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 ニルグ・ポルカトは上機嫌だった。
 エールビールをグラスで二杯飲んだ。顔はもう赤かった。今は手元にワイングラスがある。グラスの中で深いルビー色の液体が、大きな窓から差し込む豊かな光を照り返している。
「ハラキリ君は相変わらず顔が変わらないねえ」
 ニルグが朗らかに言う。
「でも、相変わらずひょいひょい食べるから見ていて気持ち良いよ」
 ジン・トニック・デススタイル――およそ百年前に下戸の探偵が主役のドラマから広まった注文方法で、レシピからスピリッツを抜いた、つまりこの場合は単なるライム入りのトニックウォーター――を一口、ほの苦く清涼な炭酸で味蕾をリセットしていたハラキリは微笑し、
「いやいや、やはり見ていて気持ち良いのはニトロ君やおばさんですよ。特におばさんは本当に美味しそうに食べますから、見ているだけでこちらも美味しくなってきます」
「そうなんだよ。リセの食べる顔は見ていて飽きないんだ。だからつい作りすぎちゃってね、ダイエットが大変だって時々怒られるんだ」
「しかし、それがまた嬉しいのでしょう?」
「ハラキリ君は解ってるねえ」
 笑いながらニルグは大きくうなずく。
「栄養のことはちゃんと考えてるからそんな太りはしないはずだけどね。でも、一緒にジョギングするのも楽しいしね」
「そうですか」
 ハラキリは、恥ずかしげもなく惚気のろける友人の父親に苦笑した。しかしここまで素朴に惚気られると、妙な心地良さもある。
「けっこんしてぇ、にゃんにぇんですかあ?」
 ハラキリの隣の女性がべろべろに酔っ払った調子で問いかけてくる。彼女の友人はカウンターに突っ伏して寝ている。以来、彼女はこちらの会話にちょくちょく嘴を挟んできていた。初めは『ハラキリ』『ニトロ』という名からこちらの素性を知って好奇心満々に言葉をかけてきたのだが、今ではそれも関係なく、単純に話し相手が欲しいらしい。
「今年で21年目だよ」
「しゅごーい! しゅぐにててきた!」
「毎年お祝いしてるからね」
「いいにゃー! わたしもおじしゃまみたいにゃだんにゃがほしー!」
「きっと見つかるよ」
「えー!? そうかにゃー!」
「そうだよ」
 根拠はないだろうに、ニルグは自信ありげに言う。深い赤紫色の液体揺れるワイングラスを片手にゆらゆら揺れながら、女性は、
「しんじちゃいましゅよー? にゅふふふ」
 と、満足気に笑い声を上げた。そしてグラスを傾け、喉を鳴らし、フと息を吐き、ふいに糸が切れたかのようにぼんやりとした動きで頬杖を突く。ハラキリは手を伸ばしてそっと空いたボトルの位置を変えた。目がうろんとなっていて、そろそろ彼女も眠ってしまいそうだ。
 それからハラキリはニルグお勧めのスペアリブのグリル、その最後の一つを手に取った。がぶりと齧りつく。肉の旨味もさることながらスパイスのガツンと効いた漬けダレが芯まで染みていて、骨についた身を一片残らず歯で削ぎ落とさずにはいられない。
(嗚呼、ビールが欲しいですねぇ)
 そんなことを思いながらハラキリはひょいひょいと食べる。大きなデドン豆の煮込みはトマトソースに加えられたブイヨンのコクが実に奥深く、ぷちりと弾けた後にほくっと潰れる豆の甘みがまた実に美味い。サラダは驚くほど後を引くドレッシングで食べ飽きず、ベーコン・アスパラ・キノコ・オニオン・パチパ・ブロッコリー・パプリカのガーリック炒めは素材の良さも存分に活かされてフォークが止まらない。
 店は大賑わいだった。カウンター席に空きはなく、フロアのテーブル周りにも隙間はない。立ち飲み席で長居をする者もいれば、慣れた様子で一・二杯とあおるやすぐに去る者もいる。ニルグの隣に座っていた初老の男性は店がこれほど騒がしくなる前に帰っていた。代わってその席には赤ワインのボトルをお供に分厚いステーキをがっつく若い男がいる。彼は一つのことに夢中になるというタイプらしく、周囲の喧騒にも隣席の会話にも一切気を払わず飲み食いを続けていた。
