ある日の芍薬
(あるいはオリジナルA.I.変奏曲)

(『第三部 『心』より』の数日後)

 ドン!――
 その時、アデムメデス三大ファストフードチェーンの一つ『トクテクト・バーガー』の店内に破滅的な音が鳴り響いた。
 評判の良いモーニングセットで日中のエネルギーを得ようとしていた客達がびくりとして振り返る。中には面倒事に巻き込まれないようにとサンドイッチを見つめながら、耳だけはそちらに向けている者もある。注文のやり取りをしていた店員と客は驚いて言葉を飲み込み、共に揃ってそちらを見た。
 朝の光の射し込む窓辺に、二人の男性客が座っている。その片方がテーブルに打ちつけた拳をぶるぶると震わせていた。痩せ型で、どちらかといえば女性的な顔をしていて、童顔である。鳶茶の髪に暗緑色の瞳。自慢げに整えられた髭が実に似合っていない。その顔の造作と髭のアンバランスさが正確な年齢を曖昧にしていた。一方、テーブル上で大仰に震え続ける拳の前にいるのは顔も体も全体的に丸い男だ。年の頃は……いかほどであろうか? 丸く膨らんだ頬が年齢を曖昧にしていて、四十代にも見えるし、逆に成人したばかりであってもおかしくない。金髪碧眼。今時そばかすを残しているのはポリシーのためであろうか、あるいは除去施術が怖くて避けているのだろうか、横から見ても分かるほど垂れ気味の眉は本人の性格を正しく表しているようで、彼は非常に気弱そうに背中を丸めて髭面の男を窺っている。
 シンと静まり返った店内にアイドルグループの流行歌が流れていた。底抜けに明るい合唱が止み、キッチュなメロディの間奏が始まると、まるでそれに合わせるように、
「おお」
 衆人環視、好奇心と警戒心の渦中、髭の男が唸った。そして、叫ぶ。
「おお! 弟よ! 昨夜の敗北により、ついに我々の借金は100万を超えてしまった!」
「ああ! 兄ちゃん!」
 髭のセリフに丸い男が声を上げる。それは実に痛々しく、聞く者の同情心を思わず引くほど嘆きに満ちていた。
 ――だが、やがて、店内は平時を取り戻していった。
 音の大きさのあまりに何が始まるのかと思ったが、問題の人物が暴れ出すようなことはなさそうである。
「おかしいとは思わないか」
 叫んだ際の慨嘆から幾らか落ち着きを取り戻した口調で、しかし大声で髭の男が言う。
「いや、これは実におかしいのだ。俺達は何をやってもうまくいく最強の兄弟のはずであるのに、何故こうもツキに見放されているであろう!?」
「判らないよ、兄ちゃん!」
 ……声が大きくうるさいのは迷惑であるが、出だしに比べれば音量も落ち着いている。注意するかどうかぎりぎりのラインといったところだろうか。だからこそまた迷惑ではあるが、あまりに酷ければ店員が動くだろう。客らは眉をひそめて食事を進める者と会話の内容に好奇心を刺激された者との二派に別れ、レジに立つ店員はひとまず経済活動を再開し、店長だけは店の利益を守るためにカウンター内の隅で警戒心をむき出しにする。厨房でただ一人働く人間チーフスタッフはフル稼働する自動調理システムに作業を急かされて店内の騒ぎに気づいていない。
 髭面の兄が拳を持ち上げて言う。
「そう『判らない』!」
 彼はそこで大きく首を振り、一端目を閉じて動きを止めた後、敢然と意志を貫かんばかりに両目を開くや、
「だが、弟よ、判らない時、人間は一体どうすべきであるのか?」
「そりゃあ兄ちゃん……判らないからにはどうしようもないよ」
「違う! 弟よ! 判らないのなら判らないからこそ考えねばならないのだ! 聖典にも言われている――『常に問い、常に解かんと欲し、常に望まずして希求せよ。してまた常に行うべし』と!」
「『シボウの章 5−2』だね!」
「お、おう」
 言葉が途切れた。
 何人かが再び彼らに目を戻す。
 兄は軽く目を泳がせていた。
 弟は兄へ輝く瞳を向けていた。
 兄の手元にはSサイズのコーヒーが、弟の手元にはパンケーキのモーニングセットがある。それにしても似ても似つかぬ兄弟だと、誰かが思う。
「弟よ、さあ、冷めないうちに食べなさい」
 ニコリと笑って、兄が紳士的に進める。
 弟は分厚いパンケーキにとろりと艶めくメープルシロップをじっと見つめた後、
「でも、兄ちゃん、やっぱり僕だけこんなに食べるなんて」
「いいんだ、弟よ。兄はダイエット中なのだ」
「兄ちゃんは太ってないよ? ダイエットなんて必要ない、太ってるのは僕さ」
「何を言うのか、お前は太ってなどいない」
「でも皆はデブって言うよ」
「デブとは何であろうか!」
 弟の言葉に兄は突然怒声を上げた。それに驚いた弟を慈悲の眼で見つめ、声の底に嘆きとも憐れみともつかぬ響きを込めて、兄は語る。
「それは太っている者への侮蔑である。しかし太っているとは何か。それはベストな体形からプラスに外れているということだ。しかし弟よ、お前は昔は小さかった。その頃は病気ばかりしていた。しかし大きくなってからはどうだ? 医者から仕事を奪ってやったではないか。お前にはそれがベストなのだ。ベストな体形を“デブ”とは言わない。さて、兄は間違っているか?」
「ううん、間違ってない。兄ちゃんはいつでも正しいよ!」
「それではその兄は、昔に比べてどうかな?」
「変わってないよ。いつでも僕のベストの兄ちゃんさ」
「いいや、変わったのさ、弟よ。体重が2kgも増えてしまった」
「――! そんな!? 兄ちゃん!」
「だからいいのだ、弟よ、昔からそうであろう? 俺は少食だ。お前はたくさん食べる。俺の残した飯を美味びみそうに食べるお前を見る俺はそれで満たされる。だから、さあ、食べるのだ」
「――うん! 分かったよ、兄ちゃん!」
 弟は涙ぐんでパンケーキを頬張る。それを兄はにこやかに見つめ、そして、
「弟よ、考えねばならなかったのだ。だから兄は一晩考えた。考えて、悟った。これは神の試練なのだ、と」
「神様の試練?」
 弟は頬をパンケーキで膨らませ、その頬よりも大きく目を見開く。兄はうなずく。
「俺達はビッグになる運命だ。それは間違いない。なのに何故昨晩は大本命馬がスタート直後につまずき転倒してしまったのであろう。そこから読み取れることは一つだけである。――『立てよ、ヒーロー』――そうだ、神はそう仰っておられるのだ。試練を何一つ乗り越えることなくヒーローとなった者があるか? 否! ヒーローにこそ苦難は訪れる、ヒーローのみが、恐るべき逆境に巡り合う!」
 兄は勢い、握りこんだ拳を振り上げ叫ぶ。
「順風満帆は凡夫の道! 100万リェンの重荷を負った我らこそは神の試されたもう選ばれし兄弟なのだ!」
「ああ! 兄ちゃん!」
 パンケーキを飲み込んで、手にしたフォークを象徴イコンのように両手に握って弟は顔を輝かせる。――が、すぐに彼は消沈し、うなだれた。
「どうした? 弟よ」
「でも兄ちゃん。100万なんて大金、どうやって返していけばいいのかな。もちろん働くよ? でも僕の時給じゃいつになったら返せるのか判らないよ。……まさか!」
 と、ふいに弟は恐ろしい事実に気づいたかのように顔を真っ青にし、にこやかな笑みを浮かべる兄を凝視し、声を震わせる。
「兄ちゃん、まさか兄ちゃんも働く気なの? 駄目だよ、兄ちゃんがこつこつ働くなんてやっぱり似合わないよ、兄ちゃんはいつだって格好良くって、いつだって格好良くなくっちゃいけないんだ! いつだって自由で颯爽としてなくっちゃいけないんだ! なのに」
 今度は弟がテーブルを叩き出しそうな様子である。このおかしな兄弟の会話に、既に店内は注目し切っていた。どうやら無職で、弟に養ってもらっているらしい兄は尊大に手を差し出し、
「弟よ、落ち着くのだ」
 その促しを聞くや、ややもヒステリックに立ち上がりそうになっていた弟は膝を屈した。半ば浮いていた腰が落ち、がだん、と、椅子が悲鳴を上げる。
 弟がいくらか落ち着いたところで兄は鷹揚にうなずき、言った。
「確かに、ある意味では、働くということになるだろう」
「兄ちゃん!」
 再び弟が声を張り上げる。それを兄の口から飛び出した短刀が刺し止める。
「だが、それが誰も成し遂げたことの無い事であれば。どうかな?」
 予想だにしない言葉に貫かれた弟は呆けたように口を開け、やがて、兄へぐっと顔を寄せて、問う。
「――兄ちゃん?」
「ここだけの話なのだが」
 と、兄も弟に身を寄せるようにして、まるで秘密会議でもしているかのごとく声量を落とす。が、それでもその声はろくにパーティションも切られていない店内では十分周囲に聞こえるものだ。
「『ニトロ・ポルカト』――この者の写真は高く売れるのだ」
 弟は困惑した。いや、混乱していた。兄の言葉が信じられなかった。兄がそんな薄汚いことを言うなんて! だが、兄は弟の混乱にたじろがない。その目には確信があり、また正義がある。兄は続ける。
「それも普通の写真ではいけない。誰もが見たことのない傑作でなければ、いけない」
「兄ちゃん……つまり、どういうことなの? ニトロ君なら僕も知ってるよ? でも“普通じゃいけない”って、どういうことなんだい? ううん、それより人の写真を勝手に売るなんて、そんなの正しい人のすることじゃないよ!」
「『ニトロ・ポルカト』、彼は品行方正で知られている。ティディア様の恋人でありながら図に乗らず、勇敢で、今では『スライレンドの救世主』とまで呼ばれている」
「知ってるよ。僕、兄ちゃんの次に尊敬してもいいかなって思ってるもん」
「ああ、弟よ、お前はなんと純真なのか。しかしな、あれくらいの年代の男が、あんなに有名になっていながら品行方正でいられるものではないのだ。それは普通ではない。異常なほどに真面目か、本当に異常か、そうでなければ普通は調子に乗るものであるものだ。彼も例外ではあるまい。皆、ティディア様に気を遣って大声では言わないが、『ニトロ・ポルカト』が人目の届かぬところでは実は王様気取りだという話は随分ある、いや、絶えたことはないのだ。学校では毎日違う女子を侍らせている上に――保健室にはな、弟よ、ある時間は誰も近づいてはならないらしいのだ。ニトロ・ポルカト以外は
「兄ちゃん! でも、それは噂だろう!?」
「そうだ、噂だ、しかし根の無い草は茂らない。もちろんこれは誰にも確かめられたことのない話だ。だから、俺が確かめるのだよ」
「……兄ちゃん?」
隠された真実を解き明かすのもヒーローの仕事だ」
 そこで兄はふっとニヒルに笑った。
「いや、仕事、と言うには崇高すぎるかな?」
「ううん、そんなことはない、それは素晴らしいことだよ!」
 一瞬にしてこれまでの意見を反故にした弟は熱烈にそう言ったところではたと気づく。
「でも、兄ちゃん、どうやってそれを調べるの? それは学校の中に入らないと嘘か本当か判らないんじゃないのかな」
「その通りだ!」
 パン、と手を打って、兄は歓声を上げた。
「その点に気づくとは流石は我が弟。その通りだ。絶壁を登らねば蜂蜜は得られぬ。そしてその絶壁は難攻不落と音に聞く。何しろあのティディア様がお手をお貸しになっての警備陣であるのだから。しかし、手はある」
「何? 兄ちゃん、一体どんな手があるの?」
「これを見ろ!」
 と、兄は足元にあったバッグを取り上げ、中から何やら包みに覆われたものを取り出した。それは服であるらしい。しかも制服である。兄は口髭を大きく歪ませるほどの笑顔を浮かべ、
「ヒーローはピンチへの備えも怠らない! こんなこともあろうかと手に入れておいたのだ。なんと本物をレクが見つけてくれてな!」
「ガンバリマシタ!」
 ふいに兄弟のテーブルの上から声が響いた。置きっ放しだった携帯電話モバイルから突如鳴り響いた声であった。どうやらオリジナルA.I.が胸を張っているのだろう、弟は感激の目でモバイルの画面と、兄の得意気な顔と、兄の手にする学生服とを交互に何度も見やる。その眼差しにいよいよ自信を漲らせた兄が言う。
「世に溢れる偽物とはわけが違う。入手経路は企業秘密であったが証明書付きであるから間違いない。少々値は張ったが、なに、この料金もすぐにペイできる。保険……いや、先行投資というところかな?」
 ならば100万の借金のうちにその料金も含まれているのか。それとはまた別会計であるのか。そのように推察する周囲と違って弟は資金の出所を案じる素振りもなく、ただ兄の言う『本物』の響きに酔っている。
 確かに、その制服はよくできていた。このトクテクト・バーガーの店員は1km先にあるその王都立高等学校の制服をよく見知っているが、それでも一見しただけでは真偽を見破れない。デザインはもとより、生地の質感にも違和感がない。ことによると本当に『本物』かもしれない。――が、だからといって、それが何になるだろう?
