2014−2へ

9:50 ―小吉―


 商談を終えた後、その商談相手に食事に誘われて、初めは遠慮しようとしたところがふと『この店の料理は話のネタになるかも』と思ったことは大正解。
 王都の美食家達も唸る食材集まるジスカルラ中央市場そばの小さな料理店で、ハラキリは舌鼓を打っていた。
 この店に目玉料理は特にない。だが、上質な食材を用いた全てが美味しい。フライドポテト一つ取ったところでどうしたことか、チェーン店のものとは比べ物にならず、まさにこれだけでも絶品と言える。市場近くの料理店でこれほど素晴らしい思いをしたのはこれで二度目であるが、しかし、それはきっと運が良いことなのだろう。ハラキリは、少し厚めに切られたスティック状のジャガイモ――鮮やかな黄金色で、塩加減も絶妙に、さくっと齧ればほっこりほわりと実がほどけるフライドポテトを堪能しながら、そう思う。
「……ッだからですね、何でなのかが分からないんですよ!」
「はあ」
「だって俺はね、頑張ってたんですよ? 俺は色々雑だからちゃんと気を配って、優しくしてたつもりなんですよ! だって前はそれができなくて大失敗したもんですから? でも今回はうまくいってたはずなんですよ、ソーニャだっていつも喜んでくれてたんですから!」
「はあ」
「どう思いますか! ジジさん!」
「……はあ」
 そして、商談を終えた後、その商談相手に食事に誘われて、初めは遠慮しようとしたところがふと『この店の料理は話のネタになるかも』と思ったことが大失敗。
 商談相手であった若旦那がメレンゲのように滑らかな泡を戴くビールを二杯飲んだところで、そのアルコールが、どうやら“悪いところ”に入ったのである。
 そのキッカケは、会話の流れで何気なく辿り着いた、若旦那が今朝犯してしまった失敗の原因について。
 その時、既に顔を真っ赤にしていた男は三杯目をぐっと飲み干すと、聞かれてもいない恋愛談義を怒涛の勢いでぐわっと吐き出したのだ。あっちこっちに脱線する話をまとめると、要は結婚を心に決めていた相手が急に別れたいと言い出した……ということだった。
 ハラキリにとっては大して付き合いのあるわけでもない相手の痴話喧嘩の内容など聞く趣味はないし、酔っ払いの相手をする趣味も全く持ち合わせていない。しかし、最近付き合いのある連中がことごとく意志の強い人間で、さらに一筋縄ではいかない人間ばかりであったため、こんなにも情けなく弱音を吐露して年下相手に管を巻く大人を眺めるのは逆に新鮮だ――と、そんなことを思ってしまったことが、ハラキリの第二の大失敗であった。
(そういや、恋愛絡みじゃ昨日面倒を被ったばかりでしたねぇ)
 内心嘆息し、反省するハラキリの面前では長い管が巻かれ続ける。
「おかしいんですよ。だって、最近は喧嘩なんてまったくしてなかったんですよ? あいつが怒った顔なんて、もう何ヶ月も見てないんですよ? それとなく結婚の話題をふったら……ぅッ……かわいい笑顔だったのに」
 ところで、ハラキリには、相手がこの話題を始めた時からずっと気になっていることがあった。
 肉汁溢れること堪えられないメンチカツを切り分けながら、彼は訊ねてみた。
「ところでハモンさん、何故に敬語になっているんですか?」
「だって! ジジさんは伝説の『恋の守護天使』じゃないですか!」
「ゴフッ」
 メンチカツのあっつあつの肉汁を堪能しようと舌に乗せたところに予想だにしないことを言われ、ハラキリは思いっ切りむせた。危うく咳き込みそうになるのを数回の咳払いで何とか堪え、眉根を寄せてハモンを凝視する。
「はい?」
「だってジジさんがティディア様とニトロ様をくっつけたって話じゃないですか!」
「――ああ」
 なるほど、と、ハラキリは合点した。確かに、あの『映画』で共演した関係上、そういう説が少しだけ噂されたことがある。それがどうやらハモンの中では真実と化し、なおかつ、その説を信奉する者には『ハラキリ・ジジ』は守護天使扱いまでされているということか。無論、そうとなるのも馬鹿みたいに影響力の強いお姫様の威光を賜ってのことだろうが――
(まったく、迷惑な話ですねぇ)
 胸の中では愉快気に、しかし表では苦笑いを浮かべてハラキリは言った。
「いいえ、その話は違いますよ。あれは王太子殿下が自ら引き当てたんです」
「ほんとーですかぁ?」
「ええ」
「……それならそれでいいんですけど……」
 いまいち釈然としない、否、一応表では納得して見せながらも、胸の内では絶対に納得していない顔でハモンはビールをちびりとやる。そのビールは確かに美味そうで、ハラキリはおおっぴらに酒が飲めるようになったらもう一度ここに来ようと決心していた。――それはともかく、
(ということは、初めからこの話がしたかったんですかね)
 初めからではなくとも、少なくとも途中からは間違いなく。
 そして、そういえば、と自分を食事に誘った時の彼の目に閃いていた光の意味を今更ながら理解して、ハラキリは勉強になったとメンチカツを飲み込んだ。その脂の甘みが香り高く消えていく後味の素晴らしさに、自然と頬が緩んだ。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
 ふいに聞こえてきた声にハラキリがそちらを見やると、そこには帰り支度を整えたホール係がいた。サマナと呼ばれていた彼女とハラキリの目が合う。すると、彼女は彼に親しげな笑みを送ってくる。それは一人の客に対するものというよりも、有名人に対する眼差しであった。
(目立つのは好きじゃないんですけどねぇ)
 しかし、声の大きなハモンがこうして喋っているのを前にして素性を隠すことなどできはしない。そして――
(……ああ)
 ハラキリは、気がついた。
「サマナちゃん、もう上がりかい?」
「もう行かないと授業に遅れちゃうんだ」
 ポニーテールにしているサマナがその髪を飾っているリボンは、最近巷で『キモノ地』と呼ばれているものだった。その髪型からしても、彼女はニトロ・ポルカトか――あるいはオリジナルA.I.芍薬のファンなのだろう。であれば、先の笑みにもより理解ができる。
「勉強頑張ってな、単位落としちゃだめだぞ」
 隣席の老人がサマナに満面の笑顔を向けて手を振る。他の客も彼女を陽気に送り出す。
「皆も飲みすぎちゃ駄目だよ――って、こんなこと言ったら怒られちゃうね」
 古洒落ふるしゃれた革製のミニトートバッグを片手に、その反対の手を客へ振ってみせるアルバイトのセリフに苦笑しているのは店の女将と厨房を担う旦那だ。顔つきに似たところがあるのを見ると、店主とアルバイトという以上に親戚だろうか。
「ジジさぁん、どうすればいいんですかね、俺……。ソーニャ、俺が本当に嫌んなっちゃったんですかね……」
 あまり酒には強くないらしく、だんだんぐっちゃりし始めたハモンを見、おそらく大学に行ったのだろうサマナを見送ったハラキリは、ふむと鼻を鳴らした。
 美味しい食事で腹も膨れた。人間観察にしても腹一杯だ。自分も今から学校に向かえば四限目に間に合うだろう。早く手に入れた品の中身を確かめたい気持ちはあるし、ここまできたら全休と行く手もあるのだが、あちらにも昼休みに確認しておきたいことがある。
 となれば、ここが潮時だった。
「そうですねぇ」
 そのためには、とにかく目の前の酔っ払いを片付けなければならない。何も言わずにこの場を仕舞うことはできないだろう。メンチカツの残りを食べながら、ハラキリは脳裡に適当な『結論』を組み立て出した。
「拙者にはよく分かりませんけれど、いっそ乱暴なくらい強気にいったらどうですか?」
「強気ですか……? でも「話を聞くに」
 ハラキリはハモンの反論を断ち切り、続けた。
「どうやらソーニャさんは、あなたのことが嫌になったのではなく、あなたの優しさに不安にさせられているように思えるんですよ」
 よどみなく、しかも適当に言いながら、ハラキリはこの路線で進めることに決めた。
「優しさと愛とは近しくともイコールではありません。ソーニャさんは、だから不安なんじゃないですか? あなたに優しくされればされるほど、この優しさは本当に愛情なのか? 優しくしないことで失敗することを恐れているだけで、実は、本当にはわたしのことを思っているわけじゃないんじゃないか――あなたは、『前』がどうのこうのと仰ってましたがね」
 ハモンは、真剣にハラキリを見つめている。
 飄々と、ハラキリは続ける。
「言ってみたらどうです。
 はっきりと、愛していると。
 その上で『俺について来い、絶対に幸せにしてみせる』くらい断言してみたらどうです。聞いている限りじゃ、相手の様子を伺いながら、それは結局相手の心を疑って探ってばかりで、その調子ではどうせはっきりした言葉は一つも言っていなかったんでしょう? 『分からない』というのは彼女の言い分ですよ。あなたは彼女をどうしたいんですか? 彼女がどうこうじゃなく、あなたが」
 ハモンは、酔いも醒めたかのようにハラキリを見つめている。
 当のハラキリはしれっと言う。
「ちょうど臨時収入があったんです。ちょっといい指輪が買えますよ?」
 すると、バン! と大きな音を立ててハモンがテーブルに手をつき、立ち上がった。
「ジジさん! ありがとう!」
 そしてハモンはそれだけを言い、深く頭を下げると一目散に店を出て行った。
「……」
 そうして取り残されたハラキリは、メンチカツの最後の一切れを食べた後、苦笑した。
「雑、というよりは、単に粗忽者ですねぇ」
 ここの食事は彼が奢ってくれるはずだったのだが、支払いもしないで行ってしまった。
「お勘定をお願いします」
 食い逃げするわけにもいかないのでハラキリがホールに出てきていた女将にそう告げると、太った初老の女はじろりと彼を睨むように見た。
「いいよ、あのマヌケにつけておくから」
 それだけを言って、テーブルの上の空いた皿を片付け出し、
「あんた、適当言ったろ?」
 ふいに、囁くように女将は言った。
 ハラキリは答えず、飄々とミネラルウォーターを飲んでいた。
「でもね、間違っちゃないね」
 にやりと笑って、女将は重ねた皿を持っていく。と、途中で振り返り、
「成人してからまたおいで。今度はわたしが一杯奢ってやるよ」
「おお、オレも奢ってやる。にいちゃん、あんたやるねぇ」
 女将に続けて言ったのは隣席の老人だった。
「あのバカの煮え切らないのにはそろそろ我慢の限界だったのさ。ソーニャちゃんがかわいそうでなぁ、あんた、よく言ってくれたよ」
「はあ」
 突然、立て続けに好意を受けたハラキリは生返事を返し――マヌケだバカだと言われつつ、あの威勢がよくも情けない若旦那は周囲から良く愛されているらしい。
「そうですね。また来ます。しかし次は友達も連れてきたいんですが……それでも奢りは有効ですかね?」
 返ってきた答えは、応。
 ハラキリは、声を立てて笑った。