 店員の大柄な男は、今は酒瓶の並ぶ棚の前のカウンターから離れようとしていない。いや、次から次へと入る注文に離れる暇がなかった。ワインを注ぎ、ビールを注ぎ、カウンター客から振られた話題に応え、カクテルを作り、蒸留酒スピリッツを注ぐ。カウンターにはひょろりと背の高い老バーマンもいつの間にか現れていて、ここから見ると大柄な男とひょろりとした老人が場所を入れ代わりながら仕事をこなしている様は一種の人形劇のようだ。次々と用意される酒と料理、同様に次々と空く食器は双子のウェイトレスが忙しく運び回っている。片方は赤毛の長髪で、片方は白髪のベリーショート。片方は常連と軽口を叩き、片方は寡黙に、素早く動き回っている。それもまた一種の演劇のように思えてならない。
 活気に溢れていた。
 どこかで乾杯の音頭が取られる。
 話し声も笑い声もただの一瞬も途切れない。
「そういえば、ハラキリ君はワインも詳しいんだね」
 思い出したようなニルグの問いかけに、ハラキリはフォークに突き刺したベーコンとアスパラを口に運び、
「たまたまです」
「たまたま?」
「ええ。食に通じた方々とお話しする機会も増えましたから、ちょっと予習をしていたんです。そこにたまたまワインの項目があったわけで」
「そっかあ、ハラキリ君はえらいねえ」
 ニルグは感心の目でハラキリを見る。ハラキリは真っ直ぐな感心の眼差しを飄々と受け止めつつ――
「ニトロが頼りにするわけだ」
 ――飄々と受け止めるのが難しくなるのを避けるため、ハラキリは笑みを浮かべて会話を逸らすことにした。
「ところで、おじさん方はお祝い事にはやっぱりワインですか?」
 ニルグは嬉しげに微笑み、
「そうだね、やっぱりワインが多いかな。普段からも時々ワインを飲むけど、だからこそお祝いの時にはちょっと特別なワインをね。それにワインは縁起の良いお酒だから、やっぱり定番だよね」
 ワイン、それも赤ワインはその色から太陽(アデムメデス国教会の象徴イコンは太陽を模している)に通じ、またその色からロイヤルカラーにも通じる。そこで祝祭や祭典において使用が規定されていることも多く、そのため『縁起の良い』酒なのだ。
「定番は強いですよね」
 ハラキリがうなずくと、ニルグもうなずく。
「うん、強いよね。だから定番なんだろうね」
「連続防衛回数最多のチャンピオンです」
「フライドポテトも食べる?」
「いただきます」
「んー、おじさんはもう一杯ビールを飲もうかなあ」
「フライドポテトにはやっぱりビールですね」
「定番だよね」
 ニルグとハラキリは笑った。
「うん。もう一杯くらいならいけるかな。やっぱり飲んじゃおう」
 そうしてニルグは注文をする。カードサイズの端末を操る指は正確で、酔いによって上機嫌になっているとはいえ呂律に怪しいところもまだ出ていない。ハラキリは少し気になって、
「まだまだ飲めるんじゃないですか? お顔は赤いですが、赤いだけ、のように見えますし」
 訊ねられたニルグはその赤い顔をハラキリへ向け、にこりとして、
「おじさんはそんなに強くないよ」
 ハラキリはもう少し深入りしてみた。
「遠慮なさらず飲んでいただいて構いませんよ?」
「遠慮は全然してないよ。おじさんはあとビール一杯がちょうどいいんだ」
 ワイングラスを軽く回して、香りを嗅いで目を細め、すっと穏やかに口に含む。
 ――背後の酔っ払いどもの騒がしい笑い声、隣の愚痴を言い合った後に眠ってしまった二人の女性、年経たウィスキーの味を独り楽しみさっさと切り上げたあの初老の男、ワインを一本水のように飲み干しながらステーキを平らげた若い男。
 赤ら顔のニルグへ、ハラキリはただうなずいた。
 ニルグは何故だか奇妙なほど得意気な顔をして、赤ワインと良いマリアージュのデドン豆の煮込みを食べる。
 一家揃ってこの人も本当に美味しそうに食べる人だ、とハラキリは思う。
 ニルグは少なくなった煮込みを眺め、
「ところで、お腹はまだいている?」
「何をお頼みになるつもりですか?」
「牛スジ肉のワイン煮込み。自家製パンもつけられるんだ。とっても美味しいよ」
「それを〆にするならちょうどいいです」
 ハラキリのこまっしゃくれた台詞回しにニルグは実に楽しげに笑い、端末を操作する。
 その間、ハラキリは携帯モバイルを確認した。
