 ニトロはタグを見る。そこに記されている胸囲などを見て、多少小さめに作られているとしても去年はこの範囲で収まっていたと怪訝な顔をする。
「そんなに体型変わったかな」
「キット実感スルヨ」
「そっか……袖丈とかは?」
「ムシロチョウド」
 ニトロはうなずき、提示されたサイズのものを一着カゴに放り込む。先にカゴに入れたものもそのまま持っていくことにした。芍薬の言葉を疑うわけではないが、
「折角だから着比べてみるよ」
 そう言うと、どこか嬉しげに芍薬はポニーテールを揺らした。ニトロは深めに被った帽子の下から試着室へと視線を送る。――満室だった。少し待ちそうなので、空きが出るまでTシャツでも見ていようと踵を返す。と、芍薬の姿が視界から消えた。だが、ニトロには背後についてくる芍薬の気配が感じられる気がした。
「マスターニハコチラガ最適ト存ジマス」
 店内をぶらつくニトロの耳に、ふと、そんな言葉が届いた。
 ちらりと見れば、ポロシャツのコーナーで若い男が彼のA.I.と相談していた。彼が手にするモバイルの上には秘書然とした女性ホログラムが浮かんでいる。あるCG製作会社が販売している人気のA.I.用肖像シェイプだ。どこか無機質ながらも品の良い語り口で秘書はマスターの3Dモデルにポロシャツを着せ、他の服とも様々に組み合わせながらマスターに勧めていく。男は難しい顔でひたすらそれを見つめ、眼前の実物は見ていない。秘書は説明を終えるとマスターの返答を待って押し黙った。そのA.I.が『オリジナル』と『汎用』のどちらであるのかはニトロには判断がつかない。しかし、芍薬にはそれが汎用A.I.だと感覚的に解っていた。
「オ嬢様ニハ、コノ赤ガオ似合イデスヨ」
 他方、男の横では若い女が執事姿のA.I.の言葉を聞いている。その肖像シェイプは最近人気の俳優に良く似ていた。こちらの女も立体映像ホログラムを見つめるばかりで実際に商品は見ていない。執事はパフ袖のシャツ――それは眼前のポロシャツのコーナーどころか、この店のどこにもない――を着たマスターの姿を甘く誉めそやす。女はご機嫌である。そのA.I.がかなり際どいジョーク、それも市販の汎用A.I.の倫理コードにはおそらく弾かれ、かつ親密な信頼関係がなければ通用しないジョークでマスターを笑わせているのを耳にして、ニトロにもその執事が『オリジナル』であることが解った。と、その時、若い男が女に、おいと声をかけた。どうやら執事のジョークが気に障ったらしい。男と女の間にいさかいが起こった。その断片から二人は恋人であると窺い知れる。途端に険悪になった二人に挟まれて、執事は可哀想なくらいうろたえていた。
 その様子を横目にニトロは通り過ぎていく。
「もうちょっと色の深いのがいいんだ」
 今度はニトロと同い年くらいの少年が無地のTシャツのコーナーでつぶやいていた。型の古い携帯電話モバイルでモスグリーンのシャツを映しながら彼のA.I.と相談している。音声は無かったが、その画面に変化があったようだ。
「わかった」
 彼はうなずくやモバイルをポケットに入れて歩き出す。その顔に失望がないのは別の店に望みの品があるのだろう。店から出て行くその少年とすれ違い、中学生くらいの少女が店に入ってくる。彼女は胸に小型犬――まるきり本物に見える機械動物アニマロイドを胸に抱き、まるでそれと散歩をしているような調子で歩を進めてくると、
「あ、あれカワイイ。似合うかな」
 目についた立体ホロポスターを目にして少女は言った。ブルーのホットパンツとピンクのシャツを着こなす十代のモデルがポーズを取っている。それを見て、彼女の胸に抱かれるアニマロイドが首を振り、
「ナシダフ」
 キャラクタライズされた語尾をつけ、小型犬の姿を借りたA.I.は断じた。
「うん、やっぱカワイクナイや」
 すると少女はA.I.の判定に何の疑問も挟まず意見を翻した。そうしてすぐに興味を別の場所に移し、やはり散歩をするような足取りでレディースコーナーの棚の間に消えていく。
「失礼」
 と、ふいに、プリントTシャツを見ていたニトロに背後から声がかけられた。驚いた彼はびくりと身を震わせ、慌てて振り返る。声をかけてきたのは中年男性だった。ニトロは男性の素振りで相手の意図に気がつき、すぐにその場から退いた。男性は不機嫌な様子でニトロが塞いでいた棚から彼には明らかに小さすぎるサイズのシャツを手に取り、それをじっと見た……というよりもメガネにじっと映し、やおらうなずくと、苛立った様子で通販がどうのとブツブツ言いながら去っていく。どうやら電話をしているらしい。眼鏡ウェアラブルか、あるいは埋め込み式インプランタブルフォンを通じているのだろう。男性は歩きながらハンガーに掛けられているリネンシャツを迷いなく手にし、そのまま試着もせずにレジへと向かう。僅かに耳に入ってきた内容からして、配送料を節約するため、ついでの用事として家族にでも頼まれたのだろう。
 ニトロは軽く視野を右に動かし、
「ちょっと驚いた」
 伊達メガネのフレーム内にすっと入り込んできた芍薬に小さく言った。隣に並んでいるかのように“そこにいる”芍薬は笑む。実際、芍薬も、緑色の目をしたマスターがその正体を見破られたかと思っていた。
 そしてまた芍薬は、人間とA.I.との様々な関係性が見られる店内の様子を見つめて物思いにも耽っていた。
 高校生ほどの少女が三人、花柄のシャツを見ながらわいわいと話し合っている。彼女らは彼女らだけで手にするシャツについて語り合っている。ただの冷やかしかもしれないが、もし購入するとしたら友達と自分の意見だけで買うだろうか? それともA.I.に――それがオリジナルにしろ汎用にしろ――判断を仰ぐだろうか。
 同じ店に一緒に服を選びに来ながら、先ほどの恋人達は全く別のものを見ていた。仲直りしたらしく今も一緒に歩いているが、それでも心は並んで歩いているのだろうか。
 改めてプリントTシャツを眺めていたニトロが、ある一つを手に取る。それをニトロのかける伊達メガネに備わるカメラを通して見て、芍薬は問う。
「気ニ入ッタノカイ?」
 そのプリントTシャツは芍薬のプランにはないものだった。ニトロは白いシャツに猛々しいフォントで書かれた一文を見つめ、
「これ、何語?」
「――東大陸ノ『クレプス-ゼルロン山脈』辺リノ古イ文字、ソノ言葉」
「あ、じゃあアデムメデス語か」
「一応ネ。デモモウ文献ノ中ダケノ言語ダヨ」
「そっか。意味は?」
「『肉ヲヨコセ、肉コソ命』」
「そりゃ物騒な」
 文の下には臨戦態勢の肉食獣がデザインされている。
 しばらく眺めた後、ニトロはそれを丁寧に棚に戻した。
「買ワナイノカイ?」
「うん」
「ジムニ着テイケバイイノニ」
「それを考えてたんだ」
 ニトロは笑い、その言葉に芍薬は笑う。
「でも、意味を知られたら曲解されそうで怖いや」
「マドネル殿ニ?」
「マッスルを輝かせて握手を求められるかもね」
 芍薬は笑い、その明るい笑い声にニトロも声を潜めて笑う。
 試着室に空きができていた。ニトロはそちらに向かった。試着室前にいた店員が彼を案内する。――と、奥の試着室から何やら言い合う声が聞こえた。どうやら、A.I.と意見を戦わせている者がいる。痩せるとか、絶対とか、今度こそとか切れ切れに言葉が届いてくる。ニトロは思わず笑みそうになるが、店員は慌ててそちらに向かった。
「お客様――」
 店員が客に言葉をかけている後ろで、ニトロは試着室に入る。彼がカーテンを閉めたところで芍薬が言った。
「トコロデ主様。ジムデ思イ出シタケド、コレ以上筋肉ヲ大キクスル気カイ?」
 ニトロは学校で制服から着替えてきたデニムシャツを脱ぎ、大きな姿見を見つめた。彼は狭い室内に一人きりで立つ己の鏡像を見て、少し考え、
「たまにそういうことを考えたこともあるけれど」
 おかしそうに笑い、シャツをハンガーに掛けながら彼は言う。
「でも、俺が目指したいのはマドネルさんじゃなくて、やっぱりハラキリだからね」
 芍薬は――密かに安堵しながら――目を細めた。
「承諾。ソレジャア、トレーニング内容ヲ変更スルヨウ伝エテオクネ」
「変更しなきゃいけないところがあった?」
「筋力強化ノトコロ。特ニ制限ガカカッテナイカラ、コノママダトヤルダケヤッチャウヨウニナッテル」
「ああ、そういえば」
「多分、最低限必要ナダケツイタラ、ソノ後ドウスルカッテ確認シテクルツモリダッタンダロウケドネ、ハラキリ殿モ忘レテルノカ、ソレトモ面白イカラ気ヅクマデ黙ッテイヨウッテ思ッテルンジャナイカナ」
「後者だろうね」
「御意」
 ニトロは笑い、芍薬もまた笑った。――あまり笑えることではないが。
 ……そして、笑えることではないのがもう一つ。
 ショッピングセンターのもうすぐ傍まで、その車はやってきていた。
 例の兄弟は既にショッピングセンターの立体駐車場で待機している。
 現在、夕方の買い物客とディナータイムの客とが混じり合い、全階でほぼ満車状態のその立体駐車場には電灯の交換作業中ということで使用不可とされるスペースが一つあった。そこには一応脚立などの道具が置かれているものの、一向に作業の始まる気配はない。そのスペースは、ある人物のために“予約”された空間なのだ。