10:03 ―末吉―


 午前中に予定されていたテレビ会議の一つを時間通りに終え、早速次の会議の資料に改めて目を通しているティディアへ、ヴィタが言った。
「つい先ほど『学校』でトラブルがありました」
「何?」
「卒業生が母校訪問を悪用しました」
「それで?」
「しかし現在は、あくまで『訪問』であり、不法侵入なんてことを試みたわけではない、訪問に関する規則はよく見ていなかった、懐かしい校舎を見てつい昔の通りに行動してしまった、そもそも『ニトロ・ポルカト』が今日登校しているとは限らなかったのだから計画を立てようもなかった――大体このように申し立てています」
 ニトロの通う高校のセキュリティシステムは、常に王家のA.I.にもモニターされている。ティディアは、それがどんな小さなトラブルでも『彼』に関するものなら自分と彼のオリジナルA.I.に報告するようにと命じてあった。
 彼女は鼻を鳴らし、
「それで?」
「相手が教え子ですから、対応に当たっている教員はなかなか強く出られないようです」
「それは無理もないけどねー」
 そこで、ティディアは口を閉じた。ヴィタも側に控えたままでもう口を開かない。
「……」
 ティディアは会議資料に目を通し終え、それと今朝入ってきたモッシェル銀河系の経済動向の新しいレポートとを脳裡で参照し合わせながら、
「誕生日のお祝いに、水を差されたくはないわねえ」
 独り言のように言った王女に、執事は目礼だけを返した。
 現在、『ニトロ・ポルカト』の周囲は非常に緊張している。誰が最も緊張しているかといえば、無敵の王女様に取り入りたい――そうでなくとも親しみあるお姫様のためになりたい、と思っている人間達だ。
 ティディアには、特別彼女自身が何をしなくとも、勝手に彼女の顔色をあれこれと想像して動く、浮遊する透明な手足がうようよと存在するのである。
 それは何も彼女だけに限らず、学校のクラスのリーダーから一国の主に至るまであらゆる権力者の周囲に自動的に発生するのであるが、今回のケースにおいて、その手足はまず不逞の輩を許しはすまい。例えその教師が情に流されたとしても、彼の上役は違う、自ら教育者たるものかくあるべしと泣いて“手本”を見せることだろう。あるいは、警備員から相談された警察はコンクリートを掘ってでも愚かな先輩達が後輩に“大きな危害を加えようとしていた可能性”を嗅ぎ当て、その骨を主人の前に差し出そうとするだろう。あたかもそれこそ『クレイジー・プリンセス』の指示と皆が思い、悪いことに彼にもそう疑われてしまうくらいに獰猛に働き、そうして、我こそが貴女の御心に忠実なのだと示してくるだろう。
 なるほど、確かに私にはその馬鹿共を懲らしめたい気持ちが強くある。
 何故なら、もし彼がこの一件を知れば――そして彼はきっと知っている――間違いなくため息をつくからだ。
 ティディアは、しかし思う。
 だとしても、それ以上に、私は、彼にこういう事でため息以上にも心苦しい思いをさせたくはない。
 ――浮遊する透明な手足達とは違って本物の鼻を持つ部下は、主人の心の在り処を周囲にそっと匂わせてくれることだろう。
(……本当に、『クレイジー・プリンセス』ともあろう者が丸くなっちゃったわねー)
 そろそろテレビ会議が始まる。
 大きな宙映画面エア・モニターを前に威厳ある椅子に腰掛けるティディアは内心満面に苦笑して、通信が始まるのを待っていた。

10:20 ―吉―


 思わぬ展開を見せたものの、大事な商談を無事に終え、大切な品物の入った大ぶりのブリーフケースを片手に地下駐車場へと向かう途中、ハラキリは大通りに面したバス停に並ぶ人々の中に見覚えのある顔を認めた。
 先ほどまでハラキリの居た店でホール係をしていたサマナという女子大生が、バス待ちの列の中ごろで一人、表情をくるくる変えながら何やら喋っている。どうやら電話をしているらしい。携帯モバイルをしまったままでイヤホンも見当たらないということは『接着型』か『埋め込み型』のマイクロテレフォンでも使っているのだろう。そういう機具が普及してからもう随分経つのだが、通りがかった人が自分に語りかけられたのか? と一瞬ぎょっとした様子を見せ、その一瞬後には彼女が電話をしていることを察して何事もなかったかのように平静に通り過ぎていく様はおもしろい。
「――でも、今日は抜けられないの。実習なんだ、そう、その一コマだけはどうしても駄目なの」
 歩く内、ハラキリの耳にも彼女の会話が届いてきた。彼女は一つの言葉に一つの表情といった様子で、よく通る声で、
「うん、――ああでも、どうしよう、再販も店頭限定なんでしょ?――やっぱりそうだよね、うん、分かった、終わったら急いで行ってみる。あー、売り切れてなければいいんだけど!」
(……ブランド品か何かですかね?)
 通りかかるハラキリに彼女は気づかない。バスはまだかとばかりに右向こうの交差点を何度も見やっている。会話の内容から察するに今すぐバスが来たところでどうにかなることでもないと思うのだが、きっと行き場のない感情を態度で表さなければやり切れないのだろう。彼女が首を振る度にポニーテールが揺れ、最近『キモノ地』と呼ばれている布で作られたリボンがその度に一緒に揺れて鮮やかな色をひらめかせる。陽光の下に見ればその布地は朱と橙と白が複雑に散る柄で、光を受けるとしっとりと艶めく様はとても良くできているものだった。
「――ううん、教えてくれてよかったよ。全然気がつかなかった。ありがと…ううん、そんなことないよ、お仕事中にこうして教えてくれただけで大感謝だよ。……うん。ありがとう、お兄ちゃん。それじゃあお仕事頑張ってね――」
 それ以上は、歩を緩めながらも止まらずに進んでいたハラキリの耳には形ある言葉としては聞こえなくなった。
(仲がよろしいんですねぇ)
 そんなことを思いながら、目的の地下駐車場の入り口に辿り着く。足早に階段を降りていき、地下二階で重みのある扉を開いて駐車場内に入る。と、すぐ目の前のスペースに止まる車がポジションライトに火を入れた。ハラキリがその飛行車の運転席に乗り込むと同時、エンジンをスタートさせたオリジナルA.I.韋駄天が彼に語りかけてきた。
「無事ニ手ニ入ッタカ?」
「上々だ」
 ハラキリはうなずき、ブリーフケースを静かに助手席に置く。
「掘り出し物だ。それに、随分安く手に入れることができた」
「ソレジャア、『本物』ダッタカ」
「それはまだ確認できてない」
「ナンダ、タダノ勘カ?」
「こういうことにおいては直感を信じることも大事だよ」
「ソレナラ直感ガ外レネエトイイナア」
 韋駄天は笑いながら車を発進させた。
「マア、正否ハスグニ分カルカ。百合花オユリハ『オタマジャクシ、モウ嫌!』ッテ泣キ言言ッテタゼ」
 ハラキリは苦笑を禁じ得なかった。今回、異星の音楽を収めたアナログレコード――と目されるものを手に入れるに当たって、撫子に検証プログラムを用意しておくように命じていたのだ。それを主となって手伝うのは、プログラム作製及びデータ分析に秀でた『三人官女サポートA.I.』の百合花ゆりのはな。能力は高いのだが少々癖のある性格で、怠け癖もある。きっと『母』たる撫子に尻を叩かれながら膨大な既知の音楽理論を取りまとめ、さらに所蔵の日本にちほん関連の音楽ファイル――のみならず、ゲーム・『アヌメ』・『カッツドーシャシン』他ありとあらゆるメディア全てに使われている音を、それが完全だろうが断片だろうが構わない、関係する何もかもを抜き出して比較検証のために抜粋していたはずだ。
「ちょっと小遣いやらないと後で面倒かな?」
「モウ面倒ダロウヨ」
「覚悟しておくよ」
「面倒ツイデニ伝言ダ」
「誰から?」
「撫子。放課後迎エニ参リマスノデ、ドウカオ忘レニナリマセンヨウ――ダト」
「ああ、分かっているよ。そっちもちゃんと覚悟している」
 ハラキリが堪らず苦笑いを浮かべると、韋駄天はからかうような笑い声を発した。そして地下駐車場出口に向かうルートを徐行し、先にいくワゴンの後ろに続きながら韋駄天は言う。
「待ッテイル間ニ思ッテタンダケドヨ」
「うん?」
「御母堂ノ趣味ニ付キ合ッテタダケノハズナノニ、イツノ間ニカオ前モ深入リシテルヨナ」
「……ああ」
 そう言われると、何とも言い難い。確かに言われる通りだし、だからといって反論するつもりもなく……されど――
「まあ、楽しくなったんだろうな」
 ぼんやりと、ハラキリは言った。
地球チタマ日本ニチホンガ?」
「それもあるけど、それを話すのが」
「――ナルホドナ」
 韋駄天はスロープを登って地上に出ると、すぐに周囲の交通システムにアクセスして安全を確認し、その誘導に従って空へと車体を押し上げていった。
 今まで目の前にいたワゴンが沈み込んでいくようにフロントガラスから消えていき、次第に緩やかなカーブを描いて伸びる道がやがて街角に消え行く先までを見晴らせるようになり、それも眼下に沈めながら雑居ビルの頂も越えていくと、朝から昼に架かる秋の色を背景に、遠くは黒点に、近くは色彩様々なドットとして、至近距離では車体に描かれた模様を誇示する特に運送に携わる飛行車でごった返す空へ出る。
「制服ハ後ロニアル。コッチモチャント行クンダロウ?」
 ハラキリは後部座席にキチンと畳まれてある服とデイバッグを一瞥し、まだ韋駄天に命じていなかったことを思い出し、
「ああ、向かってくれ」
 こういった場所では空中交通管制が空に厳密なる道を作って各車に通達している。命じられるや否や、韋駄天は目的地への道にゆっくりと向かい、やがて滑らかに赤いトラックの後ろに取り付いた。スピードを少しばかり上げたトラックの、その加速への反応が遅れた後続車が車間距離を詰めようとするより先に合流する、実に絶妙なタイミングだった。
 時々刻々と変化する交通状況に随時対応する交通管制に応じるのみならず、己でも周囲の流れを常時計算し、韋駄天は着実に目的地への最短距離を得られるルートへ最短時間で移っていく。
 混雑域から驚くほど順調に抜け出した韋駄天は、即座にスピードを法定速度限界まで上げていった。車の外には、空から見ても活気に溢れているジスカルラ中央市場一帯が広がっている。その光景を見下ろして、ハラキリは再びこの場所を訪れることを思うと、我知らず微笑んでいた。