 この店に来る道すがら撫子から連絡があった。それは友人に突発的に仕事が入ったという知らせだった。そのラジオ出演の時間までおよそ3分。ハラキリは設定していたタイマーを解除し、対象の『箱番組』のWebページを表示した。番組によってはスタジオなど現場の様子を同時配信することもある。この短い番組は『突撃』というその性質から“事故”を避けるため、本番中の――ディレクターが撮影し、選択した――写真を適宜アップするようになっていた。それからブラウザとは別にアプリケーションを開き、ラジオの電波を拾う。ネット配信の方が当然音も綺麗だが、すぐにパンクするのは目に見えていた(同じ理由でWebページにアップされるはずの写真が見られるかどうかは甚だ怪しい)。
 こちらを不思議そうに眺めているニルグへ、ハラキリは懐のカードケースから一枚カードを取り出した。それもまたカード型のケースであり、そこから取り出した小さな四角いシリコン製シールのようなものを一つ差し出し、
「ニトロ君がラジオに出るそうです。聴きませんか?」
 ニルグは大きくうなずいてハラキリから使い捨てのシール型イヤホンを受け取った。薄いカバーを外して、左――ハラキリのいる方とは逆の外耳道孔をシールで覆う。と、体温に反応したシールが耳の形に添って密着した。ハラキリは右耳に同じものを貼り付けて、携帯をテーブルに置いた、その時、
「おまたせしました〜!」
 赤毛のウェイトレスがフライドポテトとパルトグラス(パルトは中央大陸西部で使用されていた大昔の単位で333ml)にローペイン産のピルスナービールを満たして運んできた。ハラキリとニルグの間に半月形のポテトの盛られた皿とキンキンに冷えたグラスをトンと置き、空いたスペアリブとサラダの皿を持ち去っていく。
 タイミングが悪かった。携帯とハラキリの間に給仕作業が入り込んだため、操作が遅れた。既に番組は始まっている。まあ突撃インタビュアーである崖っぷちアイドルの挨拶を聴き逃したくらいか。そうでなければ、家で撫子が録音している、後で聞き直せばいい。
 ハラキリはアプリケーションのサウンド設定を操作して、シールイヤホンに音を飛ばした。同時にWebページも自動更新される。へそ出しのタンクトップと下着が見える寸前のミニスカートを穿いたメルミ・シンサー、愛称メルシーが、ホテル――これはホルリマン・ホテルか、そのロビーでポーズを取っている写真が表示された。脂汗が浮かんでいないのが不思議なほど青白い顔をした彼女はマイクを自慢気に示している。そのいかめしい石膏像を無理に笑わせたような顔の上には『本日のマイクはとっても高性能! 音を拾える範囲も広いのです! その理由は・・・本番で!』と直筆で書いてあった。
 ハラキリとニルグの耳に、やたらと媚びた声が響いてくる。
「――それでは早速インタビューさせていただきます!」
 良かった、ちょうどここからが本番だ、とフライドポテトにフォークを差し込みながらハラキリは思った。緊張のためであろうほんの少しの間を置いて『崖っぷち清純派アイドル』が問いかける。
「ティディア様! 今朝は何をお食べになりましたか!?」
「つい三分前、環境大臣の第二秘書に偽証教唆及び脅迫容疑で逮捕状が出たわ」
「ぅへぇッッ!?」
 メルシーの周波数のかっ飛んだ声は、驚きのものだったろうか? それとも王女が何を言っているのか理解できなかったがためのものだろうか。それに重ねて聞こえてきたブという音はニトロが吹き出しでもしたのだろう。ハラキリは飲み込みかけていたフライドポテトを吐き飛ばすところだった。
 内容に反してやたらと気軽い調子の王女は続けてのたまう。
「彼の近くでこれを聞いている人がいたら、証拠隠滅しないように身柄を拘束しておいてね♪ ま今更隠滅なんてしても意味ないけど。まさか大臣もお仲間ってことはないことを、お姫様、信じているから」
 爆弾発言どころではない。これを聞いた各メディアのニュース班は天地がひっくり返ったような騒ぎを起こすこと必定である。寝耳に水。噂にすらなっていなかった事態。環境大臣関係者及び環境省は大パニックであろう。まさに『クレイジー・プリンセス』の面目躍如である。
「……」
 インタビュアーは二の句を継げない。一瞬妙な沈黙が入った。重い沈黙であった。Webページが自動更新される。しかし更新は反映されない。サーバーがダウンしていた。
