2014−1へ

7:25 ―小吉―


 クラスメートへの弁当ランチボックス作り指導を――彼女が鶏肉のバターソテーを半分焦がして大騒ぎしつつも――無事に終えた後、ダイニングテーブルに座るニトロは、粗挽き胡椒を利かせたタマゴサンドを齧りながら物思いに耽っていた。
(……ミーシャは、これを作る時も塩を入れすぎたんじゃないかとうろたえていたな)
 そして味見をして、実は塩を入れすぎたなんてことは全然なくて、自分で思っていたよりも美味しくできたらしくて顔を輝かせていたな……その頬の明るさとその瞳の輝きは、きっと恋人の顔に見ようとしているものへの期待に他ならなかったんだろう――
ニヤニヤスルノモ程々ニシテオキナヨ?」
 と、キッチンの片付けをしてくれている芍薬がにやにやしながら言った。
「デナイトソレガ『癖』ニナッテ、学校デミーシャ殿ニ脛ヲ蹴ラレチャウカラ」
 ニトロは笑った。
「あれは痛いんだよなあ」
「中距離走者ノ脚力ダモンネ」
「そうそう」
 彼女に初めて蹴られた時は驚いたものだった。それは自分が既に『ティディアの恋人』として名が広まってしまった後のことで、その頃は学校での立ち居地のみならず社会的な立場も変わってしまって、それがもたらした交友関係の激変に心がしょぼくれていた頃で……頼みのハラキリも『映画』の宣伝だとかで外星そとに行ってしまい、そんな折に親交を深めたのがクレイグ・スーミアで。その彼が放課後「気晴らしに」と提案したボウリングに行く際、頭数を揃えるためにと連れてきたのが話題の女友達――当時はハラキリと共に別のクラスに所属していたミサミニアナ・ジェードだった。そして、皆にミーシャと呼ばれる彼女は、一日遊んだ後でもなお沈んでいる『ニトロ・ポルカト』に初対面ながら「しゃきっとしろ」とボウリングシューズのまま蹴りをくれてきたのである。
 あの時のクレイグの顔は忘れられない。
 自分も鉄砲を食らった鳥のような顔をしていたのだと思う。
 あまりに意表を突かれた彼と自分が顔を見合わせてしまった時、その顔の対照が面白かったらしく、彼女は大口を開けて笑った。それにつられて他の友人も笑い出し、最後にはクレイグも、自分も、大笑いしていた。
「……ミーシャが、あんな顔をするとは思わなかったよ」
 作り終えたサンドイッチと簡単なおかずを詰め終えた弁当箱を手に、カメラ越しに礼を言ってくる彼女の表情はまさに恋する乙女だった。頬を期待に桃に染め、反面、細められた目には不安が揺らめいている。それは――人の脛を蹴って、その後にさばさばとした気持ちの良い笑い声を上げていた少女とは似ても似つかぬ顔だった。
「『先生』トシテハ、昼休ミガ楽シミダネ」
「そうだね……」
 ニトロは、ミーシャがおかずにどうしても入れたいと言っていた『パチパ』という野菜をフォークですくった。これはオオナズナモドキというイネ科の植物の実で、その形は直径1cm程のハート型をしている。一番厚いところで5mm程度あり、食感としてはスナップエンドウに似ていて、味はトウモロコシに近い。様々な料理にアクセントとして使われるが、最も人気なのはシンプルにサラダにすることだ。栽培が容易で病気にも強いためアデムメデスでは一般的な野菜であり、また、その形状から夫婦・恋人・家庭円満の縁起物としても好まれている。
 ニトロはフォークの上の青いハートを眺めながら、
「でも、ちょっと不安もあるかな」
 言って、『パチパ』を口に入れる。パチッと弾けるような歯応え、口内に広がるほのかな甘さ、こればかりはティディアの弁当に入れたくない(実際、今まで一度も入れたことのない)美味しい野菜を噛みながらハムとチーズのサンドイッチに手を伸ばす。
「ミーシャ殿ガ予定ヲ変更シナイカドウカガ不安ナンダネ?」
 キッチンの拭き掃除を終え、お茶の用意をしながら芍薬が言う。
 ニトロは真面目な顔でうなずいた。
 ミーシャは、いざ恋人と手作り弁当を一緒に食べようという段になって、ちゃんと怖気づかずに彼を誘えるだろうか。こういうことに不慣れで、そもそも告白を決心してからも一ヶ月近く躊躇し続けていた彼女だ。ここでまた急ブレーキをかけて、その上、毎昼校内売店でサンドイッチを買うのが定番のクレイグと一緒にパンを片手にレジに並ぶというオチまでつけかねない。――だが、
「その時は、さすがに尻を叩くよ」
 サンドイッチを齧り、咀嚼しながらニトロは言った。
「ソレナラステッキデモ持ッテイクカイ?」
 悪戯めかせて芍薬が言う。
「それとも拍車でもかけようか」
 今では言葉にしか残らぬ物を、洒落めかせてニトロは口にし返す。
 芍薬は口元に笑みを浮かべると、ニトロの制服のシャツにアイロンをかけ出した。その間にヤカンのお湯が沸騰する。芍薬はアンドロイドの体でアイロンをかけ続けながらも器用に多目的掃除機マルチクリーナーを操作し、お茶を用意し始めた。
「ああ、そうだ」
 ハムチーズサンドイッチを食べ終え、紅茶の入ったカップを差し出す芍薬にニトロは言った。
「時間に余裕があったら帰りに『トック』に寄りたいんだけど……」
 すると、芍薬が切れ長の目をついと細めた。
「サッキ話シテイテ、食ベタクナッタ?」
 ニトロは少し照れ臭そうに笑い、
「ちょうど新作が出たはずだしね」
「『リララマ・バーガー』」
「そう、それ」
 ニトロは紅茶を一口含み、頬を緩めた。その様子に芍薬は幸福そうに唇を緩め、
「ソレジャア服ト変装セットヲ用意シテオコウカ」
「うん、そうしてくれる?」
「承諾」
 ニトロは熱い紅茶を静かに一すすりし、それからミーシャが最も苦戦した鶏肉のバターソテーをフォークで突き刺した。
「……いくら家庭料理って言っても、オーソドックスばかりだし、やっぱりその道のプロを差し置いて俺なんかが料理を紹介するのもなぁって思ってたけれど……
 こうしてみると、嬉しいもんだね」
 感慨深げな主の言葉……それはほとんど独り言であったが、芍薬は着替え用の服を見繕いながら、ポニーテールをふわりと揺らした。
「御意」

7:45 ―凶―


 王都の東南部の一角にある、ジスカルラ中央市場。王都民のみならず、副王都他の隣接する領にも新鮮な食材を供給し続ける中央大陸最大の市場である。
 中央市場内には、業者しか入れない。もちろん一般人でも見学を申し込むことはできるし、業者の付き添いとして認められる範囲なら入場することは可能だが、売買に参加することまではできない。それでも、一般人がどうしても中央市場で買い物を楽しみたいというのなら? ならば、その人は場外市場に足を向けるべきだろう。
「おはようございます」