00:01(王都時間11:01) ―小吉―


 ルッドラン地方は標高の高いこともあり、平地に比べてずっと早く秋の装いに身を包んでいる。夜風はもはや初冬の吐息だ。かたかたと鳴る窓から内へと染み込んでくる夜気は物寂しく冷え冷えとして、空調を効かせた部屋にいながらも、古い書き物机に向かうミリュウの胸には秋愁の気配がそっと忍び込んでくる。
 ドアがノックされた。
 応じると、第二王位継承者の女執事が入ってきた。
「そろそろお休みになってはいかがですか?」
 そう言う彼女の手には盆があり、厚い陶器製のカップに湯気が立っている。ミリュウがそれを見ると、
「ホットミルクです」
「ありがとう」
 目を細める王女の前にことりとカップが置かれる。
 ミリュウは手にしていた本に栞を挟むと、そっと机の上に置いた。その本もまた古い。紙はとっくに黄ばみきり、保護のためのカバーフィルムが貼られているため装丁は無事だが、中身には所々に補修の後がある。タイトルは『牧童歌』――昔、ルッドラン地方の羊飼い達が歌っていた牧歌の中でも代表的なものを集めた歌集だった。郷愁を感じさせるものから、少し卑猥な要素を含めたものまで幅広く網羅され、中には現在でも民謡として残っているものもあった。
 ミリュウはカップを両手で持ち、舌を火傷しないように少しだけ口に含み、砂糖をいれずとも甘みを感じる濃厚な乳に頬を緩めた。つい今まで読んでいたのは切ない恋の歌だったが――
「『おらのねえちゃん』は聞いたことがあったわ」
 それは、飲み屋で上機嫌になったチーズ職人達が歌っていたものだった。ちょうどそこに自分が入っていくと、皆して慌てて歌をやめ、さらに誤魔化し笑いを浮かべてそのまま合唱までやめてしまったことはとても残念だった。内容は確かに喜んで聴けるものではなかったが、あの楽しげな雰囲気には心が躍り、できることなら仲間入りしたかったのに。
 一方、ミリュウの言葉を聞いたセイラは、困ったように、それとも怒ったように眉を寄せていた。――そう、本当に、あの歌は『王女』が喜んで聴けるものではなかったのだ。
(でも、お姉様なら喜んで聴いたでしょうね)
 その上、一緒になって歌ったことだろう。もしかしたら歌詞に合わせてお尻をふりふり踊りもしたかもしれない。そうして、もし、そこに『彼』もいたら? きっとその人は色々ツッコみ回って忙しいだろう。その時、弟もその場にいるだろうか? いてくれたらどんなに嬉しいことだろう。もしそうなれば、私は弟と、姉とニトロさんの即席漫才を一緒に大笑いして見ていたい。
「……お姉様のことでも考えてらっしゃいますか?」
 ふとセイラに言われ、ミリュウは少し目を見開いて彼女を見た。
「それとも――パティ様でしょうか。そんなお顔をしていらっしゃいます」
 ミリュウは何も応えず、ただ微笑みだけをセイラに返した。セイラにはそれで十分であり、嬉しそうな主人の顔に、彼女の心は主人以上に嬉しくもなるのだ。
 そして、
「ところで、王都から報告はあった?」
 ホットミルクをすすりながら、ミリュウは声に真剣さを滲ませて訊ねた。
 その気配にセイラも真剣みを含んでうなずき、
「いずれも大好評、とのことです」
「そう」
 ミリュウは先とは違う形に目元を緩めた。
 彼女は、セイラの兄の知人が王都で営んでいるルッドラン料理の店に、ここでお世話になっている人達の商品を――あくまでセイラの兄を通して――いくつか仕入れてみてもらったのだ。臆病なお爺さんの作るチーズ各種、商魂たくましいお婆さんのチーズプリン、チャレンジスピリットしかない父子が作った燻製と新しい調味料……
「良かった。みんなに良い報告ができるわ」
「とても自信になるでしょう」
 王都で好評を得たからといってそれが成功に繋がるとは限らない。しかし、王都で好評を得るということはやはり一つのステータスとして存在する。特に衰退の一途を辿るこの場所から発信した物が、さらなる栄華を極めんとする王国の中心で認められたとなれば、そうだ、自信になるのだ。そして自信は気持ちを引き上げて、引き上げられた気持ちはそれだけで前進する。前進し続けるための力を得られる。
(――私も、そうだったように)
 ミリュウには、ニトロに『えらい』と言ってもらえたことが忘れられなかった。それ以前にも、やはり姉に認められたことがどんなに自分を支えていたか、今となっても忘れられようはずもなかった。
 かたかたと窓が風に鳴る。
 秋愁がミリュウの心に沁み、彼女のたなごころにはホットミルクの熱が沁み込む。
「明日……ううん、もう、今日ね。早速知らせなくっちゃ」
 物思いに耽るようにつぶやく主人の横顔に、セイラは母性にも近い感情を抱きながら静かにうなずいた。そして――またかたかたと窓が鳴る――
「さ、ミリュウ様、そのためにもそろそろお休みになってくださいませ。明日は朝から訪問客もございますから」
「ええ、そうね。お姉様にメールを送ってから――」
「あ、もう今日ですたな」
 間違いに気づき、真面目にも慌てて言い直したセイラが思わず訛る。
 ミリュウはホットミルクをすすり、微笑んだ。
「ええ、そうね。セイラ」