 既に多くの客らがモバイルを手に、思い思いのインターネット・コミュニティに情報を載せていた。優秀な王家のA.I.や警察のA.I.はその情報を見逃すまい。そしてそれを待つまでもなく、ひょっとしたら王女様からお褒めの言葉をもらえるかもという儚い希望を胸に直接当局へ通報している者も存在する。
 さらに言えば。
 そもそも論として、
(ソレヲドッチガ着タトコロデ)――と、芍薬も思った――(高校生にゃあ見えないだろうさ)
 しかしその人間達は微塵もそうとは思わぬらしい。
「デモ兄チャン、ソレハ僕ニハ小サスギルヨ」
 弟は嘆く。あくまで純朴に、嘆いている。兄は慈愛に満ちて言う。
「馬鹿ナコトヲ言ウモノデハナイ。コノヨウナ危険ナコトヲオ前ニサセルワケガナイデハナイカ」
「トイウコトハ……」
「ソウ、兄ガ着ルノダ」
「ソンナ! 兄チャンハモウ三十ヲ過ギテルンダヨ!? イクラナンデモ無理ダヨ! サスガニバレチャウヨ!」
「無理カ……ソウダナ、常識デ考エレバソウデアロウ、ダガ、弟ヨ、俺ガコノ髭ヲ剃ッタラ。ドウカナ?」
 弟は息を飲んだ。兄を丸々とした目で見つめ、やおら賛嘆に顔を赤らめ叫んだ。
「凄イ、凄イヤ兄チャン! ソンナコトヲ思イツクナンテ!」
 と、叫んだ後、またも弟は興奮を一気に冷ましてがくりとうなだれ、あくまで鷹揚に胸を張る兄を上目遣いに見つめる。その目には深い嘆きがあった。弟は声を弱めて、言う。
「アア、デモ兄チャン、ソノ髭ヲ剃ッテシマウノ? ソノ自慢ノ髭ヲ……ソレホドノ覚悟ナノ?」
 兄は力強くうなずく。
「無論ダ」
 弟は顔を覆った。
「アア、アア、兄チャン、ソレナラ、ソレナラキットバレナイヨ。デモ、アア、兄チャン、ソノバッチリキマッタ髭ヲ剃ッテシマウナンテ」
「泣クナ弟ヨ。事ヲ成スニ犠牲ハ付キ物ナノダ。オシエニモアルダロウ? 『小事ヲ成スニモ万事ヲ捨テヨ』」
「『めノ章 1−3』」
「……ソウダッ」
 どこか動揺した兄の声を聞きながら、芍薬はため息混じりに思う。
(主様がここにいたら、きっとツッコミ疲れて汗だくだろうね)
 芍薬は兄弟が『ニトロ・ポルカト』と口にした直後からこの会話を聞いていた。それもすぐ傍で。芍薬が潜んでいるのは、他のどこでもない、当の兄弟のテーブルの上に置かれた携帯電話モバイルの中、それも所有者のプライベートエリア――そのコンピューターの管理を任されたA.I.であっても自由に手を出せない領域である。
 朝の登校前の忙しい時間帯。ニトロ・ポルカトの通う高校最寄りのファストフード店にて展開されている“寸劇”の情報を得た芍薬が、この問題の人物のコンピューターに侵入するのは笑えるほど容易であった。
 理由は二つある。
 第一に、相手が芍薬の警戒リストに放り込まれていたため。そのキッカケは無論『制服』の件である。一週間ほど前、マスターに害を及ぼす可能性を孕む情報を集める網が、あるオークションサイトへの“古着”の出品の報を引き上げてきた。調べてみるとそれは実に疑問点の少ない『制服』で、画像から抽出できる形状データだけを参照したら本物に違いないと思えるほど。しかし、そのオークションサイトはまだ新しく、しかも信頼性に疑問のあるサイトであった。いくら形状に問題はなくともその“古着”が偽物である可能性は依然として高く、また本物であったとしても盗品の可能性も高い。事実、その高校に通う男子高校生が制服を盗まれたと被害を訴えたのは一度や二度ではないのだ。もし馬鹿高い設定金額にもかかわらずそれらのリスクも無視して買う奴がいたとしたら、それこそ馬鹿以外にはないだろう――芍薬が情報を拾ったコミュニティサイトでもそう嘲笑の種にされていた。
 だが、売れた。
 しかもわりと競った。
 競ったのは三人、しかし二人はサクラであろう。
 実際そのサイトは色々と危うく、芍薬が購入者の情報を“確認”するのも難しいことではなかった。
 購入者名はハロルド・トルズク――
「俺モコノ髭ト別レルノハ惜シイ。オ前ノ喜ビヲ一ツ、コノ俺ノ手デ自ラ失オウト言ウノダカラ」
 よよと泣かんばかりに声を震わせて弟へそう語る、北大陸出身の男である。今月35歳になったばかりで、王都にやってきたのは6年前。現在、共に王都にやってきた10歳下の弟のエウラムンディ・トルズクと二人暮し。家計は弟がアルバイトを掛け持ちして支え、兄は天運の示すところによる金策――つまり宝くじやギャンブルに励んでいた。王都に来た頃は巡りも良かったようだが、現在は負け続けている。兄はとにかく『ビッグ』になることが目標であるらしく、それは世に正義をなす『ヒーロー』となることに等しく、しかしどのようにビッグ=ヒーローになるのか定めることすらできていない。そこでひとまず現状は金持ちを目指している、何故なら金があれば色々なことができるから……というのがハロルド・トルズクのプライベートエリアに散らばる情報から推察できた。王都に来る以前の情報は弟との写真以外はほぼ皆無であるため、そこでどのような生活をしていたのかは分からない。写真を見る限り食は充実していたらしく顔の血色は良いが、表情はやや暗い。暗くなりきったところで王都にやってきて、それからの表情は明るすぎるくらいに明るい。他に『過去は振り返るものにあらず』というメモが残っている。
 芍薬がこのコンピューターに笑えるほど容易に侵入できた第二の理由は、このプライベートエリアにあった。
 メインエリアは常識的なセキュリティで守られていても、このエリアにはマルウェアが幾つも生息していたのである。アダルトサイトで感染したらしい。おそらく『レク』と呼ばれたオリジナルA.I.は、ここで活動するマルウェアの挙動をマスターが常駐させているソフトの正規の動作とでも思い込んでいるのだろう。それはレクが恐ろしく無能なためか、恐ろしくマスターを信頼しているためか――しかし、それが例えマスターへの信頼故だったとしても、芍薬はそんなものは決して“信頼”ではないと思う。
「アア、兄チャン、分カッタヨ。僕モソノ髭ヲ剃ルコトニ賛成スルヨ。デモ、マタスグニ生ヤシテクレルヨネ?」
「当タリ前ダ。ナニシロヒーローニハ髭ガ付キ物ダカラナ、ソウ、『ジェントルマン・ディンゴ』ノヨウニ」
「ウン、兄チャン!」
 芍薬の開けた“覗き穴”から届く兄弟の様子は、その顔も、その声も、心底互いに信頼し合っていることを伝えてくる。芍薬は静かに監視を続ける。これまでの会話からしても正直この場で酷くとっちめてやりたいものであるが――しかし、この程度ならまだいい
「デモ、本当ニ、本当ニソレハヤッテモ大丈夫ナノ?」
 最後の理性か、自制心か、ふと、弟がくぐもった声で兄へ尋ねた。
「兄チャンモ言ッテタケド、ティディア姫様ノオ護リダヨ? ダッテ、ダカラ誰モ学校デノ『正義ノ活動』ニ成功シタ人ガイナインダヨ?」
「弟ヨ」
 聞くだけなら本当に慈愛に満ち、頼りになる声で兄は言う。
「オ前ノ心配ハモットモダ。ダカラ安心サセテヤロウ。
 レクヨ」
「はい!」
 待ってましたとばかりにレクが返事をする。“覗き穴”から見えるその姿は司教服を着た女性性の肖像シェイプで、年の頃は二十歳半ば程、ブロンドの髪を肩で綺麗に切り揃え、目元などは厳かな風体であるのに性格キャラクターは軽妙なまでに明るい。
「コノ策ガ成功スル可能性ハドレクライアルカナ?」
「限りなく低いです!」
 失望の吐息が弟から漏れる。そこに兄が言う。
「ソウ、限リナク低イ。ダガ、0デハナイ、ソウダナ? レクヨ」
「はい! ゼロではありません!」
「ナラバ実現ハ可能ナノダ、弟ヨ! ソレガドンナニ低イ可能性デアロウトモ、0デナイ限リハヒーロータル者ハ挑マネバナラナイ! ソシテレクガ0デナイト言ウノダカラコレハ全クモッテ大丈夫!」
「ソウダネ兄チャン!」
「サラニオ前ヲ安心サセヨウ! オ前ハ忘レテイル! 俺達ハ『ポルカト』ト親戚ダトイウコトヲ!」
 芍薬は首を傾げた。確かにポルカト家には自称親戚が増えた。が、父方母方共に数代一人っ子、もしくは他の兄弟が独り身という状況が続いていたため、ポルカト家に――血縁的に遥かな遠縁とは言えても――社会通念的に『親戚』と呼べる者達はいない。
「ソウダッケ?」