 中央場外市場の青果店が立ち並ぶ区画は、朝日を受けて色彩豊かに輝いていた。
 根菜類の土の色、葉野菜の瑞々しい緑、今にも弾けんとばかりに膨らむ果実の目の醒めるような赤や黄やオレンジ。格子状に広がる小路を挟んで軒を連ねる店頭には自信を持って選ばれた食材が美しく並べられ、あるいは山と詰まれ、原色は溶け合い、暗色は誇示し、コントラストも見事なあやが織り成されていた。
 そして、ここには常に喧騒がある。
 店内からは店員達の威勢のいい声が常に飛び交う。その声と、収穫されてなお生命力に満ちる品々に目を回すように小路をさまよう客のざわめきが混然一体となって熱を持ち、空気は心地良く張り詰めている。
「――おお、ジジさん!」
 ハモン果物店でコーロー産のグランドベリーを讃えていた若い男は、声をかけてきた人間の正体を悟るや売り声の音量そのままに言った。
「おはよう! 調子はどうだい?」
「変わりはないですよ、ハモンさん」
 堅い皮製のブリーフケースを片手に提げたハラキリは、それだけを言った。
「そりゃあいい。変わりがないのが一番さ! それで、今日は何を持っていくんだ!?」
 以前、自分の店から買われていったイチゴが王子様の口に入ったことを知っているハモンは、大きな口で大きな笑顔を作って続ける。
「イチゴならモレドのいいのが入ってる。フェディルのブドウもいいぞ、珍しいのじゃあカランのグウォンギャイだ。試しに置いてみたんだよ、見てくれはおかしいがな――」
 と、茶と青のマーブル模様のフリルスカートをつけて捻じ曲がった洋ナシ、といった形状の果物を指差すハモンの背後では、彼によく似た老人、ハモン果実店の先々代がむっつりと板晶画面ボードスクリーンを見つめている。おそらく帳簿でも確認しているのだろう。
「味は最高だ。果肉は桃に似ているが、味は甘いヨーグルトに近いな、舌で押し潰せるくらい柔らかくて、とろりとクリーミーに喉を通っていくのは絶品だぞ」
「……はあ」
 ハラキリは、それだけを口にした。眉間に皺を寄せ、それが明らかに困惑を示しているのに気づいて、ハモンも太い眉毛をぐっと寄せ合わせる。
「ジジさん、どうした? 買い物に来たんじゃないのか?」
「買い物に来たというのは間違いじゃないんですがね」
 ハラキリは苦笑して、訊ねた。
「例の約束の品は、未入荷ですか?」
 すると、若いハモンはあんぐりと口を開けた。
「あ、ああ、ああ!」
 何度もうなずきながらポンポンと手を打つ。
「あれは今日だったか!」
 ハラキリは、頭を抱えたかった。
「そちらが今日と言っていたはずですが」
「そうだった! すまん! うっかりしていた!」
 頭を掻いてハモンは大笑いする。ハラキリも頭を掻き、
「仕方がありませんね。では、また後で取りに来ます。何時くらいに来ればよろしいですか?」
 そう問われたハモンは、そこで笑うのをやめ、急に深刻な顔となってハラキリを見つめた。
「何だ、そんなに急ぐようなもんだったのか。そんな感じはしなかったが」
「急ぎはしませんが、楽しみにしていましたから」
「ああー、そりゃあ悪いことをした、申し訳ない。そうか、それにわざわざ来てくれたってのにな、本当に悪いことをした」
 先ほどとは一変し、ばつが悪そうに頭を掻いてハモンは言う。
「あれはちゃんと家にはあるんだ。店は11時に仕舞う。が、片付けも全部終えた後一度戻って取ってくるとなると、早くても13時にはなる」
「構いません」
「学校があるだろう?」
「構いません」
 平然とハラキリが言うと、ハモンは微妙な顔をした。自分が原因で学生をサボらせるはめに陥らせてしまったものの、その学生が事も無げにサボることを宣言する姿が面白いらしく、笑ったものか、それとも年長者として苦い顔をするかを迷っているようだった。
「分かった。できるだけ急ぐ。メールするよ。まだアドレスは生きてるだろ?」
「了解しました。よろしくお願いします」
 ハラキリは落胆しつつも、怒りは感じていなかった。むしろ、こういうこともままあるものだと、諦観にも似た心情しかなかった。
 すると、特に大きな表情の動きを見せないハラキリに対し、だからこそ彼がとても怒っているとでも思ったのだろう、すっかりしょげ返った様子でハモンが、
「ジジさん」
 と、ウェットティッシュでよく拭いたリンゴを差し出した。少し小ぶりなリンゴで、光沢のある赤い皮には蝋を流しかけたような黄色の紋がある。種がなく、皮も美味という高級な品種だ。
 ハラキリは、笑み、
「いただきます」
 リンゴを受け取り、ハモンの「できるだけ急ぐよ」という繰り返しに手を振り店頭を去った。すぐに新たな客へ応対を始めた威勢のいい声が背にかかってくる。もらったリンゴを齧りながら、客の行き交う売り声のトンネルを歩くハラキリは、ほどほど行ったところで一つ息をついた。
(さて)
 これからどうしたものか。
 この買い物の利便のために泊まっていたビジネスホテルは、既にチェックアウトしてしまった。場外市場もこれからさらに客が増えてくる。活気のある場所をぶらつくのはそれだけで楽しくもあるが、さりとて人込みに揉まれるのは趣味ではない。
「……」
 ハラキリは小路の交差する場所で、ふと立ち止まった。人通りの中、特異点のように存在する静かな片隅から賑やかな市場を眺める。
 趣味、といえば――
「……」
 しばらく前までハラキリは、食材を手にしようという人間、少なくとも食に興味のある人間が訪れるこういう場所に自分は一生馴染むことなく終わるだろうと思っていた。しかし、周囲の環境のために困っている友を手助けしているうちに、それが、いつの間にか馴染みの場所となってしまっていた。もちろんこの場外市場へ頻繁に来るわけではない。が、この場外市場以外にも友の頼みに応じて色々な店を回るうちに基礎的な目利きはできるようになってしまっていたし、いくつかの店の人間には顔と名を覚えられてもいる。
「……」
 色とりどりの青果の間を行き交う人々の目は食欲に煌いていた。それはすなわちヒトという動物の生命力の発露であろう。声が飛び交う。笑い声もある。親に手を引かれた子どもが一心不乱にカットフルーツを齧っていた。少し先では値段交渉のために丁々発止のやり取りが華を咲かせ、どこかから試食した果実への賞賛が聞こえてくる。
「……」
 ハラキリはリンゴを芯まで食べ尽くし、ちょうど近くにあったゴミ箱にリンゴの軸を捨てた。
「さて」
 彼は踵を返した。
 なるほど、確かにここは歩いているだけでも楽しく、人を観察するにも楽しい場所だ。だが、そのような場所で本来楽しみにしていた事からだけは肩すかしを食らってしまったのだと思うと、なんだか残念な気分が後を追って増してきてしまう。