11:09 ―中吉―


 大幅に遅刻することになったものの、車両操縦に特化したオリジナルA.I.韋駄天の技により四時限目の始まる11:30には余裕を持って間に合ったハラキリは、もう昼時も間近になり、『ニトロ・ポルカト』目当ての人ごみもようやく薄れた正門に向かってデイバッグを背にのんびり歩いていた。
 そう、ようやく薄れた――である。未だに門前にはいくらかの人が残っている。
(そんなに暇なんですかねぇ)
 友人がちゃんと一時限目から登校していることは確認済みだ。それなのにここまで門前にたむろしているということは相当ミーハーであるのか、相応の『ニトロ・マニア』であるかのどちらかだろう。数人が『ハラキリ・ジジ』に気がついて声をかけてくる。ハラキリは足を速め、小さく会釈しながら人の間を縫って門内に入っていこうとし、
(おや)
 意外にも門が閉め切られていることに気がついて減速し、2m丈の鉄柵門の前で止まった。授業時間中でも、西の校門と違って、来客や購買部に納品に来た業者などのために正門は完全には閉まっていないはずなのだが……
「生徒手帳を」
 ハラキリに、門の向こうから警備員が声をかけてくる。彼は明らかにこちらが生徒であることを認識しながらもそう言っていた。その背後には、物陰から覗く形で警察車両が見える。
「何があったんですか?」
 胸ポケットから生徒手帳を取り出し、警備員に渡す。彼は困った顔をするだけだった。非関係者の多いここでは応えられない、ということだろう。
「結構です。お通り下さい」
 彼は横に向けて合図した。そちらには警備アンドロイドがいて、片手で軽々と重い門をスライドさせる。人一人分の隙間からハラキリは校内に入り込み、警備員から生徒手帳を受け取った。そして門に背を向けた時、彼にだけ聞こえる声で警備員が言った。
「――卒業生が、少々。あとは受付で聞いてください」
 ハラキリはうなずいて礼を言い、正門の正面に建つ事務棟の玄関に向かった。ガラス戸を押し開き、中に入るとすぐ横に細長い小窓があって、そこには何やらぴりぴりとした様子で仕事をしている事務職員達が見える。
 受付の窓口に立つ人影に気がつき慌ててやってきた中年男性が、強化プラスチック製の戸を引き開けた時、ちょうど『11:15』――三時限目終了のチャイムが鳴った。
「やあ、大遅刻だね」
 見事なビール腹の男性は、相手が生徒で、それもハラキリであることを認めて笑顔を作った。顔見知りの職員に、ハラキリは軽く頭を垂れる。
「そのせいで何か見逃したようなんですが、何があったんですか?」
「ああ、君になら話してもいいね。それはね――」
 事のあらましを聞き終ったハラキリは、第一教室棟に足を向けた。
 なるほど、では、正門が閉め切ってあったのは侵入を防ぐためではなく、逃亡を防ぐためだったのか。
(今後また母校訪問に制限が増えるかな)
 その他の色々な面倒ごとを考えながら、ハラキリは事務棟から第一教室棟に抜けていった。第一教室棟に入ってすぐに表れた階段は使わず――今その階段を上がれば三時限目のアデムメデス史の教師と鉢合わせしてしまうかもしない――そのまま長い廊下を歩いていく。第一教室棟の北には並行して建つ第二教室棟があり、それとの間にある『中庭』には授業を終えて休息に出た生徒がちらほら見えた。
(……面倒事の質によっては、ニトロ君が必要以上に嫌な思いをするかもしれませんね)
 そう思ったところで、ハラキリは考えを改めた。
(いや、それはないか)
 このデリケートな時期だ。きっと『彼女』が気を遣う。それを予測できず、今頃会議室で警察官をオーディエンスに不法侵入を企てた卒業生相手に大演説を振るっているであろう校長は、後日きっと己の思い違いに冷や汗をかくことになるだろう。――彼は、だからこそ彼女にとって非常に扱い易い道具でしかないのだが。
 と、そこまで思ったところでハラキリはまた考えを改めた。
(いやいや、ニトロ君はどちらにしろ変に気を遣いますかね?)
 お人好しの親友は、そういう人間だ。
(――ふむ)
 必要ならフォローを入れておこう。
 ハラキリが歩を進める第一教室棟一階には、主に二年生の教室が並んでいる。
 廊下に出てきている生徒達が『ハラキリ・ジジ』を見て、ある者は態度を変えず、ある者は先輩に対して頭を下げ、ある者は『ニトロ・ポルカトの親友』へ好奇の目を向けてくる。
 教室棟のちょうど半ばには、教室の切れ間といったような小さなスペースがあった。そこには非常階段への出入り口がある。ハラキリは厚い扉を開けて建物の外に張り出す踊り場に出た。棟の左右にある階段に比べて人がすれ違える程度の幅しかない螺旋階段をすいすいと三階まで上っていく。周囲を柵に囲まれた階段は日当たりがよく、次第に目線を上げていく景色もなかなか見ごたえがある。放課後などにはここで飲食を楽しむ生徒などもいる、隠れた名所だった。
 非常階段から三階に入ったハラキリは、一階と同じく目の前に現れた小さなスペースに置かれているロッカーに立ち寄った。自分にあてがわれたロッカーを開き、デイバッグを押し入れ、代わって板晶画面ボードスクリーンを一枚取り出して教室に向かう。
 教室に入ったハラキリは、数人のクラスメートに囲まれたニトロ・ポルカトの姿をすぐに認めた。
 教室中頃の窓際の席にミーシャがいて、その隣にクレイグがいる。ミーシャの机に座る華奢で黒髪をロングにしているのはクオリアだ。クレイグの後ろの席には小太りでファッションメガネをかけたフルニエがいて、ミーシャの後ろの席に座るニトロの傍らには筋肉質で背の高いダレイがいた。
 皆、ニトロ・ポルカトが『ティディアの恋人』となった以降、それでもニトロが気の置けない相手として付き合えている連中だった。
「今日はどうしたんだ?」
 真っ先にハラキリに気がついたニトロが声をかけてくる。
「寝坊しました」
 ハラキリはそう答え、皆の側に寄ってきたところでボードスクリーンのシステムを起動した。即座にこの教室のシステムを統括する管理コンピューターにアクセスして空席情報を得ようとすると、
「ここがあいてるぜ」
 フルニエが椅子から立ち上がって言った。
「ありがとうございます」
 ハラキリはフルニエと入れ替わって席に着いた。フルニエは椅子から今度は机に腰を下す。
「来るのが遅すぎたわね、ハラキリ」
 と、クオリアが言った。ハラキリが目を向けると彼女はこけた頬に笑みを刻み、
「のん気に寝てないで二限から来ていれば良かったのに」
「またその話?」
 ミーシャが眉間に皺を寄せて言った。ハラキリは静かに訊ねる。
「拙者は何か、見逃したようですね?」
 クオリアはミーシャの非難の目を物ともせず、
「凄かったのよ? ミーシャとニトロのルカドー」
「ルカドー?」
 ハラキリはオウム返しに言い、しかし相手の返答を待たず、にやりとして、
「今流行のあれですか?」
「そんなわけない!」
 ミーシャが悲鳴じみた声を上げた。
「あんなの皆の前で歌えるわけないだろ!?」
「『おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!』」
「くぉらフルニエ、セクハラだ!」
 ミーシャの怒声に皆が笑う。
「クレイグ!?」
 ミーシャの怒声に、やはり皆が笑う。
 その歌は、大戯曲家ルカドーが遺した詩を元にして作られた歌だった。今月になって、その詩に曲をつけ、愉快なアニメーションをつけた作品が何と王立放送局の子ども番組で放送されたことで話題になり、一気に全地域で流行した。もちろんそれを不適切と非難する声もあったが、何しろ作詞が大古典時代の大戯曲家だ。番組も文学史を素材としたものであるため正当性もある。現在でもその番組は堂々と放映されており、その歌は子どもには大人気だし、ある程度年齢のいった者達の間では笑いのネタ、あるいは、いや、むしろ罰ゲームのネタとして大人気だった。
「冗談ですよ」
 あまりからかってはミーシャの怒りが増してしまう。場を治めるためにハラキリはそう言って、ミーシャに目を向け、
「『魂の家』でしょう?」
「……性格悪い」
 ミーシャに睨まれたハラキリは飄々として、
「それで?」
 と、クオリアに目を向けた。
 ケラケラと笑っていたクオリアは、頬杖を突いてむくれているミーシャを見て、それからニトロを見、
「文学部の一員としては、次の朗読会に是非参加して欲しいわ」
「またその話か?」
 と、今度はニトロが言った。クオリアはうなずき、
「何度でもするわ。それくらい凄かったもの」
「ああ、確かに」
 同意の声を上げたのは、腕を組んで立つダレイだった。口数の少ない彼の同意は、それだけに説得力がある。
「始めはさ、ニトロも普通に読んでたんだよ」
 椅子に横座りするクレイグが、ハラキリに顔を向けながら説明した。
「だけど、途中から熱が入ってきてね。段々と本当の舞台の読み合わせみたいになっていってさ。こっちはもうただの授業の朗読でニトロもノリノリでよくやるなあって感心するばかりだった」
「いや待てクレイグ。あれはノリノリでやったんじゃなくて、皆が明らかに『その程度?』って顔をしてたからだ」
 ニトロが口を挟んだ。
「俺は普通に読み通すつもりだったのに、クレイグなんてあからさまに残念そうな顔してたじゃないか」
「そりゃ、ニトロは舞台慣れしてるだろ?」
 忌憚なく遠慮なく、クレイグは言う。ニトロは苦笑し、
「そしたら同じような顔をしてフルニエがメガネをくいってやりやがるんだ」
「あのままだったらまずブーイングしてたね」
 フルニエが笑い、クオリアとクレイグも笑う。ダレイは微笑んで、ミーシャは頬杖をついてむくれている。ニトロは言った。
「助けはどこにもない。皆してそんな顔されたらこっちは『こんにゃろう』と思うさ。そしたら――」
 と、そこでハラキリを見る。
「つい、ね」
「そうやってニトロが空気を読んだおかげでこっちは大変だった」
 むくれた顔のままでミーシャが言った。
「そっちはいいよ? そういうの慣れてるし、漫才がらみでそういう特訓も受けてるんだろ? でもこっちは完璧素人だ」
「そんなことないよ。すごく良かった」
 ふいにクレイグが言った。ミーシャの顔色がぱっと明るくなる。それをニトロは微笑ましく思いながら、好々と目を細めているハラキリを見て言う。
「そういうわけで。気がついたら、ワンシーンどころか一幕やり通させられてたよ」
「終わった時は大拍手だったんだよ!」
 クオリアが身を乗り出し、目を輝かせた。
「先生も大拍手。実際、ミーシャの“棒”をもうちょっと直せばお金が取れるくらいだよ」
「ボーで悪かったな」
 むくれるミーシャにクレイグが笑いかける。
「いや、あれは棒読みだからこそいいんだよ。だって自分の心を物扱いするヒロインだぜ?」
 と、フルニエが言う。
「それは私の解釈と違うわ。そうありながらも心の神性を信じているのよ、彼女は。だからもっと隠れた温もりがないと」
 クオリアが反論する。
「どちらもいいな」
 と、ダレイが言った。それは低音の利いた一言で、やはり異様な説得力があり、自然とその場が治まった。もし、これでも治まっていなければ、その時はクレイグがなだめていたことだろう。それで追いつかなければニトロが取りなし、それでも駄目ならミーシャが話題をぶった切る。ハラキリは、よほどのことがない限りは見ているだけだ。
 ――そう、見ているだけ。
「……」
 ニトロは、話題を軌道に乗せてからはただ大人しく話を聞いているだけの親友を見て、その猫の被り方に内心――もう何度目だろうか――苦笑していた。
 今のやり取りの中、ニトロが知るハラキリ・ジジなら気の利いた皮肉を、あるいは皮肉に聞こえるフォローを一つ二つは入れていただろうに……
 ふと、ハラキリがニトロを見た。
 ニトロと目が合ったハラキリは、意図の読めない笑みを浮かべた。彼は言った。
「色々なものが、きっと君を助けますよ」
 不思議な響きを持つ言葉だった。
「――例えば、芸か?」
 ニトロは言ってみた。ハラキリは言葉を返さない。だが目を細めて意味を作る。
「もう助けてるだろ?」
 呆れたようにそう言うのはフルニエだった。
「ニトロ・ザ・ツッコミ。いつだってニトロはツッコミ芸が命綱だ」
 ニトロは苦笑した。皆は笑う。ハラキリは否定の色を浮かべず大人しく輪に溶け込んでいる。ニトロの苦笑は、いつしか笑いに変わり出していた。
「それじゃあもし食いっぱぐれそうになったら、それに縋って諸領漫遊しょこくまんゆうでもしてみようか」
 ニトロが言った『冗談』に、皆はまた笑った。
 静かに笑っているハラキリを目の片隅に、ニトロもまた皆の笑いに誘われて、とうとう声を上げて笑い出した。
 授業開始のチャイムが鳴る。
 慌ててめいめいが席に戻っていく。
 それを眺め、前の席で何事か囁き合う恋人達を見、それから隣の席でこちらのことなど何でもなさそうな顔で授業の準備をする親友を一瞥し、ニトロは、息をついた。
 ――これが、例え『偽り』を重ねた上のことであったとしても。
「……」
 ニトロは心底からの笑みが己の口元から決して消えないことを、確かに感じていた。