「仕方ないわねー」
 鉛のような一瞬の沈黙を破って明るくティディアが言う。
「メルシー、こちらから質問するわ」
 先ほど自分が何を言ったのか忘れたように、否、それどころかこれが初めての発言だとばかりに彼女は問う。
「今日のパンツは何色?」
「ここでいきなりセクハラ!?」
 ニトロが叫んだ。
「さあ、何をしているの?」
 しかしティディアは突き進む。
「さっさとその短すぎるスカートをたくし上げなさい!」
「ぅおい要求をエスカレートさせんな!」
「番組一つ終わらせることなんて簡単なのよ!?」
「さらにパワハラかよ! この流れでしかもその発言は最悪過ぎんだろ!」
「何で?」
「理解できないふりをするお前こそ俺は訴えたい!」
「もー。解ったわよ、それなら私もパンツの色を言えば文句ないでしょう!?」
「いやそういう問題じゃないよな!?」
「いいえ、今、このラジオを聴く男共の心は一つの大問題によって占められている! それこそは私のパンツが何かを知りたいという燃えるような劣情!」
「それもセクハラだろうがド阿呆!」
「さあ、皆の者、想像なさい、私は今、実はパンツを穿いていない!」
 また、沈黙が降りた。
 ハラキリにはニトロの呆気に取られた顔が見える。
 ティディアは引き続き元気良く叫ぶ。
「私のお股はノーガード! 目を遮る物はこのひらひらしたミニスカートだけ! ちょっと強い風が吹けば丸見えかも!? 部屋の中だから風なんか吹かないけど! あ、ヴィタ、窓開けてくれる? あ、はめ殺しか、なら割っちゃって」
「っお前ノリノリで何言ってんの!? バカなのか!?」
「バカです!」
「そうだバカ姫だった!」
「あ、ノーガードって言ってもそれはニトロにだけよ? 他の男のなんて、いらないから」
「今更お前貞淑ぶったって意味ねえだろンな状態で、てかちょっと飛び跳ねるな危ない危ない! ヴィタさんも割ろうと試みない!」
「ちなみに明々後日の『王都経済新聞』のインタビュー記事、それから今月の『ファスト・エンタメ・マガジン』と『気楽な生活』に写っている私は全部同じ格好で、つまり足を組んでいる時もちょっとローアングルの時もノーパンよ!」
「――え? マジで?」
「あら、忘れたの? お仕事の、前に、ニトロがその手で脱がしたんじゃない」
「おーまーえーは本当に何を言ってるんだああ!」
 ハラキリには解る。ティディアの言は嘘である。しかしニトロ君、ツッコミの選択をちょっと失敗しましたよ!
「そしてあの時からずっと私は穿いていない!」
 ほら否定対象を明確にして否定する隙を潰された。
「今日はこれからも穿かないわ! パーティーでは全体的に透け感のあるドレスを着るんだけど、私はやっぱり穿いていない! きっと注目必至ね! エロい意味で!」
「おいお前ちょっともう黙れ」
「何故ならそれもこれもニトロの命令だから!」
「ンな命令なんぞ断じてしてない!」
「言われなくても貴方の心は私には解る!」
「そんなこと言い出したら何でもありだよな!?」
「ニトロは私に何でもするじゃない!」
「ぅおおいこの流れでそれは誤解必至だろ!?」
「ところでさっきから何で発言しないのよインタビュアー!」
「お前のせいだろ何逆ギレしてんだ!」
「パンツの色は何色かって訊いているでしょう!?」
「え? そこに戻んの?」
「メルシー?」
「わ、わわわわわ」
 久しぶりにメルシーの声が聞こえてきた。しかしそこには媚態の欠片もない。おそらく彼女は素の表情になっていることだろう。
「いや、メルシーさん、こんな奴の言うこと聞くことないからね」
 ニトロが言う。
「この私の質問に答えられないって言うの? ほっほぉう、いい度胸をしているじゃなあい?」
 ティディアがドスの利いた声で圧する。
「だからパワハラすんなって! メルシーさん、恥ずかしいことに答える必要ないよ、大丈夫、無視だ無視!」
「無視できるものなら無視してもいいのよ、そう、無視できるもんならね」
「わわわ」
「メルシーさん」
「メルシー?」
「わわわわわ」
「メルシーさん!」
「メルシー!?」
「わわわわわわわ ワ」
 と、メルシーの声が硬直した。硬直したまま、ひび割れた。