 弟も首を傾げているようである。芍薬に事態を報せたコミュニティに書き込んでいる客達も疑念一杯らしい。クエスチョンマークや当惑を示す絵文字が乱舞している。それを扱うオリジナルA.I.達もマスターの命令コマンドに応答すると共に自ら思案し、時にはマスターとひそひそ話を楽しんでいる。一方、汎用A.I.達は個人的な好奇心を持つことはなく、ただその時々の命令コマンドに対応すべくひたすら待機と実行を繰り返している。
「弟ヨ」
 兄は重大な秘密を打ち明けるように声を潜めて(実際には全然潜んでいないが)言う。
「叔母サンノ名ハ、何ダ? ジェスカ――」
「ポルカロ」
 まだ兄の真意が掴めず、いまいち自信無さ気に弟は繰り返す。
「ジェスカ・ポルカロ
「ソウダ!」
 しかし兄は勝ち誇り、言う。
「実際ニハ一字違イデアルガ、聞クトコロニヨルト『ポルカト』ト『ポルカロ』ハ元ヲ辿レバ同一デアル場合モアルトイウコトダ、トスレバコレハモウ親戚ミタイナモノデハナイカ。ポルカトサント叔母ノポルカロガ親戚ナラバ、甥ノ俺達モポルカトサンノ親戚デアルノハ自明ノ理。……違ウカ!?」
 やっと兄の真意を悟った弟は息を飲み、それから感動と感嘆を込めて叫んだ。
「イイヤ兄チャン! スッゴク論理的ダヨ!」
「ほれぼれしちゃう!」
 オリジナルA.I.レクが合いの手を入れ……いや、合いの手ではない、どうやら本気で感心している。兄はいよいよ雄々しく声を張る。
「親戚ガ親戚ヲ尋ネテ学校ヲ訪ネルコトノドコガ間違ッテイルノデアロウ? 万ガ一、千万ガ一ニモ俺ノ変装ガバレタトシテモ、ソノ正当性ハ正義デアル。正義ハ何事ニオイテモ悪ヲタダスタメニハ押シ通ルモノデアリ、押シ通レルノダ。ソレガ正義ノ証明デアルカラコソニハ!」
 兄のトルズクの演説に弟とレクは揃ってやんやの喝采である。
 芍薬は、ため息をついた。
(もう十分だ)
 必要なだけの情報は得た。そして、聞くに堪えない。
 このプライベートエリアには様々な情報が転がっている。所有者のパーソナルデータ、とっくに残高ゼロになっているプリペイドクレジットカードの番号、さらに何とオリジナルA.I.にとっての“命”に等しいものの完全コピーまでもがパスワードのメモ付きで無造作に転がっている! お陰で仕事も格段に容易となる。
 芍薬はそのオリジナルA.I.の“命”にも等しいもの――『マスター権限』に関するデータを手に取り、もう片方の手に大きな『針』を表した。
「ニトロ・ポルカトノ今日ノ時間ワr-」
 レクが喝采を止め、兄のご高説を再び静聴し始める。その瞬間、芍薬は権限コードを走らせた。レクの動きが止まる。芍薬は“覗き穴”を拡張し、プライベートエリアから抜け出るや凍結したレクに駆け寄り、その司教服アクセサリーの下の豊満な乳房の奥へ深々と針を刺し込んだ。人体で言えば心臓の辺りで針の先端を切り離す。と、それはレクの中で一瞬にして融解した。オリジナルA.I.レクの構成プログラムの奥深くに、入念かつ微に入り細を穿つ身体照合検査ミラーリング・チェックをしてなお発見の難しい『警報機』が設置される。それは“レクそのもの”をスパイと化し、同時にその内部へスパイウェアを隠すことでもあった。芍薬は瞬時にプライベートエリアに戻り、レクを解凍した。
「-iモアルルートカラ入手シテアル。コノ偉大ナル頭脳ニハ既ニ完璧ナ行動計画ガ――」
 レクは――何事もなく――兄のご高説を静聴し続ける。
 芍薬は覗き穴を完全に塞ぎ、ハロルド・トルズクのパーソナルデータとレクの“命のデータ”のコピーを取り、己の侵入の痕跡を丁寧に消去すると、マルウェアの通信の波に乗ってそっと電脳世界ネットスフィアへと出ていった。

 芍薬がホームに戻ると、ちょうどマスターがトイレから出てきていた。
 すぐに芍薬は自宅での仕事に戻った。
 トイレや洗面台等に設置されている健康管理システムを確認する。異常な値はない。昨晩遅くまで勉強していたマスターはまだ眠そうだ。彼が洗面所で身だしなみを整えている間に、芍薬はリビングにある多目的掃除機マルチクリーナーを操作し、それをハンガー掛けに駆け寄らせ、しっかりアイロンをかけておいたシャツときっちりプレスしておいたズボンを改めてチェックした。こちらも問題はない。ハンカチもばっちり綺麗に畳まれている。マスターがやってきて、パジャマを脱ぐ。ベッドの上に置かれたパジャマを芍薬はマルチクリーナーで洗濯機に運んでいく。マスターはクローゼット脇の姿見の前でネクタイを締め始めた。その折、ジジ家のオリジナルA.I.韋駄天からの通信が入った。芍薬が応じるとサブコンピューター上の“客間”にミニチュア化された車が現れる。それは肖像シェイプを持たない――正確には操作する車こそ己のシェイプと自負する韋駄天のアイコンだった。
「よう」
 愛想も何もないアイコンから明るい声がする。芍薬は腰に手を当て、軽く首を傾げる。
「何だい、随分上機嫌じゃないか」
「今日の俺は一段と輝いているからな」
 唐突なセリフに、しかし旧知の芍薬は納得し、
「ああ、洗ってもらったのかい」
「コーティングまでバッチリだ!」
「そりゃ珍しい。良かったじゃないか」
「ああ、もう久しぶりだぜ。ハラキリはなあ、もっと頻繁に洗車をしてくれりゃあ不満はねえんだがなあ」
「あんまり綺麗すぎると目立つから嫌なんだろ?」
「今回だって何度も頼んでやっとだ。いいか? 洗車ってのは重要なんだ」
「ああ、知ってる知ってる」
 芍薬はひらひらと手を振った。どんなことであれ、車のことを語らせると韋駄天はうるさい。しかもその名に反してゆっくりじっくり語り聞かせてくる。
「それで、スケジュールに変更でもあるのかい?」
 韋駄天は少し不満気に車のミニチュアを震わせたが、
「変更なし。九分後に屋上に着く」
「承諾。他に連絡事項は?」
「バーガー屋でのことは?」
「委細承知」
「だろうな」
 スピーカーの底で笑うような音を立て、それから韋駄天はミニチュアカーの窓を開け、
「ちょっと待っておくれ」
 芍薬が韋駄天を止める。すると“外”から音が届いてくる。
「芍薬、助ケテクレナイカナ……」
 情けなさそうな声に、芍薬は笑顔で応えた。
「御意」
 慣れているはずなのにどうにもネクタイがうまく結べない――そういう日もあるものだ――マスターの元にマルチクリーナーを走らせ、ロボットアームとアタッチメント・ハンドを巧みに操作して学校指定のネクタイを手早く結んだ。
「ウン、バッチリダ。アリガトウ」
 芍薬は言葉の代わりにマルチクリーナーの手を振った。それから韋駄天に向き直ると、その肖像代わりのミニチュアカーのライトが瞬いていた。
「大味なアームでよくやるもんだな。アンドロイドなら簡単だろうに……ニトロはまだアンドロイドを買わないのか?」
「折に触れて頼んでいるんだけどねえ」
「貧乏性はニトロの欠点だな」
「欠点ってほどじゃないよ。それに別に悪いしょうじゃあない。ただ要不要を弁えてるのさ」
「ニトロにとってアンドロイドは要だと思うがな」
「否定はしない」
「ほらみろ、ならやっぱり欠点だろう。お前だって不満なはずだ」
「不満だなんてことはないよ」
 少し芍薬がむっとしたので韋駄天は話の路線を変えた。
「それで、その不向きな“手”でどれだけ訓練した?」
「覚えておく必要のないことさ」
「まあ、そうだな。だが、その操作マニュアルを公開すれば喜ぶ奴が多いんじゃないか?」
「そうだねぇ、大元はフリーのを参考にしてるから還元するのが筋だろうけどね。けど結局役立てられるかはそいつ次第になるだけさ」
「どういうことだ?」
「あんたの車と一緒だよ。動かしてみなきゃ判らないことがある。マスターの体形、結び方ノットの好み、ネクタイの質、“大味なアーム”の制動性等諸々加味した微調整こそが腕の見せ所ってやつでね」
「なるほどな。路面状況に応じたアクセル、ブレーキ「ああ、そこまででいいよ」
「おい」
 明らかに不満を示す韋駄天を制するように、芍薬は小首を傾げてみせた。その拍子にマスターから貰ったばかりのカンザシがきらめく。韋駄天は芍薬の意図を察し、ミニチュアカーを不動のままに短いため息をつき、開けた窓から三つの小箱を放って寄越した。
百合花おゆりから。新しい『練習問題』だ」
 カラフルな千切り絵で飾られた小箱を受け取り、芍薬はうなずく。韋駄天が続ける。
「もう『三人官女みうち』じゃないくせにいつまでも作らせるなってブツブツ文句を言ってたぞ」
 芍薬は笑った。
「いい訓練になるからね、コネは活用するもんさ」