12:20 ―吉―


 午前中の仕事を終えたティディアは、居室に戻ってくるなりうんと伸びをした。万事順調。最後に首相と共に臨んだラミラス星の大統領とのテレビ会談だけは少し長引いたが、それも首尾は上々。人工霊銀A.ミスリル関連を武器に外交はこちらがイニシアチブを持ち続けている。表向きはギクシャクしているセスカニアンとラミラスを仲介するという立場は見事に我星うちの当たり役となって、こちらも表には出せないが、神技の民ドワーフ呪物ナイトメアの絡む一件もあり、今後も両国の間で欠かせぬ存在として漁夫の利を得られるだろう。その他、アデムメデス王の訪問前に仕込んでおくべきことも全て完了した。
「――さて」
 ティディアがそうつぶやくと、阿吽の呼吸で側仕えが二人近寄ってきて、王女が一国の君主級の人物と公的に顔を合わせる際に着る略装(直接会う場合は必ず正装だ)を脱がしにかかった。彼女は服を脱がしやすいよう――大抵のことは自分でやりたいが、側仕え達にもちゃんと仕事を用意してやらなければ食いっぱぐれさせてしまう――相手の成すがままになりながら、執事に顔を向け、
「昼食は?」
「王妃様がフレンチトーストとサラダをお作りになられました」
「分かった。パティの部屋の前に運ばせておいて」
「早速」
「昼餐の様子は?」
 王と王妃は、大食堂で会食を主催している。相手はこれから各地で開かれる領主会議ラウンド・テーブルの議長を務める領主とその家族だ。特に外遊のため出席できない東大陸の議長、レド・ハイアンに対しては懇ろに接せられることだろう。そして王はその後、首相と外相との会議に臨み、女王は領主達の婦人連と茶会を開く。ティディアは、茶会に少々顔を出すことにしていた。
 ヴィタは涼やかに答える。
「つつがなく進行しています」
 ティディアはうなずいた。コルセット要らずのくびれに正午の光が当たり、白磁のように滑らかな肌が粒子を弾いている。
「母を引き立てるよう、服を選んで置いて」
 側仕えから部屋着を受け取りながらティディアは言った。
「控えめだけれど、地味過ぎないようにね」
「かしこまりました」
「ヴィタは休んで。茶会にはこちらもスケジュール通りに」
「かしこまりました」
 ヴィタは一礼すると、ティディアがラフな服に着替え終わるのを待ち、側仕え達と共に部屋を出ていった。
ピコ
「ハイ」
 ティディアに呼ばれたオリジナルA.I.が応える。
「私用メールは?」
「ミリュウ様カラ一通アリマス」
「見せて」
 目の前に表示された宙映画面エア・モニターの中の流麗な筆跡を見て、ティディアは微笑んだ。
 それは、本日、謹慎中のミリュウの名代としてパーティーに出席する姉への感謝とお詫びだった。
 宙映画面を消したティディアは足早に弟の部屋へ向かった。ドアの前には昼食を揃えたワゴンと、それを守るアンドロイドがいる。
「ごくろうさま」
 ワゴンを引き取ったティディアは警備兵の服を着たアンドロイドを下がらせた。そしてドアをノックすると、室内からはまた別のアンドロイドが出てきた。その女性性の容姿を持つアンドロイドはローブを羽織っている。着ている物が他の人間に見られないように配慮しているのだ。
「あら」
 部屋に入ったティディアは、意外にも弟が部屋にいることに驚いた。てっきり隣の『工作室』にいると思っていたのだが、
「休憩中?」
「ううん、調整中」
 ベッドに座って可愛らしく首を振る、少女よりも少女らしい王子の傍らには中性性のアンドロイドが三体いる。中肉中背、筋肉質、やや肥満の体形をした三体はいずれも同じ『プロテクター』を着け、同じ『剣』を携えていた。見ればローブを落としたアンドロイド――オリジナルA.I.フレアも同じ格好をして、床に置いてあった剣を拾い上げている。
「もうここまで出来たのね」
『誕生日会』の秘密のイベントの準備を任された弟は、姉の感嘆に誇らしげに目を輝かせ、
「前から考えていたのを応用しただけだから、簡単だったよ」
 謙虚なようで自慢気な、子どもらしい自尊心を見せる弟にティディアは微笑み、その頭を優しく撫でた。
「凄いわ、パティ」
 大好きな姉に誉められて、パトネトは面映そうに笑う。
 二人の傍らでは、狭い範囲でアンドロイド達が剣を扱い、互いに攻撃と防御を繰り返し始めた。どうやら近接戦闘、それも混戦時を想定した動作を検証しているらしい。パトネトの肩の横に表示されていたエア・モニターに、随時新しいデータが更新されていく。
「お昼ご飯にしましょう」
「うん」
 アンドロイドによる動作検証は、フレアに任せておけばいい。そのフレアは食事中にホコリを立てることを嫌ったか、ごちゃごちゃとした――実に素人臭い動きで――混戦を続けながら器用に工作室へと移動していった。
「お母様がフレンチトーストとサラダを作ってくれたわ」
 隅に追いやられていたテーブルを引き寄せながらティディアが言うと、パトネトが腰かけていたベッドからぴょんと降り、姉が運んできたワゴンに駆け寄った。
「お母様のフレンチトースト! 久しぶりだね!」
 嬉しそうに弟が言うのを、ティディアは目を細めて見つめていた。彼は皿を取り出して運んでくる。重度の人見知りである彼のこの明るい姿を見られる人間は非常に少ない。しかし、これまではこんなに快活な様子までは誰も見たことはなかった。
 テーブルに椅子も二つ向かい合わせて揃えた後、ティディアは保温器の中からフレンチトーストを皿に移し、『パチパ』の入ったグリーンサラダも皿に盛る。パトネトはオレンジジュースをこぼさないよう気をつけて二つのコップに注いだ。
 二人は席に着き、小さな明り取りから差し込んでくる昼の光の中、微笑みあった。
「それじゃあ――」
「「いただきます」」