(とにかくも、どこかでコーヒーでも飲んで時間を潰しましょうかね)

8:05 ―凶―


 アデムメデス統一直前に作られた王城は、広大な人口池の島中に城砦の機能を持つ宮殿として作られた。その北東には統一後に平和な時代の政務のためにと作られたカルラリード宮殿もあるのだが、当時から現在においても、また王夫妻の住まう公邸としても、そして様々な行事の行われる宮殿としても、このアデムメデス城が王国の中心としてあり続けている。
 小食堂にて国王・王妃との会食を終えた第一王位継承者は、居室に戻るなり大きなため息をついた。
「料理長には、味はとても良かったと伝えておいて。気に病ませないように上手く言ってやってね」
「かしこまりました――が」
「『が』?」
「あちらを気に病ませる心配はありません。以前にも同じことはありましたから、簡単に言いくるめられます」
「……あの一ヶ月のことはあまり思い出したくないわねー」
「特に最終週」
「ヴィタ? あまり主人をいじめないものよ?」
 ティディアは苦笑し、部屋付きのA.I.に命じて宙映画面エア・モニターを表示した。そこに今朝のニュースをダイジェストでまとめさせたものを再生しながら、落ち着いた黒のロングスカートに包んだ腰を小テーブルの椅子に下す。初めに文化芸能ニュースが流れた。最近の流行の特集が早回しで語られるのを眺めながら、
「それにしても、退屈なだけかと思っていたわりに良い収穫があったわね。リエロ・リモウロ――あれは思いのほか使えるわ」
「と、言いますと?」
 王女が話題に出した人物は、つい先程、王の朝餐で同席していた者の一人であった。彼はアデムメデス国際協力支援機構と連携しているNGO・国際修学援助会代表――という肩書きを持つ。代々の資産に恵まれた初老の男で、これまでは資産運用一辺倒な人生を送ってきたが、突然、数年前から『国際修学援助会』……当時から熱心で質の高い活動内容を評価されていた組織に資金提供を始め、今ではそこの会長の座を占めている。
 彼のことを知る人間は、彼の心変わりに仰天したという。そもそも彼は慈善から程遠い場所に住み、社交的ではあるがどこか人を嘲けり、何より吝嗇家であった。それが急に己のこと以外に金を派手に使い出し、自ら道化となって人をおだてるようにさえなったのだから。
 人々は噂した。
 そうか、きっと彼は、貴族の称号が欲しいのだ。
 何故なら『国際修学援助会』は篤志家である国王の覚えめでたい組織であった。そこで功績を挙げれば取り立ててもらえるチャンスもあるだろう。貴族にまではなれなくとも何らかの勲章くらいは――と考えているのかもしれない。彼はかねがね貴族を腐していたではないか。己の方が優秀であるのに、と。
 実際、新会長からの寄付金てべんとうを有効活用して国際修学援助会は着実に大きくなり、人的資源も増し、活動範囲も国際協力支援機構と親密さを増すにつれて広さを増し、元々評価の高い組織であったことから信頼度も知名度も瞬く間に増していき、そしてとうとう、各星との親交を深めるため外遊に赴く王の随行員として、会の代表の名が記載される運びとなった。
 王との会食の席で、リエロ・リモウロは我が世の春を謳歌していた。
 饒舌に、王と王妃、そして第一王位継承者への賛辞を繰り返し、やはりここでも自ら道化役を演じることで、同じく王の外遊に随行する各慈善団体を代表する貴婦人達を楽しませてもいた。その席で次代の女王――彼曰くロディアーナ朝の奇跡にして美と才知の宝石たるティディア姫は『会』における彼の功績を誉めた。慈悲の深きこと宇宙にも勝る国王・王妃両陛下、及び朝露よりも麗しい貴婦人達の面前で栄誉を一身にした時の彼の恍惚は、ああ、果たしていかばかりのものであったことだろう!
「あれの貴族になりたいって欲求は本物よ。称号を手に入れるまでは、彼はまだまだ金を湯水のように使うでしょうね」
 エア・モニターのニュースが文化芸能から政治に移る。それを横目に、ティディアはふいに問うた。
「リモウロは?」
「まだこちらで『見学』をなさっています」
「案内者にうまく『緑石の間』に誘導させなさい。それからスライトにシックなワンピースと下着を急ぎ持ってくるよう伝えて。物憂げな顔が活きるようなやつね」
 スライトとは、麻薬中毒者であった時分にティディアに召抱えられたことで有名な側仕えである。
 ヴィタは即座に伝達し、そして早速服を脱ぎ出した主人を目にして口の端を持ち上げた。
くすぐるのですね」
「踊らされていると解っていても踊るような男なら、気持ち良く躍らせてあげるのが女の嗜み――ってところじゃない?」
「お人が悪い」
 くすくすと、ヴィタは笑う。
 しかしティディアは露となった肩をすくめ、
「やー、人が悪いのは副会長こそってもんよ」
 その副会長とは、リモウロを会長に引き入れた『会』の設立者である。リモウロを会長にするために自らは副の座へ退いたわけだが、実質的なリーダーは未だに彼であった。
「うまく良い金づるを見つけてきたものだわ。焚きつけ方も上手だし、うちに欲しいくらいね」
「スカウトなさりますか?」
「駄目でしょうね。人を利用することには抵抗がなくても、理想を捨てることには抵抗がある男よ。そして今が彼の理想的な環境なのだから」
「引っ張り上げた時点で役立たず、というタイプですか」
「『水を捨てた魚は空に溺れる』――それなら泳いでいてもらうのが得策。十分、役に立ってくれてもいるしね」
 二人の傍らで、ニュースは『お飾り宰相』の名を欲しいがままにしているアデムメデス現首相が、本日午前、王城で王女と共にラミラスこく大統領とテレビ会談することを伝えている。
(――それはこちらもね)
 と、ティディアは頭の端でそう思った。世間では『お飾り』と言われていても、実際には実務能力の高い男だ。しかし華が無く、ケレン味の要るリーダーとはなれないタイプで、もし今『ティディア姫』という強力な“宝冠”がなければ途端に起こるであろう政争の中では急速に沈んでいく……そういう男だった。
 ややあって、部屋のドアがノックされた。スライトであった。
「失礼致します」
 と、衣装部屋から注文の品を届けに来たスライトは、主人の許しを受けて入室するなりその主人が下着姿で腰に手を当て仁王立ちしている姿を見て、されど日常茶飯事な光景には何のリアクションもせず、
「今朝はお食事をあまり召し上がらなかったのですね」
 早速全裸になりだしているティディアへ歩み寄りながら言い、そこで悪戯っぽく小首を傾げた。
「顔色も少々お悪かったとのこと……恋煩いのため、ですか?」
「そんなことを言っていた?」