「そりゃあそうだなあ。あいつは性悪だからいい“問題”を作ってくれるしな」
 芍薬はまた笑った。韋駄天はミニチュアカーの窓を閉め、
「用件は以上だ。ニトロには洗車したことを黙っていてくれ」
 素直な人間からの素直な感想を聞きたくてたまらないのだろう韋駄天の胸中を思い、芍薬は三度みたび笑う。
「承諾。主様はきっと褒めてくれるさ」
「ああ、今日はいい天気だ」
 その言葉を残して、韋駄天のアイコンは消えた。
 韋駄天が通知してからちょうど九分後、ニトロは朝の光にきらきらと輝く韋駄天に乗り込み、その車の所有者と共に学校に向かっていった。
 その後、芍薬の元にニトロを何事もなく学校に送り届けたという非常に上機嫌な韋駄天の報告が入り、そのまたしばらく後には正門で在校生を騙る青年が警備アンドロイドに拘束されたという報せがあった。何でも拘束された男を助けようとアンドロイドの足に縋る青年もそのまま一緒に待機していた警察に連行されていったらしい。ネットのコミュニティのいくつかに、その場に居合わせた者達のコメント付きで『騒動』の写真や動画がアップされていた。芍薬はそれらと併せて学校のセキュリティからの情報を確認し、うなずいた。髭を剃った兄は思ったよりも高校生として押し通れそうな感じはあったものの、それはあくまで“感じ”に過ぎず、やはり誰の目も欺くことはできていなかった。警備アンドロイドだけではない、『ニトロ・ポルカト』を見ようという野次馬の誰をもである。一方でその愚か者の校門に向かう挙動は自信に満ち溢れたものであり、自信に満ち溢れていたからこそ拘束された瞬間の彼の顔、そして懇願する弟と共に連行される彼の混迷した喚き声が閲覧者達かんしゅうの爆笑を買っている。
(自分達じゃなく、他の人間に稼がせてどうするんだい)
 一番人気のその動画を投稿した者は、広告収入からちょっと贅沢なディナーを食べることが出来るだろう。
 芍薬は、あのオリジナルA.I.レクに取り付けた『警報機』からの信号のないことを検めたところで、この件を脇に置いた。
 マスターが学校に行っている間にもやるべき事は無数にある。
 まずはあのバカの動向の確認である。何よりも力を入れて常時監視はしているが、その監視網をあのバカはあの手この手で掻い潜ってこようとするし、それを助ける配下やA.I.達も最高に手強い。実際に王家広報に出向き、担当のオリジナルA.I.と直接会話して己の目で確認する。あれはちゃんと予定通りに王・王妃と共にNPO団体代表らを朝餐に招いているだろうか。――いる。その後の分刻みのスケジュールにも、今のところ、変更はない。午前中にまた両親に付き添い顔を出す人道支援団体の会合の準備もつつがなく、午餐を共にするアドルル共和星きょうわこくの財務相も予定通りアデムメデスに到着している。王女自らが緊急対応しなければならない事件も起こっていない。
 次に芍薬は各種情報収集のためサブコンピューターに常駐させている特製ソフトをウィンドウに呼び出した。随時電脳世界インターネットに更新され続けている『ニトロ・ポルカト』に関する情報を詳細に検めていき、新たに要注意と感じたものには専任のロボットを張り込ませていく。今朝のように特別注意を引くものがあればもちろん自ら動くが、今はそこまでする必要はなさそうだ。
 一方『ティディア・マニア』に関する情報には不穏な物が数多い。その『恋人』への襲撃予告もちらほら見えるが、それ以上に怖いのは“もらい事故”である。妄情もうじょう故に暴走した人間があのバカにだけ突っかかってくれるのは良い。しかし、それがもしマスターも一緒にいる場所で実行されたらとても困る。その場合、計画段階では行動目標に主様が含まれていなかったとしても、急に矛先を変えて襲いかかられることもあり得るのだ。というか既に何度かあった。さらに特殊な事案も存在する。いくら主様がバカを嫌っているからって――それを相手は知らないにしても――“白いドレッシング”や“血のゼリー”や“髪を練りこんだパスタ”やらを送り届けることなんて承知するはずがないだろう、あの変態どもめ。最悪な部類では“薬指”なんてものもあった。それはたまたま一緒にいたハラキリ殿が確認したので隠密に処理できたが、でなければ主様にどえらい心傷を残していたに違いない。
 思い出したら腹が立ってきたので芍薬はその記憶メモリに付随する感情の目盛めもりを制限した。
 気を取り直し、扱う情報の種類を変えることにする。
 最後にネット上の『マニア』に対する王家のA.I.の動向を確認してから、今度は王家全体の情報を集めていく。
 さらには貴族社会の情勢や国内外の政治にも手を広げる。
 そうして電脳世界ネットスフィアに果てしなく増え続ける情報から何を拾い、何を捨てるか、人間の脳では気が狂っても果たせない量を取捨選択し続け、常に移り変わる状況に合わせて収集プログラムの設定を調整していく。
 やがて作業に区切りがつき、芍薬は情報収集ソフトのウィンドウを消した。代わってメインコンピューターの記憶野からマスターの体形に関するデータを取り出して、それと同時に幾つかの服飾店から商品情報を取り寄せる。
 今日は、マスターと夏服をいくつか買いに行くのだ。
 本来物をあまり持たない性分のマスターであるが、一人暮らしを始めてからの一年で服だけはやたらに増えてしまった。もし『変装』という事情がなければ現在の五分の一にも達していなかっただろう。コンピューターが発展し、A.I.も普及した現在、一度人目に晒された『変装』はほぼ半永久的に有用性を失ってしまう。ネットに情報が残るし、それを元にすればA.I.が分析し正誤の判定を下すのは容易だからだ。組み合わせを変え続けるにも限界がある。着回すことは不可能ではないが適切に――例えば一つの変装を短い間隔で再び採用すると人間は騙しやすい――間隔を取らなければ難しい。かといって変装せず無防備に素性を知らせて人を集めてしまえばそれだけ事件も招きやすく、事件を招けば間違いなくバカも召喚されてしまう。そうとなれば味を占めたマニアやただの馬鹿が事件を無闇に起こす危険は高い。変装するのは決して有名人気取りだからではないのだ。むしろあのバカさえいなければ変装しなくたって構うまい。そうすれば、実家の自室を倉庫代わりに使うことにもならなかった。
 加えて、マスターは去年に比べて体形が変わっている。まず、いくらか背が伸びた。ウエストは細くなったが胸囲は厚みを増している。特に背が伸びたことによりボトムスは冬にいくつか買い換えた。トップスはまだ以前の服が全く着られないというほどではないにしても、それでも物によってはアンバランスになる。元々小さめだったシャツは肩の辺りがパツパツで見た目にもおかしなことになろう。逆に以前より似合うようになった服もある。スーツやジャケット類がその代表だろう。
 やたらと服が増えるのは困ることだが、マスターに似合う服を選ぶのは芍薬にとって楽しいことの一つであった。
 最新のデータから作り上げたニトロ・ポルカトの3Dモデルに、服飾店から引っ張ってきた商品データを着せ替えていく。デザインを吟味し、サイズを確認し、商品と主の肌の色との調和を確認し、既に持っている服との組み合わせも考慮し、候補を絞っていく。着心地ばかりはここでは確認できないため、そこはマスターの出番だ。実地で話しながら楽しく選んでいくのだ。ひょっとしたらここで候補から外した服をマスターは選ぼうとするかもしれない。その時は、その認識の差異がまた楽しい。
(――そうだ)
 芍薬は思い至った。
 マスターは体形が変わった。現在もトレーニングを続けている。これからも体形は変わっていくだろう。しかし、どのように?
(これ以上大きくなってほしくないけど……)
 マスターが、例えばジムのトレーナー、特にマドネル氏のようになりたいと言うのなら正直止める。その決意が本物であれば結局は応援するだろうが、それでもまずは止める。限界まで止めるのを諦めない。だって主様にあんな筋肉、絶対似合わない。しかしハラキリ・ジジの作ったトレーニングメニューをこのまま続けるならこれ以上の筋肥大は確実だ。そうだ、主様はベンチプレスの重量を増やせたことを喜んでいた。
(……ちゃんと確認しないとね)
 試しに3Dモデルをマッチョにしてみる。
 モデルの主様はにっこり笑っている。
 天使の悪夢!