12:55 ―中吉―


 残暑は穏やかで、空調は少しだけ涼しい風を送り込んでくる。
 昼休みの教室は実に快適だった。
 校内売店で買ってきた大盛りのミートソース・スパゲティを食べ終えたニトロは、窓際の席でぽかぽかとした日差しを楽しみながら、のんびりとお茶を飲んでいた。
「そろそろ移動しますか?」
 コーヒー一杯とホットドッグを一つ食べただけで昼食を終えたハラキリが、人のまばらな教室を眺めながら問う。
 ニトロは苦笑した。
「もっと他に聞くことないか?」
 今日はクレイグとミーシャが屋上に行ってしまい、他に仲の良い三人も、二人は部室へ、一人は正門を出てすぐの大衆食堂へ行ってしまったため、ニトロは教室でハラキリと差し向かいで駄弁っていた。ニトロはここで彼から必ずある質問をされるはず、と思っていたのだが、それが未だにやって来ない。
「ハラキリだって、興味あるだろう?」
 問われたハラキリは小さく肩をすくめ、
「それを肴にするには時間が早すぎます」
「そういう問題かな」
 ハラキリらしい応えに、ニトロは笑う。
「まあ、でも、後でゆっくりの方が確かにいいのかな」
「大っぴらに話していたことがばれたら彼女に脛を蹴られますからね」
「ああ、それもそっか」
 ニトロは、なるほどと合点した。しかし、
「だけど、詳細はともかく『どうだったか』くらいは聞くだろ? スネも蹴られたからにはさ」
 そのセリフにハラキリは笑った。
「そちらは色々聞いたみたいですね」
「ちょっと驚いた。いつ調べてたんだ?」
「暇な時に、話のネタにでもと思いまして」
 ニトロは、笑った。その笑い方が想定外だったのかハラキリが怪訝な顔をする。ニトロは手を振り、
「いや、そんなことかなとは思ってたんだ。でも、もっと早く言ってやれば良かったのに」
「望まぬ人には余計なお世話にもなることです」
「……」
 ニトロは紙コップに入ったお茶を飲み、
「うん、そうだね。難しいところかな」
「でしょう?」
 ハラキリは言葉とは違い、自慢気ではなく、どこかどうでもよさそうな、しかしそうでもなさそうな不明瞭な調子でうなずいた。そして、
「で、『どうでしたか』?」
 一転してふいに問われたニトロは思わず苦笑した。この距離感を掴ませない調子が実に彼らしい。こればかりは、普段の彼も、学校での彼も変わらない。
「無事にできたよ。無事に、ちゃんと屋上にも行ったしね」
「随分躊躇いがちでしたけどね」
「見てて冷や冷やしたよ」
「ちゃんと誘えた勢いで『はい、あーん』でもやっていれば面白いんですがねえ」
「そこまではどうだろうなぁ。ミーシャ、照れ死ぬんじゃないか?」
 しれっと言うハラキリの言葉に笑いながら、ニトロは立ち上がった。お茶を飲み干し、紙コップをゴミ箱に放り込む。
 そして彼は廊下から聞こえてくる会話の切れ端を耳にし、
「……こっちも、聞きたいことがあるんだけどさ」
「はあ」
 生返事のような声でハラキリが促す。ニトロは少し目を伏せ、
「ハラキリは、もう聞いたか?」
「卒業生の珍道中ですか?」
「珍道中?」
「人生の」
 その痛烈な皮肉に、ニトロは苦笑を通り越して笑ってしまった。
「そう。その珍道中は、どんなもんになるだろうな」
 ハラキリは、やはり我が親友は『お人好し』だと内心苦笑し、
「まあ、低くて厳重注意、高くて示談成立〜不起訴の流れ程度じゃないですかね」
 そこで話を切ろうとしたハラキリは、思い直して付け加えた。
「もちろん、ネットでの噂なり“口コミ”なりは既にどうしようもないでしょう。その人達はそもそも物見高い野次馬に囲まれた正門を通って入って行っていたわけですからね。あの手の問題を起こした時点でこれは避けられないので、自業自得ですよ」
「そう思う? それだけか?」
「少なくとも彼女が、出張ってくることはないでしょうね」
「……」
「信じられませんか?」
「……どうだろうな。でも、ハラキリは信じるよ」
 そう言うニトロは、偽りなく安心した顔をしている。
「そりゃどうも」
 ハラキリは、今度は表に出して苦笑した。そして彼も席を立ち、
「それじゃあ、行きましょうか?」
「おう」
 教室を出た二人は廊下に置かれているロッカーのそれぞれに割り当てられた場所に行き、それぞれにトレーニングウェアを入れたバッグを持って合流すると、体育館にある更衣室へと足を向けた。
 五時限目は体育だった。とはいえ、大学受験や就職に向けて動く高校三年生のこの時期、体育の時間は授業の体をなしていない。それは主に勉強に凝り固まった若者の体をほぐすための時間であり、出席を取った後は各自自由にすることができる。ジョギングするもよし、ストレッチ程度でやめるもよし、究極的にはすぐに着替えて自習に戻ることもできる。正直なくてもいい時間ではあるのだが、それでも週一のこの時間を生徒は思い思いに楽しんでいた。
「ハラキリは、今日は?」
「ニトロ君は?」
「俺はバドミントンをしようってフルニエに誘われてる」
「では拙者はそれを見ていましょう」
「……いや、それってどうなんだ? 運動しようよ」
「目の運動にはなりますよ」
「いやだからそれってどうなんだ? 全身を動かそうよ爽やかに」
「疲れるじゃないですか」
「疲れるためにわざわざ運動するんじゃないか」
「それは一見無駄なようで、真理ですねえ」
「悟るな、こんなことで」
 基本的には学校では口数の少ないハラキリも、こういう時にはいつもの調子を見せてくれる。ニトロもその調子にノって言う。
「大体、運動する心地良さだけじゃなくて、運動には疲れるからこその気持ち良さもあるだろ?」
「ふむ、否定はしませんがそれは実際マゾヒズム」
「実際これはマゾとかサドとかそういう話じゃないと思うんだ」
「大抵のことはマゾとサドにカテゴライズできるそうですよ?」
「逆に大抵のことにカテゴライズできるってことは、結局最後には全部が区別つかなくなるってことだと思うなあ」
「例えば?」
「筋トレだって自分をいじめる時には、いじめるサドな自分といじめられるマゾな自分がいることになるだろ? そうするとサド自分はマゾ自分と、マゾ自分はサド自分と同時に同次元に存在するわけになるじゃないか。それを果たしてカテゴライズしきることができるのか、そもそもそれはカテゴライズしていると言えるのか」
「どうでもいいです」
「ぉお前えええええ」
 呪詛を上げるニトロは階段に差し掛かり、そこで階段を降りてくるクレイグとミーシャに出くわした。
「あ」
 と、ミーシャが目を見張る。
「?」
 ニトロは眉をひそめた。
 ミーシャの様子が、昼休み前までと、どこか違った。
「二人も、今から?」
 クレイグが何か言おうとするより先に、ミーシャが言った。その声は硬い。ニトロはおかしなミーシャを見つめ、そうか、と気がついた。何故だか彼女は、まるで彼と付き合い始めたことを友人に初めて知られてしまった少女のように、それが照れ臭いことのような、あるいは後ろめたいことでもあるかのような、恋愛というものに揺さぶられる羞恥心からくる狼狽を見せていたのである。
 しかし、本当に何故、今更彼女はそんな態度を取っているのだろうか。
 ニトロに不思議そうに見つめられて、ミーシャは頬を赤らめている。クレイグは笑顔だが、ミーシャの恥じらいが伝染したかのように少しぎこちない。
 気まずい空気まで充満してきた。
 ――と、ふいに、ニトロはピンときた。
 するとニトロがピンときたことにピンときて、ミーシャの顔が一瞬にして上気した。
「ッ先に行くね!」
 クレイグに言って、ミーシャはニトロとハラキリを避けて階段を駆け降りていった。
 彼女が消えていくのを眼下に見送ったニトロは、クレイグに顔を向けた。
「『あーん』とかしてた?」
 ずばりと訊ねられ、クレイグは照れ笑いを堪えられないようだった。
「ニトロはまさか超能力者サイキッカーなのか?」
「いや、たまたまそんな話をしていただけだよ」
 ニトロはハラキリに目をやった。
「大当たりだな?」
 ハラキリは片眉を跳ね上げてみせる。
「何でも言ってみるもんですねえ」
 そのやり取りを受けて、クレイグは妙に勘の鋭い二人の友人に苦笑いを向け、
「あまりいじらないでやってくれな」
「そんな気はないさ。別にその場にいたわけでもないしね」
「その場合はいじるのか?」
「黙っていられるよりはいいと思うんだけど、どうかな?」
「それは……難しいところだなあ」
 クレイグの笑顔に、ニトロは笑い、
「それで、美味しかったか?」
「すごく美味しかったよ、ニトロ。ご馳走様
 その答えにニトロは少し目を丸くした。ミーシャが自分に習ったことを言ったのか、それとも何を聞かずともクレイグが察したのか。
 ……まあ、どちらでもいい。
 大事なことはクレイグが幸せそうで、逃げてしまったミーシャもきっとそのはずだということだ。そしてそのために一役買えたことは、自分もまた幸せに思うことなのだ。
 ニトロは言った。
「それなら良かった、クレイグ。こちらこそ、ご馳走様」