 問い返されたスライトは、姫君の白い肌の映える黒のワンピースと、こちらも黒く真新しい下着の受け渡しをすると共に、まるで告げ口が楽しいとばかりに囁いた。
「皆様、とても楽しげにさえずっておられました」
 朝餐に同席した貴婦人の中には、王女から『誕生日会』への招待を受けた、とてもおしゃべりな男爵夫人と非常に仲の良い者がいる。
 ――ティディアは、ほくそ笑んでいた。

8:23 ―凶―


 芍薬は校内施設を管理する汎用A.I.の誘導に従い、教員用駐車場の飛行車発着スペースへと飛行車スカイカーをゆっくり降下させていた。生徒が自家用車で登校することはともかく、そのために教員用駐車場を利用することは規則で禁じられている。が、ニトロ・ポルカトは特別に利用を許可されていた。もちろん、彼は本来特別扱いされることは好まない。しかし、
「今日も一杯いるね」
 学校の周囲、特に正門の周囲にある人だかりを見ながら、ニトロは嘆息混じりに言った。
 報道関係者の姿はほぼないが、それでも組織に属さぬ上に怖いもの知らずのフリーライターやパパラッチの影はいくらか見え、またそれ以上に、そもそもマスメディアに利害を持たぬ一般人――『ニトロ・ポルカト』のファンや単なる好奇心旺盛な野次馬は自由気ままに集合と離散を繰り返している。とはいえ、ハラキリに言わせるとこの程度の数で済んでいるのはやはり『クレイジー・プリンセス』の脅威が働いているためらしい。だが、ニトロには、それでも人の数は『劣り姫の変』以降激増し、さらに日に日に増してもいるように感じられてならなかった。いや、人数の増加はハラキリも確かに認めていた。
 学校が――実際にはティディアのポケットマネーで――雇う警備員の数も増えた。
 こうなってはニトロも特別扱いがどうのと言ってはいられない。これまでは車を使うにしても学校近くで降り、または自転車や公共交通機関を使って登校する日も多くあったが、今やそんな朝はなく、必ず飛行車を用いて直接学校の敷地内へ降り立つことにしていた。
「大丈夫、記録レコードハ更新シチャイナイヨ」
 運転席でハンドルを握る芍薬が言う。あえて慰めにならない言葉を選んだ慰めに、ニトロは笑った。そのレコードが刻まれた日はちょうど一週間前、ティディアが定例会見において『誕生日』への『恋人』の参加を発表した翌日だった。
「あれはひどかったね」
「ソレニ比ベリャ閑古鳥ダヨ」
「このまま閉店といきたいもんだけどなぁ」
「御意」
 静かに、飛行車が着地する。
 窓からは校外の人影はもう見えない。代わって、駐車場を臨む事務棟からの視線が身に刺さってくる。
「ソレジャア、予定通リニ迎エニクルネ。モシ変更ガアルヨウダッタラ連絡シテオクレ」
「了解。よろしくね」
 バッグを手に外へ出たニトロは上昇していく飛行車を見送ると、足早に駐車場を出た。正門からの歓声に会釈を帰しつつ、職員や業者、あるいは客の使う通用口を通って事務棟に入る。
 階段に差し掛かると途端に彼をざわめきが取り巻いた。
 登校してきた『ニトロ・ポルカト』を見つめていた生徒達の様々な声だった。
 先に進むにつれ、挨拶をしてくる男子生徒がいれば、小さく歓声を上げる女子生徒もいる。仲間同士でこちらを見つめたまま何やら口にし合う者達もいる。あの『映画』に出演したことで有名になり、さらに『ティディアの恋人』として世間の度肝を抜いた頃は校内でも大人気のアイドルのように取り囲まれて大変だった。だが、最近では流石にそういったことはない。時が経つにつれ、稀にミーハーな生徒が突撃してくることはあるものの、大抵は“身近な有名人”あるいは“いることが分かっている希少生物”を目にした時に取る態度……生徒間ではそういった距離感が定まり、『劣り姫の変』以降にもそれが保たれている。
 とはいえ、やはりここでもニトロは落ち着かない。常に注目の的であり続け、愛嬌を振りまかないまでも忌避の顔にはならぬよう気をつけながら階段を三階まで上がり、事務棟から第一教室棟への連絡通路を渡っていく。
 己の所属する教室についたニトロを出迎えたのは、一瞬の注目、それから、ざわめき、しかし先ほどまでのものとは違うこちらへの干渉のないざわめきだった。
 ここは、学校の中で最も『普通』のある場所。
 ある者は一人でぼんやりと、ある者はクラスメートと笑い合い、それぞれ思い思いの時間を過ごしている中で、
「よ」
 至極気楽な調子でニトロへ声をかけてきたのは、ミーシャだった。特に席順は決まっていないため、彼女は窓際の席に座り、その隣には今日もクレイグがいる。彼も片手を挙げてニトロへ挨拶を送っていた。
「遅刻寸前。寝坊でもしたか?」
 しれっと言ってくるミーシャに内心苦笑し、ニトロは彼女が示す席――彼女の後ろの席に座った。窓ガラスは曇りなく透き通っているが、特殊フィルムのために外から中を見通すことはできない。
みちが混んでたんだ」
 ミーシャに話を合わせて返事をし、バッグを机の横に掛けたニトロはそこから生徒手帳を取り出した。手帳を机の右上隅に置く。すると机に内蔵されているコンピューターがチップから生徒情報を読み込み、システムを起動させた。
「ミーシャは眠そうだね」
「昨日は勉強を頑張ったんだ」
 机の天板は板晶画面ボードスクリーンにもなっている。ニトロは要求されたパスワードを打ち込み、一時限目の授業のための教科書とノートのデータを呼び出し、それからクレイグに目を向け言った。
「おい、嘘つきがいるぞ」
「おい、そりゃどういうことだよ」
 ミーシャがニトロへ突っかかろうとするのをクレイグは笑って見つめている。
 ニトロはミーシャの非難の目を軽く肩をすくめることで受け流す。彼女もそれ以上は押し込んでこなかった。嘘は下手に重ねない方がいいと、彼女も知っているのだ。ニトロは女友達の足元、イスと窓の下の日陰に隠すようにして置いてある小ぶりなスポーツバッグを一瞥した後、横に目を向けた。
 教室の廊下側の壁にも大きな窓があって、生徒用のコンパクトなロッカーが並ぶ廊下を見渡せる。
 8時30分になれば授業開始だ。残り1分を切り、廊下に生徒の影はない。
「ハラキリはまだ?」
「来てないね」
 クレイグが言う。
「この分じゃ、遅刻かな」
「サボりじゃないか? 常習犯だし」
 伸びをしながらミーシャが言った。ニトロは、いくらか釈然としないものを感じながらもうなずいた。
「かもね」
 ニトロの右隣、クレイグの後ろの席は空いている。クラスメートは皆、そこにハラキリが座ると思っているのだろう。ニトロの背後に座った男子が「おはよう」と言ってきた。ニトロが返事をしたところで、廊下に白髪の中年男性が現れた。銀河共通語の教師だ。彼が教室に入ってくるのと、チャイムが鳴るのは同時だった。