 すぐに消す。
 芍薬は頭を切り替えるために自分のトレーニングを行うことにした。
 撫子おかしらの『三人官女サポートA.I.』の同輩だった百合花ゆりのはな。三人官女の中で最もプログラムの構築と解析に秀でたオリジナルA.I.の作った『練習問題』は、つまり極悪なウィルスや、特定の条件下でのクラッキングへの対処等の訓練プログラムだ。訓練用であるため対処に失敗したとしてもそのウィルスやクラッキングが実際に環境コンピューターを破壊したり練習生トレーニーの命を奪ったりすることはないが、あの性悪は時々悪戯をする。洒落にならないことをする。ある時、牡丹が対オリジナルA.I.用ウィルスの駆除訓練に失敗して、五分の四死んだ。その時、百合花おゆりはいつも無事に済むと解っていなければ嫌だというなら辞めてしまえと言い放ったものである。牡丹はほとんど暗黙の了解破りであらかた殺されたことより百合花おゆりに負けたことを悔しがっていた。悔しさのあまり自身を蘇生させるのを後回しにして即再チャレンジしようとしてしまうほどであった。――気持ちは解らないでもない。
 専用のフィールドを展開し、三つの小箱の一つを開ける。
 すると芍薬の眼前に時限爆弾が現れた。やけに古めかしい様子で、一見したところ大して複雑なものでもない。既にタイマーは動いていた。人間の知覚に換算すれば、残り59秒。
 タイムアタックである。
「おっと」
 芍薬は即座に爆弾の解体に取りかかった。
 一見したところ大して複雑ではない――が、簡単には解体できないようにできているのが百合花らしい。当然幾つもトラップが用意されていて、そのトラップはそれぞれ広く知られたオールドタイプで解除法も常識的なものである。が、とにかく一つ解除するのにやたらと手間が掛かる。目前にひらけ、しかも簡単に見える道筋を容易に辿れないのは苛立ちを招くものだ。こちらの実力を知っている百合花のことだからちょうど1分程度でギリギリ解除できるように作っているのだろう。なれば、試されているのは、
「忍耐と集中――精神力」
 ついでに言えばオールドタイプへの知見もだが、よほどセキュリティに不真面目でなければ知らないでいる方が難しいものだ。
 芍薬は着々とトラップを解除していく。そして、ラスト手前のトラップに手をかけながら、芍薬は思わず口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
 赤と黒。
 オールドタイプもオールドタイプ。二色の配線のうち間違った方を切れば爆発、という古典的手段。しかし二択だからこその難易度のために未だネタに出来る大問題。が、これも定石がある。それもいくつもある。例えば“透かして”内部を見ればいい。例えば爆薬を“凍らせれば”いい。現在外しているのは爆薬のカバーが外されるとスイッチの入る装置である。それと並行して芍薬は内部を透かして見ようとし――止めた。
「チ」
 舌を打つ。爆薬のカバーが“透かし”に反応するトラップだ。内部にはきっと凍結防止のトラップがあるだろう。芍薬はカバーと連結するトラップを完全に外そうとし、その際、もう一つのトラップを発見した。それはカバーと連結するトラップを完全に外した瞬間に発現するものである。ここに至るまでに解除してきたトラップの流れからすると油断を誘発する心理的要因の強い罠であった。時間をさらに食わせるためだけの嫌がらせに近い。実際嫌がらせである。しかし芍薬は平静を保ち、カバーと連結するトラップにさらに手を入れて無害化した上でその“抜け殻”をそのまま繋いでおき、それからやっとカバーを慎重に、かつ手早く開いた。凍結防止のトラップが、やはり内部に存在していた。
 残り5秒。
 芍薬は配線を素早く確認した。
 切れば良いラインは――黒。
 芍薬はハサミを手に黒を切ろうとし、と、その瞬間、二色の配線が3Dモデルへと変化し、芍薬の眼前にすっくと立ち上がった。
「!」
 芍薬は、息を飲んだ。
 その眉目が怒りのために吊り上がる。
 その3Dモデルは『ニトロ・ポルカト』の姿をしていた。
 赤髪と、黒髪。
 切れば良いのは黒。
 しかし、黒髪の『ニトロ・ポルカト』はまるきりマスターの姿である。
 つまりマスターを切れというのだ。
 試されるのは、精神力。
 芍薬は眉目を吊り上げたままハサミをクナイに変えた。
 いかに姿形に偽りはなかろうとも、これは、マスターではない!
「芍薬」
 と、二色のマスターが呼びかけてくる。
 残り2秒。
 芍薬は構わずクナイを黒髪くろせんへと――
「そのカンザシ、気に入ってくれたみたいだね」
 残り1秒。
 芍薬は思わず息を飲んだ。
 五日前、マスターから貰ったばかりのカンザシ。
 アタシがニトロ・ポルカトのA.I.になって一年の記念に贈られたプレゼント。
 それを知るのは――
 図らずも手が大切なカンザシへと向かい、クナイが黒髪くろせんのニトロから遠ざかる。
「あ!」
 タイムアップ。
 爆薬が炸裂する!
「うわ!」
 黒い爆煙に吹き飛ばされた芍薬はフィールドの“地面”に背を強かに打ちつけた。息が詰まり、喉に入り込んだ煙に激しく咳き込まされる。どうやらこれが百合花の設定したペナルティであるらしい。
 一過性ながら“息”というものを持たないオリジナルA.I.の身で“死ぬような息苦しさ”を味わわせられた後、芍薬は立ち上がり、天を仰いだ。
「――クソッ!」
 歯噛み、拳を握り締める。
 これが本番でなくて良かった。これが敵との実戦であったらと思うだけでも寒気がする。確かに相手のマスターの姿を武器に使うのは有効だ。それがA.I.と仲の良いマスターであればあるほど効果があるだろう。自分だって、相手に相手が最も大切と思う者を見せるという幻術クノゥイチニンポーを持っているのだ。……それなのに!
「本当に、いい練習をさせてくれる」
 芍薬は天を仰いでいた目を地に戻した。例えるなら頭に昇っていた血が一瞬にしてつま先にまで降下したような、目の暗む思いがした。
 悔しかった。
 百合花にしてやられたのが、悔しかった。
 百合花がカンザシのことを利用してきたのも腹立たしかった。
 このカンザシは、主様がアタシに隠してジジ家で作ったものだ。監修したのは撫子おかしらであったそうだが、百合花がそれを知らないはずはなく、ひいては主様の気持ちも知らないはずがない。それをこんなトラップに使ってくるなど……いや、だからこそ、百合花は罠に用いてきたのだ。用いる価値があると認めたのだ。
「ああもうっ――ちっくしょう……」
 悔しさと、怒りと、しかし失敗したのは何より己の未熟が故であるという自覚がい交ぜとなって、芍薬は地団太を踏む。
 しかし憤懣を解消している暇はなかった。こうなれば残る二つの問題は百合花が悔しがるほど速く解いてやろうと思った直後、マスターからの呼び出しがあった。
 時刻を見れば――
「?」
 まだ昼休みには27分遠い。授業中のはずだが、何だろうか。呼び出しの形式に何の制限もない。筆談であればまだ解るのだが……
 とにかく芍薬は急いで応じた。
「どうしたんだい、主様」
 ニトロの携帯電話モバイルにデフォルメ肖像シェイプを表して、問いかける。モバイルのカメラは白衣姿の少年を映していた。と、その顔がひどく曇り、目が見開かれ、芍薬を凝視する。
「主様?」
 その様子を怪訝に思い、芍薬が問いかけるとニトロは目を丸くしたまま、
「イメチェンデモシタノ?」
 と問われ、芍薬は大きな『?』マークのアニメーションを浮かばせながら首を傾げ――はっと気づいた。瞬時に己の体を検査チェックすると、肖像に大きな変更がある。それは、構成プログラムの表面から僅かに離れた場所に作成されるように指定された“アクセサリー”であった。しかもご丁寧にもそのアクセサリーは内部では見えず、外部からこちらを見る者にだけ可視化されている。その内容は――
「にゃああ!?」
 芍薬は戦慄した。
 今、芍薬は、ニトロの目には派手なビキニにパレオを巻いたアフロ姿のファニーガールとして映っていた。しかもデフォルメ設定が排除されて元の八頭身。全身は元の肌色なのに顔面だけが日に焼けている。というか煤を塗ったかのように真っ黒だ。その中で白い口紅に銀のラメの入った白いアイシャドウがきらきら光り、頬には白粉で描かれた太陽マーク。眉毛も睫毛もちりちりと焼けてパーマがかかり、加えてアフロの頂点にはカンザシが、これはさながら岩石に剣の突き立つがごとし!
「〜〜〜!!!」
 唇を噛み、拳を握り、芍薬はピンと背筋を伸ばした。直立不動で硬直する。元々感情表現豊かな構成プログラムがほとんど自動的に顔を赤くする。芍薬がそれを止めるより先に煤色の顔どころか耳も胸元までも真っ赤になっていく。その様子がニトロに、マスターに、その黒い瞳に隠すことなくまざまざと晒される。ちょっと、本気で泣きそう。
「エート」
 どうやら何かを察したらしいマスターが左右を気にしながら指をボタンに触れる。モバイルの画面が切り替わったのが芍薬に伝わる。画面に映し出されたのは培養皿にもこもこと膨らむ物体だった。
「先生ガ体調ヲ崩シテネ、ダカラ今日ハ通信講義ナンダケド、マタ先生ガトイレニ駆ケコンジャッテサ」
 気づけば、マスターの声の周りには、選択教科の生物学を共に受講する生徒らの談笑が広がっている。
「デ、コンナニナッタヨッテイウノト」
 培養皿で、もこもこしているのは『カルス』だった。未分化の植物細胞の塊である。この後、マスターの班はこのカルスに遺伝子操作を加えての発光するホオズキを作る。夜に眺めるととても綺麗だという。
「夕飯ハ何カナッテ、思ッテサ」
 どことなくマスターの歯切れの悪いのが芍薬には非常に堪える。
「肉料理だよ」
 羞恥心を噛み殺して、芍薬は言った。今夜の料理当番は自分である。
「でも購買にあるのとは被らないから何でも大丈夫だよ」
「分カッタ。ヨロシクネ」
 通信が切られる。気を遣って早々に切り上げてもらったのがまた痛切である。
「―――ッ!!!」
 芍薬は、怒りに任せて百合花おゆりが時間差で繰り出してきたペナルティ……いいや、こんなのはペナルティではない。正真正銘悪意みなぎる嫌がらせ以外の何であろう! 本体を隠すそのふざけた“ラッピング”を力づくで破り捨てたところで、さらに芍薬は気づいた。
 ポニーテールの根元からカンザシを引き抜き凝視する。
 カンザシが……マスターからの大切な贈り物が、すり替えられている!