14:35 ―凶―


 ティディアは王家専用飛行車の広い居住空間の中で口直しのお茶を飲んでいた。
 それはつまらない茶会で刻まれた記憶を上書きするためのものだった。
 先ほどまで耳から流れ込んできていた花壇の肥やしにもならない世辞が両耳の間で腐れそうになっていたところを、ヴィタの丁寧に入れた極上の紅茶の素晴らしい香味が洗い流していく。
 ようやく、一息がつけた。
 飛行車は王城から南東に向けて空を走っていく。
 彼女はカップを片手に、午後になって上がってきた様々な報告書に目を通しながら、ふと口ずさんだ。
「おっぱいおっぱい 大好きおっぱい ひぃやっほう!」
「ボフ」
 妙な音がした。
 ティディアが目を上げると、真向かいの席に座るヴィタが紅茶を派手に吹き出していた。女執事は顔を背けて主人に紅茶を吹きかけることをどうにか避けられたようだが……王女はそれを認めるや、にまりと笑った。
「珍しいわね、ヴィタがそんな風になるなんて」
「不意打ち過ぎて、それは卑怯です」
 汚してしまった革張りのシートを布巾で拭きながら、ヴィタは何事もなかったかのように言う。しかしティディアは執事の目元がかすかに悔しそうに強張っているのを見逃さなかった。パンツスーツを着た藍銀あいがね色の髪の麗人は、主人がニヤニヤしていることを察しながらもあくまで涼しげに言う。
「何故突然『乳房礼賛』を?」
「耳に残る歌じゃない?」
 つまり、大した意味はないということだ。ティディアは最後にニヤッと大きな笑みを見せつけ、それから上機嫌で紅茶を口に含む。と、
「ニトロ様に是非ステージで熱唱して欲しいものです」
「ンブッ」
 ヴィタの描いた光景を思わず克明に想像してしまい、無論ティディアにはそれを堪え切ることなどできはしなかった。
「ウゴホ! ゲホァ!」
 紅茶が見事に気管に入ってしまい激しく咽る王女を、されど意地でもカップの中身をこぼさないよう懸命に手を掲げて体をくの字に折り曲げる主人を、その女執事は助けもせず、ただひたすらにうっとりと見つめる。
「素敵です、ティディア様」
「やってくれるじゃない」
 何とか息を整えたティディアは、荒い息遣いでヴィタを見返した。
 それは、まさにライバルを睨み返す闘士の眼であった。
 ヴィタはその眼を真っ直ぐに受け止め、しかし、やおら小さく首を振って言った。
わたくしも不覚を取りましたから、自慢できることではありません」
「引き分けか……」
「引き分けです」
 ティディアは折り曲げていた体を起こし、一つ息をつく。ふいに勃発した戦いは終わった。ノーサイドを迎え、それでは感想戦とばかりに彼女は言った。
「王立放送局もやるものね」
「はい」
 ヴィタが真剣な顔でうなずく。
「『文芸祭レトワーザート・フェス』の主催者も苦笑いの模様です」
『文芸祭』とは、もう二千年近い歴史のあるアデムメデスの一大イベントだ。文学のみにとどまらず戯曲や演劇、また歌詞のある楽曲等あらゆる『言葉』に関係する芸術と、文学論や作家研究にとどまらず翻訳や批評、キャッチコピー等のあらゆる学術から文筆までをも扱う大きな祭典であり、特にここで発表される文学賞・脚本賞・作詞賞・論文賞等はアデムメデスで最大の権威を有している。そしてまた、ここには権威だけがあるのではなく、例えば多種多様な銀河の各星の言語に対しどのように翻訳することが良訳となりうるか、時に書物の行く末を決める批評はどうあるべきか等という実務的な方向性にも多大な影響力もある。そのため出版社をはじめ関連企業にとっても協賛するほかない事案であり、巨額の資金も集まる極上の蜜箱でもあった。
 今月頭から王立放送局で始まった子ども向け番組『面白文学史』は、名目上は“高尚”なだけではないアデムメデスの文学史を紹介するということで企画されていたようだが、しかしそこには――とりわけ今月のテーマには、虚実共に非常に大きな影響力を持つ文芸祭の、その『虚』ばかりがあまりに先行していないか? という強烈なあてつけが含まれていた。
 何しろ今年の文芸祭は中期の偉大なる女流作家シェルビー・ハーマンの『狼の乳、羊の牙』から上梓1千年目を記念し、同時に来年で生誕400年を迎えるアデマ・リーケインの功績を改めて検証していくというテーマを掲げている。リーケインの処女長編は『乳房』だった。そこに、文学史初期に大きな名を遺す戯曲家ルカドーの大迷作『乳房礼賛』を取り上げてくる根性。しかも子どもにも大ウケの見事な出来の風刺パロディである。
 これは、実に(製作者達は全くその気はなかっただろうが)『クレイジー・プリンセス』好みのことでもあった。
 今宵、ティディアは、謹慎中の第二王位継承者の名代として文芸祭前夜祭に出席する。
「乾杯の時に話に触れてみるのも面白いかもね」
 主人の言葉に、ヴィタはふと思いついたように、
「それとも、ティディア様にお電話をおかけしましょうか」
「それもいいわねー」
 紅茶を一すすり、銀河の五大基軸通貨の一つ『ゴット』を有するハイデルヤード連星れんぽうの動向を伝える文書を読み、それからティディアは言う。
「王女が流行に乗るのも小技になるわ」
 最近、世間では電話の着信音に『乳房礼賛』を設定するという罰ゲームが流行っている。
「では、そのように? ただ、自分から言っておきながら少々狙いすぎにも思いますが」
「んー、でもまあ一応仕込んでおいて。ノリ次第じゃ使えるだろうから」
 ヴィタは目礼し、早速作業を始めた。今は己の預かる主人の仕事用の携帯モバイルを操作し、問題の歌曲をダウンロードする。片手でできる簡単な仕事だ。ヴィタは鼻歌でも歌い出しそうな様子で紅茶を飲んでいる。その様子をどこか心ここにあらずの瞳で眺めていたティディアは、ふいにつぶやいた。
「――そうね。本気で検討してみようかしら、ニトロ、オンステージ」
「ゴッフォ!」
 自らが構築したイメージ映像が思わぬタイミングで跳ね返されてきて、ヴィタは再度紅茶を盛大に吹き出した。