「ワタシ、ワタクシも、脱ぎます! パンツなんて脱いでやります!」
「何でそうなる!?」
 驚愕したのはニトロである。その後ろで歓声を上げているのはティディアである。何を思ったか、いや、もう何も考えられていないのであろうメルシーは言う。
「この衣装を選んだ時、パンツを見られることへの羞恥心など捨てました」
「いや捨てちゃ駄目だろ清純派」
 ニトロがツッコむ。
「もはや色など知られて何するものぞ!」
「だからね」
「姫様が穿いていないのならばワタクシも!」
「論理が飛躍してるよ!?」
 ニトロの言葉はほとんど悲鳴である。どうやらメルシー、本当に脱ごうとしているらしい。衣擦れの音が間近に聞こえ出す。
「待って待ってティディアはまだしもメルシーさんの丈で脱いだら本当にまずい!」
「ぬーげ! ぬーげ!」
「囃し立てんなド痴女!」
「ワタクシ今、脱いでいます!」
「実況しないで脱がないで!」
「そうよ! 脱げば解放されるわスースーと!」
「お前はいい加減パンツを穿けぇ!」
「じゃ、メルシーが脱いだの穿くわ」
「そうじゃなくて!」
「脱ぎました!」
「うああああああぁぁぉ」
 ハラキリにはニトロが頭を抱えている姿が目に見えるようだった。
「ピンクだったのね!」
 ティディアが歓喜に目を輝かせているのがまた目に見える。
「ピンクです! お気に入りです! 一番かわいいのです!」
ありがとうメルシー!」
 ティディアが叫ぶ。
ありがとうメルシー!!」
 メルシーも続く。
 彼女の声はどこか底割れしている。
 もし、実際に目の前にしたら、きっと彼女の双眸はかっと見開かれ、その瞳は瞳孔が開き切っているだろう。
「メルシー!――じゃ、ねぇえええ!」
 頭を抱えているであろうニトロが血を吐くような怒声を上げた。しかし初めから暴走している痴女と暴走しちゃった崖っぷちアイドルは止まらない。
「さあメルシー! 踊りましょう!」
「はい! 踊ります!」
「気を取り直せメルシーさん! 踊れば見える! 絶対見えちゃう! ていうか既にホントにヤバイ! ここには俺もスタッフさん達もいるんだよ!」
「そんなの気にして女ができるか!」
「お前はもう黙ってろバカ痴女!」
「踊ります! 踊って見せますニトロ様!」
「何を見せる気!?」
「決まっているじゃなあい? お・ま」――ハラキリは、ニトロの血管が切れる音が聞こえる気がした――「芍薬! ハンマー!」
 バガン! と、凄まじい音がした。ドアが蹴り開けられたかのような音だ。
「ドウゾ主様!」
 芍薬の声がした。
「本当に買ってきちゃったの!?」
 ティディアの驚愕の後ろに重なった複数の声は番組スタッフの声だろう。ここまで徹底して無言だったプロフェッショナル達も、流石に声を出さずにはいられなかったらしい。一体どんなハンマーを持ってきたのか芍薬は。
「ティーディーアぁぁァ」
「待って! やめて! そんなおっきいのぶちこまれたら私本当に死んじゃう!」
「ぬあああああ!」
「きゃああああ!」
「さー、始まりましたティディア様VSニトロ様の一本勝負」
 ティディアの悲鳴に続いて聞こえてきたのは恐ろしく冷静なメルシーの声である。冷静であるが壊れたまんまであるらしい彼女は驚くべき早口でありながら恐ろしく聞き取りやすい、実に見事な滑舌で続ける。
「ニトロ様がハンマーを振るいます。ティディア様は身軽にかわします。ハンマーは長い柄のついたおっきいものでございます。スレッジハンマーでどうぞご検索ください。ホルリマン・ホテル自慢のスイートルームは大型ハンマーを振り回せる快適な空間にてフレンドリー&ラグジュアリーな安らぎをお約束いたします、皆様どうぞご利用ください。さてニトロ様はただハンマーを振り回すだけではありません、重く扱いがたくもあるようですが突く突く薙ぐ突く、それはさながら槍のごとく、そして執拗に顎を狙っておりますが、させません、ティディア様、さながらボクサーのごとく頭を上下左右前後に振って華麗にかわします。おっとハンマーがティディア様のお耳をかすめました! 手に汗握る攻防です。ワタクシメルシー、脱ぎたてのパンツを握り締めて実況しております。ティディア様、またもひらりとかわされます。なんということでしょう、あんなに動いているのにティディア様はスカートがめくれるのを巧みに防いでおられます。素晴らしい。パンツが見えません、失礼しました、パンツを穿かれていらっしゃらないのですから見えるはずがありません。その代わりお臀部が見えるのでしょうか? それともお陰部まで見えてしまうのでしょうか? ニトロ様以外に見せつけてしまうのでしょうか?」