「おはよう。出席を取るぞ」
 教師が言うと、各自の席のボードスクリーンに確認ボタンが表示された。生徒手帳に付属しているタッチペンを手にし、ニトロはそれを押す。生徒らの確認を経て、教師の持つA4サイズのボードスクリーンにデータが反映される。
「ジジはサボりか?」
 それは、ニトロに向けられた言葉だった。
 その教師は生徒との距離を縮めないことで知られているが、しかし口調にはどこか特別の柔らかさが、少なくとも他の生徒には向けられることのない柔らかさがあるとニトロには感じられた。もちろん、これは自分の単なる思い込みなのかもしれない。誰かが「あいつは校長みたいにポルカトに媚びている」と言っているのを聞いたことがあるわけでもない。ただ……
 ニトロは、一人の生徒らしく、ただ首を振った。
「そうかもしれません」

8:30 ―大凶―


 ジスカルラ中央市場の周囲では、市場関係者や場外市場へ買い物に来る客に向けた飲食店が早朝から明かりをつけている。その内の場外市場の近くにある店の多くは買い物客、あるいは観光客向けであることが多く、それらのほとんどが洗練され、かつ有名なチェーン店も目立つ。一方、場外市場を離れ、さらに目抜き通りも離れ、市場関係者しか知らないような路地には個人経営の素朴な店が所々で看板を掲げている。
 場外市場の店で予約した品が届いていないことを知ったハラキリは、それが届くまで暇を潰そうと『トクテクト・バーガー』に入ろうとしていた時、その店の人間からメールを受け取った。今から三十分前のことだ。
 その際に添付されていた地図に従って彼がやってきたのは、中央市場の程近く。
 そこは、市場関係者以外対入り禁止の区画にめり込むようにある店だった。
 市場の公式サイトが提供する地図では立ち入り禁止となっている道を通らねば辿り着けないのだが、その道は実際には禁止区域でも何でもない、単に便宜上そう表示されているだけだという。実際にその場に行って携帯モバイル越しに自治体の提供する『街角拡張現実ディストリクト・AR』を眺めてみれば、なるほど、確かにそこは通行可能と示されていた。ただ、データがいくらそう示しても、肉眼に映る現実の道はどう見ても一般人が入ってはならないように思えてならない暗い路地だったものである。
「ハモンさん、こちらです」
 歴史を感じる三階建てビルの一階、一見小汚い喫茶店のような外観を擁する飲み屋の奥に席を取っていたハラキリは、建てつけの悪いドアを開いて店に入ってきた男に軽く手を振った。
 男は大きな口をへの字に曲げて、手に厚手のビニール袋を提げてハラキリの座るテーブルへと歩み寄ってくる。周囲のテーブルを埋める市場関係者が彼に声をかけ、彼はどうにも気まずそうに返事をしながらハラキリの向かいに座った。
「随分と早いですね。驚きました」
「いや〜」
 ハラキリの言葉に、男はへの字の口に負けないくらいに眉を垂れ、
「あの後じじいに怒鳴られてな。約束忘れるようなバカはもう店に出るな! もっとちゃんと詫びるまでは戻ってくんじゃねぇ! って」
 恐縮そうに語る男――ハモン果実店の若旦那の後ろにいた老人の姿を思い出し、ハラキリは目を細め、
「それで……」
 と、ハラキリが、ハモンが持ってきて、今は彼の隣の椅子に置かれているビニール袋へと目を動かすと、彼は急くように大きくうなずいた。
「さっきは本当に申し訳なかった。これが約束のもんだ、確認してくれ」
 ハモンは力強くビニール袋をハラキリへ差し出す。その拍子に袋の中身がハラキリの飲んでいたアイスコーヒーのコップにぶつかり、危うく倒しそうになる。
「ああ、すまん!」
 失敗に失敗を重ねてハモンが大声を出した。その上、慌ててコップを支えようとするからビニール袋が振り回される。
「大丈夫ですから!」
 流石に気が気でなく、ハラキリは声を張り上げてハモンを制した。一喝するような年下の声に、ハモンははたと平静を取り戻して照れ臭そうに笑った。
「わりぃな」
「いえいえ」
 軽く言いながら、ハラキリはやっとビニール袋を受け取った。
 内心ひどく安堵しながら、まさかこのように運ばれてくるとは思わなかった品を膝に置く。それから、足元に置いていたブリーフケースから手袋を取り出してはめ、中身を取り出す。
「――ふむ」
 ハラキリは、唸った。
 袋に入っていたのは、三枚のアナログレコードだった。
「やけに仰々しいな」
 ハモンが言うが、それには目の動きだけで応える。ハラキリは一枚一枚、ジャケットの中から取り出しては薄暗い料理店の照明の中で真剣に状態をじっくりと確かめる。その三枚のレコードのジャケットには何も書かれていなかった。またレコード自身にもラベルがない。無地のジャケットの裏側に、誰かの手で書かれた三通りの文字を見つけたハラキリは、そこにハモンから聞いた通りの内容を確認してにこりと笑った。
 まず、一番左にアデムメデスのものではない文字で収録曲が書かれている。その横に、またどこかの星の文字。そしてさらにその横に、アデムメデス語で注釈、あるいは推測のメモがされていた。
 ハラキリが取り上げてみた一枚には、アデムメデス語でこうあった。
『交響曲、第五(以下不明)』
 真ん中の文字から導いた、一番左の文字が成す意味――曲名である。
『ビートホヴェン』
 これは、おそらく作曲者の名であろう。
 ハラキリには一番左の文字に見覚えがあった。地球ちたまの広域で使われているという『アルハベト』、そしてこの単語はほぼ間違いなく『エゲレッシュ』だろう。
「ふむ」
 ハラキリは興奮を押し殺して、うなずいた。
 何がどうして、地球のアナログレコードがここにあるのかは分からない。
 全星系連星ユニオリスタ非加盟国、かつ外宇宙進出もまだの辺境の星から物を持ち出したり、それ以前に『入星』したりすることは違法であるから、元々はおそらく何らかの放送の電波をどうにか拾って作った類の品だろう。そうなるとノイズなどの問題で品質も劣悪であることが大抵だが、わざわざレコードにするくらいだからそれらの問題も最低限クリアされているに違いない。いや、それ以前に、どこの物好きが作ったのかは知らないが、地球の音楽がアナログレコードという形を伴って目の前にあることはそれこそ奇跡だった。――しかも!
「ふむ」
 三枚あるレコード。その最後の一枚には『アルハベト』だけでなく『カンジ』も二個刻まれていた。何だか出来損ないの象形文字のようにのたくっているが、ああ、この『カンジ』が示すのは、そう! 『日本にちほん』!