15:00 ―大吉―


 六時限目の数学は、予定より15分早く終わった。
「それじゃあ、何か質問のあるやつはおいで。後は自由にしていい」
 今回行うべき範囲をこなした後、見事なブロンドの髪が自慢の教師がそう言うと、数学を苦手とする生徒が早速席を立った。
「ハラキリは――」
 教室用板晶画面ティーチング・ボードの前に立つ教師が生徒それぞれから質問を受けている光景を横目に、ニトロは隣へ振り向いた。
「これからどうするんだ?」
 隣の席のハラキリは、既に半ば席を離れていた。今にも「ではまた」とでも言いそうな様子で足を止めた彼は少し思案顔を見せ、
「買い出しに行きます」
「買い出し?」
 その言葉にニトロの前の席に座るミーシャが敏感に反応して振り向いた。それを目にしたハラキリは苦笑して、
「母の趣味に関係することですよ」
 彼は、半分嘘をついた。本当はオリジナルA.I.撫子の趣味に付き合うのだが、そう言うとニトロから芍薬に話が伝わった時、そちらにも敏感に反応されてしまうかもしれない。
 それに、半分の真実だけでもニトロを納得させるには十分だった。
「それじゃあ、こっちには付き合えないな」
 納得しながらも残念そうなニトロへ、ハラキリは訊ねた。
「そちらは?」
「服を作りに行くんだ」
「あ」
 と、その時、吐息のような声が漏れた。それにニトロが振り向くと、ミーシャがこちらに半身を向けて力なく眉を垂れていた。
「どうかした?」
「何でもないよ。もし暇だったら息抜きにでも、って思ってたんだ」
 それは、もしかしたら今朝彼女を手伝ったことへのお礼でも兼ねていたのだろうか。ニトロは残念そうな彼女へ、こちらも残念だと眉を寄せ、
「ごめん、わりと急ぎの用なんだ」
「みたいだね」
 ミーシャは、目に残していた未練を消した。
「次、暇だったら付き合いなよ」
「分かった」
 うなずき、立ち上がったニトロはハラキリに声をかけた。
「下まで一緒に行こうか」
「ええ、いいですよ」
「ニトロ、ハラキリ、またな」
「ああ、クレイグ、またな」
 ミーシャの隣で――恋人の様子をひどく気にしながら――こちらへ手を振る友人に笑みを返し、また方々から飛んでくる言葉に挨拶を返しながらニトロはハラキリと共に廊下へ出た。五時限目の体育で汗を吸った運動着の入ったバッグをロッカーから取り出し、同じようにロッカーからデイバッグを取り出してきたハラキリと廊下を歩いていく。
 他の授業が行われている教室の窓は、廊下向きの窓も外向きの窓も、外側からは特殊フィルムの機能により曇りガラス様になっている。電気を切れば透明に戻るが、授業中はずっとこのままだ。逆に、内側から外を見ることはできる。それを知っているからなのか、ニトロにはガラス越しに視線が感じられた。廊下に並ぶ教室からも、中庭を挟んで並行して建つ第二教室棟の教室からも。二人は互いに己のA.I.に連絡を入れながら、絡み付いてくる視線から逃れるように足早に静かな第一教室棟を降りていった。
 一階まで降りたところで、一度教室棟の外に出る。そこから事務棟を迂回して駐車場へ行こうとしていた時だった。
「ニトロ! ハラキリッ」
 背後から呼び止められ、二人は足を止めた。
 振り返ると、制服のチェックのスカートを翻し、黄色いラインの入ったスニーカーを軽やかに跳ねて昇降口を駆け抜けてきたミーシャがそのままの勢いで追いついてくる。彼女は小ぶりのスポーツバッグを手にしていた。だが、彼女に伴ってくるはずの少年はそこにいない。
「どうしたんだ?」
 怪訝にニトロが問うと、ミーシャは息を弾ませて言った。
「これ!」
 スポーツバッグの中から小さな袋を取り出して、ニトロに、次いでハラキリに押し付ける。そして彼女は、突如勢いを失った。
「……ただ混ぜて焼いただけのものだけどさ」
 自信無げに、言う。
「でも、クレイグは美味しいって言ってたから、あのさ、二人とも、色々手伝ってくれてホントにありがとう。ホントに、助かった」
 ニトロは、ああ、と理解した。
 今朝、彼女に弁当作りを教えている時に目にした物は、このためだったのか。
「クレイグ、すっごく喜んでくれたよ」
 そう言う彼女の顔は、おそらく、そのクレイグのものよりも大きな喜びで輝いていた。
 押し付けられた袋の中には、十枚ほどの手作りクッキーがある。
 ニトロはハラキリと目を見合わせ、ミーシャに目を戻した。彼女は戸惑っているような二人の様子に顔を硬くしてしまっていた。それがあんまり緊張した面持ちだから、ニトロは思わず笑ってしまった。
「彼氏を毒見役にしちゃ駄目じゃないか?」
 その軽口に、そしてその声に含まれた感情に、心をやわらげられたミーシャが頬をほころばせた。
「いいんだよ。初めてはクレイグにって決めてたんだから」
 言って、そこで彼女ははっと口をつぐんだ。
「……」
 ニトロは笑みを張り付かせたまま、何も言えなかった。
 ミーシャは、別に他意を込めてそれを言ったわけではあるまい。だが、自らの言葉への別解釈を自覚してしまったからには――照れ屋のミーシャが涙目になって顔を真っ赤にすることは必然だった。そしてそのような反応を示されては、別に他意を無理矢理汲み取ろうというわけでもなかったニトロもどうしていいのか、すぐに判断がつかなかった。
 まずい。
 このままでは事態がおかしなことになる。
 早く何か手を打たねば恋する乙女の羞恥が爆発する!
「ありがたく、いただきます」
 と、その時、状況に反して実に気楽な声が流れた。
 ミーシャがはっとして彼を見る。
 今にも悲鳴いいわけを叫び出しそうだった少女を前に、あくまでも平静に、あくまでも何事もなかったかのように、ハラキリがしれっと言う。
「これはコーヒーに合いそうですねえ」
 敵わないなあと感嘆しつつ、ニトロも続く。可愛らしくリボンのかけられたクッキーの袋を差し上げ、
「ありがとう、ミーシャ。大事に食べるよ」
 ミーシャは飄々としたハラキリを、それから笑顔のニトロを見つめ、そして、とても嬉しそうに笑った。

15:30 ―大吉―


 王都第二区にある王立馬事公園には、王家の公務や祭事において使われる馬を飼育する王厩がある。
「見事ねー」
 厩舎前の小さな広場に引き出されてきた白馬は、その肌がまさに純白の絹そのものであるかのように輝いていた。陽光に透く鼻はうっすらと桃色で、それほどに血の色を透かす色素の欠如は神秘的でさえある。綺麗に刈り込まれたたてがみは白銀にも思える美しさ。その一方で、薄い皮膚に覆われた筋肉は素晴らしい盛り上がりを見せている。
「前に見た時も良いと思ったけれど、これほどだったかしら」
 白馬を惚れ惚れと見つめて、ティディアは言った。
「姫様がご覧になった時は、まだこちらに来たばかりのことでしたからな」
 手綱を持つ調教師が言う。
「それに周りに人の多いここが気に入っているようです。水も合うんでしょう」
 五十絡みの小柄な男に首筋をポンポンと叩かれる白馬は一歩も動かず、まるで白石の彫刻のように微動だにしない。
「人が多い方がいいの?」
 パンツスーツ姿のティディアが問うと、調教師はうなずいた。
「こいつはなかまよりも人間の方が好きな性質たちでして。どこにいても常に人間が来るのを待ってるもんです、そわそわしてね。あんまり長く放っておくとヒンヒン悲しげに鳴きますな。しかし人間が近くにいる時は安心して、こうしてこちらの言うことに忠実です」
 調教師は手綱を引っ張り、ティディアを中心として一周歩いて見せた。白馬は手綱を張らず、緩めず、調教師の速度に合わせてゆったり歩くと、元の場所でまたぴたりと止まった。
「頭がいいのね」
「ええ、本当に。どんな指示にも従いますし、跳びでも演技でもよろしいです。勇気もありますな。どんな祝砲にもびくともしません」
「ただし、人間が側にいれば?」
「ええ、変わりモンです」
「面白いコね。私にも引けるかしら?」
「ええ、どうぞ」
 ティディアは笑み、調教師から手綱を受け取った。引き歩いてみると、白馬は調教師に引かれた時と調子を変えずに歩き、そして止まってみせた。
「素晴らしい」
「ただ、気をつけて欲しいことが一つあります」
「何?」
「こいつは人間が好きなだけでなく、甘えたです」
「そうなの? さっきからそんな様子はな――」
 手綱を緩め、首筋を撫でていたティディアはそこで言葉を切った。
 白馬が急に首を曲げ、ティディアに擦り寄ってきたのだ。
「おっ――と」
 馬にとっては小さな動きでも、人間には大きい動きだ。文字通り馬力も違う。危うくバランスを押し崩されそうになったティディアは巧みに体勢を立て直し、頬擦りしてくる白馬の頭を抱えるようにして鼻筋を愛撫した。
「うん、甘えたがりね」
 馬と戯れる王女から少し離れたところで、執事が熱心にカメラのシャッターを切っている。その写真は、機会があれば広報にでも使うことがあるだろう。
「それにしても、急にどうしたの?」
 ティディアは馬へ問いかけるように言った。すると調教師が答える。
「こいつは頭が良すぎるところもありましてな。お前は今仕事をしているんだぞ――という意識を常に持たせておかないといけないんですわ」
「ということは、こっちが常にそう思っておけば、それに従ってくれるということね?」
「はい」
 試しにティディアは手綱に込める力を強め、白馬がまた動かないでいるよう意識を強めた。すると、それを敏感に察知した白馬は立ち姿を整え、以降微動だにしない。
「うん、いいコね」
 目を細め、ティディアは白馬の首筋を優しくぽんぽんと叩いてやった。白馬はやはり動かない。が、きっとその内心には喜びがあるのだろう。
 ティディアは調教師に手綱を返し、少し距離を取ると改めて白馬をしげしげと眺めた。
 この美しい馬が鎧を纏い、その上に己が騎乗している姿を思い浮かべると心が奮える。その人馬一体の姿を、彼はどのように見てくれるだろう? 無論、私が期待することはただ一つではあるのだが――
「……」
 ティディアは一つ息をつき、素敵な一時いっときへの想いを掻き消した。
 夢を見るにはまだ早い。早すぎる。
「ヴィタ」
「はい」
 呼ばれた執事が折り畳まれた板晶画面ボードスクリーンを胸ポケットから取り出し、その形状記憶機能を働かせて自動的に開かせる。折り目もなく開かれたボードスクリーンには今朝、ティディアがまとめた書類があった。
「ロディアーナ宮殿への馬の移送、及び騎兵隊への協力指示、そして宮殿内への通行許可証と、施設使用許可証よ」
 調教師は近くで――といっても王女に近づくのは恐れ多いといった様子で控えていた厩務員を呼び、白馬を馬房へ引いていくように命じた。それから頭を下げ、ヴィタからボードスクリーンを恭しく受け取った。
「……確かに」
 内容をざっと読み、特に大事な箇所はしっかりと目に留めた調教師がうなずく。
「それにしても、あれを宮殿に運び込むだけのことに随分手間のかかることをしなさりますな。わたくしとしちゃ馬っこ達のまたとない晴れ舞台になりますんで、構いはしませんが……」
 白馬とは逆に、人間なかまよりも馬を好く無骨な調教師は不思議そうに言う。
 ティディアは困ったように笑い、
「これくらいは手間をかけないとすぐに私の企みに気づいちゃう子がいるのよ」
「はあ、姫様のお考えを? それはそれは優秀な方なんでしょうなあ」
「ええ、本当にね」
 調教師の物言いに、ヴィタも面白そうに目を細めている。
 ティディアは小さく肩を揺らして、言った。
「だから大変なのよ、色々と」

2014−2 へ   2014−4 へ

メニューへ