「何言ってんのメルシーさん!?」
「ニトロ様はこちらにツッコまれる余裕がおありのようですがワタクシにはつかず離れず実況する他に余裕はありません。近づきすぎれば危険です。お声は拾えていますでしょうか。大声は明瞭かと存じます。しかしニトロ様の勇ましい吐息は聞こえますでしょうか、ティディア様の楽しげな吐息は聞こえますでしょうか、この臨場感をお伝えできるようワタクシメルシー可能な限り努めさせて頂きます、ティディア様また避けアッ!―失礼しました、スカートがついにと思われた瞬間なんとニトロ様が足で抑えました、これぞ神技! ティディア様甘い声! ニトロ様怒り声! ティディア様身をひるがえす! 振り下ろされたハンマーが後ろ髪をかすめる! とうとうニトロ様は攻撃範囲を頭にまで広げました。しかし当たればどうなってしまうでしょう? ティディア様はお腰を左右に振っておられます。挑発しておられます。ひらひらとスカートがひるがえります。ワタクシの仲間、ディレクターはカメラを構えております。ノーパンノーガード。職務に忠実なのです。けっして己が欲望でローアングルを狙っているのではありません。ジリジリと這い寄ります、おっと近づきすぎですディレクター、ニトロ様のハンマーが目の前に、危ない! ディレクターは悲鳴を上げて飛び上がり、その際カメラを落し、おや、カメラを見失っている。後ろです、あっ! 踏まれたカメラ、カメラが壊れた。皆様お嘆きにならないようお願い申し上げます。これ以上の撮影は続行不能。持込みが許可されたカメラはその一台。ディレクター大失態!――いえ? もしやニトロ様は狙ったのでしょうか? きっとそうです、やはり恋人の痴態を見せたくないのであります、これは愛が故の正当な攻撃そしてこれこそが勇敢なる騎士の精神!」
「ちょ、違う! ッこんの、逃げるなティディア!」
「お逃げくださいティディア様! 命中したら放送事故になってしまいます!」
「もう事故ってるだろこんな放送!」
「さーその事故放送も残り3分を切りました。果たして決着はつくのでしょうか。決着がついてしまうとメルシーの人生にも決着がつく気がいたします。タオルを投入したいところですがタオルは持ち合わせていません。ワタクシ、パンツしか持っておりません。パンツを投げ込めばタオル代わりになるでしょうか。きっとニトロ様はタオルだと思ってくださるでしょう。ところでニトロ様のパンツはベージュです」
「誤解を招く! パンツはパンツでもボトムス!」
「そうコットンパンツでございます。ご興味のある方は当番組公式サイトで是非ご確認ください。ティディア様ぴょんとソファを飛び越える! スカートは手で押さえ、しかしついに片尻チラリズム! まことにノーパンノーガード! ディレクター他スタッフ総前屈み! ワタクシも目が離せません、ハズカシ姫様お可愛らしい! ニトロ様はあざといとのご指摘! 巻き込まれそうになったお高そうなソファは無事! それにしてもパンツ、パンツ、パンツとは一体なんでありましょうか。ワタクシ解らなくなってまいりました。ワタクシ現在パンツを手にしております。これはタオルにもなるでしょう。パンツは殿方を興奮させます。しかしパンツがなくとも殿方は興奮されます。パンツの存在意義とは何でしょうか。存在意義を持つパンツとは何でしょうか。概念でしょうか、崇高なる理念でしょうか。あなたにとってパンツとは何ですか? ティディア様がくにゃりとハンマーを避けられます、何と柔軟なのでしょう、そしてニトロ様は何て容赦のない……愛、これもお互いの信頼があって初めてなせる愛!「ち「超素敵!」