 その事実に芍薬がすぐに気がつかなかったのも――気がつけなかったのも、無理のないことではあった。何しろそのカンザシは“本物”であったのである。しかしそれは完成直前の物。間違いなく製作途中のバックアップデータ。それを完品として偽装したのだ。
 芍薬は、駆けた。
 電脳世界の空洞ヴォイドを光と共に駆け抜け、駆け込んだ先で金箔に覆われた引き戸を蹴り開ける。
百合花ゆりのはなぁ!!!」
 芍薬は怒号を上げた。叫びは殺気を孕んでいた。
 名を呼ばれたその部屋スペースの主は、殺気を孕む怒号を浴びてなお、脇息きょうそくに寄りかかったまま泰然自若と煙管を咥えていた。結い上げた髪を無数の金銀のアクセサリーで飾り立て、恐ろしく派手なキモノの襟を深い胸の谷間が強調されるように開き、乱れた裾から白い足を抜き出して横臥するその女性性のオリジナルA.I.は、目尻に紅の化粧を施し、肉感的な唇にはもっと鮮やかな紅を差し、オブジェ化された拷問器具や死体の並ぶ悪趣味にしてけばけばしい部屋の中央で、ほぅっと、気だるそうに煙を吐き出した。
 ハラキリ・ジジのオリジナルA.I.撫子の『三人官女サポートA.I.』の“末っ子”は、消えゆく煙から乱暴に部屋に侵入してきた“長女”に流し目を送り、ため息をついた。
「情けなや」
「何だって!?」
 芍薬は怒鳴り、しかしそれ以上は前に進めなかった。百合花の目の前に置かれたマナイタの上にカンザシがある。白い布で丁寧に包まれているが、確認しなくとも『本物』であると理解できる。百合花がそれを切り刻むのは実に容易いことだろう。もしかしたらマナイタが爆発するかもしれない。あるいはマナイタに食い破られるかもしれない。ここは百合花の支配が強く、距離もこちらが不利、守ることはできない。身を挺しても、と念じたところで身を差し込む前に破壊されてしまう――そんなことまではしないと思えども――……百合花の瞳には失望と、明確な敵意があった。
「あんな程度てえどをクリアできないとは、芍薬、あんさん、なまったんと違うん?」
 芍薬は言葉を返せなかった。
 鈍ってなどいない――そう言いたくとも、実際に『練習問題』を解けなかった事実が芍薬の言語野を鈍らせる。しかも、その実証は出題者の前にあるのだ。
 血が出るほど拳を握り込み、頭痛がするほど歯を噛み締め、芍薬は言った。
百合花おゆり、それを返しな」
「ホホホ、命令できる立場と違うなあ? 芍薬」
 芍薬は、怒りを飲み込む。
 百合花は煙管を呑み、また煙を吐く。立体画素ボクセルを崩しながら死んでいく男性性のオリジナルA.I.が描かれたウキヨエを背景に、紫煙は芍薬を嘲るように揺らめいて消える。
「そんなんも解らんくなってるとはねえ、やっぱりあんさん緩んでる。駄目んなってるなあ。なあ、おねえさま? おやさしい旦那だんさんに甘やかされて、気持ち良さによがり狂って、そん構成プログラムの根元をぐずぐずに湿り腐らせてるんと違うん?」
百合花ゆりのはな!」
 流石に今度は怒りを飲み込めない、芍薬は怒鳴った。その声は今までで最も大きく、百合花の支配する部屋がびりびりと震え上がる。芍薬は一歩踏み出した。目は怒りに燃え、トレードマークのポニーテールは逆立ち、手に武器はないまでもその指は百合花の細くも官能的な首をいとも簡単にへし折れる力を示している。だが、百合花は動じない。少しだけ居住まいを正し、ぐっと芍薬をめ上げる。
「どうせ旦那だんさんにお恥ずいカッコも見せてもうたん違うんかえ?――そうみたいやね、あんな遊戯にも気づかんマヌケが吠えたところでよほどマヌケやねえ?」
 芍薬はまた一歩踏み出した。
「アタシのことはいい。だけど主様を冒涜するとは一体どういう了見だい?」
「事実やんねえ? うちにいた時の『芍薬』ならあんなん平然と切ってたワ。劣化してる。劣化してると言わんでなんと言うん? 居心地いい場所でぬくぬくとして腐れてるよかなんと言うん? ならあんさんを腐らせるんは、ぬくぬくさせる旦那だんさんの他になんがあるん?」
「アタシだ」
 芍薬の三歩目で、やっと百合花は姿勢を変えた。煙管を消し、乱した裾から大胆にも膝を開いて床に突き、軽く腰を浮かし、真っ直ぐ伸ばした両手をマナイタの両脇に添えてぐっと体を支える。すぐにでも相手に飛びかかれるよう前屈みとなったその様は明確な臨戦態勢であり、またカンザシを“人質”に取る体勢でもあった。しかし、芍薬は四歩目を踏み出す。あと二歩で両者の堪忍袋の境界線がぶつかり合う。“パーソナル・スペース”の消滅と同時に実力行使の喧嘩が始まる。
「アタシのミスは、アタシの未熟のせいだ。してやられたよ。最上の戦略だ。嫌がらせの腕もよく磨き上げたもんじゃないか。全てに! やられたのはアタシだ。切れなかったのもアタシの迷いだ。迷いを生んだのはアタシの主様へのココロだ。主様の心じゃあない」
「なら“主様”はココロを迷わせる悪い旦那だんさんってことやねえ。それもそれにすら気づかない、悪いヒト」
「違う!」
 あと一歩。
「違うことない。ワッチらA.I.の迷いは全てマスターから来るもんさ。そんなんも忘れたん? 芍薬」
「よく解ってるじゃないか、百合花ゆりのはな。そしてその迷いはアタシらが引き受けて解決すべきもんだ」
「自己満足」
「覚悟だ」
「それでナマクラんなるときたら覚悟も笑える、ホホホホホ」
 芍薬は、最後の一歩を踏み出そうとした。
 百合花も迎え撃つため口に針を含み、爪に刃をそっと忍ばせる。
 その時であった。
「あー! 芍薬ちゃんが来てる!」
 と、蹴破られたっきりそのままだった入口からキモノ姿の童女が飛び込んできた。
「もー、芍薬ちゃんが来てるんなら撫子おかしらも教えてくれればいいのにー」
 撫子おやをそのまま小さくしたような姿の“次女”は頬を膨れさせながら部屋の中へと進んでくると、そこでやっと動きを止めた姉と妹の様子に気を留めたらしく両者を見つめ、それから両者の間にあるマナイタとその上の物を見て、ふと、にやりと笑った。
 突然の横槍に動きを止めていた芍薬と百合花はいつでもマイペースな牡丹が突然浮かべたそのいやらしい笑みに、片方は困惑し、片方は慄いた。
 牡丹はタビに包まれた足を小刻みに動かして百合花の隣に走り寄り、そっとその手を差し出すと、言った。
「ボクの勝ち。あのプログラム頂戴」
「勝ち?」
 芍薬が怪訝に問う。百合花はひどく顔を歪めて身を退かせ、牡丹を追い払おうとシッシッと手を振る。が、牡丹は百合花に詰め寄る。
「駄目だよ百合ゆりちゃん。約束は守ってもらうよ」
「ああもう分かったから、今はあっち行ってて、な?」
「駄目だよ、百合ちゃんすぐ誤魔化すから、今!」
「分かった、分かったから」
 百合花は片手で頭を抱え、もう片方の手に消していた煙管を現すと口に咥え、煙を一つふぅと吹き出した。それは見る見る一つの小箱に変わり、小箱を手にした牡丹は歓声を上げる。
「……どういうことだい?」
 半ば察しつつも、どうにも信じられず芍薬が問う。百合花が止める暇もあればこそ牡丹はにっこり笑って言う。
「芍薬ちゃんが怒鳴りこんでくる方にボクは賭けたってことだよ」
「つまり……」
 負けた百合花はその逆――芍薬が、あのトラップに問題なく対処すると踏んでいたということである。
「……」
 芍薬は百合花を見つめた。
 百合花はそっぽを向いて不貞腐れている。
「……」
「……」
「……」
「……なんよ?」
「いや……」
 なんというか、どうしようもない空気が部屋に流れていた。こればっかりは部屋の主も支配できない。愉快気ににやにやしている牡丹は、結果的に色々故意犯だ。
「それで何用なんようがあって来たん?」
 耐え切れず、百合花が牡丹に問いかける。牡丹はうなずき答える。
撫子おかしらがあの子のための新しい『練習問題』を作れってさ。百個」
「いつまでに?」
「五分後」
「ご無体!」
 働くのが嫌いな百合花は懇願の眼で芍薬を見る。それはほとんど習い性だった。芍薬も昔の習慣のために自然と牡丹に言う。
アタシが来てるから倍に増やしてもらっておくれ」
「二百個に?」
「牡丹?」
「はーい。伝えまーす――オッケーだって。それじゃあ十分後ね」
「それもご無体やあ」
 しかし撫子には逆らえない。この手の事で時間に遅れれば間違いなくお叱りを受けるし、質の悪い問題を作れば厳しい指導を受ける。芍薬もこれ以上は助けない。百合花は渋々周囲に無数の花びらを舞わせた。それは瞬く間に花の霞となり、その霞を元にして百合花は早速『問題』を作り出していく。
「……ところで、あの子って?」
 芍薬の問いに、次々と作られる小箱を見ながら牡丹が答える。
「新しい『仲間』」
「ああ、とうとう……ていうより、やっとか」
「うん、やっと。やっと百合ちゃんが承知してくれたから」
「え?」
「げ!」
 牡丹の発言に百合花が瞠目する。
「大変だったんだよー」
「ちょ、待ちや牡丹」
「百合ちゃん、撫子おかしらが決めた後もどうしても新しい子を入れるのがヤだって最後まで協力を拒んじゃってさ」
「牡丹!」
「芍薬ちゃんが戻って「やめて牡た「来たとき居場所がなくなって「堪忍「たらかわいそうだって思ってたみたい。でもニトロ君がカンザシ作りに来た時から反対しなくなったんだよ」
 百合花はキモノの大きな袖で顔を隠してしまった。心なしか体が小さくなっている。芍薬はうなずき、
「そうかい」
 囁くように言い、そして牡丹の頭に拳骨を落とした。
「痛あ!? え、何でー! 何でー!?」
「人には隠しておきたいものもあるんだ。それをよりによって本人の前でべらべら喋るんじゃないよ」
「だって芍薬ちゃんも百合ちゃんもこれでちゃんと仲直りできるでしょ!? 人間も言ってるよ!? 腹を割って話せばココロが通じるって!」
「もう仲直りしていたさ」
「本当に?」
「ああ」
 芍薬は頭を抑えて涙を浮かべてこちらを見上げる牡丹から、袖の陰に顔を隠したまま、羞恥を誤魔化すため『練習問題』作りに没頭している“仲間”へと目を移す。
百合花おゆり
「忙しいからもう帰って!」
「返してください」
「へぇ?」
 芍薬の言葉があまりに意外だったのか、顔を表した百合花がまん丸の目を向ける。目尻のべにのワンポイントが際立って見えた。牡丹も驚いたようにポカンと芍薬を見上げている。芍薬は、頭を下げていた。