 曲名はアルハベトで書かれているため、もしかしたらこのレコードを作った者(おそらく二番目の文字を書いた者)が、内容とは関係なく単なるメモとしてここに『日本』と書いただけかもしれない、という点が不安ではあるが……いや、この一枚にはきっと日本の音楽が入っているだろう。母のコレクションの中にも日本の曲の聴けるものはある。それらは全てデジタルデータだが、比較検証するにはデジタルもアナログも関係ない。このレコードに収録されている曲にもし既知のものがあれば、少なくとも真偽は判明する。さらに未知の曲があれば何と素晴らしい!
 ……それに。
(これが『本物』という可能性も、ないわけじゃない)
 確かに、全星系連星非加盟国、かつ外宇宙進出もまだの辺境の星から物を持ち出したり、それ以前に『入星』したりすることは違法である――が、稀にそういった『違法』な品物が存在することも厳然たる事実だ。無論、その品が違法だと知った上で売買、また所持すれば罪にも問われる。しかし、この品は、
「お爺様は、これをどこで?」
 ハラキリの真剣さに飲まれたように黙り込んでいたハモンは、突然問われて我に返り、
「わからん」
「記録は残っていないのですか?」
「全くな。それに、オフクロの話じゃ爺さんは出所不明の品でも気に入ったものなら何でも買ってたそうだ。お陰でガラクタの山が財産をかなり食っちまって大変だったとよ」
「なるほど」
 ハラキリは内心、したりと笑った。
 ならば、こちらとしては何も調べようがない。
 ハモンの母方の祖父は天涯孤独の身で、妻とは離婚し、親族は娘夫婦とその子ども達だけ。当人は半年前に亡くなり、その遺産……つまり『ガラクタの山』は娘に引き継がれ、そしてハモンの母はガラクタの山を息子に譲った。というよりも、処分を押し付けた。押し付けられたハモンは、面倒ではあるが、かといって男一人が人生をかけてコツコツ集めていた物を簡単に処分するのは忍びない、例えガラクタであってもだ――と、死んだ祖父の孫らしく、今度は逆にコツコツ引き取り手を探しているということだった。
 そこに現れたのが、ハラキリである。
 ハラキリがニトロの頼みでパトネトのためのイチゴを買いに中央市場場外市場を訪れた際、『映画』に出ていた『ハラキリ・ジジ』をはっきり覚えていたハモン果実店の若旦那はとても気さくに話しかけてきた。彼はどうやら助演男優の方が――アクション映画好きだという――お気に召していたようで、当時語られた小さなネタ……ハラキリ・ジジの母は“軍事評論家”で、また知る人ぞ知る王棋の高レベルのアマチュアプレイヤーであり、同時にその世界では異星の文化に傾倒する変わり者として知られている……ハモンはそれをしっかりと覚えていた。
 一週間前、やはりニトロの頼みで二度目の来店となったハラキリ・ジジに、ハモンは言った。
――「うちにあるアナログレコードにも変な異星の文字が書かれているんだがね」
 パトネトのイチゴへの感想を聞かれても面倒だ、用事を済ませて早く店を離れたいと思うハラキリは適当に話を合わせ、するとハモンは携帯に写したその文字をハラキリに見せた。
 ハラキリが心底驚いたことは言うまでもない。
 そしてハラキリは、あまりに強くそれを欲しがれば、相手に不審がられ、場合によっては“ライバル”を引き寄せてしまうかもしれないと、努めて冷静に商談を行った。
 ハモンは言った。『ガラクタ』はまだ祖父の家にあるから取りに行かないといけない。ちょっと遠いところにあるし、今はひどく忙しいのでいつ取りにいけるか分からない。だが、一週間後までには絶対に取ってくる。店に来るのでも、郵送でもいい。金額は現物を見てから相談しよう。もし早く手に入ったらメールする。
 できればすぐにでも見たかったが、ハラキリは了承した。
「いやな、実は三日前にはもう持ってきてたんだが、ちょっと色々あってな」
 長いに我慢ができなくなってきたのか、頭を掻き、小さくなってハモンが弁明を述べる。
 しかし、ハラキリは小さくうなずいただけで別に責めもしない。先ほど忘れていたのは確かにいただけないが、こうしてちゃんとレコードが手元にやってきたからには問題ない。
(ただ、残る大問題は、ジャケットと中身が別物――という可能性ですかね)
 そう思いつつ彼はレコードをビニール袋にしまい、手袋を外し、ハモンにうなずいてみせた。
「それでは、金額はどうしましょうか」
 するとハモンは鼻を鳴らすように一つうなり、
「正直、よく分からない。相場も調べては見たんだが、それも物によって変わるだろう? 母星うちのものでも、安くて7万、高くて50くらいか? せりしだいじゃもっといくか」
「でしょうね」
「他の、しかもどこの星のだか分からねぇのはどの相場に乗せたもんか。まあ、アナログレコードの愛好家か、異星文化の研究者か。だがな? だとしても、そもそもこれが本当に異星のものか俺にはわからねえ。曲を聴いたところで本物かどうか確かめることもできねえし、もしかしたら全然異星のもんなんかじゃなくって、どっかの誰かが悪戯か詐欺目的で作ったものかもしれねえ。俺は――売りつけようとしながらこう言うのも何だがな、実はその可能性のが高いと思ってるんだ」
 なるほどハモンも偽物の可能性は考えていたか。ハラキリはうなずいた。そして、
「そうですねえ。それは仰る通り。それで? あなたなら幾らつけますか?」
 ハラキリは自分からは金額を言わず、ただ促した。その方が良いと踏んだのだ。
「そうだな……」
 ハモンには、ハラキリとの約束を忘れていたという『負い目』がある。彼はそういう事情も値段に組み込むタイプの人間である。
「三枚全部で、15……いや――
 ……9」
「……」
 ハラキリは、即答を避けた。
 アイスコーヒーを飲んで間合いを取り、レコードを収めた袋を一瞥する。
 ハモンの目には、どこかおどついたものが閃いていた。
 料理店には喧騒があった。仕事を終えた酔っ払い達が、がやがやと陽気に語り合っている。
 ややあって、ハラキリはうなずいた。
「キリがいいところで。
 100」
「100!?」
 ハモンは信じられないとばかりに声を上げた。隣席の老人二人が驚いてしゃべる口を止め、一瞬、店内の注意が全て彼に集まった。
「……本当にか?」
 店内にまた喧騒が戻っていく中、未だ信じられぬと目をむいてハモンが囁くように言う。
「『ガラクタ』の山にあったもんだぞ? 爺さんだって本物を買えるような金持ちじゃなかった」
 そう、15万から9万へと値を下げたのは、彼が三枚のレコードを疑っていることに尽きる。そして彼には、偽物と疑いながらその値段を口にする疚しさがあった。しかし、
「本物だったらこちらがぼろ儲け、ガラクタならそちらがぼろ儲け、というだけです。文句はないでしょう?」
 ハラキリはそう言って、微笑んだ。
 嘘は言っていない。