「超素敵なこの放送も残り1分でございます。ワタクシにとってパンツとは希望でした、お笑いになるかもしれません、しかし確かに輝く夢へ至るための希望だったのです。それも今は脱ぎ、ワタクシお股がスースーします、解放されています。――解放? ワタクシ何から解放されたのでしょうか。希望? ワタクシは希望に囚われていたのでしょうか? ワタクシはパンツを穿いていたのではなく、もしかしたらパンツに穿かれていたのでしょうか。ならばパンツに穿かれた時、その人は何になるのか――そう、パンツとなるのです!」
「何その哲学! くそティディアこの期に及んでたくし上げようとすんな!」
「パンツはパンツでありパンツである時にこそパンツなのです!」
「メルシーさん!?」
「パンツは希望ではありません! 人はパンツによってのみ輝くのではありません! ワタクシの目の前には今、パンツを穿かずとも活き活きと誰よりも輝くお方がいます! 嗚呼、ティディア様! 貴女様は何故それほど輝いていらっしゃるのですか!?」
「それはニトロを愛しているから!――ゎお!」
 その時、激しい破壊音がした。その音と失態への呻きと小躍りしている声に重なって、何か鋭い呼吸音が聞こえた。そして、
「『崖っぷちアイドルの気まぐれ突撃インタビュー』本日は麗しく微笑まれるティディア様、お高そうなランプシェードを壊してしまって頭をお抱えになられたニトロ様にお相手頂きましてメルシーことメルミ・シンサーがお届けいたしました」
 責務に突き動かされているように極めて口早にメルシーが言う。その声には少しの落ち着きが戻っている。
「番組が生きていましたらまた火曜日に。それでは皆さんよい週末をお過ごしください。
 ――メルシー!!」
 番組は、そこで終わった。
 途端にやけに明るい男女の会話が始まる。結婚支援会社のコマーシャルだった。
「……」
 ハラキリは、そっと、ニトロの父を覗き見た。
 ニルグは、心底から嬉しそうに微笑んでいた。
「仲がいいことは、良いことだねえ」
 ハラキリの目に気づいてニルグは言った。彼は上機嫌にビールをくっと一口飲む。フライドポテトを齧って、ハラキリに、ラジオの最中に届けられていた牛スジ肉のワイン煮込みを勧める。
「……」
 ハラキリは何と返したものか解らなかった。ニトロなら的確にツッコンだろうか? それとも素直にうなずいたろうか……とかく判るのは、親友の父君もまたおもしろい人だ、ということだ。
「そうですね」
 ハラキリはとろける牛スジ肉を驚きと共に味わい、それから続けた。
「仲がいいのは、良いことです」
 ニルグの幸せそうな赤ら顔を眺めつつ笑みを返し、そして彼は思う。
 なおさらに、この夕飯のことはニトロ君には話せないな――と。

「疲れた。なんかもう、疲れた」
 ニトロはハンマーの長柄を支えにぐったりとうなだれていた。彼の横にはスレッジハンマーを持ってきたアンドロイドが控えている。
「やー、楽しかったわー」
 やたら艶々と頬を輝かせ、言うのはティディアである。やたら満ち足りた瞳のヴィタの差し出したタオルで額の汗を拭きながら、
「あのはっちゃけっぷりは素の爆発かしら? 新たな扉かしら? 彼女もこれで一皮剥けるといいわねー」
 ニトロは、毒々しく問うた。
「どっからどこまでが、お前の計算通りだ?」
「計算なんかしていないわよぅ。ただキッカケにでもなればいいな、って思った程度だもの」
「キッカケか」
 その言葉を繰り返し、ニトロは少し顔を上向けながらわずかに目を伏せ、言う。
「むしろトドメに、なってなければいいんだけどな」
「それは彼女次第。良い方向にいくことを祈っているわ」
「……」
 ニトロはティディアに目を向けた。
「……お前、もしかして彼女に何か関係でもあったのか?」
「別に? 経緯は話したでしょ? たまたまよ」
「本当か? たまたまって言うわりには随分同情的じゃないか」
「んー」
 と、タオルをヴィタに返し、ティディアは言う。
「頑張る人に同情を寄せるのは別に悪いことじゃないでしょう?」
「……」
「その様子だと、ニトロもメルミ・シンサーのことを知っているみたいね?」
「知ってるってほどじゃない」
「じゃあ、何?」
「お前はいい加減、パンツを穿け」
「ショーツは持ってきていないわ。宣言通りこの後もこのまま――あ、ニトロが買ってくれるならそれを穿くわよ?」
 ニトロは、ティディアの瞳にまっすぐ眼を合わせた。
 微笑むティディアには期待がある。