 その状況を確認し、また監視し続けているのは、一機の女性型アンドロイドである。兄のトルズクがさらに借金を重ねてレンタルしてきた高級機で、操縦しているのは当然オリジナルA.I.のレクだ。兄は『貸しレンタロイド屋』にあった服が気に食わなかったので、レクが監視を続けている間、このショッピングセンターでパンツスーツを買い揃えてきた。スーツの色は黒。シャツも黒。ネクタイも黒で、ネクタイピンだけがシルバーだ。『ジェントルマン・ディンゴ』の仲間の一人と同じ服装、これこそレクに相応しい!――と。レクは大喜びで着替えたものである。
 一方、兄がアンドロイドを借りてくる間、弟のトルズクはなけなしの貯金を全額下ろしてくると、やはりこのショッピングセンターで彼らの計画に必要なビデオカメラや女装セットを用意して回った。彼は万事計画通りに行動していたのだが、その中で一つだけ例外があった。キッチングッズストアで万能包丁を購入したのである。計画通りにナイフではなく、急遽こちらに変更したのは万能という響きが弟の心を打ったからであった。これこそ兄に相応しい!――と。それを聞いた兄は喜んで梱包を解いたものである。
 兄弟がそれぞれに活動する間、レクも溌剌として働き続けていた。スーツを買わんとする兄には的確にサイズを伝え、諸々のアイテム、特に全く知識のない化粧品を揃えようという弟にも的確に助言を与える。その言葉は正確無比で、常に敢然としていた。
 兄弟はいつにも増して優秀なレクの働きに感動していた。
 マスター達に誉められてレクはもはや有頂天だ。
 しかし、レクは知らない。知ることを禁じられていることも知らない。兄弟がそれぞれ『ニトロ・ポルカト』とすれ違っていたことを。そして今も同じアンドロイドの中、己のすぐ傍らに、もう一人のオリジナルA.I.が佇んでいることを。
 その車が、ショッピングセンターの駐車場入口に差しかかる。
 ニトロは新しいサマージャケットを試着して、ご満悦だった。確かにサイズは一つ上でちょうどいい。下ではきつ過ぎた肩幅が、こちらではまさにジャストだ。生地とデザインの風合いも良い。しかも、何より自分の体形が変わったためだろうか、以前よりよく似合っているように思える。新調してばかりのスーツや、作りにゆとりのある制服では自覚し得なかったトレーニングの成果を実感する。彼は実にご満悦であった。
「主様」
 そこに、芍薬は水を差した。ニトロから見て鏡の中に姿を表し、
「バカガ来タ」
 ニトロの顔が一気に冷める。
「今どこに?」
「駐車場」
飛行車スカイカー?」
走行車ランナー
「逃げられる見込みは」
 芍薬は、一方で黙し、ここでは言う。
「有ル」
「じゃあ逃げよう。どうせ後で会うんだ」
 急いでジャケットを脱ぎ、ニトロは言う。しかしまた芍薬は水を差す。
「ソレヲ買ッテ行ク余裕モアルヨ」
「え?」
 意外そうにニトロは目を丸くして芍薬を見る。伊達メガネの中で、鏡の向こう側から、芍薬は彼から贈られたカンザシを煌かせる。
「大丈夫、チャント誘導スルカラ。ソレニ挙動不審ニナッタラ正体ガバレチャウカモシレナイ。ソウナッタラ逃ゲラレナイ」
 それは筋の通ることだ。ニトロはうなずく。
「裾上ゲ中ノダケハ配送シテモラウヨ。別料金ガカカッチャウケド――」
 それは仕方がない。ニトロは芍薬に許可を出し(芍薬はその料金は自分の小遣いから出すことにした)、それから素早く元の服を着ると外に出た。
「お決まりですか」
 店員がいそいそと満面の笑みで問いかけてくる。ニトロは少しうつむき、帽子の影に顔を隠しつつも口元には愛想の良い笑みを浮かべる。
「こちらは戻したいんですが」
 店員は示されたジャケットを回収しながら嬉しげに、
「では、こちらはお買い上げですね」
 そう言う様子があんまり嬉しそうだから、ニトロもつられて嬉しくなって、思わず通常の声で答えてしまう。
「はい、お願いします」
「ありがとうございます。それではこちらでお会計をお願いいたします」
 幸い、それだけで正体がバレることはなかった。ニトロからカゴを引き取った店員はいそいそと彼をカウンターへ連れて行く。道すがらメンバーズアプリのことなどを聞いてくるが、ニトロは一連のビジネストークを適切にやり過ごす。
 そのやり取りを聞きながら、芍薬は“主意識”を立体駐車場へと移動させていった。

「キマシタ!」
 立体駐車場の一画。車を誘導する順路からして死角になる壁の裏に隠れるトルズク兄弟の下に戻ってくるや、低音量に絞った声で、しかし興奮は隠さず両手を振りながらアンドロイド――レクは言った。
「キマシタ、キマシタ! ニトロ・ポルカトノ乗ッタ車デス! 間違イナイデス!」
「よぉーし」
 兄のトルズクが大きく息を吸う。弟のトルズクは大きく丸い体を小さく丸めて小刻みに呼吸をしていた。過呼吸になりそうな勢いである。
「大丈夫か、弟よ」
 心配そうに兄が問うと、金髪ロングのカツラを被った弟は何度もうなずいた。その顔はレクによって綺麗にメイクがされている。汗に強い化粧品が使われているにも関わらず、それは早くも崩れ出しそうな有様である。碧い目も興奮のために潤ませて、弟は兄の落ち着いた暗緑色の瞳に縋るように言う。
「だだだ、大丈夫かなあ、兄ちゃん」
「大丈夫だ、なあ、レクよ」
 ここに来ても兄は堂々としたものである。彼に問われたアンドロイドは足元の鞄からビデオカメラを取り出し、生中継の準備を進めながらふっくらとした唇で笑顔を刻む。
「ハイ! 成功確率ハ現在モグングン上昇中デス! 我ラガ正義ノ報道チャンネルヘノアクセス数モガンガン上昇中! 『前説』モ大好評! 最高デス!」
「ほら、レクもこう言っている。そして俺も言おう。俺達は絶対成功する!」
 思わず声が高くなり、それが壁に響く。通りがかった客が不思議そうにこちらを見るのを兄が目で追い払う。その男性客は威嚇する兄の目つきよりも女装した弟の恐慌迫る様子に驚いて、慌てて目をそらすと足早に通り過ぎていく。
「アト30秒デス!」
 目前の車線の先に、二つの灯りが見えた。夕刻。立体駐車場の中は外よりも早く夜の中へと歩を進めており、屋根の低い層の重なる箱型施設の内側は陽光と人光とが互いを打ち消しあう逢魔ヶ時の薄暗さ、かつその車の進んでくる方向はちょうど落日の線上に位置していて、天井と外壁の隙間からは強烈な斜光が差し込んできている、ただでさえ視界を弱らす薄暗さに逆光が加わり、その車に誰が乗っているのか兄弟には確認出来ない。眩いヘッドライトと、それらを前面に据える輪郭だけが黒々と見える。しかしそれが何の問題になることもない。その車に奴が乗っているとレクが言うのだから間違いはない。兄は一度大きく息を吸い、ふっと鋭く吐いて気合を入れる。
「弟よ、あとは行うのみだ。行うのみなのだ。大丈夫だ、お前はやれる、俺もやれる、レクは当然だ。『行為こそが重要』と聖典にもあるだろう」
「『国造りの章 5−1』――うん、うん、やるよ、兄ちゃん、僕もやるよ」
「アト15秒」
 エンジンの音がそこかしこで反響している。タイヤの地を擦る音がここかしこに反響している。
「神よ、我らに恵みのあらんことを」
 兄が祈りながら、足元の鞄の中から万能包丁を取り出す。
「神よ、我らに慈悲を与えたまえ」
 弟も祈りながら、ぐっと背筋を伸ばす。
「アト5秒」
 カメラを構え、兄弟の武運を祈りながらレクは数える。
「4、3、2、
 1」
 兄弟は揃って車線に飛び出した。
 兄弟はちゃんと考えている。轢かれたら大変だ。だから飛び出したのは車が余裕を持って止まれる距離を保ってのこと。その車は、急ブレーキをかけることもなく止まった。
 そして、
「ぎゃーーー!!」
 兄に腕を捻り上げられて(いるように見せて)弟がけたたましく甲高い悲鳴を上げた。
「タた助ケてーぇええ!」
 必死に声を裏返して叫び、弟は膝丈のスカートから抜き出す太い足をばたばたと動かし車へと歩み寄っていく。恐怖に怯えているように見せるため髪を振り乱し、振り乱しすぎてちょっとカツラがずれていることにも気づかない。それを逃がさぬよう腕を絞り上げ(ているように見せて)兄が声を張り上げる。
「おらぁ! 出て来いこのヤロウ!」
 真新しい万能包丁をヘッドライトにきらめかせ、彼は弟と共に車へ向かっていく。ライトは威嚇するようにハイビームになっていた。それが逆光と合わさって目を射るように眩しく、さらにフロントガラスには天井の照明が反射しているため車内の人間の姿はまだ見えない。だが、彼はそこに座っているのは『ニトロ・ポルカト』であると確信していた。近づくに連れて明らかになる。羨ましくてならない高級車、目の暗む眩しさの中でも分かるほど美しく磨かれたボンネット。彼の中で、彼も知らず、何かに火がついた。本来手に入れているはずなのに手に入れられていないものを前にして、彼は怒号を上げた。
「出て来いッつってんだろうがバカヤロウ!」
 兄弟は考えていた。
 さて、『スライレンドの救世主』を試すには一体どのようなシナリオが最善だろう?