 本物だったら、広い銀河には阿呆みたいな収集家がいるものだ、うまくオークションにかけられればこの倍でも利かない。さらに、これがもし『“違法”な本物』だとしたら……ブラックマーケットにでも流せば倍どころの話ではない。十倍、五十倍でも手に入れられるか分からない。広い銀河には、ド阿呆な上に金に飽かせた収集家がいるものなのだ。
 そして、ハラキリは強い確信と直感を以て、このレコードが少なくとも『真品』であることに賭けたのだ。無論転売するつもりなどさらさらないが、逆に言えば100万リェンで手に入るなら破格に過ぎる。
「ああ……うむ」
 客の言葉に圧倒されたハモンは、呻くように鼻を鳴らすと腕を組んで考え込んだ。
 今、彼の頭の中では客によって促された真贋への疑惑が、もし本物だったら――という期待が引き寄せる欲望と共に大きな渦を巻いていることだろう。
 ハラキリは、ポニーテールを細いリボンで飾ったホール係を呼びとめ、まだ何も頼んでいなかったハモンのためにアイスティーを頼んだ。ホール係はやけに表情豊かに返事をして、すぐに厨房に向かっていった。
 はっとハモンが顔を上げる。
 が、ハラキリは先んじて、
「いえ、勝手に頼んだのですから、こちらが払います。ああ、それからもちろん、もしガラクタだったとしてもこちらはガタガタ言いませんので」
 ハモンは二の句が継げなかった。言い値の十倍以上もふっかけられて、計算の最中に余計な情報を放り込まれて、しかもそれは世間体にも関わるようなことで、さらに、彼にはそもそも客との約束を忘れて迷惑をかけた……という負い目がある
 やがてハモンは、
「――――わかった!」
 バン、と両手で両膝を叩き、大声で断言した。
「俺の方もガタガタ言わねえ。いや、そんなに出してくれるんなら文句なんてあるはずもねえ!」
 ハラキリは、にっこりと笑った。
「母が喜びます。ありがとうございます」
 ハモンには実際に購入するのは母だ、ということで話をしてある。自分は名代。そもそも異星趣味は母のものという前提の話題であったし、大金を扱うのだから、やはりこうしていたほうが何かと都合がいいのだ。
 そしてハラキリのその言葉に、ハモンは笑顔を引き出された。
「こちらこそだ」
 商談は成立した。ハラキリはうなずき、
「では、早速ですが、こちらが代金です」
 と、ブリーフケースの中から100万リェン札を取り出し、テーブルの上に置いた。
「お納めください」
 ハモンの目が大きく見開かれた。
 ちょうどアイスティーを持ってきていたホール係がびっくりしてコップを落としそうになり、何とかコップそのものは落とさずに済んだものの、冷たい紅茶を隣席の老人に派手にぶっかけてしまった。
「つめっちぇ!」
「ご、ごめんなさい!」
「ああ、いいよいいよ、サマナちゃん。こんなん拭けゃいいんだから」
「すぐタオル持ってきますね!」
「いいって、それよりちょっとおっぱい触らせてくれりゃ」
「もう! セクハラじじい!」
 隣席に大きな笑い声が上がり、それにつられて周囲も笑う。サマナと呼ばれたホール係はポニーテールを左右に振りながら肩を怒らせ厨房に戻っていく。タオルを取りに行ったのだろう。実際、戻ってきた彼女の手にはタオルがあり、やり取りからして顔馴染みらしい客の頭を拭き始めた。
「うちの孫娘もこんだけ優しけりゃあなぁ」
 と、老人が言うと、ホール係は苦笑いを浮かべながら何事かを言っていた。彼女に代わって、太った初老の女――どうやらこの店の女将らしい――がアイスティーを持ってきた。
 その間、ハモンはずっと目をむいたままテーブルの100万リェン札を凝視していた。
 女将はハモンのことを知っているらしく、不可思議な様子を見せる彼を不思議そうに見つめ、それからやっと紙幣に気がついてぎょっとした。が、ベテランの経営者らしく、そのまま何事もなかったかのように厨房に戻っていった。
「商売柄、たまにゃ現金キャッシュも見るが……これは驚いた」
 六代前の王の肖像が描かれた紙幣を凝視したまま、ハモンは言う。
「初めて見たよ」
「実は、拙者もです」
 ハラキリは嘘を言った。だからといってどういうこともない嘘だった。しかし、目を細めて言うハラキリの様子に、ハモンは何やらため息をつき、それから目の前に座る『助演男優』をじっと見つめ、やおら、大きな右手を差し出した。
「改めてお詫びするよ。待たせてすまなかった。そして、改めて感謝する」
 ハラキリは、にこりと笑ってその右手を握った。
「こちらこそ」
 ぐっと力を込めて手を握り合い、清々しく離したところでハラキリは言う。
「で、領収書をいただけますか?」
「あ、そうだな。分かった」
 ハモンは携帯を取り出し、流石に慣れたもので素早く領収書を作成した。ハラキリが携帯を差し出すとすぐに赤外線を通じてデータが送られてくる。ハラキリは眉をひそめ、
「ハモン果実店名義でよろしいのですか?」
「――ああ! そういやそうだな。それだとあれだな」
 言って、慌てて作り直す。ハラキリは一枚目の領収書のデータを消し、改めて受け取った。店名に代わってホレンゾ・ハモンと書かれている。ハラキリはうなずいた。
「確かに受け取りました」
「呆れるくらいしっかりしてるなあ」
 笑いながら、とはいえ震える指で丁寧に折り畳んだ紙幣をおそろしく慎重にカードケースに入れ、次いで少し早口にハモンは言った。
「ところで、ジジさん、時間はあるんだよな?」
「?」
 いそいそとレコードをブリーフケースにしまっていたハラキリはハモンを見返し、その双眸に妙な光……尊敬? 敬意? とにかくそれに近い光を浮かべる男を怪訝に思いながら、
「ええ。まだ少しは」
「なら、せっかくだ、是非あんたに一杯奢らせてくれ。ここの酒はうまいんだよ」
 その言葉に、ハラキリは流石に苦笑した。ハモンはまたしてもうっかり忘れている。
「折角ですが、拙者はまだ未成年ですので」

9:49 ―凶―


 二限目、ニトロは現代国語の授業を受けていた。
 今日は一年生時に学んだ範囲の復習の三回目で、女性教師が現在のアデムメデス語に見られる感情表現がどの時代に、どのような文化を背景に醸成されてきたかということを語っている。文法を中心とした論理的構造についてのおさらいだった前回と違って、教師は適切な豆知識だっせんを交えて時代背景を説明しながら、アデムメデスがロディアーナ朝に統一された後、各地の言語が次第に共通語――現代語――に纏まっていく過程をダイナミックに描いていた。ざっと近代までの重要事をさらった彼女は、明日からドロシーズサークルで開かれる『文芸祭レトワーザート・フェス』は元々アデムメデスの言葉を収斂させる目的から設立された委員会が元になっているという豆知識を披露した後、ここで大古典時代に戻り、ロディアーナ朝初期の重要な文学史的事件としてルカドーの戯曲『魂の家』についての大論争を語り出した。