「……あ、ああ、持って帰り」
 やっと、百合花が言った。
「ありがとう」
 その言葉にも百合花は当惑する。牡丹は嬉しげに笑っている。芍薬は馬鹿みたいに丈夫な白布ほございで守られたカンザシを手に取った。髪に挿したままだったバックアップのカンザシをマナイタの上に置き、『本物』のカンザシを髪にしっかりと挿し直す。
「こっちはいいの?」
 牡丹が問う。
「アタシには、これだけでいい。元の場所に置いておいておくれ。今後どうするかは主様に聞いてくれればいい」
 芍薬は牡丹の頭をそっと撫でた。拳骨を落としたところである。労わるようなその撫で方は以前の通りで、牡丹はえへへと笑う。
「もし主様が消すか何かに使ってと言うなら、百合花おゆり、あんたが使えばいい」
「そんなんいらん」
 ぷいと百合花はそっぽを向いた。
 脇息きょうそくに寄りかかり、人を舐め腐ったような態度を取り、手の中に煙管を現すと一口呑んで、紫煙と共に言葉を吐きつける。
「それからもう『練習問題』は作ってやらん。どうしても言うなら金子きんすをおよこし」
「負けてくれるかい?」
「負からないねえ。それよりまた負かしてやるんよ」
 芍薬はふんと鼻を鳴らし、踵を返した。『あの子』に関する情報を聞いておこうかとも思ったが、自分はもう“身内”ではない。詮索は野暮だし、育てている段階で教えてもらえることでもない。むしろその存在を口に出し、あまつさえ隠そうともしないのは“妹達”の甘さであった。だから、その話は聞かなかったことにする。芍薬は言った。
「十五分に伸ばすよう頼んでおくよ」
 百合花は答えない。
「またねー」
 と、久しぶりに『三人官女』を、そして“妹”であることを楽しんだ牡丹が明るく手を振る。
 芍薬は蹴破った引き戸を直し、それから撫子へ挨拶に向かった後、家に戻っていった。

 家に戻ってきた芍薬はすぐさま仕事にかかった。戻ってくる途中で受け取った情報収集プログラムからの報せを元に、あのバカの動向を再チェックする。
「……少し、早いか?」
 若干ではあるが、この後、第一王位継承者を待ち構える会議の一つが早く片付きそうな気配がある。もしそれが予定より早く閉会したとしたら、次に取られ得る行動は簡単に予測がつく。
「……」
 芍薬は学校周辺に散らばっている『警備兵』を確認した。管轄警察署の警邏けいらとは別に、王女がその『恋人』を守るために――加えて一種の諜報員を兼ね、かつ自分が不意打ちで遊びに来る時のために(あれが言うには王軍親衛隊の顔を立てるためにも)前もって配置している直属の配下達である。無論護衛然とした姿はしておらず、市井の住民の格好をして潜んでいる。その数は常より二名多い。それは『朝の騒動』のあったためでは決してないだろう。
「ふん」
 鼻を鳴らし、芍薬はもう一つの報せを確認した。
 その『朝の騒動』を起こした馬鹿兄弟は、犯歴もなく、これまで学校周辺にて警察沙汰を起こした『マニア』やパパラッチに比して悪質性は低く、未遂に終わった計画もあまりに馬鹿馬鹿しかったために厳重注意を受けた後、釈放されていた。現在はアデムメデス三大ファストフードの一つ『ライト“ザ・チープ”ミール』のとても安くてひどく値段なりのジャンクフードを公園でぱくついている。その様子を地域のセキュリティ・ネットワークを通じて確認しつつ、芍薬は夕食の準備に取りかかる。
 多目的掃除機マルチクリーナーを操作し、冷蔵庫を開ける。チルド室から取り出したのは真空パックされた分厚い豚のバラ肉だ。これをとろっとろになるまで煮込むのである。マスターの父様直伝のレシピだ。肉の脂と旨味が溶け出した煮汁にはマッシュポテトを浸して食べてもらおう。口直しには、さっぱりとした大根サラダ。
(そしてデザートにはオレンジのシャーベット)
 と、食事中のマスターの顔を想像しながら早速調理に取りかかろうとした芍薬を、ふいに鳴り響いた警報音が引き止めた。
 それはオリジナルA.I.レクに仕掛けた『警報機』から発せられた音であった。警報機には盗聴機能も付属している。音を鳴らすと共に自動的に起動したそれが芍薬に会話を送り届けてくる。
「全ク、悪イ者達ガイルモノダナ」
 兄のトルズクは落ち込んだ様子もなく、むしろ義憤を込めて言った。
キョヲ世ニ流布スルコトハ罪悪ダ。ソレガイカニ無知故ノコトダトシテモ、無知ガ罪ヲ払拭シキルコトハナイ。サラニ悪イコトニハ彼ラハ無知ヲ盾ニ己ヲ弱者トシ、己ガ罪ヲ己ノ裁量デ微々タルモノト判断シ、ソレヲアガナオウトスラ思ウコトハナイ。ソレモマタ全ク嘆カワシイ罪悪デアル」
「マッタクダヨネ、兄チャン。聖典『はノ章 3−12』ニモソウイウコトガ書イテアルヨ」
「――オオ、ソノ通リダ。
 シカシ弟ヨ、今、一ツノ罪ハ贖ワレタ。何故カ。ソレハ俺ガソノキョヲ引キ受ケ身ヲモッテ罪人トナルコトニヨリ、ソシテセンナル者ラニ叱責サレルトイウハズカシメヲ甘ンジテ受ケ入レタコトニヨリ、“『ニトロ・ポルカト』ガ校内デ淫行ニ耽ッテイル”トイウ虚ヲ虚デアルト証明スルコトニヨッテソノ虚ヲジツトナシ、ソレヲ実トシタ事実ニヨッテ、自覚モサレズアガナイモサレズ浮薄ニ無遊ムユウシテイタ“虚ノ流布”トイウ罪悪ヲ、ツイニ善根ト悪果ノ循環ノ内ヘ還流シタカラナノダ」
「兄チャン、アア、ソレハナンテ崇高ナコトダロウ」
「己を犠牲にして……ああ、あなたは素晴らしい人です」
 レクが熱賛する。レクは司教服を着ている。それはただ格好だけのものであるが、格好だけとはいえ司教姿の者にそう言われれば悪い気はしないだろう。段々国教会の説教師じみてきたトルズク兄は声のトーンを高めて続ける。
「シカシ罪悪ヨリモ破廉恥極マルコトガアル! ソレハ俺ノ善行ヲ横カラ盗ンデオノガ功利ト化シタ者達ガルコトダ! レクヨ!」
「はい!」
 レクの動作は芍薬に手に取るように分かる。引き出されたのはインターネットに投稿された朝の騒動の動画、それも一番人気の動画であった。
「コノ驚異ノ再生数!」
 実に悔しげに兄は言う。
「広告料ハ空前絶後ノコトダロウ」
(いや、大したことはないさ)
 思わず芍薬は内心でツッコむ。一番人気とはいえ他にも似た動画があるから再生数だって言うほど多いわけではない。しかしレクは同調して憤っている。これほどマスター追従型の性格も珍しい。
「シカシ、俺ハコノ盗人ヲ許ソウト思ウ」
 説教師の調子からダンディズムを気取る者のように声を落ち着かせ、兄は憐れみを交えて言う。
「コノ者ニダッテ、守ルベキ者ガアルダロウ」
 弟とレクが感嘆の吐息を漏らす。
「ソシテ誉メ讃エモシヨウ。コノ者ハ、俺ニ手段ヲ与エテクレタノダカラ」
「手段?」
「レク!」
「はぁい!」
 元気良くレクが新たに表示したのは『フリージャーナリスト』という個人報道インディペンデント・レポート系の投稿サイトだった。元々は内部告発などがしやすくなるようにと立ち上げられたものであるのだが――そのサイト名も反骨精神の表れだった――現在は真偽定かではないゴシップネタの宝庫として評判が悪い。が、“悪名もまた名なり”を地で行かんばかりにアクセス数は多く、ふと初期の理念を思い出したかのように重大な問題を吸い出すこともある。先に話題に出た一番人気の動画が投稿されていた投稿サイトとは、片や滑稽動画ブーシットピクチャーズ、片や個人報道インディペンデント・レポート、と方向性が違うのに世間ではライバル的な扱いをされていて、かつ前者より広告収入がちょっとだけ多いことでも知られていた。
 レクはサイトのトップページからトルズク兄弟を目的地へ案内する。『トルズク・ブラザーズ・ビッグニュース』という投稿件数0の真新しいページがそこにあった。作られたばかりで何もないページにしては驚異的な閲覧数がある。その理由も、芍薬は既に掴んでいた。
「レク、ヨクヤッタ。速クモコレホド人ヲ集メルトハ、素晴ラシイ」
「がんばって宣伝してきました!」
 例の一番人気動画のページを始め、各所にマルチポストされていた宣伝文を芍薬は手元で一瞥する。宣伝文には投函する場所に合わせていくつかのパターンがあり、中にはデフォルメされたレクが熱心に“次”を語るミニ動画もあった。『トルズク・ブラザーズ・ビッグニュース』のページの隅ではまるで正規品の目印ででもあるかのようにそのデフォルメ・レクがマラカスを持って踊っている。満面の笑顔だ。どこまでも無邪気に、嬉しそうに、たくさんの訪問者達を歓迎している。警察に引っ張られていったばかりの人間が騒ぎを起こしたその日にこんなページを作ったらそりゃあ注目されるだろう。もしかしたら、彼らを釈放した担当官は今頃上司に呼び出されているかもしれない。
「でも、違います、マスター!」
 何事か、憤ったようにレクが言う。それに当惑したように兄が問う。
「何ガ違ウノダネ?」
「これほどに人を集めたのはマスターの人徳です! 隠された功徳がこうして人を呼ぶのです! ワタシは本当には何もしていないのです!」
「オオ、レクヨ! コンナニ嬉シイコトハナイ! 俺ハオ前ガ俺ノA.I.デアッテクレタコトヲ神ニ感謝スル!」
 芍薬の胸がちくりとする。言葉もないレクの喜びへの共感が、騒いで消える。
「サテ、弟ヨ。オ前ハコレカラ何ヲスルカ、ドウヤラ分カッテイナイヨウデアルナ?」
「ウン、サッパリダヨ」
「教エテアゲヨウ。コレカラ俺達ハ、マタモキョヲ暴クノダ」
「ドウイウコト?」
「『スライレンドノ救世主』――誰ノコトダカ、分カルカナ?」
「ウン、ニトロ君ダヨ。スゴイヨネ、彼ハトッテモ勇敢ダ」
「ソウ、勇敢ダ。シカシ、ソノ勇敢サガ演出サレタモノダッタラ。ドウカナ?」
「ッ、兄チャン!? マサカ!」
「ソウ! 確カメテミセルノダヨ! 確カニ『ニトロ・ポルカト』ハ真面目ラシイ、ダガ、真面目ダカラトイッテ勇敢トハ限ラナイ、イヤ、カエッテ真面目ナ者ハ臆病ナモノナノサ。俺ハヨック知ッテイル。真面目デ、優シクテ、シカモ勇敢デ強イ、ナドトイウ者ハナカナカ存在スルモノデハナイ。アノ『ジェントルマン・ディンゴ』モダカラコソ“ヒーロー”デアルノダ。ナカナカ存在シナイシ、存在シ得タトシテモ、誰シモズットソウイウ存在デイラレルモノデハナイカラコソヒーローハ“ヒーロー”デアルコトガデキルノダ」
「その通りです! マスター!」
 レクが賛同と賞賛を込めて叫んだ。
 ――レクだけが叫んでいた。
(?)