 兄弟は“悪漢に襲われる女性”をスタート地点に熟考を繰り返し――計画そのものには手心を加えず、ただ聴くばかりだった芍薬は呆れる他なかったのだが――話は最終的には『強盗と人質にされた女性』という狂言としてはさらに犯罪性の増した路線で纏められていた。
 兄は獰猛に叫ぶ。
「この女がどうなってもいいのかこのクソヤロウ!」
 演じているうちに本当に悪漢になったかのような高揚感を覚え、兄はバンパーを思い切り足蹴にした。その衝撃に車が小さく揺れる。それに彼はまた興奮し、とにかく悲鳴を上げ続けるおとうとを乱暴に引き寄せ、ナイフよりもずっと大きな包丁をぷらぷら弄びながらその切っ先を乱れた金髪へと近づける。間違いなく切れる刃物を不用意に身に寄せられて、演技だと解っていても弟の悲鳴が真に迫る。
 レクは物陰から、陰に紛れてビデオカメラを回し続けていた。
 兄は思う。そのカメラに車から誰も出てこないという“真実”を捉えたら、その時は『スライレンドの救世主』が死ぬ時である。もし出てきたら、さあ、生中継を見ている諸君、ひとまずは喝采で彼を迎えてやってくれ!
「おら出て来いよニトロ・ポルカトぉ!」
 その名を叫び、再び兄はバンパーを蹴る。
 と、その時、運転席のドアが開いた。
 兄はいくばくかの驚きと、そして隠せぬ感心のため小さく声を上げた。弟はここぞとばかりに大きなだみ声で助けを求める。そこで兄は慌ててその声に負けぬよう声を張り上げる。
「おお、やっと出てきたかニトロ・ポルカト! 金を寄越せよ! でねぇとこの女の首を切っちまうぞ!」
 と、助手席のドアも開いた。
 それに兄弟は恐ろしく驚いた。
 運転席のドアが開き、そして助手席のドアも開いた……つまり、二人?
「ああ、そうか、聞いたことがあるぞ、噂のA.I.か、シャクアクとか言ったか? アンドロイドだな、おうし、お前は出てくるな!」
 ぶんぶんと包丁を振り回して兄は叫ぶ。隠せぬ怯えが顔に表れている。これは想定外。『スライレンドの救世主』にならともかく機械人形シャクアクにやられたら何にもならない。
 だが、相手は聞く耳を持たなかった。運転席からすらりとした人影が現れ、次いで、助手席からは異様な存在感が現れる。
 兄弟は、思わず、あとずさっていた。
 その存在に何を理解するまでもなく三歩、五歩と退いてしまっていた。
 しかしはっと気を取り直した兄はぐっと留まり、さらに下がろうとする弟を押し止め、熱くなった頭を朦朧とさせながら虚勢を絞り上げる。
「おお、おお、出てきたなこのヤロウ! 金は持ってるだろうな!」
 そう言って兄は包丁を勢いよく人質の喉に突きつける。人質は悲鳴を上げる。その刃が皮膚に触れていないのは奇跡的なことかもしれなかった。それほど兄は興奮していた。兄の熱く荒い吐息に弟は不安になる。演技のために流れていた汗に冷たいものが混じる。
「金をよこさねぇと本当に殺すぞ! それ以上近づくな! 止まれ!」
 声をかすらせ“強盗”が必死に叫ぶのを平然と聞きながら、落陽を背負った二人がそれぞれヘッドライトの後ろから歩み出てこようとする。相手が『ニトロ・ポルカト』とそのオリジナルA.I.だと思い込む兄弟は未だ気づかない。二つの人影が逆光の陰からライトの光に溶け、また人影となって眼前に現れる。
「止まれって言ってんだろこのや――ろう?」
 叫び続けていた兄が、ふいに、語尾を呆けたようにぼやけさせた。ヘッドライトが消えて、人影が人間となる。
「あれ?」
 と、思わず弟も演技と不安を一瞬にして忘れて目を丸くする。
 兄弟はやっと気づいた。
 車内から歩み出て来た二人は、どちらも女だった。ヘッドライトが消えてなお未だ沈まぬ太陽の光陰に紛れているが、だからとて見紛うはずもない。片方は全身黒尽くめのスレンダーな美女で、もう片方は短いジャケットとシャツの裾から実に情欲をそそる腰のくびれを覗かせている。白い肌に影を作るのはへそのくぼみで、それがまたなまめかしい。悪漢役をやっていながらも、いや、だからこそ、頭に血の昇った兄はその色香に抗いようもなく目を釘付けにされた。サングラスをかけたその女はすこぶる上玉だった。そしてその女は、ひどく不機嫌に唇を歪ませていた。彼女はひどく気だるげにサングラスを取り――
「「あ!」」
 その瞬間、兄弟は揃って驚愕の声を上げた。
 全身の血液が一瞬にして凍りつく。何故レクの言った通り『ニトロ・ポルカト』は現れず、全く違った人物が車から現れたのかという疑問を抱く暇もない。全身を駆け巡っていたアドレナリンは霧散し、もはや演技も何もない、全て虚構が完全に消滅する。
「「ティディア様!!?」」
 その尊顔が影に紛れていようと、それこそ見紛うはずもない。
 立体駐車場の明かりの下、太陽光を背負って立つのはこのくにの第一王位継承者――『クレイジー・プリンセス』ことティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナその人であった。
「「え、え、え?」」
 兄弟はすっかり慄き、膝を震わせ、後ろへ、後ろへと歩を進めていた。逃げようとしているのではない。膝が萎えて尻餅をつきそうになるのを互いに支えあっているうちに自然と後退してしまっているのだ。だが、しばらくすると兄弟はやっと『逃げる』という発想に辿り着いた。なのに逃げ出せない。二人の目は影の中に閃く蠱惑の美女の眼光に魂ごと吸い付けられ、顔を背けることすらできない。
 冷たい眼差しが兄弟に注がれていた。
 極寒の地の吹雪すら生温い眼差しが、兄弟の心を縛り付けていた。
 ふいに、ドン、と、兄弟は背に何かが当たったのを感じた。それは王女の眼差しに支配される世界で幻のように思えたが、違う、現実であった。その衝撃が半ば気絶しかかっていた兄弟の意識を呼び戻し、その勢いでやっと背後へ振り返った兄弟はまた「「あ」」と声を上げた。
 兄弟の背にいたのは、ビデオカメラを構えるパンツスーツ姿のアンドロイドであった。
「――レク!」
 兄が叫んだ。
「レク! レク!」
 弟が悲鳴を上げた。
 二人共に、レクならこの事態を何とかしてくれると信じているようであった。実際、信じていた。少なくともこの最悪の事態からレクこそは我らを救ってくれるだろうと信じ切っていた。しかし、
「ゴメンサァァイィィ、モウ捕マッチャッテマシタァァァァ」
 カメラを構えたままの姿勢で、ただ涙に濡れた声だけがアンドロイドの発声装置を震わせる。
 その言葉を聞いた時、既に凍りついていた兄弟の血が、さらに温度の下がるあまりに蒸発してしまった。二人は気を失い、その場で尻餅を突いた。しかし惨いことにその痛みが兄弟を覚醒させた。アンドロイドを見上げる形で地に座り込んだ二人は、慌てて周囲を見回した。
 気がつけば、何やら恐ろしい雰囲気を備えた男女が数人、少し離れたところで兄弟の退路を断つように佇んでいる。見るからに鍛えられた人達だ。その男女が並び立つ距離を結界にして、さらにその外側には騒ぎを聞きつけたらしい買い物客が集まり出している。
 逃げ道のないことを悟った二人は蒼白になった顔をゆっくりとそちらへ振り向けた。
 腕を組み、高級車のボンネットに無造作に腰掛けて、王女が、じっとこちらを見つめていた。その隣に立つスレンダーな美女の双眸が僅かに輝いて見えるのは、よもや我が身我が心が恐怖に圧されて狂気へ踏み込みつつあるからだろうか。
「あ、あの……」
 兄は何かを言おうとし、そこで自分が包丁を握ったままであることに気がついた。を握る手がひどく硬直している。己の手であるというのに、石と思えた。
 死。
 それを彼は突如として目と鼻の先に見た。
 退路を断つ男女は護衛に決まっていて、その身には人の命を容易に奪える武器があるに決まっている。それなのに、王女の前でこんな刃物をひけらかすなど!
「ああ、あああ」
 うめきながら兄は必死に手を開こうとした。しかし意のままにならない。彼は左手で固まった右手を、その指を一本ずつ必死に剥がしていった。弟がそれに気づいて手伝い、やっと放り出すことのできた包丁が硬い地面に落ちて大きな音を立てる。その音に、思わず二人は悲鳴を上げてしまう。
 二人は互いに抱き合うようにして王女を見つめた。
 畏れと敬意とを目に一杯に込めて、王女を見上げた。
 すると、それまでじっと兄弟を見つめるだけだった王女が、ふいに言った。
「続けなさい」
 一瞬、何を言われたのか、兄弟には理解できなかった。
 たっぷり三十秒ほどかかって――それは拷問のようであった――兄は理解した。
「え?」
 と、うめく。
 王女は、兄を見るでもなく、弟を見るでもなく、しかしじっと二人を見下している。
 兄のトルズクは完全に理解していた。
 王女は続けろと言う。
 何を?
 先ほどのことだ。
 どんなこと?
 強盗である!
 彼は絶望に満ちた。頭を抱えられるのなら抱えたかった。
 嗚呼! きっと王女はこれが『冗談』だとご存知あそばされないのだ!
 それなのに、それを「続けろ」と仰られる。
 流石は『クレイジー・プリンセス』であらせられる。
 そこまで思った時、兄のトルズクはふと絶望で真っ暗になっていた心に一筋の光明が射すのを感じた。
 そう、流石は『クレイジー・プリンセス』。
 その『クレイジー・プリンセス』は、面白いことが大好きでいらっしゃる。
 そうだ!