 その概要は、それまで文学において国教会の影響もあり一貫して『心』は魂に依拠するものとして扱われていたところにルカドーが『心』を物質として扱う表現を持ち込んだ、というものだった。当時の価値観からすれば悪魔の発想である。しかし作品の持つ魅力がその悪魔的な視点に救いを与え、国教会のみならず当時の王まで巻き込んだ大論争の結果『そのような思想も一つの価値観』として受容されることとなり、それはやがて、アデムメデスにおいては『心』の座は魂――つまり精神にあるのではなく、肉体――脳にあるという医学的な見地への発展に寄与することとなった。
「ちなみに当時、心臓は魂と肉体をつなぐ中心器官とも考えられていたわ。『神梁』というのが、その場合の名称ね。最近はあまり言われなくなったとはいえ聖典には何度も出てくるし、小古典・大古典にも頻繁に出てくる重要語よ」
 教師は、ここでルカドーが当時どのようにしてそのような『心』への思想を持つに至ったかを語り出し、彼が大陸各地の文学作品を読み漁っていたこと、さらにアデムメデスの医学の進歩に多大なる貢献を果たした覇王の息子、初代第一王位継承者である『無冠王』の研究文献が少なからぬ影響を与えたことを語り、そこから少し先回りして王家がアデムメデスの言語の変遷にどのように関わってきたかのポイントを流麗に語り出して、総復習だからこそ可能な文学史を俯瞰するコツを生徒に教えていく。
 と、その時だった。
「?」
 ニトロの前の席に座るミーシャが、ふいに窓の外に注目した。
 それに気づいたニトロも外へ目を向けると、この教室のある第一教室棟の校庭に面した非常階段の出入り口付近に哨戒無人機ドローンと警備アンドロイドに行く手を遮られる三人組がいた。その三人組はドローンとアンドロイドに囲まれ、非常階段から遠ざけられるように校庭の片隅に追いやられ、ちょうど校庭で体育の授業中の――そして授業を中止した教師に呼び集められている生徒達の注目を集めている。続けて見ていると、現場に人間の警備員と教職員も加わってきた。三人組は間違いなく第一教室棟内に侵入を試みた連中らしい。大学生くらいだろうか。男が二人、女が一人。いずれも大口を開けて何事かを主張しているが、その声は防音に秀でた窓に遮られてこちらまでは届かない。
 表向きには平然としながらも内心ではため息をついていた彼は、ぼんやりと思った。
(卒業生かな?)
 騒動の起こりやすい状況にある昨今、それ相応のセキュリティが設けられた現在では学校敷地内に入り込むのは難しく、入ったところですぐに警備システムに補足されてしまう。今月に入ってからも『ニトロ・ポルカト』を――またはスクープを――求めて侵入を試みる無謀者は何人もいたそうだが、全て校舎に辿り着くことはできなかった。
 だが、正規に敷地内に入ってくれば、そしてこの学校の構造を熟知しているのなら、あの三人がいる場所まで侵入することは不可能ではないだろう。そう、例えば母校を訪問する卒業生としてなら、事務棟前の正門を通ることができる。
 ただ、この母校訪問にも現在では大きな壁がある。『ニトロ・ポルカト』が世に出た初期、母校訪問をしようという卒業生が増えたために(それまではある程度緩かったのだが)事前予約が必須となり、また、授業中に廊下を歩き回られるのは迷惑なため、放課後になるまでは事務棟一階、及び職員室のある二階までしか移動を許可されなくなった。しかしそれでも問題が出たため、さらに移動制限がつき、特別な許可――例えば部活動やサークルの指導・手伝いとして招かれる――がなければ、放課後でも職員の付き添い無しで自由に見学できることはなくなった。入校の際に渡される許可証は、職員の付き添いがない場合、移動可能区域外に入ると警告音が鳴るようにまでなっている。
 おそらく。
 あの三人は正門に入るまでは正規の手続きに従っていたのだろう。しかしそこから受付に行かず、直接第一教室棟を目指した。
 第一教室棟の一階出入り口は、校門(最も生徒が利用する西の門)正面の昇降口と、棟の東端(事務棟側)にある昇降口の二つが主で、加えてちょうど棟を左右に分かつ線に沿って据えられた非常階段を加えて三択となる。校門側の昇降口は正門からは最も遠い。最も近いのは校庭に面した東の昇降口で、おそらく三人の第一目標もそこだったのだろうが、彼らと彼女がそこに辿り着くより先に哨戒ドローンが行く手を遮ったのだろう。そこで慌てて非常階段を目指したものの、そちら側からも哨戒ドローンもしくはアンドロイドがやってきて、あえなく失敗と相成った。
 もし、この推測が当たっているのなら、あの三人はそこに辿り着いただけでもかなりの幸運があったと思う。普通なら正門から校庭側に出てくる前に警備に捕まっていたはずだ。
 対応に引っ張り出された教職員は、明らかに困惑していた。その態度を見ると顔見知りらしい。
(……あくまで、母校訪問で押し通す気かな?)
 母校訪問については学校のWebサイトに詳細が記されている。禁止事項にいくつも引っかかっているからには、彼らは不法侵入にも問われるはずだ。それを避けるには、やはり、自らが悪用した『卒業生という立場』を最大限使うしかないだろう。泣き落としを試みているのか、それとも激しく後悔したのか、女性が手で顔を覆っている。
「ばかだね」
 その声は、明らかに指向性のあるものだった。目を落としていたニトロがそちらを見ると、半身に振り返ってミーシャが目を細めていた。
「……」
 ニトロも、目を細めた。
 母校訪問で押し通せるかどうか、それとも情状酌量を得られるか、あるいは余地なく不法侵入と判断されて分不相応なほどに痛い目を見るか……それは、きっと、自分の考えるべきことではないだろう。
(……)
 だが……それでも、どうしてもこの事態の因果に関わる身としては、彼らと彼女とが罪分不相応なほどに裁かれることには、どうしても……心に重いものを感じてしまう。
 ――と、
「おい」
 ふいに二人に小さな声がかけられたのと、
「それでは――」
 ほぼ同時に飛んできた現代国語の女教師の声は、これもまた明らかに指向性のあるものだった。
 はっとしてニトロが前を見、ミーシャも慌てて前に振り返る。二人に気づかせようとしていたクレイグは、間に合わなかったことを悟って残念そうに口を歪めた。
 教師は、いつの間にか窓際にいた。
 彼女も外の様子に気づいていたが、もちろんそれは授業に集中していない二人の生徒から察したからであるらしい。
「話を戻して『魂の家』の問題の場面を誰かに読んでもらいましょう。……ジェードさん? アトリアニを。ポルカトさん? ギュリーを」
 ミーシャが再び半身を振り返らせる。
 ニトロはミーシャと目を合わせ、共に呻いた。

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