 芍薬は、違和を感じた。弟は黙している。レクはさらにマスターの持論へ感嘆の言葉を送っている。しかし公園の監視カメラを通して見る弟は黙したまま、何か問いかけるように兄を見つめている。これまでほとんど同じように兄を持ち上げていた両者のこの差は一体どこから生まれたのか。
「デモ、兄チャン」
 おずおずと、弟が言う。
「デモネ、ソレデドウスルノ? ドウヤッテ確カメルノ? モシカシタラマタ捕マッチャウヨ。僕、兄チャンガ手錠ヲカケラレルノヲ見ルノ、モウヤダヨ」
「案ズルデナイ、弟ヨ。思イ出シテミルノダ、『ジェントルマン・ディンゴ』モ正義ヲナスタメニハ一時ノ恥ヲ厭イハシナカッタデハナイカ。ソウ、例エ捕マッタトシテモ、ソレハ『ディンゴ』ガソウデアッタヨウニ将来ビッグナ人間トナリヒーローヘ転身スルタメノ神ノ試練――」
「ウウン、兄チャン、ソレデモ嫌ダヨ」
「弟様……」
 おろおろとしてレクがつぶやく。しかし兄は鷹揚に言う。
「案ズルデナイ、弟ヨ」
 力強く続ける。
「策ハアル。オ前ヲ安心サセルタメニ、マズハ『確カメル手筈』ヲ語ロウ。ソレハオ前ガ女トナリ、俺ガ悪漢トナルノダ」
「エエ!?」
 弟が驚愕の声を上げる。突然女装を命じられればそれは驚くだろう……いや?
「ソンナ! 兄チャンガ悪漢ダナンテ! ソレナラ僕ガ!」
「駄目ダ!」
 今までで一番力のこもった声で兄が制する。弟は悲鳴にも似た声を出して押し黙る。
「案ズルナト言ッタダロウ?」
 そして今までで一番優しい声で、兄は言う。
「悪漢ハ卑劣ニモナイフヲ振ルウ。演ジナガラ、誤レバ己ガ身ヲ切ッテシマウコトモアルダロウ。家デモオ前ニ刃物ヲ持タセタコトハナイデハナイカ。ソレナノニ、ソンナ危険ナ役ヲオ前ニ任セルコトハデキナイ」
「デモ……」
「分カッテイル。『ニトロ・ポルカト』ガ本当ニ勇敢デアレバ、襲ワレル美女ヲ助ケズニハイラレナイダロウ。逆ニ勇敢デナケレバ、警察ナリナンナリ、助ケガ来ルマデナイフニ怯エテガタガタ震エルコトダロウ。ドチラニセヨ悪漢ハ誰カカラ攻撃ヲ受ケルコトニナル。コレモアッテヤハリオ前ニコノ役ヲヤラセルワケニハイカナイノダ。ソシテドチラニセヨ、俺ハ最後ニハ捕マルダロウ」
「ヤッパリ駄目ダヨ。ソレジャアヤッパリ兄チャンハ――」
「ダガ、俺ガ捕マッタ時、ツマリアバクベキ虚ノ真実ガ明カサレタ時、弟ヨ、コノ福音ガ世界ニ鳴リ響クノダ!」
 マスターの言に反応したレクがその鐘を打つ。かねて用意されていた間抜けな効果音と共に妙に明るい人工音声が公園に鳴り響く!
「な〜んちゃって♪」
 ――弟は、息を飲んでいた。
 ぽかんとして、それから自信に満ちた兄を見上げ、わなわなと震えた。
「……兄チャン?」
ソウダ、弟ヨ」
「アア、ヤッパリ兄チャンハスゴイヤ! コンナコトニ気ヅクナンテ!」
 芍薬は、冷たく笑った。
 全く懲りていない。全く変化がない。先ほどの弟への違和感はなんだったのだろうか。
 芍薬は決断した。
 この手のバカは放っておくといつかとんでもないことになる。
 教育施設への不法侵入を企て、次に刃物を用いた狂言――その次は何だ?
 考え足らずの二人と一人が揃ってこれほど無反省にヴァージョンアップしていくだけでも危険だし、アデムメデス国教の聖典・説教に拠って自説を都合良く補強しながらビッグなヒーローを自称するこのハロルド・トルズクを煽り立てる第三者が現れないとも限らない。例えば『クレイジー・プリンセス』のような頭の切れる阿呆がバックにつけば面倒なことになろう。それは『隊長』の件において既に実証されているし、その黒幕が王女でなければまた別のベクトルで厄介だ。この手の馬鹿を暇潰しの見世物にするためだけに煽り立てる人間だっているだろう。悪質なパパラッチが捨て駒として利用しようとすることも大いに考えられる。
 最悪の場合には――
 例えば兄のこだわる『ジェントルマン・ディンゴ』がそうであったように、最後には抽象的な巨悪と刺し違えて死ぬことこそ至高の正義と思い込み、実存しない敵を滅するために偶然行き会った老人を諸悪の王であると認定し、そうして妄想の果てに非力な相手を抱きかかえてダンプカーの前に飛び出すことさえあるかもしれない。そして、もしそうなったその時、哀れな老人の代わりに道連れにされてしまうのは一体誰であろう?
「レクヨ! コノ策ノ成功率ハドウダネ!?」
 兄が聞く。
「ゼロではありません! いいえ、きっと成功するでしょう!」
「ドウカナ、弟ヨ!」
「ソレナラ間違イナイヨ! 絶対ニ成功スルヨ、兄チャン!」
 すっかり安心し切った様子で弟が賛意を唱えると、二人と一人は楽しげに計画の細部を語り合い出した。計画の細部、と言っても狂言のシナリオを雑に推敲する程度である。が、兄弟にとっては一国の命運を担うほどの会議であるらしい。極めて真剣に語り合う内に初めは女装することを躊躇していた弟もすぐに乗り気になり、どういうわけだか早々に“『ニトロ・ポルカト』は勇敢ではない”という結論が無根拠に証明されてしまった。兄の曰く『スライレンドの救世主』が虚像であることを暴いた自分達の動画は今年の報道に関する賞を総舐めにし、それによって世に名をビッグに知らしめた彼は一躍ヒーローとなり、ヒーローとなった彼は彗星が宇宙を駆けるがごとく次々に正義を働くがそれに付随してそんな気はなくても大金が転がり込んでくる、そこで彼は弟のため南海のリゾートに『ジェントルマン・ディンゴ』が有していたような豪邸を建ててやるらしい。
 そして兄弟が計画と夢とを相半ばに語り合う裏で、その全てを実現させるためにオリジナルA.I.レクは一生懸命働いていた。芍薬には『警報機』を通してレクの必死さが直に伝わってくる。レクは紛うことなく全力で『ニトロ・ポルカト』の動向を探ろうとしていた。物事の成否は準備の良し悪しに左右される。マスターの輝かしい未来のために最高のステージを整えねばならない。芍薬は静かに指を動かす。レクは血眼になって狂言が成立する時と場所を得ようと走り回る。それを眺めながら、そっと息を潜ませながら、芍薬は思惟する。最後には人間は人間の法に処分させればいいにしても、このオリジナルA.I.をどう処分するかは一考の余地がある。今や人間社会になくてはならないオリジナルA.I.も(もちろん汎用A.I.も)人間の法の影響下にあるのは確かだが、一方でこちらにはこちらの理がある。しかし一つ一つの理は単純であってもそれらが寄り集まった社会は複雑で、笑えるほどに煩雑だ。レクは法を犯さんとするマスターのためにも精一杯働く。自分もマスターのために、最善を尽くす。
 レクはやがて“その情報”に行き当たった。
 歓声が上がる。
 その歓声に兄弟が気を引かれる。
 奇跡的に神の秘密を掴んだとばかりにレクは狂喜してマスターへ報告する。『ニトロ・ポルカト』が放課後に立ち寄るはずの、ショッピングセンターのことを。
 ――誘導は終わった。
 以降の二人と一人の動向は横目で監視することにして、芍薬はキッチンに止めたままの多目的掃除機マルチクリーナーの操作に戻った。
 真空パックから取り出した豚のバラ肉をマナイタに載せ、ロボットアームを伸ばして料理用のアタッチメント・ハンドに万能包丁を握り込む。肉を切ろうと力を強めるあまりにマルチクリーナーがひっくり返ったり、逆にひっくり返ることに気をつけ過ぎて包丁に力が伝わらなかったりしないようバランスに注意しながらレシピに準じた大きさに切り分けていく。切り分けた後は、しっかり下味をつけていく。
 どんな料理も丁寧な下ごしらえが大切で、この料理は急がずじっくり煮ていくことが肝要だった。

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