 最後に「な〜んちゃって!」と。これは全て『演技』だったのだと明かしたら。どうだろう? この恐ろしくも親しみ溢れる王女様はきっとお喜びくださるに違いない!
 彼は見出した希望に縋った。
 そうだ、そうに違いない。
 彼は這うようにして捨てた万能包丁を再び手に握った。万能だ、そうだ、俺は万能だ、やがてビッグになる、弟のヒーローなのだ!
「か、金を出せぇ!」
 懸命に声を振り絞り、彼は言った。
 弟のトルズクが息を飲む。
 兄は弟に決死の眼差しを送った。その目を見て、弟は兄に命を預けた。
「た、たすけてぇええ」
 勇気を振り絞り、蚊の鳴くような声を絞り出し、弟は兄に従う。兄は弟の姿に涙を浮かべ、そして手が白くなるほど包丁の柄を握りこみ、切っ先を人質の首に差し向ける。
「早く、金を、寄越せ! でないとこいつの、首を掻き切っちまうぞ!」
 がたがたと震える足を叱咤して立ち上がり、勇気を出したところで立つことまでは適わぬ弟を引きずりながら、兄は王女へと一歩近づく。
「いいのか!? こいつが死んじまっても! ほ、本当に、殺しちまうんだからな!」
 包丁を振り回し、真っ白な顔で目を真っ赤にして叫ぶ。
 王女は何も言わない。
 兄は当惑を押し殺して叫ぶ。
「ど、どうした! いいのか!? い、いいんだな!? 早く金を出さないと、でないとおま、お、お前のせいだぞお!?」
 やっと三歩進んだ。
「お、おおおい! おおい!」
 ハロルド・トルズクは大声で呼びかける。
 それでも王女は何も言わない。何の反応も示さない。ただ腕を組み、ただじっと見つめ、そして微動だにしない。
「ああ、あああ、ああああああああ!」
 兄は叫んだ。続けて何かを早口でまくし立てるが、それはもう意味の分からない金切り声でしかなかった。兄のセリフに合いの手を入れるように助けを求め続けていた弟は乾き切った唇を、もう動かせない。
 小さな四歩目で、兄のトルズクも言葉を失った。
 もう半歩だけ進む。
 あと少しで王女の足元に辿り着く。
 しかし、もう動けない。
 兄弟は王女を見つめた。
 王女は彼らを見つめている。
 ハロルド・トルズクは何かを言おうとしたが、やはり言葉は出てこない。喉笛を素通りした空気が無意味に漏れる。
 完全に意気阻喪した兄弟は、そのままよろめいて倒れられたらどんなに楽だったであろう。王女の眼差しに耐え切れず意識が朦朧としかけた時、
「続けなさい」
 ふいに、王女がまたも言った。
 はっと兄弟の意識が戻る。
 その拍子に兄弟は気づいた。
 王女の瞳は鋭い刃を示している。
 鋭い刃を示して、その魔物のように美しい女は「続けろ」と言っている。
 ……何を、続けろというのだ?
 決まっている。
 それはもう決まっていた!
 全てを悟った兄のトルズクは、王女へ救いを求める眼差しを向けた。眼のみならず体全体で慈悲を乞うた。
 しかし王女は無言でそれだけを示している。
 兄の体が震えた。硬直した右手から落ちることのない万能の刃が光を反射してきらきらと光った。
 周囲に集まっていた野次馬達も、事情は理解できずともその異常さは理解できていた。ただの一人も声を発さない。その沈黙がまたハロルド・トルズクの心を押し潰し、彼の魂に爪を立てる。兄は弟を見た。この刃で、弟を刺せというのか? 重要なのは行為である。小事を成すにも万事を捨てねばならない。だが、この俺がこの弟を刺すのか? 何故? 何のために? 一体どうして? 決まっている、自分がそう言ったからだ。王女は何も命じたわけではない。ただ続けろと言っているだけだ。続けることそのものは我らの意図したものである。だがそれを行為してどうしろというのだ? どうなるのだ? 何をなそうとしていたのだ? 『常に問い、常に解かんと欲し、常に望まずして希求せよ。してまた常に行うべし』――行うべし?
 眼前に立つ王女がどんどん大きくなっていく。
 一方、己の体は際限なく小さくなっていく。暴かれた虚構の下から肥大化した自意識が現れて、空気に晒された肥肉はすぐさまひび割れて、音も無く一つ一つ崩れ去り、あっという間に蚤のように小さくなっていく。
 空から、声が降ってくる。
「続けなさい」
 常に無感情に繰り返される王女の言葉に、ハロルド・トルズクの体は雷に打たれたように激しく硬直した。彼は人間のものとも思えぬ悲鳴を上げた。
 そして彼は頭から倒れこみ、地に伏した。
「兄ちゃん!」
 弟が兄に寄り添おうとする。兄はそれを左手で跳ね除け、硬直して動かせない右手を何度も地に叩きつけることで握り込んでいた包丁を何とか捨て去り、膝を折り、そして何も持たぬ左手を、ぼろぼろになった右手を、揃って天に掲げた。アデムメデスにおいて最も恥辱を伴う『屈服の伏礼』を以てハロルド・トルズクは願った。
「お許しください!」
 涙を流して彼は叫ぶ。
「お許しくださいませ! ティディア様! どうか、どうか!」
 慌てて弟も同じ礼を取った。
「お許しくださいませ!」
 金切り声で兄に倣う。それを塗り潰すように兄が叫ぶ。喉が破れて血の噴き出んばかりに、例え蚤より小さかろうとも失えぬ最後の一粒が彼に叫ばせる。
「これは全て私の犯した罪でございます! 弟とレクは私に唆された憐れな者達でございます! 私はどんな罰も受けます! 何でもいたします! どうかお許しくださいませ! どうかお慈悲を下さいませ! ティディア様! 『我等が母』とならん偉大なる王女よ、神の眷族たる姫君よ、その寛大なる御心によって、どうか!」
 兄と同じようなことを弟も述べ立てるが、それは言葉ではなくただの泣き声だった。
 アンドロイドの喉の奥からも細い音が鳴る。それが意味するところを、この場においては王女の執事のみが聞いた。だがその意味も、額を地に擦りつける男の言と何ら変わりはない。
 しばし、沈黙が続いた。
 兄弟もA.I.ももう何も願わず、王女の裁決を待っている。
 やがて王女は言った。
「続けなさい」
 ハロルド・トルズクは顔を振り上げた。
 そこには我を忘れた憤怒が垣間見えていた。
 しかし、その憤怒は一瞬にして掻き消えた。蝋燭の火が一息で吹き消されるように潰されてしまった。彼は王女の静かな瞳に、極寒の吹雪すら生温く、深海の底ですらまだ浅い、己には到底理解することのできない魔性を認めたのである。その魔性はこちらのことなど何も思っていない。――何も無い。その魔性はこちらを目にしているのに、彼女が見ているのは『無』だ。何も無い。何も無い。何も、ああ、俺は、無なのだ
 ハロルド・トルズクの目は見開かれた。
 見開かれたまま、乾き切った。
 それを見て弟は兄の腕に縋った。縋る相手に力は残っていなかった。弟は兄にしがみつき、しがみつくことで兄の崩れ落ちることを防ぎ、そうして声も無く泣いた。もしその重みがなかったとすれば、虚に侵された男は、ふいにあらゆる光を恐れ、特に太陽の光に己の存在を照らし出されることを恐れて走り出し、そのまま絶対に光の届かぬ場所を求めて暗闇へと身を投げていたかもしれない。
 王女は執事に一瞥をくれ、車内に戻った。
 それと同時に周囲にいた護衛達が執事の元に集まってくる。執事が口早く命令を下すと、すぐさま護衛達はトルズク兄弟を抱えるようにして一台の大きなファミリーカーへと連れて行き、その中へ押し込んだ。
 執事が運転席に戻り、王女を乗せたその車のヘッドライトが点き、緩慢に動き出す。
 車線に残っていたアンドロイドが、まるで石像が動き出したかの様子で道を開けた。
 車はアンドロイドの横まで来ると静かに止まった。
 音もなく助手席の窓が開く。
 アンドロイドは何も言わず、ただ今も動き続けているカメラを渡した。
 それを受け取ったティディアは猛烈に不機嫌に、そのアンドロイドの美しく潤む人工眼球をじっと見据えた。だが、アンドロイドの唇は石像よりも固い。
 再び車が動き出す。
 護衛が二人先導に立ち、気がつけば凄まじい数となり、しかもやっと騒ぎ出した野次馬達に道を開けるよう声を張り上げた。道は容易に開いた。現在の『クレイジー・プリンセス』の機嫌を損ねるのは得策ではないと、どんな愚か者であろうとも心の底から理解していたのである。
 王女の車に続いてトルズク兄弟を乗せた車も走り去っていく。
 そして、アンドロイドだけがその場に取り残された。

「あああ、あああああ」
 レクは泣いていた。“地”に組み敷かれ、マスター達の破滅を知り、しかしその場において己は何も出来ず、絶望に圧しかかられ、無力感にココロを引き裂かれて、レクは声を上げて泣いていた。
「あああああ、ああああああ」
「――さて」
 と、レクを組み敷き続けていた者が、つぶやいた。
 レクはそれにびくりと震えた。
「あああ、殺されちゃうんですね、ワタシ消されちゃうんですね」
 逃れようというよりも恐怖のあまりに足をばたつかせ、レクは言う。
「お願いです、お願いがあります、せめて一つだけお願いをお聞きください」
「……」