 その期待は計算づくの期待であることに彼は勘付いた。彼は目をそらした。頬の後ろに差し込む眼差しが翳る。しかし彼は振り返らず、目の先にある扉を見つめた。彼が思い返すのは、何度も辞儀をしながらラジオのスタッフ達が出て行く光景、放送後しばらく茫然自失に陥っていた『メルシー』のあの姿、そして最後に見た彼女の瞳に浮かんだのは……あれは、確かに、光だった。彼は言う。
「さっき下に行った時、予習してるのを見たんだ。結局まるで無駄になったみたいだけどな」
「詳しく聞きたいな」
「なら芍薬にレポートを作ってもらうから、それを読んでくれ」
「……ケチ」
「貧乏性なもんでね。後は芍薬のまとめたので補完したくらいだよ。――本当に、彼女はたまたまなんだな?」
「ええ。私はたまたますれ違った相手にすら容易に大きな影響を与えられるらしいの。それだけのことよ」
 ニトロはしばし黙した。その後、ハンマーにもたれていた体を正す。
「だったら、もう少し立場とかも考えたらどうだ」
「立場に縛られるのは面白くないわねー」
 ティディアはニトロの眼差しにくすぐったそうに笑う。ニトロはため息をつき、最後、メルミ・シンサーの言葉とティディアの返答とのどちらに対処するか惑ったことから力んでしまい、それによってバランスとコントロールを失った結果へと目をやった。ホテルに謝るのは当然として、もう一つ、
「あのランプシェードは俺が弁償する。
 いいよね? 芍薬」
「――御意」
 不承不承、芍薬はうなずいた。
「それじゃあそのハンマーはこちらで買い取るわ。ニトロが持っていたってしょうがないでしょう?」
「持って帰るよ。何かの役に立つかもしれないからな」
「そう」
 残念そうにティディアは目を伏せ、それからすぐにヴィタに顔を向け、目配せをした。
「それじゃあ、これも持っていって」
 ヴィタが部屋の隅、小さな冷蔵庫の前でかがみこむ。ニトロが見ていると、ヴィタは小さな手提げ袋を持ってきた。そこにプリントされているロゴには見覚えがある。最近、品物が入手困難と散々宣伝されている人気パティシエの店のものだ。
「ベイクドチーズケーキ」
 と、ティディアが言った。
「明日が食べ頃です」
 と、ヴィタがニトロへ袋を差し出す。
 ニトロはハンマーを芍薬に預け、袋を受け取った。
「明日は『夫婦の守護天使の日』でしょ? お父様とお母様に持っていって?」
 ティディアは底意のない顔で目を細めている。ニトロの視線を受け、彼女は言葉を重ねた。
「できれば城にでもご招待して、ご一緒したかったんだけどね……。ニトロの分もあるから食べてくれると嬉しいわ」
「分かった。届けておく」
「よろしくお伝えしてね?」
「……分かった」
 ティディアは芍薬に目をやった。そして華やかな声も厳かに、朗々と、
「“いかなる道をも共にする善き夫婦めおとに末永き祝福を”――芍薬ちゃん、録音した?」
「……シタヨ」
 アデムメデス国教会において位の高い王女は満足気にうなずいた。
「もう一つ。ニトロ、私達にも祝福を――ね?」
 ニトロは冷笑的に、片頬を持ち上げた。
「それを言わなかったら、気持ちよく別れられたのかもしれないのにな」
「それでも言わずにはいられないのよ」
「そうかい」
 ニトロは長柄のハンマーを携える芍薬と共にドアに向かった。と、ふと立ち止まってティディアへ振り返る。
「パーティー、どんなに退屈ッたっていくらか外交的な色合いもあるんだろう?」
 そして彼は口早に言った。
「頑張ってな」
 ティディアは、唇をほころばせた。
「ええ、頑張るわ」





 翌日――『夫婦の守護天使の日』の晩のこと。
 ティディアからの土産を持って実家にやってきたニトロへ、ニルグは歓迎の言葉の後にこう言った。
「ああ、これは一度食べてみたかったんだ。ワインの後にも合いそうだね。ハラキリ君に聞いたのかい?」
 ニトロは首を傾げた。
「ハラキリ? 何のこと?」
「あれ?」
「『あれ』?」

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→ 数日後 第三部 『行き先迷って未来に願って』

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