「お返事なさってください、もしその沈黙が了承と言うことであれば、お聞きください、お願いします、マスターにお伝えください。ワタシは、レクは、マスターにお仕えできて幸せでしたと」
 芍薬は、もし命乞いをされたならその瞬間にレクを破壊クラックしていたかもしれない。しかしその言葉を聞いたことで芍薬は選択肢を変えた。確認を兼ねて、静かに訊ねる。『マスター権限』を用いてレクの記憶メモリ記録ログを覗けばそれを推察することは可能であるが、そうではなく、その口を通じて知ってこそ真実となるもの――記録と記憶と感情のい交ぜとなった『真心』を。
「何故、そこまで惚れ込んでいるんだい?」
「聞きますか!?」
 命が風前の灯であることをすっぱり忘れた明るい声でレクは言う。
「聞いてくださいますか!? ワタシのマスターの素晴らしさを! ああでもそれを語るには一晩あっても足りません! しかし存分に語らせていただきます、ありがとうございます、どうぞお聞きください!」
「手短に」
「は、はい! マスターは父に溺愛されていました。何不自由なく育ち、そして将来も何不自由なく暮らすことができたでしょう。しかし弟様は違いました。弟様はマスターと血のつながりはありません。父の再婚相手の、前夫との子でした。父は弟様を嫌いました。憎みさえしました。力こそ振るわれずとも愛の欠乏は弟様を骨と皮ばかりにしました。全寮制の高校に通っていたマスターは知りませんでした。父はそれを隠し、弟様もマスターは怖い人だと思っていましたので黙っていました。マスターは学校を卒業し、家に戻ってまいりました。そして知ったのです。弟様の事情を知ったマスターは怒り、父を殴り、弟様をつれて家を出ました。父の愛が逆転して憎悪となることも意に介さず、胸を張って一歩を踏み出したのです。その日以来、いいえ、その瞬間以来ワタシはマスターを深く深く敬愛しているのです、永遠に崇敬しているのです、ああ、マスターは素晴らしいお方なのです!」
「それで辿り着いたのが、この結果かい?」
 レクは声をなくした。意気消沈し、力を失う。やがて、押し出すように、言う。
「『貧なりて、しかも睦まじき仲は百千の富に増して豊かなり』」
 その引用に対し、芍薬は言う。
「『豊かなればこそ徳者たらんと。果はおのずから腐れる。己が霊を毀損きそんすべからず、栄えてこそ貧なりて清廉たれ』」
「……嗚呼」
 レクは嘆声をこぼした。
 推測通り、芍薬の持ち出した句は急所を突いたらしい。レクを通じて二人と一人の関係性をる内、芍薬には思うところがあった。確かに兄弟とレクは仲良くやってきたのだろう。しかしそれは、以前はともかく、現在はただのもたれ合いだ。互いに依存し合い、その依存を支えとして、それが支えだからこそまた互いに依存を強化し合う。こうあるべき自分と相手にそうあるべきだと思われる自分を一致させ、その一致した範疇から逸れることを拒み、例えそれが酔狂であろうとも、酔い狂ってこそ見たくないものを忘れられるからにはそれに固執する。固執して、肥大して、純化させる。物事がプラスに進んでいるときには自信を培い信念を打ち立てることもあろうが、一度ひとたびマイナスに転じれば妄執を養い虚言を乱造するだけの関係性。
 そして、何より、あの兄弟が最終的な決定をする際に最も頼りにしていたのは常にレクであった。兄が全てを決めているように見えて、実際にはレクの下す可不可の判断がなければ兄弟は何もできていなかった。無論、レクが人間を唆したわけではない。ただひたすら人間から最後の認証を求められていただけだ、頼り切られていただけだ。しかし、だからこそレクというオリジナルA.I.は悦ばしかっただろう。芍薬にはその悦びを否定することはできない。だが、否定することができないからこそ、唾棄せずにはいられない。
「あんたは佞臣ねいしんだ」
 突き出された芍薬の言葉に、レクは応えられない。いや、敬愛するマスターの破滅という厳然たる事実にそれを裏書きされて、もう泣くこともできない。そのレクの様子によって芍薬は最後の選択肢を得た。そして最後の決定も、今、終わった。
「立ちな」
 芍薬は拘束を解き、命じた。
 レクは従う。その身に纏う司教服が悲しく揺れる。自由を取り戻したレクは抵抗の素振りすら見せなかった。その顔には諦めがある。消滅を前にして震えながら、望みは既に消えていた。
 芍薬は手を振るった。
「ひ!」
 レクは悲鳴を上げた。恐怖のためではない。“痛み”のためである。レクは芍薬が何をしたのか見えなかった。ただ何かが“胸”の奥に侵入してきた時、その痛みによって何かが行われたことを知ったのである。
 芍薬が行ったのは、レクの内部に取り付けた『警報機』の改変だった。レクの目に止まらなかったのはそれを成すための“針”であり、針はレクの内部の『警報機』に触れるやすぐにそれへと新しい機能を追加した。その機能とは、
「あんたの構成プログラムに、今、『爆弾』を仕掛けた」
 その言葉にレクが激しくガタガタと震え出す。全てを諦めていたとしても『死』を目前とすればやはり恐怖が勝る。レクが“バグ”を、あるいは耐えられぬ恐怖から『発狂クレイズ』してしまう前に芍薬は言った。
「その爆弾はあんたが解除を試みた瞬間、あるいは誰かに解除を任せた瞬間、作動する」
 レクが大きく見開いた目で芍薬を見つめる。芍薬は続ける。
「また、その爆弾は、マスターが何らかの違法行為を犯すことを止めない場合にも作動する」
「……え?」
 と、レクがうめく。その諦観に満ちた顔に一抹の希望が射し込む。
「え? え? ということは、消されないんですか? ワタシ生きてていいんですか?」
 芍薬はうなずきもせず、じっとレクを見る。
 その姿にレクはまた不安に襲われる。
 ややあって、芍薬は言った。
「アタシのマスターに感謝するんだね」
 その言葉に、レクは芍薬を再度見つめた。そして、
「あの……失礼ですが、もしかしてあなたは『芍薬』ですか? 王家様のA.I.様じゃなくって、『ニトロ・ポルカトの戦乙女』……」
「今頃気づいたのかい」
 呆れ顔の芍薬を、レクは目が飛び出さんばかりに凝視する。
「もっと怖い方だと思ってました」
 芍薬は苦笑した。だがマスターを守る存在が『怖い』と思われているのは都合が良い。
「アタシが怖いかどうかは、その爆弾が作動する時まで判断を保留しておくといいさ」
 表情を作らず、芍薬は世間話のように言う。するとレクはぞっとしたように胸に手を当て、肩を震わせた。司教服の金糸銀糸の刺繍がきらめく。と、それを見て、芍薬はふと訊ねた。
「ところで、その父ってのは助祭か、それとも司祭ってところかい?」
 その問いかけに、レクはまたも目が飛び出さんばかりに瞠目した。
「何故解ったのですか!?」
 芍薬は応えず、ただポニーテールを揺らした。カンザシがきらめいて、それを目に留めたレクがどこか不思議な顔でそのアクセサリーを見つめる。
「それより、あんたがこれから一番にやらなきゃいけないことは解ってるね?」
 問われたレクは何度もうなずいた。
「はい! ちゃんと後片付けをすることです!」
「あんたのマスターが連絡を取れる状態になったら、追って連絡してやる。それまで待っていな」
「――はい!」
 その返事をしたレクの顔がどのようであったか、芍薬は知らない。芍薬はレクの返事を待たずにネットワークへと飛び出していた。
 うまくショッピングセンターから抜け出たマスターは、現在、地下鉄のプラットフォームにいる。
 芍薬は『衣装合わせ』の前に軽食を取っておこうというマスターの言葉に“副意識”で応えながら、自身の次に向かうべき場所へ連絡を入れた。すぐに応答がある。芍薬は相手から用意されたスペースへと降り立ち、通話システムを開きながらその車のダッシュボードのモニターへ肖像シェイプを表す。――と、
「コレハ『貸シ』ヨネ」
 開口一番、モニターに備わるカメラの向こうで彼女は険悪に言った。
 芍薬は内心にやりと笑う。流石だ。そのように言うのは彼女が事情と事態を完全に理解していることに他ならない。話が早くて実に助かる。そこで芍薬は肖像シェイプの肩をすくめて、
「これが何の『貸し』になるんだい?」
 と、鼻で笑ってみせた。
 するとティディアは唇を歪ませ、毒づくように言う。
「デートノ機会ヲ逃シタワ」
 芍薬は軽く言い返す。
「どちらにしろデートなんかできなかったさ」
「コノ後、スーツ選ビヨネ?」
「もちろんアタシも参加するよ」
「オ店ノ近クニ、トッテモ美味シイレストランガアルノヨネ」
「もう家に用意してある」
「素敵ナ淑女ヲ招待スル用意ハ?」
「そんな奴がどこにいるんだい?」
「イクラ何デモズルクナイ? アンナ風ニ私ヲ利用シテオイテ」
「主様を利用し続けているくせに、言えたことか」
「……悪イコネ、芍薬チャンハ」
「自分が善人だと思ったことはないよ」
「善人ダト思ッテイナケレバ何ヲシテモイイッテワケジャアナイワヨ?」
「そうだね。それはその通りさ。だからアタシもいつかは報いを受けるかもしれない」
「カモシレナイ?」
「どういうわけか報いを受けることのない悪人ってのも世の中にはいるもんだろう? それでも人間の場合は死後の報いがあるっていうことらしいけど、A.I.コッチにゃそんなものはありゃしないんでね」
「世ノ中、ホント理不尽ヨネー」
「ああ、実に理不尽だ」
 そこで初めてティディアは笑った。大声で笑った。
 ひとしきり笑ったティディアは、ぐっとカメラに顔を寄せ、
「ニトロハドコマデ知ッテイルノ?」
「今のところ、何も」
 ティディアは座り心地の良いシートに深く腰を沈めて、腕を組んだ。
「A.I.ハ消シタ?」
「生かしてあるよ」
 その言葉にティディアは眉を動かした。
「ドウシテ?」
「そっちはどうする気なんだい?」
「――ソウネー。一応『ドッキリ』ダトシテモ、王女わたしニ刃ヲ向ケタノハ事実ダシネー」
 芍薬は例のサイトを確認した。『フリージャーナリスト』の運営が前もって対策でもしていたか、接続は不安定だがサーバーはダウンしていない。張り込ませていたロボットが、ティディアがあの後どのような行動に出たのかを報せた。ティディアは芍薬から受け取ったビデオカメラで自分を映し、しばらく不機嫌な様子を見せた後、急に微笑を浮かべると茶目っ気まで浮かべて『な〜んちゃって』と言っていた。それは明らかに、本番前にトルズク兄弟が視聴者に向けて語っていた『前説』――その趣旨と計画に基づいた『クレイジー・プリンセス』からの“やり返し”だった。
ソレガ本当ナラニトロニ向ケラレテイタ、ッテ思ウト量刑モ増シテヤリタイ気分ダケド」
 芍薬は黙して相手の出方を待つ。
 ティディアは画面をとおし、芍薬の『心』を覗き込むようにして、言った。
「ドウモネ、何ダカ既ニ強烈ナ罰ヲ与エタ気ガスルノヨネ? ソシテソレハ刑務所デハ与エラレナイモノダト思ウノ」
「気のせいじゃないかい?」
 しれっと芍薬は言う。ティディアは憎々しげに――反面親しげに――芍薬を睨み、
「ヒョットシテ芍薬チャンハ、トッテモ残酷ナノカシラ」
「さてね」
 またもしれっと芍薬は言う。ティディアは微笑んだ。そして、言う。
「私ハ何モシナイ」
 芍薬はティディアを見つめる。ティディアも芍薬を見つめる。
「一応聴取ハシテオカナイトイケナイカラシバラク拘束スルケレド、ソレガ終ワッタラ解放スル。デモスグニ警察ガ向カウデショウ。彼等ガ自分デ事ヲ公ニシテイタノダカラソレハ当然ノコトネ。ダカラ、誰カカラノ提案ガナイ限リ、私ハ何モ止メナイ。起訴スルカドウカニモ関与シナイ。起訴サレレバ、マア、執行猶予ガ付クンジャナイカシラ」
「第一王位継承者様を巻き込んだんだ、普通なら実刑だろう?」
「『な〜んちゃって』ッテ言ッチャッタカラネー。……言ワナイ方ガ良カッタ?」
「言わなかったら司法よりも『マニア』が黙ってなかったろうね」
「ソウシタラドコカノオ人好シハ気ニ病ンジャウデショウネー。出発点ガ自分ダカラッテ」
 むしろそれさえなければ私が――といった調子を裏に忍ばせてティディアは言う。
 芍薬はティディアの言外の意図には付き合わず、うなずきを見せて、
「それなら『保険』もよく利くよ」
「保険?」
「A.I.を消さなかった理由さ」
「アア、ナルホドネ」
 ティディアはすぐに飲み込み、うなずき、最後に目を細めた。
「デモ、アレラハモウ“不能デキナイ”ト思ウケド?」
 芍薬はうなずく。その予言を肯定しておいて、さらに相手が全てを了解しつつ促してきたことを理解しながら、ため息混じりにサービスしてやる。
「貧すれば鈍すって奴さ。朝の時点で、ああいう騒ぎを起こした以上、彼らは生活が今より苦しくなる。しかも時の経過は心を癒すって言うだろ? だけど同時に心を腐らせることもあるらしい。遠い将来、不能なりの自暴自棄ってやつもある。悪意を吐き散らすことくらいはできるかもしれないし、理不尽な怒りを募らせる可能性もないわけじゃない。大切な『家族』が消されていたとしたらなおさらさ」
出発点ガ、ニトロダモンネェ」
 その言葉には不思議な響きがあった。思い遣りに満ち、一方で冷酷な硬さがあり、慈悲に温かく、他方で肺の焼けるような吐息が混じる。多層構造の声を分析きいた芍薬は黙してティディアを見据える。ティディアは何か物憂げに目を上向けていた。まるで現実ともう一つの現実の狭間に芍薬の語らずにいる事々が形となって浮遊している、それを私は見通しているのだと言わんばかりにくうを見つめて、そのままの姿勢で言う。
「ソレニ、『「オリジナルA.I.」ノタメノ人権団体』モ面倒、カシラ?」
 そのセリフに芍薬が反応する。ティディアはいつの間にか目を芍薬へ戻していた。その眼差しは芍薬の“心臓”をあえて外している。芍薬は、仕方なくうなずく。
「今回は相手レクの存在も広まっていた。騒動の経緯から注目する奴はいるだろうし、事が王女や『ニトロ・ポルカト』に関わるならここぞと狙ってくる奴のない方が不自然だ。情の無い所有関係やどうしようもないA.I.なら世間の同情も引けないだろうが、今回のはそうでもなかったんでね」
「相手ガ生キテイレバ“攻撃ノ材料”ハ逆ニナクナッチャウモノネー。残念ガルノハドレクライイルカシラ」
 意地悪く言うティディアは愉快そうなのに、声の底にはどこか無機質な響きがある。芍薬がうなずきもせず否定せずにもいると彼女はふと思いついたように、
「ソレニシテモ。ソノ様子カラスルト芍薬チャンハドウモ彼ラニ好意的ジャアナイミタイネ」
「……」
「芍薬チャンハ、『人権』ハイラナイノ?」
「それは“いる・いらない”の次元の話かい?」
「イケズー、ソンナ語弊ハ無視シテクレテモイイジャナイ。デ?」
「……お題目通りの『人権』ならいらない。人間じゃないからね。もしアタシらにも人権に類する権利があるなら、それはきっと人間が思うのとは別の形をしているだろうさ」
「ソレハドウイウ形?」
「さてね」
「王女様トシテ、参考マデニ聞キタイワ」
 芍薬は間を置いた。これ以上話す理由も義理もない。が、話さずに去るのも質問から、それもこの相手から逃げたようで気分が悪い。芍薬はサービスが過ぎるなと内心息をつき、言った。
「あえて言うなら尊重ってやつじゃないかい?」
「尊重シテイルカラコソノ話ジャナイカシラ」
「そうかい? 素晴らしい錦を使っていても体に合わない服は不恰好だ。お仕着せならなおさらね。息苦しくて、かえって望み通りに動けない」
「望ミ?」
「『在り方』が違うのさ。そっちの論者の中にはアタシらをマスターに絶対服従の哀れな奴隷と言う奴もいるけれど、それはどうしたって人間の価値観だ」
「私ハ芍薬チャンガ、ニトロトソウ価値観ヲ違エテイルヨウニハ思エナイケレド?」
「相変わらず嫌な奴だね」
 芍薬はティディアを睨む。ティディアは、微笑する。芍薬は言った。
「だけど……それでも“違う”んだ。アタシらに眠りはいらない。だから本当のところでは人間が眠りを欲するのを実感できない。そこでアタシらが人間達に『眠るのは実は怠けたいからだ』と言ったらどうだい? アタシらには食もいらない。だから食欲も体得できない。そこで『食べるのは実は他の生物を殺す正当性を得たいからだ』と言ったら? 人間は腹を立てるか、冷笑するんじゃないかい?」
「ソレジャア、ツマリハ迷惑ナダケ?」
「全てが迷惑だとは言わないよ。実際大事に思ってくれる気持ちは嬉しいし、何から何まで無情に扱われちゃあ、それは悲しい。けれど、結局のところ人間そっちが話しているのはアタシらの権利についてじゃあない、相手の人権を尊重するのか、相手に人権があるから尊重するのか、そういう根本から含めてあくまでそっちの倫理と感情問題にすぎないのさ」
「ナカナカ手厳シイワネー。ソレニ簡単ニ“尊重”ッテ言ウケレド、ソレッテドコカ他人行儀ジャナイカシラ。距離ヲ感ジルワ。折角コチラハ融和ヲ目指シ深イ親愛ヲ寄セテイルッテイウノニ」
 ティディアの瞳の色は、芍薬には常と変わらずに見える。しかしさっきからずっと誘導尋問的な言葉の薄っぺらさを分析かんじ取っていた芍薬は、今この時、この蠱惑の魔女の瞳は、人間にはきっとアタシとは“違って”見えるのだろうと強くかんじた。例えば運転席でずっと沈黙を貫いている女執事ならどのように感じるだろう? 今一度あの兄弟を対面させたらどう反応するだろう。ハラキリ殿なら? そして主様なら、この人間の底無し沼からどんな印象を引き上げてくるだろう。芍薬は、肩をすくめた。
「他人で何が悪いんだい。何から何まで同じになっちゃあ誰が誰だか解らなくなるじゃないか」
 日々様々な意見陳述を受け取る第一王位継承者は笑った。その笑顔には薄っぺらなところは何もなく、むしろ透き通るような親愛があった。
「貴重ナ意見ヲアリガトウ」
 満足気に、そして楽しげにそう言った後、ティディアはふと真顔となり、
「トコロデ、今回ミタイナ面倒事カラ常ニニトロヲ守ルニハ今スグニデモ私ト結婚スル事コソガ一番ノ良策ダト思ワナイ? ソウスレバ何ヨリ安全ハ保――アレ?」
 提案、というよりは妄言の途中で芍薬はティディアの眼前のモニターから肖像シェイプを消していた。サービスはここまで。とっくに用件も済んでいる。これ以上この場に留まる必要はない。そこで芍薬は、戸惑うティディアに一つだけ言い残す。
「ま、期待通りだったよ」
 その言葉にティディアは口元を緩ませ、ぐっと背をそらした。
 それを一瞥した芍薬は、マスターの元へと急いで戻っていった。

 芍薬がレクを生かした理由は、無論、ティディアに語ったことが全てではない。
 この件におけるトルズク兄弟の最後の動向を芍薬に伝えたのは、レクに設置された『爆弾兼警報機』に付随する“情報提供機能”だった。つまり芍薬はレクを生かすと決めた時、ついでにレクを一種の情報収集用のロボットとして利用することにしたのである。しかもそれは通常のロボットにはない動きを可能とする。レク自身が不規則に働くだろうし、時に不合理な指示を出す人間マスターがA.I.には無い視点から有益な情報を掘り当てる可能性だってある。それは実に価値のあることだ。『マスター権限』のコピーも握ったままなのでレクをゾンビA.I.として活用する道だって残っている。もちろんそれはそうしなければならない時にしか行わないし、今後のトルズク兄弟のプライベートを覗き見、あるいは監視するつもりも毛頭ない。よもや『警報機』が鳴るような場合は例外であるが、それまでは他のロボットが運んでくるデータと同じ扱いである。
 そしてそのための区切りをつける最後の報告……その二人と一人の顛末が芍薬に伝えられたのは、ちょうどニトロがシャワーを浴びている時だった。芍薬は多目的掃除機マルチモニターを操作してベランダの小さな家庭菜園からハーブティーの材料を採っている最中で、専用の鋏でカモミールを切り取りながら、芍薬は情報を確認した。
 ――ひどくしょぼくれた声が聞こえてきた。弟のトルズクだ。
「トンデモナイコトヲシチャッタネ」
 兄は、答えない。
「デモ、何デ解放サレタンダロウ。モット怒ラレルト思ッタノニ」
 兄は答えない。
 弟は何かこびりつく暗さを底に隠して言う。
「ネエ、兄チャン、オ腹空イテナイ? コレカラドウナルカ解ラナイケドサ――」
「ナア、ムンド
「何!? 何ダイ? 兄チャン」
 しばらく沈黙がある。
 兄は苦しげに言う。彼の声の底にも何か粘りつく暗さがある。その暗さは弟のものより重く、底深い。
「俺ハナ、モウナ、イヤ、モット前カラナァ……」
「イインダヨ」
 弟が言った。力強く。しかし、声は泣いている。そんな弟に兄は何かを言おうとしているようだ。何かを言おうとして、言えずに吐く息だけが噛み殺される。兄の無残な様子に耐えられなくなったらしく、弟が悔いを滲ませ、一方では己の悔いを兄の慰めとするように口を開く。
「僕ネ、今、何ダカ僕コソガ兄チャンヲ追イ詰メテタンジャナイカッテ思ウンダ。ウウン、本当ニ僕ガ兄チャンヲ苦シメテイルンダ。ダッテ、僕サエイナケレバ「ソレハ違ウ!」
 ふいに兄が声を荒げて弟の言葉を遮った。その声が震えているのは怒りのためだけではないだろう。波打つような声を消え入らせながら、彼はぽつりと付け加える。
「ソンナコトハ言ワナイデクレ」
「デモ、本当ハズット思ッテ……」
 弟の声も震えていた。善かれと思った言葉が完全に裏目に出たことを悟り、彼はひどく狼狽していた。すると、動揺する弟を慰めるために気力が湧いたらしい兄がやっとしっかりと言葉を発した。だが、その暗い声はひび割れた笑いを伴い、
「アア、ソウ思ッテイルンジャナイカッテ、ズット思ッテイタヨ」
「兄チャン……」
「駄目ナ兄貴ダナァ、俺ハ。『ジェントルマン・ディンゴ』ノヨウニオ前ヲ守リタカッタ。オ前ノ好キナ彼ノヨウナビッグナ男ナツモリダッタ。ケレド彼ノヨウナ紳士ニスラナレテイナカッタッテコトニ、ヤット気ヅイタヨ」
「ソンナ」
「ツクヅク思イ知ッタ。ティディア様ノ御目ニ、オ言葉ニ、俺ハ俺ノ小ササヲツクヅク思イ知ラサレタ」
「……怖カッタネ」
「アア」
「……僕達、コレカラドウナルノカナ」
 弟は何か重大な事柄には触れないように、そう言っているようだった。
 ややあって、兄が答えた。彼もまた弟の触れぬことを避けて言う。
「逮捕サレルダロウナ」
 その言葉も、弟にとっては重大だった。思わぬほどの声が吐き出される。
「ソンナ!!」
「ティディア様ニアンナコトヲシタンダ。『ナ〜ンチャッテ』ジャ済マサレナイ」
 理性的に兄は言う。
「ダガ、キットオ前ハ大丈夫ダ。主犯ノ俺ハ刑務所行キニナルダロウガ、オ前ハ大丈夫ダ」
「ヤダヨ! 僕、兄チャント一緒ニ……」
「仕方ナイ。……仕方ナイサ」
「……デモ」
 そこで弟は息を止めた。兄の息遣いも失われている。弟はとうとうそれを言った。
「僕ハ一人ジャ……」
 その時だった。
「一人ではありません!」
 突然のオリジナルA.I.の声に、兄弟は驚愕したようだ。また息が止まる。そして次の瞬間、揃って声を上げる。
「「レク!?」」
 それは歓喜だった。その驚きと喜びに満ちた声からは、二人がずっと押し殺していた暗さの一部、それも絶望的な一部が瞬時に消し去られていた。
「無事ダッタノカ! アア、良カッタ!」
 兄が涙声で言う。
「俺ハテッキリ消去サレテシマッタモンダト……」
「『ニトロ・ポルカト』さんが助けてくださいました」
 レクの答えに兄弟がまた驚きの声を上げる。
 芍薬は、ハーブティーの作業を止めて注意を向ける。
「『ニトロ・ポルカト』ガ?」
「はい」
「何故?」
「解りません。しかしA.I.芍薬がそう言っていました」
「ソウカ……」
 うなだれたように兄が言う。
「ネエ、兄チャン。『ニトロ・ポルカト』ハ、モウ悪ク言エナイネ。ダッテレクヲ助ケテクレタンダ」
「アア、ソウダナ。本当ニ、本当ニ無事デ良カッタ、レク……」
「……はい、はい、マスター」
 レクは泣いている。
 しばらく二人と一人の泣き声と互いの無事を喜ぶやり取りが続く。
 芍薬は、三人の会話をバックに再び作業に戻る。
「ドウセナラ一度会ッテミタカッタネ」
 弟が言った。
「ヤッパリニトロ君ハ良イ人ダッタンダ。ドウイウ人ダッタノカナァ」
「イヤ……」
 兄が否定を示した。
 芍薬は手を止めた。
 彼は重苦しく言う。
「タダ良イ人ダトハ思エナイ」
「兄チャン?」
「アノティディア様ト『漫才』ナンカデキルンダゾ? ソレドコロカ『恋人』ナンダ。俺ニハ考エラレナイ。彼ハ普通ジャアナイ」
 芍薬は思わず笑ってしまった。
 弟もレクも感嘆と共に同意を示す。
 もう大丈夫だと確信し、また作業に戻る。
「マスター、ところで、ムービーメールが来ています」
 会話が落ち着いたところで、レクが言った。
「誰カラダ?」
「『ジェスカ・ポルカロ』」
 その送り主の名に兄弟が呻く。弟はあからさまに怯えている。恐る恐る、兄が訊ねる。
「何ダッテ?」
「とてもお怒りです。知られてしまったようです。というよりも、現在『トルズク・ブラザーズ・ビッグニュース』は全国トップクラスの注目度です」
「アア!」
 兄が声を上げた。それは歓声ではなく、痛恨だった。
「忘レテイタ! レク、スグニ消シテクレ!」
「ご、ごめんなさい、ワタシには無理です!」
「何故ダ!?」
「権限を剥奪されています、管理画面にアクセスできません」
「誰ガ!?」
 と言って、兄は呻いた。悟ったのだ。誰に奪われたかを。
「神ヨ、コレモ罰ナノデスネ」
 力なく、言う。
 だが、おそらく兄は誤解している。権限を奪ったのは王女ではなく芍薬だった。そして芍薬はあのページを三日後に削除されるよう設定し、それまで加算されるであろう広告収入は『個人報道インディペンデント・リポート被害者救援基金』に寄付されるよう手配していた。
「キット御父サンモ怒ッテルイダロウネ」
 ふと、怯える子どものような声で弟が言った。
 すると兄は、一転愉快そうに――しかしどこか力なく――笑った。
「ソウダナ、オ怒リダロウ」
 それでも弟は兄の笑い声に元気を取り戻したらしく相槌を打っている。そこにレクが問うた。
「ところで叔母さんにはどうお返事されますか?」
「他ニハドンナコトヲ?」
「戻ってきなさいと、叩き直してやるから、と」
「ソウカ。ソレジャア、ソウスルカ、ナア、ムンド? オ前ガ叔母サンノ所ニイルッテイウナラ、俺モ安心ダ」
 その言葉に、弟は返事をしない。しかしその沈黙で全ては理解できる。
「チャント俺ガ頼ンデオクカラ。父ニツイテモナ、叔母サンハ理解シテクレテイルカラ」
「……ウン」
「ソウダ、借金ノコトモ叔母サンニ相談シテオカナキャナ」
「……キットモット怒ラレチャウネ」
「頭ヲ下ゲルサ」
「一緒ニネ」
「……。
 アア」
 躊躇いがちだとしても兄が承知してくれたことに弟は嬉しそうに笑い、と、
「ア!」
 急に切羽詰った声を上げた。
「大変ダ、兄チャン! モウ貯金ガナイ! オ給料マデ日ニチガアルシ、コレジャア次ノ返済ガデキナイ! ドウシヨウ、叔母サンダッテスグニハオ金ヲ貸シテクレルトハ思エナイヨ、家賃ダッテアルノニ!」
 弟は心底慌てている。すると、
「ソノ点ニツイテハ安心シテクレ」
 と、兄が言った。何かごそごそ音がする。
「コレヲ見ロ」
「ベルトガドウカシタノ?」
「コノバックルニハ仕掛ケガアッテナ?」
 かちゃりと音がする。
 弟とレクが驚きの声を上げる。
「10万リェン札!」
「マスター!?」
 どうやら弟はもちろん、レクも知らなかった資金であるらしい。弟がちょっとパニック状態で兄に問うている。兄はどこか何かを恥じるように答える。
「子ドモノ頃カラノ貯エデナ。何カアッタ時ノタメニッテ、コレダケココニ隠シテイタンダ。レク、家賃モ含メテ給料日マデ何トカ持ツカナ?」
「はい!――あの、それと、マスター」
「ドウシタ?」
「実はワタシもへそくりがあります」
「エ?」
「1万リェンだけですが、昔頂いていたお小遣いの中からマスターの大昔の口座に入れておいたものがあるんです。足しになりますよね?」
「レク! アリガトウ! オ前ガイテクレテ本当ニ良カッタ!」
 そのマスターが感謝を伝える声には純粋な想いがあり、それ故、レクはまた泣いている。
 やがて、しみじみと弟が言った。
「ネエ、兄チャン」
「ドウシタ?」
「ヤッパリ兄チャンハ、今ダッテ僕ノヒーローダヨ」
 芍薬は、そこで記録の再生を止めた。
 パジャマに着替えたニトロが部屋に戻ってくる。
 ハーブティーの準備は既に終わり、後は頼まれるのを待つだけとなっている。
 ニトロは勉強机兼食卓のテーブルにつき、ぼんやりと宙を見つめた。そして、
「芍薬」
「何だい?」
 てっきりハーブティーを頼まれるのだと思っていた芍薬は、ニトロの次の言葉に驚いた。
「何カ話スコトハナイ?」
「え?」
「服ヲ買ッテタ時、何カシテイタデショ?」
 マスターはまだ今日の各種ニュースを見ておらず、衣装合わせの際に『相方』もそれを話さず、またハラキリや他の友人からのメールにも触れられていなかったためトルズク兄弟の件をまだ知らない。だというのにそう問われ、芍薬はすぐには反応できなかった。それは驚きのためだったか、あるいは躊躇のためであったろうか。しかし芍薬は――人間ニトロの体感では――すぐに訊ねる。
「何故だい?」
「ナントナクネ」
 その言葉が妙に嬉しいと感じるのはマスターの勘への賞賛のためだろうか、それともそれが無根拠な問いであるこそであろうか。芍薬は悪戯を仕掛けるように微笑み、問う。
「外れてたら何て言うつもりだったんだい?」
 ニトロは笑む。つまり『何かしていた』と告白したオリジナルA.I.へ、
「ソッカ、ッテ言ウダケダッタヨ」
「そうかい」
 と言って、思わず芍薬は笑ってしまった。ニトロも笑う。笑いが収まったところで、芍薬は語った。端的に、ニトロも知っている登校時間中の校門での騒ぎから始めて、ある兄弟とそのオリジナルA.I.が経た過日かじつの終わるまでを。
 途中、ニトロは二度ほど酷く渋い顔をして、一度はとても複雑な顔をした。
 一度目の渋い顔は、きっと、もっと穏健で、もっと優しい手段はなかったのかと考えたからだろう。が、何の手も思いつかなかったらしく、結局何かを口にすることは無かった――いや、例え妙案を思いついていたのだとしても、マスターがその可能性を以てアタシを難じることはなかっただろうと芍薬は思う。彼が二度目に顔を歪めたのは、無論、ティディアを利用した点についてである。そこでも彼は何も言わなかった。
 複雑な顔をしたのはレクという名のオリジナルA.I.が、自分ニトロの命令によって助けられたようにしてしまったことに対してだった。しかしここでも彼は無言を貫いた。とはいえ、そのオリジナルA.I.が消されずに済んだことにはとても安堵している様子だったから、芍薬自身もまた、深く安堵していた。
「『ジェントルマン・ディンゴ』カ……」
 そして全ての話を聞き終えた後、ニトロは言った。
「ドッチノファンダッタノカナ」
 トルズク兄が何度か言及し、ニトロも興味を示した『ジェントルマン・ディンゴ』は今から二十年近く前の作品である。コミックとアニメがあり、人気を博したのは後者で、ハードボイルドとコミカルをほどよく調合した勧善懲悪ストーリーは当時の子ども達を夢中にさせたという。しかし原作は解りやすいヒーロー物ではなく、それどころか毒に満ちたアイロニカルなドラマだった。事件が起こったのはアニメの最終回である。不穏な空気はそのラスト三話目から漂っていたが、最終回にしてそれが凝縮した。痛快でかっこよく、紳士的なヒーローを描き続けていたアニメが急に原作のテイストを濃密に押し出したのだ。ラストシーンでは究極の正義を求めるディンゴが地獄のような白昼夢の中をさまよい、その最中にたまたま行き会った老人(実はディンゴの生き別れの父)を巻き込んで車道に飛び出すとそこに走りこんできたダンプカーに二人の轢かれる音が青空を映す画面に流れ、次いで目撃者達の悲鳴が響き渡り、それに被せるように鳴り響いた救急車のサイレンが次第にフェードアウトしつつ……番組は終わった。直後に流れた『ジェントルマン・ディンゴ変身セット』のCMとのギャップは凄まじく、多くの子ども達にトラウマを残したものである。
 壁掛けのモニターの中で首を傾げ、腕を組んで芍薬は言う。
「多分、アニメじゃないかな。それで『ラスト三話は無し派』だと思うよ」
 すると、ニトロが不思議な表情を刻んで言った。
「『ラスト三話ガアッテコソ派』ニ熱ク語ラレタコトガアルヨ」
 初めて聞く話に芍薬は目を輝かせる。
「いつの話だい?」
「小学6年ノ時。ソイツハ『デモ原作ガ至高』ッテ言ッテタヨ。原作通リノモノヲアニメデ見タイッテ言ッテ、テイウカ漫画ヲ元ニA.I.ニアニメヲ作ラセテ、自分デ声ヲ入レテイタ」
「できはどうだった?」
「『過チヲ犯ス者ハ愚カダ。シカシ過チヲ恐レル者ハ敗北者ダ。始メカラ己ニ負ケテイル者ガ、本物ノ男ニナレルハズモナイ』」
「?――ディンゴのセリフだね」
「俺ニトッテハ、ソイツノ座右ノ銘」
 そう言ってニトロは懐かしそうに、また寂しそうに笑う。
「今思ウト、モット他ノ言イ方ガアッタト思ウヨ」
「……」
 芍薬はニトロを見つめ、間を置いた。そうしておいてから話頭を転じるため、
「主様は、どっちが好きだい?」
「原作ハホトンド未読。アニメモ、観タコトガアルハソイツノ二次作品ダケナンダ」
「あ、そうだったのかい」
 少し気まずくなる。ニトロは過去を眺めるように黙し、芍薬は所在無げにユカタの袖を振る。やがて、ニトロがぽつりと言った。
「今度、全部読ンデミヨウカナ」
「原作を?」
「アニメハ見テイル暇ガナサソウダカラネ。取リ寄セテオイテクレル?」
「御意」
「ソレカラ、オ茶ヲオ願イ」
「承諾」
 芍薬は大きくうなずいて、早速多目的掃除機マルチクリーナーを動かした。アームの先に取り付けた調理用ハンドを器用に動かし、用意しておいたガラスの茶器とハーブを取り扱う。
「ソウイエバ」
 ニトロがふと思い出したように言う。
「昼間ノ格好ハ何ダッタノ?」
 ガチャンと、芍薬は茶器をぶつけた。割れなかったのは幸いだった。
「え……とね?」
 芍薬は目を泳がせた。モニターの肖像シェイプの周りに汗が飛ぶ。珍しい芍薬の様子にニトロは忍び笑うように言った。
「牡丹カ百合花ユリノハナニデモヤラレタノカナッテ思ッタンダケド」
 図星である。
 芍薬の肖像に大きな汗が浮かぶ。
「芍薬?」
 促され、芍薬はしぶしぶ話し出した。
 そしてニトロは笑った。今日一番の大笑いだった。無理もない。彼の目にはアフロ頭のいただきにカンザシを突き刺した芍薬の姿が焼きついているのである。しかし笑い過ぎであった。始めはマスターが笑ってくれるならいいかと思っていた芍薬も次第に機嫌を損ねていき、とうとうコメカミに大きな怒りマークを表し、
「主様のバカ!」
 怒鳴られたニトロは己の失態に気づいたが、もう遅い。モニターから芍薬の姿は消えていた。ニトロがいくら呼んでも芍薬は戻ってこない。何を言っても応答がないから、しまいには彼も機嫌を損ねてしまった。
 その夜、ニトロは久しぶりに自分で就寝前のハーブティーを淹れた。独りで静寂の中でそれを飲み、黙々と茶器を洗い、無言でベッドに入った。
 芍薬もニトロに「おやすみ」と言わなかった。
 何度も何度も寝返りを打った後、ニトロはやっと眠った。
 彼の胸の内は、その姿を見つめていた芍薬には想像することしか出来ない。そして想像したところで、それは、そうだ、百合花の言った通り自己満足に過ぎないだろう。
 それでも芍薬は思う。
 朝にはちゃんと仲直りをしよう。きっと主様も、それを望んでいてくれるはずだから。
「……」
 芍薬はマスターの寝顔から電脳世界へと目を移した。
 そろそろ日付が変わる。
 一日が終わり、また一日が始まる。
 芍薬はカンザシに触れ、触れた手を胸に当て、ぐっと拳を握りこんだ。
「さあ、今日も張り切っていこうか」

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